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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」メニュー(フレーム枠内) > 北薩(北薩摩)・中薩(中薩摩)観光案内

IT活用で地域が変わる 地域活性化・危機管理

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温泉天国・鹿児島温泉紹介!

北薩(北薩摩)・中薩(中薩摩)観光案内

北薩(北薩摩)・中薩(中薩摩)の観光情報を、行った場所は訪問記で、未訪問の場所はリンク集で紹介する、「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」HPのサブ・コンテンツ。夏休み,冬休み,春休みや土日・休日の遊び、デート、ドライブ情報の計画を立てる際に、お使いいただけます。

  
アルバム「せつなくて...sentimental season」











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鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
全般的に 訪問入湯記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
観光訪問記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
鹿児島県の温泉宿宿泊予約 鹿児島県内全域観光案内別サイト(リンク集)
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)





当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
(いりきちょう)
東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)




この地域の温泉案内は、当HP内の以下のページへ
温泉案内 北薩・中薩地域温泉案内



「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップのこの地域の訪問記or体験記
地域 訪問or体験した観光地orスポット
鹿児島市内(含む桜島) 九州新幹線
北薩・中薩 ・ 日置市 さつま湖公園
北薩・中薩 ・ 日置市 妙円寺
(島津義弘菩提寺で、妙円寺詣り発祥の禅寺)
北薩・中薩 ・ 日置市 徳重神社
(島津義弘を祭神とする、妙円寺詣り会場の神社)
北薩・中薩 ・ 日置市 雪窓院跡&島津義久公剃髪石(座禅石)
北薩・中薩 ・ 日置市 一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)
北薩・中薩 ・ いちき串木野市 薩摩金山蔵
(焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内川花火大会
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 新田神社(薩摩国一宮)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 可愛山陵(瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の墓)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 泰平寺
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 薩摩国分寺跡史跡公園
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内歴史資料館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内まごころ文学館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内戦国村
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内原子力発電所展示館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 きやんせふるさと館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市 藺牟田池(いこいの村いむた池入湯記)
北薩・中薩 肥薩おれんじ鉄道
北薩・中薩 ・ 出水市 感応寺(感応禅寺)・五廟社(島津氏最初の5代の墓)
北薩・中薩 ・ 出水市 出水市ツル観察センター
北薩・中薩 ・ 出水市 出水麓武家屋敷群
北薩・中薩 ・ 出水市 出水市出水駅観光特産品館「飛来里」
北薩・中薩 ・ 出水市 日本一のお地蔵様(出水市・八坂神社)
北薩・中薩 ・ さつま町 紫尾神社(紫尾区営温泉「神の湯」入湯記)



温泉天国・鹿児島温泉紹介!の温泉・温浴施設の入湯記
温泉,地域 入湯した温泉・温浴施設
北薩・中薩・紫尾温泉 紫尾区営温泉「神の湯」
北薩・中薩・藺牟田温泉 いこいの村いむた池
北薩・中薩川内市街地温泉 川内ホテル・川内温泉センター
北薩・中薩川内市街地温泉 温泉平佐城(平佐城温泉)
北薩・中薩いちき串木野市 薩摩金山蔵 「杜氏乃湯」
(温浴施設は、後になくなっており、焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処専用施設になっています。)
北薩・中薩・吹上温泉 みどり荘
ここで紹介しきれていない最新の入湯記はこちらへ



鹿児島県の宿泊予約 & まち楽
(powered by 楽天トラベル, and 楽天市場.)
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鹿児島県庁 ・ 鹿児島県総合観光ガイド「ゆっくり悠・遊・観光かごしま」

(当HP内の)九州新幹線乗車記

九州新幹線以外の鹿児島県への交通・アクセス情報は、当ページ(当画面)後方(下方)でご参照いただけます

川内川アクアフロント(川内川アクアフロント推進協議会)







日置市(ひおきし)>

日置市公式ホームページ

日置市観光協会

日置市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。日置市は2005年5月1日に、日置郡伊集院町,   東市来町,   日吉町,   吹上町が市町村合併して成立しました。)


日置市平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域





日置市吹上町地域>

(当HP内の)吹上温泉 みどり荘入湯記

(当HP内の)日置市旧吹上町地域の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市旧吹上町地域の温泉案内欄。)

(当HP内の)吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内欄。)

(当HP内の)さつま湖公園訪問記

吹上浜
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも吹上浜として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも吹上浜として紹介されています。吹上浜日置市(ひおきし)吹上町地域には、日置市吹上浜公園,  吹上浜キャンプ村があります。)

日置市吹上浜公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。日置市吹上浜公園には、吹上浜キャンプ村もあります。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも吹上浜公園(キャンプ場),  日置市吹上浜公園 クロスカントリーコース,  日置市吹上浜公園 多目的体育広場(亀ドーム),  日置市吹上浜公園 野球場等として(リンク先URLは2011年5月現在)じゃらんネットでも吹上浜公園として紹介されています。)

吹上浜キャンプ村
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。吹上浜キャンプ村は、日置市吹上浜公園にあります。日置市ホームページでも吹上浜キャンプ村として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会でも吹上浜キャンプ村として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも吹上浜公園(キャンプ場)として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。南さつま市加世田市地域県立吹上浜海浜公園キャンプ場とは、名前が似ていますが別物です。吹上浜はべらぼうに広大ですので、複数の市にまたがっています。)

西薩海道 海を味わえる西薩海道ドライブ情報サイト[鹿児島県]
日置市吹上町地域では、吹上町漁協があり、直営店吹上浜おさかな館を運営しています。公式HPについては、各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

吹上浜おさかな館
(リンク先は吹上町漁協のサブ・コンテンツで、関連漁協による公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、吹上浜おさかな館の場所のとおりです。住所:日置市吹上町入来4090-4、Tel.:099-296-2405。かごしまのさかな.com(鹿児島県漁業協同組合連合会)でも吹上浜おさかな館(日置)として、KTS鹿児島テレビ ・ WHAT'S new KAGOSHIMA ・ NikiNiki公開日記でも「吹上浜おさかな館」として紹介されています。各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

吹上浜渚のあま塩館(吹上天然塩の会・天然塩づくり)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-3304 日置市吹上町入來4099、Tel.:099-296-4747。日置市観光協会WEBサイトでも天然塩づくり,  渚のあま塩館として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページ ・ 観光ガイドでも天然塩づくり体験欄として(リンク先URLは2012年3月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも吹上天然塩の会として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

正円池(ホテイアオイの群生地)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県日置市吹上町中原。日置市観光協会WEBサイトでも正円池(ホテイアオイの群生地)として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページ ・ 観光ガイドでも正円池欄として(リンク先URLは2012年3月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも正円池のホテイアオイとして(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも正円池のホテイアオイとして、紹介されています。)

かめまる館(物産館),かめまる庵(そば処)
(リンク先はよかもん吹上 ふるさとの四季と味のサブ・コンテンツで公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、かめまる館の場所のとおりです。住所:〒899-3221 鹿児島県日置市吹上町永吉15446、Tel.:099-299-3747。日置市観光協会WEBサイトでもかめまる館として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも日置市特産品直売施設「かめまる館」,  かめまる庵として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでもかめまる館として、紹介されています。)

ひまわり館(物産館)
(リンク先はよかもん吹上 ふるさとの四季と味のサブ・コンテンツで公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、ひまわり館の場所のとおりです。住所:〒899-3302 日置市吹上町中之里2939-1、Tel.:099-296-2519。日置市観光協会WEBサイトでもひまわり館として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも農産物直売所ひまわり館として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

体験型レジャー施設「山神(ヤマンカン)の郷公園」&レストラン「おもいで館」&物産館「あじのふるさと館」
(リンク先はよかもん吹上 ふるさとの四季と味のサブ・コンテンツで公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、おもいで館の場所のとおりです。住所:〒899-3221 鹿児島県日置市吹上町永吉8194、Tel.:099-299-3420。日置市観光協会WEBサイトでも山神の郷 おもいで館,  山神の響炎として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも山神の郷公園,  おもいで館として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも山神の郷公園として、紹介されています。)

西酒造
日置市観光協会WEBサイトでも西酒造として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。西酒造の焼酎は、以下のリンク先でお求めいただけます。)
楽天市場】キーワード「西酒造+鹿児島」の検索結果

(また、2011年5月現在、以下の各リンク先においては、残念ながら西酒造の焼酎を取り扱っている旨を検索できませんでしたが、他の醸造元(蔵元)も含めての本格焼酎全般については、以下のリンク先でもお求めいただくことができます。
【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)


多宝寺跡(石亀神社)の場所,  伊作島津家墓地の場所
(リンク先は、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で「多宝寺跡(現・石亀神社;伊作島津家墓地)」を示せば、石亀神社についての石亀神社の場所と、日置市観光協会WEBサイトでも多宝寺跡に基づく(リンク先URLは2011年5月現在)伊作島津家墓地の場所についての伊作島津家墓地の場所です(ただし、後者のロケーションの正確性については微妙です)。〒899-3301 日置市吹上町中原3241。Tel.:099-274-5518(日置市観光協会)。日置市観光協会WEBサイトでも多宝寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県神社庁でも石亀神社として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも多宝寺(日置市)として、Samurai Worldサムライワールドでも多宝寺跡 鹿児島県日置市として紹介されています。
  多宝寺跡(たほうじあと)は、鹿児島県日置市旧吹上町地域にかつて存在した臨済宗の寺院「多宝寺」の跡で、跡地の一部は今日の「石亀神社(いしがみじんじゃ)」になっており、後方の山腹は伊作島津家墓地であるとの由です。
  伊作島津氏(伊作家)とは、室町時代島津氏の分家の中の一つで、戦国時代の伊作家10代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公の長子・島津貴久公が島津氏宗家を継いで島津氏宗家第15代当主となったことから、後の歴代の島津宗家当主は伊作家の子孫になりました。日新斎島津忠良公、島津貴久公、島津義久公と義弘公・歳久公・家久公の島津四兄弟の3代に渡る戦国時代の「伊作島津家−島津宗家」の活躍で薩摩・大隅・日向の領国国内統一が成し遂げられ、一時期は九州全土を制圧する程の島津家の繁栄の基になった家です。江戸時代の薩摩藩藩主で島津宗家当主は島津義弘公の子孫であり、故に伊作島津家の子孫になります。
  多宝寺は、伊集院(いじゅういん;今日の日置市旧伊集院町地域)にあった広済寺の末寺として建立され、当地の領主だった伊作島津家の菩提寺となり、このため、第3代と第10代を除く歴代の伊作島津家当主の墓があるとの由ですので、島津氏戦国時代史関連スポットの中の一つです。また、琉球出兵時の大将・樺山久高とその妻の墓もあるとの由です。
  多宝寺は、残念ながら明治2年の廃仏毀釈で廃寺になってしまいましたが、その代わりに翌年に、伊作島津家の歴代当主を祭神「伊作島津家歴代の御神霊」として祀る石亀神社が建立(こんりゅう)され、今日に至っているとの由です。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市の山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)等がある旧吹上町中心地よりやや手前のバス停の内、「片町」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  住所は、鹿児島県神社庁ホームページの「石亀神社」欄では「〒899-3301 日置市吹上町中原3241」ですが、日置市観光協会ホームページの「多宝寺跡」欄では「鹿児島県日置市吹上町中原3143」と微妙に異なっています(いずれのホームページも2012年1月参照時現在の情報)。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットには、
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、梅天寺跡(島津家久公の墓)等の永吉島津家関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

海蔵院跡の場所
(リンク先は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 海蔵院跡に基づいて探して、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町湯之浦。Tel.:099-274-5518(日置市観光協会)。日置市観光協会WEBサイトでも海蔵院跡として(リンク先URLは2011年5月現在)ゆっくり悠・遊 観光かごしまでも日置市 吹上 まち歩きマップの中で(リンク先URLは2011年5月現在,後にリンク切れ)カゴシマニアがゆくでも海蔵院跡(鹿児島・日置市伊作)として紹介されています。
  海蔵院は、応永5年(1398年)創建と伝えられる真言宗の寺院で、伊作郷最大の寺院であったとの由です。島津氏中興の祖と言われる、日新斎(じっしんさい)島津忠良公が、7歳から15歳までの少年時代に、この海蔵院に通い、第8代住職・頼増の教育を受けたとの由です。
  島津氏の庶流・伊作島津家の当主だった日新斎島津忠良公は、その嫡男・島津貴久公が島津宗家を継いで島津氏第15代当主となり、さらにその嫡子で島津氏第16代当主の義久公を初めとする、義弘公、歳久公、家久公の島津4兄弟、の忠良公から始まる3代の名将の活躍で、島津氏は戦国期の薩摩・大隅・日向の領国3国の統一平定を成し遂げました。日新斎島津忠良公は、島津氏の戦国時代史に欠かせない、大きな足跡を残した業績上偉大な武将であるばかりか人物的にも偉大な人物であり、その残した「島津日新公いろは歌」は後年、江戸時代の薩摩藩の武士教育はもちろんのこと、今日に至るまで地域の子供達の教育上大きな影響を残すものになっています。海蔵院は、その日新斎島津忠良公ご自身の少年期の人間形成に大きな役割を果たした寺ですので、戦国時代以降の島津武士団の精神史上でも貴重な寺だ、ということになります。
  残念ながら明治初めの廃仏毀釈で名刹にして古刹だった海蔵院も廃寺になってしまいましたが、今日でも五輪塔・宝篋印塔・月輪塔など80数基の様々な石塔が残っているとの由であり、史跡として、日置市(ひおきし)指定文化財になっています。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市の山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)がある旧吹上町中心地よりやや手前のバス停の内、「ふもと」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットには、
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、梅天寺跡(島津家久公の墓)等の永吉島津家関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。)

中島常楽院中島常楽院の場所  (天台宗
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町田尻。日置市観光協会WEBサイトでも常楽院,  妙音十二楽として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも中島常楽院として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも中島常楽院として紹介されています。
  
中島常楽院は、日置市旧吹上町地域にある天台宗の寺院で、薩摩琵琶発祥の地として知られています。
  
常楽院の寺の由来は、鎌倉時代に島津氏初代・島津忠久公が薩摩・大隅・日向三国の守護に任命された際に、滋賀県大津市の逢坂山にあった妙音寺常楽院(現在廃寺)の僧侶・宝山検校を島津家の祈祷僧として伴って下向し、宝山検校が建立(こんりゅう)したのが始めとされています。日置市観光協会ホームページによる建立年は建久7年(1196年)ですが、はウィキペディアによる忠久公の守護任命年は翌建久8年であり、いずれが正しいかは不明です。
  
常楽院は視覚障害者の僧侶の「盲僧寺」で、戦国時代には島津氏第15代当主・島津貴久公によって薩摩・大隅・日向三国の盲僧の監督寺とされ、江戸時代には歴代薩摩藩主の帰依を受けたとの由です。島津氏第18代当主で薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)公は、元和5年(1619年)に常楽院を鹿児島城下(現・鹿児島市)に移転して本院とし、吹上町の常楽院は子院になったとの由です。その後、鹿児島城下の本院は廃仏毀釈や第二次世界大戦の空襲被害のために「宮崎県日南市大字板敷7943」に移転し、鹿児島県内には子院だけが残ったとの由です。古代史 九州王朝論 地名研究会 ・ 徳王(トクオウ)筑紫の君薩夜麻は肥後に落ちたか? 武雄市 古川 清久/久留米地名研究会によれば、宮崎県 日南市板敷7940の長久寺地図柳田耕雲中島常楽院の四十七代住職を兼ねて長久寺地図の管理下に中島常楽院があったとの由であり、月心会 ・ 琵琶の歴史10:第三話 盲僧の伝承(2)〜盲僧はいずこへによれば、この時期、長久寺地図常楽院に改称していたとの由ですので、常楽院宮崎県 日南市に移ったというのは、このことを指すのであろうと推測します。ただし、月心会 ・ 琵琶の歴史10:第三話 盲僧の伝承(2)〜盲僧はいずこへによれば、柳田耕雲は既に故人であるとの由であり、今日では常楽院は再び 鹿児島県に戻ったとの由です。goo ・ タウンページ ・ 長久寺によれば、宮崎県 日南市板敷7940の寺の方も今日では名称が長久寺地図に戻っており、かつ日南市常楽院という名前の寺は見つけられないため、2015年5月現在月心会 ・ 琵琶の歴史10:第三話 盲僧の伝承(2)〜盲僧はいずこへに載っている「常楽院は再び鹿児島県に戻った」という話は正しいのであろうと推測します。
  なお、詳しくは
(当HP内の)妙音寺常楽院紹介欄で推測したとおり、鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域にある天台宗の寺院・妙音寺常楽院は、2015年5月現在中島常楽院の本院の寺であろうと推測します。
→   (当HP内の)妙音寺常楽院紹介欄

  慶応4年/明治元年(1868年)からの廃仏毀釈の後、復活した寺ということになりますが、今日では仏堂1棟と歴代住職の墓のみが残っており、仏堂と境内は鹿児島県指定史跡になっています。なお、
中島常楽院以外の鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院については、当ホームページ内の感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記画面(ページ)の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記内の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄

  主な行事として毎年10月12日に九州各地の僧が一堂に集って、薩摩琵琶、ホラ貝、鉦、横笛など8種類の楽器で格調高い古典音楽が奏でられる「
妙音十二楽」があり、鹿児島県指定民俗文化財になっているとの由です。これは読経とお囃子が合体したようなものであるとの由であり、古典宗教音楽の遺存例として珍しく貴重なものであるとの由です。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市の山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)で下車、「伊作」バス停(地図)から約4kmとの由です。 バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはには、日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットとして
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があり、永吉地域の永吉島津家ゆかりの歴史スポットとして梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。)

吹上歴史民俗資料館の場所
(住所:〒899-3301 日置市吹上町中原2568。TEL.:099-296-2124。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒899-3301 鹿児島県日置市吹上町中原2568。Tel.:099-296-2124。日置市観光協会WEBサイトでも吹上歴史民俗資料館として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも吹上歴史民俗資料館として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。
  吹上歴史民俗資料館は日置市(ひおきし)旧吹上町地域にあり、旧吹上町地域の歴史と民俗に関する資料を展示する博物館です。吹上地域で発見された古代の遺物や江戸時代の行政文書などが展示されているとの由です。
  旧吹上町には、黒川洞穴遺跡のように縄文時代から人が住んでおり、戦国時代には旧吹上町の伊作(いざく)地域の亀丸城跡(伊作城跡)を居城とする島津氏庶流の伊作島津家から名将・日新斎(じっしんさい)島津忠良公が出、忠良公嫡男の貴久公が島津氏宗家を継いで宗家第15代当主となり、貴久公の子の義久公、義弘公、歳久公、家久公の島津四兄弟が出て、忠良公以来の3代に渡る優秀な武将達の戦いで薩摩・大隅・日向の領国三国の統一を成し遂げました。このため、伊作は、島津氏戦国史の上では欠かせない貴重な舞台です。
  江戸時代には、薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城制度の下で、一国一城令で廃城となった城の近くに外城(後に「麓」と改称)という武家屋敷群(今日の官庁&官舎街)を中心にする郷が設けられましたが、旧吹上町には伊作,永吉の2つの郷がありました。亀丸城跡(伊作城跡)廃城後の伊作麓を中心とする伊作郷は鹿児島藩直轄領であり、永吉麓を中心とする永吉郷は、島津四兄弟の四男・家久公を祖とする島津氏庶流の永吉島津家が私領主として統治していました。
  吹上歴史民俗資料館の休館日は日置市観光協会ホームページによれば土・日曜日、祝日、年末年始で、開館時間は9:00〜16:30との由です。入館料は、大人100円。小人50円との由です。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市の山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはには、日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットとして
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があり、永吉地域の永吉島津家ゆかりの歴史スポットとして梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。)

大汝牟遅神社の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒899-3301 日置市吹上町中原2263。Tel.:099-273-2111(日置市商工観光課)。日置市観光協会WEBサイトでも大汝牟遅神社,  大汝牟遅神社の流鏑馬として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも大汝牟遅神社として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県神社庁でも大汝牟遅神社として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも大汝牟遅神社として紹介されています。
  大汝牟遅神社(おおなむちじんじゃ)は日置市(ひおきし)旧吹上町地域にある神社で、大己貴命(オオナムチノミコト;大国主命)、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、別雷神(ワケイカヅチノカミ)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祭神としています。
  創建年代は不詳ですが、鹿児島県神社庁HPの大汝牟遅神社欄によればニニギノミコトが往古大和の三輪神(大汝牟遅神)並びに玉依姫を祀ったとされ、ウィキペディアによれば奈良県桜井市の大和国一宮の大神神社(おおみわじんじゃ)を勧請したとされています。文治2年(1186年)には島津氏初代・島津忠久公が鶴岡八幡宮から八幡神を勧請したとされ、上述の祭神はこれらの伝承と平仄(ひょうそく)が合う神様です。
  いずれにせよ歴史が古い古社で、中世の室町時代には当地を治めた島津氏庶流の伊作(いざく)島津家の尊崇を受けるようになったとの由です。
  伊作島津家当主で、その嫡子・貴久公が島津宗家を継いで第15代当主になり、自身から始まる3代で戦国時代の薩摩・大隅・日向三国の領国統一平定を成し遂げる礎を気づいた島津氏中興の祖・日新斎(じっしんさい)島津忠良公に始まるとされる流鏑馬神事のお祭りでも知られる神社です。この流鏑馬神事は、天文7年(1538年)に忠良公の願成就を記念して奉納されるようになり、毎年11月23日に斎行され、鹿児島県の無形民俗文化財に指定されています。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市の山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)下車、約1.5kmです。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットには、
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、梅天寺跡(島津家久公の墓)等の永吉島津家関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。)

梅天寺跡(島津家久公の墓)の場所
(リンク先は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 梅天寺跡に基づいて探した、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町永吉3761-2。Tel.:099-274-5518(日置市観光協会)。日置市観光協会WEBサイトでも梅天寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。
  
梅天寺跡日置市吹上町地域にある寺院跡で、日置市観光協会WEBサイト ・ 梅天寺跡によれば(リンク先URLは2011年5月現在)、石屋禅師(恐らくは石屋真梁)が元中2年(1385年)に建立(こんりゅう)した妙法寺という寺を、永吉島津家が寺の名前を梅天寺と改めた寺の跡です。恐らくは、廃仏毀釈のためと推測しますが、残念ながら廃寺になってしまいました。
  
梅天寺跡には、沖田畷の戦い戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)で勝利したことで名高い名将・島津家久公の墓があります。島津家久公は、島津氏第15代当主の戦国大名 ・ 島津貴久公の四男で、島津義久公,  島津義弘公,  島津歳久公の3人の優秀な兄と共に、島津四兄弟と並び称された、戦国時代島津氏戦国武将の名将兄弟の中の1人です。島津家久公系統の家は、後に島津氏庶流の永吉島津家になりました。島津家久公、ならびに、その末裔の家・永吉島津家について詳しくは、当画面(当ページ)下方の永吉麓御仮屋跡で、ご参照いただけます。
  江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城(とじょう)制の下では、永吉の地には
永吉麓を中心とする永吉郷が設けられ、永吉島津家が代々私領主として統治しました。
  公共交通機関での行き方は、2012年2月現在いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通バスの「伊作バス停(地図−(小野・永吉麓・吉利経由)−伊集院」線で「川久保」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域 ・ 永吉地域の、永吉島津家ゆかりの歴史スポットは、
梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、亀丸城(伊作城)跡等の永吉日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

天昌寺跡(永吉島津家歴代墓)の場所
(リンク先は日置市ホームページ ・ 観光ガイド ・ 戦国島津氏をたどる ・ 天昌寺跡(吹上地域)地図 に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町永吉14884-6。この場所は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 天昌寺跡に基づいて探した場所とは微妙に異なっており、実はどちらが正しいのか不明です。日置市観光協会WEBサイトでも天昌寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも天昌寺として、全国旅そうだんでも天昌寺跡,  永吉島津家歴代墓として、じゃらんnetでも永吉島津家歴代墓として紹介されています。
  
天昌寺跡は、かつて存在した曹洞宗の寺の跡で、廃寺になる前の天昌寺は、元中2年(1385年)に石屋禅師(恐らくは石屋真梁)が建立(こんりゅう)した妙通寺を起源としているとの由です。後述する島津家久公の領土・日向国佐土原(現宮崎市佐土原町地域;居城は佐土原城地図)にあった曹洞宗天昌寺を、島津家久公末裔の家系である永吉島津家が当地に移封した際に寺も移転して、名称も妙通寺天昌寺に改名したとの由です。寺自体は残念ながら廃仏毀釈で廃寺になってしまいましたが、島津豊久公以降の永吉島津家の墓所が残っており、歴史観光スポットになっています。
  永吉島津家島津家久公に始まる島津氏庶流の家です。島津家久公、ならびに、その末裔の家・永吉島津家について詳しくは、当画面(当ページ)下方の
永吉麓御仮屋跡で、ご参照いただけます。永吉島津家は、江戸時代幕末まで一所持の家格の家として存続しました。一所持とは、江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワーク制度である外城制の下で、地方行政区域「郷」を私領主として治めることを許された重臣の家格です。永吉島津家江戸時代に、代々、薩摩国永吉郷(現・日置市吹上町地域 ・ 永吉地域)を統治しました。永吉郷の政治・軍事の中心だった永吉武家屋敷群の中心は、永吉麓御仮屋です。
  公共交通機関での行き方は、2012年2月現在いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通バスの「伊作バス停(地図−(小野・永吉麓・吉利経由)−伊集院」線で「川久保」バス停(地図)、または「永吉麓」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域 ・ 永吉地域の、永吉島津家ゆかりの歴史スポットは、
梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、亀丸城(伊作城)跡等の永吉日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館
  日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはには、日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットとして
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があり、永吉地域の永吉島津家ゆかりの歴史スポットとして梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

黒川洞穴遺跡の場所(大体この辺り)
(リンク先は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 黒川洞穴に基づいて探した、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町永吉坊野。Tel.:099-273-2111(日置市商工観光課)。全国旅そうだんでも黒川洞穴として、じゃらんnetでも黒川洞穴として、日置市観光協会WEBサイトでも黒川洞穴として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも黒川洞穴として(リンク先URLは2011年5月現在)遺跡ウォーカーでも黒川洞窟遺跡/黒川式洞穴として紹介されています。
  黒川洞穴遺跡(クロカワドウケツ)とは、鹿児島県日置市旧吹上町地域永吉地区にある、山の中腹にある大小2つの洞穴です。縄文時代前期から平安時代の5,000年間もの長きに渡って断続的に使用された住居跡の遺跡であるとの由で、昭和30年代(1955〜1964年)に発掘されたとの由です。
  黒川式と名付けられた土器、やじりや斧などの石器、骨針、大量の貝殻、食料と思量される鹿や猪の骨などが発掘されたとの由です。何故か狼と推測される動物の骨も発掘されたとの由です。また、約3,000年前の女性の人骨も発掘さたとの由です。県指定文化財(史跡)です。
  交通・アクセスは、公共交通では行き辛い所であり、日置市旧吹上町の、吹上温泉郷がある吹上町(伊作)地域か、或いはJR鹿児島本線の薩摩松元駅(鹿児島市)や伊集院駅(日置市旧伊集院町)辺りからタクシーになります。お車でお越しの場合には、南九州西回り自動車道(鹿児島道路)の松元インターチェンジから車で10分、もしくは指宿スカイラインの谷山インターチェンジから車で20分、との由です。
  日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはには、日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットとして
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があり、永吉地域の永吉島津家ゆかりの歴史スポットとして梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。 )

上述以外の歴史系観光スポット
(上述以外の日置市吹上町地域の歴史遺産系観光スポットは、日置市観光協会ホームページや、日置市ホームページ ・ 「指定文化財一覧表」のページに載っています。公共のHPにはリンク切れのリスクがありますが、将来リンク切れになっていたら、googleでの、日置市ホームページ上のキーワード「指定文化財」の検索結果画面で移転先ページ(画面)をお探し下さい。)

海風荘(地引き網)の場所(閉館)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県日置市吹上町入来4090。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも海風荘(地引き網)として、紹介されています(リンク先URLは2012年1月現在)が・・・日置市ホームページ ・ 温泉・宿泊マップによれば(リンク先URL並びに掲載内容は2012年1月現在)残念ながら平成19年(2007年)に閉館したとの由です。この観光スポットに思い出のある方のために、情報を残しておきます。)

日置市旧吹上町地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市吹上町」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市旧吹上町地域以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・温泉宿予約】吹上温泉の温泉宿一覧

(当HP内の)日置市旧吹上町地域の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市旧吹上町地域の温泉案内欄。)

(当HP内の)吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内欄。)


○  日置市吹上町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市吹上町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて伊集院駅に行くか、もしくは九州新幹線の終点・鹿児島中央駅に行き、伊集院駅鹿児島市から鹿児島交通の路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに鹿児島交通の路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
(いりきちょう)
東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)




亀丸城跡(伊作城跡):亀丸城跡の場所(伊作城跡の場所)
(伊作城の本丸跡地が亀丸城跡。リンク先は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 亀丸城跡に基づいて探した場所を示した、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市吹上町中原。余湖くんのお城のページ ・ 余湖図コレクション ・ 鹿児島でも伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖として、紹介されています。
  
亀丸城跡(伊作城(いざくじょう)跡)は、鹿児島県日置市旧吹上町地域にあり、島津貴久公が島津宗家を継ぐ前の、伊作島津家の居城址です。島津貴久公の父で、戦国時代に、戦だけでなく後世まで薩摩藩士に精神文化的な影響を与えた精神面も含めて逸材だった伊作島津家の名戦国武将・日新斎(じっしんさい)島津忠良公の居城です。貴久公が島津宗家を継いだ後も重要居城であり、忠良公・貴久公親子がこの城を拠点として、詳しくは後述するとおり、一時は混乱の極みにあった戦国乱世の薩摩国 ・ 大隅国 ・ 日向国島津氏領国三国の国内統一平定戦を始めたため、鹿児島県の郷土史上、極めて重要な城です。
  伊作家(伊作島津家)鎌倉時代から戦国時代にかけての島津氏庶流の家で、鎌倉時代島津氏宗家第3代当主・島津久経公の次子・島津久長から始まる家です。薩摩国 ・ 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)を居城として伊作を領有したため、伊作家と呼ばれるようになりました。島津氏庶流の中では、比較的初期に分かれた家ですが、室町時代島津氏宗家第9代当主・島津忠国公の三男で、室町時代後期から戦国時代初期にかけての武将・島津久逸(しまづ ひさやす)が後を継いで伊作家第8代当主になったことから、戦国時代前半には、島津氏宗家に最も血筋が近い庶流の中の1家になっていました。
  戦国時代初期の文明16年(1484年)に、伊作家(伊作島津家)第8代当主の、この島津久逸(ひさやす)島津氏第11代当主・島津忠昌公に叛旗を翻してしまったことがあります。話の発端は、島津氏と、日向国(一部例外的に今日の鹿児島県になった地域以外は、今日の宮崎県)の守護でもあった島津氏に従わない日向国国人戦国大名 ・ 伊東氏との対立構造でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納忠続,  新納是久によれば、室町時代の長禄2年(1458年)に、島津氏宗家の当主第9代当主・島津忠国公の命により、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の
志布志城城主で新納(にいろ)氏第5代当主の新納忠続は、日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図に移り、日向国 ・ 児湯郡都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市の一部)の都於郡城地図ならびに日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城地図を拠点としていた伊東氏に備えることになったとの由です。新納氏宗家が飫肥城に移ったため、志布志城城主は、新納忠続の弟の新納是久になったとの由です。文明5年(1473年)には、伊作家第8代当主 ・ 島津久逸も、島津氏宗家第10代当主・島津立久公の命令により、飫肥に近い日向国櫛間(くしま;現・宮崎県 ・ 串間市地図))の櫛間城(地図の城主になり、飫肥城新納忠続と連携して、伊東氏に備える任務に就いていたとの由です。
  ところが、日向国における伊作家(伊作島津氏)の勢力拡大を恐れた新納忠続は、戦国時代初期の文明16年(1484年)に、島津久逸薩摩国 ・ 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)に返すように、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公に願い出てしまいまいた。これに反発した島津久逸島津忠昌公に叛旗を翻し、伊東氏や、豊後国(現・大分県の一部)守護で、豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)の
大友氏館地図城主・大友氏の助力を得て、飫肥城を攻撃してしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納忠続によれば、飫肥城は一旦は落城したことになっていますが、都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館ホームページ ・ 都城の歴史 ・ 北郷敏久,ならびに日本の城址 ・ 飫肥城等によれば、伊東氏当主・伊東祐国島津久逸の連合軍は大勝はしたものの、落城にまでは至っていなかった模様です(ただし、これらの参照先ホームページ記入だれていないだけの話であって、実際に落城した可能性も否定はできず、落城しなかった旨を確認した上での話ではありません)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津久逸によれば、島津久逸は一時期は、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公の居城・薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の清水城に迫り、島津忠昌公を薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)に避難させるまでの状況に陥ったとの由です。しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌,  伊東祐国,  島津忠廉,ならびに都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館ホームページ ・ 都城の歴史 ・ 北郷敏久等によれば、一時期は島津久逸側についていた島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第2代当主で、大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の瓜生野城(建昌城)城主の島津忠廉を、島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第2代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主の島津国久が説得した経緯等もあり、島津久逸以外の島津氏が結束することに成功したとの由です。謀反開始の翌年・文明17年(1485年)に・伊東祐国島津久逸の連合軍が再び飫肥城を攻めると、島津忠昌公は、薩州家(薩州島津氏)第2代当主・島津国久,  島津氏庶流の相州家(相州島津氏)初代当主で薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城城主の島津友久,  島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏第6代当主で日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主の北郷敏久等の一族精鋭を率いて飫肥城新納忠続の救援に向かい、日向国楠原(現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の戦いで勝利し、伊東祐国は討ち死にし、島津久逸は降参して薩摩国 ・ 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)に帰ったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納是久によれば、島津久逸の乱において、
志布志城城主・新納是久は、実兄の新納忠続側ではなく島津久逸側の方についてしまい、上記の新納忠続の救援に来た島津忠昌公との戦いに敗れて、討ち死にしてしまったとの由です。乱後(戦後)、島津忠昌公は、文明18年(1486年)に新納忠続日向国 ・ 諸県(もろかた)郡志布志と大隅国 ・ 囎唹(そお)郡 ・ 末吉(現・鹿児島県 ・ 曽於市(そおし)末吉町地域)に移し、新納忠続志布志城に戻って来たとの由です。一方、新納忠続が去った後の飫肥城については、豊州家(豊州島津家)島津忠廉を飫肥の地頭に任命して、大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域帖佐地区)の瓜生野城(建昌城)から飫肥城に移したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納是久によれば、新納是久は生前、娘の常磐を、島津久逸の嫡子で、後に伊作家(伊作島津家)第9代当主になる島津善久に嫁がせていましたが、この常磐が、後年、後述するおとり、伊作家(伊作島津家)の興隆のキー・パーソンになりました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津久逸,ならびに島津善久,ならびに島津忠興(薩州家)によれば、
亀丸城(伊作城)に戻って来てから後の伊作家(伊作島津家)では、明応3年(1494年)に島津善久が馬飼いの下男によって殺されてしまったとの由です。また、島津久逸薩州家(薩州島津氏)の内紛に巻き込まれてしまい、薩州家(薩州島津氏)第4代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主の島津忠興に敵対した、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)島津忠福に味方してしまったために、島津忠福が拠る別府城(加世田城)島津忠興が明応9年(1500年)に攻めた際に、戦死してしまったとの由です。
  島津久逸が戦死した明応9年(1500年)の時点で、島津善久常磐との間に生まれた嫡子で、明応元年9月23日(1492年10月14日)生まれの伊作家(伊作島津家)第10代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公は、まだ幼少でしたので、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良によれば、伊作家は周囲の豪族の脅威にさらされる事態に陥ったとの由です。今は亡き島津善久の未亡人となった日新斎島津忠良公の母・常磐は、かねてから常磐に惚れ込んで求婚を申し出ていた、島津氏庶流の相州家第2代当主で薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の
亀ヶ城城主の島津運久(しまづ ゆきひさ)の庇護を求めて、日新斎島津忠良公が成長した時には相州家も併せ継ぐことを条件として、島津運久と再婚したとの由です。この再婚の結果、後に日新斎島津忠良公が両家を併せ継ぐことによって、伊作家相州家が一体化することになりました。日新斎島津忠良公は、5歳から15歳までの間、薩摩国坊津(ぼうのつ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町地域)の一乗院の末寺だった伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の海蔵院の頼増和尚の元で教育を受けた後、永正3年(1506年)に元服して、まずは伊作家を継いだとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良,ならびに島津運久によれば、島津運久は永正9年(1512年)に、薩摩国阿多(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域花瀬地区)の阿多城この辺り(地図)を攻略して亀ヶ城から移り、上記の常磐との約束どおり、日新斎島津忠良公に相州家の家督を譲ったとの由です。日新斎島津忠良公は亀丸城(伊作城)から亀ヶ城に移り、伊作家第10代当主(兼)相州家第3代当主として、亀丸城(伊作城)亀ヶ城を拠点として領内に善政を施し、名声が高まったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌,  島津忠治,  島津忠隆,  島津勝久,ならびに島津忠良によれば、この頃の島津氏宗家は、上述の島津久逸の乱の時の当主である島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公は、戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だった当主であり、領内の内乱に苦しんだためと巷間伝えられる理由で永正5年(1508年)に自殺してしまったとの由です。さらに、第12代当主・島津忠治公が27歳で永正12年(1515年)に、その弟で第13代当主・島津忠隆公が23歳で永正16年(1519年)と相次いで若死に、かつ両者共に父親同様に戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だったため、後世、「島津氏の暗黒時代」とまで評される程に、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の勢力は衰えていました。島津忠隆公の弟で、永正16年(1519年)に後を継いだ島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、権力基盤が弱かったため、当初は、有力分家であった薩州家(薩州島津氏)第5代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城城主の島津実久(しまづ さねひさ)の力を借りることにして、島津実久の姉を正室に迎えて領国国政を委任していましたが、島津実久が専横を極めた上に、当時は子がいなかった島津忠兼(後の島津勝久)公に対して、自分自身(島津実久)を世子(跡継ぎ)にするように迫ったため、島津忠兼(後の島津勝久)公は正室を離縁し、島津実久を遠ざけたとの由です。島津実久は反攻して島津忠兼(後の島津勝久)公を、守護所であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城から追放して勝手に守護を自称するに至り、領内騒然となったとの由です。
  島津実久の専横に対して島津忠兼(後の島津勝久)公は、島津氏の有力庶流と化しており、かつ英明の評価が高かった、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の力を借りることになったとの由です。このため、日新斎島津忠良公の嫡男・島津貴久公を大永6年(1526年)に養子に迎えて島津氏宗家第15代当主として家督を継承させて清水城に迎え入れて、翌大永7年(1527年)、島津氏宗家前当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、日新斎島津忠良公の領地・薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居し、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に入ったとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ大永6年(1526年)に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津実久,  島津勝久,ならびに島津忠良等によれば、この政治情勢を快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした、薩摩国出水の
出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主の、前述の島津実久は反発して、大永7年(1527年)に謀反を起こしました。この戦乱が、伊作家(兼)相州家系統の島津氏宗家による、戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の始まりになりました。
  島津実久の謀反は、大永7年(1527年)の前年の、上記の大永6年(1526年)に既に前哨戦が始まっていた可能性があります。それは、大永6年(1526年)暮れに大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の川上忠直が島津氏宗家の島津貴久公に叛いた謀反が、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、島津実久に付いてのことであったとの由です(ただし、川上忠直の動機について他の参照先でまだ確認していないので、川上忠直の謀反は、島津実久に付いてのことではなかった可能性も残っています)。日新斎島津忠良公は川上忠直を攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この功により、日新斎島津忠良公は、前守護島津忠兼(島津勝久)公から、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)と、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図を賜ったとの由です。戦国島津の女達 ・ 島津善久女(島津昌久室)によれば、上記の島津昌久は薩州家(薩州島津氏)の庶流でしたが、日新斎島津忠良公の姉妹の夫ですので、薩州家(薩州島津氏)島津実久が謀反を企んでいても信用していたものと推測可能です。ところが、城郭放浪記大隅・加治木城ならびに大隅・平山城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良等によれば、大永7年(1527年)に、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主の伊地知重貞・伊地知重兼父子と平山城(平安城)島津昌久が大永7年(1527年)6月に島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。これが、公式には島津実久による謀反の開始ということになります。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。新たな加治木地頭には、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城を拠点とした国人肝付氏の庶流の肝付兼演が、そして、新たな帖佐地頭には伊地知重辰が任命されたとの由です。
  この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。さらに、播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 祁答院氏によれば、薩摩国 ・ 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武が享禄2年(1529年)に、上述のとおり日新斎島津忠良公に任命されて大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)にいた伊地知重辰を攻め滅ぼして大隅国帖佐が祁答院氏領になってしまったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良によれば、享禄2年(1529年)に日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の
飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主で新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の富田城,  国見城城主で禰寝氏第15代当主・禰寝清年(ねじめ きよとし)大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で肝付(きもつき)氏庶流の加治木肝付氏初代当主の肝付兼演、大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水(きよみず)城城主で薩摩本田氏第14代当主の本田薫親、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相大隅国小浜(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図城主で樺山氏第8代当主の樺山幸久(後の樺山善久)薩摩国阿多(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域花瀬地区)の阿多城この辺り(地図)城主で日新斎島津忠良公の義父の相州家前当主(第2代当主)・島津運久らが薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に集まり、清水城に戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公に対して、日新斎島津忠良公と和解するように求めたとの由ですが、失敗したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久,  島津忠良,  川上昌久九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋 )ならびに鹿児島市教育会(伊地知四郎執筆)『鹿児島の史蹟』(鹿児島市教育會,昭和12(1937))p.85等によれば、この間、一時期は薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の
清水城に戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公は、自ら政務を執ろうとしていたものの、歴代の臣を遠ざけて俗曲戯芸に興じ政務を怠る状況に陥っていたとの由です。奸臣・末弘忠重を斥けて欲しい旨の忠臣達の連判の上での諫言(かんげん)も聞き入れられなかったため、薩摩国 ・ 川上(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 ・ 川上町)の川上城地図城主で川上氏第10代当主の川上昌久が末弘忠重を天文4年(1535年)に殺害したとの由です。島津勝久公自身の身の安全のために、一旦は大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))に身を隠していた島津勝久公が帰還すると、島津勝久の命によって川上昌久は、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)に当時存在した大興寺で、自害に追い込まれたとの由です。同年(天文4年(1535年))、島津勝久公は川上城地図を攻めましたが、川上昌久の妻は家臣と共に籠城して、島津勝久を撃退したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久,  島津忠良,ならびに播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 肝付氏掲載系図等によれば、島津勝久公は天文4年(1535年)8月に島津実久と再び仲違いになり、島津実久軍が薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)を攻めて街は炎上し、島津勝久公は大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)に逃れるハメに陥ったとの由です。島津勝久公は、薩摩国 ・ 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の
虎居城大隅国帖佐の平山城(平安城)城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武と、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で肝付(きもつき)氏庶流の肝付兼演の弟・肝付兼利らと共に、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県)を攻略し直したとの由です。ですが、薩摩国谷山(現・鹿児島県の一部)にまで進軍したものの、そこで島津実久に敗れて肝付兼利は戦死してしまい、天文4年(1535年)10月に島津勝久公は大隅国帖佐に移り、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城は、再び島津実久に制圧されてしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久によれば、このような島津実久の圧迫に耐えかねた島津勝久公は、再び日新斎島津忠良公に助力を求めることになったとの由です。
  台明寺岩人島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放地方・小出版流通センター南方新社),2008)p.91によれば、島津勝久公を薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)から駆逐した後、島津実久は、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の
都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝を誘い、大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水(きよみず)城城主で薩摩本田氏第14代当主の本田薫親と連合して、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城肝付氏と、大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の富田城,  国見城禰寝氏にも働きかけて、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)に行き、志布志城城主で新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝の嫡子・新納忠茂を誘おうとしましたが、断られたとのことです。新納氏を討とうとして、国分清水(国分清水(きよみず)城)に行き、大隅国小浜(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図城主で樺山氏第8代当主の樺山幸久(後の樺山善久)を誘おうとしたとの由ですが、樺山幸久(後の樺山善久)が応じたか否かは、島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放p.91には載っていません。樺山幸久(後の樺山善久)日新斎島津忠良公と盟約を結んだ関係でしたので、恐らくは断ったものと推測します。これと同じタイミングか、それとも別タイミングかは存じ上げませんが(注:島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放からは、恐らくは別タイミングと推測しますが、狩りに別タイミングであると仮定すれば、上記の1度目の方は他の参照先に載っておらず、検証しきれていません)、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 武家家伝 新納氏,ならびに台明寺岩人島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放地方・小出版流通センター南方新社),2008)p.111等によれば、天文6年(1538年)12月から正月天文7年(1538年)正月にかけて、詳しくは後述する薩摩国における日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子の反転攻勢に対して大隅国,  日向国国人達を味方に引き入れることを目的として、島津実久は自分の守護職就任について、上述の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主・北郷忠相豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝薩摩本田氏第14代当主・本田薫親、禰寝氏第15代当主・禰寝清年肝付氏第16代当主の肝付兼続の同意を得たことがあったとの由です。この時に、新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝の嫡子・新納忠茂は反対したため、北郷忠相豊州家 ・ 島津忠朝は、新納氏を攻撃したとの由です。新納氏島津実久側に付かなかった理由、ならびに戦争の詳しい経緯は当ホームページ内の都之城紹介欄志布志城紹介欄で述べましたので、そちらをご参照いただきたくお願い申し上げますが、新納忠勝新納忠茂父子は志布志城をはじめとする諸城・所領を失い、没落してしまいました。なお、詳しくは当ホームページ内の高山城紹介欄垂野城紹介欄でも解説したとおり、この時期の肝付兼続は、必ずしも一貫して島津実久側であり続けた訳ではなく、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側に味方したこともあります。
  年は数年前後しますが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の
頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、天文5年(1536年)に上述の薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の紫原(むらさきばる)で行われた紫原の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の加世田城の戦いで勝利して別府城加世田城を手に入れました。同年、薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 谷山地域)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国 日置郡市来(いちき;現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させた市来鶴丸城の戦い市来鶴丸城攻め)では、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣400によれば、島津実久の弟・島津忠辰を、薩州家庶流でありながら日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子側の家臣であった吉利家(よしとしけ;後の吉利氏)第3代当主で薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿篭(かご)(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主の島津久定が射殺したとの由です。この天文8年(1539年)には、薩摩国 日置郡 串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です(串木野城攻め)。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良,ならびに島津勝久によれば、島津勝久公は守護に復帰して政務を執ろうとしましたが、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子と再び対立して攻められたため、再び大隅国に逃亡したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良,ならびに島津勝久,  よんご会HP ・ よしまつのおいたち,  九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜,  九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋 ),ならびに台明寺岩人島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放地方・小出版流通センター南方新社),2008)p.91等によれば、島津勝久公は、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の祁答院氏,  日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城と、日向国 真幸院(まさきいん)三之山(みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城この辺り(地図)北原氏,  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城城主の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)等を頼って、例えば北原氏領の大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)の般若寺等、大隅国 ・ 日向国方面を転々とした後、最終的には、母方の親戚である、豊後国(現・大分県の一部)守護で、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主・大友氏を頼って、豊後国まで落ち延びて行ったとの由です。ただし、よんご会HP ・ よしまつのおいたちによれば、島津勝久公が大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)の般若寺に行ったのは天文4年(1535年)のことであり、島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放p.92にも、(上述の経緯によって所領を失う前の時点の)日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主・新納忠勝が、天文5年(1536年)3月に般若寺島津勝久公を訪れて、島津勝久公の身を案じて相談を行った旨の記述があります。これらの記述内容からは、島津勝久公の大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)への流浪は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子が島津実久を降伏させた天文8年(1539年)よりも前のことであったことになります。上述の「守護に復帰して政務を執ろうとしたが、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子と再び対立して攻められた」出来事が、どの場所で行われたかという点も含めて、島津勝久公が、どのような経緯、タイミング、経路で流浪していったかについては、詳しくは存じ上げません。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。例えば、上述のとおり、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の
都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋)によれば、天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、天文19年(1550年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)から、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の内城うちじょうに移したとの由です。薩摩国鹿児島の島津氏宗家の城は従来は清水城だったのですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、薩摩国鹿児島に移った際に島津貴久公は、従来からの薩摩国島津氏守護所であった清水城を避けて、戦国大名 ・ 島津氏の本城として、新たに内城を築いたのであるとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良公によれば、島津貴久公が内城に移った天文19年(1550年)に、日新斎島津忠良公は、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)に隠居したとの由です。
  忠良公の3人の子供・島津貴久公、島津忠将公、島津尚久公、そして「島津四兄弟」として九州戦国史で有名な貴久公の4人の子供・島津義久公、島津義弘公、島津歳久公、島津家久公との誕生地として石碑が建っているとの由です(ただし、厳密に申せば、貴久公の生誕地は南さつま市旧金峰町地域にある
亀ヶ城ですが)。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊作城によれば、
亀丸城というのは伊作城全体の名前ではなく伊作城の本丸の名前です。この本丸・亀丸城以外に山之城,蔵之城,花見城,御仮屋城,東之城,西之城という6つの郭(曲輪,くるわ)が設けられていたとの由です。この「シラス台地を掘った空堀に囲まれた独立性の高いがある」というのは、「群郭式山城」といい、南九州の中世城郭の特徴です。県指定文化財でもあります。
  また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊作城によれば、江戸時代一国一城令で廃城になり、一国一城令後の薩摩藩における地方行政(兼)軍事制度上の単位「郷」と、「郷」ごとに武家屋敷群「麓(ふもと)」を設けた「外城(とじょう)制」における麓武家屋敷群が(文字どおり)麓に設けられて行政・軍事の中心が「城の麓」に移りましたが、その後も城跡には島津家の宝物殿が置かれて、鹿児島城下士が交代で番所勤めをしていたとの由です。
  亀丸城跡(伊作城跡)についてはこの他、日置市観光協会WEBサイトでも亀丸城跡として(リンク先URLは2011年5月現在)城郭放浪記でも薩摩・伊作城として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも
伊作城として紹介されています。
  2013年7月現在、公共交通機関での交通案内は、鹿児島市山形屋(百貨店)バスセンター、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗り、「伊作」バス停(地図)がある旧吹上町中心地よりやや手前のバス停の内、「ふもと」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  空路で鹿児島空港経由でお越しの方は、空港アクセス・バスで一旦、鹿児島市鹿児島中央駅地図)か、山形屋(百貨店)バスセンターがある天文館にお越しいただいた上で、地域の公共交通機関に乗り換えれば、行けます。京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、九州新幹線鹿児島中央駅地図)にお越しいただいた上で、地域の公共交通機関に乗り換えれば、行けます。
  日置市吹上町地域日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットには、
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、梅天寺跡(島津家久公の墓)等の永吉島津家関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。
  関連スポットとして日新斎島津忠良公と島津貴久公の他の居城について示せば、日新斎島津忠良公については、南さつま市金峰町地域
亀ヶ城趾,  南さつま市加世田市地域別府城跡(加世田城跡)があります。また、島津貴久公については、南さつま市金峰町地域亀ヶ城趾,  日置市伊集院町地域一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園),  鹿児島市清水城(しみずじょう),  内城(うちじょう)があります。
  併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。また、特に、戦国時代島津氏中興の祖・日新斎(じっしんさい)島津忠良(しまづ ただよし)公ゆかりの周遊観光スポットには、以下の表のようなものがあります。)
日新斎(じっしんさい)島津忠良公ゆかりの周遊観光スポット
地域 城址・史跡 地域の博物館
日置市吹上町地域 亀丸城跡(伊作城跡) 吹上歴史民俗資料館
多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地)
海蔵院跡
大汝牟遅神社
南さつま市金峰町地域 亀ヶ城趾 南さつま市歴史交流館金峰
南さつま市加世田市地域 別府城跡(加世田城跡) 加世田郷土資料館(南さつま市郷土資料館)
竹田神社


南郷城跡(野首城跡)の場所
ならびに
永吉麓御仮屋跡(現・永吉小学校)の場所
(リンク先は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 南郷城跡,ならびに城郭放浪記 ・ 鹿児島県 日置市のお城一覧に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。南郷城跡(野首城跡)の住所:鹿児島県日置市吹上町永吉字都山,永吉麓御仮屋跡地の住所:鹿児島県日置市吹上町永吉14126。南郷城跡(野首城跡)については、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベースでも南郷城跡として、城郭放浪記でも鹿児島県 日置市のお城一覧の中で、余湖くんのお城のページ ・ 余湖図コレクション ・ 鹿児島でも伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖として、城めぐりの記録 でも南郷城(薩摩国・鹿児島県日置市吹上町永吉)として、ちえぞー! 城行こまいでも南郷城として、城跡じゃらんジャランでも南郷城・市来鶴丸城として、日本の城址でも南郷城として、戦国島津+夢の牙城でも島津家年表の中で紹介されています。永吉麓については、鹿児島みてある記−歴史散歩−でも2007 永吉麓,  2011 永吉麓・秋として、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも永吉麓として、城鑑賞の旅・二人で城ある記 城(お城・城郭)・宮殿・城下町・歴史遺構など、熟年夫婦の城巡りの報告でも島津 外城(麓)の地図の中で紹介されています。島津忠将については、南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌でも垂水家の祖・島津忠将として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも島津忠将として紹介されています。
  
永吉麓は、日置市吹上町地域永吉地区(旧・薩摩国 永吉郷)にある、江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城(とじょう)制における永吉の跡の街並みです(外城制に関する説明は、後述します)。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 永吉麓,ならびに城鑑賞の旅・二人で城ある記 城(お城・城郭)・宮殿・城下町・歴史遺構など、熟年夫婦の城巡りの報告 ・ 島津 外城(麓)の地図によれば、永吉麓は、南郷城跡(野首城跡)の麓に設けられた武家屋敷群です。また、両参照先サイトによれば、永吉麓の御仮屋跡は、今日(2013年10月現在)日吉市立永吉小学校の場所であったとの由です。外城制について解説します。江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。御仮屋とは、武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設です。また、武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。各「外城(麓)」で「郷」を統治する武士の見地から「郷」を分類すれば、一所持と呼ばれる家格の重臣が私領主として統治する「郷」と、薩摩藩直轄領であり、藩庁の役人が藩官僚「地頭」として統治する「郷」とが、ありました。永吉郷の場合、島津氏庶流の永吉島津家(永吉島津氏)が私領主として統治する「郷」でした。永吉島津家について詳しくは、後述します。
  鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 南郷城跡によれば、
南郷城(野首城)は、鎌倉時代文治元年(1185年)〜正治元年(1199年)頃に築城されたとの由で、桑波田(くわばた)氏が城主であったとの由です。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖や、ちえぞー! 城行こまい ・ 南郷城等によれば、桑波田氏は南郷(永吉の古地名)の郡司であったとの由であり、始祖は「桑波田覚弁」であったとの由です。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、南北朝時代には桑波田氏は南朝方武将として、(例外的な時期を除けば、概ね)北朝方武将だった島津氏と抗争していたとの由ですが、詳しい経緯は不明であるとの由です。
  
南郷城(野首城)が歴史に登場するのは、詳しくは当画面(当ページ)上方の亀丸城(伊作城)紹介欄で解説した経緯のとおりの、戦国時代島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の初期に起きた、島津氏庶流の薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の嫡子・島津貴久公が、島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いで第15代当主になると、これを快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久が同年・大永7年(1527年)に謀反を起こして生じた、島津氏宗家の座を巡る島津氏の内紛・内ゲバ抗争の際です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この抗争が始まる前年の大永6年(1526年)、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ際に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由ですので、島津氏の内紛・内ゲバ抗争勃発時点では、薩摩国南郷にあった南郷城(野首城)は、城主が桑波多氏のまま、その桑波多氏の主君が島津忠兼(島津勝久)公から日新斎島津忠良公に変更になったことになります。南郷城(野首城)がある薩摩国南郷(後の永吉)は、亀丸城(伊作城)がある薩摩国伊作の北側に隣接した場所にあります。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、上述のとおり当初は日新斎島津忠良公に属していた南郷城(野首城)の桑波多栄景は、天文2年(1533年)2月10日に、日新斎島津忠良公に叛旗を翻してしまったとの由です。なお、桑波多栄景は、ちえぞー! 城行こまい ・ 南郷城には「栄景孫六」という名で載っておりますので、「桑波多栄景孫六」或いは「桑波多孫六栄景」と呼ばれていた模様です。
  当段落以降の2段落の内容の経緯については、この2段落で述べる以外のことについて詳しくは当画面(当ページ)上方の
亀丸城(伊作城)紹介欄で解説したとおりですので、省略し、概要のみを述べます。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、一度は日新斎島津忠良公と島津貴久公を裏切って島津実久側についた島津勝久公は、天文4年(1535年)に島津実久と再び仲違いしましたが、この天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  
南郷城合戦について詳述します。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、守りが堅い南郷城(野首城)を、当初は日新斎島津忠良公はなかなか攻め落とすことができなかったため、盲僧了公を城内に侵入させて城内の様子を探索させたとの由ですので、諜報活動スパイ活動)による情報収集結果を利用する作戦に切り替えたとの由です。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、桑波多栄景が3月29日に狩りのために南郷城(野首城)城外に出るという情報を得た日新斎島津忠良公は、自らの兵を狩りの一行に扮装させた突入部隊を編成して、狩りから帰城した状況を装って南郷城(野首城)に入城させて、この入城した兵を足がかりにして、南郷城(野首城)を攻め落とすことに成功したとの由です。桑波多栄景は南郷城(野首城)に戻ることが叶わなくなり、いずこかに落ち延びて行かざるを得なくなったとの由です。余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、桑波多栄景は後に南郷城(野首城)奪還を目指して奇襲攻撃をかけようとしたとの由ですが、事前にその情報を察知した日新斎島津忠良公がこれを撃破したとの由であり、これ以降、南郷城(野首城)は、伊作家(伊作島津家)の城になったとの由です。ちえぞー! 城行こまい ・ 南郷城によれば、この合戦は南郷城合戦と呼ばれているとの由です。この南郷城合戦が、最初に諜報活動スパイ活動)採用前に南郷城(野首城)を攻めあぐねていた時点の戦い、南郷城(野首城)乗っ取り戦か、2度目の桑波多栄による奪還攻撃への防止戦、このいずれか単独だけであるのか、それとも、それら全てを通じての総称であるのかは、存じ上げません。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、天文2年(1533年)のこの南郷城合戦は、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公にとっては初陣であったとの由です。
  余湖くんのお城のページ ・ 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖によれば、日新斎島津忠良公は、取り戻した薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の地名を永吉に変更したとの由です。南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 垂水家の祖・島津忠将によれば、永吉の地は、日新斎島津忠良公の次男で島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟である島津忠将の最初の領土となったとの由です。この、南郷城合戦以降の時点の島津忠将永吉における居城がどの城であるのか確認できませんでしたが、恐らくは
南郷城(野首城)であった確率が高いのではないか、と推測します(注:当欄執筆時点では、確認した上での史実ではなく、推測です。誤解を避けるべく、念のため)島津忠将は、薩摩国永吉で、北方の薩州家(薩州島津氏)や、渋谷諸族に備えたとの由です。渋谷諸族とは、中世の薩摩国で栄えた渋谷氏の一族のことであり、5家に分かれて栄えたために渋谷五族等とも賞されましたが、この時期、まだ衰えずに勢力を誇っていたのは、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主・祁答院氏薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主の東郷氏薩摩国入来院(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町(いりきちょう)地域)の清色城(きよしきじょう)城主の入来院氏です。渋谷諸族は、鹿児島県戦国時代史では薩摩国内の反島津氏勢力だったことで知られる一族です。上述の島津氏内紛の時期には、例外的に、入来院氏第11代当主・入来院重総は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 入来院氏によれば薩州家島津実久の侵略を受けていたこともあり、当初は劣勢だった日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子側に味方し、その娘・雪窓島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の夫人になったりもしています。ですが、時期は後年になりますが、その入来院氏でさえ第12代当主・入来院重朝が再び島津氏と対立するに至りました。南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 垂水家の祖・島津忠将によれば、島津忠将は、上述の伊作家(兼)相州家日新斎島津忠良公・島津貴久公父子と、薩州家島津実久との間の島津氏の内紛においては、天文7年(1538年)の薩摩国加世田の別府城(加世田城)の戦いでの武勇で知られているとの由です。それによれば、当時19歳の若武者だった島津忠将は、別府城(加世田城)搦手口を攻める大将として出陣して、格闘中に歯が欠ける程の激闘の末に、敵方の市来早左衛門を討ち取ったり、島津実久方の援軍として別府城(加世田城)に来た大寺越前守と鎌田加賀守の軍勢を撃退したりしたとの由です。大寺越前守と鎌田加賀守の軍勢の撃退の際には、過度に追撃すると包囲されるリスクがある状況下で、それでも追撃の手を緩めずに散々に敵を打ち破ったとの由です。
  南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 垂水家の祖・島津忠将では、戦国時代の(伊作家流の)島津氏宗家の次男は、島津忠将といい、次世代の島津義弘公といい、敵方との最前線に派遣される傾向があるとの作者・桐野作人氏の所感が述べられており、当ホームページ管理人も、同意します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠将によれば、島津忠将は、大隅国国人戦国大名大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の
高山城を拠点としていた肝付氏と、日向国国人戦国大名日向国 ・ 児湯郡都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市の一部)の都於郡城地図ならびに日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町(さどわらちょう)地域)の佐土原城地図を拠点としていた伊東氏への備えとして、天文17年(1548年)に、大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水(きよみず)城城主に転じました。その後、詳しくは当ホームページ内の高山城紹介欄で解説した経緯のとおり、永禄元年(1558年)に島津氏肝付氏第16代当主・肝付兼続の関係が決裂して肝付氏大隅国の反島津氏勢力に転じると、詳しくは当ホームページ内の廻城(めぐりじょう)紹介欄で解説した経緯のとおり、大隅国廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域の一部)の廻城を廻って永禄4年(1561年)に行われた廻城の戦いで肝付氏と戦って、島津忠将は、残念ながら戦死してしまいました。
  島津忠将の系統の家系は、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津以久等によれば、嫡子・島津征久(島津以久)が、種子島を経て慶長4年(1599年)に所替えによて大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)に移封になって
垂水城城主になったとの由です。江戸時代の慶長8年(1603年)に、日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じて佐土原城地図に移り、その時、島津征久(島津以久)の嫡孫(島津征久(島津以久)の嫡男で早死にし島津彰久の嫡子)・島津信久(忠仍,久信)は垂水に残って垂水島津家を継承したため、佐土原藩の藩主の佐土原島津家は、島津征久(島津以久)の三男・島津忠興が継承しました。垂水島津家では慶長16年(1611年)に、垂水での本拠地を垂水城から林之城(林城)に移したとの由です。垂水島津家は、戦国時代島津氏宗家の次男の猛将・島津忠将を始祖とする、島津氏庶流の中でも名門として、江戸時代薩摩藩では、藩主の血統が絶えた場合に代わりに藩主を出し得る、家臣団の中では最も家格が高い「御一門」と呼ばれる家格の家として存続しました。「御一門」は、江戸幕府における徳川御三家御三卿薩摩藩版だと考えれば、分かり易いです。さらに、垂水島津家からは、地方行政区域「郷」を私領主として統治する薩摩藩重臣の家格「一所持」の家系の分家として、新城島津家(しんじょうしまづけ)が分かれ、新城御仮屋はこの辺り(地図))で大隅国新城郷(現・現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)を統治しました。鹿児島県 ・ 垂水市には、例えば垂水島津家墓地,  林之城跡(林城跡)・お長屋,  新城島津家墓地等の、垂水島津家や新城島津家関連の歴史観光スポットがあります。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 上井氏によれば、島津忠将が天文17年(1548年)に
国分清水城城主に転じた後、代わりに新たに永吉地頭になったのは、諏訪氏の末裔を称する上井(うわい)氏であったとの由です。永吉郷を代表する城は南郷城(野首城)ですので、上井氏南郷城(野首城)城主になったものと推測します(城については、確認した上での史実ではなく、推測です。誤解を避けるべく念のため)永吉地頭 ・ 上井氏の初代は諏訪為秋(上井為秋)であったとの由で、諏訪為秋(上井為秋)は、元々は大隅国上井(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域の一部)の上井城地図城主でしたが、天文17年(1548年)に島津氏に降って、永吉地頭に任じられ、その際に姓を諏訪から上井に変更したとの由です。この天文17年(1548年)は、正に、島津忠将国分清水城城主に転じた年です。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 上井氏によれば、上井為秋の子は上井薫兼であり、その上井薫兼は、天正元年(1573年)に家督を嫡子・上井覚兼に譲ったとの由です。上井覚兼は、天正2年(1574年)〜同14年(1586年)の島津氏九州の諸大名の動向を調べるための貴重な史料である『上井覚兼日記』の著者として知られる武将であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上井覚兼によれば、その人生の初期には島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に仕え、島津貴久公死後には島津氏宗家第16代当主・島津義久公の側近として仕えたとの由であり、天正4年(1576年)からは老中(家老)の一員になったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上井覚兼によれば、上井覚兼初陣は、上述の永禄4年(1561年)に行われた、島津忠将が戦死したことで知られる、
廻城の戦いであったとの由です。上井覚兼は、その後、その老中就任年・天正4年(1576年)の8月に行われた日向国 ・ 諸県(もろかた)郡高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 ・ 高原町)の高原城攻めや、豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館地図城主・大友氏と戦った、後述の天正6年(1578年)の耳川の戦い等に参戦したとの由です。天正8年(1580年)には日向国宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市)の宮崎城地図の守備を命じられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津朝久,ならびに島津修久島津義弘の軍功記 増補改訂版』(島津顕彰会発行,今村印刷所印刷,2000,鹿児島市尚古集成館で販売)p.78等によれば、島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第6代当主・島津朝久は、天正5年(1577年)の伊東氏没落後の天正6年(1578年)に、この日向国宮崎の300町を拝領して領主になったため、宮崎城地図の城主になった時期もあることになります(城については、確認した上での史実ではなく、推測です。誤解を避けるべく念のため)。このため、天正8年(1580年)に宮崎城地図城主になった上井覚兼は、宮崎城地図に関しては島津朝久の後任だったことになります。なお、島津朝久は、日向国宮崎の後、日向国 ・ 真幸院(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の馬関田(まんがた)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の地頭として、馬関田城(まんがたじょう)の城主になりました。
  この
宮崎城地図を任された天正8年(1580年)に、上井覚兼永吉地頭から外れたか否かは存じ上げませんが、外れた可能性は高いのではないかと推測します(注:確認した上での史実ではなく、推測です)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上井覚兼によれば、上井覚兼宮崎城地図を任されただけでなく、日向国地頭になり、実質的に日向国一国を任されたとの由です。ところで、膏肓記 ・ 苦戦の岩屋城攻め(上),ならびにコトバンク ・ 島津家久によれば、詳しくは後述するとおり、この時期の島津家久公は日向国守護代として、日向衆を束ねていたとの由ですので、この時期の日向国は、上井覚兼だけが統治していた訳では、ありません。恐らくは、島津家久公と上井覚兼が協力して統治していたのではないか、と推測します。天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)において、島津氏が敗れた最終決戦と言える、後述の天正15年(1587年)4月17日の根白坂の戦いでは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上井覚兼によれば、上井覚兼島津家久公に従って豊臣秀長の軍勢に敗れて、島津家久公と共に降参したとの由です。その後の上井覚兼は、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の地頭に任じられて伊集院に隠棲し、その地で没したとの由です。上井覚兼の子・経兼から以降は、上井氏から諏訪氏に復姓したとの由です。
  永吉の地が再び郷土史に登場するのは、江戸時代に永吉島津家の所領になった時点です。永吉島津家島津家久公に始まる島津氏庶流の家です。島津家久公は、戦国時代から安土桃山時代にかけて行われた合戦の内、豊後国大友氏と戦った、天正6年(1578年)の日向国 ・ 児湯(こゆ)郡新納(にいろ)院(現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町)の
高城(新納院)地図の周辺で行われた耳川の戦い(古戦場に残る供養塔で場所を示せば宗麟原供養塔解説)での勝利における活躍や、島津家久公・有馬晴信連合軍が龍造寺隆信を討ち取った天正12年(1584年)の肥前国 ・ 島原半島高来郡(たかきぐん)島原(森岳)(現・長崎県 ・ 島原市の一部)の島原城(森岳城)(地図(後に戦国時代島原城(森岳城)と同じ場所に江戸時代に築城された城は、島原城(森岳城)解説)最寄りで行われた沖田畷の戦い(場所は沖田畷古戦場地図))での勝利や、天正14年12月12日(1587年1月20日)に仙石秀久率いる豊臣秀吉軍を撃破して十河存保長宗我部信親を討ち取った、豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)南方の戸次川(へつぎがわ;現・大野川)で行われた戸次川の戦い(古戦場に残る長宗我部信親の墓ので場所を示せはここ(地図))での勝利等で名高い名将です。島津家久公は、島津義久公を長兄とし、島津義弘公を次兄とする優秀な島津四兄弟の末弟として知られる戦国武将です。永吉島津家は、関ヶ原の戦い家久公の子・島津豊久公が討ち死にした後で、その所領ではなく家系を継いだ家です。
  島津家久公は、お城の旅日記 ・ 薩摩 串木野城によれば元亀元年(1570年)に薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の地頭として
串木野城城を拠点としていました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津家久によれば、この時期はまだ部屋住みの身分であったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津家久,ならびに攻城記 ・ 佐土原城によれば、上述の沖田畷の戦いの後の時点である天正12年(1584年)に、部屋住みを脱して知行地4000石を賜り、日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城地図城主になったとの由です。膏肓記 ・ 苦戦の岩屋城攻め(上),ならびにコトバンク ・ 島津家久によれば、島津家久公は日向国守護代として、日向衆を束ねていたとの由です。
  天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)においては、当初は上述の天正14年12月12日(1587年1月20日)の戸次川の戦い島津家久は大勝しましたが、天正15年(1587年)4月17日に島津家久公も参加して日向国 ・ 児湯(こゆ)郡新納(にいろ)院(現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町)の
高城(新納院)地図の周辺で行われた根白坂の戦い居酒屋なんじゃろか ・ 宮崎の史跡(県北編) ・ 根白坂の古戦場跡によれば、古戦場跡は宮崎県児湯郡木城町陣ノ内(この辺り(地図))との由です)で島津氏は敗れてしまいました。この根白坂の戦いでの敗北等を契機にして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 九州平定によれば、島津氏宗家第16代当主・島津義久公が天正15年(1587年)5月6日に薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の雪窓院で剃髪した上で、薩摩国 高城郡 水引宮内(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)宮内町」)の泰平寺に設けられた豊臣秀吉の陣に天正15年(1587年)5月8日に赴いて正式に降伏したとの由です。島津家久公は、島津氏降伏直後の天正15年(1587年)6月5日に急死してしまい、毒殺説もありますが、豊臣秀吉側、島津氏側双方に毒殺の積極的な動機が、この時点では存在しないため、病死説も有力です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 九州平定によれば、豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理では、島津氏薩摩国,  大隅国2国(現・鹿児島県十島村(吐喝喇列島(トカラ列島))以北の地域)と、日向国 ・ 諸県郡(現・宮崎県 ・ 都城市,  小林市,  えびの市,  北諸県郡 ・ 三股町(みまたちょう),  東諸県郡 ・ 綾町(あやちょう),  東諸県郡 ・ 国富町旧高岡外城地域+鹿児島県 ・ 志布志市,  曽於市(そおし)の一部)を安堵されたとの由です。この内、島津氏宗家第16代当主・島津義久公には薩摩国,  島津義弘公には大隅国日向国 ・ 諸県郡,  島津義弘公の嫡子・島津久保には日向国 ・ 諸県郡の内の真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)が与えられたとの由です。鎌倉時代以来の島津氏の本国である三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の内、日向国においては諸県郡以外は失ったことになります。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 九州平定によれば、島津家久公没後、その嫡子・島津豊久には、(上記の薩摩国,  大隅国,  日向国 ・ 諸県郡以外の地域として、)日向国都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市の一部)と日向国 ・ 佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町(さどわらちょう)地域)が安堵されて、
佐土原城地図城主の座を継いだとの由です。島津豊久は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐や、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に出陣・参加したとの由です。慶長4年(1599年)には、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で島津氏家老だった伊集院忠棟を、後に島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になることになる島津忠恒(家久)公が斬殺したことを契機にして、島津氏領内の日向国庄内(都城一帯)で伊集院忠棟の嫡子・伊集院忠真が起こした反乱・庄内の乱にも出陣して、武功を挙げたとの由です。しかし、翌・慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、叔父・島津義弘公に加勢するべく出陣したところ、島津氏西軍に属したために敗北側に回ってしまい、伝説的かつ壮絶かつ凄絶な島津氏の敵中突破撤退戦「島津の退き口」において、捨て奸(すてがまり)戦法の結果、島津義弘公を生還させる身代わりとなって島津豊久が討ち死にしてしまった旨は、郷土史だけでなく日本史全体でも有名な史実です。
  島津豊久没後、家久公 ・ 豊久公の所領・日向国 ・ 佐土原は、豊久公に子が無かったため一旦は無嗣断絶扱いになり、その後、江戸幕府から(一旦召し上げた上で)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠仍等によれば、新たに島津氏に与えられることになったとの由です。その際、慶長9年(1604年)に、家久公の次男で島津豊久の弟の島津忠仍(東郷重虎)が当初は豊久の遺領を継ぐように命じられましたが固辞したため、代わりに、日新斎島津忠良公の次男で島津氏第15代当主・島津貴久公の弟だった島津忠将の子・島津以久島津四兄弟の従兄弟)が継ぐことになり、佐土原藩を立藩した旨は、上述のとおりです。以久の嫡孫・島津信久(忠仍(島津豊久公の弟の島津忠仍(東郷重虎)とは同名の別人),久信)が佐土原藩を継がずに、島津以久から大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の
垂水城を本拠地とする垂水島津家を継承したことから、佐土原藩の家督と領土は以久の三男・島津忠興の系統が継ぎました。
  領土とは別にせめて家系としても、薩摩藩藩庁は島津忠仍(東郷重虎)家久公 ・ 島津豊久の後を継ぐことを命じましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠仍等によれば、島津忠仍(東郷重虎)は病身を理由にこれも断り、その代わりに薩摩国鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の
鹿籠桜之城城主・喜入(きいれ)忠続の子で娘婿の忠栄に継がせました。この島津忠栄(喜入忠栄)の系統が、薩摩国永吉郷の私領主となり、一所持という薩摩藩の重臣の家格の家・永吉島津家になりました。後にその系統も血が絶えたため、島津氏18代当主・島津忠恒(家久)の子・島津久雄が継ぎ、江戸時代幕末まで一所持の家格の家として存続しました。一所持とは、江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワーク制度である外城制の下で、地方行政区域「郷」を私領主として治めることを許された重臣の家格です。永吉島津家江戸時代に、代々、薩摩国永吉郷(現・日置市吹上町地域 ・ 永吉地域)を統治しました。永吉郷の政治・軍事の中心だった永吉武家屋敷群の中心が、永吉麓御仮屋です。
  公共交通機関での行き方は、2013年10月現在JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「伊集院(地図)−小野・永吉麓(地図)・吉利経由−伊作(地図)」路線のバス路線で、「永吉麓」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  上述のJR九州 ・ 鹿児島本線伊集院駅地図)には、九州新幹線ならびに肥薩おれんじ鉄道川内(せんだい)駅地図)、または九州新幹線鹿児島中央駅地図)で鹿児島本線の電車に乗り換えれば行くことができます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、空港アクセス・バスに乗れば、九州新幹線ならびにJR九州 ・ 鹿児島本線鹿児島中央駅地図)や川内(せんだい)駅地図)に行くことができます。いずれかの駅でJR九州 ・ 鹿児島本線の電車に乗れば、上述の湯之元駅地図)や伊集院駅地図)に行くことができます。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)などがあります。
  日置市吹上町地域日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史観光スポットには、
亀丸城(伊作城)跡,  南郷城(野首城)跡,  多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地),  海蔵院跡,  大汝牟遅神社があり、日置市吹上町地域 ・ 永吉地域の永吉島津家ゆかりの歴史スポットは、梅天寺跡(島津家久公の墓),  天昌寺跡(永吉島津家歴代墓),  永吉麓御仮屋跡があります。また、日置市吹上町地域の歴史観光スポットにはにはこの他、亀丸城(伊作城)跡等の永吉日新斎(じっしんさい)島津忠良公関連の歴史スポットや、中島常楽院,  吹上歴史民俗資料館,  黒川洞穴遺跡もあります。)

上述以外の歴史系観光スポット
(上述以外の日置市吹上町地域の歴史遺産系観光スポットは、日置市観光協会ホームページや、日置市ホームページ ・ 「指定文化財一覧表」のページに載っています。公共のHPにはリンク切れのリスクがありますが、将来リンク切れになっていたら、googleでの、日置市ホームページ上のキーワード「指定文化財」の検索結果画面で移転先ページ(画面)をお探し下さい。)

隣接エリア:(当HP内の)南さつま市観光案内
(リンク先は(当HP内の)南薩観光案内南さつま市部分です。日置市吹上町地域は中薩(中薩摩)に分類される場合だけでなく南薩(南薩摩)に分類される場合もあり、地理的にも、また歴史観光周遊の上でも、南薩,  特に南さつま市と縁が深いです。特に、戦国時代島津氏中興の祖・日新斎(じっしんさい)島津忠良(しまづ ただよし)公ゆかりの周遊観光スポットには、以下の表のようなものがあります。)
日新斎(じっしんさい)島津忠良公ゆかりの周遊観光スポット
地域 城址・史跡 地域の博物館
日置市吹上町地域 亀丸城跡(伊作城跡) 吹上歴史民俗資料館
多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地)
海蔵院跡
大汝牟遅神社
南さつま市金峰町地域 亀ヶ城趾 南さつま市歴史交流館金峰
南さつま市加世田市地域 別府城跡(加世田城跡) 加世田郷土資料館(南さつま市郷土資料館)
竹田神社

日置市旧吹上町地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市吹上町」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市旧吹上町地域以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・温泉宿予約】吹上温泉の温泉宿一覧

(当HP内の)日置市旧吹上町地域の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市旧吹上町地域の温泉案内欄。)

(当HP内の)吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の吹上温泉郷(旧称:伊作温泉)案内欄。)


○  日置市吹上町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市吹上町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて伊集院駅に行くか、もしくは九州新幹線の終点・鹿児島中央駅に行き、伊集院駅鹿児島市から鹿児島交通の路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに鹿児島交通の路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


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日置市
(ひおきし)
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祁答院町地域
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甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
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薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)





日置市日吉町地域>

(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)

園林寺跡(おんりんじあと;小松帯刀の墓)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町吉利。Tel.:099-296-2111(日置市吹上支所地域振興課)。鹿児島県ホームページでも小松帯刀が眠る園林寺跡(おんりんじあと)として(リンク先URLは2011年1月現在,将来リンク切れになったら、このリンク先のgoogle検索条件でお探し下さい)、ゆっくり悠・遊 観光かごしまでも日置市 日吉 まち歩きマップの中で(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも園林寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会WEBサイトでも小松帯刀,  園林寺跡の中で(リンク先URLは2011年5月現在)ciao! ciao!でも小松帯刀の墓として紹介されています。
  
園林寺跡には、薩摩藩家老として明治維新で活躍し、近年では平成20年(2008年)のNHK大河ドラマ「篤姫」で知名度が急上昇した、維新の十傑の中の1人・小松帯刀(小松清廉)の墓があります。小松帯刀について詳しくは、(当HP内の)NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介ページ(画面)内の小松帯刀欄でご参照いただけます。
  幕末に活躍した上述の小松帯刀は、加治木肝付(きもつきし)氏(喜入肝付氏)出身で養子相続した小松氏(禰寝(ねじめ)氏)当主で、薩摩藩内では大久保利通西郷隆盛、他藩では坂本龍馬達と力を合わせて明治維新を推進しました。
坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行では、栄之尾温泉で湯治中だった小松帯刀坂本龍馬が訪れて行ったエピソードはよく知られています。
  薩摩藩は明治時代初めに過度の廃仏毀釈で藩内の寺院が藩主や重臣の菩提寺も含めて全滅してしまい、重臣の家系である小松家(禰寝氏)の歴代墓所があった
園林寺も、残念ながら廃寺になってしまいました。今日でも園林寺跡小松家(禰寝氏)歴代墓所が残っており、そこに小松帯刀と妻お近が眠っています。園林寺跡では、単に墓が残っているだけでなく、日置市特産の日置瓦を屋根に用いた案内板で小松帯刀の功績等が紹介されている他、木製ベンチ,テーブルが置かれた休憩所があるとの由です。
  禰寝(ねじめ)氏(小松氏)の墓は、安土桃山時代までの禰寝氏の旧領・大隅国  禰寝院があった大隅半島南部の鹿児島県 ・ 南大隅町佐多町地域
郡の中世古石塔群(禰寝氏累代の墓(初代〜4代))鹿児島県 ・ 南大隅町根占町(ねじめちょう)地域禰寝家の墓(5代〜16代)があります。また、安土桃山時代禰寝氏が転封された後に私領主として江戸幕府を通じて統治した薩摩国  吉利(よしとし)郷があった薩摩半島鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域に、園林寺跡(小松帯刀など禰寝氏(小松氏)歴代(17代以降)墓所)があります。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域小松帯刀ならびに小松家(禰寝氏)関連の観光スポットには、
園林寺跡(小松帯刀など禰寝氏(小松氏)歴代墓所),  清浄寺(しょうじょうじ)(小松帯刀銅像),  吉利(よしとし)御仮屋跡,  鬼丸神社(日置市)が、あります。
  
園林寺跡への公共交通機関での交通・アクセスは、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)、もしくは南薩(南薩摩)南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図)) ・ 枕崎市(「枕崎(駅前) 」バス停(地図))から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)・加世田(地図)−さつま湖経由−伊集院(地図)・伊集院高校」路線の路線バスに乗り、「吉利北区」バス停(地図)下車、徒歩になります。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。)

清浄寺(しょうじょうじ,真宗大谷派)の場所(小松帯刀銅像)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町吉利3018。Tel.:099-292-2187。日置市観光協会WEBサイトでも小松帯刀の中で(リンク先URLは2011年5月現在)ゆっくり悠・遊 観光かごしまでも日置市 日吉 まち歩きマップの中で(リンク先URLは2011年5月現在)日本気象協会 tenki.jpでも小松像(清浄寺版)として紹介されています。
  清浄寺(しょうじょうじ)は鹿児島県日置市旧日吉町地域にある、浄土真宗大谷派の寺で、2008年大河ドラマ「篤姫」で知名度が上がった明治維新の功労者・小松帯刀の小松家の、現代の菩提寺です。小松帯刀について詳しくは、
(当HP内の)NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介ページ(画面)内の小松帯刀欄でご参照いただけます。
  清浄寺には、2007年12月に、小松帯刀の銅像が建てられました。このため、小松帯刀の小松家の私領だった、日置市旧日吉町地域の旧吉利郷における、小松帯刀関連観光スポットになっています。
  元々は小松家の菩提寺は江戸時代には園林寺(園林寺跡)だったのですが、薩摩藩領では明治時代の初めに、藩主菩提寺も含めて1寺も残さずに寺が一時は全滅した程の激しい廃仏毀釈が行われたため、残念ながら園林寺も廃寺になってしまいました。このため、明治以降にこの地に建立(こんりゅう)された清浄寺が、小松家の新たな菩提寺になりました。
  薩摩藩では、江戸時代の一国一城令下に鹿児島城(現・鹿児島市)以外の全ての城を廃城せざるを得なくなった時代、外城制度と呼ばれる武家屋敷群を各地に設け、実質的な支城ネットワークにしていました。この武家屋敷群(「麓」と呼ばれました)を中心にした「郷」が行政単位でもあり、麓武家屋敷群を地頭が治めていました。地頭には、「郷」を私領として治める私領領主の地頭と、藩直轄領を行政官として派遣されて治める「サラリーマン地頭」とがいました。小松家は、「一所持」と呼ばれる、最高で家老にまで出世可能な重臣の家系で、私領領主として吉利郷を治めていました。このため、日置市旧日吉町地域の吉利エリアは、小松帯刀ゆかりの地になります。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域小松帯刀ならびに小松家(禰寝氏)関連の観光スポットには、
園林寺跡(小松帯刀など禰寝氏(小松氏)歴代墓所),  清浄寺(しょうじょうじ)(小松帯刀銅像),  吉利(よしとし)御仮屋跡,  鬼丸神社(日置市)が、あります。
  公共交通機関での交通・アクセスは、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)、もしくは南薩(南薩摩)南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図)) ・ 枕崎市(「枕崎(駅前) 」バス停(地図))から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)・加世田(地図)−さつま湖経由−伊集院(地図)・伊集院高校」路線の路線バスに乗り、「吉利農協前」バス停(地図)下車、徒歩になります。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。)


吉利御仮屋跡の場所,南谷城跡の場所(現・吉利小学校;小松帯刀関連スポット)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利4329。Tel.:099-273-2111。日置市観光協会WEBサイトでも小松帯刀の中で(リンク先URLは2011年5月現在)幕末史蹟研究会 mitsuya研究室のブログでも日置市−Tの中で、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベースでも南谷城跡として、お城の旅日記でも薩摩 南谷城(吉利麓)として、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも吉利麓として、鹿児島みてある記−歴史散歩−でも2007 吉利麓 01,  2007 吉利麓 02,  2011 吉利麓・秋として紹介されています。
  
吉利御仮屋跡は、鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域吉利にある、小松帯刀関連スポットの中の一つです。小松帯刀は、幕末 ・ 明治維新期の薩摩藩家老として明治維新の実現に貢献した、明治維新の偉人の中の1人で、2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」で知名度が上がりました。小松帯刀について詳しくは、(当HP内の)NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介ページ(画面)内の小松帯刀欄でご参照いただけます。
  薩摩藩では、江戸時代一国一城令下に
鶴丸城(鹿児島城)(現・鹿児島市)以外の全ての城を廃城せざるを得なくなった時代、外城(とじょう)制と呼ばれる「武家屋敷群を各地に設け、実質的な支城ネットワークを構築する」ことをしていました。この武家屋敷群は「」と呼ばれ、武家屋敷群を中心にした「郷」が行政区画となっていました。
  「郷」には、「郷」を私領主として治めることが許された、「一所持」と呼ばれる重臣の家格の家臣の私領の「郷」と、地頭という行政官が治める「郷」とがありました。当時の吉利郷は、禰寝氏(小松氏)の私領でした。禰寝氏(小松氏)は、元々、安土桃山時代までの間は、大隅国禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町(さたちょう)地域錦江町(きんこうちょう)田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市(かのやし)鹿屋市地域の一部、等))の国人領主だった禰寝氏第17代当主・禰寝重張(重虎)が、文禄5年(1596年)の太閤検地島津氏配下の武将達が、島津氏領内で軒並み父祖伝来の地からの配置転換の転封を余儀なくされた際に、現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域にあった
富田城,  国見城から移って来たものです。禰寝重張(重虎)は、新たな所領・吉利郷に南谷城を築き、この南谷城が、後の一国一城令の際に、そのまま吉利御仮屋に移行したとの由です。
  禰寝氏(小松氏)禰寝院に戻ることなく江戸時代を通じて、前述のとおり、一所持と呼ばれる重臣の家格の薩摩藩士の家として、吉利郷を統治しました。江戸時代の途中で、禰寝氏小松氏と改姓しました。小松家は「一所持」という重臣の家格の家でしたので、小松帯刀が家老になったように、最高で家老職まで出世可能な家格の家でもありました。小松帯刀は、同じく「一所持」の重臣の家である喜入肝付(きもつき)氏の家に生まれて、婿養子として養子相続して小松家の当主になりました。
  御仮屋(おかりや)とは、武家屋敷群のトップ・リーダーである地頭の、役所(兼)屋敷で、今日で申せば市町村役場(兼)警察署(兼)軍駐屯地司令部(兼)公邸のような所です。「」は、文字どおり、一国一城令で廃城になった中世の山城の麓に設けられた場合が多いのですが、吉利の場合には、先述のとおり
南谷城が、廃城にならないまま吉利御仮屋に変わりましたので、吉利が麓となる中世の山城は無かった模様です(もしかしたらあったのかも知れませんが、調べても、見つけられませんでした)。小松帯刀が統治した吉利郷の御仮屋は、今日の吉利小学校の場所にありました。今日でも、吉利小学校の周囲には、吉利の武家屋敷の街並みが並んでいるとの由です。
  公共交通機関での交通・アクセスは、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)、もしくは南薩(南薩摩)南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図)) ・ 枕崎市(「枕崎(駅前) 」バス停(地図))から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)・加世田(地図)−さつま湖経由−伊集院(地図)・伊集院高校」路線の路線バスに乗り、「吉利農協前」バス停(地図)下車、徒歩になります。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。)


鬼丸神社の場所(小松帯刀関連スポット)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒899-3203 鹿児島県日置市日吉町吉利4827。Tel.:099-273-2111(日置市役所)。ゆっくり悠・遊 観光かごしまでも日置市 日吉 まち歩きマップの中で(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会WEBサイトでも鬼丸神社として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県神社庁ホームページでも鬼丸神社として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。
  
鬼丸神社は、鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域吉利(よしとし)エリアにある神社で、薩摩藩  家老として西郷隆盛大久保利通らと共に明治維新を推進した明治維新の偉人の1人で、2008年NHK大河ドラマ「篤姫」で知名度が上がった小松帯刀(小松清廉)ゆかりの、日置市の観光スポットの中の一つです。通称を「鬼丸殿(オイマンドン)」と言うとの由です。
  と申しても、小松帯刀自身が建立(こんりゅう)したりした訳ではありません。小松家(禰寝家)は、最高で家老職まで出世可能で、「郷」という地方行政単位を私領主として統治する「一所持」と呼ばれる家格の重臣の家でした。小松帯刀は、同様に「一所持」の家格の喜入肝付(きもつき)氏の出で、婿養子として小松家(禰寝家)を養子相続して小松家(禰寝家)当主となり、薩摩藩  家老になりました。
  小松帯刀が養子に入ったこの小松氏は、元々の名字を禰寝(祢寝,ねじめ)氏と名乗っていた平姓(平氏)の家系で、戦国時代までは大隅半島南端の根占(ねじめ)の地(現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町(ねじめちょう)地域)を中心にして、今日の鹿児島県 ・ 錦江町(きんこうちょう)南大隅町を統治していた豪族でした。安土桃山時代豊臣秀吉政権の太閤検地で禰寝氏吉利の地に移封となり、江戸時代を通じて吉利の地を私領として領有しました。禰寝氏は、江戸時代半ばに、先祖に当たるとする平重盛の号にちなんで、苗字を「小松氏」に変更しました(実は、姓ではなく、建部姓だという説があります)。
  
鬼丸神社は、戦国時代禰寝(祢寝,ねじめ)氏(=小松氏)の第16代当主・禰寝右近太夫重長を御祭神として祀る神社です。吉利の地を私領として領有しました。禰寝氏がまだ大隅半島にいた頃に、禰寝重長は戦では剛勇で、内政では善政を布いて慕われたとの由です。その子・吉利の地を私領として領有しました。禰寝重張が、父の霊を祀るべく建立(こんりゅう)したのが鬼丸神社であるとの由です。最初は大隅半島の根占に建立されましたが、禰寝氏吉利に移封されたことに伴い、鬼丸神社吉利の地に遷座されました。したがって、鬼丸神社は、小松帯刀の義理の祖先が祀られている神社だ、ということになります。日置市の市指定文化財でもあります。
  御祭神としては禰寝重長の他、建部大明神,稲荷大明神,山王権現も祀られているとの由です。
  元々の根占(現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域)にあった時期の社地には、今日でも元々のオリジナルな
鬼丸神社(南大隅町)が残っています。また、上記の御祭神の内、「建部大明神」については、南大隅町根占町地域には禰寝氏の氏神様の神社・建部神社があり、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 第8回 大隅郡 小根占郷および大根占郷によれば、この建部神社江戸時代の名称は建部大明神社です。このため、建部神社(旧・建部大明神社)吉利郷に分祀して持ってきた上で、鬼丸神社(日置市)に合祀したのではないか、と推測しております(注:これは推測です。確認した上での事実ではありません。)。
  なお、建部禰寝氏禰寝氏)の戦国時代までの歴史について詳しくは、当ホームページ内の
富田城紹介欄,  国見城紹介欄で、ご参照可能です。また、鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域の方の鬼丸神社(南大隅町)については、当ホームページ内の鬼丸神社(南大隅町)紹介欄で、ご参照可能です。
  
日置八幡神社と並んで、お田植え祭り「せっぺとべ」が行われる会場としても、知られています。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域小松帯刀ならびに小松家(禰寝氏)関連の観光スポットには、
園林寺跡(小松帯刀など禰寝氏(小松氏)歴代墓所),  清浄寺(しょうじょうじ)(小松帯刀銅像),  吉利(よしとし)御仮屋跡,  鬼丸神社(日置市)が、あります。
  公共交通機関での交通・アクセスは、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)、もしくは南薩(南薩摩)南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図)) ・ 枕崎市(「枕崎(駅前) 」バス停(地図))から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)・加世田(地図)−さつま湖経由−伊集院(地図)・伊集院高校」路線の路線バスに乗り、「吉利北区」バス停(地図)下車、徒歩になります。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。)


日置八幡神社
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも日置八幡神社,  せっぺとべとして、日置市観光協会WEBサイトでも八幡神社として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県神社庁ホームページでも八幡神社として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。鬼丸神社と並んで、お田植え祭り「せっぺとべ」の会場として、知られています。)

深固院跡(しんこいんあと)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町吉利7585-1。Tel.:099-273-2111(日置市商工観光課)。日置市観光協会WEBサイトでも深固院跡として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも深固院跡(しんこ団子発祥の地)として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも深固院跡として、全国旅そうだんでも深固院跡として紹介されています。
  深固院跡(しんこいんあと)は、鹿児島県日置市旧日吉町地域にある薩摩禅宗の開祖石屋真梁和尚開山の寺院跡で、本尊は釈迦如来でした。石屋真梁和尚が元中3年(1368年)に深固岳の北麓に草庵を結んで布教を始めたのが始まりです。一旦寺はなくなりましたが、貞亨3年(1686年)に、吉利郷私領主で薩摩藩家老になった禰寝(ねじめ)氏第21代当主の禰寝清雄(ねじめ きよかつ)が再興し、釈迦如来の他に、禰寝氏の祖先とされる平重盛の像も安置したとの由です。
  その後、薩摩藩領では過度の廃仏毀釈のために領内の寺院が一旦は1寺も残さずに全滅し、この影響で名刹・深固院も再び廃寺になってしまいました。が、鹿児島県では地域の名産のお菓子「しんこ団子」発祥の地としても知られています。「しんこ団子」は、飢饉の際に、石屋真梁和尚が落穂を拾い、籾を粉にして餅をついて醤油をかけて焼き、皆を飢饉から救ったことが起源だとされている団子であるとの由です。「しんこ団子」は、深固院祭り(毎年11月下旬)を始めとする町内各地のイベントなどで販売されるとの由です。
  公共交通機関でのアクセスは、2012年1月現在、「市立病院・日吉支所−永吉麓」間の鹿児島交通が運行受託しているコミュニティ・バスで、「深固院」バス停下車です。お車で行く場合には、南九州西回り自動車道・伊集院ICより車で20分、鹿児島市からは車で40分です。鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線沿線になります。
  以下のリンク先については、2011年5月現在、残念ながら「しんこ団子」を取り扱っている旨を検索できませんでしたが、鹿児島の郷土菓子全般については、お求めいただくことができます。)
【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)


光禅寺跡の場所(この辺り)(島津歳久公夫人、島津常久夫妻の墓)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町日置352。日置市観光協会WEBサイトでも光禅寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)カゴシマニアがゆくでも【戦国島津】光禅寺跡として、日置市商工会ホームページでも日吉町の見どころの中で(リンク先URLは2012年3月現在)鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも光禅寺跡として紹介されています。
  光禅寺跡は、日置市日吉町町地域にある廃寺の跡で、島津氏庶流(分家)で薩摩藩の名門重臣の家系だった日置島津家の、島津歳久公夫人、島津常久夫妻などの墓があります。戦国時代島津氏第15第当主・島津貴久公の三男で戦国武将として名高い島津四兄弟の中の1人・島津歳久公の夫人・悦窓院が、慶長7年(1602年)に瑞岳和尚を招いて建立(こんりゅう)した寺院が、瑞喜山光禅寺との由です。残念ながら過度の廃仏毀釈によって廃寺になってしまいましたが、光禅寺跡には、その島津歳久公夫人の他、日置島津家第2代当主・島津常久とその夫人、などの日置島津家ゆかりの人や、殉死した家臣の墓があるとの由です。なお、島津常久は日置島津家第2代当主ですが、その父・島津忠隣が世子(跡継ぎ)のまま戦死してしまったために世代的には3代目です。
  記念物(史跡)として、日置市の市指定文化財に指定されています。
  公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・伊集院駅から鹿児島交通の「伊集院高校・伊集院−加世田」間、「伊集院高校・伊集院−加世田・枕崎」間、「伊集院−伊作」間等の路線バスに乗り「日置」バス停下車、もしくはJR鹿児島本線・湯之元駅からいわさきバスネットワークの「湯之元−日置」路線バスに乗り「天神ケ尾入口」バス停下車、徒歩です。
  日置島津家について詳しくは、当画面(当ページ)内の下方(後方)の
日置麓御仮屋跡欄をご参照下さい。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域の、かつての日置郷地域にある、日置島津家関連の歴史系観光スポットには、
日置麓御仮屋跡,  大乗寺跡,  光禅寺跡,  桂山寺跡がありますので、併せて周遊可能です。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

桂山寺跡の場所(島津忠隣、赤山靭負の墓)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町日置352。日置市観光協会WEBサイトでも桂山寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)カゴシマニアがゆくでも【戦国島津】桂山寺跡(日置市)として、ワシモ(WaShimo)のホームページでも赤山靭負〜島津歳久の末裔たち(1)として、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも桂山寺跡として紹介されています。
  桂山寺跡には、日置市日吉町町地域にある廃寺の跡で、島津氏庶流(分家)で薩摩藩の名門重臣の家系だった日置島津家で、島津歳久公の婿養子で世子(跡継ぎ)のまま戦死した島津忠隣の墓と、日置島津家出身の幕末薩摩藩重臣・赤山靭負(あかやま ゆきえ)の墓があります。
  島津忠隣は、戦国時代島津氏第15第当主・島津貴久公の三男で戦国武将として名高い島津四兄弟の中の1人・島津歳久公の婿養子です。島津歳久公には男子が無かったため、戦国時代島津氏の有力庶流(分家)の薩州家(薩州島津氏)から、薩州家第6代当主・島津義虎の次男・島津忠隣を婿養子に迎えて世子(跡継ぎ)にしました。ところが、天正15年(1587年)に、豊臣秀吉九州征伐の一環としての「根白坂の戦い」で世子(跡継ぎ)のまま島津忠隣が戦死してしまったため、島津歳久公の子孫の家である日置島津家の2代目は、島津忠隣の子であり島津歳久公の孫である島津常久が継ぎました。
  桂山寺は、この日置島津家第2代当主・島津常久(世代的には3代目)が、一岳等忍和尚に寺を再興させて、亡き父・島津忠隣の菩提寺にしたとの由です。
  赤山靭負は、日置島津家12代当主で薩摩藩家老を務めた島津久風(しまづ ひさかぜ)の次男で、幕末薩摩藩の重臣です。名門出身の家臣として供目付、鑓(やり)奉行、軍役方掛を歴任しました。薩摩藩第10代藩主で島津氏(宗家)第27代当主の島津斉興公が、当時は世子だった名君・島津斉彬公になかなか後を継がせないでいた時期に、赤山靭負島津斉彬公の藩主就任を願う一派の中心人物でした。このため、島津斉彬公と、その弟・島津忠教(ただゆき,後の久光)公のどちらを藩主にするかを巡って生じた薩摩藩お家騒動お由羅騒動」で、赤山靭負は切腹を命じられてしまいました。
  西郷隆盛の父・西郷吉兵衛が、御用達として出入りしていたことから赤山靭負の切腹時の介錯を依頼され、赤山靭負の血染めの肌着を西郷吉兵衛が貰い受けて西郷隆盛に与えて、その最期を伝えたとの由です。西郷隆盛赤山靭負の生き方に大いに共感したことから、赤山靭負は、西郷隆盛に影響を与えた先人の中の1人として知られています。
  桂山寺は、残念ながら廃仏毀釈で廃寺になってしまいましたが、上述のとおり、島津忠隣の墓と、赤山靭負の墓があります。なお、日置島津家について詳しくは、当画面(当ページ)内の下方(後方)の
日置麓御仮屋跡欄をご参照下さい。
  記念物(史跡)として、日置市の市指定文化財に指定されています。
  公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・伊集院駅から鹿児島交通の「伊集院高校・伊集院−加世田」間、「伊集院高校・伊集院−加世田・枕崎」間、「伊集院−伊作」間等の路線バスに乗り「日置」バス停下車、もしくはJR鹿児島本線・湯之元駅からいわさきバスネットワークの「湯之元−日置」路線バスに乗り「天神ケ尾入口」バス停下車、徒歩です。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域の、かつての日置郷地域にある、日置島津家関連の歴史系観光スポットには、
日置麓御仮屋跡,  大乗寺跡,  光禅寺跡,  桂山寺跡がありますので、併せて周遊可能です。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

城の下物産館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:日置市日吉町日置2865-7、Tel.:099-292-5890。日置市観光協会WEBサイトでも城の下物産館として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)、販売されている製品については、かごぐり日記でもかごしま直売所フォーラムの中で紹介されています。)

吉利物産店の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-3203 日置市日吉町吉利1022、Tel.:099-292-5256。日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)吉利中区自治体でも吉利物産店として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

小正醸造株式会社
鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも小正醸造日置蒸留蔵として(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会WEBサイトでも小正醸造として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。小正醸造の焼酎は、以下のリンク先でお求めいただけます。)
→   【楽天市場】山形屋オンラインショップでのキーワード「小正醸造」の検索結果
【楽天市場】キーワード「小正醸造+鹿児島+しまづ屋」の検索結果
【楽天市場】キーワード「小正醸造+鹿児島」の検索結果

日置市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。


(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)


○  日置市日吉町町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市日吉町町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて伊集院駅等の駅に行き、そこから鹿児島交通,  いわさきバスネットワークの路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに鹿児島交通の路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


当ページ(当画面)内の目次
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日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
(いりきちょう)
東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)




日置麓御仮屋跡,古垣城跡の場所
ならびに
日置城跡(松尾城跡,山田城跡)の場所(この辺り)
(リンク先は、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 松尾城跡,  古垣城跡,  お仮屋跡に基づくアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:日置麓御仮屋跡,古垣城跡については、鹿児島県日置市日吉町日置493番地,松尾城跡については、鹿児島県日置郡日吉町日置城の下。Tel.:099-273-2111(日置市商工観光課)。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも松尾城跡,  古垣城跡,  お仮屋跡として、Country Home on the Hillでも日置の歴史その1、松尾城として、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも日置麓として、お城の旅日記でも薩摩 古垣城(日置麓)として紹介されています。
  
日置麓御仮屋跡は、日置市日吉町町地域日置地区(旧・薩摩国 日置郷)にある、江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城(とじょう)制における日置の御仮屋(地頭仮屋)の跡です(外城制に関する説明は、後述します)。古垣城跡松尾城跡は、日置と関連の深い中世城郭遺構です。外城制について解説します。江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。御仮屋とは、武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設です。また、武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。城鑑賞の旅・二人で城ある記 城(お城・城郭)・宮殿・城下町・歴史遺構など、熟年夫婦の城巡りの報告 ・ 島津 外城(麓)の地図によれば、日置は、松尾城跡の麓に設けられたとの由ですが、お城の旅日記 ・ 薩摩 古垣城(日置麓)によれば、日置麓御仮屋跡古垣城跡と同じ場所にありますので、日置麓御仮屋は特定の中世山城跡の麓にあった訳ではなく、中世城郭遺構の跡地がそのまま近世の御仮屋になった可能性もあり得ます。いずれが正しいのか、それとも合わせ技であって両方とも正しいのかは、存じ上げません。各「外城(麓)」で「郷」を統治する武士の見地から「郷」を分類すれば、一所持と呼ばれる家格の重臣が私領主として統治する「郷」と、薩摩藩直轄領であり、藩庁の役人が藩官僚「地頭」として統治する「郷」とが、ありました。日置郷の場合、島津氏庶流の日置島津家(日置島津氏)が私領主として統治する「郷」でした。日置麓御仮屋跡(古垣城跡)は、今日の日置市立日置小学校地図の場所にありました。
  日置島津家の解説を行う前に、
日置麓御仮屋に関連する2城について解説します。2城の内、日置麓御仮屋の前身とも言える古垣城は、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 古垣城跡によれば康永元年(1342年)築城との由であり、また、お城の旅日記 ・ 薩摩 古垣城(日置麓)によれば、古垣氏によって築城されたとの由で、南北朝時代の康永2年(1343年)の城主・古垣(江田)良心が、薩摩国伊集院(現・鹿児島市 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)城主・伊集院忠国と戦って敗れたとの由ですので、南北朝時代には既に存在していた城であることになります。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 松尾城跡によれば、松尾城は、鎌倉時代初期の文治元年(1185年)に小野氏によって築城されたとの由であり、以降、城主は小野氏.日置氏.山田氏を経て島津氏になったとの由です。
  
日置城(松尾城)が歴史に登場するのは、戦国時代島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の初期に起きた、島津氏庶流の薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の嫡子・島津貴久公が、島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いで第15代当主になると、これを快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久が同年・大永7年(1527年)に謀反を起こして生じた、島津氏宗家の座を巡る島津氏の内紛・内ゲバ抗争の際です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この抗争が始まる前年の大永6年(1526年)、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ際に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、後述するとおり、後日、日置城(松尾城)島津実久に降された時の城将は山田有親ですので、日新斎島津忠良公に与えられた時の日置城(松尾城)城主は、与えられる以前から継続して山田氏であり、山田氏にとっては、主君が変更になった点だけが異なる状況であった模様です。
  当段落以降の3段落の内容の経緯については、この3段落で述べる以外のことについて詳しくは当画面(当ページ)上方の
亀丸城(伊作城)紹介欄で解説したとおりですので、省略し、概要のみを述べます。この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。
  一度は日新斎島津忠良公と島津貴久公を裏切って島津実久側についた島津勝久公は、天文4年(1535年)に島津実久と再び仲違いしましたが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の
頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  以降で、
日置城(松尾城)について詳述します。南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 〈122〉日向高城籠城戦の立役者・山田有信によれば(リンク先URLは2013年10月現在)、繰り返しになりますが、戦国時代の大永6年(1526年)〜天文14年(1545年)に行われた、上述の島津氏宗家の座を巡っての島津氏の内紛・内ゲバ抗争においては、日置城(松尾城)城主・山田蔵人有徳(くらんどありのり)(播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩山田氏によれば、山田有徳の父・山田有親)は島津実久側に付いてしまいましたが、天文2年(1533年)に日新斎島津忠良公に降伏したとの由です。日新斎島津忠良公は山田有徳(播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩山田氏によれば山田有親)を救いたかったのですが、家来達の反対にあったためにやむなく自害を命じたとの由です。その後、山田有徳(播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩山田氏によれば山田有親)を死に至らしめたことを後悔した日新斎島津忠良公は、その遺児・山田有信播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩山田氏によれば山田有徳)を取り立てて旧領を回復したとの由です。即ち、山田氏は再び日置城(松尾城)城主になったとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩山田氏,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 山田有信,ならびに南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 〈122〉日向高城籠城戦の立役者・山田有信によれば(リンク先URLは2013年10月現在)、その後、逆賊の子というマイナスの立場から人生を開始した山田有信は、各地の地頭を歴任しながら忠臣として活躍したとの由です。
  地頭職を歴任した場所について補足します。鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・ 鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第50集 西藩烈士干城録(二)p.15には、山田有信は、「轉徙日置・串木野・隈之城・高城 新納院・高原・宮城・福山・地頭職」とあります(「轉」は「転」の旧字体であり、「徙」は音読みが「シ」、訓読みが「うつ・る」、「うつ・す」であり、故に、「轉徙」は「転じて移る」の意味になりますので、この情報は今日の用語で申せば「転勤履歴」になります)ので、山田有信は、これら各地域の地頭職に就いた時期があることになります。また、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈122〉日向高城籠城戦の立役者・山田有信,  武将系譜辞典 ・ 嶋津家臣団,ならびにさつまの国の言い伝え ・ 山田昌巌の母にまつわる話等によれば、この他、隈之城と高城(新納院)との間に高江の地頭職に就いた時期もあったとの由です。日置とは、薩摩国 日置郡 日置(恐らくは山田も含めてのことと思量)(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字日吉町日置(+日吉町山田」))(城は
日置城(松尾城,山田城)))のことであり、山田氏の本領だった土地です。串木野は薩摩国 日置郡 串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)(城は串木野城)、隈之城は薩摩国 薩摩郡 隈之城(くまのじょう)(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字隈之城町」等)(城は二福城(隈之城))、高江は薩摩国 薩摩郡 高江(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)高江町」)(城は峰ヶ城(別名:嶺ヶ城,峰山城,高江城)地図鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索によれば、今日(2014年1月現在)薩摩川内市立峰山小学校地図),護国神社(地図),熊野神社(地図),高江法隆寺(地図)が城の範囲内)、高城 新納院は日向国新納院(にいろいん)(現・宮崎県 ・ 児湯郡東部 + 日向市 美々津(みみつ))高城(たかじょう)(現・宮崎県 ・ 児湯郡 木城町 大字高城)(城は高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう)))、高原は日向国 ・ 諸県郡(もろかたぐん) 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町)(城は高原城)のことです。宮城は詳細は不明ですが、「隈之城(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字隈之城町」等)」が当時の文献では「隈城」と表記される場合もあることに鑑(かんが)みて「宮之城」を「宮城」と表記したものであるという仮説を立てれば、「宮城」の読み方は「みやのじょう」と推測可能であり、その場所は、薩摩国 伊佐郡 宮之城(現・鹿児島県 ・ 薩摩郡 さつま町宮之城町地域)(城は虎居城)と推測可能です。福山は大隅国 囎唹郡(そおぐん) 福山フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 福山町によれば、旧称「廻(めぐり」の地名を島津氏が「福山」に改称;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域)(城は廻城めぐりじょう)です。これら山田有信の各「転勤の赴任地」の内、日向国新納院(にいろいん)の高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))については在城時期は明らかであり、宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)pp.76-78,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 高城(新納院),ならびに南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈122〉日向高城籠城戦の立役者・山田有信等によれば天正5年(1577年)から、宮崎県の歴史散歩pp.76-78,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 高城(新納院),  根白坂の戦い等によれば、豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れて天正15年(1587年)4月29日に城を明け渡して退去するまでの間の期間です。また、佐土原城 遠侍間(さどわらじょう とおざむらいのま) ・ 家久君上京日記 ・ 【その一】天正三年二月二十日 義久の許しを得て串木野を出発するによれば、天正3年(1575年)に串木野城城主時代の島津家久公が上洛した際に、往路の途中、2月20日に薩摩国 薩摩郡 高江(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)高江町」)で山田新介(山田有信)が用意した休憩所でお茶漬けを食べながら少々飲酒したとの由ですので、着任・離任時期は不明ながら、少なくとも天正3年(1575年)2月時点では、山田有信峰ヶ城(別名:嶺ヶ城,峰山城,高江城)地図にいたことが分かります。ですが、それ以外の城・赴任地については、どの時期にそこにいたのか、2014年10月時点では当ホームページ管理人は存じ上げません。
  山田有信は、特に、天正6年(1578年)に豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の
大友氏館城主・大友氏島津氏との間で行われた耳川の戦い(場所は現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)では、島津家久公と、日向国新納院(にいろいん)(現・宮崎県 ・ 児湯郡東部 + 日向市 美々津(みみつ))高城(たかじょう)(現・宮崎県 ・ 児湯郡 木城町 大字高城)の高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))の城将だった山田有信による高城新納院高城からの側面攻撃が、釣り野伏せと化して、劇的大勝利の要因の一つになる等の、戦史に残る武勲を挙げたことで知られています。この耳川の戦いの時点では、山田有信は、上述の高城新納院高城城主として当地の地頭でしたが、日置城(松尾城)との関係では、日置地頭と兼任して継続して日置城(松尾城)城主でもあったのか、それとも、完全に高城新納院高城に転じていて日置城(松尾城)からは去っていたのか、そのいずれであったのかは定かではありません。ただし、さつまの国の言い伝え ・ 山田昌巌の母にまつわる話には、山田有信高城新納院高城に赴任している時に、その妻が薩摩国 日置郡 日置にいた旨の伝承が載っているため、日置地頭と兼任していた可能性は否定できないと思いますが、「離任した上での単身赴任」だったり、「家族帯同赴任した上での、出産時の里帰り」だったりする可能性も、あり得ると思います。
  日置郷が次に歴史に登場するのは、日置島津家の移封(転封)です。日置島津家は、戦国時代島津氏第15第当主・島津貴久公の三男であり、戦国武将として名高い島津四兄弟の中の1人・島津歳久公に始まる家です。島津歳久公の外孫で島津歳久流の3代目の島津常久の代に日置郷の所領を賜り、日置島津家と呼ばれるようになりました。島津歳久公は、「金吾さあ」の愛称で、鹿児島では尊敬と親しみを集めています。
  島津常久は、父系では島津氏戦国時代の有力庶流家だった薩州家(薩州島津氏)の第6代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市)の
出水城城主の島津義虎の系統です。島津義虎の次男・島津忠隣が、男子に恵まれなかった島津歳久公の娘婿として島津歳久公の家の世子(跡継ぎ)になり、その島津歳久公の娘と島津忠隣との間に生まれた子が、島津常久です。ところが、島津常久誕生後わずか3ヶ月後に、豊臣秀吉九州征伐の一環としての根白坂の戦いで父・島津忠隣が世子のまま戦死してしまったため、祖父・島津歳久公によって、その時期の居城である、薩摩国祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城で養育されました。島津常久島津歳久公から見て3代目(孫)ですが、父・島津忠隣は後を継ぐ前に戦死してしまったため、日置島津家第2代当主という位置付けになります。
  島津歳久公は、天正8年(1580年)に大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の
吉田城松尾城から、上述のとおり薩摩国祁答院(けどういん)北部の宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)の虎居城に移って来ていました。上述のとおり島津常久の父は早死にしてしまったのですが、祖父である島津歳久公も、安土桃山時代天正20年7月18日(1592年8月25日)に豊臣秀吉の命によって自害に追い込まれてしまいました。この経緯について、次段落以降で述べます。
  天正6年(1578年)の耳川の戦い大友義鎮に勝って日向国全域を手中にしたことによって三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定を成し遂げた島津氏は、例えば島津家久公・有馬晴信連合軍が龍造寺隆信を討ち取った天正12年(1584年)の沖田畷の戦い等の結果、九州統一が実現間近な状況にまで至りました。これに対して、島津氏の勢力に圧迫を受けた豊後国戦国大名 ・ 大友義鎮(大友宗麟)豊臣秀吉に頼って危機回復を図ったことを契機として、豊臣秀吉による九州征伐(九州平定)が行われました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津歳久,  ならびにワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 特集/金吾さぁ 島津歳久の史跡を訪ねて ・ 島津歳久の生涯(2) 秀吉の九州征伐 〜 自害までによれば、九州征伐(九州平定)に対して島津家中で抗戦論が主流になる過程で、島津歳久公だけが、「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」として豊臣秀吉を高く評価し、和平論を述べたとの由です。後に徹底抗戦派となった島津歳久公は、開戦前はむしろ和平派だったことになります。
  九州征伐(九州平定)では、当初、豊臣秀吉本人が出陣する前の時点の戸次川(へつぎがわ)の戦い島津家久公が勝利するなどの局面もありましたが、中央政権の日本全体を敵にして叶う訳もなく、最終的に島津氏は敗れてしまい、島津義久公が薩摩国 高城郡 水引宮内(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)宮内町」)の
泰平寺豊臣秀吉に降伏しました。ところが、この島津義久公が降伏してから後の時点では、島津歳久公は最後まで降伏を是とせずに豊臣秀吉に反抗してしまいました。天正15年(1587年)に島津義久公が豊臣秀吉に降った後でも、虎居城に立て籠もった島津歳久公が、その所領・祁答院の山崎城の近くで豊臣秀吉に矢を射かけた事件が起きています。この時、豊臣秀吉は、泰平寺がある薩摩国 高城郡 水引宮内(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)宮内町」)からの帰途でした。タイミング的に、島津義久公は降伏しても島津歳久公はまだ降伏する前のタイミングでのことであり、ワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 特集/金吾さぁ 島津歳久の史跡を訪ねて ・ 島津歳久の生涯(2) 秀吉の九州征伐 〜 自害までによれば、豊臣秀吉は、虎居城に一泊する旨を島津義久公に伝えていましたが、島津歳久公に断られたため、虎居城の少し手前の山崎城に入城していたとの由です。ワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 特集/金吾さぁ 島津歳久の史跡を訪ねて ・ 島津歳久の生涯(2) 秀吉の九州征伐 〜 自害までによれば、矢を射かける前日から、豊臣秀吉の斥候兵が島津歳久公方の軍勢の攻撃を受けて死亡者が出る事件が起きていましたが、既に島津義久公は降伏済だったこともあり、島津歳久公方とのこの衝突を黙殺して、豊臣秀吉一行は梅君ヶ城(現・さつま町鶴田町地域)への道を抜けようとしていたとの由です。その際、島津歳久公が付けた道案内がわざと山中の難所に豊臣秀吉一行を誘導して、矢を射かけたとの由です。
  ワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 特集/金吾さぁ 島津歳久の史跡を訪ねて ・ 島津歳久の生涯(2) 秀吉の九州征伐 〜 自害までによれば、豊臣秀吉は無事に通り抜けることに成功し、薩摩国鶴田(今日のさつま町鶴田町地域)の島津歳久公の側室、梅君の居城・
梅君ヶ城に入城し、島津義弘公はそこを訪れて降伏したとの由です。さらに豊臣秀吉は今日の伊佐市大口市地域地域の天堂ヶ尾関白陣に進み、島津氏の家臣で徹底抗戦派の武将・新納忠元(にいろ ただもと)の降伏をここで受けました。結局、島津氏の諸将の内、島津歳久公だけが最後まで豊臣秀吉に降伏しなかったことになります。
  その後、島津歳久公は、天正20年(1592年)の朝鮮出兵(文禄の役)の際にも病気を理由にして出兵しないなど豊臣秀吉に対して反抗的な態度を取り続けました(注:昔も今も、軍事上、出兵拒否は軍規違反かつ抗命行為の大罪です)。さらに、同年(文禄元年(1592年))6月に、肥後国 ・ 葦北郡(あしきたぐん)佐敷(さしき;現・熊本県 ・ 葦北郡(あしきたぐん) ・ 芦北町肥薩おれんじ鉄道沿線)の
佐敷城城代 ・ 加藤重次朝鮮出兵(文禄の役)で出陣している留守の機会に乗じて、島津氏の家臣・梅北国兼らの一団が、佐敷城を攻略して占拠した事件が起きてしまいました。この事件は梅北一揆と呼ばれる武装反乱事件であり、梅北一揆自体はやがて鎮圧されました。この梅北一揆島津歳久公の家臣が多く参加していたことから、上述の過去の「矢を射かけた」り「出兵拒否した」りした過去の経緯もあり、島津歳久公は梅北一揆の黒幕と見なされてしまいました。この結果、島津歳久公の処罰を豊臣秀吉から命じられた島津義久公は、心ならずも島津歳久公を征討せざるを得なくなり、島津義久公の追っ手に囲まれた島津歳久公は、今日の鹿児島市の竜ヶ水(りゅうがみず)で自害に追い込まれました。島津歳久公の墓に関する話については、当画面(当ページ)下方の虎居城紹介欄で詳述してありますので、そこをご覧下いただけます。
  島津歳久公夫人と長女はこの措置(=島津歳久公の死罪)を不服として、まだ幼かった島津常久を立てて薩摩国祁答院(けどういん)北部の宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)の居城・
虎居城に籠城してしまいました。細川幽斎(細川藤孝)島津氏宗家第16代当主の戦国大名 ・ 島津義久公は豊臣秀吉政権から謀反と見られかねない事態を重く見て、島津氏の重臣・新納忠元を派遣するなどして説得を試み、「島津常久が成人したら旧領を回復する」旨の条件で開城させました。ところが、「太閤検地が、島津氏の領国では中央政府(豊臣秀吉政権)の過度の内政干渉によって島津氏家臣団の所領変更を中央政府から強制される状況下で、島津歳久公旧領・薩摩国祁答院(けどういん)北部の宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)は島津氏有力庶流の北郷(ほんごう)氏(後の都城島津氏)の所領とならざるを得なかった」等の諸般の事情により、島津義久公は旧領回復の約束を果たすことが不可能になってしまいました。このような事情もあり、旧領の代わりに島津義久公が島津常久日置郷を賜ることになったことが、日置島津家日置郷を統治することになった経緯です。
  日置郷への移封(転封)時点で、当初の日置島津家が拠点としたのが、
松尾城(日置城)であったのか、古垣城であったのか、或いは古垣城は既に朽ち果てていたために当初から後の日置麓御仮屋を建築していたのか、については存じ上げません。ですが、ここで「日置麓御仮屋古垣城の跡地の上に立てられ、かつ、日置麓御仮屋松尾城(日置城)の麓の御仮屋である」という見方が成立するのであれば、この3城・館のどれに入城しても、大差はないことになろうかと思います。いずれにせよ、江戸時代一国一城令以降は、日置島津家日置麓御仮屋を拠点として日置郷を統治して、幕末 ・ 明治維新期に至りました。
  余談ですが、日置島津家の旧領・祁答院(けどういん)北部は、安土桃山時代末期の北郷氏統治時期に、北郷氏北郷氏自体の旧領・都城(みやこのじょう)(今日の宮崎県 ・ 都城市)を懐かしんだ結果、都城に似たような音の地名として所領を「宮之城(みやのじょう)」と名付けたことから、地名が今日まで残る「宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)」になったとの由です。この経緯からは、島津歳久公統治時期の宮之城は、まだ「宮之城」という地名ではなかったことになります。
  
日置麓御仮屋跡(古垣城跡)への公共交通機関での行き方は、2013年10月現在の路線では、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 湯之元駅地図)で下車して、「湯之元」バス停(地図)からいわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「湯之元(地図)−えぐち家(地図)経由−日置(地図)」間の路線バスに乗り、「麓」バス停(地図)下車、徒歩です。或いは、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図)、もしくは南薩(南薩摩)南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図))や、JR九州 ・ 指宿枕崎線枕崎駅地図)最寄りの「枕崎(駅前) 」バス停(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「伊集院高校・伊集院(地図)−さつま湖経由−加世田(地図)」間、「伊集院高校・伊集院(地図)−さつま湖経由−加世田(地図)・枕崎(駅前) (地図)」間、「伊集院(地図)−伊作(地図)」間等の路線バスに乗り、「日置」バス停(地図)下車で徒歩、或いは「日置」バス停(地図)で上述のいわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「湯之元(地図)−えぐち家(地図)経由−日置(地図)」間の路線バスに乗り換えて「麓」バス停(地図)下車、徒歩です。「日置」バス停(地図)からも徒歩圏内です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  上述のJR九州 ・ 鹿児島本線湯之元駅地図)や伊集院駅地図)には、九州新幹線ならびに肥薩おれんじ鉄道川内(せんだい)駅地図)、または九州新幹線鹿児島中央駅地図)で鹿児島本線の電車に乗り換えれば行くことができ、JR九州 ・ 指宿枕崎線枕崎駅地図)には、九州新幹線鹿児島中央駅地図)で指宿枕崎線の列車に乗り換えれば行くことができます。また、上述の南さつま市加世田(かせだ)市地域(加世田バスステーション(地図))には、鹿児島市山形屋(百貨店)バスセンターや鹿児島中央駅地図)、JR谷山駅等から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の伊作・加世田行きの路線バスに乗れば、行けます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、空港アクセス・バスに乗れば、九州新幹線ならびにJR九州 ・ 鹿児島本線鹿児島中央駅地図)や川内(せんだい)駅地図)に行くことができます。いずれかの駅でJR九州 ・ 鹿児島本線の電車に乗れば、上述の湯之元駅地図)や伊集院駅地図)に行くことができます。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
湯之元温泉OCEAN RESORT えぐち家,  湯之元温泉 旅館 江楽園,  旅館 春本荘等)があります。また、日置市の温泉地には、他にも、吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)があります。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域の、かつての日置郷地域にある、日置島津家関連の歴史系観光スポットには、
日置麓御仮屋跡,  大乗寺跡,  光禅寺跡,  桂山寺跡がありますので、併せて周遊可能です。)

大乗寺跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市日吉町日置5680。Tel.:099-273-2111(日置市商工観光課)。日置市観光協会WEBサイトでも大乗寺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも大乗寺跡として、ワシモ(WaShimo)のホームページでも旅行記 ・大乗寺跡と日置南洲窯− 鹿児島県日置市として、中島温泉旅館オフィシャルブログ3でも大乗寺跡(日置市日吉町),  日置南州窯♪として、カゴシマニアがゆくでも戦国島津ゆかりの地めぐりの旅〜島津歳久墓地・大乗寺跡編〜として紹介されています。
  大乗寺跡日置市日吉町町地域日置地区(旧・日置郷)にある廃寺跡で、江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城制度における私領主の地頭として日置郷を統治した、島津氏庶流の日置島津家歴代の墓地があります。
  日置島津家は、戦国時代島津氏第15第当主・島津貴久公の三男で戦国武将として名高い島津四兄弟の中の1人・島津歳久公に始まる家で、島津歳久公の外孫で島津歳久流の3代目の島津常久の代に日置郷の所領を賜り、日置島津家と呼ばれるようになりました。島津歳久公は、「金吾さあ」の愛称で、鹿児島では尊敬と親しみを集めています。
  島津常久は、父系では島津氏戦国時代の有力庶流家だった薩州家(薩州島津氏)の第6代当主・島津義虎の系統です。島津義虎の次男・島津忠隣が、男子に恵まれなかった島津歳久公の娘婿として島津歳久公の家の世子(跡継ぎ)になり、その島津歳久公の娘と島津忠隣との間に生まれた子が、島津常久です。ところが、島津常久誕生後わずか3ヶ月後に、豊臣秀吉九州征伐の一環としての根白坂の戦いで父・島津忠隣が世子のまま戦死してしまったため、祖父・島津歳久公によって養育されました。島津常久島津歳久公から見て3代目(孫)ですが、父・島津忠隣は後を継ぐ前に戦死してしまったため、日置島津家第2代当主という位置付けになります。
  この時期の島津歳久公の所領は祁答院(けどういん)北部の宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)にありましたが、その祖父・島津歳久公も安土桃山時代天正20年7月18日(1592年8月25日)に豊臣秀吉の命によって自害に追い込まれてしまいました。島津歳久公夫人と長女はこの措置を不服として、まだ幼かった島津常久を立てて宮之城の居城・虎居城に籠城してしまいました。細川幽斎(細川藤孝)島津氏宗家第16代当主の戦国大名 ・ 島津義久公は豊臣秀吉政権から謀反と見られかねない事態を重く見て島津氏の重臣・新納忠元を派遣するなどして説得を試み、「島津常久が成人したら旧領を回復する」旨の条件で開城させました。ところが、「太閤検地が、島津氏の領国では中央政府(豊臣秀吉政権)の過度の内政干渉によって島津氏家臣団の所領変更を中央政府から強制される状況下で、島津歳久公旧領・宮之城島津氏有力庶流の北郷(ほんごう)氏(後の都城島津氏)の所領とならざるを得なかった」等の諸般の事情により、島津義久公は旧領回復の約束を果たすことが不可能になってしまいました。このような事情もあり、旧領の代わりに島津義久公は島津常久日置郷を賜ることになったことが、日置島津家日置郷を統治することになった経緯です。
  上述の江戸時代薩摩藩の地方軍事・行政ネットワークである外城制(とじょうせい)においては、薩摩藩領内を「郷(後の市町村に相当)」に分けた上で各郷に「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群を設けて軍事・行政の中心地に、「一国一城令による各藩領内支城を廃城にした後の、実質的な支城ネットワーク」と化していました。各「郷」を統治する地頭には、その「郷」を私領主として領有して代々統治する「一所持」と呼ばれる家格の名門重臣家系の地頭と、薩摩藩の藩庁から派遣されて、「郷」を領有している訳ではない「官僚としての地頭」とがありました。日置島津家一所持の重臣の家として、代々日置郷を私領主として統治しました。
  余談ですが、日置島津家の旧領・祁答院(けどういん)北部は、安土桃山時代末期の北郷氏統治時期に、北郷氏北郷氏自体の旧領・都城(みやこのじょう)(今日の宮崎県 ・ 都城市)を懐かしんだ結果、都城に似たような音の地名として所領を「宮之城(みやのじょう)」と名付けたことから、地名が今日まで残る「宮之城(今日のさつま町宮之城町地域)」になったとの由です。この経緯からは、島津歳久公統治時期の宮之城は、まだ「宮之城」という地名ではなかったことになります。
  大乗寺は元々、島津貴久公の夫人・雪窓によって、一岳等忍和尚を開山として建立(こんりゅう)された寺であるとの由です。安土桃山時代の文禄4年(1595年)に、上述の日置島津家3代目・島津常久が、日置島津家初代の島津歳久公の冥福のために、この大乗寺を日置島津家の菩提寺にしたとの由です。
  旧薩摩藩領では、過度の廃仏毀釈のために、一時期は領内の寺院が藩主や宗家の菩提寺(鹿児島市福昌寺や、出水市野田町地域感応寺)も含めて1寺も残さずに全滅しました。この日置島津家菩提寺・大乗寺も残念ながら明治初年の廃仏毀釈で廃寺になってしまったとの由です。日置島津氏歴代の墓があることもあり、日置市指定文化財(史跡)になっています。
  大乗寺跡の敷地内には黒薩摩薩摩焼の窯元「日置南州窯」があり、2012年3月現在、この「日置南州窯」の陶主は西郷隆盛のひ孫の西郷隆文氏であるとの由です。ワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 旅行記 ・大乗寺跡と日置南洲窯− 鹿児島県日置市,  中島温泉旅館オフィシャルブログ3 ・ 大乗寺跡(日置市日吉町),  日置南州窯♪等によれば、西郷隆文氏がここに昭和53年(1978年)に窯を開設した理由は、お母様が日置島津家ご出身だから、との由です。
  公共交通機関での行き方は、2012年3月現在の路線では、いわさきバス・ネットワークの「日置運動公園入口−湯之元・江口浜荘」間バス路線で、「日置運動公園入口」バス停下車、徒歩です。この路線バスには、JR鹿児島本線・伊集院駅から鹿児島交通の「伊集院高校・伊集院−加世田」間、「伊集院高校・伊集院−加世田・枕崎」間、「伊集院−伊作」間等の路線バスに乗り、「日置」バス停で乗り換えれば乗ることができます。
  鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域の、かつての日置郷地域にある、日置島津家関連の歴史系観光スポットには、
日置麓御仮屋跡,  大乗寺跡,  光禅寺跡,  桂山寺跡がありますので、併せて周遊可能です。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。
  「日置南州窯」の陶磁器は2012年3月現在
楽天市場の以下のリンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】キーワード「日置南洲窯」の検索結果

  また、「日置南州窯」に限らず、薩摩焼については、以下の楽天市場の各リンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】「山形屋オンラインショップ」でのキーワード「薩摩焼」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)
【楽天市場】キーワード「薩摩焼」の検索結果


上述以外の歴史系観光スポット
(上述以外の日置市日吉町地域の歴史遺産系観光スポットは、日置市観光協会ホームページや、日置市ホームページ ・ 「指定文化財一覧表」のページに載っています。公共のHPにはリンク切れのリスクがありますが、将来リンク切れになっていたら、googleでの、日置市ホームページ上のキーワード「指定文化財」の検索結果画面で移転先ページ(画面)をお探し下さい。)

日置市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。


(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)


○  日置市日吉町町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市日吉町町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて伊集院駅等の駅に行き、そこから鹿児島交通,  いわさきバスネットワークの路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに鹿児島交通の路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
(いりきちょう)
東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)





日置市伊集院町地域>

(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)

(当HP内の)妙円寺訪問記
妙円寺参り(妙円寺詣り)発祥の禅寺)

(当HP内の)妙円寺参り(妙円寺詣り)解説案内
(リンク先は、当HP内の徳重神社訪問記の中の該当箇所)

(当HP内の)徳重神社訪問記
妙円寺参り(妙円寺詣り)の会場)

(当HP内の)島津義弘公銅像写真掲載欄
(リンク先は、当HP内の妙円寺訪問記の中の該当箇所。伊集院駅駅前広場にあります。)

(当HP内の)雪窓院跡&島津義久公剃髪石(座禅石)訪問記

(当HP内の)一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)訪問記

(当HP内の)伊集院護国神社写真掲載欄
(リンク先は、当HP内の一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)訪問記の中の該当箇所。伊集院駅から一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)に徒歩で行く道の途中にあります。)

妙音寺常楽院妙音寺常楽院の場所  (天台宗
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもNAVIの地図。住所:〒899-2501 鹿児島県日置市伊集院町下谷口1463。天台宗公式WEBサイトでも常楽院の検索結果として、天台宗 一隅を照らす運動でも縁日巡遊 くらしと信仰 −天台宗寺院で行われているイベント情報をご案内−の中で、神社・仏閣まっぷでも常樂院として紹介されています。
  
妙音寺常楽院は、鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域にある天台宗の寺院です。寺の名前が「常楽院」であること、天台宗公式WEBサイト ・ 常楽院の検索結果によれば「常楽院法流」に属していること、さらに、天台宗 一隅を照らす運動 ・ 縁日巡遊 くらしと信仰 −天台宗寺院で行われているイベント情報をご案内−2015年5月参照時時点の掲載情報によれば、鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域にある中島常楽院で行われる行事である妙音十二楽法要が行われる寺として載っていること、天台宗公式WEBサイトでは2015年5月現在中島常楽院は検索できないこと、等から推測して、恐らくは、中島常楽院2015年5月現在の本院の寺であろうと推測します。鹿児島県内の寺院は、一時は過度の廃仏毀釈によって全滅しているため、妙音寺常楽院中島常楽院が移転復興した寺院ということになりますが、詳しくは(当HP内の)中島常楽院紹介欄で解説したとおり、復興後も所在地が転々としました。
→   (当HP内の)中島常楽院紹介欄

  
妙音寺常楽院,ならびに中島常楽院以外の鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院については、当ホームページ内の感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記画面(ページ)の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記内の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄


有馬新七の墓の場所
(リンク先は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 有馬新七の墓掲載情報に基づいてアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で示したものです。住所:鹿児島県日置市伊集院町下谷口。日置市観光協会WEBサイトでも有馬新七先生墓碑として(リンク先URLは2011年5月現在)柿元一徳ブログ でも有馬新七を訪ねて の中で、紹介されています。幕末 ・ 明治維新期の勤王(勤皇)志士薩摩藩士で、文久2年(1862年)の寺田屋事件で死んだ有馬新七の墓があります。)

有馬新七生誕地の場所(この辺り)
(リンク先は、日置市作成の観光パンフレット「日置に、幕末明治維新をたずねる。」掲載地図に基づいてアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示した、おおよその場所です。住所:鹿児島県日置市伊集院町。カゴシマニアがゆくでも【篤姫】有馬新七生誕地碑として、幕末維新・写真紀行ブログでも2010.06.07 鹿児島県伊集院町 有馬新七生誕地碑として、わんぱく遊湯倶楽部でも【篤姫】有馬新七生誕地碑として紹介されています。幕末 ・ 明治維新期の勤王(勤皇)志士薩摩藩士で、文久2年(1862年)の寺田屋事件で死んだ有馬新七の生誕地です。)

平野国臣歌碑の場所(この辺り)
(リンク先は、日置市作成の観光パンフレット「日置に、幕末明治維新をたずねる。」掲載地図に基づいてアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示した、おおよその場所です。住所:鹿児島県日置市伊集院町徳重。日置市観光協会WEBサイトでも平野国臣歌碑として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも平野国臣歌碑として(リンク先URLは2011年5月現在)カゴシマニアがゆくでも平野二郎国臣歌碑(鹿児島・伊集院)として紹介されています。幕末 ・ 明治維新期の勤王(勤皇)志士福岡藩士であり、鹿児島県の郷土史においては西郷隆盛勤王(勤皇)僧・月照入水事件の際の同行者でもある、平野国臣の歌碑です。)

上述以外の日置市旧伊集院地域の歴史遺産系観光スポット
日置市ホームページ ・ 「指定文化財一覧表」のページに載っています。公共のHPにはリンク切れのリスクがありますが、将来リンク切れになっていたら、googleでの、日置市ホームページ上のキーワード「指定文化財」の検索結果画面で移転先ページ(画面)をお探し下さい。また、日置市観光協会WEBサイトでもお探しいただけます。)

伊集院中央地区商店街の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で示したものです。住所:鹿児島県日置市伊集院町。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも中央地区商店街として(リンク先URLは2011年5月現在)全国商工会連合会 ・ コンパスクラブでもきばれ商店街(「チェスト!!軽トラ朝市」,「えびす神社フリーマーケット」等の紹介)の中で(リンク先URLは2011年5月現在)pace-uchifarm lettera(ブログ)でも第4回 チェスト!!軽トラ朝市等のブログ日記記事で、紹介されています。中央地区商店街のお店については、googleでのキーワード「『日置市伊集院町下谷口』+『店』」の検索結果,  gooタウンページでの「地域:伊集院町下谷口,業種:ショッピング」の検索結果等でお探しいただけます。中央地区商店街に限らず日置市内のお店では、2011年5月現在共通商品券「とくとくひおき券」をご利用可能です。)

日置市伊集院森林公園
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも日置市伊集院森林公園として紹介されています。)

せせらぎの湯 花水木(ジョイフルランド宮田石花水木)公式WEBサイト
(草スキー、ゴーカート、釣り掘り、プール施設、そうめん流し、ミニゴルフ、バラ園等があるとの由です。全国旅そうだんでもジョイフルランド宮田石花水木として、じゃらんnetでもジョイフルランド宮田石花水木として、鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでもジョイフルランド宮田石として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。ジョイフルランド宮田石花水木の中に平成16年(2004年)11月にオープンした温泉施設については、楽天トラベル ・ 旅コミ ・ 鹿児島県でもせせらぎの湯花水木として、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty温泉@nifty温泉でもせせらぎの湯 花水木として、MAPPLE観光ガイドでもせせらぎの湯 花水木として紹介されています。)

エディオン鹿児島伊集院店
エディオン鹿児島の伊集院店です(旧・鹿児島ベスト電器の伊集院店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。住所:〒899-2506 鹿児島県日置市伊集院町清藤2001-1、Tel.:099-273-1511。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

物産館やさい畑道夢館
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せばやさい畑道夢館の場所のとおりです。住所:〒899-2511 日置市伊集院町下神殿1895-1、Tel.:099-273-6948。 日置市観光協会WEBサイトでもやさい畑道夢館として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

物産館(兼)都市農村交流施設「チェスト館」の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-2515 日置市伊集院町竹之山220-1、Tel.:099-273-9525。日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

物産館「ふれあい飯牟礼館」の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-2522 日置市伊集院町飯牟礼1159-29 、Tel.:099-273-3040。日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

日置市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
日置市旧伊集院町地域は、日置市内・旧東市来町地域の湯之元温泉にご宿泊したり、鹿児島市の宿にご宿泊したりしても、JR鹿児島本線で最寄りです。
【楽天トラベル・温泉宿予約】湯之元温泉の温泉宿一覧
【楽天トラベル】鹿児島市の宿・旅館


(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)


○  日置市伊集院町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市伊集院町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて伊集院駅に行き、そこから徒歩、或いは、伊集院駅から鹿児島交通,  いわさきバスネットワークの路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに鹿児島交通,  いわさきバスネットワークの路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
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祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
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(あくねし)
阿久根市
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出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)





日置市東市来町地域>

(当HP内の)湯之元温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内の該当箇所。)

元外相東郷茂徳記念館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。全国旅そうだんでも元外相東郷茂徳記念館として、日置市観光協会WEBサイトでも元外相 東郷茂徳記念館として(リンク先URLは2011年5月現在)じゃらんnetでも元外相東郷茂徳記念館として紹介されています。)

美山の窯元(苗代川焼)
MAPPLE観光ガイドでも美山の窯元として紹介されています。2011年5月現在、具体的には、例えば以下のような薩摩焼の窯元があります。)
→   ○   桂木陶芸の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。日置市観光協会WEBサイトでも桂木陶芸(桃伯窯)として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも桂木陶芸として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)
○   鹿児島の器 薩摩焼窯元炎舞陶苑公式ブログ
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば炎舞陶苑の場所のとおりです。日置市観光協会WEBサイトでも炎舞陶苑として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)
○   心斎窯の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。日置市観光協会WEBサイトでも心斎窯として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)
○   荒木陶芸の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも荒木陶芸として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

  日置市美山苗代川薩摩焼は、2011年5月現在、以下のリンク先でお探しいただけます。
【楽天市場】キーワード「苗代川+薩摩焼」の検索結果
【楽天市場】キーワード「日置+薩摩焼」の検索結果
【楽天市場】キーワード「美山+薩摩焼」の検索結果

  日置市に限らず薩摩焼については、2011年5月現在、以下のリンク先でもお探しいただけます。
【楽天市場】山形屋オンライン・ショップ(山形屋百貨店)
【楽天市場】しまづ屋楽天市場店((株)島津興業)
【楽天市場】JR九州商事オンラインショップ

沈壽官窯公式ホームページ(薩摩焼)
(日置市(旧・東市来町地域)。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも沈壽官窯として紹介されています。沈壽官窯の焼き物は、2011年5月現在、以下のリンク先でお探しいただけます。)
【楽天市場】キーワード「沈壽官+鹿児島」の検索結果
【楽天市場】キーワード「沈壽官窯」の検索結果

美山陶遊館
(日置市(旧・東市来町地域)。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも美山陶遊館として紹介されています。)

玉山神社の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-2231 日置市東市来町美山788。鹿児島県神社庁ホームページでも玉山神社として(リンク先URLは2011年5月現在)くろぶた.ねっとでも薩摩焼の歴史の中で(リンク先URLは2012年4月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも玉山神社として、九州の田舎からでも玉山宮として、カゴシマニアがゆくでも玉山神社(鹿児島・日置市美山)として、薩摩焼の窯元巡り 鹿児島県日置市にある美山をナビする情報発信サイト クラフトマンヴィレッジミヤマ(craftman village miyama)でもパワースポット 玉山神社として紹介されています。)

こけけ特産品販売所の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県日置市東市来町長里2482-3、Tel.:099-274-5028。全国旅そうだんでもこけけ特産品販売所として、じゃらんnetでもこけけ特産品販売所として、日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会WEBサイトでもこけけ特産品販売所として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。)

西薩海道 海を味わえる西薩海道ドライブ情報サイト[鹿児島県] (再掲)
日置市東市来町地域では、江口漁協があり、直売店特産品や新鮮食材 江口蓬莱館を運営しています。公式HPについては、各HPのリンク先URLは2011年1月現在

特産品や新鮮食材 江口蓬莱館(えぐちほうらいかん)公式WEBサイト
(リンク先URLは2011年1月現在。関連漁協・江口漁協によるもう1つの公式HPとしては江口蓬莱館があります(リンク先URLは2011年1月現在)アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば江口蓬莱館の場所のとおりです。住所:〒899-2203 鹿児島県東市来町伊作田7425-5、Tel.:099-274-7666。全国旅そうだんでも江口蓬莱館として、じゃらんnetでも江口蓬莱館として、日置市ホームページでも物産館の中で(リンク先URLは2011年5月現在)日置市観光協会WEBサイトでも江口蓬莱館として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。江口蓬莱館は、江口浜海浜公園にあります。)

江口浜海浜公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図住所:鹿児島県日置市東市来町江口浜、Tel.:099-274-6567。日置市観光協会WEBサイトでも江口浜海浜公園として(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも江口浜海浜公園として、じゃらんネットでも江口浜海浜公園として紹介されています。江口浜海浜公園には、特産品や新鮮食材 江口蓬莱館があります。)

島津立久公墓地跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県日置市東市来町長里3281。鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも龍雲寺跡として、日置市観光協会WEBサイトでも島津立久公墓地跡として、カゴシマニアがゆくでも戦国島津ゆかりの地めぐりの旅〜島津立久菩提寺跡・竜雲寺跡編〜として、わたしのブログでも日置市東市来長里を歩くの中で紹介されています。
  島津氏宗家第10代当主で、室町時代薩摩国,  大隅国,  日向国3国の守護守護大名島津立久公(永享4年(1432年)〜文明6年(1474年))の墓があります。丁度、応仁の乱の時代の島津氏当主です。
  元々、市来院(現在の日置市旧東市来町地域といちき串木野市旧市来町地域)は在地豪族の市来氏
市来鶴丸城を拠点として治めており、また、南北朝時代以来、数回戦乱の地となっていました。島津立久公は、寛正3年(1463年)に市来氏第12代・市来久家を打ち負かして、市来院を島津宗家の所領としました。
  島津立久公は、文明6年(1474年)に43歳で死去し、跡を長男の島津忠昌公が継ぎました。死後、遺言により、当時は当地にあった竜雲寺に葬られたとの由です。旧薩摩藩領は明治初めの廃仏毀釈の際に、藩主菩提寺さえも含めて一時は藩領内の寺院が1寺も残さずに全滅した程の過度過激な廃仏毀釈を行ったため、名刹古刹の多くが廃寺になり、例外的に復活できた寺以外は現存していません。この竜雲寺も恐らくですがその時に廃寺になり、残念ながら寺は残っていません。このため、島津立久公墓地跡は、「竜雲寺跡」でもあります。
  日置市観光協会WEBサイトの島津立久公墓地跡欄のページ(画面)によれば、島津立久公の墓は昭和3年(1928年)に改葬されたとの由です。今日、島津立久公の墓は鹿児島市の福昌寺跡(島津家墓地)にあり、第6代目以降の他の島津氏宗家の当主達と共に眠っていますが、この墓が、その昭和3年改葬時に移されたものか、それ以前から(遺骨は無くても少なくとも墓石は)あったのか、そのいずれであるのかは存じ上げません。福昌寺跡自体も福昌寺が廃寺になった後(注:後に寺は復活しましたが、鹿児島市内で再建できずに、今日では薩摩川内(せんだい)市旧川内市地域にあります)、島津氏宗家の墓だけが残って大切に守られている墓地です。
  いずれにせよ、今日では「墓」自体ではなく「墓の跡」であり、墓の祠が立っているとの由です。公共施設「東市来文化交流センター」の目の前にあるとの由ですので、見つけ易いとの由です。
  公共交通機関での行き方は、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 東市来駅地図)から徒歩です。鹿児島本線へは、九州新幹線鹿児島中央駅地図)または川内(せんだい)駅地図)で乗り換えることができます。
  上述のとおり、島津立久公の墓は、この
島津立久公墓地跡の他にも、鹿児島市福昌寺跡(島津家墓地)にもあります。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
湯之元温泉OCEAN RESORT えぐち家,  湯之元温泉 旅館 江楽園,  旅館 春本荘等)があります。また、日置市の温泉地には、日置市東市来町地域からは離れていますが、他にも、吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)があります。
  日置市東市来町地域には、
市来鶴丸城跡もあります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

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日置市旧東市来町地域でのご宿泊は
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(注) 検索結果では、日置市旧東市来町地域以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
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(当HP内の)湯之元温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内の該当箇所。)

(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)


○  日置市東市来町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市東市来町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて湯之元駅,  東市来駅に行き、これらの駅から徒歩、或いは、いわさきバスネットワークの路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびにいわさきバスネットワークの路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

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市来鶴丸城跡:市来鶴丸城跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県日置市東市来町長里361-1。日置市観光協会WEBサイトでも市来鶴丸城跡として(リンク先URLは2011年5月現在)城郭放浪記でも薩摩・市来鶴丸城として、ちえぞー!城行こまいでも市来鶴丸城として、カゴシマニアがゆくでも市来鶴丸城(鹿児島・日置市東市来)として、日本の城址でも鶴丸城として、大隅国高山郷の歴史でもK0129 もう一つの鶴丸城:「市来鶴丸城」として、余湖くんのお城のページ ・ 余湖図コレクション ・ 鹿児島でも伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖として、KLE4cの日記でも日置市の東市来の市来鶴丸城跡にザビエル像が完成し除幕式として紹介されています。また、市来鶴丸城を築城した中世豪族の市来氏については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも市来氏として紹介されています。江戸時代の東市来/長里については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも東市来麓/長里麓として、鹿児島みてある記−歴史散歩−でも2007 東市来麓,  2008 東市来麓,  2008 東市来麓 02として紹介されています。
  
市来鶴丸城は、鹿児島県日置(ひおき)市東市来町地域にある、中世山城の城郭遺構です。中世に市来院(現・日置市東市来町地域いちき串木野市市来町地域)を治めていた市来氏が築いた山城との由です。市来氏は、はじめの本姓を、渡来氏族東漢氏もしくは秦氏系統の大蔵氏とされる在地豪族で、伝承では奈良時代末期の宝亀年間(770年〜780年)に薩摩国に下向して市来院の郡司になったとの由です。鎌倉時代の寛元2年(1244年)に6代目当主・政家は外孫で惟宗氏系の国分氏の出であり、以降、市来氏は本姓が惟宗姓になったとの由です。奈良時代に下向した一族の6代目が鎌倉時代というのは年代的に平仄(ひょうそく)が合わないため、下向時の年代に誤りがあるか、或いは途中の系譜が抜け落ちている可能性がありますが、平安時代以前からの在地豪族が、鎌倉時代御家人化した武家です。
  
市来鶴丸城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、幾度も戦の舞台になった城として知られています。南北朝時代時代には、北朝方の島津氏宗家第5代当主・島津貞久公と、南朝方の島津氏庶流・伊集院忠国との間の戦の舞台になったとの由です。その後、室町時代の寛正3年(1463年)、市来氏12代当主・久家の代の時に、島津氏宗家第10代当主島津立久公との戦に市来氏は敗れて市来鶴丸城は落城し、一時期、市来鶴丸城島津氏宗家の城になりました。
  
市来鶴丸城は、戦国時代には一時期、島津氏庶流(分家)の薩州家の城になっていました。このため、この市来鶴丸城は、大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)に、島津氏宗家の家督相続と、島津氏の領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の守護職就任を廻って行われた、伊作島津家第10代当主(兼)相州島津家第3代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公+島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子と、薩州島津家第5代当主・島津実久との間で行われた、島津氏の内紛・内ゲバ抗争の舞台になった場所ですので、解説します。話は、抗争開始以前に遡ります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌,  島津忠治,  島津忠隆,  島津勝久,ならびに島津忠良によれば、戦国時代初期の島津氏宗家は、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公は、戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だった当主であり、領内の内乱に苦しんだためと巷間伝えられる理由で永正5年(1508年)に自殺してしまったとの由です。さらに、第12代当主・島津忠治公が27歳で永正12年(1515年)に、その弟で第13代当主・島津忠隆公が23歳で永正16年(1519年)と相次いで若死に、かつ両者共に父親同様に戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だったため、後世、「島津氏の暗黒時代」とまで評される程に、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の勢力は衰えていました。島津忠隆公の弟で、永正16年(1519年)に後を継いだ島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、権力基盤が弱かったため、当初は、有力分家であった薩州家(薩州島津氏)第5代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主の島津実久(しまづ さねひさ)の力を借りることにして、島津実久の姉を正室に迎えて領国国政を委任していましたが、島津実久が専横を極めた上に、当時は子がいなかった島津忠兼(後の島津勝久)公に対して、自分自身(島津実久)を世子(跡継ぎ)にするように迫ったため、島津忠兼(後の島津勝久)公は正室を離縁し、島津実久を遠ざけたとの由です。島津実久は反攻して島津忠兼(後の島津勝久)公を、守護所であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城から追放して勝手に守護を自称するに至り、領内騒然となったとの由です。
  島津実久の専横に対して島津忠兼(後の島津勝久)公は、島津氏の有力庶流と化しており、かつ英明の評価が高かった、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の力を借りることになったとの由です。このため、日新斎島津忠良公の嫡男・島津貴久公を大永6年(1526年)に養子に迎えて島津氏宗家第15代当主として家督を継承させて清水城に迎え入れて、翌大永7年(1527年)、島津氏宗家前当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、日新斎島津忠良公の領地・薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居し、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に入ったとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ大永6年(1526年)に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津実久,  島津勝久,ならびに島津忠良等によれば、この政治情勢を快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした前述の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久は反発して、大永7年(1527年)に謀反を起こしました。この戦乱が、伊作家(兼)相州家系統の島津氏宗家による、戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の始まりになりました。
  島津実久の謀反は、大永7年(1527年)の前年の、上記の大永6年(1526年)に既に前哨戦が始まっていた可能性があります。それは、大永6年(1526年)暮れに大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の川上忠直が島津氏宗家の島津貴久公に叛いた謀反が、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、島津実久に付いてのことであったとの由です(ただし、川上忠直の動機について他の参照先でまだ確認していないので、川上忠直の謀反は、島津実久に付いてのことではなかった可能性も残っています)。日新斎島津忠良公は川上忠直を攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この功により、日新斎島津忠良公は、前守護島津忠兼(島津勝久)公から、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)と、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図を賜ったとの由です。ところが、城郭放浪記 ・ 大隅・加治木城ならびに大隅・平山城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良等によれば、大永7年(1527年)に、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主の伊地知重貞・伊地知重兼父子と平山城(平安城)島津昌久が大永7年(1527年)6月に島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。これが、公式には島津実久による謀反の開始ということになります。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。新たな加治木地頭には肝付兼演が、そして、新たな帖佐地頭には伊地知重辰が任命されたとの由です。
  この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。
  一方、詳しくは当画面(当ページ)上方の
亀丸城(伊作城)紹介欄で解説したとおりの経緯のため、一時期は薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公は、天文4年(1535年)8月に島津実久と再び仲違いになり、紆余曲折の結果、帖佐地頭 ・ 伊地知重辰を攻め滅ぼして大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)を手に入れていた、薩摩国 ・ 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武を頼って、天文4年(1535年)10月に大隅国帖佐に移らざるを得なくなったとの由です。守護所たる城である清水城がある薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)は、再び島津実久に制圧されてしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久によれば、このような島津実久の圧迫に耐えかねた島津勝久公は、再び日新斎島津忠良公に助力を求めることになったとの由です。なお、前守護 ・ 島津勝久公は、後に没落したまま復権せずに三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国から追われて去ることになりましたが、その経緯について詳しくは、当画面(当ページ)上方の亀丸城(伊作城)紹介欄でご参照いただけます。
  年は数年前後しますが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の
頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  一連の島津氏の内紛・内ゲバ抗争の過程でも、「
別府城(加世田城)の戦い」と、この市来鶴丸城を廻って戦われた天文8年(1539年)の上述の「市来の戦い」の2つの戦いで勝ったことが、しばらく後に島津実久が降伏する契機になったため、この「市来の戦い」は、島津氏による薩摩国,  大隅国,  日向国三国(三州)領国国内統一平定戦中の初期の薩摩国国内統一において、大きな意義を持つ戦いでありました。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 入来院氏,  ようこそ大船庵へ ・ 古文書を楽しむ ・ 南九州の中世ー薩摩藩内古城由緒ー ・ 城由緒原文翻刻 及び 現代文,ならびに鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第7回 薩摩国 日置郡 日置郷・市来郷(H25.10.20)によれば、天文8年(1539年)のこの市来鶴丸城の戦いでは、島津貴久公の軍は、島津実久方の市来鶴丸城の支城である、薩摩国市来院(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域いちき串木野市市来町地域)の平城この辺り(地図)を、島津貴久公自(みずか)ら大将として6月17日に出陣して即日攻め落としたとの由です。本城の市来鶴丸城はなかなか落ちずに持久戦となり苦戦したものの、9月に攻め落としたとの由です。なお、この平城この辺り(地図)は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 平之城跡には、平之城という名称で鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域大字(おおあざ)東市来町長里(ひがしいちきちょうながさと)この辺り(地図))」にあるものとして載っており、『山城散歩 みちくさ』 多くの山城愛好家の方へ  三木靖 ・ 薩摩国市来城及び周辺「城」位置図によれば、平之城の中世の名称が平城であるとの由です。この市来鶴丸城の戦いで活躍したのは、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第7回 薩摩国 日置郡 日置郷・市来郷(H25.10.20)によれば、薩摩国入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で入来院氏第11代当主の入来院重聡、大隅国小浜(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域小浜地区(この辺り(地図))の生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図城主で樺山氏第8代当主の樺山善久(樺山幸久,樺山玄佐)薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)の給黎城(きいれじょう)地図城主で島津氏庶流の喜入家第4代当主・島津忠俊、蒲生氏戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣400島津久定欄によれば、薩摩国鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城城主で島津氏庶流の吉利家第3代当主の島津久定であるとの由です。上記の「蒲生氏」が具体的に誰であるかについて、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩蒲生氏記載内容と併せて鑑(かんが)みれば、大隅国蒲生(かもう;現・鹿児島県 ・ 姶良市蒲生町地域)の蒲生城城主で蒲生氏第16代当主の蒲生茂清のことではなく、蒲生宗家と対立して、島津貴久公方について大隅国蒲生から離れていた、蒲生氏庶流の蒲生清親のことであろうと、推測します。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣400島津忠辰欄によれば、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主の島津実久の弟で市来鶴丸城の守将・島津忠辰は、島津久定に討ち取られたとの由です。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。例えば、詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)で解説した経緯のため、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋)によれば、天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  江戸時代一国一城令での廃城後は、薩摩藩外城(とじょう)制における実質的な支城ネットワークの武家屋敷群「外城(後に、「麓」と改称)」が、
市来鶴丸城跡の麓に設けられました。ただし、鹿児島みてある記−歴史散歩−  2008 東市来麓によれば、地方行政区域「郷」の行政・軍事の中心となる「武家屋敷群」を統治する地頭の役所(兼)公邸である御仮屋(地頭仮屋)は、市来郷においては、当初は「東市来」にも設けられたものの、やがて「市来」に移されたとの由であり、その結果、「東市来」は独立した麓ではなく、「市来」が行政の中心である「市来郷」において「市来とは別途、1村単位で武家が集住しているがある村」という状況であった模様です。この「移された」という経緯・有り様が、「元々は市来が無かった上での移転」であるのか、それとも「市来と東市来との統合」であるのか、詳細な経緯は不明です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 市来麓,ならびに鹿児島みてある記−歴史散歩−  2008 東市来麓によれば、「東市来」からの御仮屋(地頭仮屋)の移転先である、市来郷の「市来」の御仮屋(地頭仮屋)は、今日の、鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域いちき串木野市市来支所(市来庁舎)(鹿児島県いちき串木野市湊町1-1,地図)の場所にあったとの由です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 市来麓,  東市来麓/長里麓によれば、2008年4月現在、「市来」よりも、市来鶴丸城跡の麓にある「東市来」の方が、武家屋敷群の街並みが残っているとの由です。
  公共交通機関での行き方は、JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 東市来駅地図)から徒歩です。鹿児島本線へは、九州新幹線鹿児島中央駅地図)または川内(せんだい)駅地図)で乗り換えることができます。
  なお、市来氏歴代当主の墓は、いちき串木野市市来町地域
来迎寺跡墓塔群です。
  空路で鹿児島空港経由でお越しの方は、空港アクセス・バスで一旦、鹿児島市鹿児島中央駅地図)か薩摩川内市(さつませんだいし)川内(せんだい)駅地図)にお越しいただいた上で、地域の公共交通機関に乗り換えれば、行けます。京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、上述の記載内内容と重複しますが、九州新幹線鹿児島中央駅地図)か川内(せんだい)駅地図)にお越しいただいた上で、地域の公共交通機関に乗り換えれば、行けます。
  宿泊・温泉地として併せてお楽しみいただける近隣の温泉地には、
湯之元温泉OCEAN RESORT えぐち家,  湯之元温泉 旅館 江楽園,  旅館 春本荘等)があります。また、日置市の温泉地には、日置市東市来町地域からは離れていますが、他にも、吹上温泉郷みどり荘,  新湯温泉旅館,  中島温泉旅館等)があります。)

日置市旧東市来町地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「日置市東市来町」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、日置市旧東市来町地域以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・温泉宿予約】湯之元温泉の温泉宿一覧

(当HP内の)湯之元温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内の該当箇所。)

(当HP内の)日置市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の日置市の温泉案内欄。)


○  日置市東市来町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  日置市東市来町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて湯之元駅,  東市来駅に行き、これらの駅から徒歩、或いは、いわさきバスネットワークの路線バスに乗り換えれば行けます。JR九州、ならびにいわさきバスネットワークの路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま




【楽天トラベル・全国温泉宿予約】鹿児島県の温泉旅館・ホテル一覧
北薩(出水・川内)  温泉宿一覧
北薩(出水・川内)  ホテル・旅館一覧
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・ANA楽パック】北薩(出水・川内)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・JAL楽パック】北薩(出水・川内)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・たびノート】指宿・出水の観光スポット
【楽天トラベル・旅コミ】薩摩地方(指宿・出水・川内・枕崎)のクチコミ観光情報
(例えば指宿温泉のクチコミ情報等。)



当ページ(当画面)内の目次
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日置市
(ひおきし)
吹上町地域 日吉町地域
伊集院町地域 東市来町地域
いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
薩摩川内市
(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
(いりきちょう)
東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
(いさし)
大口市地域 菱刈町地域
(ひしかりちょう)










いちき串木野市

いちき串木野市 ・ 観光

旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイド

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いちき串木野市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。2005年10月11日に 串木野市,   市来町が市町村合併して成立しました。)


いちき串木野市平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
市来町地域 串木野市地域





いちき串木野市市来町地域>

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(当HP内の)いちき串木野市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内のいちき串木野市の温泉案内欄。)

(当HP内の)市来温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の市来温泉案内欄。)

濱田酒造(株)公式WEBサイト・伝統の蔵 伝兵衛蔵:濱田酒造
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛の場所のとおりです(いちき串木野市湊町4-1,Tel.:0996-36-3131,予約:0996-21-5667)。楽天トラベル ・ 旅コミ ・ 鹿児島県でも焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛として、MAPPLE観光ガイドでも焼酎蔵薩洲浜田屋伝兵衛として、全国旅そうだんでも焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛として、じゃらんnetでも焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛として、紹介されています。濱田酒造の焼酎については、伝兵衛蔵ではありませんが、薩摩金山蔵の芋焼酎を【楽天市場】薩摩金山蔵でお買い求めいただくことができます。この他濱田酒造の焼酎については、2011年5月現在、以下のリンク先ででお買い求めいただくことができます。)
【楽天市場】山形屋オンラインショップでのキーワード「濱田酒造」の検索結果
【楽天市場】キーワード「濱田酒造+鹿児島」の検索結果


市来観音ヶ池「市民の森」
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも市来観音ヶ池「市民の森」として紹介されています。)

交流センター・ログハウス
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも交流センター・ログハウスとして紹介されています。)

来迎寺跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市大里。Tel.:0996-33-5638(いちき串木野市商工観光課)。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも来迎寺墓塔群 <大里エリア>として(リンク先URLは2011年6月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも来迎寺跡墓塔群として(リンク先URLは2011年6月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも来迎寺(いちき串木野市)として、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも来迎寺として、全国旅そうだんでも来迎寺墓塔群として、じゃらんnetでも来迎寺墓塔群として、Samurai Worldでも来迎寺跡として紹介されています。
  来迎寺跡は、鹿児島県いちき串木野市旧市来町地域に、かつてあった寺院の跡で、一言で申せば、市来氏の菩提寺だった寺です。
  伝承によれば奈良時代後期(実は世代が合わないので平安時代末とも思量されますが)、大蔵政房が市来院(現・いちき串木野市旧市来町地域+日置(ひおき)市旧東市来町地域)の院司となり、以降、市来氏は中世前半期の市来院の領主でした。市来氏は、途中で外孫の政家が後を継いでからは、惟宗姓になりました。鎌倉時代を通じて市来院を領有していましたが、室町時代の寛正3年(1463年)に島津氏宗家第10代当主の島津立久公との戦いに敗れて、市来院の領有権を失いました。
  来迎寺は、市来氏の菩提寺として建立された寺院です。市来氏滅亡後、島津立久公が両親の菩提寺として龍雲寺を建立(こんりゅう)し、その際に来迎寺の寺領を龍雲寺に寄付したために、一時期は廃寺になってしまったとの由です。その後、天文17年(1548年)に龍雲寺住職・玄済が龍雲寺末寺として来迎寺を再建して江戸時代末まで続きましたが、残念ながら明治2年の廃仏毀釈で再び廃寺になり、廃寺のまま今日に至っています。
  この来迎寺跡には、かつての領主・市来氏の歴代当主の墓があり、鹿児島県指定史跡になっています。鎌倉・室町時代の墓塔形式を知る上で、貴重なものとされているとの由です。なお、市来氏の居城は、隣の市町村・日置市の旧東市来町地域にある
市来鶴丸城でした。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR九州新幹線の鹿児島中央駅または川内(せんだい)駅でJR鹿児島本線に乗り換えて、市来駅で降りて「市来中前」バス停から、いわさきバスネットワークの51,57系統「鹿児島駅−伊集院・湯之元経由−串木野・上川内」間、50系統「鹿児島駅−湯之元・野田・島平経由−串木野・上川内」間等の路線バスに乗り、「島内」バス停下車、徒歩です。
  なお、市来氏の居城跡は、日置市東市来町地域にある
市来鶴丸城跡です。)

市来貝塚の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図・いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市川上。Tel.:0996-21-5113(いちき串木野市教育委員会社会教育課)。鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でもでも川上(市来)貝塚として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも市来貝塚として(リンク先URLは2012年4月現在)鹿児島県ホームページ(鹿児島県庁)でも市来貝塚として(リンク先URLは2012年4月現在、リンク切れ時→鹿児島県ホームページ上でのキーワード「市来貝塚」のgoogle検索結果でお探し下さい)、鴨着く島でも市来貝塚(いちき串木野市川上)として、遺跡ウォーカーでも川上貝塚/市来貝塚として紹介されています。
  市来貝塚は、鹿児島県いちき串木野市旧市来町地域にある、縄文時代後期を主とする貝塚です。「川上」という大字(おおあざ)にあるため、川上貝塚とも呼ばれます。
  鹿児島県庁ホームページの市来貝塚欄によれば、昭和36年(1961年)に河口貞徳氏によって発掘されたとの由で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡であるとの由です。標式遺跡とは、平たく申せば、或る文化等の命名の由来になった遺跡のことです。市来式土器は,沖縄県から九州全域で出土しているとの由です。その後、平成2年(1990年)と平成4年(1992年)に、市町村合併前の旧市来町教育委員会が発掘調査を行ったとの由です。
  市来貝塚の貝層の厚さは、最も厚い部分で2.6mもあるとの由で、市来式土器の他にも、石鏃・石斧などの石器や、貝輪・つり針・かんざしなどの骨角器も見つかったとの由です。いちきアクアホール隣接(併設?)のいちき串木野市歴史資料館で資料展示されているとの由です。平成6年(1994年)に、兼の指定史跡になりました。
  行き方、アクセスは、近くにバス路線がありませんので、JR鹿児島本線の市来駅、串木野駅等から車(タクシー、レンタカー等)です。JR鹿児島本線には、九州新幹線の川内(せんだい)駅もしくは鹿児島中央駅で乗り換えれば、乗れます。)

いちきアクアホールの場所いちき串木野市立図書館市来分室併設)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市湊町1丁目102。Tel.:0996-21-5800。goo ・ タウンページでもいちき串木野市役所/いちきアクアホールとして、iタウンページでもいちき串木野市役所/いちきアクアホールとして紹介されています。)

まち歩きマップ掲載ページ(まち歩き(商店街・湊町)マップできました。)
(リンク先は旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドのサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年12月現在。住所:鹿児島県いちき串木野市。いちき串木野市串木野市地域の商店街としては、湊町まち歩きマップ(PDF版)が載っています。)

いちき特産品振興会・季楽館の場所(物産館)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-2103 いちき串木野市大里6166-1、Tel.:0996-36-5618。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも季楽館【物産館】として(リンク先URLは2012年4月現在)、、MAPPLE観光ガイドでもいちき特産品直売所「季楽館」として紹介されています。)

西薩海道 海を味わえる西薩海道ドライブ情報サイト[鹿児島県] (再掲)
いちき串木野市市来町地域では、市来町漁協があり、直営店市来えびす市場を運営しています。公式HPについては、各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

市来えびす市場(漁協直営店)
(リンク先は市来町漁協のサブ・コンテンツ(リンク先URLは2011年1月現在)で、関連漁協主催の公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、市来えびす市場の場所のとおりです。住所:〒899-2101 鹿児島県いちき串木野市湊町1丁目103番地、Tel.:0996-36-2009。かごしまのさかな.com(かごしまの魚のポータルサイト)でも市来えびす市場として(リンク先URLは2012年4月現在)、紹介されています。国民宿舎 吹上浜荘,  市来ふれあい温泉センターに隣接しています。各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

いちき串木野市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「いちき串木野市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、いちき串木野市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。

(当HP内の)市来温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の市来温泉案内欄。)


○  いちき串木野市市来町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  いちき串木野市市来町地域へは、九州新幹線川内駅からJR鹿児島本線に乗り換えて市来駅で降りれば、行けます。時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ



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いちき串木野市 市来町地域 串木野市地域
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(さつませんだいし)
川内市地域 樋脇町地域
(ひわきちょう)
入来町地域
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東郷町地域
祁答院町地域
(けどういんちょう)
甑島地域
(こしきじま)
阿久根市
(あくねし)
阿久根市
出水市
(いずみし)
出水市地域 高尾野町地域
野田町地域   
長島町 長島町
さつま町 宮之城町地域 鶴田町地域
薩摩町地域   
伊佐市
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大口市地域 菱刈町地域
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いちき串木野市串木野市地域>

旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイド

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(当HP内の)いちき串木野市の温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内のいちき串木野市の温泉案内欄。)

(当HP内の)くしき野白浜温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内のくしき野白浜温泉案内欄。)

(当HP内の)薩摩金山蔵訪問記

薩摩金山蔵表紙2
薩摩金山蔵製造のおいしい芋焼酎は、【楽天市場】薩摩金山蔵でお求めいただけます。

【楽天市場】薩摩金山蔵

(当HP内の)三井串木野鉱山,芹ヶ野金山解説欄
(リンク先は、当ホームページ内のサブ・コンテンツ・薩摩金山蔵訪問記の中の解説欄。三井串木野鉱山,芹ヶ野金山については、炭鉱マニア炭鉱マニアでも三井串木野鉱山・薩摩金山蔵として紹介されています。)

冠岳
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、冠岳・東岳の場所,  冠岳・中岳の場所,  冠岳・西岳の場所,  西嶽神社(西岳神社)の場所のとおりです。住所:鹿児島県いちき串木野市冠岳。鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも冠岳として(リンク先URLは2012年4月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも冠岳として紹介されています。旬の味、まちの味、人の味 いちき串木野総合観光ガイドでも「観(歴史・遊ぶ・歩く)」ページに冠岳観光マップ(PDF版)が載っています(リンク先URLは2012年4月現在)
  
冠岳(冠嶽:かんむりだけ)は、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域薩摩川内市(さつませんだいし)との境にある山で、山岳信仰の霊峰です。の命を受けて不老不死の薬を探しに行った徐福(じょふく)が到来した所との伝説があります。東岳(地図,標高486m)、中岳(地図,標高496m)、西岳(地図,標高516m)が連なり、そのそれぞれに、例えば西嶽神社(西岳神社)(地図)等の熊野権現勧請した神社があり、冠岳三所権現と呼ばれているとの由です。
  東岳(地図)にはかつて冠嶽山鎭國寺頂峯院がありましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺になり、後に昭和58年(1983年)に西岳(地図)中腹に、今日の
冠嶽山鎭國寺頂峯院として、移転復興されました。東岳(地図)周辺には旧頂峯院跡の他、冠岳神社(冠嶽神社;旧・東岳熊野権現社)、阿子丸仙人が修行したと言われる仙人岩(地図)、護摩岩があります。中岳(地図)周辺には、中岳神社(旧・中岳熊野権現社)、大岩戸神社、材木岳があります。JTウェブサイト ・ 『たばこ神社』の基礎知識によれば、大岩戸神社は、近くに蘇我馬子が種をまいたと伝えられる自生の煙草が生えているため、「煙草神社(たばこ神社)」の別名があるとの由です。西岳(地図)周辺には、西岳神社(旧・西岳熊野権現社)(地図)、(移転再興後の現・)冠嶽山鎭國寺頂峯院、天狗岩があります。
  また、山麓には、高さ6メートルの日本一の徐福像がある
冠岳展望公園徐福展望公園や、徐福伝説にちなんで平成4年(1992年)に開設された中国式庭園である冠嶽園があります。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅から、いわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「串木野駅−医師会病院前経由−野下」間路線バスに乗り、「西岳登山口」バス停下車、徒歩(登山)1時間20分との由です。また、冠嶽山鎭國寺頂峯院や徐福展望公園には、串木野駅と徐福像前間を、1日4往復「いきいきバス(日曜日のみ、料金は100円)」が運行されているとの由です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、ご参照いただけます。
  古代から山岳信仰が盛んだった
冠岳には、中岳神社・大岩戸神社(煙草神社)・西嶽神社(西岳神社)(地図)・白山神社等の冠嶽連山(冠嶽三山)山中の神社がある他、以下のような観光スポットがあります。
○   冠嶽園
○   冠岳花川砂防公園
○   冠嶽神社
○   冠嶽山鎭國寺頂峯院
○   冠岳展望公園(日本一の徐福像)
○   冠岳温泉


冠嶽園
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、冠嶽園の場所のとおり。住所:鹿児島県いちき串木野市冠岳13511-7。Tel.:0996-32-0760。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも冠嶽園として(リンク先URLは2011年5月現在)旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも中国風庭園冠嶽園 <冠岳エリア>として(リンク先URLは2012年4月現在)MAPPLE観光ガイドでも冠嶽園として紹介されています。冠岳エリアにあります。
  
冠嶽園(かんがくえん)は、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域の、中薩(中薩摩)の山岳信仰の霊峰・冠岳エリアにある中国風庭園です。一旦廃寺になった後に移転再興された冠嶽山鎭國寺頂峯院の、廃寺になる前の旧所在地の冠嶽山鎭國寺頂峯院跡地に作られたとの由です。冠岳は、始皇帝の命を受けて不老不死の薬を探しに行った徐福(じょふく)到来の地とされる場所です。冠嶽園は、霊峰「冠岳」の縮景と、「方士徐福」の伝承を顕現するために、中国式庭園となりました。また、東シナ海をはさんで中国が隣りにある串木野にとって、中国との友好関係を深めたいという願いを込めてのことでもあるとの由です。
  また、
冠嶽園は、冠岳花川砂防公園エリアにあります。
営業時間:9:00〜17:00(6〜9月:9:00〜18:00)
休業日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合には、翌日休)。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅から、いわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「串木野駅−医師会病院前経由−野下」間路線バスに乗り、「冠岳」バス停下車、徒歩4分です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、ご参照いただけます。
  冠岳に関する全般的な説明については、当画面(当ページ)上方の
冠岳紹介欄でご参照いただけます。)

冠岳花川砂防公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市冠岳花川。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも冠岳花川砂防公園として(リンク先URLは2011年5月現在)いちき串木野市ホームページでも冠岳歴史自然の里,  花川(冠嶽園)周辺ゾーンとして(リンク先URLは2012年4月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課)でも冠岳花川砂防公園として(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも冠岳花川砂防公園として紹介されています。冠岳エリアにあります。
  
冠岳花川砂防公園(カンムリダケハナガワサボウコウエン)は、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域冠岳エリアにある公園です。この公園のある花川は、霊峰冠岳を水源とする川で、昭和46年(1971年)8月5日の台風19号で甚大な被害を起こしました。当初は治水対策を行ったところ、コンクリートで固めた治水では生態系が破壊されてしまう副作用的弊害が生じたため、生態系の再生も目指した治水として「花川渓流再生砂防事業」が試みられることになりました。この事業は、「冠岳歴史自然の里づくり」事業の一環として行われているとの由です。
  この、豊かな生態系の復元と治水の両立を目指した「花川渓流再生砂防事業」によって作られた公園が、
冠岳花川砂防公園であるとの由です。交流ゾーンを中心に中国風の公園として整備され、10本の年代橋や健康広場などがあります。また、公園内にある中国風の東屋「望嶽亭(ぼうがくてい)」は、冠岳花川砂防公園のシンボル(兼)いちき串木野と中国の交流の象徴として、平成15年(2003年)事業として旧串木野市が作ったものであるとの由です。望嶽亭からは、水鏡(みずかがみ)に映し出された冠岳の山並みを展望できるとの由です。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅から、いわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「串木野駅−医師会病院前経由−野下」間路線バスに乗り、「冠岳」バス停下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、ご参照いただけます。
  冠岳に関する全般的な説明については、当画面(当ページ)上方の
冠岳紹介欄でご参照いただけます。)

冠嶽神社の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒896-0051 いちき串木野市冠嶽13511。公式ブログ「冠嶽神社(鹿児島県いちき串木野市)」がある他、旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも冠嶽神社<冠岳エリア>として(リンク先URLは2012年4月現在)鹿児島県神社庁ホームページでも冠嶽神社として、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識でも冠嶽神社として紹介されています。冠岳エリアにあります。
  
冠嶽神社(冠岳神社,カンムリダケジンジャ)は、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域にある神社です。山岳信仰の霊峰冠岳には、蘇我馬子熊野三所権現勧請創建したと伝えられる神社が、東岳(地図)周辺の冠岳神社(冠嶽神社;旧・東岳熊野権現社)、中岳(地図)周辺の中岳神社(旧・中岳熊野権現社)、西岳(地図)周辺の西岳神社(旧・西岳熊野権現社)(地図)の3社があり、冠嶽神社はその中の一つです。冠岳にはこの他、大岩戸神社、冠嶽山鎭國寺頂峯院等があり、山岳信仰の地として栄えました。始皇帝の命を受けて不老不死の薬を探しに行った徐福(じょふく)が到来した所との伝説がある山でもあります。
  
冠嶽神社の御祭神は、櫛御毛野命(クシミケヌノミコト=スサノオノミコト)大国主命(オオクニヌシノミコト)豊受大神(トヨウケノオオカミ)であり、櫛御毛野命が、串木野の地名の由来になったとの由です。例祭日は4月19日と11月23日との由です。社宝は、島津家奉納の長柄の銚子と、古文書であるとの由です。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅から、いわさきコーポレーション解説) ・ いわさきバスネットワークの「串木野駅−医師会病院前経由−野下」間路線バスに乗り、「冠岳」バス停下車、徒歩です。
  冠岳に関する全般的な説明については、当画面(当ページ)上方の
冠岳紹介欄でご参照いただけます。)

冠嶽山鎭國寺頂峯院冠嶽山鎭國寺頂峯院(かんがくさんちんごくじちょうぼいん)公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、冠嶽山鎭國寺頂峯院の場所のとおりです。住所:鹿児島県いちき串木野市上名7647-111。Tel.:0996-21-2255。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも冠嶽八十八カ所歩き遍路として(リンク先URLは2011年5月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課)でも冠嶽山鎭國寺頂峯院として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも頂峯院として、紹介されています。冠岳エリアにあります。
  
冠嶽山鎭國寺頂峯院(かんがくさんちんごくじちょうぼいん)は、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域にある真言宗の寺院です。徐福(じょふく)到来伝説の地である霊峰・冠岳(冠嶽:かんむりだけ)にあります。聖徳太子の御父君の用明天皇の御代に、蘇我馬子が冠岳に紀州熊野権現勧請したとの由です。冠岳熊野権現の別当寺だった興隆寺が前身とされ、平安時代に阿子丸仙人が興隆寺を天台宗寺院にし、さらに、室町時代に勅を受けて京都の東寺から名僧宗寿法印が下って真言宗冠嶽山鎭國寺頂峯院にしたとの由です。当時の冠嶽山鎭國寺頂峯院は、今日の冠嶽園の場所にありました。
  薩摩藩主島津氏歴代の信仰も厚く、山岳信仰の修行場として栄えましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈の際に薩摩藩領では藩主菩提寺も含めて寺が全滅したため、
冠嶽山鎭國寺頂峯院も一旦は廃寺になってしまいました。昭和58年(1983年)に、村井宏彰師が入山し、冠岳西岳(地図)の中腹に移転して再興し、同61年(1986年)には宗教法人として認可を受けたとの由です。旧寺院跡は冠岳バス停近くにあるとの由で、仁王像や狛犬などが残っているとの由です。近くの徐福展望公園冠岳展望公園には、日本一の徐福像もあるとの由です。
  
冠嶽山鎭國寺頂峯院は、一時期は薩摩藩領内の寺院が1寺も残さずに全滅した、過度の廃仏毀釈が行われた鹿児島県においては、場所が移転したとは申せ復興できた数少ない寺院の中の一つであり、この点で、とても貴重な寺院です。なお、冠嶽山鎭國寺頂峯院以外の鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院については、当ホームページ内の感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記画面(ページ)の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記内の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄

  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅と徐福像前間を、1日4往復「いきいきバス(日曜日のみ、料金は100円)」が運行されているとの由です。時刻表は、2012年4月現在、冠嶽山鎭國寺頂峯院(かんがくさんちんごくじちょうぼいん)公式WEBサイトに載っています。
  冠岳に関する全般的な説明については、当画面(当ページ)上方の
冠岳紹介欄でご参照いただけます。)

冠岳展望公園の場所(日本一の徐福像)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市冠岳(西岳中腹)。Tel.:0996-32-3111(いちき串木野市役所)。鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも冠岳展望公園として(リンク先URLは2012年4月現在)旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも冠岳展望公園 (日本一の徐福石像) <冠岳エリア>として(リンク先URLは2012年4月現在)全国旅そうだんでも徐福展望公園として紹介されています。冠岳エリアにあります。
  
冠岳展望公園は、別名を徐福展望公園とも言い、鹿児島県いちき串木野市串木野市地域冠岳地域にあります。日本一の徐福石像がある公園です。徐福(じょふく)石像が設けられた理由は、冠岳が、始皇帝の命を受けて不老不死の薬を探しに行った徐福到来の地とされる場所であるためです。冠岳は山岳信仰の霊峰で、近くには冠嶽山鎭國寺頂峯院もあります。
  2012年4月現在、公共交通機関での行き方は、JR鹿児島本線・串木野駅と徐福像前間を、1日4往復「いきいきバス(日曜日のみ、料金は100円)」が運行されているとの由です。
  冠岳に関する全般的な説明については、当画面(当ページ)上方の
冠岳紹介欄でご参照いただけます。)

(当HP内の)冠岳温泉案内
(リンク先は(当HP内の)北薩・中薩温泉案内ページ(画面)内の冠岳温泉案内欄冠岳エリアにあります。)

ちかび展示館(串木野国家石油備蓄基地)
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、ちかび展示館の場所のとおり。住所:鹿児島県いちき串木野市野元21803、Tel.:0996-32-4747。日本地下石油備蓄株式会社公式WEBサイトでも串木野国家石油備蓄基地の中で、旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでもちかび展示館として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも石油備蓄の中で、全国旅そうだんでもちかび展示館(日本地下石油備蓄株式会社)として、じゃらんnetでもちかび展示館として紹介されています。)

串木野まぐろラーメン:まぐろラーメンマップ,  味工房みその公式WEBサイト
まぐろラーメンマップの方のリンク先は、イシマル食品ホームページのサブ・コンテンツ(リンク先URLは2013年5月現在)。公式ホームページとしては、まぐろラーメン共栄会事務局があるイシマル食品の中の案内欄串木野まぐろラーメンがある他、お店の公式WEBサイトとして味工房みそのがあります。この他、鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも串木野まぐろラーメンとして(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも串木野まぐろラーメンとして、MAPPLE観光ガイドでも酔匠の里 花もん,  味工房みその,  大衆中華 蘭蘭等として紹介されています。串木野まぐろラーメンを食べられる店は、2011年6月現在、以下のリンク先でお探しいただけます。)
→    ○  串木野まぐろラーメン:まぐろラーメンマップ
(リンク先はイシマル食品のサブ・コンテンツ。)
 ○  いちき串木野の観光・特産品 > 食(グルメ)の店舗リスト
(リンク先は旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドのサブ・コンテンツ。)
 ○  串木野まぐろラーメン勝手にFanSite!

  また、串木野まぐろラーメンは、2011年6月現在、以下のリンク先でお買い求めいただくことができます。
→  
【楽天市場】キーワード「串木野まぐろラーメン」の検索結果


薩摩藩英国留学生の渡欧の碑(薩摩藩英国留学生の渡欧の地)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市羽島4929番地、Tel.:0996-32-3111(いちき串木野市役所)。全国旅そうだんでも薩摩藩英国留学生の渡欧の碑として、じゃらんnetでも薩摩藩英国留学生の渡欧の碑として、鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも薩摩藩英国留学生渡欧の地として(リンク先URLは2011年6月現在)、紹介されています。薩摩藩遣英使節団については、知覧に博物館薩摩英国館があります。)

薩摩藩英国留学生記念館予定地の場所(平成26年度(2014年度)完成予定
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地 羽島浦黎明公園内(羽島漁協前)、Tel.:0996-32-3111(いちき串木野市役所)。2012年4月現在薩摩藩英国留学生記念館(仮称)準備室公式ブログがあり、アクセス・お問合せ等の記事が載っています。また、いちき串木野市ホームページでも薩摩藩英国留学生記念館(仮称)建設について欄のページがありますが、経験則上、地方公共団体のホームページはよくリンク切れになりますので、リンク切れになった場合には、「いちき串木野市ホームページ」上のキーワード「薩摩藩英国留学生記念館」でのgoogle検索結果で内容をお探し下さい。)

長崎鼻公園(串木野)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市小瀬町101先。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでも長崎鼻公園として(リンク先URLは2011年6月現在)全国旅そうだんでも長崎鼻公園,  長崎鼻海水プールとして、じゃらんnetでも長崎鼻公園として紹介されています。)

まち歩きマップ掲載ページ(まち歩き(商店街・湊町)マップできました。)
(リンク先は旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドのサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年12月現在。住所:鹿児島県いちき串木野市。いちき串木野市串木野市地域の商店街としては、商店街まち歩きマップ(串木野の中心商店街)(PDF版),  羽島おすすめマップ(PDF版),  照島お散歩マップ(PDF版)が載っています。)

さのさ館の場所(物産館)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県いちき串木野市上名3018−5、Tel.:0996-33-2030。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでもさのさ館【物産館】として(リンク先URLは2011年6月現在)鹿児島 いちき串木野 観光 グルメ 地域 情報 Ichikikushikino Kagoshima Japan Facebookページでもいちき串木野市の物産館「さのさ館」として紹介されています。いちき串木野総合観光案内所の隣りにあります。)

いちき串木野総合観光案内所の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒896-0052 いちき串木野市上名3018番地内 (「物産館 さのさ館」の隣)、Tel.:0996-32-5256。旬の味、まちの味、人の味 鹿児島 いちき串木野 総合観光ガイドでもいちき串木野総合観光案内所として(リンク先URLは2011年6月現在)、、紹介されています。さのさ館(物産館)の隣りにあります。)

西薩海道 海を味わえる西薩海道ドライブ情報サイト[鹿児島県] (再掲)
いちき串木野市串木野市エリアでは、串木野市島平漁協,  串木野市漁協,  羽島漁協があります。串木野市漁協には、URLの異なる串木野市漁協の別バージョンのHPもあります。各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

照島 海の駅(漁協直営店,食堂)
(リンク先は串木野市島平漁協のサブ・コンテンツで、串木野市島平漁協による公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、照島 海の駅の場所のとおりです。住所:〒896-0031 鹿児島県いちき串木野市東島平町101、Tel.:0996-33-1380。旬の味、まちの味、人の味 いちき串木野総合観光ガイドでも照島 海の駅,  照島海の駅食堂として紹介されています。照島と照島神社地図),串木野フィッシャリーナに隣接しています。各HPのリンク先URLは2011年6月現在
  海の駅とは、道の駅の海版であり、「車だけでなく船でも行ける、道の駅のような所」です。)

串木野フィッシャリーナ(の照会先・島平漁協の場所)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒896-0032 鹿児島県いちき串木野市西島平141(お問い合わせ先:串木野市島平漁協)、Tel.:0996-32-2108(お問い合わせ先:串木野市島平漁協),0996-33-5637(いちき串木野市水産港湾課)。いちき串木野市 ・ 観光でも串木野フィッシャリーナとして(リンク先URLは2011年6月現在)社団法人全国漁港漁場協会でも串木野フィッシャリーナとして(リンク先URLは2011年6月現在)、紹介されています。照島 海の駅に隣接しています。)

シーポイント(漁協直営店)
(リンク先は串木野市漁協のサブ・コンテンツで、串木野市漁協による公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、シーポイントの場所のとおりです。。住所:鹿児島県いちき串木野市西浜町19(串木野市漁協協同組合隣り)、Tel.:0996-32-4456。旬の味、まちの味、人の味 いちき串木野総合観光ガイドでもシーポイント(串木野市漁業協同組合)として紹介されています。各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

うんのもん(漁協直営店)
(リンク先は羽島漁協のサブ・コンテンツで公式WEBサイト(リンク先URLは2012年5月現在)アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、「うんのもん」の場所のとおり。住所:〒896-0062 鹿児島県いちき串木野市浜田町85-1、Tel.:0996-35-0001。旬の味、まちの味、人の味 いちき串木野総合観光ガイドでもうんのもん【物産館】として、かごしまのさかな.com(かごしまの魚のポータルサイト)でも羽島漁協 うんのもんとして紹介されています。各HPのリンク先URLは2011年1月現在。)

かつて、鹿児島ベスト電器串木野店があった場所(平成25年(2013年)2月閉店)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒896-0053 鹿児島県いちき串木野市下名字堀4288-1。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、鹿児島ベスト電器を平成25年(2013年)10月まで運営していたカコイグループは、フランチャイズ契約先を