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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面) > 鹿児島県観光案内 ・ 「奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島 ・ 龍郷町」 > 西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡

西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)

  

西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)訪問記

「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面) > 鹿児島県観光案内 ・ 「奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島 ・ 龍郷町」の西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)を訪れた訪問記録)




観光地名  :  西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)
(さいごうなんしゅうるたくあと(さいごうなんしゅうたっきょあと))

住所
(リンク先は地図)

 :  鹿児島県大島郡龍郷町龍郷166-1

電話番号  :  0997-62-3368(西郷南洲流謫(るたく)跡;要予約)

地図
(powered by Google Map
 : 


休館日  :  不定休(見学は要予約)

入館料  :  2018年5月現在、大人200円、小・中学生100円。

訪問日  :  平成29年(2017年)2月26日
平成30年(2018年)2月7日

HP  :  【楽天トラベル・たびノート】西郷南洲謫居跡
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。)

( その他、 一般社団法人 九州観光推進機構「九州旅ネット」でも西郷南洲流謫跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「九州旅ネット」ホームページ上のキーワード「龍郷町+西郷南洲流謫跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 鹿児島県観光サイト「どんどん鹿児島の旅」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも西郷南洲流謫跡として、ならびに西郷どんがまるわかり!奄美群島編,  西郷どんの島暮らしの中で(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「どんどん鹿児島の旅」ホームページ上のキーワード「龍郷町+西郷」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 一般社団法人 奄美群島観光物産協会公式サイト「ぐーんと奄美」でも西郷南洲謫居跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「ぐーんと奄美」上のキーワード「龍郷町+西郷」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 (一社)あまみ大島観光物産連盟「のんびり奄美」でも西郷南洲謫居跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「のんびり奄美」上のキーワード「龍郷町+西郷南洲謫居跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 (一社)あまみ大島観光物産連盟「奄美大島の観光情報メディア あまみっけ。」でも西郷隆盛ゆかりの地をめぐる奄美大島の旅Vol.4〜龍郷集落〜の中で(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「あまみっけ。」上のキーワード「南洲流謫跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 龍郷町ホームページ(龍郷町役場公式WEBサイト)南洲流謫(るたく)跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、龍郷町ホームページ上のキーワード「南洲流謫」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 薩摩剣士隼人プロジェクト(ブログ)でも第二部奄美編の撮影レポートです! の中で、 公益社団法人日本観光振興協会「全国観るなび」でも西郷南洲謫居跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、日本観光振興協会ホームページ上のキーワード「龍郷町+西郷南洲」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 じゃらんnetでも西郷南洲謫居跡として(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、じゃらんnet上のキーワード「龍郷町+西郷南洲」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 Yahoo! JAPAN ・ Yahoo! ロコでも西郷南洲謫居跡として、 奄美大島のリゾート温泉ホテル「THE SCENE」でも西郷どんゆかりの地巡りの中で(リンク先URLは2018年3月現在。将来もしもリンク切れになったら、「THE SCENE」上のキーワード「西郷どん」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 沖縄・奄美・屋久島の『島の散歩』でも西郷南洲謫居跡として、 奄美まるごと情報局でも西郷南洲謫居跡として、 \MORISA☆BLOG/(blog)でも奄美遠征1日目として、 ーやよい先生のIkebana教室ー(ブログ)でも【奄美大島】西郷どんの暮らした「西郷南洲謫居跡」として、 島へ、そして海に還る日のために... (島酔潜人):So-netブログでも西郷南州流謫の地 奄美大島(3)として、 ともちゃんの『徘徊と独り言』(ブログ)でも「西郷ごん」の逸話 奄美大島への重税の中で、 旅と歴史(ブログ)でも 西郷南洲謫居跡として、 あま美の小さな日常(ブログ)でも愛加那の家として、 旅行 観光NEWS りょこっと(ブログ)でも口コミで人気の西郷隆盛ゆかりのスポットの中で、 YAMASAN's 日本一周!!(ブログ)でも【111日目_奄美2】うみがあおいの中で、 Half Zero Weblog(ブログ)でも奄美旅行1日目の中で、 奄美からの風(ブログ)でも奄美の観光 西郷南洲謫居跡として紹介されています。)

交通案内
アクセス
 : 
鹿児島県への行き方(2017年8月現在)
鉄道 JR九州 ・ 鹿児島支社
・   九州新幹線
・   特急「きりしま」
日豊本線 : 宮崎市−(都城市経由−「霧島温泉への拠点駅・霧島神宮駅」経由)−鹿児島市 ・ 鹿児島中央駅
・   観光列車「いさぶろう・しんぺい」号,  観光特急「はやとの風」
肥薩線 : 熊本県 ・ 人吉−(鹿児島県 ・ 湧水町 ・ 吉松駅乗換−「霧島温泉への拠点駅・霧島温泉駅」経由)−鹿児島市 ・ 鹿児島中央駅
・   特急「指宿のたまて箱」
鹿児島県県内路線・指宿枕崎線鹿児島市 ・ 鹿児島中央駅指宿市 ・ 指宿駅
・   吉都線  宮崎県 ・ 都城市鹿児島県 ・ 湧水町 ・ 吉松駅
・   日南線  宮崎市 ・ 南宮崎駅鹿児島県 ・ 志布志市 ・ 志布志駅

【楽天トラベル×JR】JRご案内ページ(JR九州も含まれます)
肥薩おれんじ鉄道 ・ 快速「スーパーおれんじ」「オーシャンライナーさつま」
熊本県 ・ 八代市−(鹿児島県 ・ 出水(いずみ)経由)−鹿児島県 ・ 川内(せんだい)。旧JR鹿児島本線の同区間が、九州新幹線開業に伴い並行在来線分離により設立された第三セクター鉄道。)
飛行機
空路
飛行機(空路)(注)
(注) 以下の掲載内容は、2017年8月現在の内容です。当ホームページご来訪者が、それ以降の時点で当画面をご覧いただく場合、2017年8月以降の就航会社・就航便の増減等の状況変化については、例えば鹿児島空港公式WEBサイト,  【ウィキペディア】鹿児島空港,以下の各予約サイト、航空会社公式サイト等で、ご確認下さいますよう、お願い申し上げます。


【楽天トラベル・楽パック・国内ツアー(JAL,ANA航空券と宿の同時予約)】 > 鹿児島ツアー
○   【楽天トラベル・ANA楽パック - 国内ツアー(航空券+宿)】 > 「鹿児島県ツアー or 鹿児島県の宿泊施設一覧
○   【楽天トラベル・JAL楽パック - 国内ツアー(航空券+宿)】 > 鹿児島県の宿泊施設一覧
2014年12月現在鹿児島県種子島,  屋久島,  奄美空港奄美大島,  喜界島,  徳之島,  与論島,  沖永良部島の島々に行く航空路線等を運行しているJAL系列のJAC(日本エアコミューター),J-AIR(ジェイエア,JAL系列),RAC(琉球エア・コミューター)の路線も、【楽天トラベル・JAL楽パック】鹿児島県の宿泊施設一覧で予約することができます。)

【楽天トラベル】航空券予約(ANA,JAL,ソラシド エア(Solaseed Air))
2014年12月現在、ANA,JAL本体の運航便だけでなく、ソラシド エア(Solaseed Air)の予約もできます2014年12月現在鹿児島県種子島,  屋久島,  奄美空港奄美大島,  喜界島,  徳之島,  与論島,  沖永良部島の島々に行く航空路線を運行しているJAL系列のJAC(日本エアコミューター),J-AIR(ジェイエア,JAL系列),RAC(琉球エア・コミューター)の路線も、JALの予約画面で予約することができます。また、2014年12月現在、ソラシド エア(Solaseed Air;社名はスカイネットアジア航空)は、東京/羽田空港公式HP,  解説)−鹿児島空港線、沖縄県 ・ 那覇空港解説)−鹿児島空港線を就航しています。)
スカイマーク(SKY)
2014年12月現在東京/羽田空港公式HP,  解説)−鹿児島空港線、神戸空港解説)−鹿児島空港線を就航しています。)
フジドリームエアラインズ(FDA)
2014年12月現在、2009年夏から就航した静岡県 ・ 富士山静岡空港公式HP,  解説)−鹿児島空港線を就航しています。)
LCC(格安航空会社)各社の国内路線
2017年8月現在、運航会社と運航路線は以下のとおり。今後の増減については、鹿児島空港公式WEBサイト,  奄美空港ターミナルビル(株)公式WEBサイト(もしも将来リンク切れになったら、【Wikipwdia】奄美空港等で、お調べ下さい。)
○  Jetstar(ジェットスター・ジャパン)解説
   2018年5月の運航路線は、東京/成田国際空港解説,  搭乗手続きカウンターは成田国際空港 第3ターミナル地図))−鹿児島空港間,ならびに名古屋/中部国際空港 セントレア解説)−鹿児島空港間です。)
○  Peach Aviation(ピーチ・アビエーション)解説(注1)
   2017年8月現在の運航路線は、大阪/関西国際空港解説)(2017年8月現在第2ターミナルビル(T2)解説))−鹿児島空港間です。)
○  バニラエア(Vanilla Air)解説(注1)
   2018年5月現在の就航路線は、東京/成田国際空港解説,  2018年5月現在搭乗手続きカウンターは成田国際空港 第3ターミナル地図))−奄美空港奄美大島)間,ならびに大阪/関西国際空港解説)(2017年8月現在(注2)第1ターミナル)−奄美空港間です。)
(注1) 航空会社と就航路線は、2018年5月現在ANAグルー公式WEBサイト ・ 【プレスリリース】(2018年3月22日付第17‐025号)「PeachとVanilla Airの統合について〜アジアの「リーディングLCC」を目指します〜」,ならびにバニラエア(Vanilla Air)公式WEBサイト ・ 【プレスリリース】2018.03.22付「PeachとVanilla Airの統合について〜アジアの「リーディングLCC」を目指します〜」によれば(リンク先URLは2018年5月現在)、平成31年度(2019年度)末を目途にANAホールディングスは、バニラエア(Vanilla Air)解説)とPeach(ピーチ)(Peach Aviation(株)(ピーチ・アビエーション))解説)とを、Peach(ピーチ)(Peach Aviation(株)(ピーチ・アビエーション))解説)を基盤に統合すると発表しました。したがって、遅くとも平成32年度(2020年度)以降は、これらの路線に就航する航空会社は、この統合新会社になる予定です。
(注2) なお、関西国際空港ではLCC(格安航空会社)ターミナルは第2ターミナルビル(T2)解説)であるため、バニラエア(Vanilla Air)解説)の搭乗口ターミナルがが将来も継続して第1ターミナルである確率は100%ではなく、将来、第2ターミナルビル(T2)解説)に移転する可能性を否定はできないのではないか、と思います。


国際線の路線
国際空港・鹿児島空港に行く国際線路線の運行会社については、(当HP内の)「鹿児島への交通,アクセス」画面(ページ)内の「飛行機(空路)」欄でご参照いただけます。)
鹿児島空港公式HP,  地図
鹿児島県 ・ 霧島市溝辺町地域にあります。この欄で紹介している鹿児島空港就航路線は2014年12月現在のものであり、当ホームページご来訪者の方が当HPをご覧いただく際、それ以降の路線の増減等の状況変化については、鹿児島空港公式HP,もしくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鹿児島空港でご参照下さい。)
海路 鹿児島県への旅客船航路
鹿児島県外から、鹿児島市,  志布志市,  長島,  奄美大島,  喜界島,  徳之島,  与論島,  沖永良部島に行く旅客船の2014年12月現在の航路については、(当HP内の)「鹿児島への交通,アクセス」画面(ページ)内の「海路」欄でご参照いただけます。
(当HP内の)鹿児島港紹介欄
鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島港を海上交通上の交通結節点(ハブ)港として、鹿児島市経由で鹿児島県種子島,  屋久島,  三島村(竹島・硫黄島(鬼界ヶ島)・黒島),  十島村(吐喝喇列島(トカラ列島)),  奄美大島,  喜界島,  徳之島,  与論島,  沖永良部島に行く場合と、沖縄県国頭郡 ・ 本部町,  那覇市から鹿児島県九州島本土に行く場合の港です。各行き先ごとの2014年時点の埠頭については、(当HP内の)鹿児島港紹介欄でご参照いただけます。)
(当HP内の)志布志港紹介欄
2014年12月現在鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域志布志港は、大阪から鹿児島県九州島本土内地域に行く場合のフェリー・ターミナルです。)
バス
【路線バス(高速バス以外は県内移動用)
2017年8月現在鹿児島交通(注1),  三州自動車(注2)等のいわさきグループ ・ いわさきコーポレーション(株)解説のバス路線,ならびに南国交通(株)解説,  JR九州バス(株)解説,  鹿児島市交通局解説の路線バスの時刻表・路線検索は、以下のリンク先でご参照可能です(注3)
九州のバス時刻表
交通ナビかごしま
(注1) いわさきバスネットワーク(=旧林田バスのバス路線は、2016年3月30日の事業譲渡のため、2017年8月現在鹿児島交通のバス路線になっています。
(注2) 大隅交通ネットワークのバス路線は、2011年12月1日付けの事業譲渡のため、2017年8月現在三州自動車のバス路線になっています。
(注3) 2017年8月現在九州のバス時刻表では、三州自動車のバス路線は、同じいわさきコーポレーション(株)鹿児島交通の社名で表記されています。なお、2017年8月現在いわさきコーポレーション(株)のバス会社の中でも、種子島・屋久島交通のバス路線は、九州のバス時刻表には載っていません。

九州のバス乗り放題乗車券「SUNQパス」
九州ローカルバス時刻表(バス時刻表ボランティアHP) ・ 鹿児島県
運行情報 九州のりものinfo.com
九州のりものinfo.com:九州の公共交通機関の運行情報サイト〜鉄道(JR九州(九州旅客鉄道(株))・鹿児島市電(鹿児島市交通局)・肥薩おれんじ鉄道・他)、バス、旅客船・フェリー、航空
レンタカー オリックス・レンタカー鹿児島・種子島・屋久島・宮崎・熊本



奄美空港に着いてからの行き方>

  2018年5月現在奄美大島奄美市笠利町地域奄美空港地図)から西郷南洲謫居跡への行き方は、以下のとおりです。
→   (1)  名瀬(なぜ)奄美市名瀬市地域)(地図)行き(注)しまバス解説)の路線バスに乗り、「龍郷役場前」バス停(地図)で一旦下車して、
(注) 名瀬(なぜ)奄美市名瀬市地域)の中心街中心市街地)「なぜまち地図)」の主要なバス停は、しまバス本社前(本社営業所)地図),  港町待合所前地図),  ホテル ウエストコート奄美公式WEBサイト)(地図)の3ヶ所です。バスの便によって行き先や、この3ヶ所のバス停の内の停まるバス停、途中の経路等々は異なり得ますが、この3ヶ所の内のいずれかに行く路線のバスに乗れば「なぜまち」に行くことができ、また、2018年5月現在、その全路線のバスが、「龍郷役場前」バス停(地図)を通ります。

(2)  「龍郷役場前」バス停(地図)の道路の反対側車線のバス停で、しまバス解説)の「龍郷線(龍郷町周遊路線) 東廻り/本龍郷廻り」の路線バスに乗り換えて、「龍郷」バス停(地図)下車、徒歩です。


  しまバス解説)の路線バスの時刻表は、しまバス公式WEBサイトで、お調べいただけます。
→   しまバス公式WEBサイト


  なお、奄美空港に行く航空路線については、当ホームページ内の奄美空港紹介欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)奄美空港紹介欄


名瀬中心街中心市街地)「なぜまち」からの行き方>

  2018年5月現在名瀬(なぜ)奄美市名瀬市地域)の中心街中心市街地)「なぜまち地図)」から西郷南洲謫居跡へは、しまバス解説)の「龍郷線(龍郷町周遊路線) 西廻り/芦花部廻り」の路線バスに乗り、「龍郷」バス停(地図)下車、徒歩です。このバス路線の「なぜまち地図)」でのバス停は、2018年5月現在港町待合所前地図),  しまバス本社前(本社営業所)地図)等です。

  なお、船で奄美大島にお越し下さる方が、名瀬港新港船客待合所(名瀬新港フェリーターミナル)地図),  名瀬港佐大熊岸壁(なぜこうさだいくまがんぺき)地図))からの西郷南洲謫居跡への行き方は、奄美市名瀬市地域中心街中心市街地)「なぜまち」からの行き方と、同じです。いずれの岸壁の場合も、名瀬市街地行きの路線バスに乗って一旦「なぜまち」まで行った上で、「龍郷線(龍郷町周遊路線) 西廻り/芦花部廻り」の路線バスに乗れば、行くことができます(注)
(注) 名瀬港佐大熊岸壁(なぜこうさだいくまがんぺき)地図)の場合には、一旦「なぜまち」に行くことは、目的地・西郷南洲謫居跡に対して逆方向に戻る動線になりますが、2018年5月現在名瀬港佐大熊岸壁地図)最寄りのバス停には、「龍郷線(龍郷町周遊路線) 西廻り/芦花部廻り」の路線バスは停まらず、通過する模様です。このため、上述のようなご案内を行っております。


  しまバス解説)の路線バスの時刻表は、しまバス公式WEBサイトで、お調べいただけます。
→   しまバス公式WEBサイト



鹿児島の温泉地&観光地
(当HPの目次)
(HP全体)
 : 
鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
温泉宿 →鹿児島県の温泉宿宿泊予約はこちらへ
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)


鹿児島県の温泉宿,ホテル宿泊予約  : 
鹿児島県の宿泊予約&観光案内
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鹿児島市(鹿児島市内・桜島)にある温泉宿の宿泊予約
鹿児島温泉,古里温泉等)
  鹿児島市(鹿児島市内・桜島) ホテル・旅館宿泊予約
指宿温泉 温泉宿予約   南薩(指宿・枕崎) ホテル・旅館宿泊予約
吹上温泉 温泉宿予約
上記以外の南薩(指宿・枕崎)の温泉宿は
南薩(指宿・枕崎)にある温泉宿の宿泊予約
川内高城温泉 温泉宿予約   北薩(出水・川内) ホテル・旅館宿泊予約
市比野温泉 温泉宿予約
阿久根温泉 温泉宿予約
宮之城温泉 温泉宿予約
紫尾温泉 温泉宿予約
上記以外の北薩(出水・川内)の温泉宿
北薩(出水・川内)にある温泉宿の宿泊予約
霧島温泉 温泉宿予約   大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦) ホテル・旅館宿泊予約
霧島神宮温泉 温泉宿予約
妙見温泉 温泉宿予約
日当山温泉 温泉宿予約
上記以外の大隅地方の温泉宿は
大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)にある温泉宿の宿泊予約
種子島にある温泉宿の宿泊予約   種子島 ホテル・旅館宿泊予約
屋久島にある温泉宿の宿泊予約   屋久島 ホテル・旅館宿泊予約
(天然温泉ではなく大浴場での検索結果ですが)
奄美大島・喜界島・徳之島 大浴場付宿の宿泊予約
  奄美大島・喜界島・徳之島 ホテル・旅館宿泊予約
(天然温泉ではなく大浴場での検索結果ですが)
沖永良部島・与論島 大浴場付宿の宿泊予約
  沖永良部島・与論島 ホテル・旅館宿泊予約
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【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったANA楽パック ・ 【楽天トラベル ANA楽パック】鹿児島県の宿一覧
【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったJAL楽パック ・ 【楽天トラベル JAL楽パック】鹿児島県の宿一覧
【楽天トラベル×JR】JRご案内ページ(JR九州も含まれます)
【楽天トラベル・たびノート】鹿児島県の観光スポット


解説  : 
当画面(西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)訪問記)の目次
住所・電話 地図 HP
交通案内
アクセス
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解説 感想 写真(画像)
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  西郷南洲流謫跡さいごうなんしゅうるたくあと)(西郷南洲謫居跡さいごうなんしゅうたっきょあと))は、奄美大島における西郷どん(せごどん)こと西郷隆盛,ならびに奄美大島での妻・愛加那関連の観光スポット中、詳しくは次段落以降で解説するとおり、最も有名と言えるであろう2人が暮らした家です。西郷どん(せごどん)こと西郷隆盛は、平成30年(2018年)にNHK 大河ドラマ西郷どん公式WEBサイト,  【楽天ブックス】キーワード「西郷どん」の検索結果,  【NHKオンデマンド】西郷どん)」の主人公です(【NHKオンデマンド】西郷どんリンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、NHKオンデマンド・ホームページ上のキーワード「西郷どん」のgoogle検索結果でお探し下さい)。

  当段落以降の数段落では最初に、西郷隆盛愛加那の解説を行います。(一社)あまみ大島観光物産連盟「奄美大島の観光情報メディア あまみっけ。」 ・ 西郷隆盛ゆかりの地をめぐる奄美大島の旅Vol.4〜龍郷集落〜リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「あまみっけ。」上のキーワード「南洲流謫跡」のgoogle検索結果でお探し下さい),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷隆盛,  徳永和喜幕末明治 鹿児島県謎解き散歩中経の文庫KADOKAWA),2017,電子書籍版も有り)pp.64-66.,林 真理子街歩き 西郷どん!KADOKAWA,2017,電子書籍版も有り)pp.66-67.,植松三十里愛加那と西郷小学館文庫,2016,電子書籍版も有り)pp.130-152.,ならびに鹿児島県大島郡龍郷町教育委員会『龍郷町文化財ガイドブック2013』(龍郷町教育委員会,2013)p.40.等によれば、西郷南洲流謫跡さいごうなんしゅうるたくあと)(西郷南洲謫居跡さいごうなんしゅうたっきょあと))は、江戸時代末期の安政5年7月16日(1858年8月24日)に薩摩藩第11代藩主で島津氏第28代当主の島津斉彬公が急逝した後、安政5年(1858年)〜安政6年(1859年)の安政の大獄御尋ね者の政治犯と化した西郷隆盛が、安政6年1月12日(1859年2月14日)〜文久2年1月14日(1862年2月12日)に奄美大島 名瀬 間切 龍郷方龍郷(現・鹿児島県 大島郡 龍郷町大字龍郷)に隠れ住んでいた3ヶ所の家の内、最後に住んでいた家であるとの由です。しかし、同情報源によれば、皮肉なことに、文久元年11月20日(1861年12月21日)に新居が完成するとすぐ(『龍郷町文化財ガイドブック2013』p.40.によれば新居に移転したその日に)、薩摩藩への帰藩の召喚状が、西郷隆盛に届いたとの由です。このため、西郷隆盛がこの新居に住めたのは、文久2年1月14日(1862年2月12日)に奄美大島を離れるまでの間の1〜2ヶ月程の短い期間であったとの由です。

  とは申せ、同情報源によれば、それまでの借家とは異なり自分の家であったため、西郷隆盛が去った後も奄美大島での妻・愛加那(天保8年(1837年) - 明治35年(1902年)8月)は晩年までこの家に住み続けたとの由です。なお、愛加那は「島妻」(=本土に本妻のある赴任者が、奄美群島滞在期間だけ妻とする妻)と書かれる場合もありますが、他の島妻の場合とは異なり、実はその時点での正妻であったとする説もあり、当ホームページ管理人もこの説に賛成します。その理由は3点あります。1点目は愛加那との結婚婚時点で西郷隆盛は独身だったことであり、2点目は愛加那と西郷p.100によれば西郷隆盛愛加那の結婚は正式に祝言結婚式)を挙げての結婚だったことであり、3点目は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 愛加那によれば、愛加那は、代々外城衆中格(とじょうしゅうじゅうかく,郷士格)の奄美大島を代表する名家の中の1家でで士族の龍家/田畑家(かつての笠利氏)庶流の為志(りゅう・ためし)の娘であったことです。3点の理由の内、最初の2点は、本土に正妻がある他の島妻の場合に対する明白な相違点であるため、愛加那が島妻であったこと自体は事実ではあっても、他の島妻の場合とは異なり正妻だったと言えると考える訳です。

  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷隆盛によれば、西郷隆盛奄美大島来島前に、最初の妻・伊集院須賀(敏(敏子)であったとも云われる)とは安政元年(1854年)に離婚していたため、愛加那は2度目の妻であり、文久2年(1862年)の帰藩後の慶応元年(1865年)に3度目の妻・西郷糸子(西郷イト)と結婚したとの由です。つまり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷隆盛2018年5月参照時点の記載内容でも、愛加那は2度目の妻として記載されており、言い換えればキチンと正当に正妻扱いされた記述内容となっています。さはさりながら、愛加那と西郷p.96,pp.130-152.等によれば、奄美大島の士族の名家の娘であるとは申せ、当時、奄美大島生まれの女性を本土に連れ帰ることは許されなかったため、西郷隆盛が帰藩して本土に帰った後は、上述したとおり愛加那奄美大島に残り、死亡時までこの家に住み続けたとの由です。この史実について、上述した「西郷糸子(西郷イト)西郷隆盛の3度目の妻として数えられている」旨に併せて鑑(かんが)みれば、「愛加那は正妻ではあったが、島妻でもあったために奄美大島から出られなかったため、文久2年(1862年)の西郷隆盛の帰藩時点で、当時の社会制度の下では自動的に、他の島妻同様の立場にならざるを得なかった = 西郷隆盛奄美大島在住時期の期間限定の正妻であった」ということになろうかと、考えます。傍証として、愛加那の墓は、(西郷家の墓ではなく鹿児島県 大島郡 龍郷町 大字龍郷の田畑(龍)家墓にあり、かつフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 愛加那によれば、愛加那の墓田畑(龍)家墓,  ブジティンヌハカ,  弁財天墓地)に刻まれた名前は「(西郷愛子ではなく)龍愛子」となっているとの由です。この墓碑名は、「死亡時点の愛加那は生家の名字に復姓していた」状況を示すものであるため、傍証となる訳です。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 愛加那によれば、愛加那が没したのは明治35年(1902年)8月のことであるとの由であり、前段落で上述したとおり、鹿児島県 大島郡 龍郷町 大字龍郷の愛加那の墓田畑(龍)家墓,  ブジティンヌハカ,  弁財天墓地)に眠っているとの由です。

  なお、愛加那と西郷等によれば、奄美大島西郷隆盛がお世話になった人物も、愛加那の生家の一族・龍家/田畑家(かつての笠利氏)の人物であり、当時の同家の当主の龍佐民(りゅう さみん)であったとの由です。(一社)あまみ大島観光物産連盟「奄美大島の観光情報メディア あまみっけ。」 ・ 西郷隆盛ゆかりの地をめぐる奄美大島の旅Vol.3〜西郷南洲第二の潜居地〜(西郷さんが見ていた龍郷の海と第二の潜居地)によれば(リンク先URLは2018年3月現在。将来もしもリンク切れになったら、「あまみっけ。」上のキーワード「龍郷町+西郷+第二+潜居」のgoogle検索結果でお探し下さい)、「『今日の西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)である当時の新居』に移る前の住居であり、かつ、詳しくは後述する西郷菊次郎が生まれた家」は、奄美大島 名瀬 間切 龍郷方龍郷(現・鹿児島県 大島郡 龍郷町 大字龍郷)の菊池源吾第二の潜居地西郷隆盛第二の潜居地,  西郷南洲第二の潜居地,  西郷隆盛が2番目に住んでいた場所)であり、その場所は、城郭のような構えの龍家の屋敷内にあった離れの一軒家であったとの由です。龍家/田畑家(かつての笠利氏)に関して詳しくは、当ホームページ内の津代古戦場跡紹介欄で解説しております。
→   (当HP内の)津代古戦場跡紹介欄


  次に、当段落以降で、西郷菊次郎について解説します。愛加那と西郷等によれば、西郷隆盛愛加那との間の長子・西郷菊次郎(万延2年1月2日(1861年2月11日)〜昭和3年(1928年)11月27日)は、奄美大島 名瀬 間切 龍郷方龍郷(現・鹿児島県 大島郡 龍郷町 大字龍郷)の菊池源吾第二の潜居地西郷隆盛第二の潜居地,  西郷南洲第二の潜居地,  西郷隆盛が2番目に住んでいた場所)で生まれて、「今日の西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の家」に転居後、後述する9歳の時の鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)への移転までの間、この「今日の西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の家」で育ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷菊次郎によれば、西郷菊次郎は、明治2年(1869年)に9歳で鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の西郷本家に引き取られて、明治5年(1872年)に12歳でアメリカ合衆国(米国)に留学したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷隆盛によれば、西郷菊次郎西郷隆盛家に引き取られた明治2年(1869年)は、7月に西郷隆盛薩摩国 鹿児島郡 武村(明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制で表記すれば鹿児島県第二大区六小区武村(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域町名」))の西郷武屋敷を購入した年であるとの由であり、西郷家が、鹿児島城(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の西郷南州翁宅地から引っ越した年です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷菊次郎によれば、西郷菊次郎はその後、明治10年(1877年)の西南戦争西郷軍側で従軍して右足に銃弾を受けて膝下を切断した後、明治17年(1884年)外務省に入省して、在米国日本公使館に勤務し、明治20年(1887年)に再度アメリカ合衆国(米国)に留学し、明治23年(1890年)に帰国して宮内省 式部官 ・ 奏任官三等に任じられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷菊次郎,  京都市によれば、西郷菊次郎は明治28年(1895年)に台湾に転じて基隆支庁長、宜蘭長官を歴任し、その後、明治37年(1904年)10月12日〜明治44年(1911年)7月13日に京都市を務めて、京都市三大事業(「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」,「上水道整備」,「道路拡築および市電敷設」)を遂行したとの由です。同情報源によれば、鹿児島県の観光スポットの見地からは、京都市退任後の西郷菊次郎は、今日では閉山して産業遺産観光スポットとなっている鹿児島県 霧島市横川町地域山ヶ野金山(=薩摩郡 さつま町薩摩町地域永野金山)(解説)の鉱業館長も務めたとの由です。
明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制施行時期の住所は、ばる動物病院 ・ 病院からのお知らせ:「本のなかの犬と猫」・その4は池波正太郎の「人斬り半次郎・賊将編」です。によれば(リンク先URLは2018年5月現在)、鹿児島県下第二大区六小区武村四十二番地であるとの由です。


  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷隆盛,ならびに愛加那と西郷pp.119-120.によれば西郷菊次郎は、西郷隆盛にとっても長男でしたが庶子扱いであったとの由であり、このため、長男であるにもかかわらず、(「太郎」ではなく)「次郎」の字が名前に付けられているとの由です。即ち、「長子」という位置づけの子であったことになります。西郷隆盛の嫡男は、その3度目の妻・西郷糸子(西郷イト)との間に生まれた西郷寅太郎(慶応2年7月12日(1866年8月21日)〜大正8年(1919年)1月1日)であったとの由です。なお、「太郎」「次郎」の類の名前は、兄弟の長幼の順を示すための輩行名(はいこうめい)であって、これは仮名(けみょう;通称のこと)の一種であるため、本来は「(いみな;「忌み名」とも書き、本名(True name)のこと(注1),  (注2))」で用いる名前ではありません。このことと、薩摩 西郷氏通字(とおりじ)は「隆」であることとに併せて鑑(かんが)みれば、西郷菊次郎西郷寅太郎も、本来は「西郷隆〇」という(本名)があった可能性も想定可能です。しかし、両名共に今日に伝わっている名前は「『太郎』、『次郎』の類の文字が使われている『輩行名 ⊂ 仮名(通称)』」であり、このことと、両名の名前は明治時代に戸籍制度が整えられた時代に登録した「法的に正式な名前」である旨とに併せて鑑(かんが)みれば、「輩行名 ⊂ 仮名(通称)」を本名として戸籍登録してしまった可能性が一定の確率で想定可能と考えます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷氏,ならびに西郷菊次郎記載の薩摩 西郷氏の家系図を見れば、西郷菊次郎西郷寅太郎も共に、自分たちの子供達には「『隆』の通字(とおりじ)」を用いた名前を付けている旨に鑑(かんが)みれば、両名共に、「『輩行名 ⊂ 仮名(通称)』が本名として戸籍登録されている」状況を内心では快く思っていなかった可能性が、一定の確率で想定可能と考えます。西郷隆盛が、本来はその父親の(本名)である「隆盛」を誤って戸籍登録されてしまった後に修正を求めなかったという有名な史実に鑑(かんが)みれば、西郷隆盛は「(本名)は何か?」という問題を気にしなかったのに対して、子供達は「やはり、キチンと名前を付けようぜ!」と思っていた可能性が、一定の確率で想定可能であると推測します(ただし、これは推測の域を出ない仮設モデルであるため、逆に、史実はそうではなかった可能性も一定の確率であり得ます。何らかの記録が残っていない限り、この仮説モデルが史実どおりであるか否かを検証することはできません)。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西郷菊次郎によれば、西郷菊次郎は、昭和3年(1928年)年11月27日に、鹿児島県 鹿児島市 薬師町(現・鹿児島県 鹿児島市町名薬師1丁目(この辺り(地図))」,「薬師2丁目(この辺り(地図))」)の自宅で、心臓麻痺で67歳で死んだとの由です。観光かごしま大キャンペーン推進協議会(鹿児島県観光交流局観光課+公益社団法人鹿児島県観光連盟)「明治維新と鹿児島みて歩き」 ・ 西郷家の墓(鹿児島市)リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「明治維新と鹿児島みて歩き」ホームページ上のキーワード「鹿児島市+鹿児島市」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに鹿児島のまち歩き、観光案内。 ・ 西郷家の墓には西郷どんの家族が眠る。によれば、西郷菊次郎が眠っている墓は、鹿児島県 鹿児島市 常盤2-2-14の西郷家の墓地図)の中にあるとの由です。同情報源によれば、西郷家の墓は元々は、今日の鹿児島県 鹿児島市松原町南林寺町にかけての地域あった名刹・曹洞宗 ・ 南林寺(明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺。跡地は現・松原神社,  南林寺由緒墓,  臨済宗 相国寺派 ・ 南洲寺(僧月照の墓)。後の移転再興寺院は曹洞宗 ・ 大中寺(薩摩義士の墓))の廃寺後も霊園が残っていた南林寺墓地にあったとの由ですが、大正11年(1922年)に都市計画で南林寺墓地の移転が行われた際に、西郷家の墓も現在地に移転したとの由です。鹿児島のまち歩き、観光案内。 ・ 西郷家の墓には西郷どんの家族が眠る。によれば、西郷隆盛菩提寺臨済宗 相国寺派 ・ 南洲寺であるとの由であり、南洲寺には僧月照の墓があります。なお、臨済宗 相国寺派 ・ 南洲寺(僧月照の墓)曹洞宗 ・ 南林寺の跡地の中の一部にありますが、その後継寺院ではなく宗派も異なっています。かつての曹洞宗 ・ 南林寺の後継寺院は、場所は離れていますが、移転再興寺院である曹洞宗 ・ 大中寺(薩摩義士の墓)です(誤解を避けるべく念のため)。

  なお、鹿児島県 日置市日吉町町地域大乗寺跡の敷地内にある薩摩焼の窯元「日置南州窯」の陶主の陶芸家・西郷隆文氏は、優れた陶芸家であることで有名ですが、西郷菊次郎の孫(即ち、西郷隆盛のひ孫)であることでも知られています。「日置南州窯」の陶磁器は2018年5月現在楽天市場の以下のリンク先でお探しいただけます。
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  また、「日置南州窯」に限らず、薩摩焼については、以下の楽天市場リンク先でお求めいただけます。
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  また、当段落以降では、菊草大山菊子)の解説をします。愛加那と西郷等によれば、西郷隆盛愛加那との間の長女・菊草大山菊子)(文久2年7月2日(1862年7月28日)〜明治42年(1909)9月7日)は「今日の西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の家」で生まれたとの由です。西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,ならびに幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後によれば、明治6年(1873)1月18日の愛加那宛ての手紙で西郷隆盛は、年をとったせいか子供(菊草)のことを思い出すという理由で愛加那に、母娘で本土に鹿児島に来るように依頼したり、明治6年(1873)5月に叔父の椎原国幹奄美大島に行って菊草を連れて来るように依頼した上で、その旨を当時アメリカ合衆国(米国)に留学中だった西郷菊次郎にも手紙で伝えたりしたとの由ですが、いずれも実現には至らなかったとの由です。同情報源、ならびに愛加那と西郷pp.238-248によれば、明治7年(1874年)〜同8年(1875年)頃に菊草は、旧鹿児島城近在村(この時期、明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制で表記すれば恐らくは鹿児島県第一大区等(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域))近郊の鹿児島県第二大区六小区**(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域町名」)の西郷武屋敷西郷隆盛家に引き取られたとの由です。西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,ならびに幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後によれば、明治9年(1876年)10月に菊草は、父の従兄弟の大山誠之助西郷隆盛の父・西郷吉兵衛の弟・大山綱昌の三男。大山綱昌の次男で後の元帥 陸軍大将大山巌は、大山誠之助の実兄。)と婚約したとの由です。愛加那と西郷pp.283-284.によれば、大山誠之助は結婚前当時酒乱であったために菊草旨の情報が載っていますが、同書p.318.によれば、詳しくは次段落で後述する結婚を機に大山誠之助は心を入れ替えた旨が載っています。しかし、一時期はそのように見えた時期もあったのかも知れませんが、詳しくは後述するとおり、大山誠之助は「だめんず(ダメな男)」夫であったとの由です。
鹿児島市ホームページ(鹿児島市役所) ・ 市政情報 ・ 鹿児島市の紹介 ・ 鹿児島市史等 ・ 過去の鹿児島市史 ・ 鹿児島市史第1巻(昭和44年2月発行) ・ 第5編 明治前期の鹿児島(PDF版)p.631によれば(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、鹿児島市ホームページ(鹿児島市役所)上のキーワード「第五編 明治前期の鹿児島」のgoogle検索結果,  鹿児島市ホームページ(鹿児島市役所)上のキーワード「過去の鹿児島市史」のgoogle検索結果,  鹿児島市ホームページ(鹿児島市役所)上のキーワード「鹿児島市史+昭和44年」のgoogle検索結果等でお探し下さい)、明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制施行時期の鹿児島市には、第一・第二・第三区がおかれたとの由です。
** 明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制施行時期の住所は、ばる動物病院 ・ 病院からのお知らせ:「本のなかの犬と猫」・その4は池波正太郎の「人斬り半次郎・賊将編」です。によれば(リンク先URLは2018年5月現在)、鹿児島県下第二大区六小区武村四十二番地であるとの由です。


  西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,ならびに幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後によれば、明治10年(1877年)2月17日に始まった西南戦争菊草の婚約者・大山誠之助西郷隆盛軍(薩軍)の1員として加わって出征したとの由です。西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子によれば、明治10年(1877年)2月17日の官軍(政府軍)の鹿児島上陸に際して菊草を含む西郷隆盛家は、永吉村坊野(ぼうの)(当時・明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制での名称は存じ上げませんが、明治11年(1878年)の地方三新法,ならびに明治22年(1889年)の町村制施行時は、鹿児島県 日置郡 永吉村の坊野(現・鹿児島県 日置市吹上町地域大字吹上町永吉」の「坊野上(この辺り(地図))」&「坊野下(この辺り(地図))」))に避難したとの由です。同情報源,ならびに鹿児島市ホームページ(鹿児島市役所公式WEBサイト) ・ 西郷南洲野屋敷の跡リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、鹿児島市ホームページ上のキーワード「鹿児島市+西郷南洲野屋敷」のgoogle検索結果でお探し下さい)によれば、同年(明治10年(1877年))8月に西郷隆盛の留守宅の家族達は、西郷家の拘地(かけじ,自作地のこと)があった、旧鹿児島城近在西別府(にしのびゅう)村(当時・明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制での名称は存じ上げませんが、明治11年(1878年)の地方三新法施行時には鹿児島県 鹿児島郡 鹿児島近在西別府村(明治22年(1889年)の町村制施行時には、鹿児島県 鹿児島郡 西武田村 大字 西別府(現・鹿児島県 鹿児島市鹿児島市地域町名西別府町(にしべっぷちょう)」)))の納屋(現スポット名・西郷野屋敷跡)に移ったとの由です。上記各情報源によれば、この2場所への避難は、この2場所への避難は、西郷隆盛の3度目の妻・西郷糸子(西郷イト)や、菊草も含む西郷隆盛の子だけでなく、西郷隆盛の弟達の妻等々、合計11名であったとの由です。西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子によれば、同年(明治10年(1877年))9月24日の西南戦争終戦後しばらくして、村の西郷武屋敷に戻ったとの由です。

  西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,  幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後,ならびに西南戦争と国事犯のその後 ・ 64 大山誠之助・官軍重臣大山巌の弟によれば、菊草の婚約者・大山誠之助は、上述したとおり西南戦争西郷隆盛軍(薩軍)の1員として加わっており、宮崎県長井村(当時・明治5年10月10日(1872年11月10日)〜明治11年(1878年)7月22日の大区小区制での名称は存じ上げませんが、現・宮崎県 延岡市北川町地域の大字「北川町長井(この辺り(地図))」)で投降して、長崎県の臨時裁判所で判決を受けた後、宮城県に護送されて、明治10年(1877年)9月24日の西南戦争の終戦後は、国事犯として、明治11年(1878年)7月22日からの行政区画名で宮城県 仙台区の旧若林城下町地域(現・仙台市 若林区)の今日の住所は「宮城県 仙台市 若林区古城2-3-1」の宮城集治監(現・宮城刑務所地図)に収監されていたとの由です。同情報源によれば、明治12年(1879年)に大山誠之助は釈放されて鹿児島県に帰って来て、明治13年(1880年)2月12日に大山誠之助30歳、菊草17歳で結婚したとの由です。上記情報源によれば、大山誠之助 ・ 愛加那夫妻は米子、慶吉、綱則、冬子の子に恵まれたとの由ですが、

  ところが、西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,  幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後,ならびに西南戦争と国事犯のその後 ・ 64 大山誠之助・官軍重臣大山巌の弟によれば、大山誠之助は定職に就かず、借金を抱え、おまけに加えて家庭内暴力を振るう、絵に描いたような「だめんず(ダメな男)」夫であったとの由です。西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,ならびに幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後によれば、同年(明治26年(1893年))1月5日付で大山巌西郷菊次郎宛てに、「実弟・大山誠之助が、また例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。」という内容の手紙を出したとの由です。明治26年(1893年)は、西郷菊次郎は上述したとおり、明治28年(1895年)に台湾に転じて基隆支庁長になったりした明治28年(1895年)よりも前の時期であり、明治23年(1890年)に宮内省 式部官に就任していた時期のことです。同情報源によれば、大山誠之助の借金整理のために鹿児島市の大山家を整理することになり、大山誠之助一家は東京に移り、子供達は大山巌 ・ 大山捨松夫妻に引き取られたとの由ですが、大山誠之助 ・ 菊草大山菊子)夫妻が東京で暮らしていた家がどこにあったかは不明であるとの由です。

  西郷隆盛の妻 - 西郷家の女性たち ・ 大山菊子,ならびに幕末維新風雲伝 ・ 愛加那(とぅま)と大山菊子・菊草〜西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後によれば、明治40年(1907年)頃に菊草大山菊子)はようやく、「だめんず(ダメな男)」夫・大山誠之助との別居が叶い、明治37年(1904年)10月12日から京都市を務めていた時期の実兄・西郷菊次郎のもとに身を寄せたとの由です。同情報源によれば、一方、大山誠之助の方は、大山巌邸の敷地内に家を建ててもらっていた息子の大山慶吉宅に住むことになったとの由です。同情報源によれば、菊草大山菊子)は明治42年(1909年)9月7日に47歳で京都市で死去し、大山誠之助は大正4年(1915年)7月16日に65歳で死去したとの吉です。同情報源によれば、菊草大山菊子)の墓は、東京都杉並区和泉3-52-18の曹洞宗 ・ 大円寺泉谷山大圓寺地図)にあるとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大円寺によれば、大円寺泉谷山大圓寺地図)は、薩摩藩 島津家江戸(現・東京都の都区部(23区内)の中心部)での菩提寺であった寺であるとの由です。

  ところで、楽天トラベル ・ たびノート ・ 【楽天トラベル・たびノート】西郷南洲謫居跡2018年5月参照時点の記載内容には西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)を西郷隆盛が「安政6(1859)年から3年間生活をしたところ」と書かれています。また、一般社団法人 九州観光推進機構「九州旅ネット」 ・ 西郷南洲流謫跡リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「九州旅ネット」ホームページ上のキーワード「龍郷町+西郷南洲流謫跡」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに鹿児島県観光サイト「どんどん鹿児島の旅」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課) ・ 西郷南洲流謫跡リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「どんどん鹿児島の旅」ホームページ上のキーワード「龍郷町+西郷」のgoogle検索結果でお探し下さい)の2018年5月参照時点の記載内容には「西郷隆盛は、3年余りをここで過ごしました。」と書かれており、この文の主語は「鹿児島県 大島郡 龍郷町」であると読解することも可能ですが、この文を書かれた方の文意どおりであるか否かは別にして、主語が「西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)」であると読解することも可能な文章になっています。しかし、当画面(当ページ)内の当欄(解説欄)冒頭で解説したとおり、西郷隆盛西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)に住んでいたのは、3年間の滞在期間中の、最後の1〜2ヶ月程だけの期間であり、3年間ずっと西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)にいた訳ではありませんので、付言しておきます。

  奄美大島における西郷隆盛,ならびに奄美大島での妻・愛加那関連の観光スポットには、鹿児島県 奄美市名瀬市地域南洲神社,  鹿児島県 奄美市笠利町地域中金久学舎(赤木名)西郷隆盛が背もたれしたという柱),  赤木名小学校の西郷さんの銅像赤木名小学校の西郷隆盛の銅像),  鹿児島県 大島郡 龍郷町奄美・龍郷 島ミュージアム(龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」文化財展示室),  西郷松西郷松跡),  菊池源吾第二の潜居地西郷隆盛第二の潜居地,  西郷南洲第二の潜居地,  西郷隆盛が2番目に住んでいた場所)/田畑家屋敷跡龍家屋敷跡),  西郷隆盛が愛加那に与えた田畑,  愛加那の泉ヒキョのイジョンゴ,  イジョンゴ),  西郷隆盛が1番目に住んでいた場所西郷隆盛が最初に住んでいた場所),  愛加那の墓田畑(龍)家墓,  ブジティンヌハカ,  弁財天墓地),  西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)があり、この中で最もよく知られているスポットは西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)です。
→   ○   (当HP内の)南洲神社訪問記
○   (当HP内の)中金久学舎(赤木名)西郷隆盛が背もたれしたという柱)紹介欄へ
○   (当HP内の)赤木名小学校の西郷さんの銅像赤木名小学校の西郷隆盛の銅像紹介欄へ
○   (当HP内の)奄美・龍郷 島ミュージアム(龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」文化財展示室)紹介欄へ
○   (当HP内の)西郷松(西郷松跡)訪問記
○   (当HP内の)菊池源吾第二の潜居地西郷隆盛第二の潜居地,  西郷南洲第二の潜居地,  西郷隆盛が2番目に住んでいた場所)/田畑家屋敷跡龍家屋敷跡紹介欄へ
○   (当HP内の)西郷隆盛が愛加那に与えた田畑紹介欄
○   (当HP内の)愛加那の泉ヒキョのイジョンゴ,  イジョンゴ紹介欄へ
○   (当HP内の)西郷隆盛が1番目に住んでいた場所西郷隆盛が最初に住んでいた場所紹介欄へ
○   (当HP内の)愛加那の墓田畑(龍)家墓,  ブジティンヌハカ,  弁財天墓地紹介欄へ
○   (当HP内の)西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)訪問記

  また、上記の観光スポットに関連したお土産屋さんだったり、或いは観光スポットの内の数場所を巡る場合の拠点になったりするお店には、例えば、鹿児島県 大島郡 龍郷町西郷松本舗西郷松せんべい),  あいかなグループあいかな)等があります。
→   ○   (当HP内の)西郷松本舗西郷松せんべい紹介欄へ
○   (当HP内の)あいかなグループあいかな紹介欄へ



当画面(西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡)訪問記)の目次
住所・電話 地図 HP
交通案内
アクセス
当HPの目次
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宿・ホテル
解説 感想 写真(画像)
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奄美群島の西郷隆盛関連スポット  : 
奄美群島西郷隆盛関連観光スポット
奄美大島 奄美市
名瀬市地域
南洲神社(奄美市名瀬・芦花部)
奄美市
笠利町地域
中金久学舎(赤木名)
西郷隆盛が背もたれしたという柱)
赤木名小学校の西郷さんの銅像赤木名小学校の西郷隆盛の銅像
大島郡
龍郷町
奄美・龍郷 島ミュージアム(龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」文化財展示室)
西郷松西郷松跡
菊池源吾第二の潜居地西郷隆盛第二の潜居地,  西郷南洲第二の潜居地,  西郷隆盛が2番目に住んでいた場所)/田畑家屋敷跡龍家屋敷跡
西郷隆盛が愛加那に与えた田畑
愛加那の泉ヒキョのイジョンゴ,  イジョンゴ
西郷隆盛が1番目に住んでいた場所西郷隆盛が最初に住んでいた場所
田畑(龍)家墓,  ブジティンヌハカ,  弁財天墓地
西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡
徳之島 大島郡
徳之島町
井之川の西郷隆盛滞在地西郷松西郷腰掛松),奥山家
大島郡
天城町
西郷南洲公園西郷南洲記念公園,  岡前西郷公園,  西郷公園),西郷南洲顕彰碑,  西郷南洲翁謫居跡
西郷南洲翁上陸記念碑
沖永良部島 大島郡
和泊町
南洲神社(沖永良部島)
西郷南洲記念館
南洲翁謫居の地(沖永良部島)西郷南洲牢屋跡
西郷隆盛上陸の地(沖永良部)西郷南洲伊延港



註釈  : 
(注1)   「諱(いみな)(本名)」に相当する概念に対して、TYPE-MOON公式サイト,  解説)のFate/シリーズ【楽天TV(動画配信)】キーワード「Fate/」の検索結果,  Wikipedia Template)では「真名(しんみょう」の語が用いられています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 真名2018年5月参照時点の記載内容では、この語について「サブカルチャー経由の造語と見られる。」との推測が行われており、このような推測があるという現象は、逆に申せば「『真名』の字を『しんみょう』と読んで『本名』の意味に使う」用法は、昔は無かった用語であることを意味します。その傍証として、実際、コトバンク ・ 真名,  weblio ・ 真名等に載っている孫引きでの各種辞書・百科事典の2018年5月参照時点の記載内容では、後述するフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 真名からの引用内容を例外として除けば「真名」を「しんみょう」と呼ぶ用例は載っておらず、かつ、以前からある「真名」の読み方は「まな」であり、これは意味の上でも「諱(いみな)」の同義語ではなく仮名(かな;文字の種類の平仮名と片仮名のこと)に対する漢字」を指す語であったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 真名2018年5月参照時点の記載内容には、辞書源流の他の情報源とは異なり「『真名』を『まな』と読む用法」に「実名・本名のこと」の意味もある旨が載っていますが、「日本語としては日本古来のが第一義と言えるが、「キリスト教の神の真名」などといった広義の用法も散見される。」という留保条件的な記述が行われています。この記載内容に関して、上述のとおり辞書系情報源では「『真名』の意味に隠す本名の意味が載っていない」状況にも併せて鑑(かんが)みれば、一部の地方の民俗文化や個別家系の禁忌を例外として除いて一般的には、江戸時代以前の我が国で「他人に隠す本名」の意味で「真名(←読み方が『まな』であるか『しんみょう』でるかにかかわらず)」の語が使われることはなく、「諱(いみな)」の語が使われていたのであろうと推測します。恐らくは、欧米の学問・文化の流入に関して、江戸時代に既に行われていた蘭学による自然科学(←医学も含めて)や絵画技法(事例は司馬江漢作品)に加えて、幕末 ・ 明治維新期(時期的には、大政奉還は慶応3年(1867年)、明治改元は1868年)に蘭学洋学に拡がり、自然科学及びその実用・応用分野における内容も「基礎科学・基礎理論としての理学」から工学 ・ 技術に拡大して我が国における産業振興や軍事技術に拡大し(注3)、さらには社会科学や欧米の社会制度の紹介にも拡大しました(注4)人文科学、ならびに人文科学社会科学の境界領域である歴史学考古学も含む)では、明治12年(1879年)には既に英文学の授業が行われていたとの由であり、また、明治20年(1887年)に史料批判を援用する科学的歴史学導入され始めたと共に、それ以前の啓蒙的な文明史ではあっても、明治初期(明治改元は1868年)から西洋史に関する教養は我が国に伝えられていたとの由です(注5)
  恐らくは(というただし書き付きですが)、このような幕末 ・ 明治維新期以降の欧米文化の流入の過程で、我が国の「諱(いみな)」と同様の概念や行動文化が英語にも「True name」として存在することが日本人にも知られるようになり、当初は「キリスト教の神の真名(まな)」などといった広義(かつ、直訳的な)用法だけが一部のグループの人々(=教会の境界員のコミュニティ)の間で使われていたが、まだ広くは使われていなかったものの、「真名」の文字列からはその本来の意味「仮名(かな;文字の種類の平仮名と片仮名のこと)に対する漢字」よりはむしろ「本名」の意味の方が思い浮かび易いため、「真名(まな)=本名」の使い方が拡がり始めている時期に、今日(本稿執筆時点は平成30年(2018年)5月)はあるのであろう、と推測します(ただし、これは推測の域を出ない仮設モデルであり、検証した上でのモデルではありません。故に、この仮説モデルは事実どおりではない可能性がある旨も、否定はできません)。
  Fate/シリーズ【楽天TV(動画配信)】キーワード「Fate/」の検索結果,  Wikipedia Template)で用いられている「真名(しんみょう」の語については、前段落で推測した仮設モデルの流れの延長線上にあるのか、それとも無関係であるのかは、存じ上げません。Fate/シリーズ【楽天TV(動画配信)】キーワード「Fate/」の検索結果,  Wikipedia Template)作者は歴史に関する素養に基づいた上で新たな世界観を構築して物語を作っていますので、前段落で推測した流れとは無関係に「真名(しんみょう」の語を造語した可能性も想定可能ですが、前段落で推測した流れを踏まえた上で、「真名(まな)」は本来は別の意味であるため、読み方を変えて「真名(しんみょう」とした可能性も否定はできません。Fate/シリーズ【楽天TV(動画配信)】キーワード「Fate/」の検索結果,  Wikipedia Template)のアニメは当ホームページ管理人も好きな作品であり、個別の作品には例えば、Fate/stay night公式サイト,  解説),  Fate/Zero公式サイト,  アニメ公式サイト,  解説),  Fate/ApocryphaTVアニメ公式サイト,  解説),  Fate/EXTRA Last EncoreTVアニメ公式サイト,  解説)等があります。
  アニメラノベ(ライトノベル)で「諱(いみな,忌み名,本名)」が出て来る事例としては、IS<インフィニット・ストラトス>【Rakuten kobo(電子書籍)】IS<インフィニット・ストラトス>,  【楽天TV(動画配信)】IS<インフィニット・ストラトス>,  アニメ第1期公式サイト,  アニメ第2期公式サイト,  オーバーラップ社サイト上の掲載情報のgoogle検索結果,  解説)を、挙げることができます。弓弦イズルIS<インフィニット・ストラトス> 8オーバーラップ文庫,2013年4月)pp.222-223.で、更識楯無(さらしき たてなし)が、他人には明かさない本名「更識刀奈(さらしき かたな)」の名を主人公・織斑一夏(おりむら いちか)に明かすシーンがありますが、このシーンで使われている用語は「本名」であり、弓弦イズルIS〈インフィニット・ストラトス〉 9オーバーラップ文庫,2014年4月)p.23でも同概念が出て来ますが、ここでも使われている用語は「本名」です。

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(注2)   なお、仮名(通称)(本名)について分かり易く具体的な事例を挙げれば、西郷隆盛自身は、仮名(通称)が「吉之助」で、(誤って戸籍登録された)(本名)は「隆盛」であることになります。西郷隆盛の家族・親族・親友の事例では、西郷隆盛の弟の西郷従道仮名(通称)が「信吾」で(本名)は「従道(本当は『隆道』だったが、『リュウドウ』と発音したところ『ジュウドウ』と聞き間違えられた))」、従兄弟の大山巌仮名(通称)が「弥助」で(本名)は「巌」、親友で同志の大久保利通仮名(通称)が「正助」で(本名)は「利済→利通」のとおりです。この志士達の主家・島津氏宗家の戦国時代の武将(宗家当主の実父や、宗家生まれの兄妹で分家の初代になった武将も含む)の事例では、島津忠良仮名(通称)が「三郎左衛門尉(その文字列中の『三郎』は輩行名で、『左衛門尉(さえもんのじょう)』は官職名(官名))」,「相模守(受領名)」で(本名)は「忠良」(さらに、法名は「愚谷軒日新斎」)、島津貴久仮名(通称)が「又三郎(その文字列中の『三郎』は輩行名)」,「三郎左衛門尉(その文字列中の『三郎』は輩行名で、『左衛門尉(さえもんのじょう)』は官職名(官名))」で(本名)は「貴久」、島津忠将仮名(通称)が「又四郎(その文字列中の『四郎』は輩行名)」で(本名)は「忠将」、島津尚久仮名(通称)が「又五郎(その文字列中の『五郎』は輩行名)」で(本名)は「尚久」、島津義久仮名(通称)が「又三郎(その文字列中の『三郎』は輩行名)」,「三郎左衛門尉(その文字列中の『三郎』は輩行名で、『左衛門尉(さえもんのじょう)』は官職名(官名))」で(本名)は「忠良→義辰→義久」、島津義弘仮名(通称)が「又四郎(その文字列中の『四郎』は輩行名)」で(本名)は「忠平(初名)→義珍→義弘」(さらに、法号は「惟新斎」)、島津歳久仮名(通称)が「又六郎(その文字列中の『六郎』は輩行名)」,「金吾(『左衛門尉(さえもんのじょう)』の唐名)」で(本名)は「歳久」、島津家久仮名(通称)が「又七郎(その文字列中の『七郎』は輩行名)」,「中務大輔(官職名(官名))」,「中書(『中務大輔』の唐名)」で(本名)は「家久」のとおりです。
  全国の歴史上の有名人物では、源義家仮名(通称)が「八幡太郎(その文字列中の『太郎』は輩行名)」で(本名)は「義家」、藤原秀郷仮名(通称)が「田原藤太(その文字列中の『太』は輩行名)」で(本名)は「藤原秀郷」、源為朝仮名(通称)が「鎮西八郎(その文字列中の『八郎』は輩行名)」で(本名)は「為朝」、源義平仮名(通称)が「悪源太(その文字列中の『太』は輩行名)」で(本名)は「義平」、源頼朝仮名(通称)が「三郎(輩行名)」,「佐殿」,「武衛(官職名(官名))」で(本名)は「頼朝」、源義経は「輩行名 ⊂ 仮名(通称)」が「九郎」で(本名)は「義経」、北条時宗仮名(通称)が「相模太郎(その文字列中の『相模』は受領名で、『太郎』は輩行名)」で(本名)は「時宗」、織田信長仮名(通称)が「三郎(輩行名)」や「上総介(受領名)」で(本名)は「信長」、柴田勝家仮名(通称)の中の1つが「権六(その文字列中の『六』は、恐らくは輩行名)」で(本名)は「勝家」、徳川家康は「輩行名 ⊂ 仮名(通称)」が「次郎三郎」で(本名)は「元信(初名)→元康→家康 」、武田信玄は「輩行名 ⊂ 仮名(通称)」が「太郎」で(本名)は「晴信」(さらに、法名は「徳栄軒信玄」)、伊達政宗仮名(通称)が「藤次郎(その文字列中の『次郎』は輩行名)」で(本名)は「政宗」、加藤清正仮名(通称)が「虎之助(虎之介)」で(本名)は「清正」、前田利家仮名(通称)が「又左(又左衞門)」で(本名)は「利家」、前田利益仮名(通称)が「慶次(慶次郎)」で(本名)は「利益」、黒田孝高仮名(通称)が「官兵衛」で(本名)は「孝高」(さらに、法名は「如水円清」)、井伊直虎仮名(通称)が「次郎法師(その文字列中の『次郎』は輩行名)」で(本名)は「直虎」、大谷吉継は「(官職名(官名)) ⊂ 仮名(通称)」が「刑部」で(本名)は「吉継」、等の事例を挙げることができます。

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(注3)   産業振興の具体的な事例は、鹿児島県では産業遺産観光スポットでは申せば、UNESCO世界遺産明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」登録対象遺産の一部である、鹿児島市旧集成館(集成館事業)旧集成館反射炉跡(名勝 仙巌園(磯庭園)),  旧集成館機械工場(尚古集成館),  旧鹿児島紡績所技師館(磯工芸館),  寺山炭窯跡,  関吉の疎水溝があります。また、UNESCO世界遺産登録対象ですが、奄美大島でも、奄美市名瀬市地域金久白糖製造工場跡白糖工場跡地等の、幕末薩摩藩による4ヶ所の白糖工場の試みの跡があります。白糖工場の事業は、麓純雄奄美の歴史入門 奄美子たちに贈る地方・小出版流通センター南方新社),2011)p.81によれば、江戸時代 ・ 幕末薩摩藩当時の大阪では白糖の方が黒糖よりも価格が高かったため、薩摩藩奄美大島に4か所、外国人技師を呼んで白糖の製造工場を作ったものであるとの由です。しかし、残念ながら、黄ばんだ砂糖しか作れず、燃料となる木材が入手できないことや台風の影響もあり、白糖製造工場は残念ながら操業停止せざるを得なかったとの由です。
  軍事技術の嚆矢(こうし)の具体的事例の中の1つの跡地の観光スポットには、鹿児島県ではありますが鹿児島県に影響を与えた事例として、勝海舟の建言によって文久4年(1864年)に設けられた、今日の跡地観光スポット名で申せば兵庫県 神戸市 中央区新港町17-1 NTTドコモ神戸ビル西側の
神戸海軍操練所跡碑解説,  地図を、挙げることができます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 神戸海軍操練所によれば、同操練所には薩摩藩からは、後に明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)3月の日清戦争の際に初代連合艦隊司令長官になった伊東祐亨が入学していた他、薩摩藩にゆかりが深い人物としては土佐藩出身で勝海舟私塾の塾頭を務めていた坂本龍馬等が在籍していたとの由です。坂本龍馬つながりの経路では、鹿児島県ともゆかりが深い坂本龍馬が在籍していたという点だけにとどまらず、その坂本龍馬薩摩藩との間の関係が築かれたことが神戸海軍操練所解説,  地図に至る当時の政治情勢の変化に起因するという点で二重の意味で間接的に、神戸海軍操練所解説,  地図薩摩藩との間に関連がありますので、次段落以降で解説します。
  同情報源によれば、勝海舟の「幕府(だけ)の海軍ではなく、日本の海軍」の理念の下にこの学校は設立されたため、幕府の組織であるにもかかわらず討幕派の志士も集まっており、例えばフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 池田屋事件,  北添佶摩,  望月亀弥太によれば、元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件で死亡した尊王攘夷派志士の中に、土佐(現・高知県)出身の北添佶摩望月亀弥太の2名の
神戸海軍操練所解説,  地図塾生が含まれていたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 神戸海軍操練所,  勝海舟,  坂本龍馬等によれば、この情勢下で、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変、元治元年7月23日(1864年8月24日)〜元治元年12月27日(1865年1月24日)の第一次長州征討江戸幕府が勢いづいたため、勝海舟が唱えていた公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)は見通しが立たなくなって勝海舟江戸幕府内で孤立し、元治元年10月22日(1864年11月21日)に江戸(現・東京都の一部(中心部))召還を命じられて、元治元年11月10日(1864年12月8日)に勝海舟江戸幕府 軍艦奉行を罷免(解任)されたとの由であり、公議政体論の海軍における具現化構想「幕府(だけ)の海軍ではなく日本の海軍」の下に設けられていた神戸海軍操練所解説,  地図も、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌慶応元年3月18日(1865年4月13日)に閉鎖されたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 坂本龍馬等によれば、時間は前後しますがこの情勢下で、軍艦奉行罷免直前の時期の勝海舟坂本龍馬ら塾生の行く末を案じて、薩摩藩 家老 ・ 小松帯刀(小松清廉)坂本龍馬らを託したとの由であり、これが薩摩藩坂本龍馬の関係ができた契機(兼)理由になります。同情報源によれば、坂本龍馬らの航海術の専門知識を重視していた薩摩藩は、慶応元年5月(1865年5月25日〜同年6月22日)頃に坂本龍馬らに出資して亀山社中(後の海援隊)が設立されたとの由です。同情報源等によれば、坂本龍馬は、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に締結された薩長同盟で、分かり易く化学反応で例えれば触媒役という役回りでこの同盟締結を実現させた後、慶応2年1月23日(1866年3月9日)の寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)で負傷した坂本龍馬薩摩藩が同藩伏見屋敷に収容して、救出したとの由です。その後、怪我の療養のために坂本龍馬薩摩藩領(現・鹿児島県 + 宮崎県の一部(都城市等))に行き、今日の鹿児島県 霧島市
日本初の新婚旅行を行った旨は、よく知られた史実です(厳密に申せば、行った旨は史実(事実)ですが、新婚旅行であった旨については、物理的な事実ではなくヒトによる解釈・評価・定義が行われた上でのことです)。繰り返しになりますが、坂本龍馬つながりの経路では、鹿児島県ともゆかりが深い坂本龍馬が在籍していたという点でも、また、その坂本龍馬薩摩藩との間の関係が築かれたことが神戸海軍操練所解説,  地図に至る当時の政治情勢の変化に起因するという点でも、二重の意味で間接的に、神戸海軍操練所解説,  地図薩摩藩との間に関連があります。

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(注4)   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 西洋旅案内,  西洋事情,ならびに神山卓也「福沢諭吉における啓蒙と「実学」−『帳合の法』を例として−」(『三田商学研究 学生論文集』,1984)pp.54−66によれば、我が国における社会科学や欧米の社会制度の導入についての事例としては、例えば慶應義塾解説)創立者・福澤諭吉が『西洋旅案内解説)』(慶応3年(1867年)。単なる旅行案内ではなく、交易・為替の仕組みや保険制度を紹介しました)、『西洋事情解説)』(慶応2年(1866年)〜明治3年(1870年)。当時の欧米の社会制度全般を紹介しました)、『帳合之法』(明治6年(1873年)。著作ではなく訳本ですが、我が国最初の簿記の本の中の1冊であり、例えばDebitを「借方」、Creditを「貸方」と訳したりした訳語は今日でも使われています)等を出版したり、この影響下にOBの門下生達が近代的経営や洋式簿記を企業経営に導入したり、しました。これらの門下生の行ったことについては例えば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 早矢仕有的,ならびに荘田平五郎によれば、慶應義塾解説)塾員(OB)の早矢仕有的が明治2年1月1日(1869年2月11日)に創業した書店・丸屋(後の丸善、現・丸善CHIホールディングス,  丸善雄松堂,  丸善ジュンク堂書店の「丸善」店舗等)は事実上日本初の近代的会社として設立されて 明治5年(1872年)頃に西洋簿記法が導入されたり、同じく塾員(OB)の荘田平五郎が入社した三菱商会(後の三菱財閥を経て、現・三菱グループ解説))で、荘田平五郎が明治10年(1877年)に我が国で初めて複式簿記を導入したり、しました。
  我が国における社会科学や欧米の社会制度の導入の他の事例で、鹿児島県ゆかりの人物による事例は、薩摩藩出身の森有礼が明治8年(1875年)に設立した商法講習所(現・一橋大学)です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 商法講習所,  簿記によれば、商法講習所でも簿記の授業が行われていたとの由です。福澤諭吉森有礼も、近代的啓蒙学術団体・明六社の会員です。
  前述した福澤諭吉の『帳合之法』(明治6年(1873年))は単式簿記でしたが、複式簿記についての我が国最初の本は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 梅浦精一,  簿記,  神奈川県立歴史博物館 ・ 銀行簿記精法 1〜5((リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、神奈川県立歴史博物館公式WEBサイト上のキーワード「銀行簿記精法」のgoogle検索結果でお探し下さい))等によれば、大蔵省紙幣寮(現・独立行政法人国立印刷局)のお雇い外国人 ・ アレクサンドル・アラン シャンド(Alexander Allan Shand)によって書かれて邦訳された『銀行簿記精法』(明治6年(1873)12月)であるとの由です。
  簿記以外の分野で申せば、慶應義塾公式WEBサイト ・ [慶應義塾豆百科] No.10 ウェーランド経済書講述記念日等によれば(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、慶應義塾公式WEBサイト上のキーワード「ウェーランド+彰義隊」のgoogle検索結果でお探し下さい)、幕末 ・ 明治維新期の慶応4年5月15日(1868年7月4日)に、旧江戸幕府勢の彰義隊と、薩長(薩摩藩 + 長州藩)を中心とする新政府軍との間で行われた上野戦争(上野彰義隊の戦い)の際に、「芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまった」程に江戸(現・東京都の一部(中心部))市中が混乱している最中に、「世の中にいかなる変動があっても、慶應義塾解説)の存する限り、わが国の学問の命脈は絶えることはないのだ」として塾生達を励ましながら福澤諭吉は、当時の土曜日の日課であったウェーランド経済書Francis WaylandThe elements of political economy,1866(同情報源による出版年), or 1837(Wikipedia (English version) ・ Francis Waylandによる出版年))の講義を続けたとの由です。同情報源等によれば、この故事は、学問教育の尊重を最優先とした福澤諭吉の精神を伝えるものとして、5月15日が慶應義塾解説)の記念日になり、今日まで伝えられているとの由です。我が国への洋学紹介史の見地からはこの故事は、幕末 ・ 明治維新期には既に、欧米の経済学が我が国に伝えられていた旨を示す証左になるものです。経済学史の見地からは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 限界効用理論によれば、限界革命によって新古典派経済学が生まれて今日の近代経済学の基礎ができた時期は1870年代であり、これはウェーランド経済書が出版された1866年(異説として、Wikipedia (English version) ・ Francis Waylandによれば1837年)よりも後の時期のことであるため、恐らくは(というただし書き付きですが、)ウェーランド経済書は今日の近代経済学とは内容が異なっていたであろうと推測します。ウェーランド経済書の具体的な内容は存じ上げませんが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 政治経済学によれば、この時期(19世紀半ば)の「political economy」は、今日の学問分野の「political economy(政治経済学)」とは異なり「経済学(Economics)は、当初はそれ自体の名称がpolitical economy(政治経済学)であった」との由ですので、「political economy」という表題が付いていても、その内容は今日の用語で申せば「Economics(経済学)」に相当するものであろうと推測します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 政治経済学でも、(限界革命以前の)古典派経済学の著作においては、「political economy」を「政治経済学」ではなく「経済学」と訳すのが一般的であるとの解説が載っています。
  余談ですが、経済学における今日の「慶應学派」の定義は、以下の(1)〜(3)の要件を満たすものです。

(1) 師弟関係、或いは研究方法上の影響関係を遡(さかのぼ)ると、寺尾琢磨(明治32年(1899年)〜昭和59年(1984)9月13日)に辿(たどり)り着く
「学派(school)」とは、師弟関係や影響を受けた関係で定まるものではあっても、所属する組織(大学)で定まるものではないため、通った大学も奉職した大学も慶應義塾解説)とは全く無関係な研究者でも「慶應学派」の影響を受けていれば「慶應学派」であり、逆に申せば、慶應義塾解説)生え抜きで同学に奉職している研究者でも、この系譜から外れていれば「慶應学派」ではない。これは、他の「学派(school)」でも同様である**
** 経済学ではなく経営学の事例ではあるが、「学派(school)」は師弟関係や影響を受けた関係で定まるため所属組織と一致しない事例としては、慶應義塾解説)の経営大学院(ビジネススクール)慶應義塾大学院経営管理研究科解説)所属の研究者の中には、慶應義塾解説)生え抜きではあっても、「経営学における一橋学派」と、学外の研究者達からみなされ得る研究者がいる事例が挙げられる。

(2) 計量経済学を用いた実証分析を行い、1980年代には他学派で構築された計量経済モデルはマクロ経済学のモデルであったのに対して、「慶應学派」の計量経済モデル「KEOモデル」はミクロ経済学の多部門一般均衡モデルであり、個別の研究内容も、(近年では他大学でも多いが、1980年代までは他大学では極めて珍しかった)ミクロ経済学の分析研究事例が多いことが特徴である。
a. ただし、研究者によってはマクロ経済学の分析を行う人もいたり、計量経済学の方法論としての統計学の手法の研究を行う人もいるたりする等、例外的研究者もいるため、ミクロ経済学云々は、「特徴となる傾向」ではあっても、「定義となる必要条件」ではない。誤解を避けるべく念のため。
b. 人数面で他学では考えにくい現象として、慶應義塾解説)では経済学部,  商学部,  産業研究所の3組織にまたがって、計量経済学だけで十数名の研究者がいる(他の大学では、計量経済学の研究者は1学部に1名程度である)。また、三田キャンパスでは各学部独自の建物が無く、建物が同一キャンパス所属学部共通であることと、経済学部商学部所属の計量経済学徒は産業研究所と兼任していることとのため、学部間の垣根が低い。

(3) カール・ポパー流の科学的方法論に基づき、物理学化学と同様の実証科学としての経済学の研究を追い求める。このため、研究者によっては、自分の専門領域を計量経済学に定義づけられるよりも、「実証理論経済学」と定義づけられることを好む研究者もいる。
a. 実証科学としてのとしての経済学」を追い求めるということは、「ヒトは自然法則を発見したり応用したりすることはできるが、自然法則を作ることなどできないし、ましてや自然法則に抗うことはできない」旨の世界観に基づくことになるため、「(理論体系の内容如何の問題ではなく、信奉者の行動パターンでありがちな現象として)自然法則をヒトが作れるという発想をもたらしがちな『思想・イデオロギー』の類」に基づいた「思想・イデオロギーとしての経済学」というスタンスを忌避することになる。
b. このため、研究者によっては、「市場メカニズム」の語は用いても「資本主義」の語は用いない研究者もいる(∵市場メカニズムは自然法則として存在しているのであり、「資本主義」であれ何であれ、何らかのヒトの「思想」に基づいて存在している訳ではないため)。
c. また、このため、研究者によっては、表面上の理論は同様に近代経済学であったとしても、シカゴ学派のようなスタンスに対しては、「too ideologish(余りにもイデオロギー的、思想的だ)」として毛嫌いする研究者もいる。


  上記の内の(1)について補足解説すれば、寺尾琢磨(明治32年(1899年)〜昭和59年(1984)9月13日)の師匠は小泉信三(明治21年(1888年)5月4日 〜昭和41年( 1966年)5月11日)小泉信三のそのまた師匠は福田徳三(明治7年(1874年)12月2日〜昭和5年(1930年)5月8日)です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 福田徳三によれば、福田徳三は、明治38年(1905年)〜大正7年(1918年)まで慶應義塾解説)の教授でしたが、元々は高等商業学校(後に東京高等商業学校(東京高商)旧制東京商科大学(東京商大)を経て、現・一橋大学)の出身であり、かつ慶應義塾解説)奉職前に既に高等商業学校講師だった時期があり、同学を退官させられたために慶應義塾解説)に招かれた時には既に名のある経済学者であったため、福田徳三のそのまた師匠は慶應義塾解説ではないことになります。したがって、経済学における今日の「慶應学派」は、師弟関係を遡(さかのぼ)って行くと、実は慶應義塾解説以外に源流があることになります(「あまり知られていませんが、実は」的な蘊蓄(うんちく)話)。高等商業学校(現・一橋大学)学生時代の福田徳三の師匠が誰であったかは存じ上げませんが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 福田徳三,ならびにルヨ・ブレンターノによれば、留学したミュンヘン大学で明治33年(1900年)に福田徳三が博士号を取得した時の指導教授は、ドイツ新歴史学派ルヨ・ブレンターノ(Lujo Brentano)(1844年12月18日〜1931年9月9日)であったとの由です。さらになお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 福田徳三,  中山伊知郎によれば、大正7年(1918年)に福田徳三は母校の後身学校である旧制東京商科大学(東京商大)(現・一橋大学)に復職したとの由であり、この時代の福田徳三の弟子は多く、例えば近代経済学では中山伊知郎(明治31年(1898年)9月20日〜昭和55年(1980年)4月9日)等の名が挙げられます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 中山伊知郎によれば、中山伊知郎の弟子には多くの近代経済学者がいます。関東で昔(昭和16年(1941年)12月12日〜昭和20年(1945年)8月15日の太平洋戦争以前の戦前)から既に近代経済学が強かったマトモな大学と申せば慶應義塾大学一橋大学(旧・旧制東京商科大学(東京商大))ですが、上述のとおり両学は師弟関係を遡(さかのぼ)れば福田徳三つながりで、1世紀単位のスケールで見れば同門である研究者がいます。

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(注5)   人文科学に関して英文学を例にして申せば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ ジェームズ・メイン・ディクソンによれば、お雇い外国人 ・ ジェームズ・メイン・ディクソン(James Main Dixon)は、明治12年(1879年)〜明治19年(1886年)に工部大学校で、明治19年(1886年)の帝国大学令で工部大学校が(旧)東京大学(明治19年(1886年)に帝国大学(後に明治30年(1897年)に「東京帝国大学」に改称)に改組される以前の、「帝国大学ではない(=そうなる以前の)(旧)東京大学」)の工芸学部と合併して帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)になって以降6年間は帝国大学文科大学(現・東京大学大学院人文社会系研究科・文学部)で、英語英文学とを教えていたとの由ですので、明治12年(1879年)時点で既に、「英文学ではなく語学としての英語」だけにとどまらず、既に英文学の授業が行われていた旨が分かります。ただし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部によれば、明治19年(1886年)までの(旧)東京大学や同年改組設立の帝国大学文科大学の学科構成に英文学科は載っておらず、「今日の東京大学大学院人文社会系研究科・文学部の前身校」に英文学科が設立された具体的な時期を、当ホームページ管理人は存じ上げません。
  東京帝国大学(明治30年(1897年)以前の名称は単に「帝国大学」)英語お雇い外国人には;ジェームズ・メイン・ディクソン以外にもバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain,帝国大学(後に明治30年(1897年)に「東京帝国大学」に改称)在籍期間は明治19年(1886年)〜明治23年(1890年)),  パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn,明治29年(1896年)以降は日本に帰化して小泉八雲。東京帝国大学(明治30年(1897年)以前の名称は単に「帝国大学」)在籍期間は明治29年(1896年)〜明治36年(1903年))等がいました。「授業したのが英語だけか?、英文学も含めてか?」の見地からは、東京大学附属図書館旧ホームページ(保存サイト) ・ バジル・ホール・チェンバレンによれば(リンク先URLは2018年5月現在)バジル・ホール・チェンバレンの担当分野に英文学は載っておらずむしろ日本語学であり、実際、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ バジル・ホール・チェンバレン2018年5月参照時時点の掲載内容に載っている同氏の業績は「英文学の我が国への紹介ではなく日本文学の欧米への紹介である」ため、バジル・ホール・チェンバレン英文学も授業していた旨を立証可能な情報は見つけられませんでした(ので、同氏は英文学は教えていなかった可能性が、一定の確率で推測可能です)。一方、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も(日本文学だけではなく日本文化を欧米に紹介した業績で知られていますが、東京大学附属図書館旧ホームページ(保存サイト) ・ ラフカディオ・ハーン(リンク先URLは2018年5月現在),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 小泉八雲によれば、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)東京帝国大学(明治30年(1897年)以前の名称は単に「帝国大学」)での担当分野は英文学と明記されていますので、むしろ「英文学ではなく語学としての英語」を東京帝国大学(明治30年(1897年)以前の名称は単に「帝国大学」)で授業したか否かの方が検証可能な情報が無い状況にあります。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ ジェームズ・メイン・ディクソン,  小泉八雲,  夏目漱石によれば、上述したジェームズ・メイン・ディクソンの弟子であった夏目漱石は、精神病を患って引きこもり状況に陥ったことで我が国文学史上有名な明治33年(1900年)〜明治35年(1902年)の英国留学に際しては、その研究目的は英文学ではなく英語教育法であったとの由ですが、明治36年(1903年)に東京帝国大学講師になった時点の担当分野は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任者であったとの由です。したがって、恐らくは(というただし書きが付きますが)「英文学ではなく語学としての英語」だけにとどまらず英文学も含まれていたであろうと、推測します。なお、夏目漱石小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任者であったということは、この就任年・明治36年(1903年)頃から、英文学の研究・授業をお雇い外国人に頼らなくても、日本人の中に人材が育って来たことを象徴的に意味するものでもあります。
  慶應義塾解説)においては、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ フレデリック・イーストレイクによれば、明治19年(1886年)から外国人教師の一員としてフレデリック・ウォーリントン・イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が英文学講師になったとの由ですので、遅くとも明治19年(1886年)には、「語学としての英語ではなく英文学」の授業が行われていた旨が分かります。慶應義塾公式WEBサイト ・ [慶應義塾豆百科] No.47 大学部の発足,ならびに広報誌・パンフレット ・ [塾]バックナンバー ・ [塾]2016 WINTER(No.289) ・ 慶應義塾編「大学部開設から125年(前編)」(慶應義塾広報誌『塾』No.289,2016年冬号)pp.14-15(PDF版)別URL(PDF版))によれば(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、慶應義塾公式WEBサイト上のキーワード「文学+大学部」のgoogle検索結果でお探し下さい)、明治23年(1890年)に慶應義塾解説)に大学部(ただし、法令上は旧制専門学校であり、大学部が大学令による旧制大学に昇格したのは大正9年(1920年)です)が設立された時の当初の3学科の中に文学科があり(他には理財科と法律科)、文学科の主任教師は、ハーバード大学チャールズ・W・エリオット(Charles William Eliot)総長に推薦を求めた結果、獲得した人材のウィリアム・エス・リスカム(William S. Liscomb)であったとの由です。慶應義塾編「大学部開設から125年(前編)」(慶應義塾広報誌『塾』No.289,2016年冬号)pp.14-15(PDF版)によれば講義科目の中に「英米文学史」が含まれていたとの由ですので、明治23年(1890年)に慶應義塾に大学部が設立された当初でも、上述した設立前の明治23年(1890年)にに続いて、「語学としての英語ではなく英文学」に関する授業が慶應義塾で行われていた旨が分かりますが、逆に申せば、この時点ではまだお雇い外国人に頼っていた旨も分かります。
  一方、「英文学ではなく語学としての英語」に関しては、慶應義塾公式WEBサイト ・ 写真で見る慶應義塾の歴史によれば(リンク先URLは2018年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、慶應義塾公式WEBサイト上のキーワード「英学塾」のgoogle検索結果でお探し下さい)、安政5年(1858年)の創立時点では蘭学塾だった慶應義塾解説)が英学塾に転じたのは1863年(文久2年11月12日 - 文久3年11月21日)のこととの由です。したがって、遅くとも江戸時代 ・ 幕末明治維新(時期的には、大政奉還は慶応3年(1867年)、明治改元は1868年)以前)の1863年(文久2年11月12日 - 文久3年11月21日)には既に、我が国の国内で英語教育が行われていた旨が分かります。
  上述した英文学以外の他の外国の文学については、詳しくは存じ上げません。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 海潮音(詩集)によれば、上田敏が訳詩集海潮音解説)を出版したのは明治38年(1905年)10月のことであるとの由です。訳された詩の原作者には、フランスの詩人・ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)ドイツの詩人・クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)等が含まれていますので、遅くとも明治38年(1905年)までには、仏文学独文学等も我が国に紹介されていた旨が分かります。
  人文科学社会科学の境界領域である歴史学考古学も含む)について申せば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大森貝塚によれば、(歴史学ではなく動物学者でしたが)(旧)東京大学(明治19年(1886年)に帝国大学(後に明治30年(1897年)に「東京帝国大学」に改称)に改組される以前の、「帝国大学ではない(=そうなる以前の)(旧)東京大学」)のお雇い外国人の教授のエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)大森貝塚を発見したのは明治10年(1877年)6月19日のことであるとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ エドワード・S・モースによれば、ダーウィン進化論を、我が国に初めて紹介した人物でもあるとの由です。また、ジャパンナレッジ ・ 国史大辞典サンプル「歴史学」項目リンク先URLは2018年5月現在。原典は、国史大辞典編集委員会国史大辞典 第1巻〜第15巻下吉川弘文館,1979年〜1997年)(解説)。)によれば、西洋史学(国史大辞典サンプル「歴史学」項目の定義では(リンク先URLは2018年5月現在)ヨーロッパ史だけではなく、古代オリエント史や北アメリカ史も含むもの)、既に明治初期(明治改元は1868年)から、欧米の歴史に関する啓蒙的な紹介が「文明史」という形で行われていたとの由です。同情報源,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ ルートヴィヒ・リースによれば、帝国大学(後に明治30年(1897年)に「東京帝国大学」に改称)史学科講師としてルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess)が明治20年(1887年)に来日して、厳密な史料批判を援用する科学的歴史学の方法の我が国での教育が始まり、西洋史学の領域でも、可能なかぎり、徐々に実践されていったとの由です。この情報によれば、史料批判を援用する科学的歴史学導入開始時・明治20年(1887年)以前の啓蒙的な文明史ではあっても、明治初期(明治改元は1868年)から西洋史に関する教養は我が国に伝えられていた旨が分かります。

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  私(当ホームページ管理人)は、平成16年(2004年)10月〜平成19年(2007年)7月まで鹿児島県 鹿児島市に転勤で住んでいて鹿児島県が第二の故郷になっているため、転勤で鹿児島県を出てから後も、ほぼ毎年「帰省」と自称して大好きな鹿児島県に行っていますが、奄美群島九州本土からも遠い離島であるため、鹿児島県在住時期の平成17年(2005年)8月に行って以来、余り訪れることが叶わないでおりました。しかし、鹿児島県赴任時の会社の先輩が平成27年(2015年)に奄美大島に転勤になったことと、平成26年(2014年)7月1日からLCC(格安航空会社) ・ バニラエア(Vanilla Air)解説)が、東京/成田国際空港解説,  2018年5月現在搭乗手続きカウンターは成田国際空港 第3ターミナル地図))−奄美空港間路線を就航させて(注)リーズナブルな価格の交通費で奄美大島に行き易くなったこととに伴い、平成27年(2015年)7月31日(金)〜8月2日(日)に奄美まつりのために奄美市名瀬市地域を訪れて以来、何回も奄美大島を訪れて、奄美大島観光を楽しむようになりました。なお、2018年5月現在バニラエア(Vanilla Air)解説)は、平成29年(2017年)3月26日から、大阪/関西国際空港解説)−奄美空港間路線も就航を開始させています(注(再掲))
(注) 航空会社と就航路線は、2018年5月現在ANAグルー公式WEBサイト ・ 【プレスリリース】(2018年3月22日付第17‐025号)「PeachとVanilla Airの統合について〜アジアの「リーディングLCC」を目指します〜」,ならびにバニラエア(Vanilla Air)公式WEBサイト ・ 【プレスリリース】2018.03.22付「PeachとVanilla Airの統合について〜アジアの「リーディングLCC」を目指します〜」によれば(リンク先URLは2018年5月現在)、平成31年度(2019年度)末を目途にANAホールディングスは、バニラエア(Vanilla Air)解説)とPeach(ピーチ)(Peach Aviation(株)(ピーチ・アビエーション))解説)とを、Peach(ピーチ)(Peach Aviation(株)(ピーチ・アビエーション))解説)を基盤に統合すると発表しました。したがって、遅くとも平成32年度(2020年度)以降は、これらの路線に就航する航空会社は、この統合新会社になる予定です。


  西郷南洲流謫跡さいごうなんしゅうるたくあと)(西郷南洲謫居跡さいごうなんしゅうたっきょあと))は本来は事前に要電話予約なのですが、私(当ホームページ管理人)はそれを知らなかったため、訪問した2回共、事前の予約無く訪問してしまいました。私(当ホームページ管理人)が最初に訪問したのは平成29年(2017年)2月26日のことで、前段落で上述した先輩が奄美大島島内を案内して下さった時に、奄美市名瀬市地域中心街中心市街地)「なぜまち」から奄美市笠利町地域奄美空港に行く途中で立ち寄って下さったものです。西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)は、管理されている方が個人であるため不定休であり、このためこの1回目の訪問時にはお休みの日であったため、開いていませんでした。私(当ホームページ管理人)が2度目に訪問したのは平成30年(2018年)2月7日のことです。この時点でも「要事前予約」である旨を存じ上げなあったためいきなり訪れてしまったのですが、2回目には中を見学することができました。

  第二の故郷・鹿児島県の郷土の偉人・西郷隆盛が住んでいた家を見られて感激したと同時に、西郷隆盛 ・ 愛加那夫妻が一緒に過ごせた期間が僅かであったことを、悲しいと感じました。さはさりながら、もしも万一仮に西郷隆盛が本土に戻らなかったならば、明治維新の維新回天の偉業を、しかも、江戸無血開城勝海舟と共に成し遂げために、内戦「戊辰戦争」の規模を極小化させながら実現する、ということは不可能だったかも知れないため、西郷隆盛が本土に戻ったことが我が国の歴史においては必要不可欠だったとも言うことができます。したがって、国家のためになすべきことも、「西郷隆盛 ・ 愛加那夫妻の平穏で幸せな生活」も、両方共実現させることが西郷隆盛 ・ 愛加那夫妻にとっては不可能だったのだと思うと、とても心が痛くなりました。当時の日本をとりまく国際情勢は、欧米列強によるアジアの植民地化の最終段階であり、16世紀〜17世紀の大航海時代には東インド会社方式による間接統治だったイギリスオランダが、東アジア諸国を直接植民地化して直接統治が進められていたのが19世紀です。植民地化だけではなく「半植民地化」状態も植民地に含めたり、或いは「植民地であったか否かについては賛否両論がある場合に、植民地だったか否かにかかわらず国・地域の独立を失った事例」も「独立を維持できなかった事例」に含めて申せば、「北東アジアも東南アジアも含めての東アジア」で国家の独立を維持し続けることができた国は、実はタイと日本だけでした。欧米列強による植民地化の過程・プロセスの典型的なパターンの中の1つは、被植民地化される国の国内で対立する政治勢力が、欧米外国勢力を援軍として引きずり込むと、「庇を貸して母屋を取られる」的なメカニズムで国全体を欧米列強に乗っとられてしまうというものです。したがって、「日本の被植民地化回避の方を、江戸幕府の存続よりも優先させる」決断を下した「徳川慶喜 ・ 勝海舟」主従と、それに応えた西郷隆盛との「敵味方にかかわらず、国全体レベルの被植民地化回避の方針が、暗黙の合意として一致していた」と想定可能な連携プレー(その象徴的事例が江戸無血開城です)が無かったら、我が国・日本だって欧米列強の植民地と化していたリスクが高い確率であり得た訳です。そのリスクを回避できた歴史を思えば、西郷隆盛の偉業は「昔のことだから自分には関係ねーや」と思ってはいけないものであり、それが無かったら最悪の場合、現代の我々も、悲惨で収奪される「植民地支配対象民族」と化していたリスクがあり得た訳です。

  我が国が植民地化を免れた過程では、愛加那のように夫(西郷隆盛)と離れ離れにならざるを得なかったり、或いは、薩摩藩の財政再建や再建後の財政強化のために江戸時代の途中以降に黒糖での年貢納めが「黒糖地獄」と言われる程に過酷な状況に陥った奄美群島の人々の悲惨な歴史があったりした等、奄美群島の人々の悲劇だったり悲惨だったりした歴史がありました。特に幕末 ・ 明治維新期の薩摩藩財政の見地からは、もしも万一仮に、黒糖生産による当時の奄美群島の人々の悲惨な歴史が無かったら、明治維新は成功できず、日本は植民地化されていたリスクが高い確率であり得た訳です。このような経緯を、我々は忘れてはいけないのだと思います。そのようなことをツラツラ思えば、奄美大島に送られた直後に自(みずか)らを「土中の死骨」と称した程に失意のどん底にあった西郷隆盛の心の支えになったり、或いは、別れの悲しみに耐えながら本土に戻る西郷隆盛を見送らざるを得なかったりした愛加那に象徴される当時の奄美群島の人々対して、悲しさと感謝と申し訳無さが入り混じった泣きたくなるような複雑な感情で、心から頭が下がる訳です。

  2回目の訪問の際に、西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)を管理しておられる今日の管理人の方から、歴史上の「たられば」に関する質問を受けました。うろ覚えの記憶であるため、以降に述べるその質問内容は実は別の内容だった可能性を否定できないので恐縮ですが、確か、もしも明治10年(1877年)の西南戦争が起きなかったら、日本はどうなっていただろうかという内容だったように記憶しております(記憶誤りにより、実は別の質問だったかも知れない旨は、悪しからずお許し下さい)。「西郷隆盛大久保利通」が西南戦争で敵味方に分かれてしまったことを悲しく思っている私(当ホームページ管理人)にとっては、「たられば」の話ではありますが、もしも仮に万一、両偉人がもっと長生きできて、史実よりも長い期間協力していたら日本の歴史はもっと良くなっていたであろうと思うと、残念無念でなりません。うろ覚えの記憶ですが、そのように回答したのではないかと思います(自分の発言ながら、記憶がうろ覚えなので定かではないのですが)。また、照会応答内容とは別の思いとして、鹿児島県を研究対象事例地域としての地域産業振興を研究テーマとする経営学徒でもある私(当ホームページ管理人)は、薩摩藩士の優秀な人材で、明治維新後の明治新政府出仕で東京大阪に出て行ったり(大阪に行った人材の代表的事例は五代友厚)、西南戦争で戦死したりした人物が多かったため、明治時代の近代経済成長における鹿児島県の地域産業振興に際して、人材の流出・損失が多かった旨を残念に思っております。日本全体を思えば東京大阪への人材流出はやむを得ない必要なことだったのですが、西南戦争戦死による人材損失は残念なことであると、常々思っております。


当HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」を紹介する本  : 
本の表紙
   共著:高知工科大学大学院起業家コース著『木の葉、売ります。ベンチャーに見る日本再生へのヒント 』((株)ケー・ユー・ティー発行,丸善発売,2006年12月10日),\1,575−.

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写真(画像)


西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の門柱の表札。平成29年(2017年)2月26日に訪問した時に写しました





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の門柱の写真です。当写真以降、特に日付についてコメントを付さない写真は、平成30年(2018年)2月7日の2回目の訪問で中に入った時に写した写真です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の門柱・その2。前に立っているデブった見苦しい男は、当ホームページ管理人です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物・その2。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物・その3。前に立っているデブった見苦しい男は、当ホームページ管理人です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物の中です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物の中・その2。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物の中・その3。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の建物の中・その4。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の表面にある、勝海舟が寄せた碑文が刻まれている石碑です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の表面にある、勝海舟が寄せた碑文が刻まれている石碑・その2。最初の訪問時・平成29年(2017年)2月26日に写しました。門の正面突き当りにあるため、休館で中に入れなかった時でも、写真に写せました。





西郷南洲流謫跡」の碑文がある石碑です。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)の愛加那の碑文がある石碑です。





上記2石碑(=「西郷南洲流謫跡」の碑文がある石碑 & 「愛加那の碑文がある石碑」)の遠景です。最初の訪問時・平成29年(2017年)2月26日に写しました。門の外からでも写すことが可能な位置にありました。





西郷南洲流謫跡西郷南洲謫居跡)にあった、「西郷南洲翁のお手植えの緋寒桜(ひかんざくら)」の石碑です。おバカな私(当ホームページ管理人)は、この石碑の写真は撮ったのに、肝心要(かんじんかなめ)の緋寒桜の写真を撮り漏らしてしまいました。しかも、2回目の訪問時・平成30年(2018年)2月7日は、緋寒桜が咲いている時期だったにもかかわらず・・・です。トホホ




鹿児島県へは、九州新幹線で行けます。九州新幹線では、大阪新大阪駅)から鹿児島市鹿児島中央駅地図))まで、最短3時間45分で直通で行けます。九州新幹線全線開業で、一気にかごしますぐそこに、鹿児島県。

時刻表は  →  JR九州公式ホームページ

沿線観光案内  →  (当HP内の)九州新幹線乗車記





奄美大島へは空路で行くことができ、行き先となる空港は奄美市笠利町地域にある奄美空港地図です。2018年5月現在、以下の各リンク先で航路の確認、ならびに航空券の予約ができます。
→  ○   【楽天トラベル】航空券予約
○   バニラエア(Vanilla Air)公式WEBサイト





2018年5月現在奄美大島奄美空港地図から鹿児島県 ・ 奄美市名瀬市地域中心街中心市街地)「なぜまち」へは、しまバス(旧称:道の島交通)解説)の空港線バスで行くことができます。
→   しまバス公式WEBサイト





2018年5月現在奄美大島鹿児島県 ・ 奄美市名瀬市地域中心街中心市街地)「なぜまち」から奄美空港地図に行くしまバス(旧称:道の島交通)解説)の空港線バスの乗り場は、「名瀬(ホテル ウエストコート)」バス停(地図)です。
→   しまバス公式WEBサイト





2018年5月現在奄美大島鹿児島県 ・ 奄美市名瀬市地域名瀬港 ・ 名瀬新港または名瀬港佐大熊岸壁、もしくは奄美大島鹿児島県 ・ 大島郡 瀬戸内町大字(おおあざ) 古仁屋(こにや)古仁屋港こにやこう) ・ 古仁屋漁港ターミナル大湊待合所)(地図には、海路(フェリー船)で行くこともできます。
  いずれの場合にも、各港・各埠頭から鹿児島県 ・ 奄美市名瀬市地域の市街地へは、しまバス(旧称:道の島交通)解説)の路線バスで行くことができます。各航路の2015年8月現在の情報について詳しくは、当画面(当ページ)内の交通案内欄でご参照いただけます。
→   当画面(当ページ)内の交通案内欄

  なお、写真の船は、マルエーフェリー(株)(旧・大島運輸(株))解説)の船です。
→  ○   A''Line マルエーフェリー株式会社・奄美海運株式会社ホームページ
○   マリックスライン公式WEBサイト
○   鹿児島県十島村ホームページ ・ フェリー情報
リンク先URLは2015年8月現在。もしも将来リンク切れになったら、鹿児島県十島村ホームページ上のキーワード「フェリー」のgoogle検索結果で、十島航路についてお調べいただけます。)
○   しまバス公式WEBサイト







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横浜 横浜伊勢佐木町ワシントンホテル
横浜 横浜ランドマークタワー&横浜ロイヤルパークホテル
湘南・三浦・鎌倉 観音崎京急ホテル・レストラン「浜木綿」(&「SPASSO(スパッソ)」案内)
湘南・三浦・鎌倉 観音崎灯台
北九州,下関他 門司港レトロ地区:全般
北九州,下関他 門司港レトロ地区:旧門司税関
北九州,下関他 門司港レトロ地区:門司港駅
北九州,下関他 門司港レトロ地区:旧門司三井倶楽部
北九州,下関他 門司港レトロ地区:海峡プラザ赤煉瓦ガラス館 & オルゴールミュージアム門司港を含む)
高知の観光 高知城
高知の観光 桂浜
高知の観光 高知県立坂本龍馬記念館
高知の観光 坂本龍馬像
高知の観光 高知市立龍馬の生まれた町記念館
高知の観光 坂本龍馬誕生地の碑
北海道美唄市 炭鉱メモリアル森林公園
北海道美唄市 三菱美唄記念館
北海道美唄市 美唄市郷土史料館
北海道美唄市 美唄鉄道旧東明駅
北海道美唄市 アルテピアッツァ美唄
名古屋市の観光 名古屋城&那古野城跡
名古屋市の観光 覚王山日泰寺
名古屋市の観光 末森城址(末盛城址)&城山八幡宮
福島県の観光 いわき市石炭・化石館 ほるる
福島県の観光 みろく沢炭鉱資料館
福島県の観光 湯本山神社
長野県の観光 岩松院(福島正則公霊廟)
長野県の観光 諏訪大社上社本宮
長野県の観光 諏訪大社上社前宮
長野県の観光 神長官守矢史料館
長野県の観光 尖石縄文考古館,尖石遺跡,与助尾根遺跡
長野県の観光 御射鹿池(みしゃかいけ)
(東山魁夷の「白い馬」シリーズの名画「緑響く」の取材地)
長野県の観光 横谷渓谷(よこやけいこく)
岐阜県の観光 治水神社(薩摩義士ゆかりの神社)
岐阜県の観光 千本松原(油島千本松締切堤)
岐阜県の観光 国営木曽三川公園・木曽三川公園センター
三重県の観光 海蔵寺(薩摩義士の墓)
三重県の観光 常音寺(薩摩義士の墓)
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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」の温泉・温浴施設の入湯記
温泉,地域 入湯した温泉・温浴施設
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 城山観光ホテル・城山温泉・さつま乃湯(桜島と海が見える露天風呂があります。)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテル吹上荘
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 温泉ホテル中原別荘
鹿児島市内温泉(ホテル(兼)立ち寄り湯) 健康プラザ田中温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 芦刈温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 池田温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 一本桜温泉センター(市内西部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) うちの温泉センター(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) お乃湯(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 温泉錦湯(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) かごっま温泉(天文館最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 春日温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 霧島温泉(天文館最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 花野温泉たぬき湯(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 郡元温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 野天風呂 薩摩いろはの湯(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 慈眼寺温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 寿康温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 城山長寿泉(市内中心部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 新川温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 新とそ温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 太陽ヘルスセンター(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 武岡温泉(市内西部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 竹迫温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 中山温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 中村温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 永吉温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 滑川温泉(市電沿線,JR鹿児島駅最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 南開温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 西田温泉(鹿児島中央駅最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) はらら温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 真砂温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みずほ温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みやこ温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) めいわ温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 薬師温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテル満秀  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) KKR鹿児島敬天閣  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 錦江高原ホテル  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテルエスポワールタナカ  (廃業)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 今村温泉(市内中心部)(注)
(注)残念ながら2011年5月31日をもって閉店しました。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) さつま温泉(天文館最寄り かつ ウォーターフロント・ベイエリア)(注)
(注)残念ながら2007年6月に廃業したとの由です。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 玉里温泉(市内北部)(注)
(注)残念ながら2012年に廃業したとの由です。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みょうばん温泉(鹿児島中央駅最寄り)  (廃業)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みょうばん温泉まきばの湯(市内南部)  (廃業)
桜島マグマ温泉(鹿児島市) 国民宿舎レインボー桜島・マグマ温泉
桜島白浜温泉(鹿児島市) さくらじま白浜温泉センター
桜島古里温泉(鹿児島市) 桜島シーサイドホテル
桜島古里温泉(鹿児島市) さくらじまホテル
桜島古里温泉(鹿児島市) ふるさと観光ホテル(注)
(注)残念ながら2012年に閉館したとの由です。
鹿児島市内温泉・足湯 ドルフィンポート・足湯
鹿児島市内温泉・足湯 奄美の里・足湯  廃止
(ただし、廃止は足湯のみ。奄美の里は継続営業しています。)
指宿温泉 指宿いわさきホテル
指宿温泉 指宿白水館
指宿温泉 指宿こころの湯(日帰り温泉立ち寄り湯のスーパー銭湯。旅館「指宿こころの宿」も併設されています。)
指宿温泉 二月田温泉殿様湯(指宿温泉でも特に歴史と伝統のある、日帰り温泉立ち寄り湯)
山川温泉郷鰻温泉(指宿市旧山川町地域) 区営鰻温泉
山川温泉郷鰻温泉(指宿市旧山川町地域) うなぎ温泉まつまえ
山川温泉郷伏目温泉(指宿市旧山川町地域) 山川ヘルシーランド露天風呂(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
南薩地域・枕崎市 枕崎なぎさ温泉(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
霧島温泉郷 霧島いわさきホテル
霧島温泉郷 霧島国際ホテル
霧島温泉郷 霧島スパヒルズ(旧「霧島第一ホテル スパヒルズ」)
霧島温泉郷 硫黄谷温泉霧島ホテル
霧島温泉郷 静流荘
霧島温泉郷 旅行人山荘
霧島温泉郷 前田温泉カジロが湯(日帰り温泉立ち寄り湯)
霧島温泉郷 新湯温泉・霧島新燃荘
霧島温泉(霧島山麓) 野々湯温泉
霧島温泉郷&霧島山系山麓の温泉地 栗野岳温泉南洲館
霧島山系周辺平野部・吉松温泉郷 吉松駅前温泉
妙見温泉 妙見石原荘
妙見温泉 味の宿どさんこ
妙見温泉 田島本館
妙見温泉 妙見田中会館
妙見温泉 湯治の宿妙見館・妙見元湯
新川渓谷温泉郷 塩浸温泉龍馬公園
新川渓谷温泉郷 日の出温泉きのこの里
日当山温泉 日当山温泉・花の湯
国分,隼人,姶良地区・足湯 鹿児島空港天然温泉足湯「おやっとさあ」
国分,隼人,姶良地区 船津温泉
国分,隼人,姶良地区 重富温泉
国分,隼人,姶良地区 姶良市温泉センター くすの湯(旧・蒲生町多目的温泉保養センター「くすの湯」)
国分,隼人,姶良地区 龍門滝温泉
北薩・中薩吹上温泉郷 みどり荘
北薩・中薩いちき串木野市 薩摩金山蔵 「杜氏乃湯」
(温浴施設は、後になくなっており、焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処専用施設になっています。)
北薩・中薩川内市街地温泉 川内ホテル・川内温泉センター
北薩・中薩川内市街地温泉 温泉平佐城(平佐城温泉)
北薩・中薩藺牟田温泉 いこいの村いむた池
北薩・中薩阿久根温泉 グランビュー あくね
北薩・中薩阿久根温泉 ふれあい温泉ぼんたん湯(栄屋旅館)
北薩・中薩紫尾温泉 紫尾区営温泉「神の湯」
屋久島等・屋久島の温泉 屋久島いわさきホテル
屋久島等・屋久島の温泉 JRホテル屋久島
屋久島等・屋久島の温泉 縄文の宿 まんてん
屋久島等・屋久島の温泉 平内海中温泉
屋久島等・屋久島の温泉 湯泊温泉
屋久島等・屋久島の温泉 尾之間温泉
屋久島等・屋久島の温泉 楠川温泉
屋久島等・屋久島の温泉 旧・大浦温泉(大浦の湯)
横浜の温泉 横浜みなとみらい万葉倶楽部
横浜温泉 綱島温泉・綱島ラジウム温泉東京園
横浜温泉 綱島温泉・富士乃湯
横浜温泉 天然温泉みうら湯弘明寺店
横浜温泉 若宮湯
横浜温泉 中島館
横浜の大浴場付きホテル ブリーズベイホテル・リゾート&スパ,&  リゾートカプセル桜木町
東京都の温泉 麻布十番温泉  (注) 残念ながら2008年3月末で廃業しました。
東京都の温泉 東京ドーム天然温泉 Spa LaQua(スパ ラクーア)
川崎温泉 縄文天然温泉 志楽の湯
福岡市内温泉 薬院しろやま乃湯  (注) 残念ながら閉館しました。
福岡市内温泉 萃豊閣ホテル&南福岡グリーンホテル温泉
福岡市内温泉 八百治博多ホテル・八百治の湯
人吉市内の温泉 球磨川ラフティング MAIN STREAM & ビジネスホテル白山山荘 附属温泉
高知の温泉 龍河温泉(香美市)
高知の温泉 物部川ほとりの温泉 夢の温泉(香美市)
高知の温泉 高知黒潮ホテル・黒潮温泉「龍馬の湯」(香南市)
高知の温泉 高知三翠園・高知三翠園温泉水哉閣(高知市)
高知の温泉 スーパーホテル高知・長岡温泉・龍馬の湯(高知市)
高知の温泉 国民宿舎 桂浜荘(高知市桂浜:人工温泉)
札幌市内温泉 JRタワーホテル日航札幌・スカイリゾートスパ「プラウブラン(月の島)」
札幌市内温泉 ホテルモントレエーデルホフ札幌・スパ
大阪市内温泉 スーパーホテルCity大阪天然温泉(なにわ天然温泉「花乃井」)
大阪市内温泉 ホテル阪神「徳次郎の湯」(天然温泉スパ&サウナ)
大阪市内温泉 天然温泉なにわの湯
大阪府・箕面温泉 箕面温泉スパーガーデン
秋田県の温泉 乳頭温泉郷・鶴の湯温泉
宮城県の温泉 鳴子温泉・貸切露天風呂の宿扇屋
福島県の温泉 スパリゾートハワイアンズ
山梨県の温泉 下部温泉郷・古湯坊源泉館
山梨県の温泉 下部温泉・くつろぎの宿裕貴屋(旧・大市館)
長野県の温泉 奥蓼科温泉郷 渋御殿湯
長野県の温泉 明治温泉旅館
長野県の温泉 毒沢鉱泉神乃湯
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鹿児島県の温泉&観光
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(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
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鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
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日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
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奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
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特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)


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