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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面) > 鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城

鶴丸城(鹿児島城)

  

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城
(注) 鹿児島県宮崎県は、島津氏の本国である、薩摩国,  大隅国,  日向国の三州の県です。

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地図  :  以下の地図は、鶴丸城(鹿児島城)のものです。
(powered by Google Map



目次  :  鹿児島の温泉地&観光地((当画面ではなく)当ホームページ全体の一部の目次)
鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
温泉宿 →鹿児島県の温泉宿宿泊予約はこちらへ
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)



目次  :  当画面(当ページ)内の目次

当ページ(当画面)内の目次

当画面(当ページ)の先頭(トップ)
鹿児島県+宮崎県の城(目次編)
(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
島津氏宗家の城の変遷 島津忠良公の城の変遷
島津義久公の城の変遷 島津義弘公の城の変遷
島津歳久公と日置家の城・御仮屋の変遷 島津家久公と永吉家の城・御仮屋の変遷
島津忠将と垂水家の城・御仮屋の変遷
+佐土原藩の城
島津尚久と宮之城家の城・御仮屋の変遷
北郷氏(都城島津家)の城・御仮屋の変遷 豊州家(帖佐島津家)の城・御仮屋の変遷
佐多氏(知覧島津家)の城・麓の変遷 薩州家(薩州島津家)の城
江戸時代の御一門(四家)の御仮屋、島津氏の墓
宮崎県の城(詳細解説欄)
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(目次編)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県
当ホームページ管理人が訪問した、鹿児島県外の城
(島津氏に関連の無い城)
お城に関するリンク集
温泉宿,ホテル宿泊予約

当画面の1つの画面・その1の目次
島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史

戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場
(三州(薩摩国,大隅国,日向国(現・鹿児島県&宮崎県))の領国国内統一平定戦の軌跡)

当画面の1つの画面・その2の目次
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)

熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)の城紹介欄の先頭
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県


 : 

鹿児島県 + 宮崎県の城
(「島津氏の本国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の城」+奄美群島の城)

九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
鹿児島県 宮崎県   
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内の目次

鹿児島県の城
島津氏初代当主・島津忠久公が鎌倉時代の建久8年(1197年)に薩摩国,  大隅国、その後まもなくして日向国の三州の守護職に源頼朝公から任じられて以来の、島津氏の本領・本国である三州の中の、日向国の一部(現志布志市等)と、薩摩国,  大隅国全てが、今日の鹿児島県に含まれています。島津忠久公が建仁3年(1203年)の比企の乱(比企能員の変)に連座して鎌倉時代大隅国,  日向国の統治権を失って以降、南北朝時代初期に島津氏第5代当主・島津貞久公が大隅国日向国守護職の座を取り戻すまでの間は、島津氏大隅国守護では、ありませんでした。戦国時代には、島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の舞台になり、江戸時代にも薩摩藩藩領でした。
  島津氏は、鎌倉時代守護が、元々の地域の統治権を維持したまま、江戸時代の近世大名として幕末 ・ 明治維新期まで生き残れた唯一の家です。守護までには至らない鎌倉幕府 御家人クラスでも、鎌倉時代から江戸時代幕末 ・ 明治維新期まで同一地域で近世大名として生き残れた事例は、例えば奥州南部氏相馬氏九州松浦氏等、全国的にも数が少ないです。守護クラスで江戸時代の近世大名として生き残れたというだけであれば、他にも例えば京極氏,  小笠原氏,  室町時代以来の家も加えれば細川氏等の事例がありますが、これらの家も、江戸時代に近世大名として統治した領土は、鎌倉時代(+室町時代初期)に守護職を努めた地域とは、異なる地域です。戦国時代後期までは、例えば武田氏,  今川氏,  六角氏,  大友氏等々の事例のように、鎌倉時代守護職を努めた地域で残っていた戦国大名は他にもいましたが、いずれも、戦国時代末期の天下統一の過程で滅亡しました。このように鎌倉時代守護クラスの家系で、江戸時代幕末 ・ 明治維新期まで同じ地域でサバイバルできたことはクソべらぼうに困難なことであり、その唯一の成功事例が島津氏になります。
  このサバイバルが可能になった過程で、島津氏でも下克上が無かった訳ではありませんが、島津氏における下克上の唯一の成功事例が、
大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の、本宗家の家督相続を巡っての島津氏の内部抗争であったため、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の統治権を他氏族に奪われずに済みました。また、天文14年(1545年)に日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相,  日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家第4代当主の島津忠広が、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を守護として認めて以来、それまでは極めて激しかった島津氏の内部抗争が無くなったことも、途中の局面では他氏族との抗争の過程で極めて苦しい状況に陥った時期があったにもかかわらず、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定を実現できた要因の一つであろうと当ホームページ管理人考えます。さらに、重要な点として、大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の、本宗家の家督相続を巡っての島津氏の内部抗争の過程で、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子の家中で家臣団編成が進んで守護大名から戦国大名に質的成長を遂げることができたことも、生き残れた要因になろうかと思います。
  守護大名から戦国大名に質的成長とは即ち、「鎌倉時代には、軍事的指揮命令系統上は守護の指揮統率下にあるとは申せ、征夷大将軍の直臣・鎌倉幕府 御家人ではあっても、守護の家臣ではなかった国人階層」の家臣団化ということになります。国人階層の家臣団化は、室町時代の「守護守護大名化」においても鎌倉時代よりも進んではいましたが、守護大名領国制の下での守護大名の権力基盤は、有力国人階層の連合政権における第一人者であるに過ぎない申しても過言ではない程に脆弱な状況に留まり、有力国人階層の支持を失えばすぐに無力化しかねない代物でした。他大名では例えば、尾張国越前国でそれぞれ、守護大名 ・ 斯波氏守護代織田氏(の、さらに有力庶流)や朝倉氏が主家を打倒して戦国大名化した事例に代表されるように、守護大名よりも国内有力国人階層の掌握に成功した家臣が現れると、守護大名が権力の座を失うことは、よくあることでした。島津氏の場合、この最後の内紛・内部抗争の過程で薩摩半島における戦国大名としての家臣団編成に成功した上で、それ以降は、
当画面(当ページ)内の戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場欄で紹介する個別の諸合戦の事例のとおり、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)領国内で敵対した有力国人を各個撃破しながら、弱体化した国人を家臣団に組み入れて行ました。また、その過程で得た新領土に、新たに伸びて来た優秀な家臣を「転勤もあり得る、地頭職」として配置することにより、新興有力家臣と土地との結びつきを弱めることで、今日の功臣やその末裔が将来、私領を経済基盤として反乱可能な有力勢力になることを防ぎながら各地に配置するというシステムを採用していました。象徴的な事例を一つあげるとすれば、薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城城主として知られる名将・新納忠元(にいろ ただもと)でさえ、薩摩国 伊佐郡 大口は私領として賜った訳ではなく地頭に任命されて赴任したものであり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納氏によれば、その家系の江戸時代の領土は、薩摩国 伊佐郡 大口内の150石にとどまっていたとの由です。
  戦国時代島津氏の合戦の内、主なものは、
当画面(当ページ)内の戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場欄で、ご参照いただけます。島津氏は、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦を成し遂げた後、戦国時代末期/安土桃山時代九州統一(九州平定)をほぼ完成目前まで行いましたが、それと同時並行時期もある程の直後の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)で敗北しました。九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の結果、島津氏は滅亡せずに生き残ることができましたが、本領・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の内、薩摩国,  大隅国は維持できましたが、日向国は、面積にして数分の一程度の島津氏勢に残った例外的地域を除いて、没収されてしまいました。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍についてしまいましたが、壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口島津義弘公が本領に生還することに成功し、島津氏宗家第16代当主・島津義久公、島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主・島津忠恒(家久)公らの外交努力の結果、江戸時代にも近世大名として生き残ることができました。島津氏は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)3月7日に琉球侵攻を行い、今日の沖縄県の地域には形の上で琉球王国付庸国として残して間接統治を行い、奄美群島薩摩藩直轄領としました。琉球王国を併合せずに間接統治した理由は、(現・中国)と琉球王国との間の冊封国としての朝貢貿易の利益を得るためです。「薩摩藩を含む日本」が(現・中国)の属国(冊封国)ではなく独立国であるためには、華夷秩序に基づく冊封体制に組み込まれる訳にはいきませんでしたので、(現・中国)との交易を続けながらも、「薩摩藩を含む日本」が冊封国にならずに済むための方便として、実質的には薩摩藩の支配下に置きながらも建前上は琉球王国を存続させることにより、琉球王国を経由しての朝貢貿易を行うことをしていた訳です。
  当段落以降の段落で述べる奄美群島の歴史の概略は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 奄美群島の歴史,ならびに奄美市ホームページ ・ 奄美の歴史概要<説明>等によるものです。奄美群島は、古代の「奄美世(あまんゆ)」の時期には、令制国の範囲外ではありましたが、日本に属する地域であると見なされており、喜界島城久遺跡群大宰府政庁解説)の出先機関であったと推定されているとの由です。「奄美世(あまんゆ)」に時代区分されることもある「按司世(あじんゆ)」では、地元勢力・按司によるグスクがあったり、平家の落人伝説に基づいた城があったりしました。また、鎌倉時代には鎌倉幕府北条氏 得宗家の私領であり、薩摩国 ・ 川辺郡(かわなべぐん)(現・鹿児島県の、概ね「南九州市頴娃町(えいちょう)地域以外」,  枕崎市,  「南さつま市金峰町地域以外」の地域)の鎌倉幕府 御家人(兼)御内人得宗被官)・千竈(ちかま)氏得宗家代官として采配していたとの由です。
  その鎌倉時代の文永3年(1266年)に、古琉球英祖王統の国王・英祖奄美群島から朝貢があった旨の古文書があり、この時期から琉球(現沖縄県)の勢力下に徐々に入っていきました。奄美群島の中でも沖縄本島に近い南部の与論島沖永良部島は他の島よりも先に、沖縄県の歴史における三山時代北山王国(ほくざんおうこく)に属していたことが知られています。本土では室町時代であった応永23年(1416年)に、第一尚氏尚巴志王が世子時代に北山王国を滅ぼし、応永23年(1429年)に与論島沖永良部島琉球王国領に組み込まれたとの由です。この時期の沖永良部島の島主で悲劇の自殺を遂げた世之主は、北山王国怕尼芝王統の王族であったと伝えられています。徳之島琉球王国に服属し、文安4年(1447年)には第一尚氏尚思達王奄美大島も従わせたとの由です。文正元年(1466年)には、第一尚氏尚徳王喜界島も制圧し、奄美群島は全域が琉球王国領になったとの由です。琉球王国支配下時代の時期は、奄美群島の歴史では「那覇世(なはんゆ)」と呼ばれているとの由です。
  上述もしましたとおり、江戸時代初期の慶長14年(1609年)の薩摩藩琉球侵攻の後は、現沖縄県の領域は薩摩藩支配下ながらも間接統治体制として存続し得た琉球王国領のままでしたが、奄美群島薩摩藩直轄領になりました。薩摩藩領時代を奄美群島の歴史では「大和世(やまとんゆ)」と呼ぶとの由です。
  このように、島々の支配者が本土勢力(+地元勢)から琉球王国に代わって、再び本土勢力に戻った歴史的経緯のため、本土の中世に相当する時期の奄美群島の中世城郭遺構は、本土系の城郭遺構と、グスクとが、混在しています。)


当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内の目次
市町村 城跡
鹿児島市 旧鹿児島市地域 (当HP内の)鶴丸城(鹿児島城)訪問記
鶴丸城(鹿児島城)は、島津氏宗家の居城で、江戸時代薩摩藩の藩庁の城です。)
(当HP内の)東福寺城訪問記
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
清水城しみずじょう
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。)
内城うちじょう
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
(当HP内の)天璋院篤姫の生家・今和泉島津家本邸跡訪問記
谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図
(外部リンク)
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。)
旧吉田町地域 吉田城松尾城
島津歳久公の居城だった時期がある城です。)
旧郡山町地域 郡山城地図
(外部リンク)
旧喜入町地域 喜入麓仮屋跡(肝付家仮屋跡)
給黎城(きいれじょう)地図
(外部リンク)
指宿市
(いぶずきし)
旧指宿市地域 松尾城(指宿城)
今和泉島津家別邸跡
南九州市 旧知覧町地域 知覧城
佐多氏(知覧島津家)の居城だった時期がある城です。)
亀甲城
(当HP内の)知覧武家屋敷群訪問記
佐多氏(知覧島津家)の麓武家屋敷群だった武家屋敷群です。)
旧川辺町(かわなべちょう)地域 平山城(川辺城)かわなべじょう
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。また、戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。)
旧頴娃町(えいちょう)地域 頴娃城えいじょう
(比較的早い時期に島津氏の忠臣になった国人領主・頴娃(えい)氏の本城だった城です。)
枕崎市 鹿籠桜之城かごさくらのじょう
島津尚久,ならびに宮之城家の居城だった時期がある城です。)
南さつま市 旧加世田市地域 別府城(加世田城)
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。島津忠良公の居城だった時期がある城です。)
旧金峰町地域 亀ヶ城
島津忠良公の居城だった時期がある城であり、亀丸城伊作城と共に、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の当初からの拠点だった城です。戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょうから逃れて来た島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が在城したことがあるため、島津氏宗家の居城だった時期があると言える城です。)
霧島市 旧国分市地域
(こくぶし)
国分城(舞鶴城)
島津義久公の居城だった時期がある城です。ただし、島津氏宗家/薩摩藩の本城だった城ではありません。)
国分清水城こくぶきよみずじょう
島津忠将,ならびにその家系である垂水家の居城だった時期がある城です。)
上井城うわいじょう
島津忠将の居城だった時期がある城です。と申しても、この家系の当主が現役時代に住んでいた城ではなく、島津忠将の嫡男の島津征久(島津以久)が、そのさらに嫡男の島津彰久国分清水城こくぶきよみずじょうを譲って隠居していた時期に、住んでいた城です。島津彰久は若死したため、後年、島津征久(島津以久)は現役に戻りました。)
小村海浜小邨海M
旧隼人町地域 富隈城
島津義久公の居城だった時期がある城です。ただし、島津氏宗家/薩摩藩の本城だった城ではありません。)
生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図
(外部リンク)
旧横川町地域 横川城
島津家久公の城だった時期がある可能性が高い城です。ただし、もしかしたら、大隅国 桑原郡 横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)の別の城である可能性はあります。)
旧福山町地域 廻城めぐりじょう
戦国時代廻城の戦いの舞台になった城です。)
姶良郡
湧水町
旧栗野町地域 栗野城
島津義弘公の居城だった時期がある城です。)
旧吉松町地域 吉松城(亀鶴城)
島津義弘公の居城だった時期がある城です。)
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際の、前哨戦の舞台になった城です。その後、反島津氏から、島津氏の忠臣にして功臣に転じた国人領主・加治木肝付氏の本城だった城です。)
(当HP内の)加治木島津館訪問記
島津義弘公の居城だった時期がある城です。)
旧姶良町地域 平山城(平安城,帖佐本城)
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際の、前哨戦の舞台になった城です。また、その後、反島津氏国人領主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の祁答院(けどういん)良重との合戦の舞台になった城です。)
帖佐館
島津義弘公の居城だった時期がある城です。また、豊州家(帖佐島津家)に嫁いだ島津義弘公の娘・島津御屋地(しまづおやじ)がいた時期がある城です。)
帖佐麓御仮屋
江戸時代に、豊州家(帖佐島津家)が地頭を勤めた郷の麓武家屋敷群の御仮屋です。)
建昌城(瓜生野城)
豊州家(帖佐島津家)の居城だった時期がある城です。)
岩剣城(岩剱城)いわつるぎじょう
(反島津氏国人領主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の祁答院(けどういん)良重との合戦の舞台になった城です。)
平松館
島津義弘公の居城だった時期がある城です。また、豊州家(帖佐島津家)に嫁いだ島津義弘公の娘・島津御屋地(しまづおやじ)がいた時期がある城です。)
旧蒲生町地域 蒲生城かもうじょう
(反島津氏国人領主・蒲生(かもう)範清の本城だった城で、蒲生範清との合戦の舞台になった城です。)
蒲生武家屋敷通り
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
島津忠良公の居城だった時期がある城であり、亀ヶ城と共に、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の当初からの拠点だった城です。また、戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょうから逃れて来ざるを得なかった時期の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が在城したことがあるため、島津氏宗家の居城だった時期があると言える城です)
南郷城(野首城)
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。また、島津忠将の居城だった時期がある城です。)
永吉麓御仮屋
島津家久公の家系である永吉家の御仮屋だった所です。)
旧日吉町町地域 南谷城(吉利御仮屋)
日置城(松尾城,山田城)
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。)
日置麓御仮屋(古垣城)
島津歳久公の家系である日置家の御仮屋があった所です。)
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
旧東市来町地域 市来鶴丸城
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。)
いちき串木野市 旧串木野市地域 串木野城
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争における、合戦の舞台になった城です。また、島津家久公の居城だった時期がある城です。)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 碇山城いかりやまじょう
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
平佐城ひらさじょう
二福城(隈之城)
(居城ではありませんが、島津家久公の城だった時期がある城です。)
妹背城(高城城)いもせじょう(たきじょう)
渋谷五族(薩摩渋谷氏)の国人領主・高城(たき)氏の本城だった城です。)
旧入来町(いりきちょう)地域 清色城きよしきじょう
島津氏の忠臣にして功臣だった時期と、反島津氏だった時期の双方の時期がある国人領主で、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の入来院氏の本城だった城です。)
入来麓武家屋敷群
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
(一時期は反島津氏だった国人領主で、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の東郷氏の本城だった城です。また、島津尚久の家系の宮之城家の居城だった時期がある城です。)
旧祁答院町(けどういんちょう)地域 大村城
松尾城
黒木麓御仮屋
江戸時代に、豊州家(帖佐島津家)が私領主として領有した郷の麓武家屋敷群の御仮屋です。)
甑島(こしきじま) 亀城
里武家屋敷跡
下甑武家屋敷通り(下甑麓武家屋敷跡)
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
薩州家(薩州島津家)の居城だった城です。戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際の、一方の当事者・薩州家の拠点だった城ということになります。)
(当HP内の)出水麓武家屋敷群訪問記
旧高尾野町地域 木牟礼城きのむれじょう
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
旧野田町地域 野田郷武家屋敷通り
亀井山城
新城
出水郡
長島町
長島町地域 堂崎城
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
(反島津氏だった国人領主で、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の祁答院(けどういん)良重の本城だった城です。また、島津歳久公の居城だった時期、北郷家(都城島津家)の居城だった時期、島津尚久の家系の宮之城家の居城だった時期がある城です。)
宮之城麓御仮屋
江戸時代に、島津尚久の家系の宮之城家が私領主として領有した郷の麓武家屋敷群の御仮屋です。)
松尾城
時吉城
山崎城
旧鶴田町地域 太閤陣鳶ノ巣陣
梅君ヶ城(鶴ヶ城)
鶴田城(鶴田古城)
渋谷五族(薩摩渋谷氏)の国人領主・鶴田氏の本城だった城です。)
旧薩摩町地域 長野城
豊州家が一時期領有した地域にあった城です。)
伊佐市 旧大口市地域 大口城
戦国時代菱刈氏との合戦の舞台になった城です。)
曽木城そぎじょう
天堂ヶ尾関白陣
尾ノ上関白陣
旧菱刈町地域 太良城たらじょう
(一時期は反島津氏だった国人領主・菱刈氏の本城だった城です。)
馬越城まごしじょう
垂水市
(たるみずし)
牛根城(入船城,松ヶ城)
戦国時代肝付氏,  伊地知重興との合戦の舞台になった城です。)
早崎塁(早崎城)
戦国時代肝付氏,  伊地知重興との合戦の舞台になった城です。)
小浜の塁(小浜城)
戦国時代肝付氏,  伊地知重興との合戦の舞台になった城です。)
垂水城
島津忠将の家系の垂水家の居城だった時期がある城です。)
林之城(林城)・お長屋
島津忠将の家系の垂水家の居城だった時期がある城です。)
垂水本城
(一時期は反島津氏だった国人領主・伊地知氏の本城だった城です。)
鹿屋市
(かのやし)
旧鹿屋市地域 鹿屋城(亀鶴城)
島津忠将の家系の垂水家を継いだ、島津久信の居城だった時期がある城です。)
高隈城
鶴羽城(木谷城)
大姶良城
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
旧輝北町(きほくちょう)地域 垂野城
豊州家(帖佐島津家)の領土にある城だった時期があります。)
加瀬田ヶ城
豊州家(帖佐島津家)の領土にある城だった時期があります。)
旧串良町(くしらちょう)地域 鶴亀城串良城
島津尚久の家系の宮之城家の居城だった時期がある城です。)
志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
島津氏宗家の居城だった時期がある城です。)
志布志麓・天水氏庭園
志布志麓・平山氏庭園
旧松山町地域 松山城
旧有明町地域 蓬原城ふつはらじょう
曽於市
(そおし)
旧末吉町地域 宝寿庵城ほうじゅあんじょう
国合原古戦場くにあいばるこせんじょう住吉原古戦場すみよしばるこせんじょう)))
平松城
旧財部町(たからべちょう)地域 龍虎城(財部城;城山公園)たからべじょう
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
大隅国の反島津氏国人戦国大名 ・ 肝付(きもつき)氏の本城だった城です。)
肝属郡
錦江町
旧大根占町(おおねじめちょう)地域 高城
肝属郡
南大隅町
旧根占町(ねじめちょう)地域 富田城
(一時期は反島津氏だった国人領主・禰寝(ねじめ)氏の本城だった城です。)
国見城
(一時期は反島津氏だった国人領主・禰寝(ねじめ)氏の本城だった城です。)
旧佐多町(さたちょう)地域 伊座敷城
高木城
佐多氏(知覧島津家)の居城だった時期がある城です。)
種子島 ・ 西之表市 新城
島津忠将の家系の垂水家の居城だった時期がある城です。)
赤尾木城
(比較的早い時期に島津氏の忠臣になった国人領主・種子島氏の、江戸時代の館(城)だった城です。種子島氏戦国時代中期から江戸時代にかけて頻繁に居城を変更しました。新城を以外の、以下に示した種子島の他の城も、種子島氏の城です。)
内城(種子島)
種子島時尭居館(現・本源寺)
坂の上城(坂ノ上城)と、同じ城であるかも知れません。)
坂の上城(坂ノ上城)
種子島時尭居館(現・本源寺)と、同じ城であるかも知れません。)
屋久田城
本城(もとじょう)地図
(外部リンク)
池田黒山尻城地図
(外部リンク)
野久尾城この辺り(地図)
(外部リンク)
屋久島 ・ 屋久島町 宮之浦城(城ケ平城,宮之浦城ケ平城)
楠川城
奄美大島
奄美市
旧笠利町地域 赤木名城この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は小助官兵衛の部屋 ・ 城郭一覧【薩摩国】,ならびに鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの)
辺留城べるグスク)(グスク)(この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの)
旧名瀬市地域 浦上城地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの。路上日記 SEASON II RELOADED ・ 平清盛の末裔,ならびに日本の城址 ・ 浦上城によれば、奄美大島平家の落人伝説においては、平有盛が築いたとされる城であるとの由で、今日、跡地は有盛神社平有盛神社)(地図になっているとの由です。)
旧住用村地域 石原ヨシハラウエノ遺跡この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は黒潮の森マングローブパーク(道の駅 奄美大島 住用)公式WEBサイト ・ 施設案内によるものであり、この参照先によれば、道の駅 奄美大島住用(黒潮の森マングローブパーク)の展望台の場所が、石原ヨシハラウエノ遺跡の場所であるとの由です。)
奄美大島 ・ 龍郷町 戸口城この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの。路上日記 SEASON II RELOADED ・ 平清盛の末裔によれば、奄美大島平家の落人伝説においては、平行盛が築いたとされる城であるとの由で、関連する伝承スポットとして、少し離れた所に平行盛神社行盛神社)(地図があります。)
瀬戸内町 ・ 加計呂麻島 諸鈍城(しょどんじょう)この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの。ハイヌミカゼ ・ 南西諸島グスクリストによれば、奄美群島平家の落人伝説においては、平資盛がの住居跡であるとの由です。関連する伝承スポットとして、離れた所に大屯神社地図があり、大屯神社地図では、平資盛によって始められたと伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定された民俗芸能であり諸鈍シバヤ(しょどんしばや)が伝承されています。)
喜界島 ・ 喜界町 城久遺跡群この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は喜界島ナビ ・ 城久遺跡群に基づくものです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 奄美群島の歴史によれば、大宰府政庁解説)の出先機関の跡であると推定されているとの由です。)
七城(ななじょう)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索,ならびにマンホーラーが城巡りをするときは前方注意! ・ 喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた(2)【川嶺グスク・七城・平家森・直線道路・阿伝集落・レーダー基地跡】(鹿児島県喜界町)によるもの。後者の方の参照先,ならびに路上日記 SEASON II RELOADED ・ 平清盛の末裔によれば、奄美群島平家の落人伝説においては、平資盛が築いた城であるとの由です。)
徳之島 徳之島町 大和グスクやーとぐすく,  ヤートグスク,  ヤトグスク)(グスク)(この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの)
大城(井之川)フーグスク(井之川),  ふうぐしく(井之川))(グスク)(この辺り(地図)
(外部リンク)
(地図は、トレジャーアイランド@徳之島 ・ フーグスク 井之川によるものです(リンク先URLは2014年7月現在)徳之島では、「大城(フーグスク)」という名のグスク天城町にも大城(フーグスク)があります。)
伊仙町 恩納城(別名:恩納グスク,ウンノーグスク,ウンノーウガン,面縄按司城,ウガンウスジ)(グスク
(亀井明徳「南西諸島における貿易陶磁器の流通経路」上智大学『上智アジア学(The Journal of Sophia Asian studies)11号,1993,p.27によれば、恩納城恩納城の別名であるとの由であり、15世紀の竜泉窯製と見られる青磁椀11基が出土したとの由です。恩納城は、国指定史跡徳之島カムィヤキ陶器窯跡」(地図の近くにあり、11〜14世紀のにかけて流通したカムィ焼の生産拠点を治めた按司グスクである可能性があり得るグスクです。)
天城町 大和城ヤートグスク)(グスク)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの)
玉城玉グスク,  タマグスク)(グスク)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの)
大城ふうぐすく)(グスク,  フウグスク,  フーグスク)(グスク)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索によるもの。徳之島では、「大城(フーグスク)」という名のグスク徳之島町にも大城(フーグスク)(井之川)があります。)
沖永良部島 ・ 和泊町 世之主城グスク)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索に基づくもの。関連する観光スポットとして、世之主の墓地図左記リンク切れ時検索結果があります。)
大和城ヤマトグスク)(グスク)(地図
(外部リンク)
(地図は鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索に基づくもの)
与論島 ・ 与論町 【楽天トラベル・たびノート】与論城跡グスク)(地図
(外部リンク)
(もしも上記リンク先が将来リンク切れになったら、キーワード「与論城」のgoogle検索結果,  キーワード「与論グスク」のgoogle検索結果等で情報をお探し下さい。地図はかごしま検定をめざす鹿児島案内 ・ 与論城跡と琴平神社、地主神社によるもの(与論町立長3303〜3308)。この参照先ブログによれば、与論城跡には、地主神社(とこぬしじんじゃ)琴平神社(ことひらじんじゃ)地図があるとの由でであり、サザンクロスセンター左記リンク切れ時検索結果に隣接しているとの由です。なお、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 簡単検索には、ここ(与論町朝戸)に与論城が載っていますが、誤記であるのか、同名の別の城があったのか、等、詳しい事情は存じ上げません。)
九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
鹿児島県 宮崎県   
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
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宮崎県の城(目次欄)
島津氏には鹿児島県のイメージが強いですが、宮崎県は、島津荘の中心地だった都城市島津氏発祥の地であり、島津氏初代当主・島津忠久公が鎌倉時代の建久8年(1197年)に薩摩国,  大隅国、その後まもなくして日向国の三州の守護職に源頼朝公から任じられて以来の、島津氏の本国・三州の中の一国・日向国です。島津忠久公が建仁3年(1203年)の比企の乱(比企能員の変)に連座して鎌倉時代には大隅国,  日向国の統治権を失って以降、南北朝時代初期に島津氏第5代当主・島津貞久公が大隅国日向国守護職の座を取り戻すまでの間は島津氏日向国 守護ではなかったことや、伊東氏等の反島津氏系の国人戦国大名日向国国内にいたため、日向国の回復と統一平定は遅れ、戦国時代島津氏が三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の舞台になりました。
  戦国時代初期に島津氏宗家がまだ日向国にまで勢力を伸ばせられていなかった時期には、島津氏庶流で
都之城(都城)城主の北郷氏(後の都城島津氏)と、島津氏庶流で飫肥城(おびじょう)城主の豊州家豊州島津氏)が、日向国南部の島津氏領を伊東氏の強大な圧力から守っていました。北郷氏(後の都城島津氏)は最終的にも守り抜きましたが、豊州家豊州島津氏)は伊東氏の圧力に抗しきれなくなり、永禄10年(1567年)に島津氏は、一旦、飫肥城を失ってしまいました。その後、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の、今日のえびの市にあった飯野城城主・島津義弘公が伊東氏を打ち破った、「九州桶狭間」と呼ばれる公元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所はえびの市木崎原古戦場)を契機として、天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が滅亡し、島津氏日向国を取り戻しました。豊後国大友宗麟(大友義鎮)伊東氏を支援して天正6年(1578年)に日向国に侵攻しましたが、耳川の戦い(場所は児湯郡 ・ 木城町耳川の戦い古戦場跡で、今日、宗麟原供養塔等があります。)で大友宗麟(大友義鎮)軍を撃退し、日向国の支配権を固めました。木崎原の戦い耳川の戦いは、釣り野伏せの戦法を用いたことで、戦史上、知られています。日向国を手に入れてから以降の、日向国 守護代は島津家久公,日向国 地頭職は上井覚兼であり、島津家久公の居城は宮崎市佐土原町(さどわらちょう)地域にあった佐土原城であり、上井覚兼の居城は宮崎市宮崎市地域にあった宮崎城でした。
  天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)における、根白坂の戦い(場所は児湯郡 ・ 木城町根白坂の戦い古戦場跡)で島津氏は大敗しました。九州征伐(九州平定)の結果、日向国は一部を残して再び島津氏の支配から離れてしまいましたが、今日の宮崎県県域の中でも都城市,  小林市,  えびの市,  高原町(たかはるちょう),  北諸県郡 ・ 三股町(みまたちょう),  東諸県郡 ・ 綾町(あやちょう),  東諸県郡 ・ 国富町旧高岡外城地域,  宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域は、江戸時代にも薩摩藩領として残りました。また、宮崎市佐土原町(さどわらちょう)地域は、薩摩藩から分かれた、島津氏庶流の家が藩主を務めた佐土原藩領でした。)


  なお、この宮崎県の城(索引欄)に載せた城の内、都城市,  えびの市,  小林市,  西諸県郡 高原町(にしもろかたぐん たかはるちょう),  北諸県郡三股町(きたもろかたぐん みまたちょう)以外の市町村にある城についての詳しい解説は、当画面(当ページ)下方の宮崎県の城(詳細解説欄)に載っています。
→   (当画面(当ページ)上方の)「宮崎県の城(詳細解説欄)」欄


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市町村 城跡
えびの市 加久藤城かくとうじょう
戦国時代の一時期、飯野城と共に島津義弘公の城だった城であり、島津義弘公が伊東氏を破った、九州桶狭間と呼ばれる元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所は木崎原古戦場)の舞台となった城です。)
飯野城
(一時期は反島津氏だった、国人領主・北原氏の本城だった時期がある城です。また、戦国時代の一時期、加久藤城と共に島津義弘公の城で、特に居城だった城であり、島津義弘公が伊東氏を破った、九州桶狭間と呼ばれる元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所は木崎原古戦場)の舞台となった城です。)
木崎原古戦場跡きざきばるこせんじょうあと
島津義弘公が伊東氏を破った、九州桶狭間と呼ばれる、戦国時代の元亀3年(1572年)の木崎原の戦いの古戦場です。特に関連する城は、加久藤城飯野城です。)
馬関田城まんがたじょう
豊州家(帖佐島津家)の居城だった時期がある城です。)
小林市 旧小林市地域 三ツ山城(後の小林城
粥餅田古戦場跡かゆもちだこせんじょうあと
三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
(一時期は反島津氏だった、国人領主・北原氏の本城だった時期がある城です。「後の小林城で、当初は三ツ山城と呼ばれていた城」とは、名前が同じだった時期がありますので紛らわしいですが、異なる別の城です。)
岩牟礼城
野首城
旧須木村地域 須木城
奈佐木城
旧野尻町地域 野尻城
戸崎城
紙屋城
西諸県郡 高原町
(たかはるちょう)
高原城
九州桶狭間と呼ばれる元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所は木崎原古戦場)と並んで、日向国の反島津氏国人戦国大名伊東氏を一旦滅亡させることに成功した天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れのきっかけとなった、天正4年(1576年)8月19日の高原城攻めの舞台となった城です。)
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 祝吉御所(島津発祥の碑)いわよしごしょ
島津氏宗家の居館だった時期がある館跡です。)
都之城(都城)
島津氏庶流の北郷家(後の都城島津家)の本城であり、戦国時代に、日向国の反島津氏国人戦国大名伊東氏からの重圧に耐えて北郷氏が領土を防衛することに成功した本拠地となった城です。)
安永城やすながじょう
北郷家(都城島津家)の居城だった時期がある城です。)
志和池城しわちじょう
領主館跡
北郷氏(都城島津家)の居城だった時期がある城です。)
都城島津邸
野々美谷城地図
(外部リンク)
旧山田町地域 薩摩迫
山田城
旧高崎町地域 高崎城たかざきじょう)(別名:谷川城,  龍虎山城
旧高城町地域
(たかじょうちょう)
月山日和城(高城)がっさんひわじょう
三俣院高城みまたいんたかじょう)(月山日和城がっさんひわじょう))は、穆佐院高城むかさいんたかじょう)(穆佐城むかさじょう)),  新納院高城にいろいんたかじょうと並んで、中世の日向国三高城の中の一城であるとの由です。北郷氏(都城島津家)の居城だった時期もある城です。)
高城郷麓の武家門
旧山之口町地域 松尾城(三俣城)
山之口麓武家屋敷道
北諸県郡 三股町
(みまたちょう)
樺山城かばやまじょう
東諸県郡 綾町
あやちょう
綾城
江戸時代一国一城令綾城が廃城になった後の、薩摩藩の「外城制」の下でのは、倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)
国富町
くにとみちょう
八代城やつしろじょう
鎌田ヶ城かまだがじょう,別名:本庄城
串間市 櫛間城くしまじょう
豊州家(帖佐島津家)の居城だった時期がある城です。)
日南市 飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
戦国時代島津氏伊東氏との間で激しい争奪戦が行われた城で、豊州家(帖佐島津家)の居城だった時期がある城です。一時期、島津氏庶流の豊州家の養子だった時期の島津忠平(後の島津義弘)も在城していた時期があります。一旦伊東氏に奪われた後、天正5年(1577年)の伊東崩れで再び島津氏の城になりましたが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)で再び伊東氏の城になりました。江戸時代には、伊東氏が治める日向国 飫肥藩の藩庁の城でした)
酒谷地区 酒谷城
南郷町地域 湖雲ヶ城(湖雲が城)
宮崎市 宮崎市地域 宮崎城
豊州家(帖佐島津家)の領土にある城だった時期があります。)
紫波洲崎城しはすざきじょう
倉岡城(別称:池尻城
江戸時代一国一城令倉岡城が廃城になった後の、薩摩藩の「外城制」の下での倉岡郷は、戦国時代の城は綾城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)
高岡町地域
たかおかちょう
穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう))
穆佐院高城むかさいんたかじょう)(穆佐城むかさじょう))は、三俣院高城みまたいんたかじょう)(月山日和城がっさんひわじょう)),  新納院高城にいろいんたかじょうと並んで、中世の日向国三高城の中の一城であるとの由です。
  江戸時代一国一城令
穆佐城むかさじょうが廃城になった後の、薩摩藩の「外城制」の下での穆佐郷は、戦国時代の城は綾城),  倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)
天ケ城(別名:内山城,  高岡城
江戸時代一国一城令天ケ城(別名:高岡城が廃城になった後の、薩摩藩の「外城制」の下での高岡は、戦国時代の城は綾城),  倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)
清武町地域
きよたけちょう
清武城きよたけじょう
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
佐土原城は、戦国時代末期までは都於郡城とのこおりじょうと共に、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏の本拠地だった城です。その後、島津氏の城になり、島津四兄弟の末弟(四男)の島津家久公の居城だったことや、その嫡男で、関ヶ原の戦いで壮絶な戦死したことで有名な島津豊久の居城だったことで知られています。が、佐土原城城主になりました。江戸時代には、島津氏庶流の島津忠将の家系の佐土原島津家の居城として、佐土原藩2万7千石の藩庁の城でした。)
西都市 都於郡城とのこおりじょう
都於郡城は、戦国時代末期までは佐土原城さどわらじょうと共に、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏の本拠地だった城です。)
三納城みのうじょう
穂北城ほきたじょう)(別名:上野城
児湯郡 高鍋町 財部城たからべじょう)/高鍋城たかなべじょう
財部城たからべじょうは、戦国時代末期/安土桃山時代日向 伊東氏を経て、島津氏の城になりました。豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後は秋月氏の城になり、江戸時代には秋月氏 財部藩/高鍋藩の藩庁の城でした。延宝元年(1673年)に当地の地名は財部(たからべ)から高鍋たかなべ)に改称になり、城の名前も高鍋城たかなべじょうに改称されました。)
木城町 新納石城にいろいしじょう
高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))
高城新納院高城は、三俣院高城みまたいんたかじょう)(月山日和城がっさんひわじょう)),  穆佐院高城むかさいんたかじょう)(穆佐城むかさじょう))と共に、中世の日向国三高城の中の一城であるとの由です。
  また、
高城新納院高城は、戦国時代末期/安土桃山時代には、天正6年(1578年)の耳川の戦い(場所は耳川の戦い古戦場),  天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の根白坂の戦い(場所は根白坂の戦い古戦場)の2つの合戦の舞台になった城です。)
根白坂の戦い古戦場
根白坂の戦い古戦場は、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)における、島津氏が敗れた最終決戦の合戦・根白坂の戦いの古戦場跡です。この合戦は、高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))の周辺で行われました。)
木城町

川南町
耳川の戦い古戦場
耳川の戦い古戦場は、高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))周辺で戦国時代の天正6年(1578年)に行われて、島津氏大友氏を撃ち破った耳川の戦いの古戦場です。)
新富町 富田城とんだじょう
西米良村
にしめらむら
村所城むらしょじょう)(別名:米良城めらじょう),米良御所めらごしょ))
小川城おがわじょう
日向市 日向市地域 塩見城
塩見城は、日知屋城ひちやじょう,  門川城と並んで、日向三城の中の1城であったとの由です。)
日知屋城ひちやじょう
日知屋城ひちやじょうは、塩見城,  門川城と並んで、日向三城の中の1城であったとの由です。)
東郷町地域 山陰城やまげじょう
東臼杵郡 門川町 門川城かどがわじょう
門川城かどがわじょうは、日知屋城ひちやじょうと並んで、日向三城の中の1城であったとの由です。)
美郷町
みさとちょう
星原城神門城みかどじょう))
西臼杵郡 高千穂町 仲山城(別名:中山城,高知尾城?)
玄武城くろたけじょう
日之影町 中崎城
延岡市 延岡市地域 松尾城(別名:縣城あがたじょう),縣松尾城あがたまつおじょう))
縣城あがたじょう)/延岡城
縣城あがたじょうは、豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の後に移封(転封)して来た高橋元種が、江戸時代初期の慶長8年(1603年)秋に築城を完成させて、縣松尾城あがたまつおじょうから移って来た城です。以来、城主は数回代わりましたが、日向 縣藩(あがたはん)延岡藩の藩庁の城でした。江戸時代に、当地の地名は縣(あがた)から延岡に改称になり、城の名前も延岡城に改称されました。)

務志賀軍営むしかぐんえい,  無鹿
北川町地域 西郷隆盛宿陣跡資料館

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九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
鹿児島県 宮崎県   
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
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島津
宗家
 : 

島津氏宗家の城の変遷

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市町村 城跡
島津氏最初の5代
鎌倉時代南北朝時代前半)
宮崎県 都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 祝吉御所(島津発祥の碑)いわよしごしょ
出水市
(いずみし)
旧高尾野町地域 木牟礼城きのむれじょう
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 碇山城いかりやまじょう
鹿児島市 旧鹿児島市地域 (当HP内の)東福寺城訪問記
島津氏宗家の奥州家,  総州家分裂時期の、奥州家の城
南北朝時代後半〜室町時代初期)
鹿児島市 旧鹿児島市地域 (当HP内の)東福寺城訪問記
鹿屋市
(かのやし)
旧鹿屋市地域 大姶良城おおあいらじょう
志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城しぶしじょう
鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
島津氏宗家の奥州家,  総州家分裂時期の、総州家の城
南北朝時代後半〜室町時代初期)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 碇山城いかりやまじょう
南九州市 旧川辺町(かわなべちょう)地域 平山城(川辺城)かわなべじょう
奥州家による再統合後の、島津氏宗家の城
室町時代以降)
鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
南さつま市 旧金峰町地域 亀ヶ城
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょうから逃れて来た島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が在城したことがあります。)
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
戦国時代の、伊作家(兼)相州家島津氏宗家と、薩州家との間の、島津氏宗家の家督相続を巡っての一連の抗争の際に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょうから逃れて来ざるを得なかった時期の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が、在城したことがあります。)
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
内城うちじょう
(当HP内の)鶴丸城(鹿児島城)訪問記
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忠良  : 

島津忠良公の城の変遷伊作家,  相州家
日新斎(じっしんさい)島津忠良公は、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の実父で、戦国時代島津氏中興の祖です。日新斎島津忠良公は、島津氏庶流の伊作家相州家とを併せ継ぎました。)

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市町村 城跡
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
島津氏庶流の伊作家第10代当主としての、日新斎島津忠良公の城でした。)
南さつま市 旧金峰町地域 亀ヶ城
島津氏庶流の相州家家3代当主としての、日新斎島津忠良公の城でした。したがって、亀丸城伊作城の次の移転先という訳ではなく、亀丸城伊作城と併せて、日新斎島津忠良公の城だった城です。)
旧加世田市地域 別府城(加世田城)
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義久  : 

島津氏宗家第16代当主・島津義久公の城の変遷
(ただし、島津四兄弟の長男・島津義久公の城の内、島津氏宗家の居城としての城以外のもの)

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市町村 城跡
霧島市 旧隼人町地域 富隈城
豊臣秀吉政権の圧力により、一時期は島津氏宗家第16代当主・島津義久公が薩摩国島津義弘公が大隅国という国分けが逆になり、島津義久公が大隅国島津義弘公が薩摩国と逆になった文禄4年(1995年)に、島津義久公が薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょうから、移って来ました。)
旧国分市(こくぶし)地域 国分城(舞鶴城)
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義弘  : 

島津義弘公の城の変遷
島津四兄弟の次男・島津義弘公の城)

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市町村 城跡
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 平松館
平松館は、岩剣城(岩剱城)の麓に築いた城館です。)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
(城主として在城していた訳ではありませんが、一時期、島津氏庶流の豊州家の養子だった時期の島津忠平公(後の島津義弘公)が、在城していた時期があります。)
南さつま市 旧加世田市地域 加世田城(別府城)か?
(永禄5年(1562年)に日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうを去った後、永禄7年(1564年)に大隅国 桑原郡 筒羽野島津義弘公が吉松と改名)(現・鹿児島県 ・ 姶良郡 湧水町吉松町地域)の吉松城(亀鶴城)経由で日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城に赴任するまでの間の時期の島津義弘公の居城については、2014年12月現在、調べても分かりませんでした。よんご会HP 歴史・史跡欄 年表(吉松と栗野のおいたち) ・ 亀鶴城によれば、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の加世田城(別府城)から吉松城(亀鶴城)に移って来た旨の記載がありますが、2014年12月現在、他の文献・ホームページで裏付け確認は取れていません。)
姶良郡
湧水町
旧吉松町地域 吉松城(亀鶴城)
島津義弘公が飯野城に入城する前、飯野城工事期間中に滞在したとの由です。)
宮崎県 えびの市 飯野城
加久藤城かくとうじょう
加久藤城島津義弘公本人の居城ではありませんが島津義弘公の城であり、九州桶狭間と呼ばれる、戦国時代の元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(戦場跡は、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の木崎原(きざきばる)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の木崎原古戦場)の時期には、島津義弘公はの妻子が、加久藤城にいたとの由です。)
熊本県 八代市
(やつしろし)
古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城
古麓城へは、島津義弘公は飯野城から移転して来た訳では、ありません。引き続いて飯野城城主だった一方、古麓城は、肥後国 守護代としての島津義弘公の拠点となる城でした。)
姶良郡
湧水町
旧栗野町地域 栗野城
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 帖佐館
平松館
旧加治木町地域 (当HP内の)加治木島津館訪問記
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歳久  : 

島津歳久公と日置家の城・御仮屋の変遷
島津四兄弟の三男・島津歳久公と、その子孫の家系である島津氏庶流の日置家(日置島津家,日置島津氏)の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
鹿児島市 旧吉田町地域 吉田城松尾城
薩摩郡 さつま町 旧宮之城町地域 虎居城
日置市
(ひおきし)
旧日吉町地域 日置麓御仮屋(古垣城)
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、島津歳久公の家系は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家系・日置家(ひおきけ;日置島津家)として、存続しました。日置家の私領は薩摩国 日置郡 日置郷(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町日置日吉町山田」)であり、日置郷の日置 武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、日置麓御仮屋です。)
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家久  : 

島津家久公と永吉家の城・御仮屋の変遷
島津四兄弟の四男(末弟)・島津家久公と、その子孫の家系である島津氏庶流の永吉家(永吉島津家,永吉島津氏)の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
霧島市 旧横川町地域 横川城
島津家久公の城だった時期がある可能性が高い城です。ただし、もしかしたら、大隅国 桑原郡 横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)の別の城である可能性はあります。)
いちき串木野市 旧串木野市地域 串木野城
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 二福城(隈之城)
二福城(隈之城)島津家久公の居城だった城ではありませんが、島津家久公が串木野城城主だった時期に、併せて島津家久公の城だった城です。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 永吉麓御仮屋
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、島津家久公の家系は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家系・永吉家(ながよしけ;永吉島津家)として、存続しました。永吉家の私領は薩摩国 日置郡 永吉郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)であり、永吉郷の永吉 武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、永吉麓御仮屋です。)
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忠将  : 

島津忠将と垂水家の城・御仮屋の変遷+佐土原藩の城
島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟で、島津四兄弟の四男(末弟)の叔父である島津忠将と、その嫡男・島津以久,  島津以久の嫡孫・島津忠仍(島津信久,島津久信の系統の島津氏庶流の垂水家(たるみずけ;垂水島津家,垂水島津氏)、島津以久の三男・島津忠興の系統の島津氏庶流の佐土原家(日向国 佐土原藩藩主家)、の島津忠将系2家の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
島津征久(島津以久)佐土原藩主になる以前
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 南郷城(野首城)
霧島市 旧国分市(こくぶし)地域 国分清水城こくぶきよみずじょう
上井城うわいじょう
種子島 ・ 西之表市 新城
垂水市
(たるみずし)
垂水城
島津久信の城跡
垂水城以降は、垂水家継承後。この時以降、島津忠将の家系は、垂水島津家と、佐土原家(さどわらけ;佐土原藩藩主家)とに分かれました。)
鹿屋市
(かのやし)
旧鹿屋市地域 鹿屋城(亀鶴城)
垂水市
(たるみずし)
垂水城
(慶長9年(1604年)に島津征久(島津以久)佐土原藩を立藩した際に、嫡孫・島津久信日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)に付いて行かず、島津征久(島津以久)の旧領・大隅国 大隅郡垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の方を継承して、その家系は、垂水島津家という島津氏庶流の家になりました。)
林之城(林城)・お長屋
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、島津忠将の家系の内、島津久信の家系は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる「一所持」と呼ばれる重臣の家格(江戸時代の途中からは、江戸幕府御三家に相当する、薩摩藩藩主の血統が絶えた場合に藩主の後継ぎを出せる程の最も高い家格の御一門(四家)の家格)の家系・垂水家(たるみずけ;垂水島津家)として、存続しました。垂水家の私領は大隅国 大隅郡 垂水郷(たるみずごう;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)であり、垂水郷の垂水 武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、林之城(林城)・お長屋です。)
佐土原藩立藩後
(この時以降、島津忠将の家系は、垂水島津家と、佐土原家(さどわらけ;佐土原藩藩主家)とに分かれました。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
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尚久  : 

島津尚久と宮之城家の城・御仮屋の変遷
島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の末弟で、島津四兄弟の四男(末弟)の叔父である島津尚久と、その嫡男・島津忠長の系統の島津氏庶流の宮之城家(宮之城島津家,宮之城島津氏)の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
枕崎市 鹿籠桜之城かごさくらのじょう
鹿屋市
(かのやし)
旧串良町(くしらちょう)地域 鶴亀城串良城
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
薩摩郡 さつま町 旧宮之城町地域 虎居城
宮之城麓御仮屋
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、島津尚久の家系は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家系・宮之城島津家として、存続しました。宮之城島津家の私領は薩摩国 伊佐郡 宮之城郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩郡 さつま町宮之城町地域)であり、宮之城郷の宮之城 武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、宮之城麓御仮屋です。)
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都城
島津
 : 

北郷氏(都城島津家)の城・御仮屋の変遷
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし;後の都城島津家)の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧山田町地域 薩摩迫
旧都城市地域 都之城(都城)
旧高城町(たかじょうちょう)地域 月山日和城(高城)がっさんひわじょう
室町時代中期の享徳2年(1453年)に北郷氏(ほんごうし)第5代当主・北郷持久が、大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)をかくまった嫌疑のために都之城(都城)から追われる状況に陥った際に、閉居を命じられた北郷持久は、当時の月山日和城(高城)城主・和田氏の食客のような身分で月山日和城(高城)で謹慎していた時期があるとの由です。)
旧山田町地域 薩摩迫
室町時代中期の享徳2年(1453年)に北郷氏(ほんごうし)第5代当主・北郷持久が、大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)をかくまった嫌疑のために都之城(都城)から追われる状況に陥った際に、閉居を命じられた北郷持久は、当時の月山日和城(高城)を経て、寛正6年(1465年)に閉居を許されて、荘内古江村(現・宮崎県 ・ 都城市旧山田町地域古江地区)の薩摩迫に移ったとの由です。)
旧都城市地域 安永城やすながじょう
(上記のとおり、室町時代中期に大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)をかくまった嫌疑のために一時期閉居を命じられて、許された後に薩摩迫に移っっていた北郷氏(ほんごうし)は、第5代当主・北郷持久の嫡男で第6代当主・北郷敏久が、応仁2年(1468年)に安永城を築いて、安永城に移ったとの由です。結局、北郷持久は、存命中に北郷氏の本城・都之城(都城)に戻ることは叶いませんでした。)
都之城(都城)
(上記のとおり、室町時代中期に大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)をかくまった嫌疑のために一時期閉居を命じられて、許されたものの、北郷氏(ほんごうし)の本城・都之城(都城)に戻ることが叶わず安永城にいた北郷氏は、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公の命により、第6代当主・北郷敏久の代の文明8年(1476年)に、約24年ぶりに都之城(都城)に戻ることができたとの由です。)
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
宮崎県
都城市
旧都城市地域 都之城(都城)
領主館
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、都城島津家(旧・北郷氏(ほんごうし))は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家の中で、最大の4万石弱の石高を誇る家として、存続しました。都城島津家の私領は日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城ならびに日向国 諸県郡安永郷,山田郷,志和池郷,野々美谷郷,梶山郷,梅北郷(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域,ならびに都城市山田町地域)であり、日向国 諸県郡 都城にあった領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、領主館です。)
都城島津邸
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豊州
島津
 : 

豊州家(帖佐島津家)の城・御仮屋の変遷
島津氏庶流の豊州家(後の帖佐島津家(ちょうさしまづけ))の城+武家屋敷群の御仮屋)

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市町村 城跡
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 瓜生野城(建昌城)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
戦国時代の永禄11年(1568年)の第九飫肥役日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐に奪われるまでの間、飫肥城島津氏の城であり、戦国時代は初期以降は島津氏庶流の豊州家が城主として守っていました。永禄3年(1560年)から同5年(1562年)までの間、豊州家第5代当主・島津忠親の養子として、島津義弘公も飫肥城にいたことがあります。)
宮崎県 串間市 櫛間城くしまじょう
豊州家飫肥城おびじょう在城時期、櫛間城豊州家の城でした。そのほとんどの期間は豊州家の本城・飫肥城の支城であって本城ではありませんでした。戦国時代の永禄11年(1568年)の第九飫肥役日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐飫肥城を奪われるに至る過程で、豊州家第5代当主・島津忠親が一度は伊東義祐に明け渡した飫肥城を一時期取り戻した局面があり、その明け渡していた時期、島津忠親櫛間城にいたとの由です。)
志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
豊州家飫肥城おびじょう在城時期中の一時期、志布志城豊州家の城だった時期があります。豊州家本家が飫肥城から志布志城に本拠地を移した訳ではありませんが、天文7年(1538年)に豊州家新納氏(にいろし)から志布志城を奪った後、豊州家第3代当主・島津忠朝は本城・飫肥城を長子で豊州家第4代当主の島津忠広に任せて、自らは志布志城に移ったとの由です。)
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
今日の旧都城市地域か? (永禄11年(1568年)に飫肥城おびじょうを失った豊州家第5代当主・島津忠親は、生家の北郷氏の拠点の、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)に戻ったとの由です。この時期に居住していた城については、存じ上げません。)
鹿屋市
(かのやし)
旧輝北町(きほくちょう)地域 加瀬田ヶ城
豊州家第6代当主・島津朝久は天正年間(1573年〜1592年)に、加瀬田ヶ城があった大隅国 肝属郡平房(ひらぼう;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域平房地区(地図(この辺り)))と、垂野城があった大隅国 囎唹郡(そおぐん)市成(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町地域市成地区(地図(この辺り)))を賜って領主になったとの由です。加瀬田ヶ城垂野城は、両城が同時期に島津朝久の城だったことになりますが、どちらの方に居城していたのか、或いは、領土内の別の城に居城していたのかは、存じ上げません。)
垂野城
豊州家第6代当主・島津朝久は天正年間(1573年〜1592年)に、加瀬田ヶ城があった大隅国 肝属郡平房(ひらぼう;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域平房地区(地図(この辺り)))と、垂野城があった大隅国 囎唹郡(そおぐん)市成(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町地域市成地区(地図(この辺り)))を賜って領主になったとの由です。加瀬田ヶ城垂野城は、両城が同時期に島津朝久の城だったことになりますが、どちらの方に居城していたのか、或いは、領土内の別の城に居城していたのかは、存じ上げません。)
宮崎県
宮崎市
宮崎市地域 宮崎城
(ただし、豊州家第6代当主・島津朝久は、宮崎城には家臣の日置忠充を城代として置き、自らは、日向国 ・ 真幸院(まさきいん;今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野城島津義弘公に従っていたとの由です。)
宮崎県 えびの市 馬関田城まんがたじょう
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 平松屋敷?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津朝久,ならびに鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、豊州家第6代当主・島津朝久は、馬関田城の次に、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))平松上水流(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域大字(おおあざ)平松字(あざ)上水流(かみずる)(この辺り(地図)))に移ったとの由ですが、詳しい場所は調べても分かりませんでした。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津御屋地によれば、島津朝久生前の夫人・島津御屋地島津義弘公の娘)居住地は平松屋敷であったとの由ですが、この平松屋敷とは、恐らくは平松上水流にあった屋敷のことと推測しますが、平松館のことではない旨を確認した上での推測では、ありません。)
平松館
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 岩剣城によれば、豊州家第6代当主・島津朝久が文禄元年(1592年)の文禄の役(朝鮮出兵)で戦地で病没した後、未亡人となった、島津義弘公の長女で島津朝久夫人の島津御屋地(しまづ おやじ)と、その子が、文禄年間(1593年〜1596年)の頃に、住んでいたとの由です。ただし、2014年10月現在、この記述内容が他の情報源に載っている旨を見つけられていないために裏付けが取れていないため、上記の、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))平松上水流(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域大字(おおあざ)平松字(あざ)上水流(かみずる)(この辺り(地図)))に住んでいたという島津朝久の館と混同したものではないと、確認した上でのことではありません。)
帖佐館
豊州家第6代当主・島津朝久の未亡人で、島津義弘公の長女の島津御屋地(しまづ おやじ)が、父・島津義弘公と共に、そして、島津義弘公が去った後も住んでいた所であるとの由です。)
平松館
豊州家第6代当主・島津朝久の未亡人で、島津義弘公の長女の島津御屋地(しまづ おやじ)が晩年を過ごした所であるとの由です。)
薩摩郡
さつま町
旧薩摩町地域 長野城
豊州家第7代当主であり、島津義弘公の外孫(島津義弘公の娘・島津御屋地の子)である島津久賀(しまづ ひさか)は、安土桃山時代末期の慶長5年(1600年)冬に長野邑に田禄1千石を賜り、さらに、江戸時代初期の慶長9年(1604年)に、長野に居を移したとの由です。長野とは、「恐らくは」というただし書き付きですが、長野城があった薩摩国 伊佐郡長野(現・鹿児島県 ・ 薩摩郡 さつま町薩摩町地域大字(おおあざ)永野)のことであろうと推測します。居城が長野城であったのか、それとも長野の別の城であるかは、定かではありません。)
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 帖佐館
(恐らく。もしかしたら、帖佐麓御仮屋かも知れません。)
鹿児島市 旧鹿児島市地域 東福寺城
東福寺城は、鶴丸城(鹿児島城)城下領にありますので、居城周辺を領有していた訳ではないと考えます。)
上之山城(城山)下邸
(つまり、鶴丸城(鹿児島城)の城下町自体であろうと考えますので、居住地周辺を領有していた訳ではないと考えます。)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧祁答院町地域
(けどういんんちょう)
黒木麓御仮屋
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、豊州家(帖佐島津家)は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家系として、存続しました。豊州家(帖佐島津家)の私領は薩摩国 伊佐郡 黒木郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町(けどういんちょう)地域大字(おおあざ)祁答院町黒木(けどういんちょうくろき)」)であり、黒木郷の黒木 武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋が、黒木麓御仮屋です。)
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 帖佐麓御仮屋
江戸時代には、一国一城令の実質的な抜け穴となる「武家屋敷郡」を各地に配置した薩摩藩の「外城制」において、豊州家(帖佐島津家)は、外城制下の地方行政区域「郷(ごう)」を私領として統治できる一所持という重臣の家格の家系として、存続しました。豊州家(帖佐島津家)の私領は薩摩国 伊佐郡 黒木郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町(けどういんちょう)地域大字(おおあざ)祁答院町黒木(けどういんちょうくろき)」)でした。薩摩国 伊佐郡 黒木郷の他にも、私領ではありませんでしたが、大隅国 始羅郡(しらぐん)帖佐郷(ちょうさごう)(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の地頭を兼任することが多かったとの由です。つまり、(私領主としてではなく、)薩摩藩藩庁の官僚として、帖佐郷も統治したことが多かったということになります。帖佐郷の帖佐武家屋敷群の領主の政庁(兼)館であった御仮屋(地頭仮屋)が、帖佐麓御仮屋です。)
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知覧
島津
 : 

佐多氏(知覧島津家)の城・麓の変遷
島津氏庶流の佐多氏(後の知覧島津家)の城+武家屋敷群)

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市町村 城跡
鹿児島市 旧鹿児島市地域 薩摩国 鹿児島郡 伊敷
(外部リンク)
(具体的な城館の位置は存じ上げませんが、現・鹿児島県 ・ 鹿児島市伊敷この辺り(地図)),  伊敷町この辺り(地図)),  下伊敷この辺り(地図))等」)になります。)
肝属郡
南大隅町
旧佐多町地域
(さたちょう)
高木城
南九州市 旧知覧町地域 知覧城
旧川辺町地域
(かわなべちょう)
薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 川辺
(外部リンク)
(具体的な城館の位置は存じ上げませんが、天正19年(1591年)に薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 川辺鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域大字(おおあざ)川辺町宮村(この辺り(この辺り(地図)))に移ったとの由です。)
旧知覧町地域 中郡竹の御仮屋(なかごおりたけのおかりや)
(佐多氏は、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 知覧郷(現・鹿児島県 ・ 南九州市知覧町地域)に戻って来たとの由です。具体的な御仮屋の位置は存じ上げませんが、当ホームページ内の知覧城紹介欄で解説した理由により、地頭所遺跡地図(住所:鹿児島県南九州市知覧町郡地頭所)がその場所であろうと、推測します。)
(当HP内の)知覧武家屋敷群訪問記
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薩州
島津
 : 

薩州家(薩州島津家)の城
島津氏庶流の薩州家(薩州島津家)の城)

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市町村 城跡
薩州家(薩州島津家)の本城
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
薩州家第6代当主・島津義虎が、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に臣従するようになってから以降の時期の、薩州家の主な支城(注)
(注)   戦国時代の大永6年(1526年)〜天文8年(1539年)の、日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子と薩州家第5代当主・島津実久との間の島津氏宗家の家督相続争いの島津氏の内部抗争に薩州家が敗北するまでの間、薩州家第5代当主・島津実久の支城だった城で、島津忠良公・島津貴久公側に攻め落とされた城は、ここでは除きます。
  また、第6代当主・島津義虎が没した時期の薩州家の領土は、安土桃山時代の文禄2年(1593年)に、薩州家第7代当主・島津忠辰文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で犯したサボタージュ事件の結果、豊臣秀吉から改易処分を受けた後、豊臣秀吉の死後、旧薩州家領が慶長4年(1599年)年正月9日に島津氏に返還されるまでの間、豊臣秀吉の中央政権に召し上げられて、豊臣秀吉麾下の大名(複数)の領土と化してしまっていました。

薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 妹背城(高城城)いもせじょう(たきじょう)
妹背城(高城城)は元々は渋谷五族(薩摩渋谷氏)の国人領主・高城(たき)氏の本城だった城であり、薩州家第6代当主・島津義虎の城になる以前は、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家で、薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)の鶴ヶ岡城を本城としていた東郷氏の支城でした。したがって、妹背城(高城城)薩州家の城になったことには、単に薩州家1家の領土拡張だけにとどまらず、(薩州家も含む)島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦において、島津氏渋谷五族(薩摩渋谷氏)の家臣団化に最終的に成功した結果であるという、意義があります。)
出水市
(いずみし)
旧野田町地域 新城
出水郡
長島町
長島町地域 堂崎城
堂崎城があった長島は、元々は肥後国(現・熊本県)に属してしましたが、戦国時代の永禄8年(1565年)に薩州家の城になってから以降は薩摩国に属することになり、その結果、今日では鹿児島県に属しています。)
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四家  : 

江戸時代の御一門(四家)の御仮屋、島津氏の墓
江戸時代島津氏庶流の中で、最も家格が高い家である御一門(四家)武家屋敷群の御仮屋、ならびに島津氏の墓)

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市町村 御仮屋跡・墓地
江戸時代御一門(四家)(注1)の御仮屋(注2)
(注1) 御一門(四家)とは、江戸時代薩摩藩において、藩主を出す宗家の血統が絶えた場合に、代わりに養子として宗家当主(兼)藩主を継承可能な、最も家格の高い庶流(分家)の家のことです。江戸幕府(徳川幕府)における徳川御三家御三卿薩摩藩版と言える制度です。
(注2) 御仮屋とは、江戸時代薩摩藩で、慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」における地方行政区画「郷(ごう)」ごとに設けられた武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」の、武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設です。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 (当HP内の)天璋院篤姫の生家・今和泉島津家本邸跡訪問記
(御仮屋跡ではありませんが、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の鹿児島城下における、平成20年(2008年)のNHK大河ドラマ「篤姫」の主人公・天璋院篤姫の生家で一門家第4位の今和泉島津家(いまいずみしまづけ)の屋敷跡です。)
指宿市
(いぶずきし)
旧指宿市地域 今和泉島津家別邸跡
平成20年(2008年)のNHK大河ドラマ「篤姫」の主人公・天璋院篤姫の生家で一門家第4位の今和泉島津家(いまいずみしまづけ)の領地・薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん) 今和泉郷(いまいずみごう)(概ね、現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域の旧今和泉村地域)の今和泉 (現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域大字(おおあざ)岩本」)にあった、御仮屋の跡です。)
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 (当HP内の)加治木島津館訪問記
一門家第2位・加治木島津家(かじきしまづけ)の領地・大隅国 始羅郡(しらぐん) 加治木郷(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木 (現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域大字(おおあざ)「加治木町仮屋町」)にあった、御仮屋の跡です。)
旧姶良町地域 平松館
一門家筆頭・重富島津家(しげとみしまづけ)の領地・大隅国 始羅郡(しらぐん)重富郷(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の旧重富村地域)の重富(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域大字(おおあざ)「平松」)にあった、御仮屋の跡です。)
垂水市
(たるみずし)
林之城(林城)・お長屋
一門家第3位・垂水島津家(たるみずしまづけ)の領地・大隅国 大隅郡 垂水郷(現・鹿児島県 ・ 垂水市中部)の垂水 (現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「田神」)にあった、御仮屋の跡です。)
島津氏の墓
出水市
(いずみし)
旧野田町地域 (当HP内の)感応寺(感応禅寺)・五廟社訪問記
島津氏宗家の最初の5代の墓)
鹿児島市 旧鹿児島市地域 本立寺跡(別名:五道院)
薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の鹿児島城下における、島津氏宗家の最初の5代の墓)
(当HP内の)福昌寺跡(島津家(宗家)墓地)訪問記
島津氏宗家の6代目以降の墓)
   (当HP内の)【「感応寺訪問記」内】島津氏諸家の墓一覧表
(上記以外の島津氏諸家の墓(「上記以外の場所で、上記の墓とは重複して単独の当主のために建立(こんりゅう)された島津氏宗家当主の墓」、ならびに島津氏庶流各家の墓)については、当ホームページ内の感応寺訪問記ページ(画面)内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)
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宮崎
詳細
 : 

宮崎県の城(詳細解説欄)
(当画面(当ページ)上方の宮崎県の城(索引)で紹介した城の内、都城市,  えびの市,  小林市,  西諸県郡 高原町(にしもろかたぐん たかはるちょう),  北諸県郡三股町(きたもろかたぐん みまたちょう) 以外宮崎県の市町村にある城についての、解説欄です。)

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市町村 城跡
東諸県郡 綾町
あやちょう
綾城【楽天トラベル・たびノート】綾城( 解説)(地図
(外部リンク)
綾城は、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 綾城,並びにプチたび ・ 綾城によれば、鎌倉時代末期の元弘年間(1331〜1333年)に、後に室町幕府初代征夷大将軍になる足利尊氏の家臣であり、足利氏庶流の細川氏一族の細川小四郎義門が日向国 諸県郡綾に下向して、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 綾城によれば細川義門が、プチたび ・ 綾城によればその子・細川義遠が築城したのが綾城の嚆矢(こうし)であるとの由です。細川義遠は綾氏を名乗るようになり、やがて綾氏は、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城,ならびに日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを本拠地としていた日向国国人戦国大名で反島津氏勢力の伊東氏に臣従するようになり、戦国時代綾城伊東四十八城の中の一城として、伊東氏の支城になったとの由です。
  戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が一旦滅んだ時にも、伊東氏の多くの家臣が離反した中で当時の
綾城城主・佐土原遠江守は最後まで伊東氏についた結果、島津氏に攻められて綾城は落城したとの由です。伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。伊東崩れによる伊東氏の滅亡後、綾城島津氏の城になったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れた後も、綾城島津氏の城として残りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.122によれば、関ヶ原の戦いで壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口でかろうじて生還して兵力を喪失した状況の島津義弘公が日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)で一泊した際に、稲津重政島津義弘公を討つために兵の一部を差し向けて、この危機をかろうじて脱した島津義弘公は、本国に生還したとの由です。このような情勢に対して、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈267〉知られざる花立越の戦い,ならびに〈268〉高岡郷の成立によれば、島津氏は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう)))の地頭に川田国鏡、日向国倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)(城は倉岡城)の地頭に丹生信房、日向国 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)(城は綾城)の地頭新納忠明、日向国八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(城は八代城)の地頭相良長泰を配置したり、日向国内山(後の日向国高岡,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は内山城)に老中(家老)の比志島国貞が詰めたりする等、対伊東氏の国境の防衛を固めたとの由です。
  慶長20年/元和元年(1615年)の江戸幕府一国一城令
綾城が廃城になった後は、「綾」の地は薩摩藩の「外城制」の下で日向国 諸県郡 になり、 武家屋敷群が設けられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東諸県郡によれば、は、倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)

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国富町
くにとみちょう
八代城八代城地図
(外部リンク)
八代城やつしろじょうは、日向国 諸県郡(もろかたぐん)八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)にあった城です。戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れで、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏が滅亡するまでの間は、伊東四十八城の中の一城でした。伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  伊東崩れによる伊東氏の滅亡後、島津氏の城になったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れた後も、
八代城島津氏の城として残りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.122によれば、関ヶ原の戦いで壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口でかろうじて生還して兵力を喪失した状況の島津義弘公が日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)で一泊した際に、稲津重政島津義弘公を討つために兵の一部を差し向けて、この危機をかろうじて脱した島津義弘公は、本国に生還したとの由です。このような情勢に対して、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈267〉知られざる花立越の戦い,ならびに〈268〉高岡郷の成立によれば、島津氏は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう)))の地頭に川田国鏡、日向国倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)(城は倉岡城)の地頭に丹生信房、日向国 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)(城は綾城)の地頭新納忠明、日向国八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(城は八代城)の地頭相良長泰を配置したり、日向国内山(後の日向国高岡,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は内山城)に老中(家老)の比志島国貞が詰めたりする等、対伊東氏の国境の防衛を固めたとの由です。
  お城の旅日記 ・ 日向八代城によれば、上記の状況に危機感を抱いた島津義弘公が、慶長5年(1600年)に各地から武士を移住させて日向国内山の地を
高岡に改組して、内山城の場所に高岡城(別名:天ケ城を築城させた際に、高岡高岡 )の支配下に組み入れられて、八代城は廃城になったとの由です。このため、江戸時代の慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令による廃城後の薩摩藩外城制の下では、日向国八代の地は、独立したではありませんでした。
  法華嶽薬師寺】:また、宮崎県 東諸県郡 国富町大字(おおあざ)深年4050にある天台宗
真金山 法華嶽薬師寺公式HP)(地図(Tel.:0985-78-1004)は、日本三大薬師の一つであるとの由です。一時は領内の寺院が1寺も残さず全滅した程の過度の廃仏毀釈が明治初めに行われた旧薩摩藩領にあったため、法華嶽薬師寺公式HP)(地図も一度は廃寺になりましたが、法華嶽薬師寺公式WEBサイト ・ 歴史によれば、昭和45年(1970年)に現在の拝殿が設けられて、以降も日本庭園が整備されるなどして、復興したとの由です。楽天トラベル ・ たびノート ・ 法華嶽公園によれば、法華嶽薬師寺公式HP)(地図は、法華嶽公園(住所:宮崎県 東諸県郡 国富町大字(おおあざ)深年4106-30,Tel.:0985-78-1943(法華嶽公園管理事務所))の中にあるとの由です。
  
法華嶽薬師寺公式HP)(地図以外の鹿児島県+「宮崎県の一部」の旧薩摩藩領の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院については、当ホームページ内の感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記画面(ページ)の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記内の「鹿児島県+「宮崎県の一部」の旧薩摩藩領の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄


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鎌田ヶ城本庄城):鎌田ヶ城(かまだがじょう)(別名:本庄城)(地図
(外部リンク)
鎌田ヶ城かまだがじょう,別名:本庄城は、日向国 諸県郡(もろかたぐん)本庄(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の昭和31年(1956年)の町村合併前の旧本庄町地域)にあった中世の城で、今日の宮崎県東諸県郡国富町大字(おおあざ)本庄6072番地の国富町立本庄中学校がある場所にあった城です。城郭放浪記 ・ 日向・鎌田ヶ城によれば、鎌田ヶ城かまだがじょうの築城年代は定かではないとの由であり、また、本庄城に比定されているとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号226-227)(『日向記』の「飫肥本城御安堵事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東四十八城によれば、
本庄城( 鎌田ヶ城かまだがじょうが比定)は、最盛期の日向 伊東氏の外城だった伊東四十八城の中の1城であり、永禄11年(1568年)に第九飫肥役日向 伊東氏飫肥城おびじょうを奪った直後の伊東四十八城が挙げられた時点での本庄城城主は河崎兵部丞(川崎兵部丞)であったとの由です。日向 伊東氏は、日向国も含む三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護島津氏にとっては、戦国時代の三州の領国国内統一平定戦における最大と言っても良い強敵でした。しかし、日向 伊東氏は、詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説した経緯により、戦国時代末期の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れで一旦滅亡し、日向 伊東氏第10代当主だった伊東義祐日向国(概ね宮崎県)の所領を失って、豊後国(現・大分県の一部)の大友宗麟(大友義鎮)を頼って豊後落ちしました。繰り返しになりますが、伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号241-242(『日向記』の「日州帰国評議事」),ならびに永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表によれば、伊東義祐豊後落ちしていた最中の時期である天正5年12月13日(1578年1月20日)に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公が、鎌田ヶ城かまだがじょうがあった日向国 諸県郡(もろかたぐん)本庄(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の昭和31年(1956年)の町村合併前の旧本庄町地域)に打ち入りした時に、日向 伊東氏第6代当主・伊東祐国の三男・伊東武蔵守祐武の、さらに三男である伊東大炊助が、島津氏に捉えられて自刃(切腹)させられたとの由です。日向 伊東氏没落後の鎌田ヶ城かまだがじょう島津氏の城になっていましたが、お城の旅日記 ・ 日向 鎌田ヶ城によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の結果、豊前国 田川郡 香春(かわら)(現・福岡県 田川郡 香春町)の香春岳城かわらだけじょうから移封(転封)になって、日向国土持院(つちもちいん)縣(あがた)日向国 臼杵郡(うすきぐん) 縣(あがた))(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょうに移って来た高橋元種の飛び地領になり、高橋元種の城になったとの由です。九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の後も、日向国 諸県郡(もろかたぐん)は概ね島津氏領として残りましたが、鎌田ヶ城かまだがじょうがあった日向国 諸県郡本庄(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の昭和31年(1956年)の町村合併前の旧本庄町地域)は、諸県郡の中では例外的に島津氏領ではなくなったことになります。お城の旅日記 ・ 日向 鎌田ヶ城によれば、鎌田ヶ城かまだがじょうは、江戸時代の元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 国富町によれば、日向国 諸県郡本庄(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の昭和31年(1956年)の町村合併前の旧本庄町地域)は、江戸時代には、当初は、日向国 臼杵郡 縣(県,あがた)/延岡(現・宮崎県 ・ 延岡市)の
縣城あがたじょう(後の延岡城)を藩庁としていた、縣藩(あがたはん;後の延岡藩)飛び地領だったとの由ですが、途中から天領になったとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 国富町によれば、今日の宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の内、昭和32年(1957年)の編入以前の旧木脇村地域は、江戸時代には、日向国 児湯郡(こゆぐん) 高鍋(たかなべ;現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 高鍋町(たかなべちょう))の高鍋城たかなべじょうを藩庁にしていた高鍋藩の飛び地領であったとの由です。また、今日の宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町の内、昭和31年(1956年)の町村合併前の旧八代村地域である日向国 諸県郡八代の地には、江戸時代初期までの間には八代城がありましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 国富町によれば、江戸時代には薩摩藩領であり、薩摩藩における一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制(とじょうせい)」の下に設けられた地方行政区画「郷(ごう)」においては、高岡城(別名:天ケ城の麓の武家屋敷群「高岡 高岡 外城」を中心とする日向国 諸県郡 高岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)に編入されていたとの由です。)

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串間市 櫛間城櫛間城(くしまじょう)地図
(外部リンク)
日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょうは、室町時代から戦国時代半ばに至るまでの間の期間は島津氏の城でした。
  詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)紹介欄志布志城紹介欄で解説したとおり、戦国時代初期の文明16年(1484年)には、当時、櫛間城を預かっていた、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城城主で、島津氏庶流の伊作島津家第8代当主の島津久逸と、日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城城主で島津氏庶流の新納(にいろ)氏第5代当主の新納忠続との間の抗争で生じた「島津久逸の乱」の舞台の中の一つも、櫛間城です。「島津久逸の乱」の後、新納忠続日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城に移ったとの由です。飫肥城へは、島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第2代当主・島津忠廉が、大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の瓜生野城(建昌城)から、移って来ました。
  城郭放浪記 ・ 日向・櫛間城によれば、
櫛間城島津氏庶流の豊州家豊州島津氏)の城になったとの由です。戦国時代には、飫肥城城主の豊州家豊州島津氏)が、日向国都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏と同盟関係を結びながら、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城,ならびに日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを本拠地としていた日向国国人戦国大名で反島津氏勢力の伊東氏からの重圧に耐えて、飫肥城櫛間城を防衛していました。
  詳しくは当画面(当ページ)内の
飫肥城紹介欄でも解説したとおり、永禄10年(1567年)に、飫肥城はとうとう伊東氏に奪われてしまい、豊州家第5代当主・島津忠親(元・北郷(ほんごう)氏第9代当主・北郷忠親)は櫛間城に退いたとの由です。島津忠親は一旦は夜襲をかけて飫肥城を取り返しましたが、永禄11年(1568年)の第九飫肥役で日向伊東氏第10代当主・伊東義祐の2万の兵に包囲されて、島津氏宗家は飫肥城の放棄を決定し、島津忠親飫肥城から、日向国都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市)に去ったとの由です。この時、島津忠親は、櫛間城も放棄せざるを得なかった模様です。
  アイちゃんの日本史散歩 ・ 国道220号線とその周辺(その24) 櫛間城址 秋月氏墓地 宮崎県串間市大字西方によれば、島津忠親が去った後の
櫛間城は、志布志城と共に、大隅国の反島津氏勢力の国人戦国大名であり、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょう城主で肝付氏の城になっていたとの由です。「九州桶狭間」と呼ばれる元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所は、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)木崎原(きざきばる)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の木崎原古戦場)で、日向国 真幸院(まさきいん)飯野城城主・島津義弘公が伊東氏を破ったことをきっかけにして日向 伊東氏が没落し始めました。没落し始めたとは申せ、この時点の日向 伊東氏にはまだ勢力が残っており、永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表によれば、詳しくは当ホームページ内の高山城紹介欄で解説した経緯により、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、日向 伊東氏にとっては島津氏との抗争における同盟相手であった肝付氏島津氏に降伏した天正2年(1574年)の翌年である天正3年(1575年)2月28日に、櫛間城と、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城に、伊東衆が入ったとの由です。この時点で、櫛間城は、伊東氏の城になりました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、島津四兄弟(島津氏宗家第16代当主・島津義久公,島津義弘公,島津歳久公,島津家久公)の従兄弟で、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の
鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主の島津忠長は、天正5年6月(1577年6月16日〜7月15日)に、櫛間城くしまじょうを攻め落としたとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「櫛間湊村破事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の三男で、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主の伊東祐兵が天正5年6月19日(1577年7月4日)に櫛間城に攻めて来ると、島津忠長は、鶴亀城串良城があった大隅国 串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)から櫛間城の救援に駆け付けて逆に追い返して、飫肥城を包囲した等の軍功を挙げたとの由です。この結果、櫛間城飫肥城は、再び島津氏の城になりました。なお、鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.24によれば、この天正5年(1577年)の時点での島津忠長は、その翌年・天正6年(1578年)に鶴亀城串良城城主になる以前の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主だった時期のことになりますが、鹿籠桜之城かごさくらのじょうから鶴亀城串良城に転封(移封)になる以前の天正5年(1577年)に既に、鶴亀城串良城があった大隅国 串良院の地頭に任じられています。したがって、伊東祐兵から攻められた櫛間城の救援に駆け付けたのが、当時の居城だった鹿籠桜之城からではなく鶴亀城串良城があった大隅国 串良院からであった理由は、大隅国 串良院に転封(移封)になる前年には既に、大隅国 串良院の地頭として、そこにいたからであろうと推測します。
  前段落で述べた島津忠長による
櫛間城くしまじょう攻めは、天正5年(1577年)に日向 伊東氏の勢力が自壊的・自滅的に崩壊して滅亡して、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐日向国を追われた「伊東崩れ」における、島津氏側の南方からの日向 伊東氏領攻略であるという位置づけの合戦になります。伊東崩れの全体像と、その結果としての伊東義祐の「米良越え(めらごえ)」をしながらの「豊後落ち」について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  繰り返しになりますが、島津忠長の活躍により、天正5年(1577年)に島津氏は、日向 伊東氏から
櫛間城くしまじょうを取り戻しました。しかし、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏豊臣秀吉に降伏すると、豊臣秀吉日向国 宮崎郡 櫛間の地を島津氏から没収したとの由です。日向国 宮崎郡 櫛間には、筑前国 夜須郡(やすぐん)秋月(現・福岡県 ・ 朝倉市甘木市地域の一部)の古処山城こしょさんじょう城主だった秋月氏第16代当主・秋月種実が、島津氏と同様に豊臣秀吉に降伏して、3万石に減封された上で、移封(転封)して来ました。秋月氏は、日向国 児湯郡(こゆぐん) 財部(たからべ;現・宮崎県 ・ 児湯郡(こゆぐん) ・ 高鍋町(たかなべちょう))と、飛び地として日向国 宮崎郡 櫛間とを領有することになり、当初は櫛間城を居城としたとの由です。この時、秋月種実は隠居して、秋月氏家督は嫡男の秋月種長が継いだとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 高鍋城によれば、秋月種長江戸時代初期の慶長9年(1604年)に、居城を櫛間城からさらに、日向国 児湯郡 財部財部城たからべじょう,現舞鶴公園に移したとの由です。この財部城は、延宝元年(1673年)に高鍋城たかなべじょうに改称されたとの由です。)

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日南市 飫肥(おび)地区 飫肥城(おびじょう):【楽天トラベル・たびノート】飫肥城,  【楽天トラベル・たびノート】飫肥城歴史資料館おびじょう,  解説)(地図
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日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうは、室町時代から戦国時代半ばに至るまでの間の期間は島津氏の城でした。
  詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)紹介欄志布志城紹介欄で解説したとおり、戦国時代初期の文明16年(1484年)には、当時、日向国 宮崎郡櫛間(くしま;現・宮崎県 ・ 串間市)の櫛間城くしまじょうを預かっていた、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城城主で、島津氏庶流の伊作島津家第8代当主の島津久逸と、飫肥城城主で島津氏庶流の新納(にいろ)氏第5代当主の新納忠続との間の抗争で生じた「島津久逸の乱」の舞台の中の一つも、飫肥城です。「島津久逸の乱」の後、新納忠続日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城に移ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠廉によれば、飫肥城へは、島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第2代当主・島津忠廉が、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域)の瓜生野城(建昌城)から、戦国時代の文明18年(1486年)に移って来たとの由です。
  戦国時代には、島津氏庶流の豊州家豊州島津氏)が、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市)の
都之城城主で島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏と同盟関係を結びながら、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城,ならびに日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを本拠地としていた日向国国人戦国大名で反島津氏勢力の伊東氏からの重圧に耐えて、飫肥城を防衛していました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 肝付兼続によれば、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝属郡 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で大隅国国人戦国大名 ・ 肝付氏第16代当主の肝付兼続が反島津氏勢力に転じて、禄元年(1558年)以来、豊州家領の日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を攻めるようになったとの由であり、このため、豊州家第5代当主・島津忠親は、北からは飫肥城攻略を狙う日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐、南からは志布志城を狙う肝付氏第16代当主・肝付兼続の挟撃的攻勢にさらされて、二正面作戦を強いられる苦境に陥りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親によれば、豊州家第5代当主・島津忠親(元・北郷(ほんごう)氏第9代当主・北郷忠親)は、戦国時代の永禄3年(1560年)に島津忠平公(後の島津義弘公)を養子にしたため、大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平松城平松館から移って来た島津忠平公(後の島津義弘公)も、一時期飫肥城防衛の任に就いていたとの由です。ところが、島津修久島津義弘の軍功記 増補改訂版』(島津顕彰会発行,今村印刷所印刷,2000,鹿児島市尚古集成館で販売)pp.46-51等によれば、島津氏肝付兼続との間で、大隅国 囎唹郡(そおぐん)廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域)の廻城めぐりじょう周辺で行われた「廻城の戦い」で、勝ちはしたものの、島津氏の猛将で、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主・島津忠将が討ち死にした程に、肝付氏は強敵と化しました。このため、島津忠平(後の島津義弘)公を、島津氏宗家は呼び戻さざるを得なくなり、永禄5年(1562年)3月島津貴久公の命によって島津忠平(後の島津義弘)公は飫肥城から去り、養子縁組も解消になったとの由です。よんご会HP 歴史・史跡欄 年表(吉松と栗野のおいたち) ・ 亀鶴城孫引きの鬼塚秋花『吉松古蹟考』写本,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ に飯野城等によれば、その後、島津義弘公は、大隅国 桑原郡 筒羽野島津義弘公が吉松と改名)(現・鹿児島県 ・ 姶良郡 湧水町吉松町地域)の吉松城(亀鶴城)を経て、永禄7年(1564年)に、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城に移ったとの由です。志布志市ホームページ ・ 観光ガイド ・ 歴史 ・ 志布志城跡 ・ 志布志城の歴史,ならびに志布志市ホームページ ・ 観光ガイド ・ 歴史 ・ 志布志城跡 ・ 志布志城の歴史 ・ 志布志城関連年表によれば(リンク先URLは2013年8月現在)、永禄5年(1562年)には、志布志城肝付氏に攻め落とされてしまい、志布志城から豊州家(豊州島津氏)が去って、代わりに、肝付兼続の子で、肝付氏第17代当主・肝付良兼が入城したとの由です。
  永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、永禄4年(1561年)11〜12月に、豊州家からは日置周防介を使者として、日向 伊東氏との間で、飫肥領と、
飫肥城(の、恐らくは全てではなく、一部の曲輪)の明け渡しの交渉が行われたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親,  都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親,  永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表,ならびに帝國博物学協会城郭研究部 ・ 飫肥城によれば、永禄5年(1562年)に、島津忠平公(後の島津義弘公)が去った際に、島津忠平公(後の島津義弘公)がいなくなった隙を突いて、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐が、飫肥城と、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)の本城・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城とを結ぶ補給線上にあった島津氏方の城である日向国 宮崎郡 酒谷(現・宮崎県 ・ 日南市 酒谷地区)の酒谷城を急襲しました。兵站補給と援軍の両方を絶たれて飫肥城が孤立したしたため、豊州家第5代当主・島津忠親飫肥城放棄を決断せざるを得なくなったとの由です。この結果、永禄5年(1562年)5月13日には飫肥城割譲が完了して、島津忠親は、日向国 宮崎郡櫛間(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市)の櫛間城くしまじょうに退いたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親,  伊東義祐,  都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親,  永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表,ならびに帝國博物学協会城郭研究部 ・ 飫肥城によれば、永禄5年9月17日(1562年10月14日)夜中に、豊州家第5代当主・島津忠親の家臣・日置,柏原らが夜襲をかけて、
飫肥城を奪還したとの由です。城郭放浪記 ・ 日向・酒谷城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親によれば、飫肥城都之城とを結ぶ補給線上にあった酒谷城島津忠親勢によって奪還して、日向 伊東氏側の守将2名の内、平賀刑部少輔は討ち死にして、落合加賀守は逃走したとの由です。都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親によれば、和睦を裏切られた形になった日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐は激怒したとの由ですが、島津氏宗家と都之城島津氏庶流の北郷家共に大いに発奮して、島津氏の次の戦略形成に大きな影響を与えたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親,  伊東義祐,ならびに第九飫肥役,  都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親,  永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表,ならびに帝國博物学協会城郭研究部 ・ 飫肥城によれば、永禄5年(1562年)に島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親に奪い返されてしまった
飫肥城を奪還しようとして、日向 伊東氏の第10代当主・伊東義祐は、永禄11年(1568年)1月に、総勢2万人と称される大兵力を率いて、飫肥城攻めの兵を起こしたとの由です。これは、日向 伊東氏にとって9回目の飫肥城攻めであるため、第九飫肥役と呼ばれる合戦になります。日向 伊東氏の大軍が飫肥城を包囲したため、補給が途絶えて飫肥城は兵糧が不足し始めていたため、島津軍(北郷氏(ほんごうし) + 豊州家)側は、飫肥城と、島津氏庶流の北郷氏の本城・都之城とを結ぶ補給線上にあった酒谷城を拠点にした兵站補給作戦で救おうと試みましたが、小越の戦い(小越合戦)で大敗北を喫して兵站補給に失敗して、北郷氏の家老・土持頼綱北郷忠俊・本田親豊・柏原常陸守・北郷図書助など800名以上の将兵を失う大敗北を喫したとの由です。
  兵站補給に失敗したため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 第九飫肥役によれば、
飫肥城は食人まで行われる程の飢餓状況に陥り、籠城の継続は不可能になったとの由です。このため、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公は飫肥城を放棄することを決定して、永禄11年(1568年)5月に、北郷中徳を遣わして、日向 伊東氏の家臣で、須木城がある日向国 諸県郡(もろかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の領主(兼)日向国 真幸院(まさきいん)三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城(後の小林城城主(三ツ山 地頭)(兼)日向国 真幸院三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)の野首(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域大字(おおあざ)「東方(この辺り)」の、恐らくは「野首」バス停(地図)周辺地域)の野首城野久尾城城主(野久尾地頭)の米良重方(めら しげかた)と和議を結んだとの由です。
  この和議に基づいて、永禄11年6月6日(1568年6月30日)に
飫肥城酒谷城日向 伊東氏に引き渡されて、島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親は撤退して、その出身家であり、豊州家に養子に入る以前は自分自身が当主を務めたことのある家である北郷氏の拠点・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市)に戻ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 第九飫肥役によれば、この合戦前で手放した豊州家の所領の内、日向国 宮崎郡 南郷(現・宮崎県 ・ 日南市南郷町地域)と、飫肥城がある日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)は日向 伊東氏の所領になり、櫛間城くしまじょうがある日向国 宮崎郡櫛間(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市)は、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で反島津氏大隅国国人戦国大名 ・ 肝付氏の所領になったとの由です。
  
飫肥城の新たな城主には、伊東義祐の三男の伊東祐兵が就任したとの由です。この時以来、天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が滅亡するまでの間は、飫肥城伊東四十八城の中の一城でした。一方、飫肥城を去った豊州家については、日向国都城に移った後の豊州家は、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市)に戻った島津忠親が病死した後、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津朝久,  島津修久島津義弘の軍功記 増補改訂版』(島津顕彰会発行,今村印刷所印刷,2000,鹿児島市尚古集成館で販売)p.78,ならびに鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、島津忠親の次男で豊州家第6代当主・島津朝久は、戦国時代末期/安土桃山時代の天正年間(1573年〜1592年)初めに加瀬田ヶ城があった大隅国 肝属郡平房(ひらぼう;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域平房地区(地図(この辺り)))と、垂野城があった大隅国 囎唹郡(そおぐん)市成(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町地域市成地区(地図(この辺り)))を賜ったとの由です。それ以降の豊州家の行く末について詳しくは、当ホームページ内の馬関田城(まんがたじょう)紹介欄で、ご参照いただけます。
  「九州桶狭間」と呼ばれる元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(場所は、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)木崎原(きざきばる)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の
木崎原古戦場)で、日向国 真幸院(まさきいん)飯野城城主・島津義弘公が伊東氏を破ったことをきっかけにして伊東氏が没落し始めました。さらに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、島津四兄弟(島津氏宗家第16代当主・島津義久公,島津義弘公,島津歳久公,島津家久公)の従兄弟で、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主の島津忠長は、天正5年6月(1577年6月16日〜7月15日)に、日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょうを攻め落としたとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「櫛間湊村破事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の三男で、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主の伊東祐兵が天正5年6月19日(1577年7月4日)に櫛間城に攻めて来ると、島津忠長は、鶴亀城串良城があった大隅国 串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)から櫛間城の救援に駆け付けて逆に追い返して、飫肥城を包囲した等の軍功を挙げたとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上原尚近,ならびに野尻城(日向国)によれば、天正4年8月(1576年9月)の
高原城合戦(高原城の戦い)で島津氏が、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町)の高原城たかはるじょうを落とした後に高原城たかはるじょう城主になった島津氏麾下(きか)の将・上原尚近の謀略の結果、詳しくは当ホームページ内の野尻城紹介欄で解説したとおりの経緯により、野尻城城主で日向 伊東氏の家臣だった福永祐友島津氏に寝返ってしまい、天正5年12月7日(1578年1月14日)に城内に島津氏の兵を引き入れたことが起爆剤になり、日向 伊東氏が滅亡した「伊東崩れ」と呼ばれる事件が始まりました。詳しくは当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説した経緯で進行した伊東崩れの初期の過程で、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐が引き返していた日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょうに、天正5年12月9日(1578年1月16日)に、飫肥城おびじょうから逃れてきた伊東祐兵が合流したとの由です。この経緯の結果、櫛間城飫肥城も、再び島津氏の下に戻って来ました。
  前の2段落で述べた島津忠長による
櫛間城くしまじょう攻めは、日向 伊東氏の勢力が自壊的・自滅的に崩壊して滅亡して、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐日向国を追われた天正5年(1577年)の「伊東崩れ」における、島津氏側の南方からの日向 伊東氏領攻略であるという位置づけの合戦になります。伊東崩れの全体像と、その結果としての伊東義祐の「米良越え(めらごえ)」をしながらの「豊後落ち」について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  繰り返しになりますが、島津忠長の活躍により、天正5年(1577年)に島津氏は、日向 伊東氏から
飫肥城おびじょうを取り戻しました。しかし、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏豊臣秀吉に降伏すると、豊臣秀吉日向国 宮崎郡 飫肥(おび)の地を島津氏から没収して日向 伊東氏第12代当主・伊東祐兵に与えて、伊東氏は復活したとの由です。その後、江戸時代飫肥城は、伊東氏が治める日向国 飫肥藩の藩庁の城として、存続しました。飫肥藩 伊東氏ゆかりの飫肥の観光スポットには、飫肥城跡飫肥城歴史資料館地図の他、城下に豫章館地図(明治2(1869)年に伊東祐帰知藩事になった時に城内から転居した屋敷),  藩校振徳堂地図,  武家屋敷通り地図,  旧伊東伝左衛門家地図,  商家資料館地図,  日南市国際交流センター小村記念館地図等があり、これら各リンク先や、飫肥城下町保存会公式WEBサイトで観光情報を入手できます(リンク先URLは2014年9月現在)
  日向国 伊東氏の来歴について詳しくは、当画面(当ページ)内の
都於郡城紹介欄で解説しておりますので、そちらでご参照可能です。
→   (当画面(当ページ)内内の)都於郡城紹介欄

  また、宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区に残る豊州家豊州島津氏)の足跡としては、
島津忠朝の墓があります。
  なお、
飫肥城おびじょう戦国時代末期の永禄11年(1568年)に日向 伊東氏に攻め取られるまでの間は一貫して島津氏の城だった城であり、逆に、室町時代から戦国時代にかけて日向 伊東氏の本城だった、日向国都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうと、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょうは、戦国時代末期以降、江戸時代を通じて島津氏の城でした。したがって、「佐土原城 + (元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になるまでの期間の)都於郡城」と飫肥城とは、戦国時代江戸時代とで、島津氏伊東氏宗家(日向 伊東氏)のいずれの城であるかが、逆転していることになります。)

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酒谷地区 酒谷城酒谷城さかたにじょう地図
(外部リンク)
(宮崎県日南市大字(おおあざ)酒谷乙字(あざ)城ノ下。酒谷城は、日向国 宮崎郡 酒谷(現・宮崎県 ・ 日南市 酒谷地区)にあった中世城郭の遺構です。島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし;後の都城島津氏)の居城だった日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城と、北郷氏と同盟して共に行動することが多かった島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)の居城だった日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうとを結ぶ山道沿いに酒谷城はあります。この位置関係のため、都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親によれば、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを本拠地にしていた日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐が永禄5年(1562年)に飫肥城を攻めた際には、最初に酒谷城を落とすことによって都之城から飫肥城への補給線を絶って飫肥城を孤立させています。また、都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 10代 北郷時久によれば、永禄11年(1568年)の第九飫肥役では、都之城から飫肥城への失敗した補給作戦の拠点として酒谷城は使われています。これらの戦史の実例からも、酒谷城は、北郷氏都之城豊州家(豊州島津氏)飫肥城とを結ぶ兵站補給(ロジスティックス)線、通信線の拠点となる重要な城であったことが分かります。
  都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親によれば、上述のとおり戦国時代の永禄5年(1562年)に日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐は、
酒谷城を落として飫肥城への兵站補給(ロジスティックス)線を絶って孤立させることにより、飫肥城を落とすことに成功しています。この時、城郭放浪記 ・ 日向・酒谷城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠親によれば、伊東義祐は平賀刑部少輔と落合加賀守を置いて酒谷城を守らせたとの由ですが、この永禄5年(1562年)の際にはすぐに豊州家(豊州島津氏)第5代当主・島津忠親がすぐに飫肥城を奪還し、それに伴って逆に酒谷城日向 伊東氏本領から孤立してしまい、平賀刑部少輔は討ち死にして、落合加賀守は逃走したとの由です。城郭放浪記 ・ 日向・酒谷城,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 第九飫肥役,ならびに都城市ホームページ ・ 都城 島津と歴史 博物館|都城島津邸 ・ 都城の歴史 ・ 9代 北郷忠親によれば、永禄11年(1568年)の第九飫肥役では、伊東義祐軍に包囲されて飢えに苦しむ飫肥城豊州家の城兵を、島津軍(北郷氏 + 豊州家)側は酒谷城を拠点にした兵站補給作戦で救おうと試みましたが、小越の戦い(小越合戦)で大敗北を喫して兵站補給に失敗したため、飫肥城は落城してしまったとの由です。飫肥城を再び奪い取った伊東義祐は、長倉淡路守を酒谷城城主にしたとの由です。伊東義祐統治下にあった時期の酒谷城は、伊東四十八城の中の1城であったとの由です。
  城郭放浪記 ・ 日向・酒谷城によれば、天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ日向 伊東氏が滅亡すると、
酒谷城は再び島津氏のものになり、柏原常陸守が城主になったとの由です。伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)飫肥城が復活した日向 伊東氏の城になると、それに伴い、酒谷城も再び日向 伊東氏の城になったとの由です。城郭放浪記 ・ 日向・酒谷城によれば、日向 伊東氏復活後の酒谷城城主は、川崎権助、後に山田宗昌(匡徳)が就任したとの由です。)

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南郷町地域 湖雲ヶ城湖雲ヶ城(湖雲が城)地図
(外部リンク)
(住所:日南市南郷町脇本字陣之城。湖雲ヶ城(湖雲が城)は、日向国 那珂郡 南郷(現・宮崎県 ・ 日南市南郷町地域)にあった中世城郭の遺構です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.202によれば、湖雲ヶ城は、戦国時代末期/安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)に、島津氏日向 伊東氏の抗争・争奪の地となったとの由です(が、詳しくは後述するとおり、偽装合戦の舞台として、知られています)。
  大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の
高山城城主で大隅国の反島津氏国人戦国大名 ・ 肝付氏は、肝付兼亮は、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを本拠地にしていた日向国(概ね現在の宮崎県)の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主伊東義祐と組んで、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県守護島津氏による三州の領国国内統一平定における、敵対勢力となっていました。しかし、次第に劣勢になったことから、戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津忠良女(肝付兼続室、御南)孫引きの『旧記雑録』家わけ2肝付氏『新編伴姓肝属氏系譜』15によれば、肝付氏第18代当主・肝付兼亮は、一旦は天正2年(1574年)に島津氏に降伏して1万石で存続したとの由です。
  ところが、肝付兼亮は、なおも伊東氏と結んで島津氏に抵抗しようとしたとの由です。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津忠良女(肝付兼続室、御南)孫引きの『旧記雑録』家わけ2肝付氏『新編伴姓肝属氏系譜』15,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 肝付兼亮,  薬丸兼将,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 肝付氏によれば、肝付兼亮は、故肝付兼続肝付氏第16代当主)未亡人であり日新斎(じっしんさい)島津忠良公の娘である御南の孫娘(肝付氏第17代当主だった故肝付良兼の娘)・肝付良兼女と結婚していましたが、肝付兼亮肝付良兼女との夫婦仲が良くなかったため御南肝付兼亮を嫌うようになったことと、肝付兼亮がなおも島津氏に敵対しようとしたこととのため、御南肝付家重臣・薬丸兼将(薬丸孤雲)達は天正3年(1575年)11月に、肝付兼亮の家督を廃して、肝付兼亮日向国に追放したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東祐松によれば天正3年(1575年)に、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号236(『日向記』の「當家與肝付義絶事」),ならびに永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表によれば、天正4年(1576年)1月に、宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.202によれば天正4年6月15日(1576年7月11日)、星空文庫 ・ 仁科 哲夫,ならびに宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 ・ 八幡神社(はちまんじんじゃ)南郷町によれば天正4年6月16日(1576年7月12日)に、日向国 那珂郡 南郷(現・宮崎県 ・ 日南市南郷町地域)で、肝付氏は、日向 伊東氏と義絶したことを島津氏に対して装うために、偽装の合戦を行ったとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号236(『日向記』の「當家與肝付義絶事」),永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表孫引きの『日向記』,宮崎県の歴史散歩p.202,星空文庫 ・ 仁科 哲夫,  宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 ・ 八幡神社(はちまんじんじゃ)南郷町,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東祐松によれば、この肝付氏日向 伊東氏との間の偽装合戦では、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号236(『日向記』の「當家與肝付義絶事」)の表現によれば、(両家が)申し合わせて「根なし矢、玉なき鉄砲(即ち、空砲)」で偽装合戦をしようとしたとの由ですが、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょうから出陣した日向 伊東氏の兵は、急な話のため命令行き届かず、肝付氏方は大敗となったとの由です。さらに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東祐松には、空砲ではなかった理由は、日向 伊東氏の兵の間に命令が行き届かなかったという「行き違い」ではなく、日向 伊東氏側の指揮官・伊東帰雲斎(伊東祐松)がわざと仕組んだことであったという説が載っています。なお、天正4年(1576年)1月説ならびに天正4年6月説(1576年7月)説のタイミングは、肝付氏の当主が第19代当主・肝付兼護(肝付兼道)になった後のタイミングです。この合戦の当主には様々な異説があります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東祐松に載っている天正3年(1575年)説では、肝付氏の当主が第18代当主・肝付兼亮だった時のこととされており、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号236(『日向記』の「當家與肝付義絶事」)に載っている天正4年(1576年)1月説では肝付氏の当主は(この時期には既に死んでいるはずの)第17代当主・肝付良兼になっており、宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 ・ 八幡神社(はちまんじんじゃ)南郷町に載っている天正4年6月(1576年7月)説では、(この時期には既に死んでいるはずの)第16代当主・肝付省釣(肝付兼続)になっています。上述のとおり、戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津忠良女(肝付兼続室、御南)孫引きの『旧記雑録』家わけ2肝付氏『新編伴姓肝属氏系譜』15,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 肝付兼亮,  薬丸兼将,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 肝付氏によれば、天正4年(1576年)1月説と天正4年6月(1576年7月)説のタイミングでは、肝付氏の当主は、第19代当主・肝付兼護(肝付兼道)の時期のことになります。
  宮崎県の歴史散歩p.202,国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号236(『日向記』の「當家與肝付義絶事」),星空文庫 ・ 仁科 哲夫,ならびに宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 ・ 八幡神社(はちまんじんじゃ)南郷町によれば、この日向国 那珂郡 南郷で行われた偽装合戦の際には、
湖雲ヶ城の大将・薬丸兼将(薬丸孤雲)と19歳の副将・安楽下総介等、300余人の肝付勢が壊滅的打撃を受けたとの由です。この結果、肝付氏日向 伊東氏との関係は「手切れ」となり、偽装ではなく本当に義絶になったとの由です。
  なお、鹿児島県ホームページ ・ 教育・文化・交流 ・ 文化・芸術 ・ 鹿児島県歴史資料センター黎明館 ・ 刊行物 ・ 黎明館調査研究報告 ・ 『中世高山城と肝付氏について(PDF版)』p.89によれば(リンク先URLは2015年6月現在)薬丸兼将(薬丸孤雲)が戦死したのは天正4年10月1日(1576年10月22日)の肝付兼護と日向伊東氏の合戦の時のこととされており、かつ、この『中世高山城と肝付氏について(PDF版)』p.89には(リンク先URLは2015年6月現在)天正4年(1576年)1月説(異説によれば天正4年6月説(1576年7月))の肝付氏と日向伊東氏の間の偽装合戦については載っていません。これらの点からは、もしかしたら、天正4年(1576年)1月説(異説によれば天正4年6月説(1576年7月))の肝付氏と日向伊東氏の間の偽装合戦天正4年10月1日(1576年10月22日)の肝付兼護と日向伊東氏の合戦は実は同じ合戦であり、伝承した過程で伝言ゲーム的に話がズレたものであるに過ぎない可能性も、否定できないということなのではないか、と考えます。肝付氏日向 伊東氏との間に、天正4年(1576年)に実際に2度合戦があったのか、それとも同一の合戦が異なった内容として後世に伝わったのかは、定かではありません。)


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宮崎市 宮崎市地域 宮崎城宮崎城地図
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宮崎城は、日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった城です。戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れで、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏が滅亡するまでの間は、伊東四十八城の中の一城でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、戦国時代の天文5年(1536年)には、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょうが火災で焼けてしまったため、伊東氏第10代当主・伊東義祐が居城を宮崎城に移した時期もあったとの由です。また、島津氏の城だった日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうを攻略する際の戦略基地としても、伊東氏宮崎城を利用したとの由です。なお、上述の伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  
宮崎城は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津朝久,ならびに鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、戦国時代末期/安土桃山時代島津氏庶流の豊州家豊州島津氏)第6代当主・島津朝久は、天正5年(1577年)の上述の伊東崩れ日向国の反島津氏国人戦国大名日向 伊東氏没落した後の天正6年(1578年)に日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)の300町を拝領して領主になったとの由です。島津朝久は、加瀬田ヶ城があった大隅国 肝属郡平房(ひらぼう;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域平房地区(地図(この辺り)))と、垂野城があった大隅国 囎唹郡(そおぐん)市成(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町地域市成地区(地図(この辺り)))から移って来ました。鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、島津朝久は、家臣の日置忠充を城代として宮崎城に置き、自分自身は、日向国 ・ 真幸院(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野城島津義弘公に従っていたとの由です。鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏が、豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館前城主で、豊後国 海部郡(あまべぐん)臼杵(現・大分県 ・ 臼杵市 大字臼杵)の隠居城・丹生島城にうじまじょう)(臼杵城うすきじょう))城主で、大友氏先代・第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)を撃破した耳川の戦い(場所は現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)に際して、宮崎城城代・日置忠充は日向国新納院(にいろいん)(現・宮崎県 ・ 児湯郡東部 + 日向市 美々津(みみつ))高城(たかじょう)(現・宮崎県 ・ 児湯郡 木城町 大字高城)の高城たかじょう)(新納院高城にいろいんたかじょう))に入城して、高城新納院高城防衛に参加したとの由です。ところが、この日置忠充が射術の名手であり、門人に日向 伊東氏の残党が多くいたため、この罪を問われて、島津朝久宮崎城(と日向国 宮崎郡 宮崎の所領)を没収されたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津朝久,ならびに鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.32によれば、によれば、その後、島津朝久は、日向国 ・ 真幸院(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の馬関田(まんがた)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の地頭として、
馬関田城まんがたじょうの城主になったとの由です。島津朝久が去った後の宮崎城城主は、日向国 地頭職に就任した上井覚兼であったとの由です。上井覚兼は、薩摩国 日置郡 永吉(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)の南郷城(野首城)から、宮崎県遺跡資料リポジトリ・「宮崎市文化財調査報告書 第75集 宮崎城跡測量調査報告書」p.5によれば、天正8年(1580年)に移って来ました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後、日向国 宮崎郡 宮崎は、豊前国 田川郡 香春(かわら)(現・福岡県 田川郡 香春町)の
香春岳城かわらだけじょうから移封(転封)になって日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょうに移って来た高橋元種の飛び地領になり、権藤種盛が宮崎城城代になったとの由です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、高橋氏は当初は西軍に属していたため、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)に攻められて、落城したとの由です。しかし、高橋元種は東軍に寝返って本領安堵になっていたため、宮崎城高橋元種に返還されたとの由です。慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になったとの由ですので、今日の宮崎市の町並みは宮崎城の城下町ではありません。)

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紫波洲崎城紫波洲崎城(しはすざきじょう)地図
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紫波洲崎城しはすざきじょうは、日向国 那珂郡折生迫(おりうざこ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市 大字折生迫上白浜(青島地域自治区(旧青島村)))にあった城です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.113によれば、中世に島津氏伊東氏が攻防を繰り返した城であり、戦国時代伊東氏の全盛時代には伊東四十八城の中の1城であったとの由です。
  それは、具体的には、城郭放浪記 ・ 日向・紫波洲崎城によれば、島津氏に応じた木脇右馬頭・日高周防介が戦国時代初期の文明12年(1480年)に
紫波洲崎城を攻め取りましたが、伊東氏が奪い返したとの由です。城郭放浪記 ・ 日向・紫波洲崎城によれば、戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が滅亡すると、島津氏の城になり、城主は上井薫兼(上井覚兼の父)であったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の後は、日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主になって日向国に戻って来た伊東氏の城に、再びなったとの由です。)

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倉岡城倉岡城地図
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倉岡城(別称:池尻城は、日向国 諸県郡(もろかたぐん)倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)にあった城です。日向の國中世の館 ・ 宮崎市の城館跡等によれば、倉岡城は、後に島津氏第8代当主になる島津久豊公が当主就任以前の時期の室町時代の応永年間(1394年〜1428年)に、日向国 諸県郡穆佐院(むかさいん;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)の穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう))城主だった時に、穆佐城穆佐院高城の支城として築城した城であるとの由です。後に日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏の城になり、戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が滅亡するまでの間は、伊東四十八城の中の一城でした。伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  伊東崩れによる伊東氏の滅亡後は再び島津氏の城になったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れた後も、
倉岡城島津氏の城として残りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.122によれば、関ヶ原の戦いで壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口でかろうじて生還して兵力を喪失した状況の島津義弘公が日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)で一泊した際に、稲津重政島津義弘公を討つために兵の一部を差し向けて、この危機をかろうじて脱した島津義弘公は、本国に生還したとの由です。このような情勢に対して、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈267〉知られざる花立越の戦い,ならびに〈268〉高岡郷の成立によれば、島津氏は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう)))の地頭に川田国鏡、日向国倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)(城は倉岡城)の地頭に丹生信房、日向国 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)(城は綾城)の地頭新納忠明、日向国八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(城は八代城)の地頭相良長泰を配置したり、日向国内山(後の日向国高岡,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は内山城)に老中(家老)の比志島国貞が詰めたりする等、対伊東氏の国境の防衛を固めたとの由です。
  江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 倉岡麓:倉岡城によれば、江戸時代の慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令による廃城後の薩摩藩外城制の下では、「倉岡」の地は日向国 諸県郡(もろかたぐん)
倉岡郷となり、外城制の下での外城)の武家屋敷群「倉岡」が設けられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東諸県郡によれば、倉岡郷は、戦国時代の城は綾城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 倉岡麓:倉岡城によれば、倉岡神社地図の裏側道に倉岡城跡への登城口があるとの由です。)

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高岡町地域
たかおかちょう
穆佐城穆佐城高城):穆佐城(むかさじょう)(別名:穆佐院高城(むかさいんたかじょう))(地図,  宮崎市文化財調査報告書『史跡穆佐城跡』(国指定史跡
(外部リンク)
穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう))は、日向国穆佐院(日向国 諸県郡(もろかたぐん)穆佐)(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)にあった城です。永井哲雄宮崎県謎解き散歩新人物往来社,2013)pp.132-134によれば、この穆佐院高城むかさいんたかじょう)(穆佐城むかさじょう))は、都城市みやこのじょうし)旧高城町たかじょうちょう)地域の三俣院高城みまたいんたかじょう)(月山日和城がっさんひわじょう)),  児湯郡こゆぐん) 木城町(きじょうちょう)新納院高城にいろいんたかじょうと共に、中世の日向国三高城の中の一城であるとの由です。
  永井哲雄宮崎県謎解き散歩新人物往来社,2013)pp.133-134によれば、後に島津氏第8代当主になる島津久豊公が当主就任以前の時期の室町時代の応永10年(1403年)に、
穆佐城穆佐院高城に入城したとの由です。後に島津氏第9代当主になる島津忠国公は、この穆佐城穆佐院高城で生まれたとの由です。島津久豊公が城主だった時期があったり、島津忠国公が生まれたりした城であるため、室町時代から島津氏宗家とご縁のある城ではありますが、島津久豊公が城主だったのは島津氏当主になる以前の時期のことであるため、穆佐城穆佐院高城は、島津氏宗家の本城だった訳ではありません。島津氏第8代当主就任後の島津久豊公の居城は、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょうでした。宮崎県謎解き散歩pp.133-134によれば、文安2年(1445年)から130年余りの間は、日向国の反島津氏国人戦国大名伊東氏の城であったとの由です。伊東氏の城であった時期の穆佐城穆佐院高城は、伊東四十八城の中の1城でした。
  戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れで、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏が滅亡した後、
穆佐城穆佐院高城は再び島津氏の城になりました。なお、伊東崩れの経緯・進行過程について詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れた後も、穆佐城穆佐院高城島津氏の城として残りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 樺山忠助によれば、再び島津氏の城になった時期の日向国穆佐の地頭は、島津氏家臣の樺山忠助であったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 樺山善久によれば、樺山氏は、樺山忠助の父の樺山善久(樺山玄佐)の時代に、それまでの大隅国小浜(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域)の
長浜城(元・生別府城(おいのびゅうじょう))(地図から、元亀元年(1570年)に大隅国横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)の横川城に移ったとの由です。タイミングから推して、樺山忠助は、長浜城(元・生別府城(おいのびゅうじょう))(地図からではなく、横川城から穆佐城穆佐院高城に移った可能性が高いと推測します。大隅国横川の領有権を保持したままであったか、それとも完全に日向国穆佐に移封(転封)になったのかは、調べても分かりませんでした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 樺山忠助によれば、日向国穆佐地頭ですが穆佐の地は嫡子・樺山規久に任せて自身は大隅国堅利に住んだとの由ですが、不思議なことに、大隅国堅利の地は大隅国横川に移封(転封)になった際に領有権を失った旧領であり、旧領でありながら館はあったのか、それとも大隅国横川から大隅国堅利に領地が戻ったのか、そのいずれであったのかは調べても分かりませんでした。なお、大隅国堅利の場所についても、2014年9月現在、調べても分かりませんでした。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.122によれば、関ヶ原の戦いで壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口でかろうじて生還して兵力を喪失した状況の島津義弘公が日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)で一泊した際に、稲津重政島津義弘公を討つために兵の一部を差し向けて、この危機をかろうじて脱した島津義弘公は、本国に生還したとの由です。このような情勢に対して、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈267〉知られざる花立越の戦い,ならびに〈268〉高岡郷の成立によれば、島津氏は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう)))の地頭に川田国鏡、日向国倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)(城は倉岡城)の地頭に丹生信房、日向国 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)(城は綾城)の地頭新納忠明、日向国八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(城は八代城)の地頭相良長泰を配置したり、日向国内山(後の日向国高岡,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は内山城)に老中(家老)の比志島国貞が詰めたりする等、対伊東氏の国境の防衛を固めたとの由です。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈266〉島津豊久の母の悲しみによれば、この直前まで日向国穆佐の地頭だった樺山忠助は、この時期、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城さどわらじょうの防衛戦に従事していたとの由です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 藺牟田麓によれば、樺山忠助の次男で樺山氏の家督を後に継いだ樺山久高は、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志,  薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水麓,  薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の伊作地頭を歴任し、私領主として領地を統治する権利のある重臣・一所持の家格の重臣の家として、薩摩国 伊佐郡 藺牟田郷(いむたごう)(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町(けどういんちょう)地域大字 祁答院町藺牟田(けどういんちょういむた))を拝領したとの由です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 藺牟田麓によれば、藺牟田藺牟田 統治者の役所(兼)館「御仮屋」は、今日の薩摩川内市立藺牟田小学校地図の場所にあったとの由です。
  話を
穆佐城穆佐院高城の場所の話に戻します。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 穆佐麓:穆佐城によれば、江戸時代の慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令による廃城後の薩摩藩外城制の下では、「穆佐」の地は日向国 諸県郡(もろかたぐん)穆佐郷(むかさごう)となり、外城制の下での外城)の武家屋敷群「穆佐」が設けられたとの由です。武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設「御仮屋」は、穆佐では、今日の宮崎市立穆佐小学校地図,〒880-2214 宮崎県宮崎市高岡町小山田87番地1)にあったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東諸県郡によれば、穆佐郷は、戦国時代の城は綾城),  倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  高岡一国一城令による廃城前の城は天ケ城(別名:高岡城)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。)

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天ケ城(内山城,高岡城)【楽天トラベル・たびノート】天ケ城歴史民俗資料館公式HP),天ヶ城(別名:内山城,  高岡城地図
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天ケ城(別名:高岡城は、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高岡(元・日向国 諸県郡 内山,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)にあった城です。元々は日向国 諸県郡内山にあった内山城という城でした。
  戦国時代当初の
内山城は、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏の城であり、伊東四十八城の中の1城でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 野村松綱によれば、日向 伊東氏家臣で内山城城主だった野村松綱は、日向 伊東氏第11代当主で日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょう城主の伊東義益の側室だった妹・福園が伊東義益の正室の命によって殺されたため、野村松綱を始めとする野村党と、伊東義益の父の日向国 伊東氏第10代当主で日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主・伊東義祐との関係が悪化したとの由です。
  丁度、野村松綱を始めとする野村党と、伊東義祐との関係が悪化していた頃、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「日向纂記」の検索結果 ・ 平部きょう南著『日向纂記.巻4-6』コマ番号56-59,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上原尚近,  福永祐友,  野村松綱,  伊東義祐,  野尻城(日向国),  紙屋城,ならびに彰悟の詩と写真 ・ 宮崎県の山と観光地・行楽地 ・ 戸崎城跡、野尻湖、野尻大橋|宮崎県 小林市 野尻町|宮崎観光によれば、詳しくは当ホームページ内の
野尻城紹介欄,  戸崎城紹介欄,もしくは紙屋城紹介欄で紹介した経緯により、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 野尻(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域)の野尻城の城主で日向 伊東氏の家臣だった福永祐友が、日向国 諸県郡 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町)の高原城たかはるじょう城主で島津氏家臣の上原尚近の誘いに応じて島津氏に寝返ってしまい、天正5年12月7日(1578年1月14日)に城内に島津氏の兵を引き入れて、野尻城島津氏の城になったとの由です。上記各参照先によれば、日向国 諸県郡紙屋(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域大字(おおあざ)「野尻町紙屋(この辺り(地図))」)の紙屋城城主・米良主税助も、野尻城城主・福永祐友の縁戚であったため、福永祐友に呼応して、野尻城開城の翌日・天正5年12月8日(1578年1月15日)に紙屋城島津氏方の城になったとの由です。上記各参照先によれば、この事態に対して、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で日向 伊東氏第10代当主だった伊東義祐は、野尻城開城の翌日・天正5年12月8日(1578年1月15日)に、紙屋城奪還のために兵を率いて日向国 諸県郡(もろかたぐん)紙屋まで来たとの由ですが、同日(天正5年12月8日(1578年1月15日))、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公も大軍を引き連れて野尻城に入ったため、日向 伊東氏日向国 諸県郡 野尻戸崎城(別名:土崎城)も維持できなくなり、陣屋に火をかけて、戸崎城(別名:土崎城)城主・漆野豊前守は山東(日向国の海岸よりの地域)に逃れたとの由です。上記各参照先によれば、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 内山(現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)の内山城(後の高岡城(別名:天ケ城)城主・野村松綱も、紙屋城城主・米良主税助と同様に野尻城城主・福永祐友の縁戚であり、かつ、先述したような日向 伊東氏への恨みが野村松綱にはあったため、野村松綱の子・野村文綱も、福永祐友の動向に呼応して島津氏側に寝返ってしまい、日向 伊東氏に反旗を翻したとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、野村の一党が爰(ここ)かしこに相圖(あいず)の火を挙げたのを見て、伊東義祐は、跡を遮(さえぎ)られてはマズいとして、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城さどわらじょうに引き返したとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),  佐土原城 遠侍間 ・ 高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦 ・ 天正五年十二月 島津義久 伊東家を調略(ちょうりゃく)し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃(のが)れる,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐等によれば、逆心の与党が、日向 伊東氏領の家々に放火したり、日向 伊東氏方の城を取り囲んだりしたため、伊東義祐にとって、誰が敵で誰が味方か分からない状況に陥ってしまったとの由です。上記各参照先によれば、天正5年12月9日(1578年1月16日)に事態打開の評定が開かれたものの良い案を出す者も無かったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、同日(天正5年12月9日(1578年1月16日))、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主城主・島津忠長に包囲されていた日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうから逃れて来た伊東祐兵も合流したとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」)によれば天正5年12月9日(1578年1月16日)の「あけぼの」に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば天正5年12月9日(1578年1月16日)の正午過ぎに、伊東義祐は、豊後国大友宗麟(大友義鎮)を頼って逃れることにして、佐土原城さどわらじょうを捨てたとの由です。
  天正4年8月(概ね1576年9月)に
高原城が落城した際に、米良矩重島津氏に寝返って三ツ山城(後の小林城須木城を開城したことを最初の契機にして、さらに上記のとおり、天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の野尻城城主・福永祐友,  紙屋城城主・米良主税助,  内山城城主・野村松綱の子・野村文綱ら野村党、等の島津氏への寝返りを起爆剤にして、伊東義祐伊東帰雲斎(伊東祐松)への不満が爆発する形で、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏は、崩壊していったとの由です。日向 伊東氏が天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)に自壊的・自滅的に滅亡したこの事件を伊東崩れと呼び、その最終過程として、伊東義祐豊後落ちが始まりました。伊東崩れにおける豊後落ちについて詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  この野村文綱の代の時に、野村氏は島津氏に仕官して、後に薩摩藩士になったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れた後も、
内山城島津氏の城として残りました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宮崎城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。宮崎県高等学校社会科研究会宮崎県の歴史散歩山川出版社,2006)p.122によれば、関ヶ原の戦いで壮絶な捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口でかろうじて生還して兵力を喪失した状況の島津義弘公が日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)で一泊した際に、稲津重政島津義弘公を討つために兵の一部を差し向けて、この危機をかろうじて脱した島津義弘公は、本国に生還したとの由です。このような情勢に対して、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈267〉知られざる花立越の戦い,ならびに〈268〉高岡郷の成立によれば、島津氏は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう)(穆佐院高城むかさいんたかじょう)))の地頭に川田国鏡、日向国倉岡(現・宮崎県 ・ 宮崎市糸原など)(城は倉岡城)の地頭に丹生信房、日向国 綾(あや)(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町(あやちょう)の北俣,ならびに南俣)(城は綾城)の地頭新納忠明、日向国八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(城は八代城)の地頭相良長泰を配置したり、日向国内山(後の日向国高岡,現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は内山城)に老中(家老)の比志島国貞が詰めたりする等、対伊東氏の国境の防衛を固めたとの由です。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈268〉高岡郷の成立,ならびに城郭放浪記 ・ 日向・高岡城によれば、上記の状況に危機感を抱いた島津義弘公は、慶長5年(1600年)に各地から武士を移住させて日向国内山の地を
高岡に改組して、内山城の場所に高岡城(別名:天ケ城を築城させたとの由であり、日向の國中世の館 ・ 宮崎市の城館跡等によれば、高岡城(別名:天ケ城内山城があった場所であるとの由です。高岡地頭には比志島国貞が就任し、比志島国貞と、没後はその嫡男の比志島国隆の比志島親子が、高岡城(別名:天ケ城の縄張〔なわばり〕(設計)を行ったとの由です。
  江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 高岡麓:天ケ城によれば、江戸時代の慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令による廃城後の薩摩藩外城制の下では、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 
高岡には、外城制の下での外城)の武家屋敷群「高岡 」が設けられたとの由です。武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設「御仮屋」は、高岡 では、今日の宮崎市立高岡小学校地図,〒880-2221 宮崎県宮崎市高岡町内山2900番地)にあったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東諸県郡によれば、高岡は、戦国時代の城は綾城),  倉岡郷戦国時代の城は倉岡城),  穆佐郷戦国時代の城は穆佐城むかさじょう)と共に、去川の関去川の関所)(地図の外側にあった「関外四郷」の中の1郷であったとの由です。
  松尾山本永寺】:また、宮崎県 宮崎市 高岡町内山2893にある日蓮宗
松尾山本永寺地図(Tel.:0985-82-2178)は、江戸時代から続く寺であるとの由です。佐藤博信日向参詣記 --安房妙本寺の旧末寺を訪ねて--」(『千葉大学人文研究36号(2007.3),pp.271-292)のp.276によれば、松尾山本永寺地図江戸時代には、今日の宮崎県 宮崎市 高岡町浦之名(この辺り(地図))にあったとの由ですが、一時は領内の寺院が1寺も残さず全滅した程の過度の廃仏毀釈が明治初めに行われた旧薩摩藩領にあったため、松尾山本永寺地図も一度は廃寺になったとの由です。その後、明治16年(1883年)4月に現在の宮崎市立高岡小学校地図(住所:宮崎県 宮崎市 高岡町内山2900,Tel.:0985-82-1011)の地(柳ノ馬場)に移転再興されて、大正12年(1923年)に現在地にさらに移転再興したとの由です。
  
松尾山本永寺地図以外の鹿児島県+「宮崎県の一部」の旧薩摩藩領の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院については、当ホームページ内の感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記画面(ページ)の「鹿児島県内の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄で、ご参照いただけます。
→   (当HP内の)感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記内の「鹿児島県+「宮崎県の一部」の旧薩摩藩領の、廃仏毀釈後に復興した歴史の古い寺院」欄


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清武町地域
きよたけちょう
清武城清武城地図
(外部リンク)
清武城きよたけじょうは、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)にあった城です。戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れで、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 伊東氏が滅亡するまでの間は、伊東四十八城の中の一城でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 上別府宮内少輔,ならびに長倉伴九郎によれば、九州桶狭間と呼ばれる、戦国時代の元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(戦場跡は、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の木崎原(きざきばる)(現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の木崎原古戦場)で戦死した上別府宮内少輔(かみべっぷ くないしょうゆう)長倉伴九郎は、共に清武 地頭として、清武城城主であったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 清武城によれば、伊東崩れの後、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)島津氏領になっていた時期の清武城には、島津氏家臣の伊集院久宣が入城したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 清武城によれば、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の後、日向 伊東氏第12代当主・伊東祐兵(いとう すけたか(すけたけ))豊臣秀吉から所領を与えられて日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょうに戻って来ると、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)も、再び伊東氏領になったとの由です。伊東氏の家老・稲津掃部助重政(いなづ かもんのすけ しげまさ)清武城城主になったとの由です。日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属していたため、東軍方の伊東氏の家老として清武城城主・稲津重政は、高橋氏の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)の宮崎城を攻撃し、攻め落としたとの由です。高橋元種は東軍に寝返って本領安堵になっていたため、宮崎城高橋元種に返還されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲津重政によれば、稲津掃部助重政は、宮崎城攻めが東軍内の同士討ちと化してしまったため、伊東氏 飫肥藩家中で次第に孤立して行状が悪化し、切腹を命じられたとの由です。稲津重政清武城に籠城しましたが、慶長7年(1602年)に飫肥藩兵に攻められて討死したとの由であり、これは「稲津の乱」と呼ばれているとの由です。)

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佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城佐土原城(さどわらじょう)(別名:鶴松城,松鶴城,田島城)地図(国指定史跡
(外部リンク)
佐土原城さどわらじょうは、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった城です。佐土原城関連の歴史観光スポットとしては、2014年9月現在宮崎市佐土原歴史資料館があり(注)、その個別の展示施設として佐土原歴史資料館鶴松館地図,  佐土原出土文化財管理センター恐らくはここ(地図),  商家資料館「旧阪本家」地図があります(ただし、商家資料館「旧阪本家」地図は城域の外、城下にあります)。また、佐土原城を紹介する応援サイトには、特に、2014年9月現在佐土原城 遠侍間があります。
(注) 宮崎市佐土原歴史資料館公式WEBサイトについては、将来もしもリンク切れになったら、宮崎市ホームページ上のキーワード「佐土原歴史資料館」のgoogle検索結果,もしくはキーワード「佐土原歴史資料館 + 宮崎市」のgoogle検索結果で、情報をお調べ下さい。

  佐土原城は、戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ日向 伊東氏第10代当主だった伊東義祐日向国を追われて日向 伊東氏が一旦滅亡するまでの間は、日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうと共に、日向国の反島津氏国人戦国大名日向 伊東氏の本拠地だった城です。日向国 伊東氏の来歴について詳しくは、当画面(当ページ)内の都於郡城紹介欄で解説しておりますので、そちらでご参照可能です。
→   (当画面(当ページ)内内の)都於郡城紹介欄

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐土原城によれば、
佐土原城は、最初は、14世紀半ばごろに伊東氏の一族の田島休助によって田島城たじまじょうとして建てられたとの由です。室町時代の応永34年(1427年)に、伊東氏によって田島氏は追われて、伊東祐賀が入城し、「佐土原氏」を名乗ったことから、この頃から佐土原城と呼ばれるようになったとの由です。田島氏自身も伊東氏庶流ですので、詳細は存じ上げませんが、伊東氏内部での抗争があったことになります。戦国時代の文明12年(1480年)に日向 伊東氏本家から、後に伊東氏第6代当主になる伊東祐国が当主就任前の時点で佐土原氏の養子に入ったことから、佐土原城日向 伊東氏本家の城になったとの由です。天文5年(1536年)に焼失し、田島城跡地に鶴松城かくしょうじょうとして再建されたとの由です。佐土原城は、佐土原城の方が通称であり、この時期の正式名称は鶴松城であるとの由です。
  日向 伊東氏の本拠地だった時期の
佐土原城は、日向 伊東氏の全盛期には、伊東四十八城の中の1城でした。日向 伊東氏は、日向国も含む三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護島津氏にとっては、戦国時代の三州の領国国内統一平定戦における最大と言っても良い強敵でした。しかし、詳しくは当ホームページ内の木崎原古戦場跡紹介欄で解説したとおりの経緯により、九州桶狭間と呼ばれる、戦国時代の元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(戦場跡は、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の木崎原古戦場跡)で、日向国 ・ 真幸院飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城城主・島津忠平(島津義弘)公が日向 伊東氏の軍勢を打ち破り、日向 伊東氏の武将に多大な人的損害が発生したことを契機にして、日向 伊東氏の没落が始まりました。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「眞幸四ケ所城捨事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 野首城等によれば、天正4年8月(1576年9月)の高原城合戦(高原城の戦い)で島津氏が、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町)の高原城を落とすと、主君・日向国 伊東氏に恨みを抱いていた日向国 真幸院三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城(後の小林城)城主(兼)日向国 諸県郡(もろかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の須木城城主の米良矩重(めら のりしげ)島津氏に寝返って両城を開城し、この情勢下に島津氏に抗しきれなくなって日向国 真幸院三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の野首城野久尾城島津氏の城になったとの由です。なお、米良矩重伊東氏への恨みについて詳しくは、当ホームページ内の小林城解説欄でご参照いただけます。この高原城,  三ツ山城(後の小林城),  須木城,  野首城野久尾城の「眞幸四ケ所城」の他にも、この天正4年8月(1576年9月)の高原城合戦(高原城の戦い)の結果、詳しくは当ホームページ内の高原城紹介欄で挙げたような、日向国 真幸院三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域),  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域),  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高崎(たかざき;現・宮崎県 ・ 都城市高崎町地域)の諸城が、島津氏の城になったとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「土持勢門川發向事」),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 土持親成,ならびに伊東義祐によれば、天正5年2月9日(1577年2月26日)に、日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の
縣松尾城あがたまつおじょう城主で縣土持氏(県土持氏,あがたつちもちし)当主・土持親成(つちもち ちかしげ)は、日向 伊東氏領だった日向国 臼杵郡 門川(現・宮崎県 ・ 東臼杵郡 門川町)の門川城かどかわじょうを攻めたとの由です。この時には、門川城城主・米良四郎右衛門尉(米良祐次)門川城を守り、土持親成の攻撃は失敗に終わったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、島津四兄弟(島津氏宗家第16代当主・島津義久公,島津義弘公,島津歳久公,島津家久公)の従兄弟で、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主の島津忠長は、天正5年6月(1577年6月16日〜7月15日)に、日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょうを攻め落としたとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「櫛間湊村破事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の三男で、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主の伊東祐兵が天正5年6月19日(1577年7月4日)に櫛間城に攻めて来ると、島津忠長は、鶴亀城串良城があった大隅国 串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)から櫛間城の救援に駆け付けて逆に追い返して、飫肥城を包囲したとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 福永祐友,  野村松綱,  伊東義祐,  野尻城(日向国),  紙屋城によれば、詳しくは当ホームページ内の
野尻城紹介欄,  戸崎城紹介欄,もしくは紙屋城紹介欄で紹介した経緯により、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 野尻(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域)の野尻城の城主で日向 伊東氏の家臣だった福永祐友が、日向国 諸県郡 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町)の高原城たかはるじょう城主で島津氏家臣の上原尚近の誘いに応じて島津氏に寝返ってしまい、天正5年12月7日(1578年1月14日)に城内に島津氏の兵を引き入れて、野尻城島津氏の城になったとの由です。翌日・天正5年12月8日(1578年1月15日)には、日向国 諸県郡紙屋(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域大字(おおあざ)「野尻町紙屋(この辺り(地図))」)の紙屋城城主・米良主税助も福永祐友の縁戚であったため、島津氏に寝返ったとの由です。上記各参照先によれば、この事態に対して、佐土原城さどわらじょう城主で日向 伊東氏第10代当主だった伊東義祐は、野尻城開城の翌日・天正5年12月8日(1578年1月15日)に、紙屋城奪還のために兵を率いて日向国 諸県郡(もろかたぐん)紙屋まで来たとの由ですが、同日(天正5年12月8日(1578年1月15日))、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公も大軍を引き連れて野尻城に入ったため、日向 伊東氏日向国 諸県郡 野尻戸崎城(別名:土崎城)も維持できなくなり、陣屋に火をかけて、戸崎城(別名:土崎城)城主・漆野豊前守は山東(日向国の海岸よりの地域)に逃れたとの由です。上記各参照先によれば、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 内山(現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)の内山城(後の高岡城(別名:天ケ城)城主・野村松綱も、紙屋城城主・米良主税助と同様に野尻城城主・福永祐友の縁戚であり、かつ、詳しくは当ホームページ内の内山城紹介欄で解説したとおりの日向 伊東氏への恨みが野村松綱にはあったため、野村松綱の子・野村文綱も、福永祐友の動向に呼応して島津氏側に寝返ってしまい、日向 伊東氏に反旗を翻したとの由です。
  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、野村の一党が爰(ここ)かしこに相圖(あいず)の火を挙げたのを見て、伊東義祐は、跡を遮(さえぎ)られてはマズいとして、
佐土原城さどわらじょうに引き返したとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」),  佐土原城 遠侍間 ・ 高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦 ・ 天正五年十二月 島津義久 伊東家を調略(ちょうりゃく)し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃(のが)れる,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐等によれば、逆心の与党が、日向 伊東氏領の家々に放火したり、日向 伊東氏方の城を取り囲んだりしたため、伊東義祐にとって、誰が敵で誰が味方か分からない状況に陥ってしまったとの由です。上記各参照先によれば、天正5年12月9日(1578年1月16日)に事態打開の評定が開かれたものの良い案を出す者も無かったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば、同日(天正5年12月9日(1578年1月16日))、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主城主・島津忠長に包囲されていた日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうから逃れて来た伊東祐兵も合流したとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号238(『日向記』の「依福永逆心没落事」)によれば天正5年12月9日(1578年1月16日)の「あけぼの」に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊東義祐によれば天正5年12月9日(1578年1月16日)の正午過ぎに、伊東義祐は、豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館前城主で、豊後国 海部郡(あまべぐん)臼杵(現・大分県 ・ 臼杵市 大字臼杵)の隠居城・丹生島城にうじまじょう)(臼杵城うすきじょう))城主で、大友氏先代・第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)を頼って逃れることにして、佐土原城さどわらじょうを捨てたとの由です。
  上記のとおり天正4年8月(概ね1576年9月)に
高原城が落城した際に、米良矩重島津氏に寝返って三ツ山城(後の小林城須木城を開城したことを最初の契機にして、さらに上記のとおり、天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の野尻城城主・福永祐友,  紙屋城城主・米良主税助,  内山城城主・野村松綱の子・野村文綱ら野村党、等の島津氏への寝返りを起爆剤にして、伊東義祐伊東帰雲斎(伊東祐松)への不満が爆発する形で、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏は、崩壊していったとの由です。日向 伊東氏が天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)に自壊的・自滅的に滅亡したこの事件を伊東崩れと呼び、その最終過程として、伊東義祐豊後落ちが始まりました。伊東崩れにおける豊後落ちについて詳しくは、当ホームページ内の紙屋城紹介欄で解説しています。
  日向 伊東氏は、後年、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)島津氏が敗れると、伊東義祐の三男・伊東祐兵豊臣秀吉から、伊東氏宗家(日向 伊東氏)の旧領の一部である日向国 飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)周辺の領土を与えられて、
飫肥城おびじょうを拠点にした大名として復活しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍に属して生き残ることができ、伊東氏宗家(日向 伊東氏)は日向 飫肥藩藩主の家として、江戸時代にも存続することができました。このため、伊東祐兵は、伊東氏宗家第18代当主、日向 伊東氏第12代当主、日向 飫肥藩初代当主であることになります。なお、飫肥城戦国時代末期の永禄11年(1568年)に日向 伊東氏に攻め取られるまでの間は一貫して島津氏の城だった城であり、逆に、室町時代から戦国時代にかけて日向 伊東氏の本城だった、佐土原城と、日向国都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうは、戦国時代末期以降、江戸時代を通じて島津氏の城でした。したがって、「佐土原城 + (元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になるまでの期間の)都於郡城」と飫肥城とは、戦国時代江戸時代とで、島津氏伊東氏宗家(日向 伊東氏)のいずれの城であるかが、逆転していることになります。
  話を、日向 伊東氏が一旦滅亡した時点の
佐土原城の話に戻します。戦国時代の天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)の伊東崩れ伊東氏が滅亡した後、佐土原城島津氏の城になりました。佐土原城城主は、名将揃いだったことで知られる戦国時代島津四兄弟の末弟(四男)で、日向国 守護代に就任した島津家久公だったことで知られています。島津家久公は、鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・ 鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.13,、文化庁 ・ 文化遺産オンライン ・ 文化遺産データベース ・ 佐土原城跡,ならびに戦国魂ブログ ・ 特別展「島津家久・豊久父子と佐土原」開催中です!等によれば、島津氏が、豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館前城主で、豊後国 海部郡(あまべぐん)臼杵(現・大分県 ・ 臼杵市 大字臼杵)の隠居城・丹生島城にうじまじょう)(臼杵城うすきじょう))城主で、大友氏先代・第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)を撃破した天正6年(1578年)の耳川の戦い(場所は現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の後、島津家久公は天正6年(1578年)12月に佐土原城に封じられて、薩摩国 日置郡(ひおきぐん)串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城,ならびに薩摩国 薩摩郡 隈之城(くまのじょう)(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域の旧大字(おおあざ)西手」等,現大字隈之城町」等)の二福城(隈之城)から、佐土原城に移って来ました。就任時期は不明ですが、島津家久公は日向国 守護代として、島津家中の日向衆を束ねる職責を担いました。島津家久公は、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏が、豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館前城主で、豊後国 海部郡(あまべぐん)臼杵(現・大分県 ・ 臼杵市 大字臼杵)の隠居城・丹生島城にうじまじょう)(臼杵城うすきじょう))城主で、大友氏先代・第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)を撃破した耳川の戦い(場所は現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場跡(今日、宗麟原供養塔等がある所周辺))で活躍し、天正12年3月24日(1584年5月4日)に島津氏有馬晴信の連合軍が龍造寺氏の軍を撃破した沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)、天正14年12月12日(1587年1月20日)に、豊後国 府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館城主の大友氏豊臣秀吉の先遣部隊の援軍を島津氏 日向勢が撃破した戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)(戦場跡は、豊後国 大分郡稙田荘戸次庄(へつぎのしょう)(現・大分県 ・ 大分市 大字中戸次)の戸次川古戦場)を指揮したことで知られる名将です。
  島津家久公は、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)における、天正15年(1587年)4月17日の根白坂の戦い(場所は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 木城町
根白坂の戦い古戦場)で豊臣秀長軍に大敗すると、島津四兄弟の中で最も早く、豊臣氏に単独講和したとの由です。講和直後の天正15年(1587年)に、島津家久公は急死したとの由です。
  島津家久公没後は、嫡男の島津豊久
佐土原城城主になりました。島津豊久は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける捨て奸(すてがまり)戦法によるによる島津の退き口という壮絶な撤退戦で、戦死しました。佐土原城は、島津家久公・島津豊久父子の居城だったことにより、全国区で歴史に名が残る城と化していると思います
  関ヶ原の戦いの間、東軍方で日向国 宮崎郡 飫肥(おび)(現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主の伊東氏の家老で、日向国 宮崎郡 清武(きよたけ)(現・宮崎県 ・ 宮崎市清武町地域)の清武城きよたけじょう城主・稲津重政(いなづ しげまさ)は、当初は西軍方だった日向国土持院(つちもちいん)縣(県,あがた)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の縣松尾城あがたまつおじょう城主・高橋元種の飛び地領・日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城を攻撃し、攻め落としました。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津忠長女(島津豊久室)によれば、この時、佐土原城伊東氏から攻められたとの由ですが、島津豊久の留守を守っていた島津豊久夫人(=島津豊久生母)薩摩国宮之城(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の虎居城城主・島津忠長の娘)が、義弟(島津家久公の次男)の島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)や、義理の伯父(島津家久夫人の兄)の樺山忠助と共に防衛したとの由です。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈266〉島津豊久の母の悲しみによれば、当時、樺山忠助は、日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町(たかおかちょう)地域の一部)(城は穆佐城むかさじょう))地頭であり、島津氏宗家第16代当主・島津義久公の命令により、島津義弘公の帰国を安全にするために、佐土原城に入城していたとの由です。島津家久夫人(=島津豊久生母)については、戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 樺山善久女(島津家久夫人)によれば、豊臣秀吉への人質として滞在していたから脱出して、関ヶ原の戦いから帰国する島津義弘公と合流したとの由ですが、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈266〉島津豊久の母の悲しみによれば、島津義弘公は佐土原城に立ち寄って島津家久夫人(=島津豊久生母)と対面したことになっていますので、関ヶ原の戦いの時点では既に佐土原城に戻っていた可能性もあり得、参照先によって詳細な情報にズレがあります。いずれにせよ、島津豊久の遺族達にその死を告げた後、伊東氏が迫っていたため島津義弘公はすぐに、日向国 諸県郡八代(現・宮崎県 ・ 東諸県郡 国富町八代地区)(八代城)に向けて出立したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐土原城によれば、関ヶ原の戦いでの敗戦の結果、日向国 佐土原の地は一時期徳川家康に没収されて、徳川家康の家臣・庄田三太夫が
佐土原城を預かったとの由です。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 樺山善久女(島津家久夫人)によれば、佐土原城から撤収する時に島津家久夫人(=島津豊久生母)は抵抗しましたが、兄・樺山忠助の説得でようやく大隅国堅利に引き上げたとの由です。なお、大隅国は現・鹿児島県の一部ですが、堅利の場所は調べても分かりませんでした
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠仍等によれば、江戸幕府島津氏との和睦が成った慶長9年(1604年)に、日向国 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の地は、新たに江戸幕府から島津氏に与えられることになったとの由です。その際、島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)島津家久公の次男で島津豊久の弟であったため、当初は豊久の遺領を継ぐように命じられましたが病身を理由に固辞してしまったとの由です。このため、代わりに、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の次男・島津忠将の子であり、故に島津四兄弟の従兄弟である島津以久が継ぐことになり、大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の
垂水城から佐土原城に移って来て、佐土原藩2万7千石を立藩したとの由です。島津以久の旧領・大隅国垂水は嫡孫・島津久信(別名:島津信久,  島津忠仍島津忠仍(島津忠直,東郷重虎)とは、同姓同名の別人))が継いで、島津以久から垂水島津家を継承したことから、佐土原藩の家督と領土は島津以久の三男・島津忠興の系統が継ぎました。
  領土とは別にせめて家系としては島津家久公の系統を残そうとして、薩摩藩藩庁は島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)島津家久公 ・ 島津豊久の後を継ぐことを命じましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠仍等によれば、島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)は病身を理由にこれも断り、その代わりに薩摩国鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の
鹿籠桜之城城主・喜入(きいれ)忠続の子で、島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)の娘婿の忠栄に継がせました。この島津忠栄(喜入忠栄)の系統が、永吉麓御仮屋を拠点として薩摩国永吉郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の私領主となり、一所持という薩摩藩の重臣の家格の家・永吉島津家になりました。後にその系統も血が絶えたため、島津氏18代当主・島津忠恒(家久)の子・島津久雄が継ぎ、「血統上はつながっていなくても、家系としては島津家久公の系統の家」として、江戸時代幕末まで、一所持の家格の重臣の家として存続しました。
  島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)には、その後、複数の男子に恵まれました。血統上の島津家久公の子孫であるこの系統の諸家系について詳しくは、当ホームページ内の
鶴ヶ岡城紹介欄でご参照いただけますが、要約すれば、島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)が一時期家督を継いでいた東郷姓に復姓し、長男・東郷昌重は、島津忠直(別名:東郷重虎,島津忠仍)の母・島津家久夫人の実家である島津氏庶流の樺山氏が絶えそうになったため、樺山氏を養子として継いだとの由です。「東郷昌重 改め 樺山昌重」は、養子ですが、島津家久夫人経由で母系では樺山氏の血統を継承しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 一所持によれば、江戸時代