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名古屋城天守閣

那古野城跡

  

名古屋城&那古野城跡訪問記

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観光地名  :  名古屋城 & 那古野城(なごやじょう)

電話番号  :  052-231-1700
住所
(リンク先は地図)

 : 
名古屋城 愛知県名古屋市中区本丸1-1
那古野城跡
(名古屋城内)
愛知県名古屋市中区二の丸


地図
(powered by Google Map
 : 


訪問日  :  2008年3月29日 (土)
2016年1月11日(月・祝)

HP  :  名古屋城公式ホームページ

一般財団法人 名古屋城振興協会

安藤ハザマ・松井・八神特別共同企業体「名古屋城本丸御殿 復元工事」

【楽天トラベル・たびノート】名古屋城
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノートのサブ・コンテンツ。)

【カミタク・ブログ】名古屋城の桜が綺麗です
(リンク先は当ホームページの補完ブログカミタク・ブログの日記)

(その他、 (一社)愛知県観光協会ホームページ「Aichi Now」でも名古屋城 / 名古屋城本丸御殿として(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、愛知県観光協会ホームページ「Aichi Now」上のキーワード「名古屋市+名古屋城」のgoogle検索結果でお探し下さい)、愛知県埋蔵文化財センター公式WEBサイト「あいち埋文」 ・ 研究紀要 ・ 第3号(2002.3)でも松田 訓「遺構からみた那古野城の残影」(愛知県埋蔵文化財センター『研究紀要』Vol.3,2002年3月)として(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、愛知県埋蔵文化財センター公式WEBサイト上のキーワード「遺構からみた那古野城の残影」のgoogle検索結果でお探し下さい)、名古屋市ホームページでも【観光・イベント情報】名古屋城として(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、名古屋市ホームページ上のキーワード「名古屋城」のgoogle検索結果でお探し下さい)、公益財団法人 名古屋観光コンベンションビューロー「名古屋観光情報公式サイト 名古屋コンシェルジュ」でも名古屋城として(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、「名古屋観光情報公式サイト 名古屋コンシェルジュ」上のキーワード「名古屋城」のgoogle検索結果でお探し下さい)、公益社団法人日本観光振興協会「全国観るなび」でも名古屋城として(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、日本観光振興協会ホームページ上のキーワード「名古屋市+名古屋城」のgoogle検索結果でお探し下さい)、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも名古屋城,  那古野城として、 城郭放浪記でも尾張・名古屋城として、 ちえぞー! 城行こまいでも名古屋城として、 城郭写真記録・愛知の城館でも尾張 名古屋城として、 愛知県の城と今月の名古屋城(Stanaka's HomePage)でも名古屋城の特集等として、 愛知のお城めぐりでも名古屋城 | 織田信長生誕地の那古野城を拡張した尾張徳川家の居城,  那古野城 | 名古屋城二の丸にあった信長生誕地説のお城として、 史跡夜話でも名古屋城,  那古野城として、 -梅鉢umebachi- ・ 古城址探訪でも名古屋城,  那古野城として、 城郭図鑑でも名古屋城,  那古野城として、 裏辺研究所 ・ 日本の城でも名古屋城〜愛知県名古屋市中区〜,  那古野城として、 名古屋ナビ[NAGOYA NAVI]でも名古屋城探検その1ーカヤ(榧)の木ー,  名古屋城探検その2ー那古野城(なごやじょう)ー等として、 城めぐドットコムでも名古屋城跡,  那古野城跡として、 公益社団法人一宮青年会議所 ・ 理事長ブログでも名古屋城宵まつりとして、バカ犬のひとり言(blog)でも名古屋城 本丸御殿見学として、 山城踏査日記II(ブログ)でも名古屋城本丸御殿復元工事の現況 平成30年1月上旬 [名古屋城本丸御殿復元工事]として、 てつやのセーブポイント(仮)(ブログ)でも 初本格の名古屋・前編 〜名古屋城〜として、 「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜 (ブログ)でも名古屋城【お城観光ガイド】西を向いて設計された超巨大城郭として、 稀楽の笑顔ブログでも名古屋城へ外出(外食)♪として、 Love城!Go名所旧跡!(ブログ)でも名古屋城に登城!として、 ひろまるブログ/勝手に紹介!歴史スポット(ブログ)でも名古屋城(4)本丸御殿 復元工事現場へ潜入!として、 HMP2ブログでも【旅行】お盆休みに日帰りで名古屋行って来たんだけど【鶴舞公園・名古屋城・東山動植物園】として、 HOBO'S MEDITATION(ブログ)でも0915 名古屋旅vol.2(名古屋城) [旅日記]として、 横井利明オフィシャルブログでも名古屋城天守閣エレベーター問題として、 ものものブログでも【あえて名古屋に行ってきた旅行記:7 完結】名古屋城見て、ひつまぶしを食べて帰ろう!として、 Viviane's Information(ブログ)でも名古屋城として、 大澤寺 daitakuji(遠州相良(静岡県牧之原市)の真宗大谷派(本山京都東本願寺)の寺) 墓場放浪記(ブログ)でも那古野城→廃城→名古屋城 織田信秀の策として、 ゆーくんはどこ?(blog)でも尾張の旅(2)〜名古屋城(那古野城)として、 あの戦国の現場へ行こう!〜愛知を中心に城と戦国史跡を訪ねて〜(ブログ)でも二ノ丸にある那古野城址として、 お城を歩く(ブログ)でも名古屋城,  那古野城として、 セナパパのブログ(ブログ)でも那古野城として、 にっくんのブログ(ブログ)でも名古屋城本丸御殿対面所 その一,  織田信長と那古野城等として紹介されています。)

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 :  <この地域までの行き方>

JRグループの列車で、この地域に行く方のために
JR全体 JR CYBER STATION(JRグループ全体の切符予約)
JR北海道 JR北海道ホームページ(北海道新幹線など)
JR東日本 JR東日本ホームページ
(東北,上越,秋田,山形,長野,北陸新幹線など)
えきねっと(JR東日本)ホームページ
JR東海 JR東海ホームページ(東海道新幹線など)
JR西日本 JR西日本ホームページ(山陽新幹線など)
JRおでかけネット
JR四国 JR四国ホームページ
JR九州 JR九州ホームページ(九州新幹線など)
【楽天トラベル×JR】JRご案内ページ
JRグループ以外の鉄道会社(私鉄)の長距離列車で、この地域に行く方のために
近鉄 近鉄(近畿日本鉄道)ホームページ


  他地域から名古屋駅への行き方は、2018年1月現在JR東海解説)では東海道新幹線で行ける他、中央本線中央西線)(2018年1月現在優等列車特急エル特急)「(ワイドビュー)しなの」),  関西本線2018年1月現在優等列車等は特急南紀」,快速みえ」),  2018年1月現在東海道本線経由で名古屋駅に乗り入れる高山本線優等列車 ・ 特急エル特急)「(ワイドビュー)ひだ」,  2018年1月現在東海道本線経由で名古屋駅に乗り入れる北陸本線優等列車 ・ 特急エル特急)「しらさぎ」)等の列車で行けます。
  また、2037年以降開通予定でJR東海解説) ・ 中央新幹線でも行けるようになる予定です。

  伊勢 ・ 志摩方面,  奈良県,  大阪府からは、近鉄(近畿日本鉄道)解説) ・ 近鉄名古屋線近鉄特急で、近鉄名古屋駅に行くこともできます。

航空券予約
航空券と宿の同時予約
【楽天トラベル・国内ツアー(楽パック)】国内旅行・パックツアー(JAL,ANA航空券と宿の同時予約)
東海 ツアー
愛知 ツアー
航空券だけの予約

(JAL,ANA,ソラシドエア(Solaseed Air),STARFLYER)
【楽天トラベル】航空券予約
中部国際空港セントレア解説
【楽天トラベル】航空券予約で予約可能な航空会社以外の国内線(2018年1月現在)
IBEXエアラインズホームページ
AIR DO(エア・ドゥ)ホームページ
SKYMARK(スカイマーク)ホームページ
Air Asia(エアアジア・ジャパン)ホームページ
Jetstar(ジェットスター・ジャパン)ホームページ
名古屋飛行場(通称:県営名古屋空港
【楽天トラベル】航空券予約で予約可能な航空会社以外の国内線(2018年1月現在)
FDA(フジドリームエアラインズ)ホームページ


  中部国際空港セントレア解説)から名古屋市へは、空港の中にある名古屋鉄道(略称:名鉄)解説) ・ 空港線中部国際空港駅地図)から、名鉄の常滑線(とこなめせん)経由で名鉄名古屋本線に乗り入れる直通電車で、名鉄名古屋駅に行くことができます。2018年1月現在中部国際空港駅地図)−名鉄名古屋駅間には、名鉄特急「ミュースカイ」が運行されています。

  名古屋飛行場(通称:県営名古屋空港)から名古屋市へは、2018年1月現在名鉄バスあおい交通のバスで、名古屋駅や、名古屋の中心繁華街・(さかえ)(バスターミナル「オアシス21OASIS21)」その他)に行くことができます。このバス路線について詳しくは、県営名古屋空港公式WEBサイト,  名鉄バス公式WEBサイト,  あおい交通公式WEBサイトで、ご参照いただけます。



<この地域についてから後の行き方>

  名古屋駅からは名古屋市交通局 ・ 名古屋市営地下鉄 ・ 東山線栄駅に行き、同駅で名古屋市営地下鉄 ・ 名城線に乗換。もしくは、同地下鉄・桜通線久屋大通駅に行き、同駅で名城線に乗換。中心繁華街 ・ (さかえ)からは、これらの駅から名城線に直通。名城線市役所駅地図)で下車、徒歩です。

  また、名古屋駅からは、なごや観光ルートバス「メーグル」なごや観光地周遊バス「メーグル」)で行くこともできます。


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解説  : 
当画面(名古屋城&那古野城跡訪問記)の解説欄,  感想欄,  写真(画像)欄の目次
解説 概要
詳細(1/2):那古野城 詳細(2/2):名古屋城
感想
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概要
  名古屋城は、尾張国 愛知郡 名古屋(現・愛知県 名古屋市 中区,  東区の一部,  北区の一部,  西区の一部)に築城された、江戸時代尾張藩尾張 名古屋藩) 尾張徳川家61万9500石の藩庁だった近世城郭の遺構であり、日本100名城の中の1城です今日でも城の中心部は残っていて、築城時の建物が現存している戌亥隅櫓(西北隅櫓)等の建物、復元天守閣、「2018年1月時点で復元工事が行われており、一部完成済みの箇所が公開されている本丸御殿」、等があります。2017年12月現在、コンクリート造りで復元されている復元天守閣については、木造での再建築が計画されています名古屋城公式ホームページ ・ 金シャチ横丁について2018年1月参照時時点の記載内容によれば(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、名古屋城公式ホームページ上のキーワード「金シャチ横丁」のgoogle検索結果でお探し下さい)、平成30年(2018年)3月29日には、併設して新たなグルメ&ショッピング・スポットの金シャチ横丁もオープンする予定です。今日、名古屋城跡地は広義の名城公園の中の一部ですが、中区にある中区「入場料を支払う必要があり、天守閣がある本丸・二の丸エリア」を除いた、「都市公園として(一部の園内施設を除けば)無料で入れる狭義の名城公園」は名古屋市 北区にあり、「広義の名城公園」の範囲は中区北区にまたがっています(ただし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、「都市公園として(一部の園内施設を除けば)無料で入れる狭義の名城公園」は、かつての城域ではなく、城の北東にあった低湿地であるとの由です)。名古屋城所在地は、江戸時代初期に名古屋城が築城されて城下町の都市計画が行われる以前には、尾張国 愛知郡那古野(なごや;現・愛知県 名古屋市 中区本丸,  二の丸,  三の丸等)という名称の土地であり、戦国時代には、後の名古屋城の二之丸を中心とした場所に、那古野城(なごやじょう)地図という、一時期は織田信長の居城だった中世城郭がありました。当解説欄では、那古野城地図)の歴史も含めて解説します。
→   ○   (当HP内の)金シャチ横丁紹介欄
○   (当HP内の)名城公園紹介欄


当画面(名古屋城&那古野城跡訪問記)の解説欄,  感想欄,  写真(画像)欄の目次
解説 概要
詳細(1/2):那古野城 詳細(2/2):名古屋城
感想
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詳細(1/2):那古野城(なごやじょう,地図
  千田嘉博信長の城岩波新書,2013年01月)pp.34-36によれば、詳しくは後述する織田信秀 ・ 織田信長父子が城主だった時期(天文7年(1538年)頃〜天文23年(1554年)または天文24年(1555年)頃)の那古野城(なごやじょう)は、城主の大型館城である那古野城中心部と、有力家臣の館城が分立的・並立的に存在する中世的な城であったとする推測が行われています。このことを組織論の見地から申せば、組織構造上は織田氏が「家臣団に中央集権的に命令を下すことが可能な戦国大名」に成長する以前の、封建制的な有力家臣の分立的・半独立的な軍事力に立脚したものであるとする推測になります(注)
(注)   我が国(日本)の武家社会の組織構造上の歴史を乱暴にまとめて申せば、「西欧のフューダリズム(Feudalism)に相当する封建主義社会」であった鎌倉時代鎌倉幕府 御家人は、地頭として所領の所有権を認められる代償として鎌倉幕府に忠節を尽くす「御恩無ければ奉公無し」というものであり、各令制国守護は、令制国内の御家人たちの軍事・警察統率権を持っているとは申せ、動員される御家人達は守護の家臣ではなく、征夷大将軍の家臣でした。室町時代に各令制国守護守護大名に質的な成長を遂げるに際して、各守護大名は地域の武士を家臣団化していきましたが、元々が「守護の家臣ではなく、我が国中央の幕府の家臣である」旨の意識が強い在地武士達を、完全な部下にするにはまだ至っていない組織構造でした。上述した那古野城の城の構成はこの組織構造に基づくものであり、信長の城では、大名の組織構造(権力構造)の変化に応じて、城郭の構成上の設計の基本的な構造が変化した旨を示した本です。

  室町時代の後半が戦国時代と化してしまった背景事情には、このような組織構造のために守護大名が在地武士を統率しきれず、各令制国内で各武士勢力が群雄割拠できてしまったという状況があったと当ホームページ管理人は考えています。しかし、それでは戦が終わらないだけでなく行政上も安定しないため、各在地武士の家臣団化する質的な成長に成功できた大名が、戦国大名大名になります。したがって、戦国大名の組織構造は、領国内のミニ中央集権化に成功できた構造であることになります(ただし、封建制の遺構はまだ残しているため、陪臣戦国大名直属の家臣では、ありませんでした)。天下統一の過程で我が国全体での統一が進んだ結果、安土桃山時代江戸時代の武家社会の組織構造は、一部の例外を除いて、「各大名の領国内の武士が、大名に属さずに政権トップ(江戸時代であれば征夷大将軍)直属の家臣である」という状況が無くなったという点で、「封建制の遺構を残した上での、中央集権化」を達成した構造になったと、当ホームページ管理人は考えています。これにより各大名は直接把握可能な家臣団と直轄領の範囲のみが各大名領(各領)となった結果、各大名は室町時代までの守護とは異なり、各令制国単位に任命されるのではなく、より細分化された領域が各大名領(=各領)となり、故に江戸時代近世大名の数は令制国数よりも1桁も多い、約300名という人数になりました。

  なお、「江戸時代幕藩体制的な、封建制の遺構を残した上での、中央集権化」と、「現代の中央集権化」との組織構造上の相違点は、前者では「陪臣(=家臣の、そのまたさらに家臣)は主君にとって家臣ではない」のに対して、後者では「部下の、そのまたさらに部下は、上司にとっても部下である」点になります(と申すと、一見、「鎌倉時代鎌倉幕府 御家人が、守護の家臣ではなく、征夷大将軍直属の家臣だった」のと区別がつきにくいと思いますが、このような中世封建制組織構造と現代的中央集権制との相違点は、「部下(例えば課長)の、そのまたさらに部下(例えばヒラ社員)」は上司(例えば部長)直属の部下ではなく、部下(例えば課長)に直属する」点にあります。誤解を避けるべく念のため)。

  武家道徳もこれに応じて変化し、封建主義社会の武家道徳である鎌倉時代の「兵の道(つわものの道)」では「御恩無ければ奉公無し」、つまり主君の側に絶対的な命令権は無いものでした。この「兵の道(つわものの道(つはものの道))」を極端に言い換えれば「君君たらざれば主君にあらず、謀反を起こして殺してしまえ」という行動になり、主君がダメダメである場合には謀反は罪悪ではなく当然の権利であるとさえ言えるものでした。これに対して江戸時代の武家道徳「武士道」は「君君たらざれど、臣臣たれ」というものであり、主君の側に絶対的な命令権がある道徳に変質しています。世間では江戸時代の社会構造や、上からの命令には絶対服従な状況を「封建的」と呼ぶ場合がありますが、この認識に関しては、もしも「封建主義」の語を「西欧のフューダリズム(Feudalism)に相当するもの」とする場合には、「封建主義的道徳」とは上述の「御恩無ければ奉公無し」のとおり上位者への反逆権を正当な権利として有する道徳となるため、これは「上からの命令に絶対服従であることをもって封建主義的道徳とする発想」とは真っ向から矛盾する内容になります。故に、絶対服従的な道徳をもって「封建主義的道徳」と呼称するのは誤っていると、当ホームページ管理人は考えます(誤っているどころか、180度真逆であるとさえ言えます)。

  故に、「封建制の遺構は残しながらも、純粋な封建制からは脱却した上での、或る程度の中央集権化が達成された」江戸時代の武家組織構造は、「西欧のフューダリズム(Feudalism)に相当するもの」ではなく、それよりはむしろ、「西洋で対比すれば、絶対王政に相当するもの」であろうと、当ホームページ管理人は考えます(なお、西洋の絶対王政も、後世の完全な現代的中央集権国家ではなく「フューダリズム(Feudalism)の遺構は残した上での中央集権化」であり、絶対王政の王国でも、公爵伯爵等の爵位を持った貴族は、独自の所領を有していました。誤解を避けるべく念のため)。そもそも、江戸時代に出現した「サラリーマン武士(=自(みずか)らの所領を持たずに、俸禄を支給される武士)」などという存在は、封建制社会だったらあり得ない存在であるため、このような武士の存在は、「江戸時代封建主義的だと見なす」に対する反証となる(=言い換えれば、「江戸時代封建制社会ではない」旨の仮設モデルに対する証左である)ものと、当ホームページ管理人は考えます。


  ロム・インターナショナル名古屋を古地図で歩く本 古代尾張から戦国期、尾張徳川まで“歴史の謎解き”めぐり河出書房新社KAWADE夢文庫,2016年08月10日)p.41,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 那古野城によれば、那古野城は元々、駿河国(するがのくに) 安倍郡 駿府(現・静岡県 静岡市 葵区の中心部)の今川館(別名:駿府館。跡地は後の駿府城解説,  地図))館主で駿河国 守護家の今川氏庶流の今川那古野家の城であったとの由です。同情報源によれば、戦国時代の大永年間(1521年〜1528年)に、今川氏第9代当主の守護大名(兼)戦国大名 ・ 今川氏親が、末子の今川氏豊今川那古野家の養子当主に入れたとの由であり、那古野城はその時期に築城されたとの由です。千田嘉博信長の城岩波新書,2013年01月)pp.26-28,ならびに谷口克広天下人の父・織田信秀祥伝社新書, 2017年04月01日)pp.49-50によれば、天文2年(1533年)に尾張国(現・愛知県の一部)に下向した山科言継飛鳥井雅綱が、織田氏庶流の清洲三奉行3家の中の1家・織田弾正忠家(勝幡織田氏)当主であり、織田信長の父の織田信秀の当時の居城であった、尾張国 中島郡海東郡勝幡村)とにまたがる勝幡(しょばた;現・愛知県 稲沢市平和町地域の大字 平和町 城之内と同県愛西市(あいさいし)佐織町(さおりちょう)地域の大字 勝幡町(しょばたちょう)とにまたがる場所)の勝幡城(しょばたじょう)で、蹴鞠(けまり)の指導をした際には、今川氏豊尾張国 愛知郡那古野から勝幡城を訪れた旨が、同時代日記史料『言継卿記』に載っているため、天文2年(1533年)時点の那古野城の城主は今川氏豊であったとする説が導かれるとの由です。

  信長の城pp.26-29,ならびに天下人の父・織田信秀pp.62-66によれば、戦国時代の天文7年(1538年)に、勝幡城城主・織田信秀が、今川氏豊から那古野城を奪ったとの由です。同情報源によれば、織田信秀による那古野城奪取事件は、後世に成立した軍記物名古屋合戦記』の記載内容に基づいて、従来は天文元年(1532年)のこととする説が主流であったとの由ですが、この年は、前段落で上述した『言継卿記』掲載年・天文2年(1533年)よりも前のことであり、故に同時代史料と矛盾するため、天文7年(1538年)が対抗説として有力になってきたとの由です。天下人の父・織田信秀p.65によれば、天文7年(1538年)説の嚆矢(こうし)横山住雄「那古野城の興亡」『城』(1969)であるとの由であり、『同書』p.65孫引きの横山(1969)によれば、尾張国 愛知郡那古野における、織田信秀の領主としての記録で現存するものの中の初見である那古野の天王坊(注)への安堵状が発行された年が天文7年(1538年)であることから、天文7年(1538年)には織田信秀那古野城を奪取済みであることが確認できるとの由です。同情報源によれば、織田信秀は、奪取した那古野城に、勝幡城から移って来たとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信長2018年参照時点の記載内容によれば、天文3年5月12日(1534年6月23日)の生まれで後の三英傑の中の1人の織田信長が生まれた城について、勝幡城説と那古野城説の2説があるとの由ですが、同情報源、ならびに信長の城pp.12-13によれば、前述したとおり織田信秀による那古野城奪取年について天文7年(1538年)説が有力になってきたことから、それ以前の天文3年(1534年)に生まれた織田信長生誕地についても、那古野城説は棄却されることになり、勝幡城説が有力説になってきたとの由です。したがって、織田信秀による那古野城奪取に伴い、嫡子・織田信長勝幡城から那古野城に移って来たことになります。
(注) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 那古野神社によれば、今日の那古野神社なごやじんじゃの移転前の江戸時代までの旧社名は亀尾天王社であり、戦国を歩こう ・ 2017年09月05日付:「若き日の信長の学び舎<天王坊>を探す旅」 那古野城跡と那古野神社 (1) 資料と動機によれば、天王坊は、亀尾天王社別当寺だった寺であるとの由です。名古屋城公式WEBサイト ・ 金シャチ横丁第一期整備事業者を募集します ・ 名古屋城三の丸遺跡 金シャチ横丁事業に伴う発掘調査_報告書(PDF),ならびに戦国を歩こう ・ 2017年09月05日付:「若き日の信長の学び舎<天王坊>を探す旅」 那古野城跡と那古野神社 (1) 資料と動機によれば、天王坊の跡地は、2017年12月時点で名古屋市中区三の丸1-2-1の独立行政法人 水資源機構解説中部支社地図)辺り、もしくは名古屋市中区三の丸1-3-1の名城病院解説)(地図)辺りの模様です。

→   ○   (当HP内の稲沢市の観光スポット欄の)勝幡城紹介欄
○   (当HP内の愛西市の観光スポット欄の)勝幡城跡紹介欄


  信長の城p.29によれば天文13年(1544年)〜天文14年(1545年)初め、天下人の父・織田信秀p.93によれば天文13年(1544年)〜天文15年(1546年)頃、特に天文15年(1546年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 古渡城2018年参照時点の記載内容によれば天文3年(1534年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信秀2018年参照時点の記載内容によれば文8年(1539年)に、織田信秀は、尾張国 愛知郡古渡(ふるわたり:現・愛知県 名古屋市 中区等)古渡城ふるわたりじょうを築いて、新城・古渡城に移って行ったとの由です。そして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信秀以外の上記各情報源によれば、それぞれに記載されている古渡城への移転年、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信秀2018年参照時点の記載内容によれば、「織田信長の幼年時か、或いは天文15年(1546年)の元服前」に、織田信秀は、那古野城を嫡子・織田信長に譲ったとの由です。天下人の父・織田信秀p.94孫引きの横山住雄『織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って』(教育出版文化協会,1993年)によれば天文18年(1549年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 古渡城,  織田信秀,ならびに末森城(尾張国)2018年1月参照時点の記載内容によれば天文17年(1548年)に、織田信秀は、尾張国 愛知郡鳴海荘末森村(現・愛知県 名古屋市 千種区 城山町)の末森城末盛城)を築いて、末森城末盛城)に移ったとの由です。天下人の父・織田信秀p.139ならびにp.150,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信秀2018年1月参照時点の記載内容によれば天文21年3月3日(1552年4月8日)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 末森城(尾張国)2018年1月参照時点の記載内容によれば天文20年(1551年)に、織田信秀末森城末盛城で病死したとの由です。
→   ○   (当HP内の)古渡城紹介欄
○   (当HP内の)末森城(末盛城)訪問記


  前段落で述べた織田信秀病死以前の時期、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 2018年1月参照時点の記載内容によれば天文17年(1548年)、天下人の父・織田信秀p.128-131,ならびにp.245の関連年表によれば天文18年(1549年)に、美濃国 厚見郡 井之口金華山(現・岐阜県 岐阜市金華山)の稲葉山城(後の岐阜城解説,  地図))城主・斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)の娘・濃姫(帰蝶)と、那古野城城主・織田信長が結婚したとの由です。このことは、織田信秀 ・ 織田信長父子の織田弾正忠家(勝幡織田氏)と、斎藤利政(斎藤道三)との間の和睦が成立して、織田氏は二正面作戦を回避して東方の今川氏だけと対峙することが可能になった旨を意味します。

  天下人の父・織田信秀p.166,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 萱津の戦いによれば、天文21年3月3日(1552年4月8日)の織田信秀の死後、織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督を継いだ嫡男で那古野城城主の織田信長が率いる織田弾正忠家(勝幡織田氏)勢が、尾張国 海東郡 萱津(かやづ;現・愛知県 あま市甚目寺町地域大字(おおあざ)上萱津」,「中萱津」,「下萱津」)で戦国時代の天文21年8月16日(1552年9月4日)に、尾張国 春日井郡 清洲(現・愛知県 清須市清洲町地域)の清洲城を拠点とする織田大和守家(清洲織田氏)当主の尾張下四郡守護代 ・ 織田信友の家臣で実権を握っていた坂井大膳,  坂井甚介,  河尻与一(左馬丞),  織田信友の家老・織田三位らが率いる織田大和守家(清洲織田氏)勢と戦って撃破した萱津の戦い(かやづのたたかい)が行われたとの由です(古戦場跡の碑は、あま市上萱津八剱50の萱津古戦場碑(この辺り(地図))(注1))。上記各情報源によれば、この萱津の戦いは、坂井大膳らの織田大和守家(清洲織田氏)勢が天文21年8月15日(1552年9月3日)に、織田信長方の尾張国 海東郡西条村(現・愛知県 海部郡あまぐん) 大治町(おおはるちょう)大字(おおあざ)「西條」)の松葉城(今日の住所で愛知県海部郡大治町大字西條南屋敷36の松葉城(まつばじょう)跡候補地1(現・箱根社地図)),もしくは今日の住所で愛知県海部郡大治町大字西條城前田の松葉城跡候補地2地図(注2)等),  深田城尾張国 海東郡西条村(現・愛知県 海部郡あまぐん) 大治町(おおはるちょう)大字(おおあざ)「西條」)の今日の住所で愛知県海部郡大治町大字西條南屋敷79の深田城跡候補地1(現・浄土真宗本願寺派 ・ 光暁寺地図)),もしくは尾張国 海東郡桂村(深田?)(現・愛知県 あま市七宝町地域大字(おおあざ)「七宝町桂」)の深田城(具体的な候補地は、今日の住所で愛知県あま市大字七宝町桂城之堀1番地の深田城跡候補地2−1:現・あま市役所七宝庁舎地図南側一帯(例えば、今日の住所で愛知県あま市大字七宝町桂郷内1608の深田城跡候補地2−2:現・真宗大谷派 ・ 月桂山法光寺地図)等),  今日の住所で愛知県あま市大字七宝町桂の深田城跡候補地2−3:深田,河原,境之橋辺り(七宝大橋西交差点地図)周辺))(注3))の2城を襲撃して、松葉城城主・織田伊賀守と深田城城主・織田信次を人質にしたことを契機にして起きた合戦であるとの由です。織田信次は、織田信秀の弟、即ち織田信長の叔父になります。上記各情報源によれば、織田信長が率いる織田弾正忠家(勝幡織田氏)勢が織田伊賀守,織田信次を救い出すために織田大和守家(清洲織田氏)勢と戦って撃破した合戦が、萱津の戦いであるとの由です。上記各情報源によれば、織田信長の叔父で、織田信長方の尾張国 春日井郡山田郡か?)守山(現・愛知県 名古屋市 守山区の一部)の守山城城主・織田信光は、守山城から駆けつけて、尾張国 愛知郡稲葉地(現・愛知県 名古屋市 中村区城屋敷町,  稲葉地町,  稲葉地本通)の庄内川畔で、織田信長と合流したとの由です。なお、尾張国 愛知郡稲葉地は、織田信光の居城だった稲葉地城があった所ですが、守山城城主だった時期の織田信光が、稲葉地城も続けて所有していたか、或いは稲葉地城の城主ではなくなっていたか、そのいずれであるかについては、当ホームページ管理人は存じ上げません。
(注1) 中日新聞プラス ・ 柴田勝家登場! いよいよ始まった清須攻め、萱津合戦 によれば(リンク先URLは2017年12月現在)萱津の戦いの実際の古戦場は、今日、萱津古戦場碑(この辺り(地図))がある「あま市上萱津八剱50」ではなく、その南東700m辺りだったとの由です。
(注2) 松葉城跡の候補地について、「松葉城跡候補地1(現・箱根社地図))」は、産業と歴史あふれる愛知へいらっしゃいませ ・ 愛知県・38市史跡・社寺めぐりー大治町(その2),ならびにお城を歩く ・ 松葉城・深田城によるものであり、「松葉城跡候補地2地図)」は、愛知のお城めぐり ・ 松葉城 | 萱津合戦のキッカケになったお城,ならびに愛知のお城・戦国武将ゆかりの地を歩く! ・ 松葉城(まつばじょう) の地図によるものです。
(注3) 深田城跡の候補地について、「深田城跡候補地1(現・浄土真宗本願寺派 ・ 光暁寺地図))」は、お城を歩く ・ 松葉城・深田城によるものであり、「深田城跡候補地2−1:現・あま市役所七宝庁舎地図)南側一帯」は愛知のお城・戦国武将ゆかりの地を歩く! ・ 深田城(ふかだじょう) ,  「深田城跡候補地2−2:現・真宗大谷派 ・ 月桂山法光寺地図)」は第六天魔王の天下統一記 ・ 桂城、深田城(七宝町)【尾張】 ,  「深田城跡候補地2−3:深田,河原,境之橋辺り(七宝大橋西交差点地図)周辺)」は第六天魔王の天下統一記 ・ 桂城、深田城(七宝町)【尾張】 によるものです。


  天下人の父・織田信秀pp.170-171によれば、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に、那古野城城主・織田信長の傅役(兼)次席家老で、尾張国 春日井郡志賀(現・愛知県 名古屋市 北区ならびに同市西区の一部)の今日の住所で愛知県名古屋市北区平手町2丁目の志賀城(現・平手政秀宅址,  志賀公園)城主の平手政秀が、自刃したとの由です。平手政秀を弔うために織田信長が建立(こんりゅう)した寺が臨済宗 妙心寺派・瑞雲山政秀寺であり、政秀寺は、2回の移転を経て、今日では愛知県 名古屋市 中区栄3-34-23にあります。
→   (当HP内の)政秀寺紹介欄


  天下人の父・織田信秀pp.168-172,ならびにp.245の関連年表によれば天文22年4月(1553年5月13日〜6月10日)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信長2018年1月参照時点の記載内容に載っている2説中の天文22年(1553年)説以外の説によれば天文18年(1549年)に、那古野城城主・織田信長と、稲葉山城(後の岐阜城解説,  地図))城主で信長の義父(信長の正室・濃姫(帰蝶)の実父)の斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)が、尾張国 中島郡(なかしまぐん)富田村(現・愛知県 一宮市尾西市(びさいし)地域の大字(おおあざ)「冨田」)の聖徳寺正徳寺)(左記の場所にあった戦国時代の所在地は、今日の住所で愛知県一宮市冨田字大堀413-5の聖徳寺跡聖徳寺旧跡)(地図)。数回の移転後の現・所在地は、愛知県 名古屋市 天白区八事山552の真宗大谷派 ・ 七宝山聖徳寺地図)。)で会見を行ったとの由です。この会見で斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)織田信長を高く評価したエピソードは有名ですので詳しくは省略しますが、天下人の父・織田信秀p.172では、この会見の後、織田信長斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)の関係が、(単なる)和睦から、軍事同盟に発展したのではないかとの仮説モデルが立てられています。それは、詳しくは次段落で解説する天文23年1月24日(1554年2月25日)に行われた村木砦の戦いの際に、斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三),ならびに守山城城主で織田信長の叔父の織田信光との間の同盟関係が、織田信長にとって活きたとの分析が行われていることです。

  天下人の父・織田信秀p.175,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 村木砦の戦い等によれば、村木砦の戦いとは、駿河国(するがのくに) 安倍郡 駿府(現・静岡県 静岡市 葵区の中心部)の今川館(別名:駿府館。跡地は後の駿府城解説,  地図))館主で今川氏第11代当主の戦国大名 ・ 今川義元が派遣した軍勢が、尾張国 知多郡小河(現・愛知県 知多郡 東浦町ひがしうらちょう)の大字(おおあざ)「緒川」)の今日の住所で愛知県知多郡東浦町大字緒川古城の緒川城(おがわじょう)地図)城主(兼)三河国 碧海郡(へきかいぐん) 刈谷(現・愛知県 刈谷市の一部)の今日の住所で愛知県刈谷市城町1丁目1の刈屋城(刈谷城)(現・亀城公園解説),  地図)城主で織田信長方の戦国武将・水野信元の領土を攻めたために起きたとの由です。上記各情報源によれば、今川軍は緒川城地図)周辺の城を攻め滅ぼしたり寝返らせたりして緒川城地図)を孤立させた上で、緒川城地図)に対する付け城(付城)として、尾張国 知多郡村木(現・愛知県 知多郡 東浦町大字(おおあざ)森岡」)に今日の住所で愛知県知多郡東浦町大字森岡取手の村木砦(石碑と説明板(案内板)がある現・八劔神社(やつるぎじんじゃ)地図),城郭放浪記 ・ 尾張・村木砦掲載情報による八劔神社西側の本丸跡地伝承地地図))を築き、そこに兵を入れた(注1)との由です。上記各情報源によれば、この結果、緒川城地図)が孤立して窮状に陥った水野信元は、那古野城城主・織田信長に援軍を要請したとの由です。ところが、この天文22年(1553年)後半〜村木砦の戦いが行われた天文23年1月24日(1554年2月25日)の時期は、上述した天文21年8月16日(1552年9月4日)の萱津の戦いの後の時点のことであり、後述する織田信長,  織田信光らの織田弾正忠家(勝幡織田氏)勢が、天文23年4月19日(1554年5月20日)(∵ 天下人の父・織田信秀p.245の関連年表)もしくは天文24年4月20日(1555年5月10日)(∵ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信光,  坂井大膳,  織田信友等の2018年1月参照時点の記載内容)に、織田信友らの織田大和守家(清洲織田氏)を滅ぼす前の時期のことであり、織田信長,  織田信光らの織田弾正忠家(勝幡織田氏)勢と、清洲城織田大和守家(清洲織田氏)清洲勢が対立抗争している真っ最中の時期でした。このため、上記各情報源によれば、織田信長緒川城地図)救援のために居城・那古野城を留守にすると、那古野城清洲勢に攻められるリスクがありましたが、織田信長は兵力不足でした。上記各情報源によれば、この情勢に対して織田信長稲葉山城(後の岐阜城解説,  地図))城主・斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)に援軍の派遣を要請して、これに応えて斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三)は、美濃国 本巣郡(もとすぐん) 北方(現・岐阜県 本巣郡 北方町大字(おおあざ)「北方」)の北方城地図)城主で西美濃三人衆の中の1人の安藤守就(あんどう もりなり)以下1,000人の兵を派遣したとの由です。上記各情報源によれば、織田信長那古野城の守備を安藤守就隊に委(ゆだ)ねた上で、この時期の一族の中で数少ない織田信長の味方の叔父で守山城城主の織田信光の部隊と共に、緒川城地図)救援に向かい、天文23年1月24日(1554年2月25日)の村木砦の戦い村木砦(現・八劔神社(やつるぎじんじゃ)地図))を攻め落としたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 村木砦の戦いによれば、この合戦の時の織田信長勢は、部隊を織田信長直卒部隊、織田信光隊、水野金吾隊(注2)の3隊に分けて行われたとの由であり、また、織田信長勢はこの合戦で鉄砲(種子島火縄銃)が使われたとの由です。この鉄砲(種子島火縄銃)の使用は、我が国(日本)で初めて鉄砲(種子島火縄銃)が使われた実戦である、天文18年(1549年)に大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の「黒川崎」で行われた「黒川崎の戦い(黒川崎合戦)」から5年程しか離れていない時期のことであり、我が国の戦史の上でも、鉄砲(種子島火縄銃)が実戦で使われた極めて初期の合戦の中の1つになります。天下人の父・織田信秀p.175では、この時、斎藤利政(天文23年(1554年)の剃髪後は斎藤道三),  織田信光という2名の同盟者の協力を得られたことは、織田信長の外交力の賜物(たまもの)であるとの分析が行われています。
(注1)   東浦町商工会公式WEBサイト上の東浦町観光協会公式WEBサイト ・ 村木砦の合戦 補足リンク先URLは2018年1月現在。将来もしも東浦町観光協会公式WEBサイトが現在どおり存在した上で当該情報掲載画面だけがリンク切れになったら東浦町商工会公式WEBサイト上のキーワード「石川新左衛門+村木砦」のgoogle検索結果で、或いは東浦町商工会公式WEBサイトのURLが変更となった場合には「石川新左衛門+村木砦+観光協会」のgoogle検索結果で、他サイトも含めて同じ内容の情報についてはキーワード「石川新左衛門+村木砦」のgoogle検索結果で、お探し下さい),ならびに彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ) ・ 1月24日、村木砦の戦い等によれば、村木砦(現・八劔神社地図))を築いた今川軍の武将は石川新左衛門康盛(石川康盛)であったとの由です。

  また、なぽのブログ ・ 村木砦/愛知県知多郡東浦町掲載の
村木砦(現・八劔神社地図))説明板(案内板)記載内容によれば、築城後の村木砦(現・八劔神社地図))の城将は、松平氏庶流で十八松平中の1家・東条松平家初代当主の松平甚太郎義春(松平義春)であるとの由です。城郭放浪記 ・ 尾張・村木砦,  ちえぞー! 城行こまい ・ 村木砦2018年1月参照時点の掲載情報のように、村木砦(現・八劔神社地図))の城主(城将)を東条松平家第3代当主・松平甚太郎家忠(松平家忠)とする異説が載っているホームページ/ブログもありますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 松平家忠(東条松平家)によれば松平家忠は弘治2年(1556年)と、村木砦の戦いが行われた天文23年1月24日(1554年2月25日)よりも後の生まれであるため世代上、時系列上の矛盾があるため、東条松平家第3代当主松平家忠城将説は誤りであろうと推測しますが、この松平家忠以外にこの時点で元服(成人)済みの別人の「松平家忠」なる武将がいた可能性も、否定はできません。「甚太郎」の通称から推測すれば、松平義春であれ松平家忠であれ、東条松平家の歴代当主は「甚太郎」を通称としていたため、「松平甚太郎」なる人物が東条松平家の武将であった旨が史実どおりである可能性は一定の確率であり得ますが、東条松平家以外で「甚太郎」を名乗った松平氏の別の武将がいた可能性も否定はできません。

  なお、ちえぞー! 城行こまい ・ 村木砦,ならびに城郭放浪記 ・ 尾張・村木砦2018年1月参照時点の掲載情報によれば、
村木砦(現・八劔神社地図))の城主(城将)として「松平甚太郎」の次に、「藤井氏(情報源の前者)、藤井隼人正(情報源の後者)」の名前が載っています。両情報源のホームページ管理人の方が参照された、さらなる情報源の原典が不明であるためこの情報が史実どおりであるか否か、2018年1月時点当ホームページ管理人は検証できておらず不明です。藤井隼人正が城主(城将)であった時期が天文23年1月24日(1554年2月25日)の村木砦の戦いの時か後年であるかについても同様に不明です。また、藤井氏の来歴についても不明ですが、想定可能な可能性の中の1つとしては、はまぞう ・ きくいち日記:住宅地の真ん中に石碑が建てられているお城。,ならびにタクジローの日本全国お城めぐり ・ 三河 藤井城(安城市)によれば、松平氏庶流で十八松平中の1家・藤井松平家初代当主・松平利長が藤井氏の養子に入って築城した城が三河国 碧海郡(へきかいぐん)藤井(現・愛知県 安城市大字(おおあざ)「藤井町」)の今日の住所で愛知県安城市大字藤井本郷の藤井城地図であるとの由ですので、松平利長が養子に入る前の元々の藤井氏の庶流各家か、或いは藤井松平家の一族の中の誰かであった可能性が、あり得るものと推測します(ただし、これは仮説の域を出ないため、この「元々の藤井氏 or 藤井松平家以外の藤井姓の武士であった可能性も、否定はできません)。

(注2) 水野金吾は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 村木砦の戦い,ならびに水野忠分2018年1月参照時点の記載内容では、緒川城地図城主・水野信元の弟の水野忠分と推測されています。


  ところが、信長の城p.35,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 村木砦の戦いによれば、前段落で解説した天文23年1月24日(1554年2月25日)の村木砦の戦いの際に、那古野城城主・織田信長の1番家老 ・ 林 秀貞(林 通勝)とその弟・林美作守(林 通具(はやし みちとも))は合戦に参加せずに不満を言って、勝手に那古野城から去って、自分(林 秀貞(林 通勝))の与力である前田氏・尾張荒子前田家の居城である、尾張国 愛知郡 荒子村(現・愛知県 名古屋市 中川区 荒子)の荒子城に撤退してしまったとの由です。動員命令違反は、国と時代によっては極刑(最高刑)に死刑があり得る程に重い命令違反であるにもかかわらず、しかも林 秀貞(林 通勝)は筆頭家老であったにもかかわらず、この時に林兄弟が罰を受けた旨の情報に、2018年1月現在の時点までの間では、当ホームページ管理人は接したことがありません。『同書』p.35では、この事件は、当時の織田信長の軍事力が寄合的・連合的に構成されており、後のような中央集権的な軍事力構造にはなっていなかったことの証左だとする分析が行われています。林兄弟は、後述するとおり、後に織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督相続争いの抗争の過程で、織田信長に敵対するその弟の織田信行(織田信勝)の擁立派と化してしまった「謀反」の当事者と化しました。

  天下人の父・織田信秀pp.172-175,ならびにp.245の関連年表によれば天文22年7月12日(1553年8月20日),フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信友,  斯波義統,  斯波義銀等の2018年1月参照時点の記載内容によれば天文23年7月12日(1554年8月10日)に、清洲城城主で尾張国 守護斯波氏武衛家)第14代当主の斯波義統(しば よしむね)が、守護代 ・ 織田信友、その家臣・坂井大膳らにクーデターを起こされて、自害に追い込まれた事件が起きたとの由です。同情報源によれば、斯波義統の嫡男・斯波岩龍丸(しば がんりゅうまる;後の斯波義銀(しば よしかね))が殺害を免れて織田信長の下に逃れて来て保護されたことにより、織田信長と、その叔父で、守山城城主・織田信光織田弾正忠家(勝幡織田氏)勢は、尾張下四郡守護代家の織田大和守家(清洲織田氏)織田信友勢に対して、「主君殺し」の罪名をもって討伐する大義名分を得たとの由です。天下人の父・織田信秀p.174によれば、この事態に対して坂井大膳は、織田信光織田信長から離反させることを狙って、織田信光織田彦五郎(織田信友)と共に両守護代として奉るとの条件で織田信光を誘う調略を行ったとの由です。天下人の父・織田信秀pp.172-175ならびにp.245の関連年表によれば天文23年4月19日(1554年5月20日),フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信光,  坂井大膳,  織田信友等の2018年1月参照時点の記載内容によれば天文24年4月19日(1555年5月9日)に、織田信光は、坂井大膳の誘いに応じるふりをして清洲城に入城して、軍勢を起こして城を乗っ取り、主殺しの咎で翌日(『前掲書』p.245の関連年表によれば天文23年4月20日(1554年5月21日)、『ウィキペディア(Wikipedia)』の各情報源の2018年1月参照時点の記載内容によれば天文24年4月20日(1555年5月10日))、織田信友を殺害して、その結果、坂井大膳は逃亡したとの由です。同情報源によれば、これは織田信長 ・ 織田信光勢による謀略であったとの由であり、斯波義銀を奉じた織田信長那古野城から清洲城に移り、那古野城織田信光に譲ったとの由です。天下人の父・織田信秀.176ならびにp.245の関連年表によれば天文23年11月26日(1554年12月20日),フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信光2018年1月参照時点の記載内容によれば弘治元年11月26日(1556年1月7日)、那古野城に移った織田信光は、家臣・坂井孫八郎に殺害されてしまったとの由です。
→   ○   (当HP内の)守山城紹介欄
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  天下人の父・織田信秀p.177掲載の推測内容によれば天文24年(1555年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 長良川の戦い,  斎藤道三によれば天文23年(1554年)に、斎藤道三から国を譲られて稲葉山城(後の岐阜城解説,  地図))城主になっていた嫡子の斎藤義龍は、廃嫡されて斎藤道三が溺愛していた息子(即ち、斎藤義龍の弟)・斎藤孫四郎龍重斎藤喜平次龍定の2名の内のいずれかに家督を奪われるリスクに対抗して、両名を弘治元年11月12日(1555年12月24日)に殺害したとの由です。上記各情報源によれば、このため、隠居後に隠居城である美濃国 方県郡(かたがたぐん) 鷺山(さぎやま;現・岐阜県 岐阜市大字(おおあざ)「鷺山」)の鷺山城(さぎやまじょう)地図)城主に転じていたとも、隠居後も継続して稲葉山城(後の岐阜城解説,  地図))にいたとも伝えられる斎藤道三は、美濃国 山県郡(やまがたぐん) 大桑(おおが;現・岐阜県 山県市(やまがたし)大字(おおあざ)「大桑」)の古城山(別名・金鶏山)山頂の大桑城(おおがじょう)地図)に逃れて、斎藤義龍に敵対したとの由です。しかし、上記各情報源によれば、斎藤道三が国主になるまでの経緯もあって斎藤道三に味方する家臣は少なかったため、弘治2年4月20日(1556年5月28日)の長良川の戦いで、斎藤道三は討ち死にしてしまったとの由です。上記各情報源によれば、清洲城城主で斎藤道三の娘婿の織田信長斎藤道三への援軍を出すべく出陣していましたが、間に合わなかったとの由です。上記各情報源によれば、勝利した斎藤義龍は、織田信長に敵対したとの由です。天下人の父・織田信秀p.177によれば、この結果、前段落で述べた那古野城城主・織田信光の死に続いて斎藤道三と、有力な同盟者2名を相次いで失った織田信長は、同母弟・織田信行(織田信勝)との間の織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督相続争いで孤立化して、不利な状況に陥ったとの由です。ただし、『前掲書』p.176によれば、信長公記解説首巻には「しかしながら、上総介殿(織田信長)御果報のゆえなり」と祝意を表する文章が載っているとの由であり、尾張国(現・愛知県の一部)半国を2人で2郡ずつ分割する約束をしていた織田信光が死んだために領国分割の約束を反故にでき、一族中の有力者・織田信光の勢力がさらに増す以前に死んでくれたことは織田信長にとってメリットがあったとする見方があったとの由です。さはさりながら、それは長期的なメリットではあっても、短期的には有力な同盟者・織田信光の早過ぎる死は、織田信長にとってデメリットであった可能性が高いものと、当ホームページ管理人は推測します。『前掲書』p.177には、斎藤道三の敗死は、織田信長にとって純粋なデメリットと化した旨の分析が行われています。織田信長にとって不幸中の幸いとなる、斎藤道三の敗死による数少ないメリットは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 長良川の戦い,  斎藤道三に載っている、死ぬ直前の斎藤道三織田信長に対して、美濃国(現・岐阜県の一部)を譲り渡す旨の遺言書を残したことが挙げられると、当ホームページ管理人は考えます(が、多くの方も同意見と思量されますので、これは当ホームページ管理人だけのオリジナルな考えではありません)。斎藤道三の娘婿であることと、この遺言書故に織田信長美濃国統治のための正統性(レジティマシー(legitimacy))を得られたことになり、後年、美濃国の武士達は、尾張国の武士達と同様に織田信長にとって「本国の家臣団」化した旨は、よく知られた状況であろうと考えます。

  天下人の父・織田信秀pp.178-179によれば、前述した織田信光の没後、織田信長は、那古野城を、筆頭家老 ・ 林 秀貞(林 通勝)に預けたとの由です。織田信光の没後、織田信光の子(織田信昌織田信成)が那古野城城主に就任しなかったということは、那古野城(及び周辺の領地)を織田信光家に相続させずに取り上げて、織田信長(即ち、織田弾正忠家(勝幡織田氏)宗家)直轄の「領地と城」にした旨を示すものと、当ホームページ管理人は考えます。ところが、この時期、末森城末盛城)城主で織田信長の同母弟・織田信行(織田信勝)織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督相続を巡って織田信長と対立関係に陥っており、林 秀貞(林 通勝)は、織田信長の筆頭家老であったにもかかわらず、その弟・林美作守(林 通具(はやし みちとも)),  織田信行(織田信勝)家老尾張国 愛知郡下社村(しもやしろむら;現・愛知県 名古屋市 名東区の一部)の下社城(しもやしろじょう)城主の柴田勝家と共に、織田信行(織田信勝)擁立派と化してしまったとの由です。前段落で述べたとおり、有力な同盟者であった織田信光斎藤道三を相次いで失った織田信長は、林 秀貞(林 通勝)と、その弟の林美作守(林 通具)にも背かれてしまい、自(みずか)らの持ち城であった筈(はず)の那古野城が、敵方の城と化して、孤立状況に陥ったことになります。『前掲書』p.179孫引きの信長公記解説,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 林秀貞によれば、恐らくは弘治2年(1556年)と推測可能な年に、清洲城城主・織田信長が、守山城城主で弟(「兄」説もあり)の織田秀俊(織田信時?)と2人で那古野城林 秀貞(林 通勝)を訪れた際に、林美作守(林 通具)織田信長暗殺を提案したのに対して、林 秀貞(林 通勝)は、「三代に渡って恩を受けた主君をだまし討ちすることは、天道に背く行為だ」として反対して、織田信長の命を救ったとの由です。

  天下人の父・織田信秀pp.179-182,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲生の戦いによれば、織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督相続争いの対立抗争の過程で、那古野城城将(城代)(兼)織田信長付き筆頭家老 ・ 林 秀貞(林 通勝),その弟・林美作守(林 通具(はやし みちとも)),  末森城末盛城)城主・織田信行(織田信勝)家老下社城(しもやしろじょう)城主の柴田勝家等の織田信行(織田信勝)擁立派は、清洲城城主・織田信長に反旗を翻して、織田信長直轄領だった尾張国 春日井郡 篠木三郷(しのぎさんごう;現・愛知県 春日井市町丁「篠木(この辺り(地図))」周辺)を横領するという、明らかな織田信長への敵対行動に出たとの由です。上記各情報源によれば、これに対して織田信長は、尾張国 愛知郡 御器所村(ごきそむら;現・愛知県 名古屋市 昭和区の地名「御器所」,「御器所町」,「御器所通(ごきそとおり)」等)の今日の住所で愛知県名古屋市昭和区御器所2-9-19の御器所西城(ごきそにしじょう)(別名:御器所城。跡地は現・尾陽神社(びようじんじゃ)解説,  地図))を本城とする佐久間氏の1員で、織田信行(織田信勝)付きの家老ではありましたが織田信長に味方した佐久間大学允盛重(佐久間大学助盛重,佐久間盛重)に命じて、尾張国 春日井郡山田郡か?) 名塚(なづか;現・愛知県 名古屋市 西区の地名「名塚町」)の今日の住所で愛知県名古屋市西区名塚町4-22-1に名塚砦(なづかとりで)白山神社,  地図)を弘治2年8月22日(1556年9月25日)に築かせて備えたとの由です。上記各情報源によれば、弘治2年8月24日(1556年9月27日)に、織田信長勢と織田信行(織田信勝)擁立派勢とが、名塚砦(なづかとりで)白山神社,  地図)の近くの尾張国 春日井郡山田郡か?) 稲生原(いのうがはら;現・愛知県 名古屋市 西区の地名「稲生町(いのうちょう),  名塚町,  庄内通,  江向町」等。古戦場跡は、今日の住所で愛知県名古屋市西区名塚町1丁目(番地は無い模様。隣接する愛知県名古屋市西区庄内通4-30のコーポナニワ地図)の西側の裏)の稲生原古戦場跡(いのうがはらこせんじょうあと)地図))で、稲生の戦い(いのうのたたかい,稲生合戦,稲生原合戦とも呼称)と呼ばれる合戦を行ったとの由です。天下人の父・織田信秀pp.180-181,信長の城pp.35-36,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲生の戦いによれば、織田信長勢はわずか700人たらずであり、それに対して織田信行(織田信勝)擁立派勢は柴田勝家が1,000人、林 秀貞(林 通勝)が700人の合計1,700人と織田信長勢の方が劣勢であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲生の戦いによれば一時は織田信長勢が柴田勝家隊の攻勢に苦戦する局面もあったとの由です。とは申せ、上記各情報源によれば、結果的には織田信長勢は、柴田勝家隊と林 秀貞(林 通勝)隊の各個撃破に成功して勝ち、織田信行(織田信勝)擁立派の方は林美作守(林 通具)が討ち死にした等の損害を被ったとの由であり、特に林美作守(林 通具)の討ち死にについては、信長の城pp.35-36,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 林通具によれば、織田信長が自(みずか)ら討ち取ったものであるとの由です。当方側部隊に倍する敵部隊を各個撃破したという戦いの経緯は、戦史(軍事史)の見地からは、第一次世界大戦における1914年8月17日〜9月2日のタンネンベルクの戦いと同様の経緯であろうと、当ホームページ管理人は考えます。天下人の父・織田信秀pp.180-181では、総大将自(みずか)らが合戦の先頭に立った織田信長勢と、総大将は城に残ったまま代理の武将に戦を任せた織田信行(織田信勝)擁立派とでは、戦闘力に差があった旨の分析も行われています。いずれにせよ、兵力差を、各個撃破作戦という頭脳と、敢闘精神という根性・精神力の両面で覆した合戦であったと言えると考えます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲生の戦いによれば、織田信行(織田信勝)擁立派は末森城末盛城)と那古野城に籠城して、それに対して織田信長は両城の城下を焼き払ったとの由です。天下人の父・織田信秀pp.181-182,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲生の戦いによれば、敗将と化した織田信行(織田信勝)は、織田信長 ・ 織田信行(織田信勝)共通の生母である土田御前の取り成しで助命されたとの由であり、柴田勝家隊と林 秀貞(林 通勝)織田信長に謝罪して助命されたとの由です。

  天下人の父・織田信秀pp.182-183,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信長,  織田信行,  柴田勝家によれば、末森城末盛城)城主・織田信行(織田信勝)は、上述した弘治2年8月24日(1556年9月27日)の稲生の戦い(いのうのたたかい)で致命的な損害を被ったにもかかわらず、織田弾正忠家(勝幡織田氏)家督相続争いでの勝利をまだ諦めていなかったとの由です。上記各情報源によれば、かつて織田弾正忠家(勝幡織田氏)を軍事的に支えた、その家老下社城(しもやしろじょう)城主の柴田勝家からも見限られた結果、弘治3年(1557年)に織田弾正忠家(勝幡織田氏)が再び謀反を起こそうとした時に、柴田勝家がそれを、清洲城城主・織田信長に通報したとの由です。上記各情報源によれば、織田信長は仮病を装って織田信行(織田信勝)清洲城に招き、見舞いに訪れた織田信行(織田信勝)を、弘治3年11月2日(1557年11月22日)に殺害したとの由です。織田信行(織田信勝)を斬った織田信長の家臣は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信長,  織田信行,  柴田勝家孫引きの信長公記解説によれば河尻秀隆であるとの由であり、異説・異伝としてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 織田信行孫引きの『甫庵信長記』によれば池田恒興らであるとの由です。

  その後、那古野城は一旦廃城になった模様ですが、具体的な廃城の時期は不明です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 那古野城2018年1月参照時点の記載内容によれば、前段落までで述べた時期の後、「やがて廃城となった」との由です。

当画面(名古屋城&那古野城跡訪問記)の解説欄,  感想欄,  写真(画像)欄の目次
解説 概要
詳細(1/2):那古野城 詳細(2/2):名古屋城
感想
写真(画像)
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詳細(2/2):名古屋城
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 清洲藩によれば、安土桃山時代末期の尾張国(現・愛知県の一部)は、尾張国 春日井郡 清洲(現・愛知県 清須市清洲町地域)の清洲城城主・福島正則が24万石で治めていましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功により、福島正則安芸国安芸郡沼田郡にまたがる広島(現・広島県 広島市 中区)の今日の住所では広島市中区基町21番1号の広島城公式HP,  解説,  地図)を藩庁とする広島藩(芸州藩) 福島家49万8000石に加増転封(移封)されたとの由です。同情報源によれば、福島正則の後には、関ヶ原の戦いで、上野国(こうずけのくに) 群馬郡 高崎(現・群馬県 高崎市中心部)の今日の住所で群馬県高崎市高松町1の高崎城解説,  地図)城主(関ヶ原の合戦時点)・井伊直政と共に抜け駆けの先陣を果たした上に、西軍の大名で日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう)城主の島津豊久を討ち取る武功を挙げた、武蔵国 豊島郡 江戸(現・東京都 23区の一部)の江戸城解説,  地図)城主・徳川家康の四男で、武蔵国 埼玉郡忍(おし;現・埼玉県 行田市中心部)の忍城(おしじょう)(跡地は現・行田市郷土博物館)(地図)城主(関ヶ原の合戦時点)の松平忠吉が、尾張国(現・愛知県の一部)に転封(移封)となり、清洲城を藩庁とする尾張 清洲藩 東条松平家62万石を立藩したとの由です。ところが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 松平忠吉,  清洲藩によれば、松平忠吉は、江戸時代初期の慶長12年3月5日(1607年4月1日)に、28歳の若さで嗣子が無いまま死亡してしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 清洲藩,  徳川義直によれば、松平忠吉の後継者として、甲斐国 山梨郡 甲府(現・山梨県 甲府市中心部)の今日の住所で山梨県甲府市丸の内1-5-4の甲府城(舞鶴城)解説,  地図,  城跡の一部で「山手御門」復元地は、山梨県甲府市北口2の甲府市歴史公園google検索結果,  地図))を藩庁とする甲斐 ・ 甲府藩25万石藩主で徳川家康の九男の徳川義直が、47万2344石で、清洲城を藩庁とする尾張 清洲藩に転封(移封)したとの由です。

  ロム・インターナショナル名古屋を古地図で歩く本 古代尾張から戦国期、尾張徳川まで“歴史の謎解き”めぐり河出書房新社KAWADE夢文庫,2016年08月10日)pp.26-28,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城,  清洲越し等によれば、清洲城とその城下町は水害に弱く、故に水攻めを行われたら守り辛いことや、摂津国 東成郡(ひがしなりぐん) 大坂(後の「大阪」)(現・大阪府 大阪市)の今日の中央区解説)の大坂城(大阪城)解説)(地図)城主・豊臣氏豊臣秀頼)に対抗する必要性があることの理由のため、江戸時代初期の慶長10年(1605年)に隠居して大御所として駿河国(するがのくに) 安倍郡 駿府(現・静岡県 静岡市 葵区の中心部)の駿府城解説,  地図)に住んでいた徳川家康は慶長14年(1609年)に、尾張 清洲藩 尾張徳川家の藩庁となる城と城下町を、後世の用語で申せば熱田台地に移すことを命じたとの由です。『前掲書』pp.27-28によれば、徳川家康は当初、「関東の巨鎮」と言われた立派な城郭であり、城下町も栄えていた清洲城尾張 清洲藩 尾張徳川家の藩庁として使用し続ける方針であったとの由ですが、山下氏勝による上述の理由での移転の進言を採用した結果、城下町ごとの城の移転を決めたとの由です。ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑JTBパブリッシング,2016年09月28日)pp.12-25,名古屋を古地図で歩く本 古代尾張から戦国期、尾張徳川まで“歴史の謎解き”めぐりpp.26-28,原島広至名古屋今昔散歩中経の文庫,2013年)pp.19-36,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城,  清洲越し等によれば、西国外様大名に命じて行わせた天下普請で慶長15年(1610年)に、「那古野(なごや)」の地名表記を「名古屋」に変更した上で、那古野城(なごやじょう)の跡地に名古屋城の築城を開始したとの由です。天下普請とは、外様大名の工事資金を費やさせて財政的に疲弊させることによって江戸幕府に謀反を起こし得る財務的な体力を失わせるために行われた工事です。工区ごとの外様大名の分担区域については、上記各情報源中、名古屋今昔散歩p.29の図でご参照いただけます。上記各情報源によれば、慶長17年(1612年)頃から、今日の愛知県 名古屋市 中区丸の内錦(にしき)の地域に碁盤割の町割の都市計画に基づいた城下町が整備されて移転が開始されたとの由です。上記各情報源によれば、移転は城だけにとどまらず、この町割の新城下町に、商家・民家・寺社も含めての城下町の町全体が、清洲城城下から名古屋城城下に移転したとの由です。この町ぐるみでの移転は、「清洲越し(きよすごし)」と呼ばれていますフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、徳川義直清洲城から名古屋城に移ったのは元和2年(1616年)のことであるとの由であり、この情報源には、町割開始年・慶長17年(1612年)頃からこの元和2年(1616年)までの期間が、「清洲越し」が行われた期間であろうとする推測が載っています。

  どうやら江戸時代の間に城下町の範囲は拡大して都市が成長した模様であり、今日の視点で幕末 ・ 明治維新期の時点で城下町であったと言える範囲は、当ホームページ管理人の個人的な私見も含めて申せば(∴ 誤りがあるかも知れない旨をお許しいただければ)、上記の名古屋市 中区丸の内錦(にしき)の範囲を超えて、愛知県 名古屋市 中区,  東区の一部,  北区の一部,  西区の一部であったであろうと推測します。この範囲の地域が、幕末 ・ 明治維新期の時点での尾張国 愛知郡 名古屋の範囲であると言えるのではないかと思います。そのように推測する理由は、今日、江戸時代の町並みの名残りが残る観光スポット/地域に名古屋市 東区文化のみち名古屋市 西区四間道(しけみち)があり、また、名古屋市 中区でも錦(にしき)よりも南側の大須は、江戸時代には既に繁栄していたからです。なお、今日の文化のみち江戸時代には武家屋敷街だった地域であるため、「清洲越し」の当初から町並みが既に存在していたであろうと推測可能ですので、商業地域(=町人居住区域)だけではなく武家屋敷街も城下町の範囲に含めれば、このエリアは城下町が拡大した訳では無く、当初から城下町の範囲であったと言えるのではないかと推測します。名古屋市 北区については、今日の住所で名古屋市 北区山田町3-25の山田天満宮名古屋城鬼門守護神として創建されたり、名古屋三天神の中の1社であったりする神社だからです。ただし、山田天満宮については、創建時の地名が「尾張国 春日井郡山田郷」と「郷」が付く地名であったため、創建時には城下ではなく城下町近郊農村地域であった可能性も否定はできず、かつ、名古屋三天神の呼称が江戸時代に既にあった旨を確認した上での話ではありません。したがって、江戸時代に既に名古屋城の城下の範囲内に今日の名古屋市 北区の一部が含まれていると、十分な確認・検証を行った上での話ではなく、2018年1月時点での当ホームページ管理人の推測の域を出ません(検証不足で、申し訳ありません)。

  上述のとおり、名古屋城に移転したため、尾張 清洲藩尾張藩もしくは尾張 名古屋藩と呼ばれる藩になりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 尾張藩によれば、尾張藩 尾張徳川家は当初の47万2344石から徐々に加増されてゆき、徳川御三家筆頭の藩であったため、紀州徳川家との格差を付けるために寛文11年(1671年)に61万9500石で知行高が確定したとの由です。以降、幕末 ・ 明治維新期に至るまで、尾張藩 尾張徳川家61万9500石は存続できました

  名古屋城「金鯱(きんしゃち)」こと「金の鯱(きんのしゃちほこ)」で知られています。名古屋今昔散歩pp.23-25によれば、金鯱はかつては他の城にもあったとの由ですが、火災等で失われたため江戸時代中期以降は残っていたのは名古屋城だけになったとの由であり、その結果、「金鯱と言えば名古屋城」という状況が生じたとの由です。『前掲書』pp.23-25によれば、江戸時代の享保15年(1730年)以降、太平洋戦争における昭和20年(1945年)5月14日の空襲で焼失するまでの期間、金鯱には金網がかかっていたとの由です。同情報源によれば、金網がかかっていた理由は建前上、公式には「鳥が巣を作ったりついばんだりする害を防ぐため」でしたが、江戸時代尾張藩の財政事情が悪化する度に金鯱を改鋳した事実があったため、「改鋳の結果で輝きが鈍ったことを隠すための金網である」とか、或いは、「財政難対応で金鯱の金のうろこを削って薄くなったために風で飛ばされることを防ぐためである」とか、噂されたとの由です。

  江戸時代幕末 ・ 明治維新以前の歴代尾張藩尾張 名古屋藩)藩主の中で、特に有名な人物は、第7代藩主の徳川宗春(元禄9年10月28日(1696年11月22日)〜明和元年10月8日(1764年11月1日))です。徳川宗春は、名古屋を古地図で歩く本 古代尾張から戦国期、尾張徳川まで“歴史の謎解き”めぐりpp.128-130,ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑JTBパブリッシング,2016年09月28日)pp.-26-28等にも載っているとおり、江戸城解説,  地図)城主で江戸幕府第8代征夷大将軍徳川吉宗(貞享元年10月21日(1684年11月27日)〜寛延4年6月20日(1751年7月12日))が進めた享保の改革による緊縮財政政策とは逆路線の開放政策・規制緩和を進めた殿様として、経済政策史上、名前が残っています。しかし、徳川宗春のこのような政策は江戸幕府の当時の制作に逆らうものであったため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 徳川宗春によれば、元文4年1月11日(1739年2月18日)に、下総国(しもうさのくに) 印旛郡(いんばぐん) 佐倉(現・千葉県 佐倉市中心部)の佐倉城解説,  地図)を藩庁とする下総 佐倉藩 大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)6万石初代藩主(兼)大給松平家宗家10代当主で、江戸幕府 老中松平乗邑(まつだいら のりさと)から蟄居謹慎の内命を受けた結果、名古屋城 三の丸の屋敷に隠居謹慎させられてしまったとの由です。

  幕末 ・ 明治維新期の尾張藩尾張 名古屋藩)の動向については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 徳川慶勝によれば、尾張藩尾張 名古屋藩)第14代藩主で名古屋城城主の徳川慶勝尊皇攘夷派であったため、安政5年(1858年)〜安政6年(1859年)の安政の大獄で隠居謹慎を命じられて、弟の徳川茂徳が第15代藩主になったとの由です。同情報源によれば、その後、元治元年(1864年)に徳川茂徳が隠居して、徳川慶勝の実子(三男)で徳川茂徳の養子の徳川義宜(とくがわ よしのり)が第16代藩主に就任すると、徳川慶勝はその後見人として尾張藩尾張 名古屋藩)の実験を握ったとの由です。同情報源によれば、元治元年(1864年)の第一次長州征討(長州征伐)の際には、江戸幕府側の征討軍総督は徳川慶勝であり、征討軍大参謀は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の鶴丸城(鹿児島城)を藩庁とする薩摩藩藩士・西郷吉之助(西郷隆盛)であった(注)との由です。同情報源によれば、慶応2年(1866年)の第二次長州征討(長州征伐)の際には、徳川慶勝は再征に反対して、弟で尾張藩尾張 名古屋藩)前藩主の徳川茂徳に征長総督就任を拒否させて、(自(みずか)らは)上洛して御所警衛の任に就いたとの由です。
(注) 後年、討幕側の主力藩と化す薩摩藩には討幕派のイメージが強いですが、実は、討幕に転じる以前の時期には、皇族・公家から迎えることが基本方針だった徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)を、例外的に武家から輩出した唯一の、しかも2回にわたって輩出した藩と化していたため、幕閣には加われない外様大名であるとは申せ、幕末期の薩摩藩江戸幕府から見れば、今日の用語で例えれば「閣外協力与党」のような存在の藩でした。誤解を避けるべく念のため。ただし、大名が外戚化して権力を濫用する弊害を防止するために武家から徳川将軍家御台所を迎えてはいけない建前は崩せない旨の理由により、薩摩藩藩主・島津家出身の徳川将軍家御台所は2回共、「公家の五摂家の中の1家の近衛家の養女に一旦なった上で、近衛家から嫁ぐ」旨の体裁(ていさい)を採っていました。近衛家は、かつて平安時代末期〜鎌倉時代初期の時期に、島津氏宗家初代当主・島津忠久公が鎌倉幕府 御家人になる以前の元々の惟宗氏島津氏にとっての主家であったために、それ以降も数百年に渡って島津氏とは深い関係があった家である家です。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 徳川慶勝によれば、慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還の時には、当時、尾張藩尾張 名古屋藩)元藩主(名古屋城元城主)だった第14代藩主の徳川慶勝は新政府の議定に任ぜられ、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の小御所会議江戸幕府第15代征夷大将軍徳川将軍家(徳川宗家)第15代当主)で江戸城解説,  地図)城主の徳川慶喜に辞官納地を催告することが決まると、徳川慶勝は通告役になったとの由です。同情報源によれば、明治元年/慶応4年1月3日(1868年1月27日)〜同年6日(1868年1月30日)の鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜摂津国 東成郡(ひがしなりぐん) 大坂(後の「大阪」)(現・大阪府 大阪市)から軍艦で武蔵国 豊島郡 江戸(現・東京都 23区の一部)に逃亡した後、尾張藩尾張 名古屋藩)元藩主(名古屋城元城主)・徳川慶勝は新政府を代表して大坂城(大阪城)解説)(地図)を受け取ったとの由です。同情報源、ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 青松葉事件によれば、そのうち、尾張藩尾張 名古屋藩)内で倒幕派と佐幕派の対立が激化した旨の知らせを受けて尾張国(現・愛知県の一部)に戻り、慶応4年(1868年)1月20日(1868年2月13日)~〜同年1月25日(1868年2月18日)に藩内の佐幕派を弾圧して藩論を討幕に統一したとの由であり、この事件は青松葉事件(あおまつばじけん)と呼ばれています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 徳川慶勝によれば、尾張国(現・愛知県の一部)から武蔵国 豊島郡 江戸(現・東京都 23区の一部)までの間の諸大名や寺社仏閣に使者を送って新政府側に付くよう説得して、500近くの誓約書(勤王誘引書類)を取り付けたとの由であり、この結果、新政府軍は大きな抵抗を受けることなく江戸まで到達できたとの由です。同情報源によれば、その後、御三卿の中の1家・一橋徳川家第10代当主に転じていた尾張藩尾張 名古屋藩)前当主・徳川茂栄(とくがわ もちはる,旧名:徳川茂徳)に手紙を送って、陸奥国 会津郡 若松(わかまつ;現・福島県 会津若松市中心部)の若松城(鶴ヶ城)解説,  地図)城主で陸奥 会津藩藩主の松平容保(まつだいら かたもり),  伊勢国 桑名郡 桑名(くわな;現・三重県 桑名市中心部)の桑名城(現・九華公園解説),  地図)城主で伊勢 桑名藩藩主の松平定敬(まつだいら さだあき)の弟2人の助命嘆願にあたらせたとの由です。徳川慶勝,  徳川茂栄(旧名:徳川茂徳),  松平容保,  松平定敬の兄弟4人は、美濃国 石津郡 高須(たかす;現・岐阜県 海津市海津町高須)の高須陣屋(たかすじんや)(跡地の一部は現・岐阜県海津市海津町高須町11-1の岐阜県立海津明誠高等学校海津校舎(地図),  陣屋の一部が再現されている場所は岐阜県海津市海津町萱野205-1の海津市歴史民俗資料館解説,  地図))を藩庁とする高須藩 尾張 松平家(高須松平家)3万石の第10代藩主・松平義建(まつだいら よしたつ)の10名の子供の中の内、佐幕派、討幕派と立場は異なれど幕末 ・ 明治維新期に活躍した4名であり、故に「高須四兄弟」と呼ばれています。

  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 御連枝によれば、高須藩尾張松平家(高須松平家)は、尾張藩(尾張名古屋藩) 尾張徳川家から分かれた松平氏の家であり、こにょうな家系を、「尾張徳川家の「御連枝」と呼ぶとの由です。同情報源によれば、御連枝は、分かれる前の家系(=尾張松平家(高須松平家)にとっては、尾張徳川家)の家系が絶えたときに、その家の養子に入って跡を継ぐための家系であるとの由であり、「『徳川将軍家にとっての徳川御三家御三卿』の徳川御三家版」と言える家系であることになります。したがって、前段落で述べた、「徳川慶勝徳川茂徳等の尾張藩(尾張名古屋藩) 尾張徳川家当主(藩主)として、高須藩尾張松平家(高須松平家)藩主・松平義建の子が養子に入った」旨は、尾張松平家(高須松平家)が尾張徳川家御連枝であるが故に行われた養子縁組であることになります。ただし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 松平義建,ならびに松平義和によれば、高須四兄弟の祖父である高須藩尾張松平家(高須松平家)3万石第9代藩主・松平義和(まつだいら よしなり)は、徳川御三家の中の1家で、常陸国 茨城郡 水戸(現・茨城県 水戸市中心部)の水戸城解説,  地図)を藩庁とする水戸藩 水戸徳川家35万石の第6代藩主・徳川治保(とくがわ はるもり)の子であるとの由ですので、その子孫である徳川慶勝,  徳川茂栄(旧名:徳川茂徳)兄弟は、尾張藩(尾張名古屋藩) 尾張徳川家の藩主ではありますが、父系では水戸徳川家の血統であることになります。もっとも、尾張徳川家であれ水戸徳川家であれ、江戸城解説,  地図)城主で江戸幕府初代征夷大将軍だった徳川家康の子孫である以上、性染色体の見地からは同一のY染色体を継承している点に相違はありません。

  慶応3年(1867年)の明治維新後、名古屋城は、物理的には存続しましたが、尾張藩尾張 名古屋藩)の藩庁ではなくなったという機能上の意味で廃城になりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 廃藩置県によれば、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県よりも以前に、尾張藩尾張 名古屋藩)第14代藩主・徳川慶勝は統一国家を目指すために、廃藩置県実行以前に自ら政府に廃藩を願い出ていたとの由であることもあり、具体的な「廃城=藩庁としての機能の停止」の時期を当ホームページ管理人は存じ上げませんが、遅くとも廃藩置県の時点では「廃城=藩庁としての機能の停止」になった筈(はず)です。この過程で、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば明治3年(1870年)に、徳川慶勝名古屋城の破却と金鯱(きんしゃち)の提供を明治新政府に申し出たとの由です。申し出た人物が県令ではなく徳川慶勝であるため、この申し出は明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県より以前のことであろうと推測します。名古屋今昔散歩pp.23-25,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば明治4年(1871年)に金鯱は明治新政府に献上されたとの由であり、溶かされる予定と化したとの由ですが、駐日ドイツ公使・マックス・フォン・ブラント(マクシミリアン・アウグスト・スキピオ・フォン・ブラント(Maximilian August Scipio von Brandt))大日本帝国陸軍中村重遠(中村進一郎) 工兵大佐の進言により、明治12年(1879年)12月、山縣有朋が保存を決定したことにより、名古屋城も金鯱も保存されることになったとの由です。『前掲書』pp.23-25,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、保存決定に先立つ明治5年(1872年)の湯島聖堂博覧会に金鯱は出品され、その後、雄鯱は国内各地で開催された博覧会、雌鯱は明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に出品されたため、雄雌揃って金鯱が名古屋城の天守閣に戻って来たのは、明治12年(1879年)2月のことであるとの由です。

  名古屋今昔散歩pp.19-34,ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑p.13,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城,  名古屋大空襲等によれば、昭和14年(1939年)〜昭和20年(1945年)の第二次世界大戦(我が国では特に、昭和16年(1941年)〜昭和20年(1945年)の太平洋戦争)以前には、天守閣等の旧国宝24棟をはじめとして、多数の建造物が名古屋城に残っていたとの由ですが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で、残念ながら名古屋城天守閣や本丸御殿をはじめ、多くの建物が焼失してしまったとの由です。名古屋今昔散歩p.21,ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.14-15,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、2018年1月現在でも残る名古屋城の昔からの建物は、西南隅(本丸未申隅)(地図),東南隅(本丸辰巳隅)(地図),西北隅(御深井丸戌亥隅,清州)(地図),表二之門(本丸南二之門)(地図),二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)(地図),旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門)(地図)の6棟であるとの由であり、いずれも重要文化財であるとの由です。

  名古屋今昔散歩p.25,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、2018年1月現在名古屋城天守閣地図)は、昭和34年(1959年)10月1日竣工で、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)で再建されたものであるとの由です。名古屋今昔散歩p.25によれば、昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼け落ちた金鯱(きんしゃち)の残骸からは金の茶釜が作られたとの由であり、したがって、2018年1月現在の再建天守閣の金鯱は、オリジナルの金鯱とは別に作られたものになるとの由です。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 日本100名城によれば、名古屋城は、日本100名城の中の1城であるとの由です

  ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑p.12,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城等によれば、2018年1月現在名古屋城天守閣を木造で建築し直す構想があります(ので、将来は木造再建天守閣ができる可能性があります)。ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.16-25,本丸御殿地図)前の案内掲示板,  名古屋城公式WEBサイト ・ (本丸御殿)復元計画リンク先URLは2018年1月現在。もしも将来リンク切れになったら、名古屋城公式WEBサイト上のキーワード「本丸御殿+復元+工事」のgoogle検索結果,もしくは上のキーワード「本丸御殿+復元」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼けた本丸御殿(地図)についても、平成21年(2009年)1月19日着工で木造再建工事が行われて、工事の進捗・完成状況に応じて、平成25年(2013年)5月29日から玄関と表書院(謁見(えっけん)の場所)が、平成28年(2016年)6月1日から、対面所と下御膳所の公開が始まったとの由です。同情報源によれば、平成29年度(2017年度)に本丸御殿全体の工事が完了して、平成30年度(2018年度)6月8日から本丸御殿全体の公開が始まる予定であるとの由です。本丸御殿については、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.16-25に絵図面付きで詳しい解説・案内が載っています。

  NHK公式WEBサイト ・ 「ブラタモリ」番組公式ホームページ ・ タモリのブラブラ足跡マップ「#75 名古屋 〜尾張名古屋は 家康でもつ?〜」によれば(リンク先URLは2017年11月現在。将来もしもリンク切れになったら、NHK「ブラタモリ」番組公式ホームページ上のキーワード「名古屋」のgoogle検索結果でお探し下さい)、名古屋城は、平成29年(2017年)6月10日(土)に放送されたNHK解説の番組「ブラタモリ番組公式HP,  解説」でタモリさんが歩いた場所であるとの由です(実際に放送された番組の中でもそうでした)。同情報源によれば、タモリさんは名古屋城では、以下の各場所を巡ったとの由です。
○   正門地図
○   実物大の金のシャチホコ地図
○   尾張名古屋は家康でもつ?地図
○   天守(を眺められる所)地図
○   搦手 馬出(からめてうまだし)へ地図
○   搦手馬出の石垣地図
○   搦手馬出の立地地図


  名古屋城については、その外についても、平成29年(2017年)11月18日(土)に放送されたNHK解説の番組「ブラタモリ番組公式HP,  解説で紹介されました。外は、かつての城郭遺構としては名古屋城の一部ではありますが、今日の観光スポットとしては名古屋城との間に官庁街等があり、同一の観光スポットではなくなっていますので、当欄では紹介せずに、当ホームページ内のテレビ番組「ブラタモリ」で放送された堀とものづくり欄で紹介することにいたします。
→   (当HP内の)テレビ番組「ブラタモリ」で放送された堀とものづくり欄へ


  名古屋城公式ホームページ ・ 金シャチ横丁について2018年1月参照時時点の記載内容によれば(リンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、名古屋城公式ホームページ上のキーワード「金シャチ横丁」のgoogle検索結果でお探し下さい)、平成30年(2018年)3月29日には、併設して新たなグルメ&ショッピング・スポットの金シャチ横丁もオープンする予定です。また、名古屋城の内堀の北側は、名古屋市 北区の都市公園・名城公園になっており、その中には名城公園フラワープラザ等の施設があります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名城公園等によれば、行政上の定義では、内堀の南側の名古屋市 中区名古屋城も含めて名城公園であるとの由ですが、入場料が必要な内堀の南側の名古屋城に対して、内堀の北側の名古屋市 北区は入場料無料の都市公園であり、一体化した公園であるとの認識が得られにくいため、この内堀よりも北側の地域だけが名城公園と認識される場合が多いとの由です。
→   ○   (当HP内の)金シャチ横丁紹介欄
○   (当HP内の)名城公園,  名城公園フラワープラザ紹介欄へ


  名古屋城那古野城(なごやじょう)跡は、名古屋市 中区丸の内 & 三の丸+α地域にあります。
→   (当HP内の)丸の内 & 三の丸+α地域紹介欄の先頭


  近世城郭遺構としては、鹿児島県 鹿児島市鶴丸城跡(鹿児島城跡)もお勧めです。また、鹿児島県をはじめとする九州の中世城郭遺構は、(当HP内の)鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城ページ(画面)で、お調べいただけます。
→   ○   (当HP内の)鶴丸城跡(鹿児島城跡)訪問記
○   (当HP内の)鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城ページ(画面)


当画面(名古屋城&那古野城跡訪問記)の解説欄,  感想欄,  写真(画像)欄の目次
解説 概要
詳細(1/2):那古野城 詳細(2/2):名古屋城
感想
写真(画像)
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隣接する観光スポット  : 
当HP・温泉天国・鹿児島温泉紹介!名古屋市・愛知県内及び近県の当HPの訪問記&入湯記
地域 訪問or体験した観光地orスポット
名古屋市 中区 名古屋城&那古野城跡
名古屋市 千種区 覚王山日泰寺
名古屋市 千種区 末森城址(末盛城址)&城山八幡宮
上記以外の名古屋市,愛知県ならびに隣県の温泉ならびに観光スポットは、当HP内の名古屋&愛知県&隣県の温泉(+スーパー銭湯)&観光案内ご参照



鹿児島県の中世〜近世史関連観光スポット訪問記

 : 
鹿児島県内の中世〜近世史観光スポット訪問記
(寺社仏閣,幕末維新期以外,ただし、島津氏菩提寺と薩摩義士関連の寺院は含む)
カテゴリー 地域 訪問 or 入湯したスポット
城,
武家屋敷
鹿児島市 鶴丸城(鹿児島城)
東福寺城址(多賀山公園)
姶良市 加治木島津館跡(加治木護国神社)
知覧 知覧武家屋敷群
日置市 一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)
出水市 出水麓武家屋敷群
博物館 鹿児島市 尚古集成館
島津斉彬公による集成館事業の産業遺産(兼)建築遺産の建物内の歴史博物館)
鹿児島県歴史資料センター黎明館
示現流兵法所史料館(示現流史料館)
指宿市 岩崎美術館・工芸館
指宿いわさきホテル併設の美術館・工芸館です。工芸館棟では、里帰りの古薩摩(薩摩焼)や、藩政期民俗資料として、旧薩摩藩領独特の道祖神と言える田の神(タノカンサァ)が展示されています。)
指宿白水館
(当HP管理人入湯時に温泉旅館内ギャラリーで展示されていた莫大なコレクションを展示する博物館として、後日2008年、併設の薩摩伝承館がオープンしました。)
知覧 ミュージアム知覧(南九州市立博物館)
(中世の知覧城遺跡関連の展示博物館)
いちき串木野市 薩摩金山蔵
(芋焼酎醸造元見学(兼)藩政期以来の串木野金山産業遺産
霧島市 霧島市立隼人歴史民俗資料館
(中世〜近世では、大隅国一の宮・鹿児島神宮関連文書,民具,郷土芸能に関する資料が展示されています。)
薩摩川内市 川内歴史資料館
川内戦国村
(鹿児島県の歴史を紹介するテーマパーク(兼)博物館)
建築遺産 鹿児島市 石橋記念公園・石橋記念館(祇園之洲公園)
その他、島津氏,  薩摩藩関連 鹿児島市 島津家別邸:名勝 仙巌園(磯庭園)
福昌寺跡(島津家墓地)
薩摩義士碑
平田公園(平田靱負屋敷跡&平田靱負銅像)
大中寺(薩摩義士の墓)
指宿温泉 二月田温泉殿様湯
薩摩藩主の温泉別荘跡の立ち寄り湯)
霧島温泉 栄之尾(えのお)温泉(霧島いわさきホテル)
姶良市 長年寺跡と島津墓地・亀墓
加治木島津氏の墓)
日置市 妙円寺
島津義弘公菩提寺で、妙円寺詣り発祥の禅寺)
雪窓院跡&島津義久公剃髪石(座禅石)
薩摩川内市 泰平寺
豊臣秀吉による九州征伐の際に、島津義久が降伏して和睦を申し入れた寺)
出水市 感応寺(感応禅寺)
島津氏最初の5代の墓があります。近隣には木牟礼城跡野田郷武家屋敷通り出水市野田史料館もあり、肥薩おれんじ鉄道で行けます。)
その他 鹿児島の観光スポット訪問記については、当ページ(当画面)内の観光地訪問記一覧,  温泉入湯記一覧に目次があります。



感想  :    私(当ホームページ管理人)は、かつて、平成19年(2007年)8月〜平成23年(2011年)7月に転勤で赴任して名古屋市に住んでいたため、名古屋市は、私にとっては大切な第2の故郷の中の1つです。名古屋っ子にとって街のシンボルとも言えるスポットの中の1つは、金鯱(きんしゃち)の城・名古屋城ではないかと思いますが、私も(第1の故郷ではなくても第2の故郷として)名古屋っ子のはしくれとして名古屋城が大好きであり、名古屋市在住時代の平成20年(2008年)3月29日 (土)に、最初に名古屋城を訪れました名古屋城は地元では桜の名所としても知られており、最初に訪れた時も桜の花見と兼ねて見に行き、城と桜を共に楽しめて、とても綺麗で感動しました。もう1つの第2の故郷・鹿児島県 鹿児島市でも鶴丸城鹿児島城)は桜の名所ですので、かつての近世城郭の跡地が桜の名所だというのは、よくある話なのではないかと、思いました。
→   ○   【カミタク・ブログ】2008年3月29日 (土)日記記事「名古屋城の桜が綺麗です」
○   (当HP内の)鶴丸城鹿児島城訪問記へ


  私が名古屋城を訪れた2度目の機会は、私が平成23年(2011年)8月に転勤で名古屋市から東京都に転勤になり、第1の故郷・横浜に戻って来てから後のことです。学部学生時代の大学の私の母校・慶應義塾大学商学部の頃の親友達が名古屋市をはじめ、静岡県 浜松市も含む東海地方に住んでいたり生まれ故郷だったり、或いは、かつて私と同様に転勤で住んだことがあったりしてこの地域にご縁がある人が多いため、かつては東京都で行っていたその仲間での忘年会/新年会を、近年では毎年、名古屋市で行っております。このため、この仲間での平成28年(2016年)の新年会も名古屋市で行ったため、その機会に、その仲間の中の1人と一緒に、平成28年(2016年)1月11日(月・祝)に名古屋城を訪れたものです。前回、名古屋城を平成20年(2008年)3月29日 (土)に訪れた際にはまだできていなかった本丸御殿が、一部復元工事が終わっていて公開されていたので見ることができ、べらぼうに感激しました。

  ところで、熊本県 熊本市 中央区熊本城でも平成19年(2007年)に築城400年を機会に本丸御殿が復元されています。私の2回目の名古屋城訪問の前年・平成27年(2015年)9月3日に、本丸御殿も含めて熊本城を見て来ました。丁度、熊本城の本丸御殿を見た翌年1月に名古屋城の本丸御殿を見た私にとっては、名城(注1)を抱える都市では、「本丸御殿の復元」という同じようなことを試みるているのだという感想を、抱きました。残念ながら、私が熊本城を訪れた翌年、名古屋城を2度目に訪れた約3ヶ月後に起きた平成28年(2016年)4月14日の最大震度7の熊本地震で、熊本城は被災し、極めて甚大な被害を被ってしまいました。元名古屋市民として、名古屋っ子にとっての名古屋城の存在感が「理屈抜きの皮膚感覚」で分かる私としては、熊本城の被災が熊本市民にとってどれ程悲しかったかということが、まるで我が事のように類推的によく分かります。もしも万一、名古屋城が被災したり、石垣しか残っていない(注2)とは申せ鶴丸城鹿児島城)が被災したりしたら、第1の故郷ではなく第2の故郷であるとは申せ、名古屋っ子や鹿児島っ子である自分にとってはどれだけ悲しいであろうと思うと、熊本城の被災に対する熊本市民が受けた悲しみは、とても他人事とは思えません。このため、この場をお借りして、熊本市民の皆様には、心中お察し申し上げますと、心から申し上げます。
(注1) 愛知県 名古屋市では、「名城(めいじょう)」の語には「名古屋城の略称(兼)愛称」の意味がありますが、ここでの「名城(めいじょう)」はこの意味ではなく、「名高い城」の意味で用いました。名古屋城の場合には、その略称が「名城」なだけにとどまらず、「名高い城」という意味でも「名城」ですので、べらぼうに紛らわしくて、まるで「駄洒落」のようにも思えます。何はともあれ、名古屋城が「名高い城」という意味でも「名城」であることは、元名古屋市民である私にとっては、べらぼうにありがたいことです。
(注2) 鹿児島県ホームページ(鹿児島県庁) ・ 鶴丸城御楼門建設工事の請負契約締結についてリンク先URLは2018年1月現在。将来もしもリンク切れになったら、鹿児島県ホームページ上のキーワード「」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに鹿児島・鶴丸城 御楼門-ごろうもん(鶴丸城御楼門復元実行委員会)によれば(リンク先URLは2018年1月現在)2018年1月現在、平成29年(2017年)9月28日〜2020年3月31日を工期として、鶴丸城鹿児島城)の「御楼門」の復元工事が行われるとの由です。したがって、「鶴丸城鹿児島城)には石垣しか残っていない」旨は2017年時点の状況であり、将来、御楼門が復元された状況になる見込みです。


  見たテレビ番組が何か具体的には失念してしまいましたが、或る日見たテレビ番組で、外国からの観光客にとっては、名古屋城は、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の復元天守閣であるため、興味の対象である状況を取材したテレビ番組を見たことがあります。解説欄で上述したとおり、名古屋城の元々の木造天守閣は、近現代になってもしばらくは残っていたのですが、残念ながら、太平洋戦争の過程での昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまったという経緯があります。このような事情に鑑(かんが)みれば、天守閣がコンクリート製復元である点についてはご容赦いただきたいところではありますが、ご来訪下さる観光客にとっては「こちら側の事情」を斟酌しなければならないような義務も無ければ義理も無いため、残念ながら、どう感じるかについての権利はご来訪者側にあります。実証的に検証した上での話ではありませんが、検証するまでもなく先験的に明らかな推測を申せば、日本を訪れる外国からの御来訪客は、一定の確率で日本文化に興味を持って下さっている場合が多いであろうと推測可能であるため、「日本建築だと思って尋ねたら、実は現代建築と同じ鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)だった」というのは興醒めてしまうのであろうと、推測します。

  前段落で述べた点については、解説欄で上述したとおり、2018年1月現在名古屋城 天守閣には木造再建の予定がありますので、木造再建されたら、お楽しみいただけるようになる予定です。また、天守閣よりも前に、本丸御殿の木造再建工事は着々と進んでおりますので、日本建築の様子については、本丸御殿でもご堪能いただきたいと思います。なお、木造で再建された天守閣の事例としては、かつての遠江国 佐野郡 掛川(かけがわ)、今日の住所では静岡県 掛川市掛川1138-24の掛川城(別名:雲霧城くもきりじょう),  解説,  地図)の天守閣が、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 掛川城によれば、平成6年(1994年)4月に木造で再建されたとの由です。なお、掛川城関連の観光スポットには、掛川城再建木造天守閣だけでなく、掛川城御殿(ニの丸御殿)地図),  静岡県掛川市城下27の大手門地図)も、あります。これらの掛川城関連の観光スポットには、名古屋城 天守閣には木造再建プロジェクトの先行事例を見てみたかったので既に「訪問取材」済みですが、2018年1月現在、まだ当ホームページ(温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面はリンク先))に未掲載ですので、いずれ将来、訪問記を載せる予定です。
→   ○   【楽天トラベル・たびノート】掛川城
○   【楽天トラベル・たびノート】掛川城御殿
○   【楽天トラベル・たびノート】大手門
(即ち、掛川城の大手門


  また、当画面(当ページ)上方の解説欄で前述したとおり、名古屋城でも現存して重要文化財に指定されている古い建築物として、西南隅(本丸未申隅地図),東南隅(本丸辰巳隅地図),西北隅(御深井丸戌亥隅,清州地図),表二之門(本丸南二之門)地図),二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)地図),旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門)地図)の6棟があります。したがって、各等のように2018年1月現在、中には入れない建物の場合でも外からは眺められますので、、外国からご来訪された観光客の方の内、古い日本建築で日本文化を堪能されたい方は、この6棟の重要文化財をお楽しみいただきたいと思います。現存する隅(すみやぐら)は、日本を代表する巨大な城・名古屋城だからこそ隅ですが、規模の小さな城であれば天守閣になっていることがあり得る程の建物だと思います。

当画面(名古屋城&那古野城跡訪問記)の解説欄,  感想欄,  写真(画像)欄の目次
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当HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」を紹介する本  : 
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   共著:高知工科大学大学院起業家コース著『木の葉、売ります。ベンチャーに見る日本再生へのヒント 』((株)ケー・ユー・ティー発行,丸善発売,2006年12月10日),\1,575−.





写真(画像)


名古屋城天守閣です。2008年3月訪問時に撮影したものです。




これも名古屋城天守閣です。2008年3月訪問時に撮影したものです。




名古屋城天守閣上の「金鯱(きんしゃち)」こと「金の鯱(きんのしゃちほこ)」です。2016年1月訪問時に撮影したものです。




名古屋城天守閣が、太平洋戦争の過程での昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまった時の写真が、博物館機能を有する2016年1月訪問時時点鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)復元天守閣に展示されていました。元名古屋市民である私(当ホームページ管理人)にとっては、べらぼうに悲しく、残念な写真です。




名古屋城天守閣が、太平洋戦争の過程での昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまった後、焼け落ちた「金鯱(きんしゃち)」を溶かして作った茶釜のレプリカ(複製)が、博物館機能を有する2016年1月訪問時時点鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)復元天守閣に展示されていました。




名古屋城「金鯱(きんしゃち)」のレプリカ(複製品)が、博物館機能を有する2008年3月訪問時時点鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)復元天守閣に展示されていました。




名古屋城の博物館機能を有する2008年3月訪問時時点鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)復元天守閣に、薩摩義士中のリーダーだった人物である、薩摩藩薩摩 鹿児島藩島津家77万石の家老 ・ 平田靱負正輔像の写真が、展示されていました。
  薩摩義士とは、江戸時代の宝暦4年(1754年)〜宝暦5年(1755年)に、江戸幕府が命じた手伝普請のために、薩摩藩木曽三川木曽川,  長良川,  揖斐川)の治水工事を行った際に、その工事は、内容・規模だけにとどまらず、工事の進め方に対して行われる差し出口の介入まで含めてべらぼうに過酷だったため、工事に従事した薩摩藩士の中で病死したり抗議の自殺をしたりする者が相次ぎ、工事完成後に、財政上も失われた人命上も多大な負担を薩摩藩に掛けざるを得なかった責任を取って、責任者・平田靱負が自殺した(注:「実は病死」説も有り)という宝暦治水事件が起き、この事件で犠牲になった薩摩藩士のことを指す言葉です。悲劇的な犠牲者が出たことで、治水工事が完成して木曽三川下流域の人々が救われたため、宝暦治水事件の犠牲者の薩摩藩士達は、薩摩義士と呼ばれるようになりました。宝暦治水事件の犠牲者は、後世の用語で申せば労働災害に該当する工事中の事故死が難工事にもかかわらずゼロであったのに84名もの死者が出て、さらにその内訳が、抗議の割腹自殺者数が52名(51名説もあり)と病死者数を上回るという、異常な状況での犠牲者でした。
  後世の今日、岐阜県鹿児島県が姉妹県であり、岐阜県 大垣市鹿児島県 鹿児島市,ならびに岐阜県 海津市平成の大合併以前は旧海津郡 海津町)と鹿児島県 霧島市(平成の大合併以前は旧国分市(こくぶし))が姉妹都市である理由は、この宝暦治水事件のご縁によるものであり、今日の岐阜県 海津市地域中、平成の大合併以前の平成17年(2005年)3月27日までの旧海津郡 平田町の町名は、上記の平田靱負に由来するものです。今日でも、東海地方、特に中京圏に移住した鹿児島県人は、例えば岐阜県 海津市治水神社,  千本松原(油島千本松締切堤),  国営木曽三川公園・木曽三川公園センター,  薩摩義士の墓がある三重県 桑名市曹洞宗 ・ 法性山海蔵寺,  浄土真宗 ・ 常音寺等の、中京圏薩摩義士ゆかりの地を訪問することが多いです。当ホームページ管理人も、「生まれ故郷ではなく第2の故郷」ではあるとは申せ、元鹿児島県民たる鹿児島県人のはしくれとして、平成19年(2007年)8月〜平成23年(2011年)7月に愛知県 名古屋市に転勤で住んでいた時期中の平成22(2010)年4月25日(日)に、愛知鹿児島県人会の一員として、治水神社春季例祭(薩摩義士慰霊祭)に参拝し、その際に併せて故人単独行動で上記の各薩摩義士ゆかりの地を訪問しました。
  このように薩摩義士に対して思い入れがあったため、名古屋城2008年3月訪問時時点鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)復元天守閣に、平田靱負正輔像の写真が展示されていたことをありがたく思い、思わず感激して、左記の写真を撮影した次第です。なお、鹿児島県 鹿児島市薩摩義士関連の観光スポットには、薩摩義士碑,  曹洞宗 松原山大中寺(薩摩義士の墓),  平田公園(平田靱負屋敷跡&平田靱負銅像)が、あります。




名古屋城天守閣の最上階から眺めた名古屋市庁舎名古屋市役所本庁舎)です。2016年1月訪問時に撮影したものです。




名古屋城天守閣の最上階から眺めた、名古屋駅(略称:名駅(めいえき))周辺の高層ビル群です。2016年1月訪問時に撮影したものです。




これも名古屋城天守閣の最上階から眺めた、北方の風景です。写真の奥に見える山上の建物は、「恐らくは」というただし書きが付きますが、恐らくは、愛知県 小牧市史跡小牧山公園にある、小牧城跡小牧山城跡)の小牧市歴史館の建物であろうと推測します。2016年1月訪問時に撮影したものです。




2008年3月に名古屋城を訪問した時には、桜の花が綺麗でした。




これも、2008年3月に名古屋城を訪問した時の、桜の花の写真です。




どの櫓(ろ,やぐら)であるかは失念してしまいましたので「恐らく」ベースの推測となり恐縮ですが、周辺の建物(「この場所には建物が無い」という情報も含む)との相対的な位置関係を、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑JTBパブリッシング,2016年09月28日)pp.14-15掲載の名古屋城地図で照合して推測すれば恐らくは、左記は、名古屋城西南隅(せいなんすみやぐら,別名:本丸未申隅(ほんまるひつじさるすみやぐら),地図)の写真であろうと思います(ただし、西南隅地図)は東南隅地図)とそっくりですので、もしかしたら間違っているかも知れません。悪しからずご容赦下さい)。同書p.14によれば、西南隅地図)は、焼失前の旧木造天守閣と、同時期の慶長17年(1612年)頃に完成したものであるとの由です。したがって、この西南隅地図)は、太平洋戦争の過程での昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失しなかった貴重な古い建物であり、重要文化財です。この西南隅地図)は、巨大な城・名古屋城であるため、規模の小さな城であれば天守閣に匹敵する程のものなのではないかと、思います。2008年3月訪問時に撮影しました。




この写真もどの櫓(ろ,やぐら)であるかは失念してしまいましたので「恐らく」ベースの推測となり恐縮ですが、上の写真と同様に周囲の状況との相対的な位置関係を、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.14-15掲載の名古屋城地図で照合して推測すれば恐らくは、左記は、名古屋城東南隅(とうなんすみやぐら,別名:本丸辰巳隅(ほんまるたつみすみやぐら),地図)の写真であろうと思います(ただし、東南隅地図)は西南隅地図)とそっくりですので、もしかしたら間違っているかも知れません。悪しからずご容赦下さい)。この東南隅地図)も現存する昔からの建物であり、重要文化財です。同書p.15によれば、東南隅地図)の屋根に戴(いただ)かれている鯱(しゃち,しゃちほこ)は、明治43年(1910年)に、江戸城解説,  地図)から移されたものとされているとの由です。2016年1月訪問時に撮影しました。




名古屋城表二之門(本丸南二之門)地図)です。2016年1月訪問時に撮影しました。




  この写真は、名古屋城本丸御殿地図)の車寄・玄関の外観です。ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑JTBパブリッシング,2016年09月28日)pp.18-19.,ならびに車寄の案内掲示板によれば、車寄とは、例えば江戸幕府 征夷大将軍等、正規のお客様だけが上がる玄関であるとの由です。
  本丸御殿地図)も天守閣と同様に残念ながら、太平洋戦争の過程での昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまっていましたが、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.16-25.,本丸御殿地図)前の案内掲示板,  名古屋城公式WEBサイト ・ (本丸御殿)復元計画リンク先URLは2018年1月現在。もしも将来リンク切れになったら、名古屋城公式WEBサイト上のキーワード「本丸御殿+復元+工事」のgoogle検索結果,もしくは上のキーワード「本丸御殿+復元」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、名古屋市(名古屋市役所)では、平成21年(2009年)1月19日着工でから本丸御殿地図)の復元に着手し、平成25年(2013年)5月29日に、玄関と表書院(謁見(えっけん)の場所)の公開を開始したとの由です。当ホームページ管理人が最初に訪問した2008年3月は、この復元工事着工時点・平成21年(2009年)1月19日以前の時点だったために本丸御殿地図)はまだありませんでしたが、2回目に訪問した2016年1月時点は、上述した部分公開開始時点・平成25年(2013年)5月29日よりも後の時点であったため、本丸御殿地図)に入ることができました。この写真は、この2回目に訪問した2016年1月に撮影したものです。
  上記各情報源によれば、その後、平成28年(2016年)6月1日から、対面所と下御膳所の公開が始まったとの由です。また、同情報源によれば、平成29年度(2017年度)に本丸御殿地図)全体の工事が完了して、平成30年度(2018年度)6月8日から本丸御殿全体の公開が始まる予定であるとの由です。




  上記で紹介した名古屋城本丸御殿地図)の玄関の中の障壁画の写真です。2016年1月訪問時に撮影しました。ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑.17には、玄関の部屋については「藩主への来客が最初に通された部屋」とだけ書かれていて上記の車寄に関する解説は載っていませんので、この玄関の部屋が、車寄から入った来訪客だけでなく、車寄以外の入り口から入った来訪客もこの部屋に通された可能性も否定はできませんが、そうであるとも明記されていないため、逆に載っていないだけであって車寄の入り口から入ったご来訪者が通された可能性も否定はできず、2018年1月現在当ホームページ管理人は、そのいずれが史実どおりであるのかについては、存じ上げません。名古屋城公式WEBサイト ・ 復元模写リンク先URLは2018年1月現在。もしも将来リンク切れになったら、名古屋城公式WEBサイト上のキーワード「復元+模写」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに上記情報源によれば、昭和戦前期(即ち、昭和元年(1926年12月25日〜12月31日)〜昭和16年(1941)の頃と思量)に作成された各建物の詳細な実測図と、古写真のガラス乾板が保存されていたために、焼失した障壁画も含めて保存が可能であったとの由であり、林功(2000年没),加藤純子の指導下に、愛知県長久手市岩作三ケ峯1-114の愛知県立芸術大学解説,  地図)の協力を得て平成4年(1992年)から復元が行われているとの由です。
  ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑pp.18-19.によれば、玄関の内部には、来訪客を威圧するために、豹(ひょう)が描かれているとの由です。同情報源、ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、玄関内のこの竹虎図は、狩野派絵師 ・ 狩野長信の作であると推定されているとの由です。




  これも、上記で紹介した名古屋城本丸御殿地図)の玄関の中の竹虎図の写真です。2016年1月訪問時に撮影しました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、本丸御殿地図)の障壁画の内、例えば襖、障子、天井画等の取り外し可能なものは、昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲の直前の同年月に取り外してあったために難を逃れたとの由ですが、取り外し不可能であった壁貼付絵等は建物とともに焼失したとの由です。
  「恐らくは」というただし書きが付きますが、恐らくは、復元された本丸御殿地図)にある、狩野長信の作と推定されているこの竹虎図は、復元模写の方なのではないかと推測します(が、復元画の方が本丸御殿地図)で公開されている旨の事実確認を行った上での推測ではありませんので、もしもこの推測が誤報であり、実は本物の方であった場合には、誤報をお伝えした旨、申し訳ありません)。




  名古屋城本丸御殿地図)の表書院の中の障壁画の写真です。2016年1月訪問時に撮影しました。表書院の案内掲示板によれば、表書院とは、江戸時代には広間と呼ばれていて、藩主と、来客や家臣との間の公的な謁見(えっけん)に用いられた部屋であるとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、表書院上段之間一之間二之間三之間納戸之間の5室からなってるとの由であり、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑p.17によれば、表書院では藩主は上段之間に座して、来客や家臣は身分によって一之間二之間三之間に振り分けられて、一之間以外は藩主に直接の対面はできなかったとの由です。
  表書院の中でもこの障壁画は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 床の間2018年1月参照時時点の掲載内容床の間の事例として画像が載っているものであり、上段之間の梅松禽鳥図の中の1部です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、上段之間の梅松禽鳥図は、残念ながら大部分が昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまったとの由ですので、公開されている梅松禽鳥図は復元模写版であることになります。同情報源によれば、この梅松禽鳥図(の焼失した原画)は狩野貞信作と推測されているとの由です。




これも、名古屋城本丸御殿地図)の表書院の中の障壁画の写真です。2016年1月訪問時に撮影しました。具体的な撮影場所はうろ覚えですが、ニッポンを解剖する!名古屋東海図鑑p.23によれば、これは表書院一之間の桜花雉子図(おうかきじず)であるとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名古屋城によれば、この障壁画の筆者は不明であるとの由です。




これも、名古屋城本丸御殿地図)の表書院一之間の桜花雉子図(おうかきじず)の写真です。2016年1月訪問時に撮影しました。





  この2枚の写真は、今日の名古屋城二の丸の位置にあった、中世・戦国時代那古野城跡(なごやじょうあと)地図)の説明案内板のものです。2016年1月訪問時に撮影したものです。
  当画面(当ページ)上方の解説欄で解説したとおり、那古野城地図)は一時期、三英傑の中の1人の天下人(てんかびと)戦国大名戦国武将)として知られる、織田信長の居城だった城です。この那古野城地図)には織田信長生誕地説がありますが、当画面(当ページ)上方の解説欄で解説したとおり、織田信長生誕地説は今日では尾張国 中島郡海東郡勝幡村)とにまたがる勝幡(しょばた;現・愛知県 稲沢市平和町地域の大字 平和町 城之内と同県愛西市(あいさいし)佐織町(さおりちょう)地域の大字 勝幡町(しょばたちょう)とにまたがる場所)の勝幡城(しょばたじょう)説が有力であり、その有力説によれば、信長は、父・織田信秀の居城の変更に伴い、父に連れられて勝幡城から那古野城地図)に移って来たものとされています。
  織田信長那古野城地図)の後、尾張国 春日井郡 清洲(現・愛知県 清須市清洲町地域)の清洲城,  尾張国 春日井郡 小牧(現・愛知県 小牧市小牧城跡(小牧市歴史館))の小牧城小牧山城),  美濃国 厚見郡 岐阜(旧称:井之口)の金華山(現・岐阜県 岐阜市金華山)の岐阜城解説,  地図)を経て、近江国 蒲生郡(がもうぐん) 安土(現・滋賀県 近江八幡市安土町地域の一部)の安土城解説,  地図)と居城を変更した旨は、よく知られた史実です。織田信長の居城の変遷については、千田嘉博信長の城岩波新書,2013年01月)に、詳しく載っています。
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  この2枚の写真は、名古屋城にある清正の石曳(きよまさのいしびき)地図)の案内掲示板と、清正公の石曳きの像の写真です。2016年1月訪問時に撮影したものです。
  当画面(当ページ)上方の解説欄で解説したとおり、名古屋城の築城は、工事資金を費やさせて財政的に疲弊させて謀反をおこさせなくなることを目的にした天下普請として、江戸幕府西国外様大名に命じて行わせました。名古屋城公式WEBサイト ・ 清正石リンク先URLは2018年1月現在。もしも将来リンク切れになったら、名古屋城公式WEBサイト上のキーワード「清正+石」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに清正の石曳案内掲示板によれば、天守閣の石垣普請(石垣工事)は、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 熊本(現・熊本県 熊本市 中央区)の熊本城城主で肥後 熊本藩52万の藩主の加藤清正に割り当てられたとの由です。同案内掲示板によれば、石垣用の巨石運搬に際して、加藤清正は自(みずか)ら石の上に乗って音頭をとって木遣(きやり)を歌わせたとの由であり、その様子を表した像が清正公の石曳きの像であるとの由です。
  ところで、今日、観光地のイメージの見地からは、加藤清正に関する観光スポットと言えば熊本県、特に熊本市が有名ですが、実は加藤清正は今日の愛知県 名古屋市出身の戦国武将です。名古屋市の清正公ゆかりの観光スポットには、名古屋市 中村区名古屋市秀吉清正記念館,  正悦山妙行寺清正公誕生之地碑加藤肥後候旧里碑),加藤清正生誕地)が、あります。





  この2枚の写真は、名古屋城にある清正石地図)の案内掲示板と、清正石のものです。2016年1月訪問時に撮影したものです。
  名古屋城公式WEBサイト ・ 清正石リンク先URLは2018年1月現在。もしも将来リンク切れになったら、名古屋城公式WEBサイト上のキーワード「清正石」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに清正石案内掲示板によれば、清正石名古屋城で最大の石垣石材であるとの由です。同情報源によれば、江戸幕府西国外様大名に命じて行わせた名古屋城築城の天下普請の際には、この巨石は、熊本城城主で肥後 熊本藩52万の藩主の加藤清正が積み上げた旨の伝承があるとの由ですが、実は、この石垣の工区の施工大名は加藤清正ではなく筑前国 那珂郡(なかぐん) 警固村(けごむら)福崎(現・福岡県 福岡市 中央区城内)の福岡城城主で筑前 福岡藩52万石の藩主の黒田長政であるとの由です。




名古屋城二之丸庭園地図)にある二の丸茶亭地図)です。2008年3月訪問時に撮影したものです。




名古屋城二の丸茶亭地図)の中の茶室です。2008年3月に撮影したものです。




これも、名古屋城二の丸茶亭地図)の中の写真ですです。2008年3月訪問時に撮影したものです。和風の日本情緒を堪能できます。




名古屋城二の丸茶亭地図)では、お抹茶セットを楽しむことができ(当情報は、訪問時・2008年3月現在)、とてもおいしかったです。2008年3月に撮影したものです。




名古屋城二の丸茶亭地図)の茶室の茶釜は金でした。さすが、金鯱(きんしゃち)の城の庭園の茶室です。2008年3月に撮影したものです。




名古屋城の堀に、鹿がいました。2008年3月に撮影したものです。



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城山観光ホテル 山川ヘルシーランド露天風呂 城山観光ホテル:桜島が見える展望露天風呂「さつま乃湯」(写真左)と、山川ヘルシーランド露天風呂(写真右)

新湯温泉・霧島新燃荘 旅行人山荘 霧島温泉にある、秘湯・新湯温泉・霧島新燃荘(写真左)と、露天風呂の人気が高い旅行人山荘(写真右)

ドルフィンポート いおワールド かごしま水族館 鹿児島ウォーターフロント「ドルフィンポート」(写真左)と、隣接するいおワールド かごしま水族館(写真右)

尚古集成館 島津家別邸・名勝 仙巌園(磯庭園) 尚古集成館(島津斉彬公による集成館事業の産業遺産)(写真左)と、隣接する島津家別邸・名勝 仙巌園(磯庭園)(写真右)

城山(城山展望台) 鶴丸城(鹿児島城) 城山(城山展望台)(写真左)と、敷地内に博物館「鹿児島県歴史資料センター黎明館」がある鶴丸城(鹿児島城)(写真右)

フラワーパークかごしま 岩崎美術館・工芸館 フラワーパークかごしま(写真左)と、黒田清輝藤島武二など鹿児島出身の画家の絵が見られる岩崎美術館・工芸館(写真右)

知覧特攻平和会館 知覧武家屋敷群 知覧特攻平和会館(写真左)と、薩摩の小京都・知覧武家屋敷群(写真右)

霧島連山 霧島神宮 霧島連山(写真左)と、天孫降臨伝説でニニギノミコトが降臨した高千穂峰を本宮とする霧島神宮(写真右)

白谷雲水峡 屋久杉ランド(ヤクスギランド) ユネスコの世界遺産(自然遺産)の島・屋久島白谷雲水峡(写真左)と、屋久杉ランド(ヤクスギランド)(写真右)







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鹿児島市内(含む桜島) 鹿児島市平川動物公園
鹿児島市内(含む桜島) 奄美の里(本場大島紬の里)
鹿児島市内(含む桜島) 鹿児島市立ふるさと考古歴史館(掃除山遺跡出土品,草野貝塚展示博物館)
鹿児島市内(含む桜島) 県立吉野公園(桜のお花見の名所)
鹿児島市内(含む桜島) 多賀山公園(東郷平八郎銅像,東福寺城址)
鹿児島市内(含む桜島) おはら祭
鹿児島市内(含む桜島) かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会
鹿児島市内(含む桜島) 鹿児島ウォーターフロント「ドルフィンポート」
鹿児島市内天文館 山形屋百貨店
鹿児島市内(含む桜島) 天文館(鹿児島の中心街・繁華街)
鹿児島市内天文館 天文館シネマパラダイス
鹿児島市内天文館 天まちサロン(観光案内所)
鹿児島市内天文館 うなぎの末よし
鹿児島市内天文館 正調さつま料理 熊襲亭
鹿児島市内天文館 cafe de MANON(カフェ・ド・マノン)
鹿児島市内天文館 さつまいもの館
鹿児島市内天文館 唐芋ワールド
鹿児島市内天文館 池畑天文堂
鹿児島市内天文館 T−MAXボウル(T-MAX BOWL)
鹿児島市内(含む桜島) アミュプラザ鹿児島&大観覧車アミュラン
鹿児島市内(含む桜島) かごっまふるさと屋台村
鹿児島市内(含む桜島) 南洲寺(僧月照の墓)
鹿児島市内(含む桜島) 南林寺由緒墓
鹿児島市内(含む桜島) 松原神社
鹿児島市内(含む桜島) 天保山公園(坂本竜馬新婚の碑,共月亭,砲台跡,調所広郷の像)
鹿児島市内(含む桜島) 慈眼寺公園(慈眼寺跡)
鹿児島市内(含む桜島) 谷山神社
鹿児島市内(含む桜島) 鹿児島カテドラル・ザビエル教会
鹿児島市内(含む桜島) ザビエル滞麑記念碑(ザビエル公園)
鹿児島市内(含む桜島) 桜島納涼観光船
鹿児島市内(含む桜島) 桜島フェリー
鹿児島市内(含む桜島) 桜島(特に湯之平展望所)
鹿児島市内(含む桜島) 桜島焼窯元・桜岳陶芸
指宿周辺 岩崎美術館・工芸館
指宿周辺 時遊館COCCOはしむれ(指宿市考古博物館),橋牟礼川遺跡
指宿周辺 知林ヶ島
指宿周辺 特急「指宿のたまて箱」紹介+特別快速なのはなDX乗車記
知覧周辺 知覧特攻平和会館
知覧周辺 知覧武家屋敷群
知覧周辺 ミュージアム知覧(南九州市立博物館)
知覧周辺 薩摩英国館
南薩地域(指宿市山川) 長崎鼻
南薩地域(指宿市山川) フラワーパーク かごしま
南薩地域(指宿市山川) JR日本最南端の駅「西大山駅」
南薩地域 開聞岳 & 開聞山麓自然公園
南薩地域 池田湖
南薩地域 あじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内
霧島周辺 霧島神宮
霧島周辺 霧島神宮古宮址
霧島周辺 高千穂河原&高千穂河原ビジターセンター
霧島周辺 霧島連山登山(霧島トレッキング・霧島縦走コース:韓国岳,獅子戸岳,新燃岳,中岳)
霧島周辺 高千穂峰登山
霧島周辺 和気神社&霧島市和気公園
霧島周辺 犬飼滝
霧島周辺 高千穂牧場
霧島周辺 生駒高原 コスモス園
霧島周辺 特急きりしま
霧島周辺 観光特急「はやとの風」(肥薩線の旅行)
霧島周辺 観光列車「いさぶろう・しんぺい」号(肥薩線の旅行)
隼人・国分・姶良地域 上野原縄文の森(上野原遺跡)
隼人・国分・姶良地域 鹿児島神宮(大隅国一宮)
隼人・国分・姶良地域 霧島市立隼人歴史民俗資料館
隼人・国分・姶良地域 隼人塚
隼人・国分・姶良地域 霧島市立隼人塚史跡館
隼人・国分・姶良地域 熊襲の穴
隼人・国分・姶良地域・溝辺 高屋山上陵
(日向神話の彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト,別名・火遠理命(ホオリノミコト),山幸彦)の陵墓で、神代三山上陵の1つ)
隼人・国分・姶良地域 龍門滝
隼人・国分・姶良地域 長年寺跡と島津墓地・亀墓
隼人・国分・姶良地域 加治木島津館跡(加治木護国神社)
隼人・国分・姶良地域 蒲生八幡神社
隼人・国分・姶良地域 蒲生の大クス(特別天然記念物)
北薩・中薩 ・ 日置市 さつま湖公園
北薩・中薩 ・ 日置市 妙円寺
(島津義弘菩提寺で、妙円寺詣り発祥の禅寺)
北薩・中薩 ・ 日置市 徳重神社
(島津義弘を祭神とする、妙円寺詣り会場の神社)
北薩・中薩 ・ 日置市 雪窓院跡&島津義久公剃髪石(座禅石)
北薩・中薩 ・ 日置市 一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)
北薩・中薩 ・ いちき串木野市 薩摩金山蔵
(焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内川花火大会
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 新田神社(薩摩国一宮)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 可愛山陵
(天孫降臨伝説・日向神話の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓で、神代三山上陵の1つ)
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 泰平寺
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 薩摩国分寺跡史跡公園
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内歴史資料館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内まごころ文学館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内戦国村
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 川内原子力発電所展示館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 きやんせふるさと館
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市 藺牟田池(いこいの村いむた池入湯記)
北薩・中薩 肥薩おれんじ鉄道
北薩・中薩 ・ 出水市 感応寺(感応禅寺)・五廟社(島津氏最初の5代の墓)
北薩・中薩 ・ 出水市 出水市ツル観察センター
北薩・中薩 ・ 出水市 出水麓武家屋敷群
北薩・中薩 ・ 出水市 出水市出水駅観光特産品館「飛来里」
北薩・中薩 ・ 出水市 日本一のお地蔵様(出水市・八坂神社)
北薩・中薩 ・ さつま町 紫尾神社(紫尾区営温泉「神の湯」入湯記)
大隅半島 ・ 志布志市 大慈寺
屋久島 益救神社(最南端の式内社,旧多禰国一宮)
屋久島 屋久島大社
屋久島 屋久杉自然館(+「縄文杉の写真」,杉の茶屋)
屋久島 ボタニカルリサーチパーク(屋久島有用植物リサーチパーク)+トローキの滝
屋久島 屋久杉ランド(ヤクスギランド)
屋久島 紀元杉
屋久島 白谷雲水峡
奄美大島 ・ 奄美市 奄美まつり
横浜 ホテルニューグランド
横浜 横浜伊勢佐木町ワシントンホテル
横浜 横浜ランドマークタワー&横浜ロイヤルパークホテル
湘南・三浦・鎌倉 観音崎京急ホテル・レストラン「浜木綿」(&「SPASSO(スパッソ)」案内)
湘南・三浦・鎌倉 観音崎灯台
北九州,下関他 門司港レトロ地区:全般
北九州,下関他 門司港レトロ地区:旧門司税関
北九州,下関他 門司港レトロ地区:門司港駅
北九州,下関他 門司港レトロ地区:旧門司三井倶楽部
北九州,下関他 門司港レトロ地区:海峡プラザ赤煉瓦ガラス館 & オルゴールミュージアム門司港を含む)
高知の観光 高知城
高知の観光 桂浜
高知の観光 高知県立坂本龍馬記念館
高知の観光 坂本龍馬像
高知の観光 高知市立龍馬の生まれた町記念館
高知の観光 坂本龍馬誕生地の碑
北海道美唄市 炭鉱メモリアル森林公園
北海道美唄市 三菱美唄記念館
北海道美唄市 美唄市郷土史料館
北海道美唄市 美唄鉄道旧東明駅
北海道美唄市 アルテピアッツァ美唄
名古屋市の観光 名古屋城&那古野城跡
名古屋市の観光 覚王山日泰寺
名古屋市の観光 末森城址(末盛城址)&城山八幡宮
福島県の観光 いわき市石炭・化石館 ほるる
福島県の観光 みろく沢炭鉱資料館
福島県の観光 湯本山神社
長野県の観光 岩松院(福島正則公霊廟)
長野県の観光 諏訪大社上社本宮
長野県の観光 諏訪大社上社前宮
長野県の観光 神長官守矢史料館
長野県の観光 尖石縄文考古館,尖石遺跡,与助尾根遺跡
長野県の観光 御射鹿池(みしゃかいけ)
(東山魁夷の「白い馬」シリーズの名画「緑響く」の取材地)
長野県の観光 横谷渓谷(よこやけいこく)
岐阜県の観光 治水神社(薩摩義士ゆかりの神社)
岐阜県の観光 千本松原(油島千本松締切堤)
岐阜県の観光 国営木曽三川公園・木曽三川公園センター
三重県の観光 海蔵寺(薩摩義士の墓)
三重県の観光 常音寺(薩摩義士の墓)
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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」の温泉・温浴施設の入湯記
温泉,地域 入湯した温泉・温浴施設
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 城山観光ホテル・城山温泉・さつま乃湯(桜島と海が見える露天風呂があります。)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテル吹上荘
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 温泉ホテル中原別荘
鹿児島市内温泉(ホテル(兼)立ち寄り湯) 健康プラザ田中温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 芦刈温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 池田温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 一本桜温泉センター(市内西部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) うちの温泉センター(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) お乃湯(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 温泉錦湯(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) かごっま温泉(天文館最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 春日温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 霧島温泉(天文館最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 花野温泉たぬき湯(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 郡元温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 野天風呂 薩摩いろはの湯(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 慈眼寺温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 寿康温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 城山長寿泉(市内中心部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 新川温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 新とそ温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 太陽ヘルスセンター(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 武岡温泉(市内西部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 竹迫温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 中山温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 中村温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 永吉温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 滑川温泉(市電沿線,JR鹿児島駅最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 南開温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 西田温泉(鹿児島中央駅最寄り)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) はらら温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 真砂温泉(市内南部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みずほ温泉(市電沿線)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みやこ温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) めいわ温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 薬師温泉(市内北部)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテル満秀  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) KKR鹿児島敬天閣  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) 錦江高原ホテル  (廃業)
鹿児島市内温泉(ホテル,旅館) ホテルエスポワールタナカ  (廃業)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 今村温泉(市内中心部)(注)
(注)残念ながら2011年5月31日をもって閉店しました。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) さつま温泉(天文館最寄り かつ ウォーターフロント・ベイエリア)(注)
(注)残念ながら2007年6月に廃業したとの由です。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) 玉里温泉(市内北部)(注)
(注)残念ながら2012年に廃業したとの由です。
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みょうばん温泉(鹿児島中央駅最寄り)  (廃業)
鹿児島市内温泉(立ち寄り湯) みょうばん温泉まきばの湯(市内南部)  (廃業)
桜島マグマ温泉(鹿児島市) 国民宿舎レインボー桜島・マグマ温泉
桜島白浜温泉(鹿児島市) さくらじま白浜温泉センター
桜島古里温泉(鹿児島市) 桜島シーサイドホテル
桜島古里温泉(鹿児島市) さくらじまホテル
桜島古里温泉(鹿児島市) ふるさと観光ホテル(注)
(注)残念ながら2012年に閉館したとの由です。
鹿児島市内温泉・足湯 ドルフィンポート・足湯
鹿児島市内温泉・足湯 奄美の里・足湯  廃止
(ただし、廃止は足湯のみ。奄美の里は継続営業しています。)
指宿温泉 指宿いわさきホテル
指宿温泉 指宿白水館
指宿温泉 指宿こころの湯(日帰り温泉立ち寄り湯のスーパー銭湯。旅館「指宿こころの宿」も併設されています。)
指宿温泉 二月田温泉殿様湯(指宿温泉でも特に歴史と伝統のある、日帰り温泉立ち寄り湯)
山川温泉郷鰻温泉(指宿市旧山川町地域) 区営鰻温泉
山川温泉郷鰻温泉(指宿市旧山川町地域) うなぎ温泉まつまえ
山川温泉郷伏目温泉(指宿市旧山川町地域) 山川ヘルシーランド露天風呂(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
南薩地域・枕崎市 枕崎なぎさ温泉(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
霧島温泉郷 霧島いわさきホテル
霧島温泉郷 霧島国際ホテル
霧島温泉郷 霧島スパヒルズ(旧「霧島第一ホテル スパヒルズ」)
霧島温泉郷 硫黄谷温泉霧島ホテル
霧島温泉郷 静流荘
霧島温泉郷 旅行人山荘
霧島温泉郷 前田温泉カジロが湯(日帰り温泉立ち寄り湯)
霧島温泉郷 新湯温泉・霧島新燃荘
霧島温泉(霧島山麓) 野々湯温泉
霧島温泉郷&霧島山系山麓の温泉地 栗野岳温泉南洲館
霧島山系周辺平野部・吉松温泉郷 吉松駅前温泉
妙見温泉 妙見石原荘
妙見温泉 味の宿どさんこ
妙見温泉 田島本館
妙見温泉 妙見田中会館
妙見温泉 湯治の宿妙見館・妙見元湯
新川渓谷温泉郷 塩浸温泉龍馬公園
新川渓谷温泉郷 日の出温泉きのこの里
日当山温泉 日当山温泉・花の湯
国分,隼人,姶良地区・足湯 鹿児島空港天然温泉足湯「おやっとさあ」
国分,隼人,姶良地区 船津温泉
国分,隼人,姶良地区 重富温泉
国分,隼人,姶良地区 姶良市温泉センター くすの湯(旧・蒲生町多目的温泉保養センター「くすの湯」)
国分,隼人,姶良地区 龍門滝温泉
北薩・中薩吹上温泉郷 みどり荘
北薩・中薩いちき串木野市 薩摩金山蔵 「杜氏乃湯」
(温浴施設は、後になくなっており、焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処専用施設になっています。)
北薩・中薩川内市街地温泉 川内ホテル・川内温泉センター
北薩・中薩川内市街地温泉 温泉平佐城(平佐城温泉)
北薩・中薩藺牟田温泉 いこいの村いむた池
北薩・中薩阿久根温泉 グランビュー あくね
北薩・中薩阿久根温泉 ふれあい温泉ぼんたん湯(栄屋旅館)
北薩・中薩紫尾温泉 紫尾区営温泉「神の湯」
屋久島等・屋久島の温泉 屋久島いわさきホテル
屋久島等・屋久島の温泉 JRホテル屋久島
屋久島等・屋久島の温泉 縄文の宿 まんてん
屋久島等・屋久島の温泉 平内海中温泉
屋久島等・屋久島の温泉 湯泊温泉
屋久島等・屋久島の温泉 尾之間温泉
屋久島等・屋久島の温泉 楠川温泉
屋久島等・屋久島の温泉 旧・大浦温泉(大浦の湯)
横浜の温泉 横浜みなとみらい万葉倶楽部
横浜温泉 綱島温泉・綱島ラジウム温泉東京園
横浜温泉 綱島温泉・富士乃湯
横浜温泉 天然温泉みうら湯弘明寺店
横浜温泉 若宮湯
横浜温泉 中島館
横浜の大浴場付きホテル ブリーズベイホテル・リゾート&スパ,&  リゾートカプセル桜木町
東京都の温泉 麻布十番温泉  (注) 残念ながら2008年3月末で廃業しました。
東京都の温泉 東京ドーム天然温泉 Spa LaQua(スパ ラクーア)
川崎温泉 縄文天然温泉 志楽の湯
福岡市内温泉 薬院しろやま乃湯  (注) 残念ながら閉館しました。
福岡市内温泉 萃豊閣ホテル&南福岡グリーンホテル温泉
福岡市内温泉 八百治博多ホテル・八百治の湯
人吉市内の温泉 球磨川ラフティング MAIN STREAM & ビジネスホテル白山山荘 附属温泉
高知の温泉 龍河温泉(香美市)
高知の温泉 物部川ほとりの温泉 夢の温泉(香美市)
高知の温泉 高知黒潮ホテル・黒潮温泉「龍馬の湯」(香南市)
高知の温泉 高知三翠園・高知三翠園温泉水哉閣(高知市)
高知の温泉 スーパーホテル高知・長岡温泉・龍馬の湯(高知市)
高知の温泉 国民宿舎 桂浜荘(高知市桂浜:人工温泉)
札幌市内温泉 JRタワーホテル日航札幌・スカイリゾートスパ「プラウブラン(月の島)」
札幌市内温泉 ホテルモントレエーデルホフ札幌・スパ
大阪市内温泉 スーパーホテルCity大阪天然温泉(なにわ天然温泉「花乃井」)
大阪市内温泉 ホテル阪神「徳次郎の湯」(天然温泉スパ&サウナ)
大阪市内温泉 天然温泉なにわの湯
大阪府・箕面温泉 箕面温泉スパーガーデン
秋田県の温泉 乳頭温泉郷・鶴の湯温泉
宮城県の温泉 鳴子温泉・貸切露天風呂の宿扇屋
福島県の温泉 スパリゾートハワイアンズ
山梨県の温泉 下部温泉郷・古湯坊源泉館
山梨県の温泉 下部温泉・くつろぎの宿裕貴屋(旧・大市館)
長野県の温泉 奥蓼科温泉郷 渋御殿湯
長野県の温泉 明治温泉旅館
長野県の温泉 毒沢鉱泉神乃湯
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全国と鹿児島県の温泉&観光
鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
温泉宿 →鹿児島県の温泉宿宿泊予約はこちらへ
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)


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