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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」メニュー(フレーム枠内) > 南薩(南薩摩)観光案内

IT活用で地域が変わる 地域活性化・危機管理

木の葉、売ります。ベンチャーに見る日本再生へのヒント
  

温泉天国・鹿児島温泉紹介!

南薩(南薩摩)観光案内

南薩(南薩摩)の観光情報を、行った場所は訪問記で、未訪問の場所はリンク集で紹介する、「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」HPのサブ・コンテンツ。夏休み,冬休み,春休みや土日・休日の遊び、デート、ドライブ情報の計画を立てる際に、お使いいただけます。

  
アルバム「せつなくて...sentimental season」







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鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
全般的に 訪問入湯記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
観光訪問記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
鹿児島県の温泉宿宿泊予約 鹿児島県内全域観光案内別サイト(リンク集)
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島へのご旅行は
(当HP内の)九州新幹線乗車記&沿線観光案内







当ページ(当画面)内の目次
この画面のトップ
指宿市 指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 




「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」掲載の、この地域&隣接地域の鹿児島県観光案内
地域 訪問or体験した観光地orスポット
指宿周辺 岩崎美術館・工芸館
指宿周辺 時遊館COCCOはしむれ(指宿市考古博物館),橋牟礼川遺跡
指宿周辺 知林ヶ島
指宿周辺 特別快速なのはなDX
知覧周辺 知覧特攻平和会館
知覧周辺 知覧武家屋敷群
知覧周辺 ミュージアム知覧(南九州市立博物館)
知覧周辺 薩摩英国館
南薩地域(指宿市山川) 長崎鼻
南薩地域(指宿市山川) フラワーパーク かごしま
南薩(指宿市山川) JR日本最南端の駅「西大山駅」
南薩地域 開聞岳 & 開聞山麓自然公園
南薩地域 池田湖
南薩地域 あじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内



指宿市,山川町,開聞町以外の南薩地域の宿や立ち寄り湯については、当HP内の南薩地域温泉紹介リンク集ご参照。

「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」内の温泉案内
温泉,地域 入湯した温泉・温浴施設
指宿温泉 指宿いわさきホテル
指宿温泉 指宿白水館
指宿温泉 指宿こころの湯(日帰り温泉立ち寄り湯のスーパー銭湯)
指宿温泉 二月田温泉殿様湯(指宿温泉でも特に歴史と伝統のある、日帰り温泉立ち寄り湯)
指宿市(旧・山川町地域)・鰻温泉 区営鰻温泉
指宿市(旧・山川町地域)・鰻温泉 うなぎ温泉まつまえ
指宿市(旧・山川町地域)伏目温泉 山川ヘルシーランド露天風呂(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
南薩地域・枕崎市 枕崎なぎさ温泉(海が見える露天風呂がある日帰り温泉立ち寄り湯)
ここで紹介しきれていない最新の入湯記はこちらへ



鹿児島県の宿泊予約 & まち楽
(powered by 楽天トラベル, and 楽天市場.)
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全国温泉宿予約(ホテル検索&宿泊予約ができます) ・ 鹿児島県
  
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宿泊施設情報(ホテル検索&宿泊予約ができます) ・ 鹿児島県
鹿児島温泉(鹿児島市内温泉)&桜島  温泉宿一覧    鹿児島市内(鹿児島・桜島)  ホテル・旅館一覧
指宿温泉  空室検索    南薩(指宿・枕崎)  ホテル・旅館一覧
指宿温泉  温泉宿一覧
南薩(指宿・枕崎)  温泉宿一覧
吹上温泉  温泉宿一覧
   北薩(出水・川内)  ホテル・旅館一覧
市比野温泉  温泉宿一覧
宮之城温泉  温泉宿一覧
北薩(出水・川内)  温泉宿一覧
霧島温泉  空室検索    大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)  ホテル・旅館一覧
霧島温泉  温泉宿一覧
妙見温泉  温泉宿一覧
大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)  温泉宿一覧
種子島・屋久島  温泉宿一覧    種子島・屋久島  ホテル・旅館一覧
      奄美大島・喜界島・徳之島  ホテル・旅館一覧
      沖永良部島・与論島  ホテル・旅館一覧
【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったANA楽パック ・ 鹿児島県
【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったJAL楽パック ・ 鹿児島県





当HP内の他の関連エリア情報
指宿の温泉 「指宿温泉案内」でご参照いただけます。
南薩地域の温泉 「南薩地域温泉案内」でご参照いただけます。
指宿の観光 以下は指宿市・旧山川町エリアのものです。指宿市・旧指宿市エリアの観光スポットについては、「指宿観光案内」でご参照いただけます。
知覧の観光 「知覧観光案内」でご参照いただけます。



鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)

指宿市

指宿市ホームページ,  指宿市観光課Facebookページ

いぶすき★net(指宿市観光協会)

(当HP内の)九州新幹線乗車記
  指宿温泉がある指宿市へは、終点の鹿児島中央駅で、特急「指宿のたまて箱」等のJR指宿枕崎線の列車に乗り換えれば、行けます。

(当HP内の)指宿温泉案内,  (当HP内の)指宿市観光案内
(当ページ(当画面)で紹介する観光スポットは、現指宿市の行政区域中、2006年1月1日の市町村合併前の揖宿郡(いぶすきぐん) 山川町,  揖宿郡 開聞町エリアです。合併前の旧指宿市エリアについては、(当HP内の)指宿温泉案内,  (当HP内の)指宿市観光案内でご参照いただけます。なお、当ページ(当画面)内の山川町,旧開聞町エリアの観光案内の内容は、(当HP内の)指宿市観光案内と重複(ちょうふく)しています。)


指宿市いぶすきし)の平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  




指宿市指宿市エリア>

;(当HP内の)指宿市観光案内

(当HP内の)指宿温泉案内



指宿市山川町エリア>

指宿市ホームページ,  指宿市観光課Facebookページ

いぶすき★net(指宿市観光協会)

(当HP内の)九州新幹線乗車記
  指宿温泉がある指宿市へは、終点の鹿児島中央駅で、特急「指宿のたまて箱」等のJR指宿枕崎線の列車に乗り換えれば、行けます。

のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)
(リンク先はいわさきコーポレーション(株)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在。)
ならびに
バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』
(リンク先はいぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在google検索結果は、のったりおりたりマイプラン(指宿市)です。指宿の観光スポットを廻るいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の路線バスに乗れる、1日および2日間乗り放題の乗車券です。2日間券では、知覧も併せて周遊できます。2013年11月現在、以下の路線の路線バスに乗ることができ、時刻表については、リンク先URLは2013年11月現在九州のバス時刻表ホームページ,  いぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会) ・ バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』,或いはいわさきコーポレーション(株) ・ のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)でご参照いただけます。なお、指宿,  知覧の観光スポット巡りにはこの他、鹿児島交通観光バスの定期観光バス「指宿・知覧コース」日帰りバス・ツアーも便利です。)
◎   エコキャンプ場(知林ヶ島入口)線   ○   指宿駅前バス停(地図)−宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・池田湖地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−開聞駅前(地図
  ○   エコキャンプ地図知林ヶ島最寄り)−潟山(地図薩摩伝承館最寄り)・指宿駅前(地図)・砂むし会館前(地図)・指宿いわさきホテル地図)・山川駅前(地図)・山川桟橋地図いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」最寄り)・ヘルシーランド入口(地図)・フラワーパーク地図)・長崎鼻地図)・国民宿舎前(地図)・開聞登山口(地図)・開聞駅前(地図)・枚聞神社前(地図)・玉ノ井 地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−池田湖地図
◎   指宿喜入知覧線   ○   指宿いわさきホテル地図)−砂むし会館前(地図)・指宿駅前(地図)・宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・道の駅喜入地図)・喜入(地図喜入駅前(地図)・(知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図
◎   知覧線   ○   (知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図)・平川(地図)・動物園入口(地図)・谷山駅前・鹿児島中央駅地図)経由−鹿児島市天文館山形屋バスセンター

(当HP内の)長崎鼻訪問記

竜宮神社の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でも竜宮神社として(リンク先URLは2011年3月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも長崎鼻(鹿児島県)の中で紹介されています。長崎鼻にあり、(当HP内の)長崎鼻訪問記でも詳しく解説していますが、項目として別途切り出して紹介しておきます。)

(当HP内の)フラワーパーク かごしま訪問記

(当HP内の)JR日本最南端の駅「西大山駅」訪問記

かいもん市場(かいもん市場久太郎)の場所(この辺り?)
(地域産品直売所。平成25年(2013年)4月27日(土)、JR日本最南端の駅「西大山駅」駅前にオープンしたとの由です。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。一般社団法人 指宿マンゴーブランド協会でも4月27日JR最南端の駅「西大山駅」前に地域産品直売所「かいもん市場」オープンとして、続・開聞岳ガイドの道でも西大山駅にかいもん市場がOPENとして、いぶすき情報プラザのブログでも「秀ヤンの書き歩き」68として紹介されています。インターネットで調べた限りでは中園久太郎商店が開設した模様です。)

中園久太郎商店の場所
(漬物製造販売。JR日本最南端の駅「西大山駅」駅前にあり、直売所もあるとの由です。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒891-0514 鹿児島県指宿市山川大山860-2。Tel.:0993-34-1180。中園久太郎商店公式WEBサイトを開設している他、指宿市役所観光課 ・  いぶすき総合観光サイトでもJR西大山駅の中で紹介されています。指宿市役所観光課 ・  いぶすき総合観光サイト ・ JR西大山駅によれば、上述のJR日本最南端の駅「西大山駅」駅前の直売所では観光案内も行っているとの由ですが、平成25年(2013年)4月27日(土)に西大山駅前にできたかいもん市場が、インターネットで調べた限りでは中園久太郎商店設立の模様であるため、観光案内機能はかいもん市場に移管して無くなったか、それとも残っていてかいもん市場でも中園久太郎商店直売所でも共に観光案内情報を得られるのか、そのいずれであるかは定かではありません。)

(当HP内の)山川ヘルシーランド露天風呂入湯記

(当HP内の)区営鰻温泉入湯記
鰻池湖畔の鰻集落にあります。)

(当HP内の)うなぎ温泉まつまえ入湯記
鰻池湖畔の鰻集落にあります。)

鰻池(うなぎいけ)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも鰻池として紹介されています。鰻池湖畔の鰻集落には鰻温泉(うなぎおんせん)があり、区営鰻温泉,  うなぎ温泉まつまえ,  民宿うなぎ湖畔,  民宿うなぎ荘等の温泉施設があります。)

(当HP内の)池田湖訪問記(再掲)

池田湖パラダイス公式WEBサイト(再掲)
池田湖にあります。リンク先は公式WEBサイト。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも池田湖パラダイスとして紹介されています。)

(当HP内の)山川温泉郷案内
(指宿市旧山川町地域の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内欄内の山川温泉郷欄でご参照いただけます。)

長崎鼻パーキングガーデン公式WEBサイト
長崎鼻に隣接しています。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも長崎鼻パーキングガーデンのハイビスカスとして紹介されています。)

徳光神社
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でも徳光神社として(リンク先URLは参照時2010年7月現在)鹿児島県神社庁ホームページでも徳光神社として(リンク先URLは2011年4月現在)MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でも徳光神社として紹介されています。)

山川(地熱)発電所展示室
九州電力 ・ 鹿児島支店の施設です。リンク先は九州電力公式ホームページのサブ・コンテンツで公式WEBサイト(リンク先URLは2011年3月現在)楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも山川地熱発電所展示室として紹介されています。)

白露酒造株式会社(白露山川工場)
プチたびでも白露酒造山川工場として紹介されています。白露酒造の芋焼酎は、以下のリンク先でお求めいただくことができます。
【楽天市場】JR九州商事オンラインショップでのキーワード「白露酒造」の検索結果
【楽天市場】キーワード「白露酒造」の検索結果
  なお、その他銘柄に関わらず全般的に芋焼酎は、【楽天市場】山形屋オンラインショップ等でお買い求めいただくことができます。)

山川港まち歩きガイド
(by 「いっど・いっが・山川港の会(元気な山川町づくりの会)」)

いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」の場所のとおり。いぶすき☆観光☆ネット(指宿市観光協会)でも活お海道として、食べログでも活お海道として、KTS 鹿児島テレビ ・ WHAT"S NEW かごしま ・ NikiNikiグルメでも活お海道の市場食堂「鶴の港」として紹介されています。
  
山川港(山川漁港)で水揚げされた海産物も、お買い求めいただけます。)

山川・根占フェリー「フェリーなんきゅう」&山川港(山川港ターミナルの場所(山川・根占フェリー乗り場)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県指宿市山川金生町38-1 ,Tel.:0993-34-0012。(有)南九船舶山川・根占フェリー「フェリーなんきゅう」については、フェリーなんきゅう((有)南九船舶公式WEBサイト)がある他、海の国道 山川・根占航路ホームページがあり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも山川・根占フェリー,  山川魚港として紹介されています。
  2012年6月現在
フェリー・なんきゅう((有)南九船舶)山川港ターミナル解説)指宿市山川町地域)−根占港ターミナル大隅半島南大隅町根占町(ねじめちょう)地域)間フェリー山川・根占フェリーが1日4便通っており、南大隅町錦江町(きんこうちょう)等の大隅半島南部と、指宿温泉等の南薩(南薩摩)地域との周遊観光をお楽しみいただくことができます。山川・根占フェリー山川港での乗船場所が、山川港ターミナル地図)」です。
  
山川港は、江戸時代には指宿市指宿市地域指宿港と並ぶ重要港湾だったという産業遺産・歴史遺産スポットでもあり、現役の港として産業観光スポットでもあります。山川港(山川漁港)で水揚げされた海産物は、いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」でお求めいただけます。
  歴史遺産スポットとしては、
山川港は、詳しくは当ホームページ内の松尾城跡(指宿城跡)紹介欄で解説したとおり、戦国時代後半には頴娃氏が支配して南蛮貿易の拠点として栄えましたが、天正16年(1588年)に頴娃氏改易に近い移封となった後は、島津氏の直轄港になったとの由ですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 山川魚港によれば、頴娃氏の移封年・天正16年(1588年)よりも以前の山川がまだ頴娃氏領だった時期の天正11年(1583年)頃から既に、山川港島津氏が直接支配するようになていたとの由です。詳しくは当ホームページ内の松尾城跡(指宿城跡)紹介欄で解説したとおり、指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.76によれば、安土桃山時代の文禄元年(1592年)に、薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん)から福元村(現・指宿市山川町地域山川福元等(この辺り(地図)))と成川村(現・指宿市山川町地域山川成川等(この辺り(地図)))を分離して山川郷が設けられて、後に薩摩国 頴娃郡から大山村(現・指宿市山川町地域山川大山等(この辺り(地図)))と岡児ヶ水(おかちょがみず)村(現・指宿市山川町地域山川岡児ケ水等(この辺り(地図)))を分離して山川郷に加えたとの由ですが、これは、山川港が重要港湾だったからとの由です。薩摩藩外城(とじょう)制における武家屋敷群の内、指宿郷から分離した山川郷の山川を支配した地頭の役所(兼)住居であった地頭仮屋跡は、今日の指宿市役所山川支所(地図であるとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 山川魚港によれば、
山川港は、安土桃山時代の文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や、江戸時代初期の慶長14年(1609年)の琉球出兵の際の拠点港として、島津氏に利用されたとの由です。戦国時代から江戸時代初期にかけては山川港南蛮貿易の港として栄えたとの由ですが、江戸幕府鎖国政策によって南蛮貿易が終わった後は、薩摩藩による琉球貿易や黒糖原料の砂糖輸送の拠点になったとの由です。幕末には、天保8年(1837年)のモリソン号事件の舞台の中の一つになったとの由です。安政5年(1858年)には咸臨丸が寄港したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 山川魚港,ならびに西郷隆盛によれば、西郷隆盛が、安政6年(1859年)1月4日に奄美大島に流刑になった時も(居住場所跡は、鹿児島県 ・ 龍郷町西郷南洲謫居跡)、文久2年(1862年)6月11日に徳之島徳之島での関連観光スポットは鹿児島県 ・ 天城町西郷南洲公園)を経て同年閏8月初めに沖永良部島沖永良部島での関連観光スポットは鹿児島県 ・ 和泊町南洲神社)に流刑になった時も、出港したのは山川港であったとの由です。)

成川遺跡の地図
(リンク先は、鹿児島県立埋蔵文化財センター(鹿児島県上野原縄文の森) ・ 埋蔵文化財データベース ・ 成川遺跡に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。〒891-0516 鹿児島県指宿市山川成川。Tel.:0993-23-5100(考古学博物館「時遊館COCCOはしむれ」)。全国旅そうだんでも成川遺跡として、じゃらんnetでも成川遺跡として、遺跡ウォーカーでも成川遺跡として紹介されています。
  成川遺跡(ナリカワイセキ)とは、指宿温泉がある都市・鹿児島県指宿市の、山川温泉郷がある街・旧山川町エリアにある、弥生時代中期から古墳時代の埋葬遺跡です。
  348体の埋葬人骨、隼人族独特の墓制である立石土壙墓十数基、等が発掘調査の結果、発見されています。また、弥生時代中期かの須久式,山ノ口式,古墳時代の成川式土器等の土器類や、剣,刀,鏃等の鉄器の武具も出土したとの由です。
  公共交通機関でのアクセスは、JR指宿枕崎線 ・ 山川駅地図)から徒歩になります。)

珈琲専門館 かいもん
(リンク先は食べログnetのサブ・コンテンツ。goo地域でも[喫茶店・カフェ] 珈琲専門館 かいもん - 鹿児島として紹介されています。)

山川高校農産物販売所・花野果市場(はなやかいちば)
鹿児島県立山川高等学校のサブ・コンテンツ(リンク先URLは参照時2010年7月現在)山川高校の生徒が作った農産物を販売しています。)

エディオンナガタ山川店
エディオン鹿児島のナガタ山川店です(旧・鹿児島ベスト電器のBFSナガタ山川店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

(当HP内の)指宿温泉案内
(上述以外の指宿温泉など指宿市内の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内でご参照いただけます。)

(当HP内の)山川温泉郷案内
(指宿市旧山川町地域の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内欄内の山川温泉郷欄でご参照いただけます。)

指宿市、また、特に指宿市旧山川町地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】鹿児島県指宿市の宿・ホテルの検索結果
【楽天トラベル】鹿児島県指宿市旧山川町地域の宿・ホテルの検索結果



当ページ(当画面)内の目次
この画面のトップ
指宿市 指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 






指宿市開聞町エリア>

指宿市ホームページ,  指宿市観光課Facebookページ

いぶすき★net(指宿市観光協会)

(当HP内の)九州新幹線乗車記(再掲)
  指宿温泉がある指宿市へは、終点の鹿児島中央駅で、特急「指宿のたまて箱」等のJR指宿枕崎線の列車に乗り換えれば、行けます。

のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)(再掲)
(リンク先はいわさきコーポレーション(株)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在。)
ならびに
バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』
(リンク先はいぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在google検索結果は、のったりおりたりマイプラン(指宿市)です。指宿の観光スポットを廻るいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の路線バスに乗れる、1日および2日間乗り放題の乗車券です。2日間券では、知覧も併せて周遊できます。2013年11月現在、以下の路線の路線バスに乗ることができ、時刻表については、リンク先URLは2013年11月現在九州のバス時刻表ホームページ,  いぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会) ・ バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』,或いはいわさきコーポレーション(株) ・ のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)でご参照いただけます。なお、指宿,  知覧の観光スポット巡りにはこの他、鹿児島交通観光バスの定期観光バス「指宿・知覧コース」日帰りバス・ツアーも便利です。)
◎   エコキャンプ場(知林ヶ島入口)線   ○   指宿駅前バス停(地図)−宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・池田湖地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−開聞駅前(地図
  ○   エコキャンプ地図知林ヶ島最寄り)−潟山(地図薩摩伝承館最寄り)・指宿駅前(地図)・砂むし会館前(地図)・指宿いわさきホテル地図)・山川駅前(地図)・山川桟橋地図いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」最寄り)・ヘルシーランド入口(地図)・フラワーパーク地図)・長崎鼻地図)・国民宿舎前(地図)・開聞登山口(地図)・開聞駅前(地図)・枚聞神社前(地図)・玉ノ井 地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−池田湖地図
◎   指宿喜入知覧線   ○   指宿いわさきホテル地図)−砂むし会館前(地図)・指宿駅前(地図)・宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・道の駅喜入地図)・喜入(地図喜入駅前(地図)・(知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図
◎   知覧線   ○   (知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図)・平川(地図)・動物園入口(地図)・谷山駅前・鹿児島中央駅地図)経由−鹿児島市天文館山形屋バスセンター

(当HP内の)開聞岳眺望記, & 開聞山麓自然公園訪問記

○   【楽天GORA】鹿児島県のゴルフ場一覧
○   【楽天GORA】いぶすきゴルフクラブ
開聞岳&開聞山麓自然公園と一体化した場所にあります。)


(当HP内の)川尻温泉案内
(指宿市旧開聞町地域の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内欄内の川尻温泉欄でご参照いただけます。)

枚聞神社(ひらききじんじゃ)
薩摩国一の宮です。リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。鹿児島県神社庁ホームページでも枚聞神社として(リンク先URLは2011年4月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも枚聞神社として紹介されています。)

玉乃井(たまのい)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒891-0603 指宿市開聞十町玉井1285-2。Tel.:0993-22-2111(指宿市観光課)。いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でも玉乃井として(リンク先URLは参照時2010年7月現在)全国旅そうだんでも玉乃井として、じゃらんnetでも玉乃井として、鹿児島県神社庁ホームページ ・ 神話街道マップでも9. 玉乃井(たまのい)として紹介されています。)

唐船峡公園(とうせんきょうこうえん)の場所(そうめん流し)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒891-0603 鹿児島県指宿市開聞十町5967。Tel.:0993-32-2143(市営唐船峡そうめん流し)。MAPPLE観光ガイドでも唐船峡そうめん流しとして、全国旅そうだんでも市営唐船峡そうめん流し,  回転式そうめん流しとして、じゃらんnetでも市営唐船峡そうめん流しとして、環境省 ・ 水・土壌・地盤・海洋環境の保全 ・ 行政資料・水環境関係 ・ 水環境総合情報サイト ・ 環境省選定 平成の名水百選でも唐船峡京田湧水(とうせんきょうきょうでんゆうすい)として(リンク先URLは2013年7月現在)鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも唐船峡そうめん流しとして(リンク先URLは2013年7月現在)いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でも〜食べる〜: 唐船峡そうめん流し として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも唐船峡として、或いは平成の名水百選の中で紹介されています。)

開聞山麓香料園
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でも開聞山麓香料園として紹介されています。)

かいもん山麓ふれあい公園,  かいもん山麓ふれあい公園オートキャンプ場
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でもかいもん山麓ふれあい公園として紹介されています。)

レジャーセンターかいもんの場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒891-0602 鹿児島県指宿市開聞川尻5401番地6。Tel.:0993-32-5584。全国旅そうだんでもレジャーセンターかいもんとして、じゃらんnetでもレジャーセンターかいもんとして、プチたびでもレジャーセンターかいもん温泉保健保養館として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもレジャーセンターかいもんとして(リンク先URLは2013年7月現在)いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でもレジャーセンターかいもん として、センター内の温泉については、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty温泉@nifty温泉でもレジャーセンターかいもん 温泉保健保養館として、のっちの温泉日記でも開聞温泉保健保養館として紹介されています。)

花瀬望比公園, 比島戦没者慰霊碑の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒890-0603 鹿児島県指宿市開聞十町4208-11。Tel.: 0993-32-5566(かいもん山麓ふれあい公園)。いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でも花瀬望比公園,  比島戦没者慰霊碑として(リンク先URLは参照時2010年7月現在)全国旅そうだんでも花瀬望比公園,  比島戦没者慰霊碑として、じゃらんnetでも花瀬望比公園として紹介されています。)

かいもん商店の場所
(開聞観光案内所(兼)物産館。〒891-0603 鹿児島県指宿市開聞仙田1109-1。Tel.:0993-32-3999。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。全国商工会連合会 ・ Club Impulse (クラブ・インパルス) ・ 鹿児島県でもかいもん商店として(リンク先URLは2011年4月現在)いぶすき☆観光☆ネット 〜 指宿市観光協会 〜でもかいもん商店として、続・開聞岳ガイドの道でも開聞の魅力発信!,  かいもん商店にアイガモ米がありましたの中で紹介されています。)

(当HP内の)指宿温泉案内
(上述以外の指宿温泉など指宿市内の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内でご参照いただけます。)

(当HP内の)川尻温泉案内
(指宿市旧開聞町地域の温泉については、(当HP内の)指宿温泉案内欄内の川尻温泉欄でご参照いただけます。)

指宿市でのご宿泊は
【楽天トラベル】鹿児島県指宿市の宿・ホテルの検索結果


指宿市全般,交通案内>

(当HP内の)九州新幹線乗車記,  特急「指宿のたまて箱」紹介
→   特急「指宿のたまて箱」の終点・指宿駅からさらに先には、指宿枕崎線普通列車の他、鹿児島交通バスに乗り換えれば行けます。2011年3月現在指宿温泉エリアの指宿観光,  知覧観光の際には、鹿児島交通運営の観光地周遊に使える路線バス『のったりおりたりマイプラン』が便利です鹿児島交通バスの時刻表は、以下のリンク先サイトでご参照可能です。
九州のバス時刻表

交通ナビかごしま

いぶすき☆観光ネット(指宿市観光協会)HP  『のったりおりたりマイプラン』紹介ページ
(リンク先URLは2011年3月現在)


のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)
(リンク先はいわさきコーポレーション(株)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在。)
ならびに
バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』
(リンク先はいぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会)のサブ・コンテンツで、リンク先URLは2013年11月現在google検索結果は、のったりおりたりマイプラン(指宿市)です。指宿の観光スポットを廻るいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の路線バスに乗れる、1日および2日間乗り放題の乗車券です。2日間券では、知覧も併せて周遊できます。2013年11月現在、以下の路線の路線バスに乗ることができ、時刻表については、リンク先URLは2013年11月現在九州のバス時刻表ホームページ,  いぶすき☆観光☆ネット(公益社団法人指宿市観光協会) ・ バスで市内をくまなく観光 『のったりおりたりマイプラン』,或いはいわさきコーポレーション(株) ・ のったりおりたりマイプラン(指宿・知覧地区)でご参照いただけます。なお、指宿,  知覧の観光スポット巡りにはこの他、鹿児島交通観光バスの定期観光バス「指宿・知覧コース」日帰りバス・ツアーも便利です。)
◎   エコキャンプ場(知林ヶ島入口)線   ○   指宿駅前バス停(地図)−宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・池田湖地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−開聞駅前(地図
  ○   エコキャンプ地図知林ヶ島最寄り)−潟山(地図薩摩伝承館最寄り)・指宿駅前(地図)・砂むし会館前(地図)・指宿いわさきホテル地図)・山川駅前(地図)・山川桟橋地図いぶすき山川港特産市場「活お海道(いおかいどう)」最寄り)・ヘルシーランド入口(地図)・フラワーパーク地図)・長崎鼻地図)・国民宿舎前(地図)・開聞登山口(地図)・開聞駅前(地図)・枚聞神社前(地図)・玉ノ井 地図)・唐船峡(とうせんきょう;地図)経由−池田湖地図
◎   指宿喜入知覧線   ○   指宿いわさきホテル地図)−砂むし会館前(地図)・指宿駅前(地図)・宮ヶ浜(地図; 松尾城跡(指宿城跡)最寄り)・今和泉(地図篤姫関連歴史観光スポット最寄り)・道の駅喜入地図)・喜入(地図喜入駅前(地図)・(知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図
◎   知覧線   ○   (知覧)特攻観音入口(地図知覧特攻平和会館,  ミュージアム知覧(南九州市立博物館)最寄り)−(知覧)武家屋敷入口(地図)・平川(地図)・動物園入口(地図)・谷山駅前・鹿児島中央駅地図)経由−鹿児島市天文館山形屋バスセンター

いわさきグループ・鹿児島交通観光バスの定期観光バス「指宿・知覧コース」日帰りバス・ツアー(下記のコースは2005年5月現在。2008年9月現在のお問い合わせ先は、Tel:099-247-6088)
   鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)内「バスご利用の方向けアクセス案内」のページ(の「指宿・開聞・知覧 定期観光バス」欄)(リンク先URLは2012年4月参照時)


○   出発地1:天文館(8:30発)
○   出発地2:鹿児島中央駅(8:50発)
○   出発地3:指宿駅(10:10発)
○   出発地4&訪問地:指宿いわさきホテル(10:15〜11:05)
温泉や、指宿いわさきホテル:美術館・工芸館を楽しめます(時間的にどちらか片方)
○   長崎鼻
○   フラワーパークかごしま
○   開聞岳(トカラ馬の開聞山麓自然公園敷地内のいぶすきゴルフクラブクラブハウスで昼食)(12:50〜13:35)
○   池田湖(14:00〜14:10)
○   知覧特攻平和会館(14:45〜15:25)
○   知覧武家屋敷群(15:30〜16:10)
○   鹿児島中央駅着(17:30)
○   天文館着(17:40)
○   鹿児島空港着(18:30)



その他指宿観光案内については、当HP内の「指宿観光案内のページ」へ(市町村合併前の旧・指宿市の観光スポットも載っています)。

(当HP内の)指宿温泉案内
(上述以外の指宿温泉,  山川温泉郷など指宿市内の温泉宿や日帰り温泉施設については、(当HP内の)指宿温泉案内のページでご参照いただけます。)

指宿市ホームページ,  指宿市観光課Facebookページ

いぶすき★net(指宿市観光協会)

指宿情報 IBUSUKING - 指宿青年会議所による指宿情報サイト -



温泉案内・宿泊案内+α
温泉天国・鹿児島温泉紹介!
(当WEBサイト)
(当HP内の)指宿温泉案内
(当HP内の)南薩地域の温泉案内
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】鹿児島県の温泉旅館・ホテル一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  温泉宿一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  空室検索
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】南薩(指宿・枕崎)の温泉宿一覧
【楽天トラベル】南薩(指宿・枕崎) のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・ANA楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・JAL楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・たびノート】南薩(指宿・枕崎)の観光スポット




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指宿市 指宿市地域(注)
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南九州市

南九州市公式バナー南九州市ホームページ ・ 観光情報
リンク先URLは参照時2010年7月現在。)

南九州市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。南九州市は、旧川辺郡(かわなべぐん) 知覧町(ちらんちょう),旧川辺郡 川辺町(かわなべちょう),旧揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃町(えいちょう)が、2007年12月1日に町村合併しでできた市です。)

南九州市商工観光課Facebookページ


南九州市平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
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南九州市知覧町(ちらんちょう)エリア>

南九州市ホームページ ・ 観光情報(再掲)
リンク先URLは参照時2010年7月現在南九州市は、旧川辺郡(かわなべぐん) 知覧町(ちらんちょう),旧川辺郡 川辺町(かわなべちょう),旧揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃町(えいちょう)が、2007年12月1日に町村合併しでできた市です。)

南九州市商工観光課Facebookページ(再掲)

(当HP内の)南九州市旧知覧町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

(当HP内の)知覧特攻平和会館訪問記

(当HP内の)知覧武家屋敷群訪問記
(薩摩の小京都の風情をお楽しみいただける所です。)

(当HP内の)ミュージアム知覧(南九州市立博物館)訪問記

(当HP内の)薩摩英国館訪問記(知覧)

(当HP内の)南薩地域の温泉案内

上記以外の、その他の知覧の観光案内については、交通案内も含めて、当ホームページ内の知覧観光案内のページでご参照いただけます。

(当HP内の)南九州市旧知覧町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

南九州市でのご宿泊は
【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果



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南九州市川辺町(かわなべちょう)エリア>

南九州市ホームページ ・ 観光情報(再掲)
リンク先URLは参照時2010年7月現在南九州市は、旧川辺郡(かわなべぐん) 知覧町(ちらんちょう),旧川辺郡 川辺町(かわなべちょう),旧揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃町(えいちょう)が、2007年12月1日に町村合併しでできた市です。)

南九州市商工観光課Facebookページ(再掲)

「ほんだ」のホームページ ・ さつま川辺(かわなべ)のページ

はっぴ〜のHP(鹿児島県南九州市川辺町・勝目の情報)

(当HP内の)南九州市旧川辺町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

清水磨崖仏(きよみずまがいぶつ)
仏教遺跡です。リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、清水磨崖仏の場所のとおり。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも清水磨崖仏として紹介されています。隣接して、付近一帯を整備した清水岩屋公園があり、この公園内には、岩屋公園キャンプ場や、関連博物館として斎藤彦松梵字資料室があります。

清水岩屋公園(きよみずいわやこうえん)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水3882,Tel.:0993-56-5465。清水岩屋公園は単に岩屋公園とも言い、仏教遺跡・清水磨崖仏の周辺を整備してできた、清水磨崖仏を中心とする公園です。京都市金閣寺(鹿苑寺)を模して、地元の川辺仏壇(かわなべぶつだん)の技術を用いて建築された桜の屋形や、「清流の杜ふれあい館」内にある斎藤彦松梵字資料室や、岩屋公園キャンプ場等があります。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも清水岩屋公園として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも清水岩屋公園として、全国旅そうだんでも岩屋公園として、じゃらんnetでも岩屋公園として紹介されています。)

斎藤彦松梵字資料室(がある清水岩屋公園)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水3882(清水岩屋公園の住所),Tel.:0993-56-5465。南九州市ホームページでも斎藤彦松梵字資料室として(リンク先URLは2013年11月現在)、紹介されています。将来、リンク切れになったら、南九州市ホームページでのキーワード「斎藤彦松梵字資料室」のgoogle検索結果でお探し下さい。清水岩屋公園の「清流の杜ふれあい館」内にあり、清水磨崖仏の関連博物館としてお楽しみいただくことが可能です。なお、故・斎藤彦松の研究業績については、「CiNii - NII(国立情報学研究所)論文情報ナビゲータ > キーワード「齋藤+彦松」の検索結果」で検索することが可能です。)

岩屋公園キャンプ場
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水3882,Tel.:0993-56-5465。岩屋公園キャンプ場がある清水岩屋公園(きよみずいわやこうえん)の場所をアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で示せば、清水岩屋公園の場所のとおり。清水岩屋公園にあるキャンプ場です。MAPPLE観光ガイドでも岩屋公園キャンプ場として紹介されています。)

清水の湧水
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、清水の湧水の場所のとおり。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水。MAPPLE観光ガイドでも清水の湧水として紹介されています。名水百選に選ばれた名水です。)

道の駅 川辺やすらぎの郷
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、道の駅 川辺やすらぎの郷の場所のとおり。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水6910,Tel.:0993-58-3131。国土交通省・九州地方整備局 ・ 九州の道の駅でも川辺やすらぎの郷として紹介されています(リンク先URLは参照時2010年7月現在)。)

オートキャンプ森のかわなべ
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、オートキャンプ森のかわなべの場所のとおり。住所:鹿児島県南九州市川辺町清水6910,Tel.:0993-58-3131。全国旅そうだんでもオートキャンプ森のかわなべとして紹介されています。)

南九州市森林馬事公苑公式WEBサイト
(旧・川辺町森林馬事公苑。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、南九州市森林馬事公苑の場所のとおり。住所:〒897-0203 鹿児島県南九州市川辺町野崎8152,Tel.:0993-56-0955。(社)全国乗馬倶楽部振興協会公式WEBサイト ・ 全国の乗馬クラブ ・ 南九州でも南九州森林馬事公苑としてリンク先URLは参照時2010年7月現在全国旅そうだんでも南九州市森林馬事公苑として、じゃらんnetでも南九州市森林馬事公苑として紹介されています。)

(当HP内の)南九州市旧川辺町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

南九州市旧川辺町(かわなべちょう)地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】ビジネスホテル オカノ
【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿はビジネスホテル オカノ だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南九州市の他の場所も含めての宿探しに対しては、上記の【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)



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平山城跡(川辺城(かわなべじょう)跡)の場所(現・諏訪運動公園&南九州市立川辺小学校)
(リンク先は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 平山城跡等に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南九州市川辺町平山7354(跡地の中の一つ「諏訪運動公園」の住所)。Tel:0993-56-1111(南九州市役所川辺支所地域振興課)。鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも平山城跡として、城郭放浪記でも薩摩・平山城として、妄想族の城探訪でも川辺の平山城として、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも川辺麓として、雑記帳でも平山城(川辺城)−−−南九州市川辺町平山天神として、「ほんだ」のホームページ ・ さつま川辺(かわなべ)のページでもさつま川辺の歴史(歴史赤点おじさんのコーナー)の中で紹介されています。平山城跡(川辺城跡)にある諏訪運動公園(地図については、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも諏訪運動公園として(リンク先URLは2013年11月現在)全国旅そうだんでも諏訪運動公園として、じゃらんnetでも諏訪運動公園として紹介されています。平山城跡(川辺城跡)にある南九州市立川辺小学校(地図については、公式WEBサイト「南九州市立川辺小学校ホームページ」がある他、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも南九州市立川辺小学校として紹介されています。
  
平山城跡は、別名を川辺城とも言う城の中世城郭遺構です。2013年11月現在平山城(川辺城)の跡地は諏訪運動公園(地図南九州市立川辺小学校(地図になっています。城郭放浪記 ・ 薩摩・平山城によれば、平山城(川辺城)の正確な築城年代は不明ながら、平安時代末期に川辺(かわなべ)道房によって築城されたとされているとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 薩摩平氏によれば、川辺氏とは薩摩平氏の中の1家で初代の川辺道房は伊作良道の子であり、薩摩平氏とは、中世前期まで薩摩半島を支配した、桓武平氏の一族であるとの由です。城郭放浪記 ・ 薩摩・平山城によれば、川辺氏は、川辺氏第4代当主・川辺久道は、鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱で朝廷方に味方したために、所領を没収されて没落したと伝えられているとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 千竈氏等によれば、川辺氏没落後の鎌倉時代薩摩国 ・ 川辺郡(現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域,  枕崎市,  南さつま市加世田市地域,  南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域,  南さつま市大浦町地域,  南さつま市笠沙町地域)は、鎌倉幕府執権を世襲した北条氏の宗家である得宗家の領土となったとの由です。尾張国千竈(ちかま)郷(現・名古屋市 ・ 南区千竈通(この辺り(地図)))を本拠地としていた鎌倉幕府 御家人であると同時に、御内人得宗被官)でもあった千竈(ちかま)氏が、薩摩国得宗領の代官として、薩摩国 ・ 川辺郡にいたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 松尾城によれば、千竈氏の居城は
平山城(川辺城)ではなく、薩摩国川辺(現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域の野崎)にあった松尾城(地図であったとの由です(松尾城の地図は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 松尾城跡によるものです)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 千竈氏によれば、千竈氏得宗家の代官として統治していた所領は、単に薩摩国川辺だけにとどまらず、薩摩国 ・ 川辺郡を拠点にして、薩摩国 ・ 川辺郡内の、日本三津と呼ばれた古代から江戸時代にかけての重要港であった薩摩国 ・ 坊津(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町地域),  屋久島,  奄美大島,  喜界島,  沖永良部島,  徳之島にまで及んでいたとの由です。高津 孝橋口 亘大木公彦薩摩塔研究(続) : その現状と問題点」『鹿大史学』,Vol.59,2012,pp.29-42では、九州各地に分布する石造りの仏塔薩摩塔」の製作背景に、千竈氏も関わった交易物流の影響が想定可能である旨の可能性が示唆されています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 千竈氏によれば、千竈氏は、室町時代になると、島津氏の支配下に入ったとの由です。
  城郭放浪記 ・ 薩摩・平山城によれば、
平山城(川辺城)は、南北朝時代から室町時代にかけて、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の守護 ・ 島津氏宗家が奥州家総州家とに分かれていた時期の総州家第2代当主(島津氏宗家第7代当主)・島津伊久公の城になったとの由です。奥州家総州家の分裂のいきさつは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての島津氏宗家第5代当主・島津貞久公の代にまで遡(さかのぼ)ります。島津貞久公は、島津氏宗家の居城を、薩摩国 山門院(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域 + 出水市高尾野町地域 + 出水市出水市地域の「庄(荘(この辺り(地図))?),六月田町(この辺り(地図))から下鯖淵(下鯖町(この辺り(地図))?),武本(この辺り(地図))」+阿久根市(あくねし)の「多田(この辺り(地図)),折口(この辺り(地図)),脇本(この辺り(地図))」)の木牟礼城きのむれじょうから、薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内(さつませんだい)市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の碇山城いかりやまじょうを経て、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の東福寺城に移したとされる武将です。島津貞久公は、薩摩国守護職を三男の島津師久公に、大隅国守護職を四男の島津氏久公に譲って分割統治させ、以降しばらくの間、島津氏宗家が島津師久公の系統の薩摩国  守護職の総州家と、島津氏久公の系統の大隅国  守護職の奥州家とに分かれていました。総州家奥州家は、当初は共通の敵・今川了俊(今川貞世)がいたこともあり、連携して共闘していました。本来は北朝方武将であった島津氏が、北朝方の九州探題今川了俊(今川貞世)を敵としたのには、経緯があります。
  南北朝時代の天授元年/永和元年(1375年)、北朝方の九州探題 ・ 今川了俊(今川貞世)が、南朝方の菊池氏の城・肥後国(概ね現・熊本県菊池郡水島(現・熊本県 ・ 菊池市七城町台)の
水島城(臺城(台城))(地図水島城の地図は、菊池一族おっかけサイト 菊池玲瓏 ・ 「『関連史跡(菊池一族関連史跡一覧) ・ 台城(水島城)』,  『MAP(菊池一族おっかけマップ) → 菊池一族おっかけマップ(肥後)』」によるもの(リンク先URLは2013年4月現在))攻めに備えて、大隅国  守護島津氏宗家(奥州家)第6代当主・島津氏久公,  豊後国  守護 ・ 大友親世,  筑前国(現在の福岡県西部の北側)守護 ・ 少弐冬資を招集しました。筑前国の支配権を巡って北朝方内部で今川了俊と勢力争いが生じ始めていた少弐冬資は参陣を当初は拒んだため、今川了俊島津氏久公に少弐冬資の参陣を促させた結果、島津氏久公の説得に応じてようやく少弐冬資は参陣しました。ところが、参陣した少弐冬資今川了俊が謀殺してしまったため、面目を潰された島津氏久公は憤って離反して今川了俊と絶縁し、南朝方に転じて帰国してしまい、大友親世も中立的な態度に転じてしまった結果、北朝方の乱れをついた南朝方の菊池氏第17代当主・菊池武朝に敗れてしまったという、水島の変が起きました。この水島の変奥州家島津氏久公だけでなく総州家も含めて島津氏今川了俊と敵対しました。これに対して今川了俊は、島津氏宗家(奥州家)第6代当主・島津氏久公の大隅国島津氏宗家(総州家)第7代当主・島津伊久公の薩摩国守護の職を剥奪して自らが両国の守護になった上で、天授2年/永和2年(1376年)に五男の今川満範日向国(概ね現・宮崎県)に派遣し、翌・永和3年/天授3年(1377年)冬に今川満範は、島津氏庶流の北郷氏(都城島津氏)第2代当主・北郷義久の居城だった日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城を攻めた等、日向国を中心にして、今川満範側の諸将と島津氏側の諸将が抗争を繰り広げました。志布志市ホームページ ・ 観光ガイド ・ 歴史 ・ 志布志城跡 ・ 志布志城の歴史,ならびにに尚古集成館公式WEBサイト ・ 島津氏久よれば、この時期、島津氏宗家(奥州家)第6代当主・島津氏久公は、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を拠点にして、都之城北郷氏の救援をしていました。この過程について詳しくは、当ホームページ内の都之城紹介欄で、ご参照いただけます。
  島津氏側は今川了俊に降伏して北朝方に戻ったり、また抗争が勃発したり、様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、明徳3年/元中9年(1392年)の南北朝合一(明徳の和約)後も含めて今川了俊(今川貞世) ・ 今川満範島津氏との抗争は続いたとの由です。この今川了俊島津氏との間の対立抗争は、応永2年(1395年)に今川了俊九州探題を解任されたことにより、終結しました。この間、薩摩国 守護家である総州家では、島津氏第6代当主(総州家初代当主)・島津師久公が永和元年/天授元年(1375年)に52歳で死去し、島津氏第7代当主(総州家第2代当主)・島津伊久公の代になっていました。「ほんだ」のホームページ ・ さつま川辺の歴史(歴史赤点おじさんのコーナー)によれば、明徳4年(1393年)に島津氏第7代当主(総州家第2代当主)・島津伊久公は、薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の
碇山城いかりやまじょうから、薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城川辺城に移り、嫡男・島津守久碇山城いかりやまじょうに留めたとの由です。これにより、薩摩国 守護所は、平山城川辺城に移ったことになります。
  共通の敵・今川了俊と抗争している間は、奥州家総州家との仲は良好でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津守久によれば、今川了俊九州探題を解任される前々年の明徳4年(1393年)には、島津氏宗家第7代(総州家第2代)当主で薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の
平山城(川辺城)城主の島津伊久公が、嫡男の総州家第3代当主で、薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の碇山城いかりやまじょう城主の島津守久が仲違いして、父・島津伊久公の居城・平山城(川辺城)を囲んだ際には、島津伊久公の従兄弟の島津氏宗家第7代(奥州家第2代)当主・島津元久公が両者の仲介を行い、和睦に導いたとの由です。この時、島津伊久公は島津元久公に、見返りとして島津氏伝家の家宝と薩摩国守護職を譲り渡したとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津守久によれば、この時、、島津伊久公と島津守久は居城を交代したとの由ですので、島津伊久公が碇山城城主になり、島津守久平山城(川辺城)城主になったことになります。この、総州家第2代当主・島津伊久公が島津氏宗家第7代当主の薩摩国  守護として平山城(川辺城)にいた時期は、平山城(川辺城)島津氏宗家の居城だった期間だ、ということになります。
  ところが、共通の敵・今川了俊がいなくなると、奥州家総州家は仲違いしてしまいました。尚古集成館公式WEBサイト ・ 島津元久,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津伊久ならびに島津元久によれば、島津元久公が、薩摩国  守護である島津伊久公の領国・薩摩国の鹿児島(現・鹿児島市)に
清水城しみずじょうを築いたことから、島津元久公と島津伊久公とが仲違いし始めたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津伊久にも「支配を強めたことが原因で」と載っているとおり、清水城を拠点にして奥州家薩摩国内での支配権を強めようとしたことに対して、共通の敵・今川了俊がいなくなると我慢する理由が無くなったため、怒りが火を噴いたのではないか、と推測します。
  この時期、詳しくは当ホームページ内の
鶴田城(鶴田古城)紹介欄で解説したとおり、北薩(北薩摩)の有力国人渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内、薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主・東郷氏,  薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主・祁答院氏,  薩摩国入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城(きよしきじょう)城主・入来院(いりきいん)氏,  薩摩国  高城(たき;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)高城町(たきちょう))の妹背城(高城城)城主・高城(たき)氏の4家は島津氏宗家第7代(総州家第2代)当主・平山城(川辺城)城主の島津伊久公側につきました。これに対して、薩摩国鶴田(現・鹿児島県 ・ さつま町鶴田町地域)の鶴田城(鶴田古城)城主・鶴田氏は島津氏宗家第7代(奥州家第2代)当主・島津元久公側について渋谷五族(薩摩渋谷氏)が分裂した結果、応永8年(1401年)の鶴田合戦で鶴田城(鶴田古城)渋谷五族(薩摩渋谷氏)の他の4家から攻め落とされて、鶴田氏は滅びました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津元久によれば、この、奥州家総州家との間の抗争に対して、室町幕府は当初は総州家島津伊久公側についたとの由ですが、応永11年(1404年)に室町幕府の調停で和睦したとの由であり、同年、かつて今川了俊に剥奪された大隅国日向国守護の座に、島津元久公は就任したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 薩摩国ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津守久によれば明徳4年(1393年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津元久によれば応永16年(1409年)に、島津元久公は薩摩国守護職にもなり、島津元久公が三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)全ての守護職に就いたことにより、奥州家総州家との抗争は奥州家の勝利に終わったとの由です。
  城郭放浪記 ・ 薩摩・木牟礼城,  日本吉 ・ 木牟礼城趾 Kinomure-joushi,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津守久,  島津久世,ならびに島津久林によれば、薩摩国守護職の座を継げられなかった島津守久は、薩摩国 山門院(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域 + 出水市高尾野町地域+α)の
木牟礼城きのむれじょうに移ったとの由です。ところが、薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)を拠点にしていた島津氏庶流の伊集院氏第7代当主・伊集院頼久が応永20年(1413年)〜応永24年(1417年)に起こした伊集院頼久の乱の過程で、応永20年(1413年)に総州家第4代当主・島津久世は、突如、島津氏宗家第8代(奥州家第3代)当主・島津久豊公を裏切って伊集院頼久方についたことから、伊集院頼久から平山城(川辺城)を与えられたとの由です。このことから、平山城(川辺城)は一時期は伊集院頼久の城であったことと、再び総州家の城になったこととが、分かります。しかし、伊集院頼久島津久豊公に大敗したため、応永23年(1416年)に和解のために島津久豊公の下を訪れた宿舎を包囲されて、島津久世は自害したとの由です。城郭放浪記 ・ 薩摩・碇山城,  薩摩・木牟礼城,  日本吉 ・ 木牟礼城趾 Kinomure-joushi,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津守久,ならびに島津久林によれば、島津久世の子で総州家第5代当主・島津久林(しまづ ひさもり)(島津犬太郎)は、薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の碇山城でしばらくの間は奥州家島津久豊公側)に対して抵抗していたとの由ですが、伊集院頼久が降伏したため、祖父・島津守久の居城である薩摩国 山門院(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域 + 出水市高尾野町地域+α)の木牟礼城きのむれじょうに逃げ込んだとの由です。ところが、応永29年(1422年)に島津久豊公の世子(後の島津氏宗家第9代当主)・島津忠国公に攻められたため、島津守久と孫の島津久林は、海路で肥前国(現・長崎県佐賀県)に逃れたとの由です。島津久林島津氏の領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)に戻って日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)に潜伏していたとの由ですが、永享2年(1430年)に島津氏宗家第9代当主・島津忠国公の急襲を受けて島津久林が自害して、総州家は断絶したとの由です。
  ところで、島津氏第4代当主・島津忠宗公の次男忠氏が薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)を与えられて
出水城を最初の城として「和泉氏(いずみし)」を名乗っていた、南北朝時代から室町時代にかけての島津氏庶流の和泉氏は、その後、詳しくは当ホームページ内の出水城案内欄で解説した理由により日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)に移って奥州家の家臣と化していました。青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.98-99,ならびにSamurai World ・ 篤姫の実家、今和泉家とはどんな家柄?によれば、上述の伊集院頼久の乱において、この和泉氏の第3代当主(第4代との情報もあり)の直久と弟・忠次が、島津氏第8代当主・島津久豊公に従って応永24年(1417年)に平山城(川辺城)を攻撃した際に、伊集院頼久の猛攻を受けて兄弟共に討ち死にしてしまったとの由です。直久にも忠次にも子が無かったため、和泉氏は一旦断絶しました。余談ですが、後の江戸時代に、島津氏第22代当主で薩摩藩第5代藩主の島津継豊公が、弟の島津忠卿に300年以上ぶりに和泉氏の名跡を継がせて、藩主断絶の際には代わりに藩主になり得る高い家格の庶流「御一門」の家として再興したのが、後に天璋院篤姫の生家となる今和泉島津家です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊集院頼久,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)p.100によれば、島津氏第8代当主・島津久豊公が伊集院頼久の娘を後妻に迎える条件で和睦した島津久豊公は、伊集院頼久薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の本領を安堵し、薩摩国川辺も伊集院頼久に与えたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊集院頼久によれば、伊集院頼久
平山城(川辺城)で隠居してここで没したとの由ですが、川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねてp.100によれば、伊集院頼久の子・伊集院初千代丸(後の伊集院氏第8代当主・伊集院煕久)がまだ幼かったため、薩摩国出水の出水城城主(兼)薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)城主で、島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第2代当主・島津国久平山城(川辺城)の城主も兼任させて、自(みずか)らは仏門に入ったとの由です。この経緯により、平山城(川辺城)薩州家の城になったとの由です。島津国久について詳しくは、当ホームページ内の出水城紹介欄で解説していますので、そちらでご参照可能です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊集院煕久によれば、伊集院煕久は後年の宝徳元年(1449年)に、島津氏第9代当主・島津忠国公に謀反を起こして鎮圧されてしまい、肥後国(概ね現・熊本県)に逃亡したと言われていますが詳細は不明との由であり、いずれにせよ、伊集院氏宗家は本領の薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)を失い、薩摩国伊集院と一宇治城(伊集院城)は、島津氏宗家の直轄領になったとの由です。
  詳しくは当画面(当ページ)下方の
亀ヶ城紹介欄で解説したとおりの経緯で生じた、戦国時代の大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)に、「薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)島津氏庶流の伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城島津氏庶流の相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公と、その嫡男で島津氏宗家を継いだ島津氏宗家第15代当主・島津貴久公」と、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久(しまづ さねひさ)との間で行われた、島津氏宗家の家督相続と、島津氏の領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の守護職就任を廻っての島津氏の内部抗争・内ゲバの内乱では、平山城(川辺城)薩州家(薩州島津氏)の城でしたので、抗争の舞台の中の一つになりました。この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。
  当段落から始まる2段落で後述すること以外で、この2段落で述べることについて詳しくは当画面(当ページ)下方の
亀ヶ城紹介欄で解説したとおりの経緯のため省略します。年は数年前後しますが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  
平山城(川辺城)の戦いについて詳述します。青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101によれば、日新斎島津忠良公が谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功したのは天文8年(1539年)の別府城(加世田城)の戦いの後のことであり、上述の平山城(川辺城)の戦いは、谷山で敗れた後に島津実久が川辺に逃れて来て起きたものであるとの由です。平山城(川辺城)の近くにある支城・松尾城(地図では、当初、島津実久方の鎌田伊賀守が守っていたとの由ですが、鎌田伊賀守は戦わずに城を出て降伏して、代わりに、日新斎島津忠良公の家臣・新納康久(にいろ やすひさ)松尾城(地図に入ったとの由です。日新斎島津忠良公は、難攻不落で知られる平山城(川辺城)への正面攻撃を避けて回り込むように攻撃したとの由であり、島津実久側の抵抗は激しかったものの天文8年(1539年)3月についに平山城(川辺城)は陥落し、南薩の地は、日新斎島津忠良公のものになったとの由です。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。例えば、詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)で解説した経緯のため、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋)によれば、天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  天文8年(1539年)の島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)の勝利後、
平山城(川辺城)の城主に誰が配置されたのかは、2013年11月時点では当ホームページ管理人は存じ上げません。ですが、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈295〉川辺の伝・ザビエル墓,  「ほんだ」のホームページ ・ さつま川辺(かわなべ)のページ ・ さつま川辺の歴史(歴史赤点おじさんのコーナー),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納康久によれば、上述の新納康久は、天文17年(1548年)に伊集院忠朗に代わって薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を預かって城主になった後、その跡を継いだ次男・新納久饒(にいろ ひさあつ)は、正確な時期を確認できませんでしたが、薩摩国川辺の領主(地頭)に転じたとの由です。「ほんだ」のホームページ ・ さつま川辺(かわなべ)のページ ・ さつま川辺の歴史(歴史赤点おじさんのコーナー)によれば、新納氏は、川辺町(現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の郷土史では松尾城(地図に、金峰町(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の郷土史では平山城(川辺城)に入ったとの記述があるとの由ですが、これが、天文8年(1539年)の島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)の勝利後、市来鶴丸城に赴任するまでの間の新納康久が川辺にいたことがあって、それを指すのか、それとも、新納久饒薩摩国川辺の領主(地頭)に転じた時点のことを指すのか、さらにそれとも、その両期間のことを指すのか、は確認できませんでした。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈295〉川辺の伝・ザビエル墓によれば、新納氏のこの系統の家系は、江戸時代には川辺神殿村(現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域の字(あざ)・川辺町神殿(こうどの)(この辺り(地図)))235石を知行していたとの由です。
  なお、新納氏について補足します。新納氏島津氏の異姓庶流の家で、鎌倉時代島津氏宗家第4代当主・島津忠宗公の四男・新納時久が初代として興した家で、日向国 ・ 児湯(こゆ)郡新納(にいろ)院(現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町)の地頭に任じられて、新納院に
高城地図を築き、地名を苗字にして新納氏と名乗るようになったのが起源です。その後、詳しくは当ホームページ内の志布志城紹介欄で解説した経緯により、南北朝時代日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城に移りました。詳しくは当ホームページ内の亀丸城(伊作城)紹介欄志布志城紹介欄で解説した、戦国時代初期の文明16年(1484年)〜文明17年(1485年)に、薩摩国伊作(いざく)(現・日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)を本拠地とした島津氏庶流(分家)の伊作家(伊作島津家)第8代当主・島津久逸が起こした島津久逸の乱では、日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城おびじょう,  解説,  地図に移っていた新納氏第5代当主・新納忠続島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公方であったのに対して、志布志城城主だった新納忠続の弟・新納是久島津久逸方につき、戦死してしまったとの由です。新納氏宗家は志布志城に戻りましたが、詳しくは当ホームページ内の都之城紹介欄志布志城紹介欄で解説した経緯により、戦国時代の天文7年(1538年)に、日向国飫肥の飫肥城城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝と、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏第8代当主・北郷忠相が、志布志城城主で新納氏第8代当主・新納忠勝と嫡子・新納忠茂父子を攻撃して志布志城等の新納氏の諸城は落城させた結果、新納氏宗家は没落したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納是久によれば、新納是久は生前、娘の常磐を、島津久逸の嫡子で、後に伊作家(伊作島津家)第9代当主になる島津善久に嫁がせていたとの由です。この島津善久常磐との間に生まれた子が、上述の日新斎島津忠良公です。この常磐つながりの縁のため、新納是久の系統の新納氏庶流の家は、日新斎島津忠良公の家臣となっていたとの由です。上述の天文8年(1539年)3月の平山城(川辺城)攻めで活躍した新納康久新納是久の系統であり、新納氏新納氏宗家が没落した後でも、日新斎島津忠良公につき従っていた新納是久の系統の新納氏庶流の戦国時代の武将達が、新納康久の例のように、鹿児島県の郷土史に名が残る活躍をしました。
  江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。御仮屋とは、武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設です。また、武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。各「外城(麓)」で「郷」を統治する武士の見地から「郷」を分類すれば、一所持と呼ばれる家格の重臣が私領主として統治する「郷」と、薩摩藩の藩庁の役人が藩官僚「地頭」として統治する「郷」とが、ありました。城鑑賞の旅・二人で城ある記 城(お城・城郭)・宮殿・城下町・歴史遺構など、熟年夫婦の城巡りの報告 ・ 島津 外城(麓)の地図によれば、
川辺は後者の方であったとの由です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 川辺麓によれば、川辺の地頭仮屋は南九州市立市民交流センター「ひまわり館」地図にあったとの由です。また、その発掘記録は、南九州市教育委員会川辺郷地頭仮屋跡 : 南九州市立市民交流センター「ひまわり館」建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』であるとの由です。2013年11月現在南九州市立市民交流センター「ひまわり館」地図には、南九州市立図書館 ・ 川辺図書室があります。
  公共交通機関での行き方、アクセスは、2013年11月現在鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「山形屋バスセンター−中央駅(鹿児島中央駅)地図)・谷山駅経由−川辺高校地図)・「枕崎(駅前) 」(地図)」路線の路線バスに乗り、「川辺本町」バス停(地図)下車、徒歩です。或いは、A HREF="KAGKANRT.HTM">鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「山形屋バスセンター−中央駅(鹿児島中央駅)地図)・谷山駅経由−川辺(この辺り(地図))・「枕崎(駅前) 」(地図)(特急)」路線の特急路線バスに乗り、「広瀬橋」バス停(地図)下車、徒歩です。これらの路線の路線バスには、逆方向として、JR九州 ・ 指宿枕崎線枕崎駅地図)で、最寄りの「枕崎(駅前) 」バス停(地図)バス停で乗り換えて行くこともできます。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。空路でお越しの方は、起点となる山形屋バスセンターがある鹿児島市の中心繁華街・天文館や、九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)へは、鹿児島空港地図)からの空港アクセス・バスで行くことができます。空港アクセス・バスの時刻表については、鹿児島空港ビル公式WEBサイトでお調べいただけます。また、起点となる九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)へは、宮崎県方面からは、例えば特急きりしま等のJR九州 ・ 日豊本線の列車に乗れば、行くことができます。
  また、最寄りの温泉地や温泉宿、ご宿泊先は、
南薩の温泉,  【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果等で、お探しいただけます。)

(当HP内の)南九州市旧川辺町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

南九州市旧川辺町(かわなべちょう)地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】ビジネスホテル オカノ
【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿はビジネスホテル オカノ だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南九州市の他の場所も含めての宿探しに対しては、上記の【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)


○  この地域への行き方・アクセス(交通案内、時刻表)
(当HP内の)九州新幹線乗車記
  終点の鹿児島中央駅からこの地域への、もしくはこの地域内のバス路線の時刻表は、以下のリンク先でご参照いただけます。この地域には、鹿児島交通の路線バスが走っています。
→   ○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま




当ページ(当画面)内の目次
指宿市 指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 




南九州市頴娃町(えいちょう)エリア>

南九州市ホームページ ・ 観光情報(再掲)
リンク先URLは参照時2010年7月現在南九州市は、旧川辺郡(かわなべぐん) 知覧町(ちらんちょう),旧川辺郡 川辺町(かわなべちょう),旧揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃町(えいちょう)が、2007年12月1日に町村合併しでできた市です。)

南九州市商工観光課Facebookページ(再掲)

知覧・頴娃・指宿・枕崎観光の鹿児島南薩観光情報【頴娃町タウン情報】
リンク先URLは2011年10月現在南九州市頴娃町エリアの観光スポットを中心に、南薩地域の観光スポットを紹介する、他の運営者によるブログです。)

(当HP内の)南九州市旧頴娃町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

夢・風の里 アグリランドえい公式WEBサイト
楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも夢・風の里アグリランドえいとして紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、の場所のとおり。住所:鹿児島県南九州市頴娃町牧之内15025-5、Tel.:0993-36-3535。立ち寄り湯施設があり、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty温泉@nifty温泉でもアグリ温泉えいとして、Press9 九州沖縄9紙合同サイト ・ 九州温泉プレスでもアグリ温泉えいとして紹介されています。
  園内には
畑の郷水土利館もあるとの由であり(ただし、地図で見ると夢・風の里アグリランドえいに隣接はしていても園外であり、2013年11月現在、「夢・風の里アグリランドえいの園内にある」旨の情報は、畑の郷水土利館公式WEBサイトには載っていても、夢・風の里 アグリランドえい公式WEBサイトには載っていません)、千貫平自然公園も最寄りにあります。)

畑の郷水土利館公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、畑の郷水土利館の場所のとおり。住所:〒891-0702 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内15025番8、Tel.:0993-36-3911。ドコイク?でも畑の郷水土利館として、goo地域でも[市区町村機関] 畑の郷水土利館 - 鹿児島として紹介されています。2013年11月現在(株)明興テクノスです。夢・風の里アグリランドえい内にあるとの由であり(ただし、地図で見ると夢・風の里アグリランドえいに隣接はしていても園外であり、2013年11月現在、「夢・風の里アグリランドえいの園内にある」旨の情報は、畑の郷水土利館公式WEBサイトには載っていても、夢・風の里 アグリランドえい公式WEBサイトには載っていません)、千貫平自然公園も最寄りにあります。)

千貫平自然公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市頴娃町牧之内15037,Tel.:0993-36-1111(頴娃支所地域振興課地域振興係),住所:鹿児島市喜入生見町,Tel.:099-216-1327(鹿児島市観光振興課)。南九州市頴娃町(えいちょう)地域鹿児島市とにまたがっています。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも千貫平自然公園のツツジとして、MAPPLE観光ガイドでも千貫平自然公園のツツジとして、全国旅そうだんでも千貫平自然公園として、プチたびでも千貫平自然公園として、鹿児島市観光サイト よかとこ かごんまナビでも千貫平自然公園として紹介されています。夢・風の里アグリランドえいが最寄りにあります。)

南九州市頴娃歴史民俗資料館(ミナミキュウシュウシエイレキシミンゾクシリョウカン)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-0701 鹿児島県南九州市頴娃町郡9278,Tel.:0993-36-2706 。全国旅そうだんでも南九州市頴娃歴史民俗資料館として、じゃらんnetでも頴娃町歴史民俗資料館として紹介されています。江戸時代薩摩藩の、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」における、頴娃城跡武家屋敷群である頴娃の、地頭の館である御仮屋の跡地でもあるとの由です。
  関連スポットには、伴姓頴娃氏の居城跡である
頴娃城跡や、伴姓頴娃氏の菩提寺だった大通寺跡があります。)

大通寺跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市頴娃町郡,Tel.:0993-36-1110(南九州市教育委員会頴娃分室社会教育課)。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも頴娃城・大通寺跡として(リンク先URLは2011年4月現在)Ruins in Kagoshima - 鹿児島県の廃墟でも廃寺その壱 ――「大通寺跡」として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも大通寺(南九州市)として紹介されています。
  鹿児島県は、廃仏毀釈が極端過激だった県であり、一時期は県内の寺が薩摩藩主の菩提寺も含めて1寺も残さずに全滅した程です。ごく一部は後に復活しましたが、多くの名刹が消えてしまいました。このため、観光では歴史が売りの県では珍しく、お寺巡り系観光スポットが豊富ではありません。他の県にあるような「現役のお寺参り」ではなく「寺の遺跡」が多くなります。
  この大通寺跡も、そのような廃寺になったお寺の「お寺の遺跡」観光スポットです。大通寺は、大通寺がある頴娃(えい)の室町・戦国時代の領主だった頴娃氏の菩提寺だった寺です。文明年間(1469〜1486年)に建てられたものとの由です。
  武士の名前では、本来は「姓」と「名字(苗字)」とは別のものでした。例えば徳川家康の場合、「源氏」ですので、「名字」は「徳川」ですが「姓」は「源氏」となり、朝廷に出す公文書での署名欄に書く名前は「源家康」になります。多くの場合、武士の「名字」は中世の所領の土地の名前です。頴娃氏とは、「伴」姓の一族の中で「頴娃」が名字だった家という意味です。「伴」姓とは、万葉歌人の大伴旅人や大伴家持で知られる古代の軍事貴族・大伴氏のことで、鹿児島県の郷土史では奈良時代・養老4年(720年)の隼人の反乱を鎮圧したのは大伴旅人です。「大伴氏」は、藤原種継暗殺事件を起こしたことや、淳和天皇(大伴親王)との名の重複を憚(はばか)ったこと等のために「大」の字を除いて「伴氏」となり、このため、大伴氏の庶流で地方に土着して武士化した一族の姓(本姓)は伴氏になりました。
  頴娃氏は、中世に大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の
高山城を拠点にしていた豪族で姓の肝付(きもつき)氏出身であり、島津氏宗家8代当主・島津久豊公の養子でもあった肝付兼政(忠重)が応永27年(1420年)に頴娃を領土として与えられて頴娃氏初代になったことから始まりました。頴娃氏の統治以前には頴娃は平姓の頴娃氏が治めていましたので、姓と姓の異なる頴娃氏を区別するべく頴娃氏のように姓を強調します。
  伴姓頴娃氏は安土桃山時代に頴娃の統治権を失いますが、伴姓頴娃氏がいなくなった後も江戸時代まで大通寺が残っていた旨が確認されているとの由です。廃寺の理由が廃仏毀釈によるものか、それ以前に既に廃れていたのか、どちらであるかは報告者は存じ上げません。廃寺になってしまったので寺は建物としても組織としても現存していませんが、今日では、頴娃氏の墓塔群5基と歴代住職の墓塔群14基が残っているとの由です。
  関連スポットには、
南九州市頴娃歴史民俗資料館や、伴姓頴娃氏の居城跡である頴娃城跡があります。
  交通アクセスは、JR指宿枕崎線頴娃駅から車で5分です。関連スポットには、南九州市頴娃歴史民俗資料館や、伴姓頴娃氏の居城だった頴娃城跡があります。 )


大野岳(大野嶽自然公園)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市頴娃町,Tel.:0993-36-1111(南九州市頴娃支所地域振興課商工観光係)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも大野岳(鹿児島県)として、全国旅そうだんでも大野嶽展望所,  大野嶽登山道路ハイキングコースとして、じゃらんnetでも大野嶽展望所として紹介されています。大野岳には、大野嶽神社にあります。)

大野嶽神社の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-0701 南九州市頴娃町郡4744,Tel.:0993-36-1111(南九州市頴娃支所地域振興課)。鹿児島県神社庁ホームページでも大野嶽神社として(リンク先URLは2011年4月現在)全国旅そうだんでも大野嶽神社として、じゃらんnetでも大野嶽神社として紹介されています。大野岳にあります。)

瀬平公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南九州市頴娃町郡長崎。全国旅そうだんでも瀬平公園として、じゃらんnetでも瀬平公園として紹介されています。)

戸柱自然公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市頴娃町別府。南九州市携帯サイトでも戸柱自然公園 として(リンク先URLは2011年4月現在)南九州市ホームページでも戸柱自然公園として(リンク先URLは2013年11月現在)、紹介されています。将来、リンク切れになったら、南九州市ホームページ上のキーワード「戸柱自然公園」のgoogle検索結果でお探し下さい。)

番所鼻自然公園(バンショバナコウエン)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南九州市頴娃町別府。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも番所鼻自然公園として(リンク先URLは2011年4月現在)南九州ホームページ上の情報は南九州ホームページのキーワード「番所鼻自然公園」でのgoogle検索結果で、全国旅そうだんでも番所鼻公園として、じゃらんnetでも番所鼻公園として紹介されています。
  最寄りの観光スポットには、
タツノオトシゴハウスがあります。また、最寄りの宿としては、いせえび荘があります。)
  【楽天トラベル】いせえび荘

タツノオトシゴハウス(シーホースウェイズ(株)公式WEBサイト)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、タツノオトシゴハウスの場所のとおり。〒891-0704 鹿児島県南九州市頴娃町別府5202-2,Tel.:0993-38-1883。るるぶ.comでもタツノオトシゴハウスとして、鹿児島女子の好きなものでもタツノオトシゴハウス☆頴娃町として、みなみの森の雑貨屋さんでも【みなみの森】 タツノオトシゴハウスとして、鹿児島のクチコミマーケティングサイト「Oh-gojo(おごじょ)」でもタツノオトシゴハウスとして、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ おでかけスポットでもようこそわが町へ:南九州市頴娃町の中で(リンク先URLは2013年11月現在)、紹介されています。
  最寄りの観光スポットには、
番所鼻自然公園があります。また、最寄りの宿としては、いせえび荘があります。)
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射楯兵主神社(別名「釜蓋神社」)の場所(イタテツワモノヌシジンジャ(カマフタジンジャ))
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒891-0704 南九州市頴娃町別府6827。鹿児島県神社庁ホームページでも射楯兵主神社として(リンク先URLは2011年4月現在)頴娃町タウン情報 頴娃町観光情報・観光ガイドでも鹿児島のパワースポット|釜蓋神社(かまふた神社)として、南日本新聞ホームページでもパワースポット?!釜蓋神社として(リンク先URLは2011年4月現在)風水パワースポット検索でも釜蓋神社(射楯兵主神社)として、ちょろにょろ一家でも南九州市 「釜蓋神社」として、紹介されています。
  射楯兵主神社(イタテツワモノヌシジンジャ)は、別名を釜蓋神社(カマフタジンジャ)と言い、鹿児島県南九州市旧頴娃町(えいちょう)地域にある神社です。「釜のフタをかぶって参拝すると、願いが叶う」という伝承のため、近年(2011年現在)パワースポットとして人気を集めている神社です。このため、正式名称の「射楯兵主神社」よりも、別名の「釜蓋神社」の方が知名度が高い程です。
  射楯兵主神社(釜蓋神社)に祀られている御祭神は、素盞鳴命(スサノオノミコト)と宇気母知命(ウケモチノミコト)です。素盞鳴命については、記紀古事記日本書紀)の日本神話で、天照大神の弟神として、高天原での乱暴事件や、まるで性格が一変したかのような出雲神話での英雄伝説で有名ですので、改めて解説は不要と考えます。
  ウケモチノミコト(ウケモチノカミ)は、一般的には「保食神」と表記される場合が多い食物神です。天照大神の弟神・月夜見尊が天照大神の命により保食神を見に行くように命じられると口から物を吐き出しているのを見て、「口から出したものを食べさせるとは汚らわしい」として月夜見尊が殺してしまった神様です。『古事記』では同様の食物起源神話が素盞鳴命とオオゲツヒメの話として載っており、オオゲツヒメは保食神と同一視される場合が多いため、御祭神が素盞鳴命と宇気母知命だというのは、この食物起源神話に由来することになります。
  創建年代は不詳ですが、文政年間(1818〜1829年)からさらに800年前と言われています。寛文7年(1667年)の島津光久公の頴娃郷神仏誌に度々補修記事があり、また、享保元年(1716年)の炎上と翌年の再建の際の棟札に「開聞宮末社釜蓋大明神」とある、との由です。
  公共交通機関での行き方は、JR指宿枕崎線・頴娃大川駅(えいおおかわえき)から、徒歩約20分またはタクシーです。近隣のタクシー会社には、池田タクシー(0993-38-0114)があるとの由です。
  近隣周遊用グルメ情報としては、国道226沿いの大川保育園付近の「海っ子」(営業時間:11:30〜14:00&17:30〜21:00,定休日:不定期,Tel:0993-38-0777)という店では、この神社にちなんだ「釜蓋定食」というメニューがあるとの由です(2011年5月現在)。)

お茶街道ゆとり館公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、お茶街道ゆとり館の場所のとおり。住所:〒891-0705 鹿児島県南九州市頴娃町上別府8601-1 、Tel.:0993-28-2111。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でもお茶街道ゆとり館として(リンク先URLは2011年4月現在)全国旅そうだんでもお茶街道ゆとり館として、じゃらんnetでもお茶街道ゆとり館として紹介されています。)

ニチデン漬物の里の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南九州市頴娃町別府845、Tel.:0993-38-1000。運営会社は、サナス-日本澱粉工業株式会社です。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でもニチデン漬物の里として(リンク先URLは2011年4月現在)プチたびでもニチデン漬物の里として紹介されています。)

(当HP内の)南九州市旧頴娃町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

南九州市旧頴娃町(えいちょう)地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】いせえび荘
【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿はいせえび荘だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南九州市の他の場所も含めての宿探しに対しては、上記の【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)



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指宿市 指宿市地域(注)
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頴娃城跡の場所(えいじょう,別名:獅子城または野首城)
(リンク先は、お城散歩 ・ 頴娃城に基づくアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南九州市頴娃町郡城内11780,Tel.:0993-36-1110(南九州市教育委員会頴娃分室社会教育課)。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも頴娃城・大通寺跡として(リンク先URLは2011年4月現在)城郭放浪記でも薩摩・頴娃城として、お城散歩でも頴娃城として、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも頴娃城跡として、余湖くんのお城のページでも知覧城 頴娃城 余湖として紹介されています。江戸時代薩摩藩外城(とじょう)制における頴娃については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも頴娃麓として、鹿児島みてある記−歴史散歩−でも2007 頴娃麓,  2008 頴娃麓,  2008 頴娃麓 02,  2011 頴娃麓として紹介されています。
  
頴娃城跡頴娃城の城跡で、「えいじょう」と読み、別名を獅子城または野首城とも言われる中世の山城の古城跡です。頴娃城は、千ヶ所程ある鹿児島県の城跡の内、天守閣があったと伝えられる唯一の城として知られています。頴娃城は、応永27年(1420年)から8代・170年に渡って頴娃を統治して来た頴娃(えい)氏の居城の跡と言われており、戦国時代頴娃氏による、薩摩国 頴娃郡(えいぐん)(現・鹿児島県 ・ 指宿市開聞町地域指宿市山川町地域の一部+南九州市頴娃町地域)統治の拠点となった城です。頴娃城は、頴娃氏以前に頴娃郡を統治していた頴娃氏頴娃古城地図とは異なる城です。頴娃城は、戦国時代後半には、薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん)(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域指宿市山川町地域の一部)の松尾城(指宿城)と共に、頴娃氏にとっての主要な城になりました。
  指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.65,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津久豊,  頴娃氏,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、島津氏宗家8代当主・島津久豊公は当主就任以前、頴娃郡を統治していましたが、島津久豊公が島津氏宗家の家督を継いで薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の
清水城しみずじょう城主になった応永18年(1411年)よりも後のタイミングである応永27年(1420年)に、島津久豊公は、頴娃(えい)氏を滅ぼしたとの由です。島津久豊公は、肝付氏第11代当主で、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主の肝付河内守兼元の次男・肝付兼政を養子に迎え入れて、応永27年(1420年)に薩摩国 頴娃郡(えいぐん)の地を所領として与えたとの由です。この肝付兼政(頴娃兼政)が、新たな頴娃氏の始祖になったとの由です。この肝付氏系統の頴娃氏は、肝付氏本姓伴氏(大伴氏)であるため、先述の頴娃氏と区別して、頴娃氏と呼ばれます。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに武家家伝 肝付氏によれば、頴娃氏第3代当主・頴娃兼心には男子がいなかったため、当初、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公の第三子・島津忠兼(後の島津勝久)を養子に迎えたとの由です。その後、島津忠兼(後の島津勝久)は島津氏宗家に戻って後を継いで島津氏宗家第14代当主になったとの由です。その代わりに、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町高山町地域)の肝付氏本家から、肝付氏第14代当主・肝付兼久の三男・兼洪を養子に迎えて、頴娃兼洪になったとの由です。
  詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄で述べた経緯により、鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)p.133によれば、大永5年(1525年)に、薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の
頴娃城城主の頴娃氏の侵攻を受けて、喜入家第3代当主・島津忠誉は、松尾城(指宿城)を失って、薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)の給黎城(きいれじょう)地図に移ったとの由です。なお、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏には、この大永5年(1525年)の侵攻の際に、頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪が家老の津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて松尾城(指宿城)を攻撃させた旨の記述がありますが、頴娃兼洪の命を受けて津曲若狭守兼任が松尾城(指宿城)を落城させたのは、指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは後述するとおり天文4年(1535年)のことですので、頴娃兼洪による松尾城(指宿城)攻撃が複数回あってそれを(播磨屋.com管理人の方が)混同されたか、或いは、その複数回共に攻撃部隊の主将が津曲若狭守兼任であって播磨屋.comホームページの記述は誤っていないのか、そのいずれであるかについては、不明です。
  島津氏による戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国内統一平定戦の過程で、詳しくは当画面(当ページ)下方の
亀ヶ城紹介欄で述べた経緯により、島津氏宗家を継いだ島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が先代で養父の島津勝久公と宗主権を争っていた戦国時代の大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の島津氏の内紛・内ゲバ抗争の時期に、頴娃氏は当初は、一時期は上述のとおり頴娃氏の養子であったこともある島津勝久公側について島津貴久公に敵対しましたが、島津貴久公側に攻められたことを契機に島津貴久公の家臣に転じたとの由です。以降、詳しく述べます。
  話は、抗争開始以前に遡ります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌,  島津忠治,  島津忠隆,  島津勝久,ならびに島津忠良によれば、戦国時代初期の島津氏宗家は、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公は、戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だった当主であり、領内の内乱に苦しんだためと巷間伝えられる理由で永正5年(1508年)に自殺してしまったとの由です。さらに、第12代当主・島津忠治公が27歳で永正12年(1515年)に、その弟で第13代当主・島津忠隆公が23歳で永正16年(1519年)と相次いで若死に、かつ両者共に父親同様に戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だったため、後世、「島津氏の暗黒時代」とまで評される程に、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の勢力は衰えていました。島津忠隆公の弟で、永正16年(1519年)に後を継いだ島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、権力基盤が弱かったため、当初は、有力分家であった薩州家(薩州島津氏)第5代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城城主の島津実久(しまづ さねひさ)の力を借りることにして、島津実久の姉を正室に迎えて領国国政を委任していましたが、島津実久が専横を極めた上に、当時は子がいなかった島津忠兼(後の島津勝久)公に対して、自分自身(島津実久)を世子(跡継ぎ)にするように迫ったため、島津忠兼(後の島津勝久)公は正室を離縁し、島津実久を遠ざけたとの由です。島津実久は反攻して島津忠兼(後の島津勝久)公を、守護所であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城から追放して勝手に守護を自称するに至り、領内騒然となったとの由です。
  島津実久の専横に対して島津忠兼(後の島津勝久)公は、島津氏の有力庶流と化しており、かつ英明の評価が高かった、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の力を借りることになったとの由です。このため、日新斎島津忠良公の嫡男・島津貴久公を大永6年(1526年)に養子に迎えて島津氏宗家第15代当主として家督を継承させて清水城に迎え入れて、翌大永7年(1527年)、島津氏宗家前当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、日新斎島津忠良公の領地・薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居し、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に入ったとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ大永6年(1526年)に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津実久,  島津勝久,ならびに島津忠良等によれば、この政治情勢を快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした前述の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久は反発して、大永7年(1527年)に謀反を起こしました。この戦乱が、伊作家(兼)相州家系統の島津氏宗家による、戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の始まりになりました。
  島津実久の謀反は、大永7年(1527年)の前年の、上記の大永6年(1526年)に既に前哨戦が始まっていた可能性があります。それは、大永6年(1526年)暮れに大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の川上忠直が島津氏宗家の島津貴久公に叛いた謀反が、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、島津実久に付いてのことであったとの由です(ただし、川上忠直の動機について他の参照先でまだ確認していないので、川上忠直の謀反は、島津実久に付いてのことではなかった可能性も残っています)。日新斎島津忠良公は川上忠直を攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この功により、日新斎島津忠良公は、前守護島津忠兼(島津勝久)公から、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)と、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図を賜ったとの由です。ところが、城郭放浪記 ・ 大隅・加治木城ならびに大隅・平山城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良等によれば、大永7年(1527年)に、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主の伊地知重貞・伊地知重兼父子と平山城(平安城)島津昌久が大永7年(1527年)6月に島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。これが、公式には島津実久による謀反の開始ということになります。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。新たな加治木地頭には肝付兼演が、そして、新たな帖佐地頭には伊地知重辰が任命されたとの由です。
  この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。
  一方、詳しくは当画面(当ページ)下方の
亀ヶ城紹介欄で解説したとおりの経緯のため、一時期は薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公は、天文4年(1535年)8月に島津実久と再び仲違いになり、紆余曲折の結果、帖佐地頭 ・ 伊地知重辰を攻め滅ぼして大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)を手に入れていた、薩摩国 ・ 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武を頼って、天文4年(1535年)10月に大隅国帖佐に移らざるを得なくなったとの由です。守護所たる城である清水城がある薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)は、再び島津実久に制圧されてしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久によれば、このような島津実久の圧迫に耐えかねた島津勝久公は、再び日新斎島津忠良公に助力を求めることになったとの由です。なお、前守護 ・ 島津勝久公は、後に没落したまま復権せずに三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国から追われて去ることになりましたが、その経緯について詳しくは、当ホームページ内の亀丸城(伊作城)紹介欄でご参照いただけます。
  年は数年前後しますが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、薩摩国 頴娃(えい)
頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪に出府を命じましたが、頴娃兼洪は応じなかったとの由です。これに対して、日新斎島津忠良公は頴娃城攻撃を開始して、頴娃城は落城寸前にまで追い詰められたとの由です。頴娃兼洪の家老の津曲(つまがり)若狭守兼任は、頴娃兼洪を説得して、頴娃兼洪の嫡子の稲千代を抱いて日新斎島津忠良公の陣中に出向き、和議を申し入れたとの由です。日新斎島津忠良公側もこれに応じて和議が成立し、頴娃兼洪は危機を脱することができたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。
  上述のとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の
南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢でした。しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、天文2年(1533年)に、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公は薩摩国 頴娃(えい)
頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪を薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の地頭に任命し、それを受けて、松尾城(指宿城)がある指宿から、島津勝久派の田代民部介を追放したとの由です。指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、天文4年(1535年)に、頴娃兼洪が津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて松尾城(指宿城)を攻撃させて落城させたとの由です。この津曲若狭守兼任による松尾城(指宿城)攻めが、上記の田代民部介追放と同じ合戦のことを指すのか、それとも異なるかについては、定かではありませんが、恐らくは同じであろうと推測します。指宿市ホームページ ・ 文化・スポーツ ・ 指宿市の指定文化財一覧 の「松尾城跡」欄によれば、この天文4年(1535年)に、津曲若狭守兼任は(恐らくは頴娃兼洪から)指宿地頭に任じられ、松尾城(指宿城)城主になったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。例えば、詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)で解説した経緯のため、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋)によれば、天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、頴娃氏は、島津氏宗家の家臣となって付き従ったことで、薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん),  頴娃郡(えいぐん)2郡の地頭として4万7千石の大名並みの所領を持つ武将として栄え、また、
松尾城(指宿城)の津曲若狭守兼任をはじめ家臣の人材も充実して、領内もよく統治されたとの由です。
  島津氏宗家に付き従った戦国時代後半の頴娃氏の中でも、特に、頴娃氏第7代当主・頴娃久虎は、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 頴娃久虎によれば、天正4年(1576年)の日向国 ・ 諸県(もろかた)郡高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 ・ 高原町)の
高原城攻めや、天正6年(1578年)に豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)の大友氏館地図城主・大友氏と戦った、日向国 ・ 児湯(こゆ)郡新納(にいろ)院(現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町)の高城(新納院)地図の周辺で行われた耳川の戦い(古戦場に残る供養塔で場所を示せば宗麟原供養塔解説)や、天正8年(1580年)の肥後国水俣(現・熊本県 ・ 水俣市)出兵や、天正12年(1584年)の島原合戦(恐らくは、島津家久公・有馬晴信連合軍が龍造寺隆信を討ち取った、肥前国 ・ 島原半島高来郡(たかきぐん)島原(森岳)(現・長崎県 ・ 島原市の一部)の島原城(森岳城)(地図(後に戦国時代島原城(森岳城)と同じ場所に江戸時代に築城された城は、島原城(森岳城)解説)最寄りで行われた沖田畷の戦い(場所は沖田畷古戦場地図))のことと思量)等、様々な合戦で武功を重ねたとの由です。これら数々の武勲の結果、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、頴娃久虎は、島津義弘公をして「豊肥戦はすべて久虎によった」とまで言わしめた程の勇将として知られたとの由です。
  この頴娃久虎の時期、居城・
頴娃城に三層五階の天守閣が造営されていました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.44-45によれば、千ヶ所程ある鹿児島県の城跡の内、天守閣があったと伝えられるのは頴娃城だけであるとの由です。ちなみに、後に江戸時代に築城された鹿児島市鹿児島城(鶴丸城)にも、天守閣はありませんでした。鹿児島歴史探訪pp.44-45では、16世紀のポルトガル商人J. アルバレス著『日本報告』で記されている「山川の領主の館」は、この頴娃城のことではないかと推測されています。
  ところが、指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.65,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、天正15年(1587年)に、清見(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域 ・ 池田清見(この辺り(地図)))で起きた農民反乱の鎮圧に向かう途中で落馬し、25歳の若さで事故死してしまったとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、頴娃氏第7代当主・頴娃久虎の死後、翌年で安土桃山時代の天正16年(1588年)に5歳の嫡男・頴娃久音が後を継ぎましたが、同年11月に所領を没収され、薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山郷山田(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 ・ 谷山地域山田町この辺り(地図)))に300石で移封されてしまったとの由です。旧領対比で100分の1以下の改易にも等しい減封であったとの由です。文禄2年(1593年)に薩摩国 日置郡満家院西俣村(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市郡山町地域西俣町この辺り(地図)))に750石を与えられたとの由ですが、代々の家臣も従っていたため、頴娃氏の財政は苦しかったとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、頴娃久音は、慶長2年(1557年)に島津義弘公に従って朝鮮出兵(慶長の役)に出陣したとの由です。島津義弘公は、無事に帰国できたら本領を復す旨の約束をしたとの由ですが、残念ながら、島津義弘公率いる島津氏軍が寡兵で大軍に勝利した慶長3年(1598年)10月の泗川の戦いで活躍した、わずか1週間後に、16歳で戦病死してしまったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 入来院重高,ならびに戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津御平(島津義虎室)によれば、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城城主だった島津氏庶流の薩州家第7代当主・島津忠辰が、詳しくは当ホームページ内の出水城紹介欄で述べた経緯によって文禄2年(1593年)に豊臣秀吉によって改易されていました。その後、薩州家(薩州島津家)第6代当主・島津義虎の遺児の内、・島津忠富は、詳しくは当ホームページ内の出水城紹介欄で述べた経緯の紆余曲折の結果、肥後国 ・ 宇土郡宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の宇土城地図城主・小西行長の下から島津氏領に戻ることができ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける壮絶な撤退戦「島津の退き口」でも功績を挙げた結果、同年、絶えていた頴娃氏の名跡を継いで頴娃弥一郎久秀と名乗ることになったとの由です。ところが、頴娃弥一郎久秀(元・島津忠富)は、「島津の退き口」で討ち死にした入来院重時の婿養子として、薩摩国入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城(きよしきじょう)城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の入来院氏の後を継いで入来院重高と改名することになり、頴娃氏から離脱してしまったとの由です。頴娃氏の方は、島津氏家臣・鎌田政近の四男・久政が養子として継いで、頴娃久政となったとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この近世の江戸時代頴娃氏は、1薩摩藩士の家として存続したとの由です。
  指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.76によれば、頴娃氏が去った後の指宿・山川・頴娃は島津氏の直轄領になり、この地域の家臣団の再編成が行われたとの由です。指宿に居住した郷士には、頴娃衆中、伊東衆中、田布施衆中があったとの由です。頴娃衆中とは、恐らくは薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん),  頴娃郡2郡の元々の武士であり、頴娃氏の旧臣の内、石高が下がった近世頴娃氏の財政上付いていくことができずに、土着したまま残った武士であろうと推測します。伊東衆中とは恐らく、戦国時代末期に島津氏日向国(概ね現・宮崎県)の国人戦国大名伊東氏を打ち負かして一旦は三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国の国内統一平定を成し遂げて日向国国衆全員が島津氏に属した後、安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉による九州征伐(九州平定)の結果、島津氏領として残った一部の地域を除いて日向国の所領を島津氏が手放さざるを得なくなった時に、日向国から離れて島津氏に従って薩摩国に移住した武士なのではないか、と推測可能です。田布施衆中とは恐らくは、戦国時代島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の父・日新斎(じっしんさい)島津忠良公の島津氏庶流の相州家当主としての本領で、
亀ヶ城があった薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)出身の武士達なのであろう、と推測可能です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊集院忠真,  庄内の乱,  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 伊集院忠真の暗殺と一族の滅亡,  紅茶の里山【鹿児島南九州市の里山】 ・ 頴娃の古城跡【猫城/御領城】 ,  城郭放浪記 ・ 薩摩・猫城によれば、安土桃山時代末期の慶長4年(1599年)に、後に島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になる、当時はまだ島津氏宗家世子(候補)だった薩摩国鹿児島の
内城うちじょう城主の島津忠恒(家久)公が、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で島津氏家老の伊集院忠棟(伊集院幸侃)を、京都 ・ 伏見島津邸で斬殺して粛清した事件が起きました。この事件を契機にして、慶長4年(1599年)に、伊集院忠棟(伊集院幸侃)の嫡子・伊集院忠真が、都之城と周辺の城に立て籠もって島津氏に叛旗を翻して、反乱「庄内の乱」を起こしました。詳しくは当ホームページ内の都之城紹介欄で概説した経緯のとおり、島津氏は独力では都之城を落城させらませんでしたが、最終的には、徳川家康が送った使者・山口直友の調停の結果、慶長5年(1600年)3月15日に伊集院忠真が降伏して庄内の乱は終息したとの由です。庄内の乱終息後、伊集院忠真が1万石に減封の上で移封された先が、頴娃郡(えいぐん)でした。頴娃郡における伊集院忠真の居城は、頴娃城ではなく、猫城地図であったとの由です。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 伊集院忠真の暗殺と一族の滅亡によれば、慶長7年(1602年)8月17日に、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方になって敗れたが本領が安堵(あんど)されたことに対してのお礼と徳川家康征夷大将軍宣下祝いのために島津忠恒(家久)公が京都 ・ 伏見に上洛することになった際の途中、島津氏領の日向国 野尻(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域)で行われた狩りの帰路に、島津氏領の日向国穆佐(むかさ;現・宮崎県 ・ 宮崎市高岡町地域)の武士・押川(おしかわ)治衛門と淵脇平馬に狙撃されて、伊集院忠真は暗殺されたとの由です。暗殺者両名は、島津氏家臣で穆佐地頭の川田国鏡(くにあきら)(川田義朗の養子)の命に従ったのであるとの由です。川田国鏡は、穆佐地頭であったため、穆佐城地図城主であった筈です。伊集院忠真の同日、大隅国浜の市(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域浜之市(はまんち)港辺り)で伊集院忠真の次弟の伊集院小伝次が、薩摩国 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 ・ 谷山地域)で三弟の伊集院三五郎と四弟の伊集院千次が、薩摩国阿多(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域花瀬地区)で母(伊集院忠棟(伊集院幸侃)夫人)が襲撃されて、皆、全て討たれてしまったとの由です。伊集院忠真の死は、狩りにおける淵脇平馬の誤射として処理されて、淵脇平馬は切腹となったとの由ですが、後年、遺族が(日向国穆佐の郷士から)上級家臣である(鶴丸城(鹿児島城)の)城士に取り立てられていて、これが実質的な「暗殺に対する論功行賞」であると見なされているとの由です。
  鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 頴娃城跡によれば、
頴娃城の廃城の時期は、天正16年(1588年)であるとの由です。この天正16年(1588年)は、詳しくは上述したとおり、頴娃久音が改易にも等しい減封薩摩国の結果、頴娃城を去った年です。したがって、江戸時代の慶長20年(元和元年,1615年)の一国一城令を待つことなく、頴娃氏が去ったと同時に、頴娃城は廃城になったことになります。
  
頴娃城には、現在でも当時の城壁や空堀・土塁などの跡が残っているとの由で、戦国山城の貴重な城郭遺構となっています。
  江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。武家屋敷群の統治者・地頭の役所(兼)館となる施設を御仮屋と言い、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 頴娃麓,  鹿児島みてある記−歴史散歩− ・ 2008 頴娃麓,ならびに鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 地頭仮屋跡によれば、頴娃郷の
頴娃の御仮屋は、南九州市頴娃歴史民俗資料館地図がある場所にあったとの由です。なお、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索には、上記の地頭仮屋跡の他にも旧地頭仮屋跡 が載っており、そこに載っている地図の場所は、今日の南九州市立頴娃小学校地図がある場所です。どうやら、頴娃の御仮屋は、今日の南九州市立頴娃小学校地図がある場所から、今日の南九州市頴娃歴史民俗資料館地図がある場所に移転したことがある模様である模様です。鹿児島みてある記−歴史散歩− ・ 2011 頴娃麓には、頴娃の御仮屋は、国道226号を挟んで、今日の郡地区公民館(南九州市頴娃歴史民俗資料館と同じ場所;地図の下麓地区と、南九州市立頴娃小学校地図の上麓地区に分かれている旨が載っていますが、このブログでは動詞「分かれる」の主語は御仮屋であって武家屋敷群ではないため、この記載内容は、単に武家屋敷群の街並みの真ん中を国道226号が通っていることを意味しているという訳ではなく、国道226号の両側に御仮屋跡があることを示す文章です。この文章は素直に読むと「御仮屋が2場所あったのか?」ということになり、一見では謎ですが、上記の仮説のとおり「移転した」と考えれば、辻褄(つじつま)が合う文章になります。また、武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 鹿児島の麓:薩摩藩の外城によれば、頴娃は、頴娃城の麓であるとの由です。
  交通アクセスは、JR九州 ・ 指宿枕崎線 ・ 頴娃駅地図)から車(タクシー等)になります。なお、実は報告者未訪問地であることもあり、地図で示した場所の精度は「概ねこの辺り」というものであり、誤差があり得ます旨、悪しからずお許し下さい。
  関連スポットには、
南九州市頴娃歴史民俗資料館や、伴姓頴娃氏の菩提寺だった大通寺跡があります。
  また、最寄りの温泉地や温泉宿には、
指宿温泉,  山川温泉郷鰻(うなぎ)温泉等),南薩の温泉等があります。)

(当HP内の)南九州市旧頴娃町地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

南九州市旧頴娃町(えいちょう)地域でのご宿泊は
【楽天トラベル】いせえび荘
【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿はいせえび荘だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南九州市の他の場所も含めての宿探しに対しては、上記の【楽天トラベル】鹿児島県南九州市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)


○  この地域への行き方・アクセス(交通案内、時刻表)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,  特急「指宿のたまて箱」紹介
  終点の鹿児島中央駅からこの地域へは、JR指宿枕崎線で行くことができます。また、この地域を走る路線バスは鹿児島交通の路線です。JR指宿枕崎線は、途中の指宿駅までは、特急「指宿のたまて箱」で行くことができます。鹿児島中央駅からの鉄道の時刻表、ならびに路線バスの時刻表については、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま



温泉案内・宿泊案内+α
温泉天国・鹿児島温泉紹介!
(当WEBサイト)
(当HP内の)指宿温泉案内
(当HP内の)南薩地域の温泉案内
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】鹿児島県の温泉旅館・ホテル一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  温泉宿一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  空室検索
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】南薩(指宿・枕崎)の温泉宿一覧
【楽天トラベル】南薩(指宿・枕崎) のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・ANA楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・JAL楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・たびノート】南薩(指宿・枕崎)の観光スポット




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指宿市 指宿市地域(注)
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枕崎市

枕崎市ホームページ ・ 観光・文化
リンク先URLは参照時2010年7月現在。)

枕崎市観光協会

枕崎市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。)

(当HP内の)枕崎なぎさ温泉入湯記

(当HP内の)枕崎市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

枕崎市文化資料センター南溟館
(リンク先は枕崎市ホームページのサブ・コンテンツで公式WEBサイト(リンク先URLは2011年4月現在)楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも枕崎市文化資料センター南溟館として紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、枕崎市文化資料センター南溟館の場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市山手町175、Tel.:0993-72-9998。)

薩摩酒造花渡川蒸溜所明治蔵公式WEBサイト
薩摩酒造(株)による、芋焼酎醸造蔵で、資料館機能として一般公開されています。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも薩摩酒造 花渡川蒸溜所 明治蔵として紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、薩摩酒造花渡川蒸溜所明治蔵の場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市立神本町26、Tel.:0993-72-7515(フリーダイヤル0120-467-355)。敷地内に、花渡川ビアハウスが併設されています。薩摩酒造(株)の芋焼酎は、以下のリンク先でお求めいただけます。
【楽天市場】薩摩明治蔵
【楽天市場】山形屋オンラインショップ内でのキーワード「薩摩酒造」の検索結果

花渡川(けどがわ)ビアハウス
(リンク先は薩摩酒造花渡川蒸溜所明治蔵のサブ・コンテンツ(リンク先URLは2013年11月現在)アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、花渡川ビアハウスの場所のとおり。住所:〒898-0025 鹿児島県枕崎市立神本町26 、Tel.:0993-72-4741。全国旅そうだんでも薩摩酒造花渡川ビアハウスとして、じゃらんnetでも薩摩酒造花渡川ビアハウスとして紹介されています。薩摩酒造(株)による運営で、敷地内に薩摩酒造花渡川蒸溜所明治蔵が併設されています。花渡川ビアハウスで飲める「さつま芋を原料とするビール感覚の三種類の発泡酒」は、【楽天市場】薩摩明治蔵でお求めいただけます。)

(株)枕崎市かつお公社公式WEBサイト
楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも枕崎市かつお公社として紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、(株)枕崎市かつお公社の場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市立神本町347、Tel.:0993-72-7021。枕崎市かつお公社は、楽天市場にも【楽天市場】枕崎市かつお公社として出店しています。)

枕崎お魚センター
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、枕崎お魚センターの場所のとおり。住所:〒898-0001 鹿児島県枕崎市松之尾町33、Tel.:0993-73-2311。全国旅そうだんでも枕崎お魚センターとして、じゃらんnetでも枕崎お魚センターとして紹介されています。)

ぶえん鰹の南薩地域地場産業振興センター公式WEBサイト
楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも南薩地域地場産業振興センターとして紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、南薩地域地場産業振興センターの場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市松之尾町37-1、Tel.:0993-72-3133。)

かつおラーメン
(リンク先は枕崎市ホームページのサブ・コンテンツ(リンク崎URLは2011年4月現在)MAPPLE観光ガイドでもらーめん香月として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でもかつおラーメンとして紹介されています。キーワード「枕崎市+かつおラーメン」でのgoogle検索結果でも情報をお探しいただけます。)

火之神公園の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:〒898-0049 鹿児島県枕崎市火之神岬町,Tel.:0993-72-1111(枕崎市水産商工課)。全国旅そうだんでも火之神公園として、じゃらんnetでも火之神公園として、プチたびでも火之神公園として、MAPPLE観光ガイドでも火之神公園として紹介されています。火之神公園からは立神岩が見えます。また、火之神公園には、平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑),  枕崎市火之神公園キャンプ場があります。)

平和祈念展望台奉賛会公式WEBサイト(戦艦大和殉難鎮魂之碑)
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑)の場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市火之神岬町,Tel.:0993-72-1111(枕崎市観光協会事務局(水産商工課商工観光係内))。火之神公園にあります。枕崎市ホームページでも観光スポット(1/5)の中で(リンク先URLは2011年5月現在)頴娃町タウン情報 頴娃町観光情報・観光ガイドでも枕崎【戦艦大和慰霊碑】として、ワシモ(WaShimo)のホームページでも旅行記「火の神公園 平和祈念展望台 − 鹿児島県枕崎市」として紹介されています。火之神公園にあります。)

枕崎市火之神公園キャンプ場
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、枕崎市火之神公園キャンプ場の場所のとおり。住所:鹿児島県枕崎市火之神岬町 火之神公園内,Tel.: 0993-72-1111(枕崎市役所水産商工課商工観光係)。火之神公園にあります。)

立神岩
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、立神岩の場所(この辺り)のとおり。住所:鹿児島県枕崎市火之神岬町。立神岩は、火之神公園から見えます。沖縄県与那国島佐賀県唐津にも同じ名前の岩がありますが、与那国島立神岩唐津立神岩とは別物です。)

山形屋ギフトショップ枕崎・外商部出張所
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、山形屋ギフトショップ枕崎・外商部出張所の場所のとおり。住所:〒898-0003 枕崎市折口町92番地、Tel.:0993-73-1126。)

エディオン鹿児島枕崎店
エディオン鹿児島の枕崎店です(旧・鹿児島ベスト電器の枕崎店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

ダイビングスポット情報(枕崎)
ダイビング講習&ダイビングショップ情報−PADIのサブ・コンテンツ(リンク先URLは2011年5月現在)。)

(当HP内の)枕崎なぎさ温泉入湯記(再掲)

(当HP内の)枕崎市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

枕崎市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県枕崎市」での楽天トラベル登録宿検索結果(注)
(注) 検索結果では、枕崎市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。


○  この地域への行き方・アクセス(交通案内、時刻表)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,  特急「指宿のたまて箱」紹介
  終点の鹿児島中央駅からこの地域へは、JR指宿枕崎線 ・ 枕崎駅等へ行き、そこから鹿児島交通の路線バスに乗り換えたり、或いは、鹿児島交通の路線バスで直接行くことになります。JR指宿枕崎線は、途中の指宿駅までは、特急「指宿のたまて箱」で行くことができます。鹿児島中央駅からの鉄道の時刻表、ならびに路線バスの時刻表については、以下のリンク先でお調べいただけます。
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鹿籠桜之城跡(かごさくらのじょうあと,別名:山之城);鹿籠桜之城跡の場所
(リンク先は、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 桜之城跡等に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県枕崎市桜山町。Tel:0993-72-1111(枕崎市役所)。鹿籠桜之城跡については、枕崎市ホームページでも指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)として、鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも桜之城跡として、枕崎市立桜山小学校でもセンダン,桜之城跡,顕彰の費として、ちゃんサネ♪でも「枕崎史跡めぐい、しっくらべむ」の中で、『山城散歩 みちくさ』 多くの山城愛好家の方へ 三木靖でもみちくさ 2013年12月編の中で、鹿児島大学理学部・鹿児島大学院理工学研究科(理系) ・ 鹿児島フィールドミュージアム(鹿児島知的散策マップ)(文化財)でも桜之城跡および梵鐘として紹介されています。鹿籠
については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも鹿篭麓として、所長の鹿児島みてある記でも枕崎市・鹿篭麓として、城鑑賞の旅・二人で城ある記でも島津外城・麓 一覧の中で紹介されています。
  
桜之城跡は、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)にあった中世城郭の遺構です。『山城散歩 みちくさ』 多くの山城愛好家の方へ 三木靖 ・ みちくさ 2013年12月編,ならびに城鑑賞の旅・二人で城ある記 ・ 島津外城・麓 一覧によれば、鹿籠桜之城には山之城という別名があり、別名というよりはむしろ、は元々は山之城という名称であったとの由です。
  枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)
桜之城跡は、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第2代当主・島津国久が、詳しくは当画面(当ページ)上方の平山城(川辺城)紹介欄で述べた経緯により、薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)も自分の城になったことによってこの辺りも領有することになった長禄3年(1459年)から、天文7年(1538年)までの薩州家がこの地を支配していた期間に、築城されたと考えられているとの由です。枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)島津国久は、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)城主でもあり、三男・島津忠綱を薩摩国山田/勝目(かつめ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域の中山田馬場)の勝目城地図に、四男・島津秀久を薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の桜之城に置いて、鹿篭・薩摩国坊泊(坊も泊も、現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域)を支配させたとの由です。なお、坊津(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域)は、古代から近世にかけての重要な貿易港湾であり(近世・江戸時代は密貿易)、中世には日本三津(さんしん)の中の一つに挙げられる程の港湾でした。鹿篭坊泊を手中に収めたことで、薩州家は海洋交易の利権も手中に収めたことになります。
  枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)島津秀久の後、
桜之城跡城主は、島津忠将、島津久定と続いたとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津氏系図によれば、この島津忠将は、日新斎島津忠良公の次男で島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟の島津忠将とは同名の別人であり、島津秀久の子であるとの由です。島津久定は、さらに島津忠将の子であるとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381島津久定欄によれば、詳しくは当画面(当ページ)下方の亀ヶ城紹介欄で述べた経緯により、戦国時代の大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)に、「薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)城主で島津氏庶流の伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公+島津氏宗家第15代当主・島津貴久公」父子と、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主の島津実久(しまづ さねひさ)との間で行われた、島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公の後継者争いを巡っての島津氏の内紛・内ゲバ抗争においては、天文5年(1536年)の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)攻め、天文8年(1539年)の薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)攻め、天文8年(1539年)の薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城攻め等で功を挙げたとの由であり、かつ、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381島津忠辰欄によれば、島津実久の弟・島津忠辰は島津久定に射殺されたとの由です。これらの記述からは、島津久定は、薩州家庶流でありながら、この島津氏の内紛・内ゲバ抗争においては、薩州家の敵方である「日新斎島津忠良公+島津貴久公」側の武将であったことが分かります。この島津氏の内紛・内ゲバ抗争では「日新斎島津忠良公+島津貴久公」側が勝利したため、薩州家は南薩における拠点を失いましたが、薩州家の血統に連なるとは申せ、「日新斎島津忠良公+島津貴久公」側に属したため、島津久定は没落せずに済んだ模様です。とは申せ、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381,  戦国武将録  ・ 戦国薩摩国人名事典,ならびに枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)、この島津氏の内紛・内ゲバ抗争による日新斎島津忠良公の南薩平定の結果、島津久定は、薩摩国 日置郡(ひおきぐん) 吉利(よしとし;現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町吉利」)に移封になり、鹿児島県上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 吉利城跡によれば(リンク先URLは2015年4月現在)、今日の住所で申せば鹿児島県 日置市 大字(おおあざ)日吉町吉利字(あざ)原口にあった吉利城地図に移ったとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 吉利忠澄によれば、島津久定の子・忠澄は、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の命により、所領の地名に基づいて吉利忠澄と改姓したとの由です。
  南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 知られざる島津尚久,ならびに枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)薩州家去りし後、
桜之城跡の城主になったのは、日新斎島津忠良公の三男で島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の末弟の島津尚久であったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津尚久によれば、島津尚久は、薩摩国倭寇の主として海賊衆を束ねたとの由ですが、これは、上述の日本三津(さんしん)の中の一つに挙げられる程の中世の重要港湾・薩摩国 坊津(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域)も当時は桜之城の勢力圏下にあったからか、或いは当時から鹿篭がある枕崎(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の地が港として栄えていたか、或いはその双方による、立地上の役割分担であったのではないか、と推測します。鹿児島県 水産技術開発センター・ホームページ ・ かごしま水産情報 ・ 水産技術のあゆみ ・ 第4編 漁村部門・「第4章 沿岸から沖合へ 沖合から遠洋へ」・第3節 かつおまぐろ漁業の近代化(PDF版)p.816によれば(リンク先URLは2013年12月現在)、詳しくは後述するとおり、後年、戦国時代安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津尚久の嫡男・島津忠長桜之城から大隅国串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の鶴亀城(串良城)に移った際に、大船や水主(がご)も島津忠長に従って付いていったため、大陸や琉球(現・沖縄県)との貿易は、(その担い手が薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)からいなくなったために、)薩摩国 坊津(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域)を中心にして行われるようになった旨が載っています。この記載内容からは、島津尚久がいた時代には、薩摩国鹿篭にも、(島津尚久率いる)海賊衆がいた旨が、窺えます。
  南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 知られざる島津尚久によれば、島津尚久は、11歳年上の兄であり、日新斎島津忠良公の次男で島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟の、
南郷城(野首城)がある薩摩国 永吉(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域永吉地区)の領主から天文17年(1548年)に大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水(きよみず)城城主に転じた、島津忠将と共に戦う機会が多かったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津尚久によれば、戦国時代島津尚久は、天文23年(1554年)の大隅国姶良(あいら;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域)の岩剣城(岩剱城)いわつるぎじょう攻めや、「永禄2年(1559年)の松山城攻め」等で活躍したとの由です。「永禄2年(1559年)の松山城攻め」における「松山城」とは、詳しくは当ホームページ内の松山城紹介欄で述べたとおりの経緯による、日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で、この永禄2年(1559年)にはまだ日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城も勢力下に置いていた、島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親の家臣・平山越後守忠智が城主だった日向国松山(現・鹿児島県 ・ 志布志市松山町地域)の松山城が、永禄2年(1559年)に、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で大隅国国人系の反島津氏戦国大名肝付氏第16代当主・肝付兼続によって攻め落とされた合戦のことを指すものと推測します。当然のことながら、この松山城攻めに際して、攻めた側の反島津氏肝付兼続側に島津尚久がつく訳はないので、島津尚久松山城攻めでの活躍とは即ち、城を守る側についてのものであろうと推測します。南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 知られざる島津尚久,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津尚久によれば、永禄4年(1561年)の大隅国廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域の一部)の廻城の戦いで、肝付兼続の軍勢によって、猛将・島津忠将が討ち死にすると、その後、病にかかり。翌永禄5年(1562年)に、32歳の若さで病死してしまったとの由です。
  島津尚久の墓は、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の
竹田神社(日新斎島津忠良,島津尚久墓所)にありますが、南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 知られざる島津尚久によれば、居城だった桜之城があった鹿児島県 ・ 枕崎市(旧・薩摩国鹿篭(かご))にもある可能性があるとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津尚久によれば、島津尚久は、その子・島津忠長が後年、薩摩国宮之城(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の領主になり、江戸時代には宮之城島津氏と呼ばれる島津氏 庶流の家になったことから、宮之城島津氏の祖とされる場合もあるとの由ですが、島津尚久本人自身が宮之城に住んだことはありません。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠長,  肝付兼護,  伊東義祐によれば、島津尚久の子・島津忠長は、戦国時代の元亀5年(1574年)まで続いた大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の
高山城城主の肝付氏との戦いや、天正4年(1576年)〜天正5年(1577年)の伊東崩れまで続いた日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうならびに日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう伊東氏第10代当主・伊東義祐との戦いで軍功を挙げたとの由です。具体的には例えば、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ 国書刊行会編『史籍雑篇. 第一』(国書刊行会,1911-1912)コマ番号237(『日向記』の「櫛間湊村破事」),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠長,  肝付兼護,  伊東義祐によれば、島津忠長は、天正5年6月(1577年6月16日〜7月15日)に、日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょうを攻め落としたとの由です。日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の三男で、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主の伊東祐兵が天正5年6月19日(1577年7月4日)に櫛間城に攻めて来ると、島津忠長大隅国 串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の鶴亀城(串良城)から櫛間城の救援に駆け付けて逆に追い返して、飫肥城を包囲したとの由です。
  鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.24によれば、島津忠長は天正5年(1577年)に、肝付氏領から島津氏領になった地域であり、
鶴亀城(串良城)があった大隅国 串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の地頭に任じられて、食邑(領土)として柏原が与えられたとの由です。島津氏領で「柏原」という地名には、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の柏原(かしわばる;現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の大字(おおあざ)「柏原(この辺り(地図))」と、大隅国 串良院の柏原(かしわばる;現・鹿児島県 ・ 東串良町)の柏原(柏原海岸地図)の辺り)の2箇所があります。島津忠長が食邑(領土)として与えられた柏原がそのいずれであるかは不明ですが、大隅国 串良院の柏原の方が、島津忠長地頭を務める大隅国 串良院の中にあるため、恐らくは大隅国 串良院の柏原の方である可能性が高いものと推測します。さらに、鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第49集 西藩烈士干城録(一)(PDF版)p.24,ならびに枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)戦国時代安土桃山時代の天正6年(1578年)28歳の時に島津忠長は、串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の鶴亀城(串良城)城主に転じて、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿籠(かご;現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょうから去ったとの由です。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津忠将女(島津忠長室)によれば、安土桃山時代の天正16年(1588年)冬に再び転封になり、薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)に移り、キャンピングカーで放浪の旅 U ・ 川内高城(せんだいたき)温泉。小路磨崖仏 石像が残る、香積寺跡。〜薩摩川内市〜 他(2013/1/17)掲載の「重親公墓碑由来」解説看板の写真の記載内容によれば、島津忠長は、薩摩国東郷の鶴ヶ岡城に居城したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 庄内の乱によれば、その後、詳しくは当ホームページ内の都之城紹介欄で述べた経緯により、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城を中心にして慶長4年(1599年)に伊集院忠真が起こした庄内の乱が慶長5年(1600年)3月15日に伊集院忠真が降伏して終了した後、伊集院忠真薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の猫城地図に移り、都之城には、都之城を旧領とする島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)が、薩摩国宮之城(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の虎居城から戻って来ました。そして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠長,ならびに歴史と文化と和の心♪ ・ 虎居城跡によれば、北郷氏(都城島津氏)が去った後の薩摩国宮之城(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の虎居城には、薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)の(恐らくは)鶴ヶ岡城から、島津忠長が移って来たとの由です。これ以降、島津忠長の系統の家は江戸時代を通じて代々、薩摩国宮之城を私領として領有し、一所持と呼ばれる私領を領有する薩摩藩重臣の家格の家として存続したため、宮之城島津氏と呼ばれる島津氏庶流の家になりました。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久,ならびに枕崎市ホームページ ・ 指定文化財(2/3):9. 桜之城跡(さくらのじょうあと)によれば(リンク先URLは2013年12月現在)、天正6年(1578年)に島津忠長
桜之城を去った後、代わりに、島津氏庶流の喜入氏第5代当主・喜入季久が、薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)の給黎城(きいれじょう)地図から移って来て、桜之城城主になったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久,ならびに鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.132-135によれば、喜入氏は、室町時代島津氏宗家第9代当主・島津忠国公の七男の島津忠弘から始まる島津氏庶流の家であり、第5代当主・喜入季久の代までは、喜入季久の最初の名前が島津忠賢であったとおり、島津氏庶流の喜入家として島津氏を名乗っていました。詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄で解説したとおり、喜入家初代当主・島津忠弘,第2代当主・島津頼久,第3代当主・島津忠誉の時期(戦国時代の明応年間(1492〜1500年)〜大永5年(1425年))には喜入家は薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん)(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域指宿市山川町地域の一部)指宿の松尾城(指宿城)城主でもありましたが、薩摩国 頴娃郡(えいぐん)(現・鹿児島県 ・ 指宿市開聞町地域指宿市山川町地域の一部+南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主の頴娃氏等との間の指宿での勢力争いに敗れて、当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄で解説した紆余曲折(うよきょくせつ)の結果、最終的には天文4年(1535年)に松尾城(指宿城)頴娃氏の城になり、頴娃氏の家老の津曲(つまがり)若狭守兼任が城主になったとの由です。松尾城(指宿城)を失った後、戦国時代の大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)に、「薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)城主で島津氏庶流の伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公+島津氏宗家第15代当主・島津貴久公」父子と、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主の島津実久(しまづ さねひさ)との間で行われた、島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公の後継者争いを巡っての島津氏の内紛・内ゲバ抗争においては、鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)p.133によれば、喜入家第4代当主・島津忠俊は、「日新斎島津忠良島津貴久公」父子側に属して軍功を挙げたとの由です。鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)p.134によれば、先述と繰り返しになりますが、その後を継いだ喜入家第5代当主・島津忠賢の代の戦国時代の永禄元年(1558年)12月27日に、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の厳命により、領内の島津氏庶流の各家が島津氏を名乗ることを禁じられたため、当時の所領名を苗字にして喜入氏になり、島津忠賢喜入季久に改名したとの由です。なお、鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.138-141によれば、喜入季久桜之城に移って来たのは移封・転封ではなく加増であり、その後も、安土桃山時代の文禄検地(文禄4年(1595年)の太閤検地)までの間は喜入氏は薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)も引き続いて領有していて、喜入季久存命中は、後に喜入氏第6代目当主になる喜入季久の長男・喜入久道が給黎城(きいれじょう)地図城主であったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、喜入季久は、帖佐合戦、横川合戦等で軍功を挙げたとの由です。鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.133-134,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 祁答院良重によれば、
桜之城に移る以前の給黎城地図城主時期で、かつまだ「喜入氏」に改姓する以前の「喜入家」だった時期の島津忠賢(後の喜入季久)は、天文24年/弘治元年(1555年)に、島津氏が、薩摩国祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主の祁答院氏第13代当主・祁答院(けどういん)良重大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)における城・平山城(平安城;帖佐本城)祁答院良重を攻めた際には、島津尚久に従って諸軍を指揮して、島津義弘公と共に猛攻をかけて落城させる軍功を挙げたとの由ですので、上述の帖佐合戦とはこの平山城(平安城;帖佐本城)攻めのことであろうと思います。また、鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.133-134によれば、桜之城に移る以前の給黎城地図城主時期で、既に「島津氏の喜入家」からに「喜入氏」に改姓した後の喜入季久は、永禄5年(1562年)6月3日に日向国 ・ 児湯郡都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市の一部)の都於郡城地図ならびに日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城地図国人系反島津氏戦国大名 ・ 伊東氏が、大隅国 桑原郡横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)に侵攻して来た時に、横川でこれを破った際に軍功を挙げたりしたとの由です。サムライワールド ・ 古城紀行 ・ 横川城跡,ならびに小助官兵衛の部屋 ・ 小助官兵衛の戦国史シナリオ/小助官兵衛の戦国史に登場する城郭一覧 ・ 【大隅国】によれば、この時期、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)を拠点としていた一族・北原氏の中に内紛があり、島津氏につくことを決意して島津氏に援助要請したことによって北原氏宗家当主の座に就いた北原兼親とは異なり、大隅国 桑原郡横川の横川城城主の北原伊勢介・新助親子は、北原氏の中では日向国伊東氏についた勢力だったとの由です。このため、上記の永禄5年(1562年)6月3日の前月・5月に、島津義弘公・島津歳久公兄弟が横川城攻めを開始して、横川城を落城させたとの由です。恐らくは上記の6月3日の伊東氏による大隅国 桑原郡横川侵攻は、落城寸前の横川城北原伊勢介・新助親子を救うために行ったことであり、上記の喜入季久の軍功とは、この伊東氏の援軍を撃退して横川城に近づけさせなかったことに成功したことにより、島津氏による横川城攻めの成功に貢献したというようなことがあり、このことを指すのではないか、と推測します。そして、上記の横川合戦とは、この時の合戦のことを指すのではないか、と考えます。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久,  足利義昭,ならびに鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.132-135によれば、永禄12年(1569年)に、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の後を継いだ島津氏宗家第16代当主・島津義久公の家老に、喜入季久は就任したとの由です。永禄11年(1568年)に室町幕府第15代征夷大将軍に就任していた足利義昭に、足利義昭の新将軍祝賀のために島津義久公は元亀元年(1570年)に喜入季久を派遣して、黄金100両を献上したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 禰寝重長,  喜入季久,ならびに播磨屋 Part2 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏によれば、大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の
富田城城主で禰寝氏第16代当主の禰寝重長は、以前は大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主の肝付氏に味方する反島津氏側の武将でしたが、詳しくは当ホームページ内の富田城紹介欄で述べたとおりの経緯により、元亀4年(1573年)に島津氏宗家第16代当主・島津義久公と和睦したとの由です。島津氏側に寝返った禰寝重長を、肝付氏側は2度に渡って攻めましたが、島津氏の援軍を得た禰寝重長は、2度共、肝付氏の撃退に成功したとの由です。この禰寝氏の2度に渡る対肝付氏防衛戦の内、天正2年(1974年)の2度目の防衛戦の方では、喜入季久は、島津義久公が派遣した禰寝重長への援軍の将の中の1人になり、弟の喜入忠道、喜入久続の戦死という犠牲を払いながらも防衛に成功し、肝付氏の撃退に成功したとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、喜入季久は、詳しくは当ホームページ内の高原城紹介欄で解説した、天正4年(1576年)の日向国高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 ・ 高原町)の高原城攻めにも従軍したとの由です。
  上記の喜入季久の功績は、天正6年(1578年)に喜入季久薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)の
給黎城(きいれじょう)地図から桜之城に移る以前のことです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、功があったために喜入季久薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の地を与えられたとの由ですが、その功とは、上述のような活躍のことを指すのであろうと推測します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、桜之城城主に転じた後も喜入季久は、天正9年(1581年)の、肥後国水俣の水俣城地図を攻略して相良氏第18代当主・相良義陽島津氏が降伏させた水俣合戦にも従軍したとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、天正14年(1586年)に、桜之城前城主で大隅国串良(くしら;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域)の鶴亀城(串良城)城主に転じていた島津忠長を総大将とする島津軍が、筑前国 ・ 御笠郡浦城(現・福岡県 ・ 太宰府市浦城)の岩屋城地図を攻めた岩屋城の戦いにも、従軍したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 喜入季久によれば、喜入季久が死んだのは、安土桃山時代の天正16年(1588年)であるとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津氏系図,ならびに戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 佐多忠将女(喜入季久室),  美須麻流之珠 ・ 伊作島津家 家臣団,ならびに鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.138-141によれば、喜入季久の後を継いで喜入氏第6代目当主は、喜入季久の長男・喜入久道でしたが、安土桃山時代の文禄年間(1592年〜1596年)の文禄4年(1595年)に改易になった後、慶長5年(1600年)に楊梅瘡(梅毒)で死んだとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津氏系図,  島津家臣381,ならびに戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 佐多忠将女(喜入季久室),  美須麻流之珠 ・ 伊作島津家 家臣団によれば、喜入久道の嗣子(しし;あととりのこと)は夭折し、喜入季久の次男、三男は戦死していたため、喜入季久の四男で仏門に入っていた喜入忠政(喜入忠続)が、長兄・喜入久道の改易に伴って還俗し、養子となって後を継いで喜入氏第7代目当主になったとの由です。喜入忠政(喜入忠続)が喜入久道の後を継げたことから、喜入久道の改易は個人に対してのものであり、家の存続は認められた旨が窺えます。この改易の理由は存じ上げませんが、以下の数文の文章のとおり推測は可能です。鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.138-141によれば、繰り返しになり恐縮ですが、天正6年(1578年)に喜入季久
桜之城に移って来たのは移封・転封ではなく加増であり、その後も安土桃山時代の文禄検地(文禄4年(1595年)の太閤検地)までの間は本領・薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)も引き続いて領有していて、例えば、喜入季久存命中は、この喜入久道が給黎城(きいれじょう)地図城主であったとの由です。島津氏領内では、鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)pp.138-141にも述べられているとおり、文禄検地(文禄4年(1595年)の太閤検地)は島津氏家臣団に島津氏領内での、減封を伴う場合も多かった過酷な所替を強いるものであり、この文禄検地による島津氏家臣団所替の一環として、喜入氏は本領・薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)を失ったとの由です。これは喜入久道にとっては減封になるため、改易だったということになります。何らかの罪状があっての改易だったのか、それとも、罪状抜きに「減封せざるを得ないが、許せ」というスタンス(姿勢)で減封せざるを得ない減封であったのかは不明ですが、喜入久道存命中に喜入氏の跡目相続が行われた点に鑑(かんが)みれば、前者(=何らかの罪状があった)の可能性が高いと考えます。とは申せ、「改易」とは申せ、その内容が「所領を全て召し上げる」ことではなく「減封」ですので、その「罪状」は、実際に深刻な罪状であったのか、それとも減封を行うための口実のための罪状であったのかは不明です。いずれにせよ、文禄4年(1595年)に喜入氏は本領・薩摩国 喜入を失ったとの由です。
  鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)p.141によれば、喜入氏から召し上げられた、薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)には、大隅国 加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の
加治木城から、加治木肝付氏当主・肝付兼三が文禄4年(1595年)10月26日に移って来て、給黎城(きいれじょう)地図城主になったとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 肝付兼篤によれば、この肝付兼三は実は血統上は加治木肝付氏の出ではなく、当時の島津氏家老であり、文禄検地(文禄4年(1595年)の太閤検地)の際に大隅国鹿屋(かのや;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市鹿屋市地域 )の鹿屋城(亀鶴城)から日向国庄内(現・宮崎県 ・ 都城市と、その周辺地域)の都之城に移った伊集院忠棟の三男が養子に入っていたものであるとの由です。慶長4年(1599年)に、後に島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になる島津忠恒(家久)公が伊集院忠棟を謀殺した事件の結果、肝付兼三が加治木肝付氏から離れたことにより、加治木肝付氏の本来の血統を受け継いでいた肝付兼篤が、薩摩国 喜入に移って喜入肝付氏になっていた加治木肝付氏の家督を継ぎ、喜入肝付氏初代当主になったとの由です。なお、この喜入肝付氏は、江戸時代薩摩藩外城(とじょう)制下においては、地方行政区画「郷」を私領することが許された一所持と呼ばれる家格の重臣の家として薩摩国 喜入郷を領有し続けました。鹿児島ぶら歩き ・ 給黎郷屋敷跡周辺のこと,  文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 琵琶山城跡,  かごしまデジタルミュージアム ・ 琵琶山城跡によれば、喜入肝付氏第3代当主・肝付兼屋は、江戸時代の承応2年(1653年)10月に、外城(とじょう)制における喜入郷における一国一城令による各城廃城後の「郷」の統治の中心地である武家屋敷群「喜入」を、給黎城(きいれじょう)地図)跡から、琵琶山にあった琵琶山城跡(地図(現・喜入総合運動公園)の喜入麓仮屋(肝付家仮屋)を中心とする地域に移したとの由です。
  話を喜入氏に戻します。鹿児島市ホームページ ・ 喜入町郷土誌(平成16年3月発行) ・ 第2編 原始・古代・中世の喜入(PDF版)p.141によれば、喜入久道は
南郷城(野首城)があった薩摩国 永吉(現・日置市吹上町地域永吉地区)に転封になったとの由ですが、喜入氏第7代目当主・喜入忠政(喜入忠続)は喜入久道とは別して引き続いて薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)を領有しつづけたのか、それとも、喜入氏がこの時期、薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)までも一旦は失ってしまい、喜入忠政(喜入忠続)も喜入久道と共に薩摩国 永吉に移ったのかは、定かではありません。いずれにせよ、少なくとも後年、喜入氏は後述するとおり、薩摩国鹿篭の私領主として存続していましたので、もしも薩摩国鹿篭の領土までも失った場合を想定した場合でも、後に文禄検地(文禄4年(1595年)の太閤検地)の揺り戻しが行われて、全員ではありませんが多くの島津氏家臣団が旧領に戻れた際に喜入氏も薩摩国鹿篭に戻れたことことが、推測可能です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家臣381によれば、喜入氏第7代目当主・喜入忠政(喜入忠続)は、安土桃山時代の文禄元年(1592年)〜文禄2年(1593年)の文禄の役の際に、虎狩りで活躍したとの由です。なお、薩摩国 永吉(現・日置市吹上町地域永吉地区)は、江戸時代には、永吉麓御仮屋を中心にして、戦国時代島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の四男で島津四兄弟の末弟の島津家久公の末裔の島津氏庶流の家である、永吉島津家の所領でした。喜入氏は永吉島津家とも縁があるのですが、これについては次段落で後述します。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠仍,ならびに戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 伊集院久治女(喜入忠政先室)によれば、日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城地図城主だった島津四兄弟の末弟・島津家久公の次男で、一時期は薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主・東郷氏の後を継いで東郷重虎と称し、後に安土桃山時代文禄の役に参加した際の文禄元年(1592年)に、島津義弘公の命により島津姓に復して名を改めていた島津忠直(島津忠仍)には、佐土原城地図城主の兄・島津豊久が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで子が無いまま戦死すると、島津豊久の遺領を継ぐように命令が下ったとの由です。ところが、島津忠直(島津忠仍)は病身であったため、これを理由に固辞して、喜入忠政(喜入忠続)の長男・喜入忠栄を娘婿の婿養子に迎えて島津家久公−島津豊久の家系を継がせたとの由です。この島津忠栄(喜入忠栄)の代以降、島津家久公系譜のこの家は、薩摩国 永吉郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域永吉地区)を永吉麓御仮屋を拠点として私領として代々統治した、永吉島津家と呼ばれる、江戸時代薩摩藩における島津氏庶流の重臣の家格の家になったとの由です。なお、薩摩国 永吉郷を所領としたことから窺えるように、永吉島津家という島津家久公の家系上の系譜は継承しましたが、島津家久公の遺領・日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原は継承していません。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津以久によれば、日向国 ・ 那珂郡 ・ 佐土原を所領として与えられたのは、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の次男・島津忠将の長男であり、島津家久公ら島津四兄弟にとっては従兄弟であった島津以久です。この結果、島津以久は、佐土原城地図を城とした日向国佐土原藩の、初代藩主になったとの由です。
  
桜之城廃城後の、後述する鹿籠
の時期も交えて喜入氏の系譜について若干補足申し上げます。戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 佐多忠将女(喜入季久室),ならびに伊集院久治女(喜入忠政先室)によれば、喜入忠政(喜入忠続)の次男で江戸時代の慶長11年(1606年)に生まれた喜入忠高は、正保2年(1645年)に死んだ父・喜入忠政(喜入忠続)に先だって、寛永12年(1635年)に30歳の若さで死んだとの由です。ここで喜入氏嫡流の血統は絶えため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津光久,  島津忠長(都城島津氏)によれば、島津氏宗家第19代当主(兼)薩摩藩第2代藩主・島津光久公の三男・島津忠長が喜入氏の養子になっていましたが、寛文2年(1662年)に北郷(ほんごう)氏の後を継いで日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の領主館に移ることになり、その後、島津光久公の九男:島津久亮が喜入氏を継いで喜入久亮になったとの由です。上記のとおり、薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の地は、江戸時代を通じて、喜入氏が、私領を有することが可能な「一所持」と呼ばれる薩摩藩の重臣の家格の家として統治する場所でした。
  鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索 ・ 桜之城跡の廃城時期は元和元年(1615年)との由ですので、
桜之城は、慶長20年/<元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城になった旨が分かります。江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。城鑑賞の旅・二人で城ある記 ・ 島津外城・麓 一覧によれば、鹿籠島津氏庶流の喜入氏私領の4千石の鹿籠郷武家屋敷群の、仮屋跡は枕崎市立桜山小学校地図)であるとの由です。
  枕崎水産加工業協同組合 ・ おかげさまで300年,  唐物崩れ,ならびに鹿児島県 水産技術開発センター ・ かごしま水産情報 ・ 鹿児島県水産技術のあゆみ ・ 第4編 漁村部門 ・ 第3節 かつおまぐろ漁業の近代化によれば、紀伊国 熊野(現・和歌山県熊野(和歌山県) + 三重県熊野(三重県))の漁師甚太郎が江戸時代の延宝2年(1674年)に始めた製法を、森弥兵衛が宝永4年(1707年)に
鹿籠浦(現・枕崎港地図))に伝えた際に、鹿籠の当時の私領主・喜入久亮が産業保護・育成したとの由です。この喜入久亮が、上述の島津光久公の九男が養子に来て家督相続した喜入久亮が長生きした本人であるのか、次世代以降の同名の子孫・後継者であるのかは、存じ上げません。さらに、江戸時代の享保8年(1722年)に、江戸幕府鎖国政策下で禁じられていた密貿易を行っていた薩摩国 坊津(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域)の密貿易商人達が、江戸幕府の一斉摘発を受けた「唐物崩れ」という事件が起きた際に、枕崎港地図に逃げてきた密貿易商人達を鹿籠の私領主・喜入氏が保護して鰹(カツオ)漁業の漁師と鰹節(カツオブシ)製造業者にして、今日の枕崎の鰹(カツオ),  枕崎の鰹節(カツオブシ)産業興隆の礎を築いたとの由です。これは、鹿籠郷領主・喜入氏による地域産業振興政策史であると当時に、今日の鹿児島県 ・ 枕崎市江戸時代鹿籠郷)の中心地域が、鹿籠地域から枕崎港地図に移った源流となる都市史の経緯でもあります。なお、鰹節(カツオブシ)等の枕崎の鰹(カツオ)製品は、【楽天市場】枕崎市かつお公社等でお求めいただけます。鹿児島県 ・ 枕崎市には、(株)枕崎市かつお公社,  枕崎お魚センター,  南薩地域地場産業振興センター等のグルメ観光スポットがある他、ご当地ラーメン「かつおラーメン」があります。
  薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)には、かつて、江戸時代に発見された
鹿籠金山がありました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蔵多山によれば、鹿籠金山は、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)と薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)との境にある蔵多山(くらたやま)地図)南方にあったとの由であり、今日の鹿児島県 ・ 枕崎市金山町(地図)周辺になります。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 流人となった文人・都の錦(下),  古代文化研究所 ・ 大山祇神社,  さつまの国の言い伝え ・ 夢宅と鹿篭金山 枕崎市等によれば、鹿籠金山は、江戸時代の天和元年(1681年)に、地元の郷士・有川夢宅によって発見されて天和3年(1683年)4月から採掘を開始し、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 日本の鉱山の一覧によれば、昭和18年(1943年)に閉山したとの由です。古代文化研究所 ・ 大山祇神社によれば、鹿籠金山の地区を鹿籠郷から外して薩摩藩の直轄地区に編入し、その代わりに加世田郷(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の加世田津貫中山(この辺り(地図))を鹿籠郷に編入したとの由です。古代文化研究所 ・ 大山祇神社,  鹿児島県神社庁公式ホームページ ・ 大山祇神社によれば、枕崎市金山町640()にある大山祇神社には、鹿籠金山の発見者・有川夢宅の石像が安置されている「夢宅堂」が設けられているとの由です。
  なお、上述のとおり
鹿籠金山は昭和18年(1943年)に閉山したとの由ですが、日本の金属鉱山 ・ 鉱山事業所リスト(九州・沖縄編)によれば、春日鉱山と岩戸鉱山(岩戸金山)が稼行中の露天掘りの金山として載っています。春日鉱山については、枕崎市ホームページ(枕崎市役所) ・ 春日鉱山等によれば(リンク先URLは2013年12月現在)枕崎市春日町365番地(地図)には露天掘りの金鉱山として2013ネン12月現在、採鉱しているとの由です。日本の金属鉱山 ・ 鉱山事業所リスト(九州・沖縄編)には、枕崎市別府1220 (荒平(岩戸山上部・北側))の岩戸鉱山(岩戸金山)として1999年12月時点で稼行中だった旨が載っているのですが、春日鉱山とは異なり、現役の事業所を示唆する情報がインターネット上で検索できず、かつ、2013年12月現在、「1220」という地番ではアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドでもgoogle mapでも検索できませんでした。これら各地図サイトは(株)ゼンリンと提携している場合が多いのですが、(株)ゼンリンは紙媒体時代の昔から業務用住宅地図に定評のある地図メーカーであるため、逆に申せば「現在使用されている建物」が無い地番については情報が欠落するが多いため、地番が載っていないということは、現在そこに事業所が無い可能性がある旨を示唆します。また、日本の金属鉱山 ・ 鉱山事業所リスト(九州・沖縄編)では、岩戸鉱山は「選鉱・精錬は串木野に輸送」と書かれていますが、三井串木野鉱山(株)ホームページには、南九州市知覧町地域の塩屋17289(地図)の明石(あけし)鉱山は載っていても、岩戸鉱山についての情報は載っていません。岩戸鉱山がまだ現存しているのか、それとも上記の1999年12月から当文章記述時点2013年12月までの間に閉山したのかは存じ上げませんが、鹿籠金山閉山後も枕崎市には、少なくとも20世紀末期では2山、2013年12月現在では、少なくとも1山の露天掘りの金山が存在していたことが分かります。薩摩国鹿篭(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の地は金を産出する地なのです。岩戸鉱山については、前述の「岩戸山上部・北側」という情報に基づいて、google mapの写真を見て露天掘り採掘所らしき画像の場所を探した結果をアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドで示せば、この辺りになります。なお、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ ゆあがりさんぽ ・ 枕崎市編 によれば(リンク先URLは2013年12月現在)枕崎市枕崎観光ホテル 岩戸岩戸鉱泉は、ホテル前の岩戸鉱山の湧き水を利用しているとの由です。
  鹿児島大学理学部・鹿児島大学院理工学研究科(理系) ・ 鹿児島フィールドミュージアム(鹿児島知的散策マップ)(文化財) ・ 桜之城跡および梵鐘によれば、
桜之城跡の城山には梵鐘があるとの由です。この梵鐘は、鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域にあった、名刹・古刹にして廃寺と化してしまった一乗院の梵鐘だったものとの由であり、廃仏毀釈によって一乗院が廃寺になった後に統治に運ばれて、報時鐘として使われたものであるとの由です。明治10年(1877年)の西南戦争で一時は金属供出のため撤去された後に復活したりした歴史があるとの由です。
  
桜之城跡への公共交通での行き方、アクセスは、2013年12月現在鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「山形屋バスセンター−中央駅(鹿児島中央駅)地図)・谷山駅経由−川辺高校地図)・「枕崎(駅前) 」(地図)」路線の路線バスに乗り、「鹿篭」バス停(地図)下車、徒歩です。JR九州 ・ 鹿児島本線 ・ 伊集院駅地図),もしくはJR九州 ・ 指宿枕崎線 ・ 枕崎駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)・加世田(地図)−さつま湖経由−伊集院(地図)・伊集院高校」路線、枕崎駅地図)からいわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通の「枕崎(駅前) (地図)−加世田(地図)」路線、等の路線バスに乗り、「鹿篭」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  併せてお楽しみいただける最寄りの温泉・鉱泉は、当ホームページ内の
枕崎市の温泉でお探しいただけます。枕崎市の温泉には、枕崎なぎさ温泉グリーンホテル福住最寄り)や、岩戸鉱泉枕崎観光ホテル 岩戸等があります。また、温泉以外も含めての鹿児島県 ・ 枕崎市のご宿泊先は、【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県枕崎市」での楽天トラベル登録宿検索結果でお探しいただけます。)

(当HP内の)枕崎市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

枕崎市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県枕崎市」での楽天トラベル登録宿検索結果(注)
(注) 検索結果では、枕崎市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。


温泉案内・宿泊案内+α
温泉天国・鹿児島温泉紹介!
(当WEBサイト)
(当HP内の)指宿温泉案内
(当HP内の)南薩地域の温泉案内
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】鹿児島県の温泉旅館・ホテル一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  温泉宿一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】指宿温泉  空室検索
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】南薩(指宿・枕崎)の温泉宿一覧
【楽天トラベル】南薩(指宿・枕崎) のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・ANA楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・JAL楽パック】南薩(指宿・枕崎)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・たびノート】南薩(指宿・枕崎)の観光スポット




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指宿市 指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 






南さつま市

南さつま市ホームページ ・ 観光ガイド

いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページ

南さつま市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。南さつま市、2005年11月7日に旧加世田市,  旧川辺郡(かわなべぐん) 大浦町,  旧川辺郡 坊津町(ぼうのつちょう),  旧川辺郡 笠沙町(かささちょう),  旧日置郡(ひおきぐん) 金峰町(きんぽうちょう)が市町村合併してできました。)

南さつま半島文化−インターネット博物館「鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館」
リンク先URLは2011年10月現在。南薩地域の観光スポットを紹介する、他の運営者によるホームページです。)

West far West(南さつま市案内)
リンク先URLは2011年10月現在南さつま市の観光スポットを紹介する、他の運営者によるホームページです。)

鹿児島県庁ホームページ内の「「南さつまのまち歩き散策マップ」のご案内」掲載ページのgoogleでの検索結果

(当HP内の)南さつま市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)


南さつま市平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 





南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)エリア>

いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページ(再掲)

坊津へようこそ おじゃったもんせ坊津へ
リンク先URLは2011年10月現在坊津の観光スポットを紹介する、他の運営者によるホームページです。)

坊津まち歩きリンクバナー坊津まち歩き(NPO坊津やまびこ会)
リンク先URLは2011年10月現在坊津の観光スポットを紹介する、他の運営者によるホームページです。)

(当HP内の)南さつま市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

(当HP内の)あじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内

坊津観光案内所の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。南日本新聞の記事「南さつま市坊津に観光拠点施設が新装オープン(2011 04/13)」によれば(リンク先URLは2011年5月現在)2011年4月時点で施設名称(愛称)は未定で募集中との由です。坊津まち歩き(NPO坊津やまびこ会)でも2011年5月現在トップ画面で、坊津遺産でも新 観光案内所,  工事中(2)の中で、愚行日記でも鹿児島旅行(11)の中で紹介されています。坊津歴史資料センター輝津館の前にあるとの由です。)

坊津歴史資料センター輝津館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町坊9423-1。Tel.:0993-67-0171。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、南さつま市ホームページでも観光施設・坊津地域の中で(リンク先URLは2011年3月現在)いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページでも坊津歴史資料センター輝津館−子供から大人まで楽しめる歴史館−として(リンク先URLは2013年7月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも坊津歴史資料センター輝津館として(リンク先URLは2011年3月現在)全国旅そうだんでも坊津歴史資料センター輝津館として、じゃらんネットでも坊津歴史資料センター輝津館として紹介されています。)

鑑真記念館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町秋目225番地2。Tel.:0993-68-0288。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、南さつま市ホームページでも観光施設・坊津地域の中で(リンク先URLは2011年3月現在)いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページでも鑑真記念館−鑑真大和上の遺徳を偲ぶ−として(リンク先URLは2013年7月現在)鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも鑑真記念館として(リンク先URLは2011年3月現在)全国旅そうだんでも鑑真記念館として、じゃらんネットでも鑑真記念館として、プチたびでも鑑真記念館として紹介されています。)

小さな宮田美術館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町坊9329番地。Tel.:0993-67-2230。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、CJキューブでも国指定名勝・坊津八景に親しみ/小さな宮田美術館(ちいさなみやたびじゅつかん)として、YAHOO!ロコでも小さな宮田美術館として、坊津遺産でも宮田美術館として紹介されています。)

丸木浜海水浴場(丸木浦海水浴場)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町久志1276。Tel.:0993-68-0334(丸木浜キャンプ場)。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも丸木浜キャンプ場として、鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも丸木浜(キャンプ場)として(リンク先URLは2013年7月現在)全国旅そうだんでも丸木浜として紹介されています。)

秋目(秋目浦)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町秋目。Tel.:0993-67-1441(南さつま市役所坊津支所)。全国旅そうだんでも秋目浦として、じゃらんnetでも秋目浦として紹介されています。)

丸木崎展望所の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町泊。Tel.:0993-67-1441(南さつま市役所坊津支所)。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、全国旅そうだんでも丸木崎展望所として、じゃらんネットでも丸木崎展望所として紹介されています。)

一乗院跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町坊 。Tel.:0993-67-0170(南さつま市教育委員会坊津教育課)。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページでも一乗院跡(県指定史跡)・仁王石像・上人墓として(リンク先URLは2013年7月現在)全国旅そうだんでも一乗院跡として、じゃらんnetでも一乗院跡として、フリー百科事典『ウィキペディア』でも一乗院 (南さつま市)として紹介されています。)

密貿易屋敷跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市坊津町坊 。Tel.:0993-67-1441(南さつま市役所坊津支所)。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、全国旅そうだんでも密貿易屋敷跡として、じゃらんnetでも密貿易屋敷跡として紹介されています。)

南さつま市坊津B&G海洋センター
ブルーシー・アンド・グリーンランド財団(B&G財団) のサブ・コンテンツで、公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、南さつま市坊津B&G海洋センターの場所のとおり。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で紹介されています。)

がんじん荘(定置網漁業体験)
楽天トラベルでも【楽天トラベル】民宿 がんじん荘として、当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図でもがんじん荘として、定置網漁網体験や磯釣り、遊漁船で海上遊覧、釣り瀬渡し、12〜1月はポンカン狩り等の有料体験サービスがあります。)

松風(旧・こじま荘)の場所(観光漁業)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市 坊津町久志2146。Tel.:0993-68-0223。当HPでもあじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内の中で、YAHOO!ロコでもこじま荘として、坊津遺産でもこじま荘として、釣り船「みね丸」公式WEBサイトでも乗り場案内の中で紹介されています。坊津遺産 ・ こじま荘によれば、遅くとも2012年02月19日よりも前の時点で、「こじま荘」から「松風」に名前が変更になった模様です。)

遣唐使船グラスボート(残念ながら廃止)
九州旅行・元気ナースの旅日記 ・ 坊津歴史資料センター輝津館によれば(リンク先URLは2011年3月現在)残念ながら2009年に廃止になったとの由です。在りし日の姿については、坊津遺産(ブログ)でも遣唐使船として紹介されています。)

(当HP内の)南さつま市の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

坊津でのご宿泊は
【楽天トラベル】鳴海旅館
【楽天トラベル】南さつま市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿は【楽天トラベル】鳴海旅館だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南さつま市の他の場所に対しては、上記の【楽天トラベル】南さつま市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)


○  この地域への行き方・アクセス(交通案内、時刻表)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,  特急「指宿のたまて箱」紹介
  終点の鹿児島中央駅からこの地域への、もしくはこの地域内のバス路線の時刻表ならびにバス路線図は、以下のリンク先でご参照いただけます。この地域には、鹿児島交通の路線バスが走っています。また、坊津町(ぼうのつちょう)地域の場合、途中まで鉄道で行く場合にはJR指宿枕崎線 ・ 枕崎駅からバス乗り換えになりますが、鉄道の時刻表はJR九州公式ホームページでお調べいただけます。なお、JR指宿枕崎線は、途中の指宿駅までは、特急「指宿のたまて箱」で行くことができます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま

○   「南さつま半島文化」ホームページ ・ 南さつま市 バス路線図(概要図)




当ページ(当画面)内の目次
この画面のトップ
指宿市 指宿市地域(注)
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山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 




南さつま市加世田市地域>

いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページ(再掲)

(当HP内の)南さつま市旧加世田市地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

万世特攻平和祈念館
(南さつま市[旧・加世田市]にあります。リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、万世特攻平和祈念館の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3、Tel.:0993-52-3979。MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でも万世特攻平和祈念館(旧称:加世田市平和祈念館)として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも万世特攻平和祈念館として(リンク先URLは2013年12月現在)いろは南さつま〜南さつま市観光協会ホームページでも万世特攻平和祈念館−陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」−として紹介されています。
  鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課) ・ 万世特攻平和祈念館によれば(リンク先URLは2013年12月現在)、昭和18年(1943年)夏から19年(1944年)末にかけて建設された、太平洋戦争末期の大日本帝国陸軍最後の特攻隊(特別攻撃隊)の基地の跡に、平和への想いを込めて建てられました博物館であるとの由です。
県立吹上浜海浜公園,  加世田物産センター・るぴなすの最寄りにあります。
  公共交通機関での行き方、アクセスについては、2013年12月現在
【楽天トラベル・たびノート】万世特攻平和祈念館で、ご参照いただけます。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。
  また、特別攻撃隊(特攻隊)に関する鹿児島県内の博物館はこの
万世特攻平和祈念館の他には、知覧知覧特攻平和会館,  鹿屋市鹿屋航空基地史料館があります。)

竹田神社日新斎島津忠良公,  島津尚久墓所)
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。【楽天トラベル・たびノート】竹田神社,ならびに南さつま半島文化−鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館 ・ 南さつま歴史街道(南さつまの暮らしと成り立ち) ・ 南さつま市地図と地名 ・ 【Googleマップ】南さつま市文化財マップに基づいてアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば竹田神社の場所,  島津忠良公の墓の場所,  島津尚久の墓の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田武田17933,Tel.:0993-52-2841。MAPPLE観光ガイドでも竹田神社として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも竹田神社(南さつま市)、ならびに前身の日新寺(じっしんじ)として、鹿児島県神社庁ホームページでも竹田神社として(リンク先URLは2011年4月現在)、紹介されています。
  
竹田神社は、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域にある神社で、祀られている祭神は戦国時代島津氏中興の祖・日新偉霊彦命(日新斎(じっしんさい)島津忠良(ただよし)公)公です。
  日新斎島津忠良公は、島津氏の庶流(分家)・伊作家相州家の当主を兼ねた戦国時代の名将です。その子・島津貴久公が島津氏宗家第を継いだことを契機として、当時、島津氏宗家の権威が廃れて後世「島津の暗黒時代」とさえ言われる程に混乱していた薩摩国,  大隅国,  日向国の三州の領国の政治・軍事情勢下における領国国内平定戦を、日新斎島津忠良公、島津貴久公、「島津義久公、島津義弘公、島津歳久公、島津家久公」の島津四兄弟、の三代に渡って成し遂げた領国統一の業績の、その初代になる人物です。このため、日新斎島津忠良公は、島津氏中興の祖と呼ばれる人物です。武士の心がけを教えるための「いろは歌」の作者としても知られ、この「いろは歌」は、現代でも鹿児島県人の道徳上の根拠としてよく引用される程のものです。
  
竹田神社は、日新斎島津忠良公の菩提寺だった曹洞宗の仏教寺院・龍護山日新寺(じっしんじ)廃仏毀釈によって廃寺になった後、宗教を仏教から神道に代えて神社として再建されたものです。元々は、文明17年(1485年)に島津氏の分家の1つ・薩州家の2代当主・島津国久が泰翁宥仙を開山として開いた保泉寺でした。一時期衰退していましたが、戦国時代薩州家との戦争に勝って加世田 ・ 別府城(加世田城)を落として加世田の地を勢力圏に加えた日新斎島津忠良公が再興し、日新斎島津忠良公没後にその菩提寺になった際に日新寺となっていました。なお、日新斎島津忠良公と加世田(南さつま市加世田市地域)との関わりについて詳しくは、当画面(当ページ)下方の別府城跡(加世田城跡)紹介欄でご参照いただけます。
  戦国浪漫 ・ 戦国期の人々の墓(供養塔) ・ 戦国期の人々の墓(供養塔)その9 ・ 島津忠良,  島津尚久によれば、
竹田神社には、日新斎島津忠良公と、その第3子・島津尚久の墓があるとの由です。
  
竹田神社日新斎島津忠良公に関する古文書類は、加世田郷土資料館で展示されているとの由です。
  公共交通機関での行き方は、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、そこからタクシーで5分です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  また、最寄りの温泉地や温泉宿、ご宿泊先は、
南薩の温泉,  【楽天トラベル】鹿児島県南さつま市加世田の宿泊施設検索結果等で、お探しいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

南薩鉄道記念館(鹿児島交通加世田ステーション鉄道記念館)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒897-0002 鹿児島県南さつま市加世田武田18605番地(鹿児島交通加世田バスセンター敷地内)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも南薩鉄道記念館として、じゃらんnetでも鹿児島交通加世田ステーション鉄道記念館として、インターネット博物館「鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館」でも南薩鉄道記念館として紹介されています。
  
南薩鉄道記念館(鹿児島交通加世田ステーション鉄道記念館)は、昭和59年(1984年)に廃線になった、南薩鉄道こと鹿児島交通南薩線(鹿児島交通枕崎線)に関する鉄道博物館です。大正3年(1914年)の開業時の社名が南薩鉄道であったため、昭和39年(1964年)に大隅半島でバスを運営していた三州自動車に合併されて鹿児島交通(現・いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通)に社名が変わってから後も、「南薩鉄道」の愛称で親しまれていた、薩摩半島西部・南部の重要な交通機関だった鉄道路線でした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鹿児島交通枕崎線によれば、沿線人口の減少、モータリゼーション、鹿児島交通提供サービスの範囲内でも同社提供のバスへの顧客流出のため経営が悪化していたことに加えて、昭和58年(1983年)6月の集中豪雨被害に最後のとどめを刺されてしまい、残念ながら廃止になったとの由です。南薩鉄道記念館(鹿児島交通加世田ステーション鉄道記念館)は、鹿児島交通枕崎線加世田駅の駅の跡にあるとの由です。
  私見ですが、南薩鉄道(鹿児島交通枕崎線)経営悪化の要因の中の一つには、県都・鹿児島市に行くためには遠回りしなければならない路線だったことが挙げられるのではないか、と考えております。例えば宮城県 ・ 仙台市JR仙石線営業係数が良かった事例に学んで旧国鉄/現JR各社が地方都市でも通勤方フリークエント・サービス(頻発)ダイヤグラムを組むようになったり、長野県 ・ 長野市長野電鉄や、静岡県静岡市静岡鉄道,  浜松市遠州鉄道等々の地方の中小私鉄が、中心となる都市に直通しない路線は廃止せざるを得なかった場合はあるものの、現存する中心市街地に直通する路線は通勤・通学路線として生き残っていたりするような他の地方都市の事例に鑑(かんが)みれば、2013年12月現在中核市の人口第2位の人口を誇る実は大都市でもある鹿児島市の場合、もしも仮に鹿児島市中心市街地に直通する路線があったのであれば、生存可能な量での通勤・通学の交通需要があった可能性が想定可能です。ですが、鹿児島市の場合、姶良カルデラ阿多カルデラの2大カルデラから成る鹿児島湾の、カルデラの外壁の内側とも言える場所に都市が立地しているため、鹿児島市中心部から近郊都市に行くためにはカルデラの外壁とも言える山々で峠越えをしなければならない地理的状況にあり、地方での鉄道発展期と言える明治時代末〜昭和初期の鉄道技術や、当時の日本の経済力上投下可能な資本、調達可能な鉄資源量等の技術・資金・資源制約では、鹿児島市中心部と南薩鉄道(鹿児島交通枕崎線)の途中の駅と鹿児島市中心市街地とを結ぶ路線の開設は不可能であったのではないか、と推測します(注;確認した上での事実ではなく、推測です)。この峠越えの困難さに鑑(かんが)みれば、残念ながら、モータリゼーションと人口減少に敗れたのは、防ぎようが無かったのかも知れないと思います。
  鹿児島交通枕崎線
  じゃらんnet ・ 鹿児島交通加世田ステーション鉄道記念館によれば、参照時2013年12月現在、営業概要は以下のとおりとの由です(注:将来、変更になった場合に、情報が古い旨は、お許し下さい)
開館時間:10:00〜18:00(9月〜翌5月は〜17:00)
定休日:水曜日(ただし、定休日が祝日の場合には開館)
休業日:定休日が祝日の場合には翌日休、夏休期間無休、12月31〜1月1日
入館料:大人 : 200円,小学生100円,グループ特典15名以上1割引
  廃線になった南薩鉄道こと鹿児島交通南薩線(鹿児島交通枕崎線)について詳しくは、
南薩鉄道めもりある,  レールモデル.ローガン,  kammai's page,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鹿児島交通枕崎線 & 鹿児島交通知覧線 & 南薩鉄道万世線等でご参照可能です。
  公共交通機関での行き方、アクセスは、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。)

加世田郷土資料館の場所(南さつま市郷土資料館,旧・加世田市立郷土資料館)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。〒897-0003 鹿児島県南さつま市加世田川畑2650番地1 市民センター3階。Tel.:0993-53-2111(南さつま市)。全国旅そうだんでも加世田郷土資料館として、じゃらんネットでも加世田郷土資料館として紹介されています。
  
加世田郷土資料館(旧・加世田市立郷土資料館)は、南さつま市郷土資料館とも呼ばれる博物館で、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域にあります。
  戦国時代の郷土史に名を残した日新斎(じっしんさい)島津忠良公、ならびに、その菩提寺だった龍護山日新寺(じっしんじ)(廃仏毀釈により廃寺後、現・
竹田神社)に関する古文書や、国指定遺跡で縄文遺跡として知られる栫ノ原遺跡の埋蔵文化財、民俗資料等が展示されているとの由です。日新斎島津忠良公が戦国時代の天文8年(1539年)正月の加世田別府城の戦いで別府城(加世田城)を攻め落として以来、加世田(現・南さつま市加世田市地域)の地は日新斎島津忠良公ゆかりの地になりました。
  日新斎島津忠良公は、島津氏の庶流(分家)で、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)を拠点にした伊作家と、薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城を拠点とした相州家の当主を兼ねた戦国時代の名将です。その子・島津貴久公が島津氏宗家を継いだことを契機として、当時島津氏宗家の権威が廃れて後世「島津の暗黒時代」とさえ言われる程に混乱していた、島津氏守護を勤める薩摩国,  大隅国,  日向国の三州の領国の国内平定戦を、日新斎島津忠良公、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公、「島津氏宗家第16代当主・島津義久公、島津義弘公、島津歳久公、島津家久公」の島津四兄弟、の三代に渡って成し遂げた業績の、その初代になる人物です。このため、島津氏中興の祖と呼ばれる人物です。武士の心がけを教えるための「いろは歌」の作者としても知られ、この「いろは歌」は、現代でも鹿児島県人の道徳上の根拠としてよく引用される程のものです。
  2011年5月現在
加世田郷土資料館の営業概要は以下のとおりです(注:将来、変更になった場合に、情報が古い旨は、お許し下さい)
開館時間:9:30〜18:00
休館日 :
第3日曜日、第3日曜日の翌日を除く月曜日、祝日、12月29日〜翌年1月3日、館内整理期間
観覧料 :無料
  公共交通機関での行き方、アクセスは、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、そこから徒歩、またはタクシーです。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。)

栫ノ原遺跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市加世田村原字栫ノ原。Tel.:0993-53-2111(南さつま市)。南さつま半島文化でも栫ノ原遺跡として、鹿児島県ホームページでも栫ノ原遺跡,  黎明館>栫ノ原遺跡として(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。
  
栫ノ原遺跡(かこいのはらいせき)は、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域の、標高39mの丘陵上にある、縄文時代〜中世の複合遺跡です。特に縄文遺跡として価値が高い遺跡として知られていますが、昭和50〜52年,61年,平成元年〜5年と9回の発掘調査が行われた結果、縄文時代早期・後期・晩期・古墳時代,中世にまたがる複合遺跡である旨が分かったとの由です。
  平成9年(1997年)に、国指定遺跡になりました。
  縄文時代創期(約1万2先年前頃)に、定住生活がはじまった頃の遺跡です。発掘された遺構は、配石炉4,集石遺構22,土坑8等との由です。また、1000点以上の隆帯文土器片,石鏃石斧磨石(すりいし)石皿・削器などの石器,等も大量に出土したとの由です。配石炉の内、舟形配石炉は,南九州の縄文草創期にみられる遺構であり、内面が焼けていることから炉の跡とみられているとの由です。
  南九州の縄文早期文化は、他地域の縄文後期以降に相当する程の先進文化である旨が、鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域
上野原縄文遺跡等で知られていますが、この栫ノ原遺跡も、この先進的な南九州の縄文早期文化の遺跡として知られています。
  また,中世には
尾守ケ城として利用され,中世城郭遺跡でもあります。
  
栫ノ原遺跡については、南さつま市加世田市地域加世田郷土資料館の他、鹿児島市鹿児島県歴史資料センター黎明館でも展示解説されています。
  公共交通機関での行き方、アクセスは、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、そこから徒歩、またはタクシーです。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。)

吉井淳二美術館公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば吉井淳二美術館の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田武田13877-3,Tel.:0993-53-6778。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも(財)吉井淳二美術館として(リンク先URLは2011年4月現在)全国旅そうだんでも(財)吉井淳二美術館として紹介されています。
  吉井淳二美術館公式WEBサイトによれば、参照時2013年12月現在、開館時間等は以下のとおりとの由です(注:将来、変更になった場合に、情報が古い旨は、お許し下さい)
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 :元旦のみ
入館料 :無料
  公共交通機関での行き方、アクセスは、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、タクシーで約10分との由です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。)

笠狭宮跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市加世田川畑舞敷野西。Tel.:0993-53-2111(南さつま市)。全国旅そうだんでも笠狭宮跡として、じゃらんnetでも笠狭宮跡として、鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟,鹿児島県観光交流局観光課)でも笠狭宮跡として(リンク先URLは2011年5月現在)アット・ニフティ@nifty ・ デイリーポータル Zでもちょっと見てきて・元祖が見たいわの中で(リンク先URLは2011年5月現在)、紹介されています。
  
笠沙宮(かささのみや)跡は、邇邇芸命(ニニギノミコト)木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と結婚して初めて住居を構えた宮の跡だと言われている所です。
  鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域の舞敷野にあります。古文書や口伝によってここにあるとされ、地元の人は御座屋敷と呼んでいたとの由です。
  現地には碑が立っています。
  ニニギノミコトは、記紀古事記日本書紀)の天孫降臨伝説で降臨した皇祖神(皇室の祖先神)で、ひ孫の神武天皇に至る前のニニギノミコトから3代の出来事は日向神話と呼ばれています。日向(ひゅうが)というと宮崎県のイメージが強いので「何故、鹿児島県?」と思われる方もおられるかも知れませんが、大宝2年(702年)に唱更国として後の薩摩国が分離する以前には、この辺りは日向国でしたので、日向神話の舞台に鹿児島県が含まれていても不思議ではありません。記紀古事記日本書紀)でも、ニニギノミコト木花咲耶姫が出会った場所は笠沙だとされており、それは今日の南さつま市笠沙町地域のことと推測可能です。なお、今日の鹿児島県を構成する旧国の内、大隅国も和銅6年(713年)に分離独立する以前には日向国でした。余談ですが、中世以降の日向国の領域の内、例えば志布志市の領域等の例のように一部は、今日では鹿児島県になっています。
  南さつま市には、この南さつま市加世田市地域
笠沙宮の他にも、ニニギノミコト木花咲耶姫の住居跡と伝えられる所として、南さつま市笠沙町地域宮ノ山遺跡があります。関連スポットには、南さつま市笠沙町地域に先述の宮ノ山遺跡の他、神渡海岸(黒瀬海岸)(ニニギノミコト上陸地)もあります。
  公共交通機関での行き方、アクセスは、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、そこから南東に3km程、タクシーです。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。)

吹上浜
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ(注:楽天トラベル ・ たびノート吹上浜は、日置市のものであり、南さつま市加世田市地域のものではありません。誤解を避けるべく念のため)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも吹上浜として紹介されています。県立吹上浜海浜公園の場所でもってアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、県立吹上浜海浜公園の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田高橋1936-2、Tel.:0993-52-0910。吹上浜南さつま市日置市にまたがった広大な砂浜です。吹上浜南さつま市加世田市地域には、県立吹上浜海浜公園があります。県立吹上浜海浜公園吹上浜砂の祭典の会場であり、また、その園内には県立吹上浜海浜公園キャンプ場があります。)

県立吹上浜海浜公園公式WEBサイト
(リンク先は公式ホームページで、リンク先URLは2010年8月現在アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、県立吹上浜海浜公園の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田高橋1936-2、Tel.:0993-52-0910。楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも吹上浜海浜公園のクルメツツジとして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも吹上浜海浜公園として紹介されています。複数の市にまたがる広大な吹上浜南さつま市加世田市地域にあり、園内に県立吹上浜海浜公園キャンプ場、吹上浜海浜公園プール(地図)、吹上浜海浜公園運動広場、吹上浜海浜公園ローラースケート場、吹上浜海浜公園サイクリングセンター、サッカー競技場等があり、吹上浜砂の祭典の会場でもあります。また、県立吹上浜海浜公園園外ですが、最寄りには、万世特攻平和祈念館,  加世田物産センター・るぴなすもあります。)

県立吹上浜海浜公園キャンプ場
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、県立吹上浜海浜公園キャンプ場の場所のとおり。住所:鹿児島県南さつま市加世田高橋1936-2、Tel.:0993-52-7600。MAPPLE観光ガイドでも県立吹上浜海浜公園キャンプ場として紹介されています。県立吹上浜海浜公園キャンプ場について詳しくは、県立吹上浜海浜公園公式WEBサイトに載っています(リンク先URLは2010年8月現在)日置市吹上町地域吹上浜キャンプ村とは、名前が似ていますが別物です(吹上浜はべらぼうに広大ですので、複数の市にまたがっています)。県立吹上浜海浜公園にあります。)

吹上浜砂の祭典実行委員会のホームページ
MAPPLE観光ガイドでも吹上浜砂の祭典として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも吹上浜砂の祭典として、全国旅そうだんでも吹上浜砂の祭典として、じゃらんnetでも吹上浜砂の祭典 SAND&FLOWERフェスタin南さつまとして紹介されています。県立吹上浜海浜公園で、毎年5月上旬に行われるイベントです。)

加世田物産センター・るぴなす
(リンク先は、かせだ交流センター「さんぱる」を中心とする施設・南さつま市『ガンバリーナかせだ(加世田)』のサブ・コンテンツで公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、の場所のとおり。住所:〒897-1123 鹿児島県南さつま市加世田高橋1952番地2、Tel.:0993-53-8739。南さつま市ホームページでも特産品販売所の中で(リンク先URLは2011年5月現在)JA南さつまでもかせだ物産センター るぴなすとして(リンク先URLは参照時2010年7月現在)全国旅そうだんでもかせだ交流センターさんぱる,  かせだ物産センターるぴなすとして紹介されています。
  最寄りには、
万世特攻平和祈念館,  県立吹上浜海浜公園もあります。)

南さつま特産加工センター四季彩館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:〒897-0004 鹿児島県南さつま市加世田内山田243 、Tel.:0993-53-2400。南さつま市ホームページでも特産品販売所の中で(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも南さつま特産加工センター四季彩館として、じゃらんネットでも南さつま特産加工センター四季彩館として紹介されています。)

南さつま交流センターにいななまる(物産館)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:〒899-3611 鹿児島県南さつま市加世田津貫13041、Tel.:0993-55-2700。南さつま市ホームページでも特産品販売所の中で(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも南さつま交流センターにいななまるとして、じゃらんネットでも南さつま交流センターにいななまるとして紹介されています。)

山形屋ギフトショップ加世田・外商部出張所
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、山形屋ギフトショップ加世田・外商部出張所の場所のとおり。住所:〒897-0031 南さつま市加世田東本町10-7、Tel.:0993-52-0637。)

エディオン鹿児島加世田店(2013年11月開店予定)
エディオン鹿児島の加世田店です。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。2013年11月17日参照時現在エディオン公式WEBサイトの店舗案内欄に加世田店は載っていませんが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロによれば、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器からエディオン鹿児島になった時に、旧鹿児島ベスト電器の各店舗は2013年10月25日にエディオン鹿児島に変更して開業しましたが、加世田店は少し遅れて2013年11月に開業予定であるとの由です。
  
エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

(当HP内の)南さつま市旧加世田市地域の温泉案内
(リンク先は当ホームページ内の南薩地域の温泉案内のサブ・コンテンツ。)

加世田でのご宿泊は
【楽天トラベル】鹿児島県南さつま市加世田の宿泊施設検索結果(注)
(注) 検索結果では、旧加世田市地域以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル】南さつま市の旅館・ホテルの検索結果
2011年4月現在楽天トラベルで宿泊予約可能な登録宿は【楽天トラベル】鳴海旅館だけですが、今後の増減の可能性、ならびに南さつま市の他の場所に対しては、上記の【楽天トラベル】南さつま市の旅館・ホテルの検索結果でお探しいただけます。)



当ページ(当画面)内の目次
この画面のトップ
指宿市 指宿市地域(注)
注:別ページ(別画面)です
山川町地域
開聞町地域  
南九州市 知覧町地域(注)
注:別ページ(別画面)です
川辺町地域
(かわなべちょう)
頴娃町地域
(えいちょう)
 
枕崎市 枕崎市
南さつま市 坊津町地域
(ぼうのつちょう)
加世田市地域
(かせだし)
金峰町地域
(きんぽうちょう)
大浦町地域
笠沙町地域
(かささちょう)
 




別府城跡(加世田城跡)の場所(尼ヶ城公園)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。鹿児島県南さつま市加世田武田。Tel.:0993-53-2111(南さつま市)。南さつま半島文化でも加世田歴史館 ・ 発見! 加世田の歴史として、城郭放浪記でも別府城として、全国旅そうだんでも別府城跡として、じゃらんnetでも別府城跡として紹介されています。
  
別府城(べっぷじょう)は、別名を加世田城と言い、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域にある中世城郭遺構です。
  南さつま半島文化 ・ 加世田歴史館 ・ 発見! 加世田の歴史,ならびに城郭放浪記 ・ 別府城によれば、平安時代末期の治承元年(1177年)に、桓武平氏 ・ 平良文流の薩摩平氏でこの地を領した別府忠明によって築城されたとの由です。別府氏は、寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇の際に藤原隆家の麾下に刀伊を撃退した平為賢の一族で九州総追捕使を務めた伊佐平次の子孫・伊佐平氏の一族との由です。
  室町時代の応永27年(1420年)、別府氏は島津氏宗家第8代当主・島津久豊公に降伏して
別府城島津氏の城になったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 薩摩・島津家の歴史 ・ 島津忠国,ならびに戦国猛人 ・ 島津忠国によれば、晩年の島津忠国公は、家督はまだ譲らないながらも政務は嫡男で後に島津氏宗家第10代当主になる島津立久公が政務を執っている状況下で島津立久公と不和になったため、、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域),ならびに薩摩国坊泊(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域大字(おおあざ)があった坊津町坊この辺り(地図))」ならびに「坊津町泊この辺り(地図))」)に移住したとの由です。Mottyの旅日記 ・ 加世田城によれば、島津忠国公は薩摩国加世田では別府城(加世田城)にいたとの由です。このため、島津氏宗家の第6代目以降の歴代当主の墓地である、鹿児島県 ・ 鹿児島市福昌寺跡の他にも、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域島津忠国公の墓にもあります。その後、加世田の地は久豊公次男・島津用久に始まる島津氏庶流(分家)で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主の薩州家(薩州島津氏)の所領になったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津久逸,ならびに島津善久,ならびに島津忠興(薩州家)によれば、島津氏庶流の伊作家(伊作島津氏)第8代当主で、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)を本拠地としていた島津久逸は、詳しくは当ホームページ内の亀丸城(伊作城)紹介欄で解説した島津久逸の乱で、島津氏宗家第11代当主で、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の清水城(しみずじょう)城主の島津忠昌公に戦国時代の文明16年(1484年)に降参して、亀丸城(伊作城)に戻って来ていました。この島津久逸は、薩州家(薩州島津氏)の内紛に巻き込まれてしまい、薩州家第4代当主で、出水城城主の島津忠興に敵対した、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)城主で薩州家庶流の島津忠福に味方してしまったために、島津忠福が拠る別府城(加世田城)島津忠興が明応9年(1500年)に攻めた際に、戦死してしまったとの由です。
  ここは、戦国時代の大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)に、島津氏宗家の家督相続と、島津氏の領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の守護職就任を廻って行われた、伊作島津家第10代当主(兼)相州島津家第3代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公+島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子と、薩州島津家第5代当主・島津実久との間で行われた、島津氏の内紛・内ゲバ抗争の舞台になった場所ですので、解説します。話は、抗争開始以前に遡ります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌,  島津忠治,  島津忠隆,  島津勝久,ならびに島津忠良によれば、戦国時代初期の島津氏宗家は、島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公は、戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だった当主であり、領内の内乱に苦しんだためと巷間伝えられる理由で永正5年(1508年)に自殺してしまったとの由です。さらに、第12代当主・島津忠治公が27歳で永正12年(1515年)に、その弟で第13代当主・島津忠隆公が23歳で永正16年(1519年)と相次いで若死に、かつ両者共に父親同様に戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だったため、後世、「島津氏の暗黒時代」とまで評される程に、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の勢力は衰えていました。島津忠隆公の弟で、永正16年(1519年)に後を継いだ島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、権力基盤が弱かったため、当初は、有力分家であった薩州家(薩州島津氏)第5代当主で、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城城主の島津実久(しまづ さねひさ)の力を借りることにして、島津実久の姉を正室に迎えて領国国政を委任していましたが、島津実久が専横を極めた上に、当時は子がいなかった島津忠兼(後の島津勝久)公に対して、自分自身(島津実久)を世子(跡継ぎ)にするように迫ったため、島津忠兼(後の島津勝久)公は正室を離縁し、島津実久を遠ざけたとの由です。島津実久は反攻して島津忠兼(後の島津勝久)公を、守護所であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城から追放して勝手に守護を自称するに至り、領内騒然となったとの由です。
  島津実久の専横に対して島津忠兼(後の島津勝久)公は、島津氏の有力庶流と化しており、かつ英明の評価が高かった、薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の力を借りることになったとの由です。このため、日新斎島津忠良公の嫡男・島津貴久公を大永6年(1526年)に養子に迎えて島津氏宗家第15代当主として家督を継承させて清水城に迎え入れて、翌大永7年(1527年)、島津氏宗家前当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、日新斎島津忠良公の領地・薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居し、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に入ったとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ大永6年(1526年)に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)と薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)を割譲したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津実久,  島津勝久,ならびに島津忠良等によれば、この政治情勢を快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした前述の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久は反発して、大永7年(1527年)に謀反を起こしました。この戦乱が、伊作家(兼)相州家系統の島津氏宗家による、戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の始まりになりました。
  島津実久の謀反は、大永7年(1527年)の前年の、上記の大永6年(1526年)に既に前哨戦が始まっていた可能性があります。それは、大永6年(1526年)暮れに大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の川上忠直が島津氏宗家の島津貴久公に叛いた謀反が、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、島津実久に付いてのことであったとの由です(ただし、川上忠直の動機について他の参照先でまだ確認していないので、川上忠直の謀反は、島津実久に付いてのことではなかった可能性も残っています)。日新斎島津忠良公は川上忠直を攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、この功により、日新斎島津忠良公は、前守護島津忠兼(島津勝久)公から、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)と、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図を賜ったとの由です。ところが、城郭放浪記 ・ 大隅・加治木城ならびに大隅・平山城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良等によれば、大永7年(1527年)に、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主の伊地知重貞・伊地知重兼父子と平山城(平安城)島津昌久が大永7年(1527年)6月に島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。これが、公式には島津実久による謀反の開始ということになります。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。新たな加治木地頭には肝付兼演が、そして、新たな帖佐地頭には伊地知重辰が任命されたとの由です。
  この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国谷山の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国伊作の亀丸城(伊作城)で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国鹿児島の清水城に戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城(伊作城)までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城(伊作城)は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。
  一方、詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)紹介欄で解説したとおりの経緯のため、一時期は薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城に戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公は、天文4年(1535年)8月に島津実久と再び仲違いになり、紆余曲折の結果、帖佐地頭 ・ 伊地知重辰を攻め滅ぼして大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)を手に入れていた、薩摩国 ・ 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武を頼って、天文4年(1535年)10月に大隅国帖佐に移らざるを得なくなったとの由です。守護所たる城である清水城がある薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)は、再び島津実久に制圧されてしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津勝久によれば、このような島津実久の圧迫に耐えかねた島津勝久公は、再び日新斎島津忠良公に助力を求めることになったとの由です。なお、前守護 ・ 島津勝久公は、後に没落したまま復権せずに三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国から追われて去ることになりましたが、その経緯について詳しくは、当ホームページ内の亀丸城(伊作城)紹介欄でご参照いただけます。
  年は数年前後しますが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏によれば、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の
頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪の居城である薩摩国 頴娃(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城を攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国南郷(現・日置市吹上町地域永吉地区)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国日置(現・日置市日吉町町地域日置地区)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 頴娃氏,ならびに指宿商工会議所編『いぶすき検定! 指宿まるごと博物館ガイドブック』(2012年12月)p.68によれば、詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 頴娃(えい)(現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城城主で頴娃氏第4代当主・頴娃兼洪は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久派の田代民部介がいた薩摩国指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久,  島津忠良,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表等によれば、天文5年(1536年)に上述の薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表,  尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,  美須麻流之珠 ・ 薩州島津家 家臣団,ならびに青屋昌興川辺町風土記 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて地方・小出版流通センター南方新社),2006年08月)pp.100-101等によれば、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の紫原(むらさきばる)の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いで勝利して別府城(加世田城)を手に入れました。同年、薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国谷山(現・鹿児島市の一部)の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させ、薩摩国串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城がある本拠地・薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。例えば、詳しくは当ホームページ内の
亀丸城(伊作城)で解説した経緯のため、日向国都城(現・宮崎県 ・ 都城市)の都之城城主で北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城解説,  地図城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。九州戦国史〜室町末期から江戸初期まで〜 ・ 九州限定戦国年表(天文年間一部抜粋)によれば、天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  松尾千歳鹿児島歴史探訪高城書房地方・小出版流通センター),2005)pp.46-47によれば、天文19年(1550年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)から、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の内城うちじょうに移したとの由です。薩摩国鹿児島の島津氏宗家の城は従来は清水城だったのですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴久によれば、薩摩国鹿児島に移った際に島津貴久公は、従来からの薩摩国島津氏守護所であった清水城を避けて、戦国大名 ・ 島津氏の本城として、新たに内城を築いたのであるとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良公によれば、島津貴久公が内城に移った天文19年(1550年)に、日新斎島津忠良公は、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)に隠居したとの由です。
  今日では、
別府城跡南さつま市加世田市地域の市街地の真ん中にあり城郭遺構は残っていませんが、尼ヶ城公園として整備されて石碑が建てられているとの由です。
  天文19年(1550年)に日新斎(じっしんさい)島津忠良公が隠居すると加世田に住んだことから、後に加世田の地は忠良公ゆかりの地として知られるようになり、現在、加世田には、
別府城の近くに、日新斎島津忠良公の菩提寺だった曹洞宗・龍護山日新寺(じっしんじ)が建立(こんりゅう)されました。龍護山日新寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった結果、今日の、御祭神として日新斎島津忠良公を祀る竹田神社になっています。なお、別府城跡の東側には、別府忠明を祀った別府神社地図があるとの由です。また、別府城跡日新斎島津忠良公に関する古文書類は、加世田郷土資料館で展示されているとの由です。
  公共交通機関での行き方は、鹿児島市山形屋バスセンターや九州新幹線終着駅・鹿児島中央駅地図)から、鹿児島交通の路線バス・加世田線(または枕崎線),鹿児島空港から空港連絡バス,等のバス路線で加世田(かせだ)バスステーション(地図)に行き、そこからタクシーです。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでお調べいただけます。
  また、最寄りの温泉地や温泉宿、ご宿泊先は、
南薩の温泉,  【楽天トラベル】鹿児島県南さつま市加世田の宿泊施設検索結果等で、お探しいただけます。
  日新斎島津忠良公の関連スポットについては、後述します。島津貴久公についての関連スポットとしては、日置市吹上町地域
亀丸城跡(伊作城跡),  南さつま市金峰町地域亀ヶ城趾(亀ヶ城神社),  日置市伊集院町地域一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園),  鹿児島市清水城跡しみずじょうあと,  内城跡うちじょうあとがあります。
  南さつま市加世田市地域の交通史も含めての歴史観光スポットには、旧加世田市地域中心市街地最寄りエリアに、
加世田郷土資料館,  栫ノ原遺跡,  別府城跡(加世田城跡),  竹田神社(日新斎島津忠良公,島津尚久墓所),  島津忠国公の墓,  南薩鉄道記念館があります。また、吹上浜砂の祭典が開催される吹上浜県立吹上浜海浜公園最寄りには万世特攻平和祈念館があり、その他の郊外エリアには空笠狭宮跡があります。また、南さつま市加世田市地域の美術館には、吉井淳二美術館があります。
  日新斎島津忠良公ゆかりの周遊観光スポットには、以下の表のようなものがあります。)

日新斎(じっしんさい)島津忠良公ゆかりの周遊観光スポット
地域 城址・史跡 地域の博物館
日置市吹上町地域 亀丸城跡(伊作城跡) 吹上歴史民俗資料館
多宝寺跡(石亀神社、伊作島津家墓地)
海蔵院跡
大汝牟遅神社
南さつま市金峰町地域 亀ヶ城趾 南さつま市歴史交流館金峰
南さつま市加世田市地域 別府城跡(加世田城跡) 加世田郷土資料館(南さつま市郷土資料館)
竹田神社


島津忠国公の墓の場所
(リンク先は、南さつま半島文化−鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館 ・ 南さつま歴史街道(南さつまの暮らしと成り立ち) ・ 南さつま市地図と地名 ・ 【Googleマップ】南さつま市文化財マップに基づくアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県南さつま市加世田麓町。南さつま市ホームページ ・ 市民向け情報 ・ 教育・文化・スポーツ ・ スポーツ・文化 ・ 文化財でも指定・選択・登録文化財一覧(PDF版)の中で(リンク先URLは2014年3月現在)南さつま半島文化−鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館 ・ 南さつま歴史街道(南さつまの暮らしと成り立ち) ・ 南さつま文化遺産でも島津忠国の墓として紹介されています。
  
島津忠国公の墓とは、島津氏宗家第9代当主・島津忠国公(応永10年(1403年)〜文明2年(1470年))の、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域にある墓です。島津忠国公の墓は、島津氏宗家の第6代目以降の歴代当主の墓地である、鹿児島県 ・ 鹿児島市福昌寺跡にもあり、計2箇所あります。
  尚古集成館公式WEBサイト ・ 薩摩・島津家の歴史 ・ 島津忠国,ならびに戦国猛人 ・ 島津忠国によれば、晩年の島津忠国公は、家督はまだ譲らないながらも政務は嫡男で後に島津氏宗家第10代当主になる島津立久公が政務を執っている状況下で島津立久公と不和になったため、、薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域),ならびに薩摩国坊泊(現・鹿児島県 ・ 南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)地域大字(おおあざ)があった坊津町坊この辺り(地図))」ならびに「坊津町泊この辺り(地図))」)に移住したとの由です。Mottyの旅日記 ・ 加世田城によれば、島津忠国公は薩摩国加世田では
加世田城別府城にいたとの由です。薩摩国坊泊は、古代〜江戸時代中期に栄えた港「坊津」の地であり、尚古集成館公式WEBサイト ・ 薩摩・島津家の歴史 ・ 島津忠国,  戦国猛人 ・ 島津忠国,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠国によれば、島津忠国公は琉球島津忠国公没年・文明2年(1470年)時点では、現・先島諸島を除いた沖縄県 + 現・鹿児島県 ・ 奄美群島(注))に渡ろうとしていたとされているとの由です。
(注)   「琉球」の地域の概念は、時代によって異なります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 奄美群島の歴史,ならびにHistoriographical Institute The University of Tokyo ・ 東京大学史料編纂所日本語版 ・ 編纂・研究・公開 ・ 成果公開・教育 ・ ひらめき☆ときめきサイエンス(史料からみる日本の歴史) ・ 史料研究の世界へ > 僕は奄美諸島史を知りたい(石上英一)によれば、奄美群島は古代には大和朝廷への朝貢地域であったとの由です。「朝貢」とは属国が行う行為であるため、この時点で既に日本の国土領域内であったとする訳にはいかないのですが、平安時代には喜界島大宰府の出先機関が設けられていたと推測されたり、これを裏付ける城久遺跡群この辺り(地図)(地図は喜界島ナビ ・ 城久遺跡群に基づくもの)が平成15年(2003年)から発掘されていたりする等、「令制国の範囲だったり、租庸調の税制が適用される」程の国家領域内ではないながらも、日本に属する地域として認識されていて、かつ実効支配しています。この当時、奄美群島は、異界として認識されていた沖縄諸島以南の琉球とは区別されていたとの由です。鎌倉時代には北条得宗領とされ、詳しくは当ホームページ内の平山城(川辺城)紹介欄で解説したとおり、鎌倉幕府 御家人であると同時に、御内人得宗被官)でもあった、薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の松尾城(地図城主の千竈(ちかま)氏が、得宗家代官として、奄美群島を采配地としていたとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤木名城によれば、奄美大島奄美市笠利町地域にある赤木名城跡(この辺り(地図)(鹿児島県奄美市笠利町大字外金久。位置は、小助官兵衛の部屋 ・ 城郭一覧【薩摩国】によるもの)が、その構造から本土的な城であることが明らかになっています。したがって、室町時代初期位までの間の時期には、領域の観点からは、「琉球」には、奄美群島は含まれておらず、日本の国土領域内であったことになります。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 平家の落人,  平有盛,  平行盛ならびに平資盛等によれば、奄美群島には平家の落人伝説があり、これは、実際に平有盛,  平行盛ならびに平資盛本人達が落ち延びたか否かは別にして、平家一門・郎党勢力の中で奄美群島に来島した一団があった史実が伝説に化けたものと推測するならば、(当時の鎌倉幕府の中央政権による統治が行き渡っていないということでもあるとは申せ)当時の奄美群島が「日本」の領域にあったことの傍証にもなります(ただし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 平家の落人によれば、平家の落人伝説は、当時は「日本」の国土領域外であった、今日の沖縄県にもあるとの由です。誤解を避けるべく念のため)。
  室町時代の応永23年(1429年)に沖永良部島が、文安4年(1447年)に奄美大島が、文正元年(1466年)に喜界島が、第一尚氏琉球王国によって制圧されて、奄美群島琉球王国の治世下になったとの由です。したがって、島津忠国公没年・文明2年(1470年)時点は、丁度、奄美群島が「琉球」に含まれるようになった直後の時期になります。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 先島諸島,ならびにオヤケアカハチの乱によれば、この時期には既に先島諸島琉球王国の影響圏にはあり朝貢していたとの由ではあるものの、琉球王国による直接統治の開始は、1500年のオヤケアカハチの乱以降のことであるとの由ですので、島津忠国公没年・文明2年(1470年)時点では先島諸島はまだ、琉球王国の属国ではあるが、領域外であったということになります。
  江戸時代初期の慶長14年(1609年)の薩摩藩による琉球征伐後は、沖縄諸島以南の今日の沖縄県には琉球王国を残して薩摩藩は間接統治しましたが、奄美群島琉球王国から切り離して、薩摩藩の直轄統治地域にしました。薩摩藩による奄美群島の統治は、薩摩の文化・歴史が大好きで、かつ近代経済学徒である当ホームページ管理人でさえ、思わず「搾取」というマルクス経済学の用語を使わざるを得ない程に過酷なものであったことは、よく知られています。いずれにせよ、薩摩藩の直轄統治地域と化したため、領域という観点からは、江戸時代以降の「琉球」には、奄美群島は再び含まれなくなったことになります。
  奄美群島は文化面では、文化の分類の最も基本になる要素の中の1つである言語・方言では奄美群島奄美方言沖永良部与論沖縄北部諸方言(国頭方言)沖縄方言と同じ琉球方言に属するため、基本的には琉球文化に属していることになります。ただし、上述のとおり、古代・中世から既に日本に属した時期があったりした等、歴史的経緯が奄美群島沖縄県とでは異なるため、言語文化以外の要素の観点からは、微妙に沖縄県と同じだったり異なったりしています。宗教面では、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 琉球神道,ならびに奄美群島の歴史によれば、奄美群島琉球神道(ニライカナイ信仰)は、上述の15世紀の第一尚氏琉球王国による征服後にもたらされたものであって奄美群島土着の信仰ではないとの由です。奄美群島には、平有盛を祀ったとされる奄美市名瀬市地域
平有盛神社地図(鹿児島県奄美市名瀬浦上町43),平行盛を祀ったとされる大島郡 龍郷町平行盛神社地図(鹿児島県大島郡龍郷町戸口),平資盛がもたらしたと伝えられる国の重要無形民俗文化財の宗教行事「諸鈍シバヤ」が伝承されている大島郡 瀬戸内町大屯神社(オオチョンジンジャ)地図(鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍繰原253)等の平家の落人伝説に基づく神社があり、これらの神社の創建年代が琉球王国による征服に遡るか否かは不明ですが、元になった伝承は琉球王国による征服以前であって、明らかに琉球神道(ニライカナイ信仰)とは系譜を異にするものです(ただし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 平家の落人によれば、平家の落人伝説は、沖縄県にもあるとの由です。誤解を避けるべく念のため)。音楽文化の上では、今日では琉球民謡(沖縄音楽の民謡)のことを島唄と称する場合が多いですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖縄音楽,ならびに島唄によれば、本来島唄とは奄美群島の民謡だけを指すものであって琉球民謡を指す用語ではなかったとの由であり、音階の上でも奄美群島島唄徳之島以北では本土と同じヨナ抜き音階であるため日本民謡の南限であるのに対して、琉球民謡は琉球音階であり、異なっています(ただし、奄美群島島唄でも、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 琉球音階によれば、沖永良部島与論島琉球音階であるとの由です)。食文化の上では、料理の上では奄美料理沖縄料理とは異なる郷土料理として分類され、例えば沖縄そば(ソーキソバ)等は沖縄県固有の料理ですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鶏飯によれば、奄美料理を代表する郷土料理・鶏飯(けいはん)は、奄美群島のものとは異なるものの、沖縄県にもあるとの由です。お酒の上では、奄美群島の酒は黒糖焼酎であるのに対して沖縄県では泡盛と異なっていますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 泡盛によれば、戦前(太平洋戦争以前)には奄美群島でも泡盛が製造されていたとの由ですので、この相違は比較的近年のことであるとの由です。

  上述のとおり、島津氏宗家第9代当主・島津忠国公は、薩摩国加世田から薩摩国坊泊にかけての南薩(南薩摩)で死にました。このため、島津氏宗家の第6代目以降の歴代当主の墓地である、鹿児島県 ・ 鹿児島市
福昌寺跡の他にも、鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域にもある経緯になります。南さつま市ホームページ ・ 指定・選択・登録文化財一覧(PDF版)によれば、島津忠国公の墓は、昭和48年12月20日に、市の指定文化財になっています(文化財に指定された時は、市町村合併前の旧加世田市)。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠国2014年3月参照時現在の記載内容によれば、島津忠国公の墓は鹿児島市
福昌寺跡南さつま市坊津町地域にあると記載されており、南さつま市加世田市地域にある、この島津