カミタクの部屋

  

カミタク・ブログ

  

鉄道艦船航空陸自マニア

  

STATISTICS
「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」メニュー(フレーム枠内) > 大隅地域観光案内

IT活用で地域が変わる 地域活性化・危機管理

木の葉、売ります。ベンチャーに見る日本再生へのヒント
  

温泉天国・鹿児島温泉紹介!

大隅地域観光案内

大隅地域の観光情報を、行った場所は訪問記で、未訪問の場所はリンク集で紹介する、「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」HPのサブ・コンテンツ。夏休み,冬休み,春休みや土日・休日の遊び、デート、ドライブ情報の計画を立てる際に、お使いいただけます。

  
アルバム「せつなくて...sentimental season」






このページのトップへ,  観光ガイド欄の詳細目次へ



鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
全般的に 訪問入湯記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
観光訪問記
(当HPオリジナル・コンテンツ:訪れた感想と観光案内)
鹿児島県の温泉宿宿泊予約 鹿児島県内全域観光案内別サイト(リンク集)
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島へのご旅行は





鹿児島県の宿泊予約 & まち楽
(powered by 楽天トラベル, and 楽天市場.)
  ↓

全国温泉宿予約(ホテル検索&宿泊予約ができます) ・ 鹿児島県
  
  ↓

宿泊施設情報(ホテル検索&宿泊予約ができます) ・ 鹿児島県
鹿児島温泉(鹿児島市内温泉)&桜島  温泉宿一覧    鹿児島市内(鹿児島・桜島)  ホテル・旅館一覧
指宿温泉  空室検索    南薩(指宿・枕崎)  ホテル・旅館一覧
指宿温泉  温泉宿一覧
南薩(指宿・枕崎)  温泉宿一覧
吹上温泉  温泉宿一覧
   北薩(出水・川内)  ホテル・旅館一覧
市比野温泉  温泉宿一覧
宮之城温泉  温泉宿一覧
北薩(出水・川内)  温泉宿一覧
霧島温泉  空室検索    大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)  ホテル・旅館一覧
霧島温泉  温泉宿一覧
妙見温泉  温泉宿一覧
大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)  温泉宿一覧
種子島・屋久島  温泉宿一覧    種子島・屋久島  ホテル・旅館一覧
      奄美大島・喜界島・徳之島  ホテル・旅館一覧
      沖永良部島・与論島  ホテル・旅館一覧
【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったANA楽パック ・ 鹿児島県
【楽天トラベル】航空券+ホテルがセットになったJAL楽パック ・ 鹿児島県




当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域





当HP内の他の関連エリア情報
大隅地域の温泉 「大隅地域の温泉案内」でご参照いただけます。



鹿児島県観光サイト/「本物。」の旅かごしま

大隅半島の観光・物産情報サイト:日本のフロリダ・鹿児島県大隅半島(大隅広域観光開発推進会議)

鹿屋、大隅の情報満載のサイト:b-post ・ おおすみの車窓から ・ 観光地一覧



霧島市・旧福山町エリア>
(当HP内の霧島市国分・隼人等の地域+姶良市観光案内ページとの重複掲載)

霧島市ホームページ ・ 霧島市総合観光案内 ・ 国分、隼人、福山地区

霧島市,  姶良郡 ・ 福山町
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。)

(当HP内の)国分・隼人・姶良地域の温泉案内

福山町惣陣平のツツジ
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。)

松下美術館
楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも松下美術館として紹介されています。)

宮浦宮の場所
神武天皇を祀る神社。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒899-4501 霧島市福山町福山2437。Tel.:0995-56-2026(霧島市教育委員会福山出張所)。鹿児島県神社庁でも宮浦宮として(リンク先URLは2011年5月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも宮浦宮として、全国旅そうだんでも宮浦宮として、じゃらんネットでも宮浦宮として紹介されています。)

旧田中別邸の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県霧島市福山町福山2926番地。Tel.:0995-45-5111。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 & 鹿児島県観光交流局観光課) ・ 観光スポットでも旧田中別邸として(リンク先URLは2011年5月現在)全国旅そうだんでも旧田中別邸として、じゃらんネットでも旧田中別邸として紹介されています。大正7年(1918年)に旧制・私立福山中学校を創設した田中省三の別邸です。旧制・私立福山中学校太平洋戦争の戦後、新制・県立福山高等学校になりましたが、この学校は昭和62年(1987年)に閉校となった学校であり、旧・県立牧之原高等学校の後身と言うべき現・鹿児島県立福山高等学校とは別物です。)

くろず情報館「壺畑」(旧・くろず情報館 阿萬屋)
楽天トラベルでも【楽天トラベル】楽天おすすめ特集〜春〜ムーブメント企画2006 スローライフ・スローフード 鹿児島LOHAS紀行の中で、MAPPLE観光ガイドでもくろず情報館「壺畑」として紹介されています。くろず情報館「壺畑」を運営する坂元黒酢醸造の黒酢は、楽天市場でも【楽天市場】キーワード「坂元+黒酢+鹿児島」の検索結果でお求めいただけます。)

黒酢レストラン 黒酢本舗 桷志田(かくいだ)
(リンク先は、壷造り黒酢の黒酢本舗による公式WEBサイトです。ぐるなびでも黒酢本舗桷志田 として、食べログでも黒酢本舗 桷志田 として紹介されています。桷志田の黒酢は、楽天市場でも【楽天市場】キーワード「桷志田+黒酢+鹿児島」の検索結果でお求めいただけます。)

【楽天市場】福山産の黒酢
くろず情報館「壺畑」黒酢レストラン 黒酢本舗 桷志田に限らず、福山は黒酢の産地です。福山産の黒酢は、以下の楽天市場のリンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】キーワード「坂元+黒酢+鹿児島」の検索結果
【楽天市場】キーワード「桷志田+黒酢+鹿児島」の検索結果
【楽天市場】「山形屋オンラインショップ」でのキーワード「福山 黒酢」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)
【楽天市場】「しまづ屋楽天市場店」でのキーワード「黒酢」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】しまづ屋楽天市場店((株)島津興業)
【楽天市場】キーワード「鹿児島 福山 黒酢」の検索結果


島津忠将公供養塔の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県霧島市福山町福山。古代文化研究所 でも島津忠将公供養塔として、Samurai Worldサムライワールドでも島津忠将 鹿児島県福山町として、戦国浪漫でも島津忠将の墓として、筑後川の航海日誌でも鹿児島県史跡巡り2009(4日目後半:富隈城・舞鶴城・島津忠将供養塔・廻城)の中で、シングルおやじの気ままな一人旅でも日向街道〈薩摩道)を歩くの中で紹介されています。
  島津忠将(しまづ ただまさ)は、戦国時代島津氏中興の祖として知られる、島津氏庶流の伊作家第10代当主で薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城伊作城城主(兼)相州家第4代当主で薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城城主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の次男で、兄の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を助けて、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦で活躍した戦国武将です。南郷城(野首城)があった薩摩国 永吉(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)の領主を経て、大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主になりました。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 垂水家の祖・島津忠将等によれば、島津忠将は、大隅国廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域の一部)の
廻城めぐりじょうを廻って永禄4年(1561年)に行われた廻城の戦いにおいて、大隅国の反島津氏勢力の国人戦国大名で、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町(こうやまちょう)地域)の高山城こうやまじょう城主で肝付氏第16代当主の肝付兼続と戦って戦死したとの由です。廻城の戦い自体は、島津忠将の死で奮い立った島津氏が勝ちましたが、島津氏の中でも勇将として知られる島津忠将の早すぎる死は惜しまれるものであると同時に、対肝付氏戦で島津氏が苦境に立たされることになりました。この状況は、島津氏庶流の豊州島津家の養子になって日向国飫肥(おび;宮崎県 ・ 宮崎県日南市 ・ 飫肥地区)の飫肥城解説,  地図伊東氏から防衛する任に就いていた次男の島津義弘公を、島津貴久公が永禄5年(1562年)に、(島津氏本宗家に)呼び戻さざるを得なくなった程の影響を、島津氏にもたらしました。
  
島津忠将公供養塔は、島津忠将が戦死した場所近くにあり、古代文化研究所  ・ 島津忠将公供養塔によれば、島津忠将の嫡男(つまり、島津氏宗家第16代当主・島津義久公や島津義弘公の従兄弟)の島津以久(しまづ もちひさ)が、天正3年(1575年)に建立(こんりゅう)したものであるとの由です。島津以久は、後年、江戸時代初期の慶長8年(1603年)に、日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城地図を居城とする佐土原藩の初代藩主になり、その三男・島津忠興の系統が佐土原藩藩主家になりました。また、島津忠将 ・ 島津以久の系統はこの他、島津以久の嫡孫・島津久信島津以久の嫡男・島津彰久(しまづ てるひさ)の子)は、大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の林之城(林城)を拠点とする江戸時代島津氏庶流の垂水島津家(垂水島津氏)を島津以久から継ぎました。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

<この地域+隣接エリア+その他県内のゴルフ場>
○   【楽天GORA】鹿児島県のゴルフ場一覧
○   【楽天GORA】桜島カントリークラブ(鹿児島県霧島市旧福山町)
○   【楽天GORA】入来城山ゴルフ倶楽部(薩摩川内市入来町浦之名)
(この地域外ですが、かつて城山観光ホテル経営だったゴルフ場であり、個人的に城山観光ホテルの大ファンですので、載せておきます。)
○   【楽天GORA】島津ゴルフ倶楽部(鹿児島市宮之浦町)
(この地域外ですが、個人的に尚古集成館,  島津家別邸:名勝 仙巌園(磯庭園),  野天風呂 薩摩いろはの湯などを運営する島津興業グループのファンですので、載せておきます。)
○   【楽天GORA】いぶすきゴルフクラブ(鹿児島県指宿市開聞川尻)
(この地域外ですが、個人的に指宿いわさきホテル,  霧島いわさきホテル,  屋久島いわさきホテルなどいわさきグループのファンですので、載せておきます。)
○   【楽天GORA】コスモリゾート種子島ゴルフクラブ(鹿児島県熊毛郡中種子町増田)
(この地域外ですが、個人的に指宿いわさきホテル,  霧島いわさきホテル,  屋久島いわさきホテルなどいわさきグループのファンですので、載せておきます。)



(当HP内の)大隅地域温泉案内

霧島市旧福山町地域近隣の、霧島市の他地域,垂水市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県霧島市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、霧島市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル】キーワード「垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】垂水温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧


霧島市旧福山町地域以外の霧島市や、湧水町,  姶良市について
(当ページ(当画面)で大隅と申しているのは、大隅半島鹿児島県内地域のことであり、地域(エリア)としては、大隅半島以外の大隅国は含みません。例えば霧島市旧福山町地域以外の領域等の、「大隅半島以外の大隅国」地域の観光・温泉案内については、当HP内の以下のリンク先でご参照いただけます。)
(当HP内の)国分・隼人・姶良地域観光案内 ・ 霧島市欄

(当HP内の)(温泉以外の)霧島観光案内

(当HP内の)国分・隼人・姶良地域観光案内 ・ 姶良市欄

(当HP内の)(温泉以外の)霧島観光案内 ・ 湧水町欄

(当HP内の)霧島温泉案内

(当HP内の)妙見温泉など新川渓谷温泉郷の温泉案内

(当HP内の)日当山温泉&姫城温泉案内

(当HP内の)国分,隼人,姶良地区の温泉案内


○  霧島市福山町地域への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,  特急きりしま乗車記
  霧島市福山町地域へは、九州新幹線の終点・鹿児島中央駅地図)で特急きりしま等のJR日豊本線の列車に乗り換えれば行けます。JR九州、ならびに国分(こくぶ)駅に着いてから乗り換える三州自動車大隅交通ネットワーク(旧鹿児島交通大隅地区路線))の路線バス等の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
→   ○   JR九州公式ホームページ

○   九州のバス時刻表

○   交通ナビかごしま


当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域


廻城跡の場所(めぐりじょう;仁田尾城跡跡)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県霧島市福山町福山前平。鹿児島県上野原縄文の森 ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 遺跡分布図検索でも仁田尾城跡として、城郭放浪記でも大隅国のお城一覧((鹿児島県霧島市)の中で、お城の旅日記でも大隅 仁田尾城として、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第十一回 史跡めぐり(輝北町・福山町・垂水市牛根)として、Samurai World ・ 薩摩紀行でも廻城跡 鹿児島県霧島市福山膏肓記でも垂水家の祖・島津忠将として、南日本新聞ホームページ ・ 薩摩人国誌でも垂水家の祖・島津忠将 最前線の勇将、廻城で死すとして紹介されています。
  
廻城めぐりじょうは、中世にこの地を豪族として支配した廻(めぐり)氏の居城だった城で、別名を仁田尾城と言うとの由です。戦国時代島津氏と、大隅国戦国大名 ・ 肝付氏との抗争の過程で、廻氏は島津氏側の武将として、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)に対する最前線に位置していました。ところが永禄4年(1561年)、当時の廻氏当主の目が不自由であったことにつけ込んで肝付氏の攻撃に遭い、一旦、廻城は落城して肝付氏に奪われてしまいました。これに対して、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公は、弟で猛将として知られていた島津忠将と、嫡男の島津義久公を向かわせて肝付氏に対峙させ、永禄4年(1561年)に廻城の戦いが発生しました。
  島津忠将は、島津貴久公の弟であることから容易に分かるように、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の次男です。兄・貴久公をよく補佐して、島津氏による薩摩国,  大隅国,  日向国の三州(三国)領国統一戦の初期で多大なる貢献をした戦国武将です。南日本新聞ホームページ ・ 薩摩人国誌 ・ 垂水家の祖・島津忠将 最前線の勇将、廻城で死すによれば(リンク先URLは2012年3月現在)、天文7年(1538年)から翌年にかけて、今日の南さつま市加世田市地域で行われた
加世田城合戦の際に、島津忠将は搦手(からめて)口を攻める大将として、敵対する薩州家(薩州島津家)島津実久方の市来早左衛門を討ち取り、大寺越前守と鎌田加賀守の軍勢を撃退した上に追撃して散々に打ち破ったとの由です。加世田城合戦での勝利は、島津忠良公・貴久公父子勢力が薩摩半島で勢力を固めることになった戦ですので、その合戦での猛将ぶりの活躍は大いなる武勲だということになります。島津忠将は最初は日置郡  永吉(今日の日置市吹上町地域大字 ・ 永吉)を領して、北方の薩州家(薩州島津家)渋谷諸族に対峙したとの由です。その後、島津氏宗家・島津貴久公の勢力が大隅国に進出すると、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょうの城主となり、肝付氏をはじめとする大隅国の反島津氏勢力に対峙する最前線を任されることになったとの由です。天文23年(1554年)に今日の姶良市姶良町地域で行われた有名な岩剣(いわつるぎ)城の戦いで島津氏蒲生(かもう)氏,  祁答院(けどういん)氏らと戦った際には、島津忠将国分から軍船で帖佐(ちょうさ;今日の姶良市姶良町地域の一部)に到着して、鉄砲で敵を制圧したとの由です。この岩剣城の戦いは、我が国で鉄砲が戦に使われた初期の戦争の中の一つです。
  このように島津忠将は兄・島津貴久公を補佐して島津氏宗家の領国国内統一戦で活躍した猛将ですが、話を
廻城に戻せば、結論から先に申せば、廻城の戦いで残念ながら討ち死にしてしまいました。廻氏から廻城を奪った肝付兼続に対する島津氏方武将の中の1人として、島津忠将廻城の戦いに参加していました。島津忠将は馬立(またて)という所に陣していたとの由ですが、7月12日、島津忠将軍の最前線である竹原山に肝付氏の軍勢が襲来したとの由です。苦戦する味方を見捨てることができなかった島津忠将は、危険だとして家老の町田忠林(ただしげ)が制止するのを振り切って主従70騎程で救出に駆け付けましたが、肝付氏に包囲されて討ち死にしてしまったとの由です。町田忠林ら家来達の多くも討ち死にしたとの由です。島津忠将の死で逆に奮い立った島津勢は最終的には肝付氏を撃退して、廻城を奪回することに成功したとの由です。しかし、一族中の猛将・島津忠将を失ったことは、島津氏にとって大きな痛手になった戦でした。
  このように廻城跡は、猛将・島津忠将が討ち死にする程に激しい、島津氏肝付氏間の合戦が行われた城として、鹿児島県戦国時代史に名をとどめている城の城跡です。なお、この地域には、
島津忠将公供養塔も、あります。
  2013年8月現在、公共交通機関での行き方は、以下の2通りです。いずれにせよ運行本数は極めて少ないので、事前に時刻表をよく確認することが必要ですし、ローカル路線ですので将来もこの路線が残るか否かは不明です。
(1) JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線等の垂水(たるみず)方面行きの路線バスに乗り、「福山支所」前バス停(地図)で鹿児島交通三州自動車)の「清水(しみず,地図)−検校橋・福山支所(地図)・牧之原(地図)経由−福山高校前(地図)」路線バスの福山高校前(地図)行き、或いは「渡瀬(地図)・平山小前(地図)−福山支所(地図)・検校橋・銅田−牧之原(地図)」循環バス路線の牧之原(地図)行きに乗り換えて、「上之茶屋」バス停(地図)下車、徒歩約20分。
(2) JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島空港地図)−国分駅地図)・牧之原(地図)・岩川(地図)経由ー 志布志(地図)」空港アクセス急行バス路線の志布志(地図)行き、、或いは「国分駅地図)−牧之原(地図)」普通バス路線の牧之原(地図)行きに乗り、「牧之原」バス停(地図)で、鹿児島交通三州自動車)の「清水(しみず,地図)−検校橋・福山支所(地図)・牧之原(地図)経由−福山高校前(地図)」路線バスの清水(しみず,地図)行き、或いは「渡瀬(地図)・平山小前(地図)−福山支所(地図)・検校橋・銅田−牧之原(地図)」循環バス路線の渡瀬(地図)・平山小前(地図)方面行きに乗り換えて、「上之茶屋」バス停(地図)下車、徒歩約20分。

バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  2013年8月現在霧島市福山町地域には楽天トラベル登録宿はありませんが、霧島市内の隣接地域・霧島市旧国分市地域のご宿泊については、
【楽天トラベル】鹿児島県霧島市国分の宿の検索結果でお探しいただけます。また、最寄りの温泉地や温泉宿には、霧島市国分温泉,  霧島市旧隼人町地域の温泉ホテル京セラ等),  日当山(ひなたやま)温泉数寄の宿 野鶴亭,  清姫温泉,  スパホテルYou湯,  吉田温泉等),  妙見温泉妙見石原荘,  味の宿どさんこ,  薩摩隼人 妙見ホテル,  湯治の宿妙見館・妙見元湯,  きらく温泉>,  秀水湯,  田島本館,  妙見田中会館等),  姶良市内の姶良市の温泉等があります。)

(当HP内の)大隅地域温泉案内

霧島市旧福山町地域近隣の、霧島市の他地域,垂水市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県霧島市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、霧島市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル】キーワード「垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】垂水温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧



当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域




垂水市(たるみずし)>

垂水市ホームページ

垂水市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。)

たるみずinfo(垂水市観光協会)

(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 垂水温泉郷欄

(有)森伊蔵酒造公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地で場所を示せばリンク先のとおりです。住所:鹿児島県垂水市牛根境1337,Tel.:0994-36-2063。「幻の焼酎」として知られる芋焼酎(いも焼酎)銘柄・森伊蔵の蔵元です。鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも森伊蔵によれば(リンク先URLは2011年11月現在)、「蔵の見学はできませんが、国道に「森伊蔵ショップ」があり、森伊蔵の小物が買える」との由です。なお、森伊蔵は人気が高過ぎて「くじ引き」販売のため、この「森伊蔵ショップ」でも「森伊蔵」自体は恐らくは買えないであろう旨は、予め悪しからずお含み置き下さい。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも森伊蔵酒造,  森伊蔵として紹介されています。森伊蔵については、以下の楽天市場の各リンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】キーワード「森伊蔵」の検索結果
【楽天市場】森伊蔵酒造|デイリー売れ筋ランキング(1位〜50位)-ランキング市場

  また、森伊蔵に限らず、鹿児島県等のおいしい芋焼酎については、以下の楽天市場の各リンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】「山形屋オンラインショップ」でのキーワード「芋焼酎」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)
【楽天市場】「しまづ屋楽天市場店」でのキーワード「芋焼酎」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】しまづ屋楽天市場店((株)島津興業)


道の駅たるみず 湯っ足り館
国土交通省 九州地方整備局 ・ 道の駅へようこそでも道の駅たるみずとして(リンク先URLは2010年8月現在)楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも道の駅 たるみずとして、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty温泉@nifty温泉でも道の駅 たるみず 湯っ足り館として紹介されています。垂水温泉郷の、日帰り温泉立ち寄り湯の温泉温浴施設でもあります。
  鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系観光スポットには、
宇喜多秀家公潜居地,  牛根麓稲荷神社の埋没鳥居,  牛根城(入船城)があります。また、鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系以外の観光スポットには、道の駅たるみず 湯っ足り館があります。)

海潟漁港の場所(映画『ホタル』ロケ地,養殖カンパチ餌やり体験)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-2101 鹿児島県垂水市海潟643-6,Tel.:0994-32-1165(垂水市漁業協同組合)。MAPPLE観光ガイドでも海潟漁港として、垂水市ホームページでも映画ホタルロケ地「海潟漁港」案内として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されており、事業者の公式WEBサイトとしては、垂水市漁業協同組合公式ホームページがあります。高倉健さん、田中裕子さん主演の2001年公開の映画『ホタル』の映画ロケ地です。)

漁協食堂「味処桜勘」(桜勘食堂)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:垂水市海潟643-14,Tel.:0994-32-0321。垂水市漁業協同組合公式直営の食堂で、垂水市漁業協同組合公式ホームページでも桜勘食堂・とんとこ館の中で、かごしまのさかな.com(JF鹿児島漁連(鹿児島県漁業協同組合連合会)公式WEBサイト)でも味処 桜勘[おうかん](垂水)として(リンク先URLは2011年11月現在)食べログでも味処 桜勘として紹介されています。2011年11月現在、定休日は年末年始を除いて年中無休で、営業時間は10:00〜14:00との由です。)

垂水市漁協水産物販売所「とんとこ館」の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:垂水市上町36-2,Tel.:0994-32-6401。垂水市漁業協同組合公式ホームページ直営の水産物販売所で、垂水市漁業協同組合公式ホームページでも桜勘食堂・とんとこ館の中で、goo ・ タウンページでも垂水市漁業協同組合/とんとこ館として紹介されています。2011年11月現在、定休日は毎週日曜日ならびに天候不良等による休漁の場合で、営業時間は7月〜10月は12:00〜14:00,11月〜5月は13:00〜16:00との由です。)

垂水文行館(旧・垂水島津館)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市本町14−2,Tel.:0994-32-8839。南日本新聞公式ホームページでも2008/9/20付け情報「垂水島津家PR、資料館が来月オープン」として(リンク先URLは2011年11月現在)たるみずinfo(垂水市観光協会)でも垂水文行館として、全国旅そうだんでも垂水文行館として、goo ・ タウンページでも垂水島津館として、Yahoo! JAPAN ・ YAHOO!地域情報でも垂水島津館として紹介されています。島津氏の分家(庶流)であり、島津氏宗家(藩主家)が断絶した時に代わりに跡継ぎを出すことが可能な、江戸幕府御三家薩摩藩版と言うべき、御一門という家格で18,000石という大名並みの石高を誇る島津家中の重臣だった、垂水島津家遺品やその他の郷土資料を集めた、郷土史博物館です。平成22年(2010年)3月31日までの旧称は「垂水島津館」でした。鹿児島県庁公式WEBサイト ・ 垂水市まち歩きマップによれば(リンク先URLは2011年11月現在)、2008年時点の情報として、休館日は月曜と1/1-1/3,開館時間は10:00-16:00,入館料は高校生以上300円,中学生以下200円との由です(これらの条件は、今後変わる可能性があります。為念)
  2013年10月現在垂水市にある江戸時代 ・ 薩摩藩島津氏庶流の名門・垂水島津家、ならびに、そのさらに庶流の新城(しんじょう)島津家に関する歴史観光スポットには、
垂水文行館(旧・垂水島津館),  垂水島津家墓地,  林之城跡(林城跡)・お長屋,  新城島津家墓地等があります。)

たるみず元気市会場の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市新錦江町・旧垂水フェリー切符売り場跡地,Tel.:0994-32-1486(垂水市役所商工観光課),0994-32-0225(垂水市商工会),0994-32-6300(たるみず元気市運営委員会事務局)。第1・3日曜日の午前6:30〜売り切れ次第、水産物・農産物・リサイクル商品等の店が出店する朝市です。垂水市ホームページでもたるみず元気市(朝市)等のページで(リンク先URLは2013年8月現在,将来リンク切れになったら、垂水市HP上のキーワード「たるみず元気市」のgoogle検索結果でお探し下さい)、貴志のブログでもたるみず元気市として、いつも熱血瓦屋社長日記(ブログ)でもたるみず元気市として紹介されています。)

垂水千本イチョウの場所・その1,  垂水千本イチョウの場所・その2
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。上記の地図のその1,その2は、参照先サイトによって微妙に場所が異なるため、載せるた次第です。両場所は互いに隣接しているため、実は両方共、正しい可能性があります。住所:鹿児島県垂水市新御堂,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所商工観光課)。中馬吉昭氏夫妻が30年かけて、植え続けたイチョウ(銀杏)群で、同夫妻の私有地にあります。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 + 鹿児島県観光交流局観光課)でも千本イチョウとして(リンク先URLは2013年8月現在)垂水市ホームページでも千本イチョウ(世間自然遺産・僕立公園)情報として(リンク先URLは2013年8月現在)たるみずinfo(垂水市観光協会)でも垂水千本イチョウとして(リンク先URLは2013年8月現在)サニーワールド・花バス観光でも垂水千本イチョウとして(リンク先URLは2013年8月現在)、紹介されています。もしも将来、垂水市ホームページの上述の掲載ページがリンク切れになった場合には、垂水市ホームページのキーワード「千本イチョウ」のgoogle検索結果で掲載ページをお探しいただけます。テレビ番組「ナニコレ珍百景」でも紹介されました。)

猿ヶ城渓谷
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。猿ヶ城渓谷は、高隈山県立自然公園,  おおすみ自然休養林の観光スポットでもあります。地域内に、猿ヶ城渓谷 森の駅たるみずや、猿ヶ城温泉もあります。MAPPLE観光ガイドでも猿ヶ城渓谷として紹介されています。)

猿ヶ城渓谷 森の駅たるみず(旧・猿ヶ城キャンプ場)
(コテージ(バンガロー),オートキャンプ場等があります。猿ヶ城キャンプ場を、平成22年(2010年)に移転&リニューアル・オープンしたとの由です。楽天トラベルでも【楽天トラベル】猿ヶ城渓谷 森の駅たるみずとして、鹿児島県観光サイト/「本物。」の旅かごしまでも猿ヶ城渓谷 森の駅 たるみずとして(リンク先URLは2011年11月現在)熱血!瓦屋社長日記(ブログ)でも森の駅 たるみずとして紹介されています。猿ヶ城渓谷にあり、最寄りに猿ヶ城温泉があります。)

猿ヶ城渓谷最寄りの猿ヶ城温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 > 猿ヶ城温泉欄で、ご参照いただけます。

高峠つつじヶ丘公園(タカトウゲツツジガオカコウエン,高峠高原)
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。高峠つつじヶ丘公園は、高隈山県立自然公園,  おおすみ自然休養林の観光スポットでもあります。MAPPLE観光ガイドでも高峠つつじヶ丘公園として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも高峠つつじヶ丘公園として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋、大隅の情報満載のサイト:b-post ・ おおすみの車窓から ・ 観光地一覧でも高峠つつじヶ丘公園として紹介されています。)

高隈山(たかくまやま)・大箟柄岳(おおのがらだけ)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:垂水市田神から新御堂にかけての、垂水市−鹿屋市の市の境,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所商工観光課)。高隈山地は、垂水市鹿屋市にまたがる複数の山から成る連山の山地であり、その内、標高1,000m以上の複数の山を総称して「高隈山」と呼ぶとの由です。この総称しての「高隈山」は、鹿児島県内では屋久島,  霧島連山に次ぐ高山群であり、社団法人日本山岳会による日本三百名山,  山と溪谷社による九州百名山に選定されています。高隈山は古くから山岳信仰の対象だったとの由で、江戸時代後期に薩摩藩が編集した、領国薩摩国,  大隅国,  日向国三国内の地誌や名所を記した文書『三国名勝図会』でも紹介されているとの由です。また、高隈山は、高隈山県立自然公園に指定されているとの由です。
  高隈山の内、垂水市鹿屋市の境にある大箟柄岳(おおのがらだけ)は、標高1,236mの高隈山地最高峰で、登山口が垂水市側にもあることから、垂水市の登山系観光スポットとして知られています。垂水市ホームページ ・ 垂水市街地から大箟柄岳登山口へのアクセス概略図(PDF版)によれば((リンク先URLは2011年11月現在,リンク切れ時には、垂水市HP内のキーワード「高隈山」のgoogle検索結果で検索して下さい)、田上垂桜集落の先に大箟柄岳登山口(この辺り)があるとの由です。Hayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系の主要登山口欄によれば、大箟柄岳の登山口には垂水市側からは垂桜登山口、猿ヶ城登山口、鹿屋市側からは大箟柄岳登山口、高隈登山口があるとの由です。恐らくは、上述の田上垂桜集落を経由する行き方は、Hayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系に載っている垂桜登山口のことなのではないか、と推測します。また、鹿児島県の登山ガイド本としては、鹿児島山岳会鹿児島県の山山と渓谷社)があります。
  林野庁ホームページ ・ 九州森林管理局 ・ 鹿児島のやまあるき ・ 大篦柄岳・御岳コースとして(リンク先URLは2011年11月現在,将来もしもリンク切れになったら、林野庁HP内のキーワード「鹿児島県+大篦柄岳」のgoogle検索結果で掲載ページをお探し下さい)、 国土地理院ホームページ ・ GIS・国土の情報 ・ 地理に関する情報 ・ 日本の主な山岳標高でもウォッちず:高隈山<大箆柄岳> (地形図情報)として(リンク先URLは2011年11月現在)Hayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系として、 鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 + 鹿児島県観光交流局観光課)でも高隈山として(リンク先URLは2011年11月現在)ヤマケイオンライン(山と渓谷社)でも高隈山・大箟柄岳として、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも高隈山地として、 全国旅そうだんでも高隈山連山,  高隈ハイキングコースとして、じゃらんネットでも高隈山のミツバツツジ,ミヤマキリシマ,サクラツツジとして紹介されています。)


高隈山県立自然公園(たかくまさんけんりつしぜんこうえん)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市,鹿屋市,Tel.:099-286-2613(鹿児島県庁環境林務部自然保護課)。鹿児島県ホームページ(鹿児島県庁) ・ 高隈山県立自然公園によれば(リンク先URLは2011年11月現在)高隈山県立自然公園垂水市鹿屋市にまたがる県立自然公園として、昭和52年(1977年)6月1日に指定されたとの由です。「鹿児島県内では屋久島,  霧島連山に次ぐ高山群である高隈山大箟柄岳(おおのがらだけ)等)」,高峠つつじヶ丘公園,  猿ヶ城渓谷  (猿ヶ城渓谷 森の駅たるみず,  猿ヶ城温泉がある所),大隅湖,  高隈渓谷,  おおすみ自然休養林等が指定されているとの由です。
  鹿児島県ホームページ(鹿児島県庁)でも高隈山県立自然公園として(リンク先URLは2011年11月現在,将来、リンク切れになったら、鹿児島県HP内のキーワード「高隈山県立自然公園」のgoogle検索結果でお探し下さい)、紹介されています。)


薩摩志史アトリエショップ
MAPPLE観光ガイドでも薩摩志史アトリエショップとして紹介されています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば薩摩志史アトリエショップの場所のとおりであり、高峠つつじヶ丘公園(高峠高原)と周遊可能な場所にあります。2011年11月現在、作品については楽天市場でも【楽天市場】キーワード「薩摩志史」の検索結果で探して、お求めいただくことが可能です。)

まさかり海水浴場の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。垂水市にある、海水浴場です。住所:〒891-2114 鹿児島県垂水市新城麓,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所商工観光課)。鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 + 鹿児島県観光交流局観光課)でもまさかり海水浴場として(リンク先URLは2011年11月現在)MAPPLE観光ガイドでもまさかり海水浴場として、全国旅そうだんでもまさかり海水浴場として、じゃらんネットでもまさかり海水浴場として紹介されています。最寄りに、垂水温泉郷・まさかり温泉(温浴施設「ティエム牧場温泉」),そうめん流しや鯉料理の店「名水まさかりの里」(Tel:0994-35-2044,地図),ブルームーンカフェ(Tel:0994-34-3439,地図)があります。)

鹿児島ライダーハウス たるみず
(サブ・コンテンツとして、温泉案内−RH(ライダーハウス)周辺や、温泉案内−垂水市内があります。)

かつて、鹿児島ベスト電器垂水店があった場所(平成25年(2013年)1月閉店)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-2123 鹿児島県垂水市本町22。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、鹿児島ベスト電器を平成25年(2013年)10月まで運営していたカコイグループは、フランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、その各店舗は、平成25年(2013年)10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わっています。カコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店

○   【楽天GORA】鹿児島県のゴルフ場一覧
○   【楽天GORA】鹿児島垂水カントリー倶楽部


垂水温泉郷,  海潟温泉,  猿ヶ城温泉などの垂水市の温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 垂水温泉郷欄でお探しいただけます。
(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 垂水温泉郷欄

垂水市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】垂水温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧
【楽天トラベル・ANA楽パック】キーワード「鹿児島県垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・JAL楽パック】キーワード「鹿児島県垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。



○  垂水市への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,   (当HP内の)桜島フェリー乗船記
  垂水市へは、九州新幹線の終点・鹿児島中央駅地図)がある鹿児島市からは、鴨池・垂水フェリー,  三州自動車大隅交通ネットワーク(旧鹿児島交通大隅地区路線))による鹿児島中央駅鹿屋間直行バス,  桜島フェリー等で行くことができます。また、鹿児島空港からは、空港連絡バスで行くことができます。また、霧島市国分市地域からは、霧島市国分市地域鹿屋市を結ぶバスで行くことができる他、この地域の路線バス等は三州自動車大隅交通ネットワーク(旧鹿児島交通大隅地区路線))が運行しています。これらの公共交通機関の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
垂水市の交通の時刻表掲載ホームページ
鉄道 JR九州公式ホームページ
垂水市を通る鉄道路線はありませんが、例えば鹿児島中央駅地図)まで九州新幹線で行く場合等、まずは最寄りエリアまで鉄道で行く場合の時刻表について、JR九州公式ホームページでお調べいただけます。)
バス
(路線バス等)
九州のバス時刻表

交通ナビかごしま
垂水市路線バス
(リンク先URLは垂水市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、垂水市ホームページ上のキーワード「バス」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鹿児島中央駅
−鹿屋間直行バス
鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ
(リンク先URLは垂水市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、垂水市ホームページ上のキーワード「鹿児島中央 鹿屋 直行バス」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス
(リンク先URLは鹿屋市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、鹿屋市ホームページ上のキーワード「鹿児島中央駅鹿屋直行バス」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鴨池・垂水フェリー 鴨池・垂水フェリー公式WEBサイト
(当HP内の)垂水フェリーターミナルビル紹介欄
桜島フェリー 桜島フェリー公式WEBサイト
空港アクセス・バス 鹿児島空港ビルディング公式ホームページ
(空港アクセス・バス案内のサブ・ページがあります。)
タクシー gooタウンページ(電話番号案内)の垂水市のタクシー業者検索結果
(リンク先URLは2011年11月現在)
レンタカー オリックス・レンタカー鹿児島・種子島・屋久島・宮崎・熊本




垂水温泉郷の温泉水ミネラルウォーター
(powered by 楽天市場.)
【楽天市場】キーワード「財寶温泉」の検索結果

【楽天市場】キーワード「財宝温泉」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水温泉水 美豊泉」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水温泉水 寿鶴」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 温泉水99」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 からだに温泉水」の検索結果
【楽天市場】キーワード「さくらじまのやさしい水」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 天水翔」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 まん天粋」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 櫻岳」の検索結果
【楽天市場】キーワード「垂水 薩摩の清水」の検索結果



【楽天トラベル・全国温泉宿予約】鹿児島県の温泉旅館・ホテル一覧
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦))の温泉旅館・ホテル一覧
【楽天トラベル】大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・ANA楽パック】大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・JAL楽パック】大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)のホテル・旅館
(注:温泉宿以外のホテル・旅館・民宿・ペンションも含みます)
【楽天トラベル・旅コミ】鹿児島県のクチコミ観光情報
【楽天トラベル・旅コミ】大隅地方(霧島・国分・志布志・鹿屋・内之浦)のクチコミ観光情報
【楽天トラベル・たびノート】鹿児島県の観光スポット
【楽天トラベル・たびノート】霧島・国分・大隅半島の観光スポット



当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域


垂水フェリーターミナルビルの場所(垂水港;たるみずフェリーターミナル)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもNAVIの地図。住所:〒891-2117 垂水市潮彩町1丁目,Tel.:0994-32-0001(垂水フェリー(株)垂水営業所)。(注)埠頭のターミナルの位置,利用海運会社,航路(寄港地)の情報は、2014年5月現在のものであり、将来も同じである旨を保証する訳ではありません。また、天候その他の要因により、運行や寄港地が臨時に変更になる場合もあります。ご予約・ご乗船の際には、例えば後述する各海運会社のホームページ等、各海運会社ご提供情報で、ご確認下さい。
いわさきコーポレーション(株)公式WEBサイト ・ 船についてでも鴨池・垂水フェリーとして(リンク先URLは2014年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、「いわさきコーポレーション(株)公式WEBサイト」上のキーワード「鴨池・垂水フェリー」のgoogle検索結果でお探し下さい)、鹿児島県ホームページ(鹿児島県庁)でもかごしま港めぐり(垂水港)として(リンク先URLは2014年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、鹿児島県ホームページ上のキーワード「垂水港」のgoogle検索結果,ならびに鹿児島県ホームページ上のキーワード「鹿児島港+鴨池港」のgoogle検索結果でお探し下さい)、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもかごしま港めぐり(垂水港)として(リンク先URLは2014年5月現在。将来もしもリンク切れになったら、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」上のキーワード「垂水港」のgoogle検索結果でお探し下さい)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも垂水港,  鴨池・垂水フェリーとして、goo ・ タウンページでも垂水フェリー株式会社垂水営業所として、iタウンページでも垂水フェリー株式会社垂水営業所として、Yahoo! JAPAN ・ Yahoo! ロコでも垂水フェリー株式会社垂水営業所として紹介されています。
  
垂水フェリーターミナルビルへの公共交通機関での行き方・アクセスは、2014年5月現在空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗れば、「垂水港」バス停(地図)に行けます。鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域こくぶしちいき)にあるJR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いはいわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗れば、「垂水港」バス停(地図)に行けます。また、鹿児島県 ・ 志布志市しぶしし)からは、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「垂水中央病院(地図)・垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−古江(地図)・白水体育大前(地図)・鹿屋(地図)・串良(地図)経由−志布志港入口 (地図)」に乗れば、行けます。鹿児島県 ・ 鹿屋市かのやし鹿屋市地域からは上述の志布志市からの路線バスや、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−高須(地図)経由−鹿屋(地図)」の路線バスに乗れば、行けます。鹿児島県 ・ 錦江町,ならびに南大隅町方面からは、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「垂水(地図−垂水港(地図)・根占(地図)・古江(地図)・坂元(地図)・大根占(地図)経由−根占(地図))」路線の路線バスに乗れば垂水フェリーターミナルビルに直行できます。鹿児島県 ・ 肝付町きもつきちょう)等の、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の路線バスで鹿児島県 ・ 鹿屋市かのやし鹿屋市地域等に行ける場所からは、鹿屋市鹿屋市地域等で乗り換えれば、垂水フェリーターミナルビルに行けます。逆に申せば、九州新幹線等で鹿児島県にお越しの方は、鹿児島市鴨池フェリーターミナルから後述の鴨池・垂水フェリー解説に乗って垂水フェリーターミナルビルに行けば、そこから上記のバス路線に乗れば、大隅半島の各地に行けます。
  
鴨池フェリーターミナルからは、鹿児島県 ・ 鹿児島市鴨池フェリーターミナル(鴨池港ターミナル)まで、鴨池・垂水フェリー解説で行くことができます。鹿児島市九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)からは、途中、鴨池・垂水フェリー解説に乗って、鹿児島県 ・ 垂水市たるみずし)を経て鹿児島県 ・ 鹿屋市かのやし鹿屋市地域に直行で行ける、鹿児島中央駅−鹿屋間直行バスも走っています。)
→   ○   いわさきコーポレーション(株)公式WEBサイト ・ 船について ・ 鴨池・垂水フェリー
(リンク先URLは2014年5月現在)
○   (当HP内の)鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス紹介欄
(リンク先URLは2014年5月現在)




宇喜多秀家公潜居地の場所
(リンク先は、垂水市観光協会「たるみずinfo」 ・ 宇喜多秀家公潜居地に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図・いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市牛根麓辺田,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。垂水市観光協会「たるみずinfo」でも宇喜多秀家公潜居地として、ワシモ(WaShimo)のホームページでも宇喜多秀家公潜居跡 − 鹿児島県垂水市として、筑後川の航海日誌でも鹿児島県史跡巡り2009(5日目前半:宇喜多秀家潜居跡・藤崎家武家門)として、ひなと一緒でも「宇喜多秀家公潜居跡」 と 行けなかった垂水市の史跡 (T_T)として、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座でも第十一回  史跡めぐり(輝北町・福山町・垂水市牛根)の中で、南日本新聞ホームページ ・ さつま人国誌でも〈76〉宇喜多秀家の薩摩落ちとして、おやじの独り言でも宇喜多秀家公、潜居の地:垂水市として、堀内貴志オフィシャルサイトでも宇喜多秀家公潜居の地として、でも宇喜多秀家潜居跡として、宮迫 佑治のページでも宇喜多秀家潜居跡として、マッツゥの寄り道日記でも鹿児島・垂水 宇喜多秀家潜居の地として、みやっちの今日を振り返ってでも宇喜多秀家潜居跡 & 道の駅たるみずとして、Samurai Worldサムライワールドでも第14回 関が原敗戦の将、薩摩に蟄居す の巻として紹介されています。
  
宇喜多秀家公潜居地とは、安土桃山時代備前国岡山(現・岡山県東部)57万4,000石の大名で岡山城解説城主だった宇喜多秀家が、慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ヶ原の戦い西軍側として戦ったために敗れてしまった後、薩摩国島津義弘公など島津家を頼って落ち延びた際に、大隅国牛根(現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)に隠れ住んだ所です。垂水市観光協会「たるみずinfo」 ・ 宇喜多秀家公潜居地,ならびにワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 宇喜多秀家公潜居跡 − 鹿児島県垂水市によれば、宇喜多秀家大隅国牛根の豪族・平野一族に預けられたとの由であり、平野家では、自分達の住まいの上屋敷を宇喜多秀家に明け渡して、自分達自身は下屋敷に移ったとの由です。ワシモ(WaShimo)のホームページ ・ 宇喜多秀家公潜居跡 − 鹿児島県垂水市によれば、この下屋敷跡の土地には、平成20年(2008年)時点で、平野氏の末裔がお住まいであるとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宇喜多秀家によれば、しかし、「島津氏宇喜多秀家を庇護している」という噂が流れて隠しきれなくなってしまい、慶長8年(1603年)に島津氏宗家第18代当主(兼)初代薩摩藩主・島津忠恒(家久)公によって、徳川家康に身柄を引き渡されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宇喜多秀家によれば、宇喜多秀家の正室・豪姫の兄(宇喜多秀家の義兄)で加賀藩102万5千石(所領は、現・石川県富山県)の初代当主で
金沢城解説城主の前田利長と、島津忠恒(家久)公の懇願の結果、宇喜多秀家は罪一等を減じられて死罪は免れたとの由です。その後、一旦は駿河国(現・静岡県の一部) ・ 久能山(当時は、まだ久能山東照宮解説)建立前の、久能城に幽閉された後、慶長11年(1606年)に八丈島解説に流刑になったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宇喜多秀家によれば、上述の宇喜多秀家の身柄引き渡しの際、一緒について来た宇喜多秀家の家臣2名が薩摩藩 ・ 島津氏に仕官し、その内の1名、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東郷重尚によれば本郷伊予守は、薩摩藩における日置流(へきりゅう)印西派弓術の初代師範・東郷重尚にとっての最初の弓術の師匠になったとの由です。その後、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 東郷重尚によれば、島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代当主・島津家久(忠恒)公と共に京都伏見に上った際に、島津家久(忠恒)公の命により、日置流 印西派 弓術の始祖である吉田重氏の弟子になって藩外でも弓術の修行を重ねて皆伝を授かったとの由です。その後、帰藩して、薩摩藩弓術師範になったとの由です。なお、この東郷重尚は、戦国時代東郷氏第16代当主で、薩摩国東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)東郷町地域)の
鶴ヶ岡城城主の東郷重尚とは、同姓同名の別人です(誤解を避けるべく念のため)。
  宮迫 佑治のページ ・ 宇喜多秀家潜居跡によれば、
宇喜多秀家公潜居地の場所は、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスの「小中野」バス停(地図)下車、徒歩で行ける場所にあるとの由です。宮迫 佑治のページ ・ 宇喜多秀家潜居跡によれば、「垂水港(地図)から、国分駅前(地図)方面に行く方向(海を左に見て走る方向)」の小中野」バス停(地図)の手前(このバス停の西側=逆方向のバス停との間)にある橋(地図)の少し西(この辺り(地図))で横断歩道を渡り、前述の橋(地図)の東側の川岸の小道(地図)を上流方面に曲がって(垂水港(地図)から、国分駅前(地図)方面に行く方向に歩けば、右折して)、この辺り(地図)で心持ちやや左側にこの小道(地図)に入り、ひたすらまっすぐ歩いて、どちらに行けばよいか分からなくなったら(恐らくはこの辺り(地図の模様ですが、もう少し手前か、或いは先かも知れません)で右折すれば、辿り着けるとの由です。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。
  鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系観光スポットには、
宇喜多秀家公潜居地,  牛根麓稲荷神社の埋没鳥居,  牛根城(入船城)があります。また、鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系以外の観光スポットには、道の駅たるみず 湯っ足り館があります。)

牛根麓稲荷神社の埋没鳥居の場所
(リンク先は、垂水市水産商工観光課facebookページ ・ 牛根麓埋没鳥居,ならびに垂水市観光協会「たるみずinfo」 ・ 稲荷神社埋没鳥居に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図・いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市牛根麓450,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。垂水市水産商工観光課facebookページでも牛根麓埋没鳥居として、垂水市観光協会「たるみずinfo」でも稲荷神社埋没鳥居として、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史でも(6) 入船城跡の中で、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷の中で、垂水市ホームページでも指定文化財一覧の中で、文化遺産オンラインでも牛根麓稲荷神社の埋没鳥居として、垂水市モン吉のウキウキブログ でも牛根麓稲荷神社の埋没鳥居として、垂水市議会議員・堀内貴志オフィシャルサイトでも垂水史跡めぐりの中で、 BMGのひとりごとでも第2の埋没鳥居−垂水市・牛根麓地区として紹介されています。
  
牛根麓稲荷神社の埋没鳥居は、鹿児島県 ・ 垂水(たるみず)市牛根麓地区にある、桜島大正3年の大正大噴火で埋没した、稲荷神社鳥居です。垂水市水産商工観光課facebookページ ・ 牛根麓埋没鳥居によれば、遊歩道、展望広場、駐車場等の整備が行われ、牛根麓埋没鳥居展望公園が完成したとの由です。
  
牛根麓稲荷神社の埋没鳥居の基になった牛根稲荷神社の起源は、戦国時代末期の牛根城(入船城)を巡る戦いで、勝者になった島津氏側の武将・伊集院魯笑斉久道による「占領地行政」によるものです。戦国時代島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦において、当初は島津氏宗家と良好な関係にあった、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で大隅国国人戦国大名肝付氏第16代当主・肝付兼続が、永禄元年(1558年)に島津氏宗家との関係が決裂したことから、肝付氏島津氏にとって、大隅国平定における最大の敵対勢力と化してしまいました。島津氏肝付氏の抗争についての全体像について詳しくは、当画面(当ページ)下方の高山城紹介欄で、ご参照いただけます。肝付兼続大隅国牛根(現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の牛根城(入船城)に一族の安楽備前守兼寛を配置し、島津氏肝付氏の抗争の最末期に牛根城(入船城)は1年3ヶ月に及ぶ籠城線の舞台になりました。詳しくは当画面(当ページ)下方の牛根城(入船城)紹介欄で述べる経緯のとおり、天正2年(1574年)に、安楽兼寛は島津氏と和睦して開城してしまいました。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡ならびに鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、開城後の
牛根城(入船城)の城主は、当初は、島津氏によって牛根地頭に任じられた、伊集院魯笑斉久道が勤めたとの由です。垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、伊集院久道は、肝付氏方に加担した地元の武士の士分を停止して武家集落を分散させた上で、島津氏が崇敬する、その氏神様とも言える神社・稲荷神社を、大隅国牛根に建立(こんりゅう)したとの由です。
  
牛根麓稲荷神社の埋没鳥居は、この稲荷神社が、桜島大正3年(1914年)の大正大噴火で埋没したものです。桜島大正3年(1914年)の大正大噴火で埋没した神社の鳥居と言えば、桜島にある黒神埋没鳥居が有名ですが、垂水市にも埋没鳥居があるのです。
  
稲荷神社について、稲荷神島津氏氏神様である理由は、島津氏が自称した「島津氏初代当主・島津忠久公は源頼朝公の落とし子」伝承では、島津忠久公の母・丹後内侍(丹後の局)島津忠久公を妊娠した際に、源頼朝公の正室・北条政子に妊娠したことを知られて、生まれて来る子が殺されると分かったために西に逃げる途中、摂津国(現・大阪府の一部)の住吉大社解説で土砂降りの雨の中、稲荷神の狐火に守られて生まれたという伝承に基づくものです。もっとも、島津氏の出自は実は惟宗氏だと言われており、惟宗氏秦氏の末裔です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 稲荷神によれば、その秦氏氏神稲荷神ですので、稲荷神島津氏氏神である理由は、この辺りの事情に由来するものである可能性もあり得ます(注:推測です。確認した上での史実ではありません。誤解を避けるべく念のため)。いずれにせよ、稲荷神島津氏氏神様であるため、例えば鹿児島県 ・ 鹿児島市にも稲荷神社(鹿児島市)地図があります。なお、垂水市観光協会「たるみずinfo」 ・ 稲荷神社埋没鳥居にも載っているとおり、島津忠久公生誕時の上記の伝説故に、鹿児島県では、雨は「島津雨」と呼ばれて、縁起が良いこととされる文化があります。
  鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系観光スポットには、
宇喜多秀家公潜居地,  牛根麓稲荷神社の埋没鳥居,  牛根城(入船城)があります。また、鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系以外の観光スポットには、道の駅たるみず 湯っ足り館があります。)

牛根城跡の場所(別名:入船城,松ヶ城)
合わせて、最寄りの
早崎塁跡の場所(早崎城)
ならびに
小浜の塁跡の場所(小浜城)
(リンク先は、城郭放浪記 ・ 大隅国のお城一覧(鹿児島県垂水市)、ならびに上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 入船城跡,  早崎塁跡,  小浜の塁跡に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図・いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市牛根麓松ヶ崎,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。城郭放浪記でも大隅国のお城一覧(鹿児島県垂水市)の中で、お城の旅日記でも大隅 入船城として、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷として、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも入船城跡として、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページでも松ヶ崎の歴史の中で、紹介されています。牛根については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも牛根麓として紹介されています。早崎塁(早崎城)については、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース早崎塁跡として、小浜の塁(小浜城)については、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース小浜の塁跡として紹介されています。
  
牛根城跡は、別名を入船城または松ヶ城城とも呼ばれていた大隅国 大隅郡牛根(現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「牛根境(この辺り(地図)),牛根麓(この辺り(地図)),二川(この辺り(地図))」)にあった城・牛根城(入船城)の跡で、中世城郭遺構です。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 入船城跡の地図によれば、上記の入船城(別名:牛根城,松ヶ城城)跡の場所(地図)を中心にして、城山山頂(地図)を北端として南北に細長い城域の山城であったとの模様です。牛根城(入船城)は、詳しくは後述するとおり、戦国時代島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦における大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で大隅国国人戦国大名肝付氏との抗争において、肝付氏滅亡の契機となった攻城戦が行われた城として、鹿児島県戦国時代史に名が残る城です。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、
牛根城(入船城)の築城年代は不明との由ですが、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡ならびに鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、南北朝時代の暦応年間(1338年〜1341年)の頃に、牛根兵衛五郎道綱が居城していたとの由です。「暦応」は北朝の年号ですので、牛根兵衛五郎道綱は北朝方武将であったことになります。応永19年(太陽暦で1412年〜1413年)に伊地知季豊が池袋氏にこの城を譲り、以来、池袋氏が数代を重ねて、戦国時代初期の文明年間(1469年〜1486年)にも池袋氏が在城していたとの由です。その後、戦国時代の天文年間(1532年〜1555年)には、小川尾張守武明を経て、大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水(きよみず)城城主で薩摩本田氏第14代当主の本田薫親の城になったとの由です。薩摩本田氏の歴史については当ホームページ内の国分清水城跡紹介欄でご参照いただけますが、島津氏初代当主・島津忠久公と共に下向した島津氏譜代の家臣で、島津氏の領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の内、大隅国守護代の重臣の家でしたが、この本田薫親の代の時に島津氏宗家と不仲になって叛(そむ)いてしまい、霧島っ子のブログ ・ 霧島市 清水城跡探索によれば、日新斎(じっしんさい)島津忠良公,島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子に攻められて、天文17年(1548年)に国分清水城が一旦は落城して滅んでしまい、その後に島津氏家臣として復活した家です(注:復活後の薩摩本田氏は、国分清水城城主ではありません)。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、天文20年(1551年)に、本田薫親は、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の
高山城城主で大隅国国人戦国大名肝付氏第16代当主・肝付兼続に、牛根城(入船城)を譲ったとの由です。これは、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 島津・肝属決戦によれば(参照時は2013年9月)、上述の天文17年(1548年)に本田薫親が島津氏に包囲された際に、肝付兼続,  薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の現・さつま町宮之城町地域にあった虎居城城主で薩摩国内の反島津氏勢力の祁答院(けどういん)氏第13代当主・渋谷河内守良重(祁答院良重),  新納近江守忠継達が援軍を出したため、この行為に感謝したからであるとの由です。ただし、新納忠継は、この天文17年(1548年)よりも約100年前の人物であり、かつ島津氏に反逆したことがない武将であり、また、天文17年(1548年)時点は、後述の肝付兼続島津氏と決裂した永禄元年(1558年)よりも前の時点であるため、2013年9月参照時時点のこの垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 島津・肝属決戦記載内容は、100%史実であるとは言い難い内容が含まれているように思えます。いずれにせよ、戦国時代の天文年間(1532年〜1555年)に行われた、島津氏庶流の薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)伊作島津家第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州島津家第3代当主の日新斎島津忠良公,  島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子と、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久との間で行われた、島津氏宗家の家督相続争いの島津氏の内乱においては、肝付兼続日新斎島津忠良公,  島津貴久公父子に協力して、当初は島津氏宗家と良好な関係であったとの由です。ところが、永禄元年(1558年)に島津氏宗家と肝付兼続との関係が決裂し、以降、島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦における大隅国平定における、島津氏にとって最大のライバルとして、肝付兼続鹿児島県戦国時代史に名を残しました。垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡ならびに鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、上述のとおり、本田薫親から牛根城(入船城)を譲られた肝付兼続は、天文の末(1555年)に、一族の安楽備前守兼寛を牛根城(入船城)の城将として牛根城(入船城)に配置したとの由です。島津氏肝付氏との関係決裂後は、牛根城(入船城)は、対島津氏戦の西方の最前線と化しました。
  永禄4年(1561年)には、大隅国廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域の一部)の
廻城の戦いで、島津氏の猛将で島津貴久公の弟(日新斎島津忠良公の子)の島津忠将が討ち死にしたため、日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第5代当主・島津忠親の養子に入っていた島津貴久公の次男で猛将(兼)名将の島津忠平公(後の島津義弘公)を、豊州家(豊州島津氏)との養子縁組を解消して島津氏本家に呼び戻さざるを得なくなる程、島津氏肝付氏との戦いで苦戦しました。永禄5年(1562年)には日向国志布志(現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を、豊州家(豊州島津氏)第5代当主・島津忠親から肝付兼続が奪い、肝付氏勢の最大版図となりました。その後の島津氏肝付氏との間の抗争史について詳しくは当画面(当ページ)下方の高山城紹介欄でご参照可能ですが、名将・肝付兼続の没後、肝付氏の運命は徐々に傾いていきました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 禰寝重長によれば、肝付氏第18代当主・肝付兼亮の代になると、元亀4年/天正元年(1573年)には、これまでは肝付氏に従っていた、禰寝(ねじめ)氏第16代当主で、大隅国禰寝院(ねじめいん)南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町(さたちょう)地域錦江町田代町地域)と禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等)の国人領主で、現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域にあった富田城の城主の禰寝重長が、島津氏宗家第16代当主・島津義久公と単独で講和して島津氏に寝返ってしまったとの由です。肝付兼亮は元亀4年/天正元年(1573年)と、さらには大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の垂水本城城主で伊地知氏第9代当主・伊地知重興らと共に翌天正2年(1974年)と、2度に渡って禰寝院に攻め込みましたが、島津氏の援軍を得た禰寝重長に撃退されてしまったとの由です。
  話は前後しますが、播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば、肝付氏に従っていた
垂水本城城主で伊地知氏第9代当主・伊地知重興は、大隅国 大隅郡牛根(現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「牛根境(この辺り(地図)),牛根麓(この辺り(地図)),二川(この辺り(地図))」)の牛根城(入船城,松ヶ城)に近い大隅国 大隅郡小浜(おばま;現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「海潟」字(あざ)「小浜(この辺り(地図))」)の小浜の塁(小浜城)に一族の伊地知美作守重矩を入れて、最寄りの早崎塁(早崎城)と結ぶ防御線を布いていたとの由です。小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)は、地理的に最寄りの早崎塁(早崎城)と連携した防衛ラインです。この防衛ラインは強固でした。
  元亀3年(1572年)9月に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公が、弟で大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の吉田城松尾城城主の島津歳久公を派遣して、小浜の塁(小浜城)攻めを開始しました。なお、天正2年(1574年)1月に落城した牛根城(入船城,松ヶ城)について、お城の旅日記 ・ 大隅 入船城に「1年3ヶ月に及ぶ籠城線の後」という記述が載っており、各城・塁が連携していたことと併せて逆算すれば、小浜の塁(小浜城)攻めを開始した時点で、牛根城(入船城,松ヶ城)攻めも始まっていたことになります。
  鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第50集 西藩烈士干城録(二)(PDF版)p.38,  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 : 60巻. 15(巻之43-45)コマ番号41-42,57,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (1) 早崎・咲花平によれば元亀3年(1572年)9月に、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば元亀4年/天正元年(1573年)7月に、島津勢は
小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)とを落としたとの由です。元亀4年/天正元年(1573年)7月については、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦には、元亀4年/天正元年(1573年)7月23日夜には、早崎塁(早崎城)肝付氏側の守将・川南安芸守が小浜の塁(小浜城)の危機への救援に向かったために早崎塁(早崎城)が空になった隙をついて、薩摩国 日置郡 串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城城主の島津家久公が一旦は早崎塁(早崎城)への無血入城に成功したものの、引き返してきた川南安芸守の精鋭部隊の奇襲を受けて、無血入城に成功して油断していた島津家久公の部隊を蹴散らし、島津家久公が大怪我をして戦線離脱せざるを得なくなったなどの損害を島津氏側が受けたという話が、載っています。この点については、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 : 60巻. 15(巻之43-45)コマ番号41-42には、南安芸守の逆襲の話は載っていませんが、早崎塁(早崎城)を落としたのは元亀3年(1572年)9月とした上で、早崎塁(早崎城)に在陣していた島津家久公の部隊を元亀4年/天正元年(1573年)7月に肝付氏の兵が急襲し、その時の島津家久公が負傷した程の大激戦の結果、肝付氏勢力を退けた旨の異説が載っています。元亀3年(1572年)9月落城説と元亀4年/天正元年(1573年)7月落城説の両説の内、どちらが成立するのかは不明ですが、いずれにせよ、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 : 60巻. 15(巻之43-45)コマ番号57には、小濱(小浜)を抜いた後に伊地知重興が堅く守って「能拒(よくふせ)」いで相持して年を越した旨が載っていますので、詳細は不明ながら小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)の周辺で戦線が膠着してしまった模様です。このことは、元亀3年(1572年)9月落城説の方が史実として採用される場合でも、元亀4年/天正元年(1573年)7月の時点でもまだ早崎塁(早崎城)で戦闘があったという上述の話とも平仄(ひょうそく)が合います。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏によれば、島津義久公による上述の禰寝重長への和平工作は、小浜の塁(小浜城)を攻めあぐねてのことであるとの由です。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば、
早崎塁(早崎城)小浜の塁(小浜城)については兵糧・兵器・兵員の消耗が激しくなったため、ついに伊地知美作守重矩は脱走して落ち延びざるを得なくなったとの由です。この記述内容は、前段落で述べた「小浜の塁(小浜城)(と早崎塁(早崎城))の落城タイミングの2説」に関して、「元亀3年(1572年)9月落城説」の方が史実である場合には「小浜の塁(小浜城)からではなく、小浜の塁(小浜城)近辺の降着した戦線からの離脱だ」ということになり、「元亀4年/天正元年(1573年)7月落城説」の方が史実どおりである場合には、「小浜の塁(小浜城)からの離脱だ」ということになります。いずれにせよ、その結果、牛根城(入船城)は孤立しました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納忠元,  播磨屋 Part2 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 肝付氏,  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏,  お城の旅日記 ・ 大隅 入船城,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城城主で島津氏家臣の新納忠元が自らの身柄を人質として差し出した等の経緯の結果、1年3ヶ月に及ぶ籠城線の後、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・  三国名勝図会 : 60巻. 15(巻之43-45)コマ番号41によれば天正2年(1574年)1月に、安楽兼寛は島津氏と和睦して牛根城(入船城,松ヶ城)を開城してしまったとの由です。この結果、伊地知氏第9代当主・伊地知重興も、禰寝氏と同様に、島津氏に降伏して、島津氏家臣になったとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏,ならびにMottyの旅日記 ・ 垂水城によれば、伊地知重興は、降伏の際に所領の大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)の田上城地図,  高城地図,  新城地図等を差し出し、垂水本城のみを安堵されたとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏には、降伏後に伊地知重興が安堵された城は下之城3,800石として載っていますが、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 本城跡によれば、垂水本城の別名が下之城であったとの由であり、実は同じ城です。このように、肝付氏方の大隅国有力国人が相次いで島津氏方になってしまったため、肝付氏は勢力を急激に失ってしまったとの由です。上述の各参照先ホームページや、島津修久島津義弘の軍功記 増補改訂版』(島津顕彰会発行,2000)p.122の年表等によれば、この情勢下に肝付兼亮は、ついに同年・天正2年(1574年)に、島津氏に降伏して、一旦は1万石で存続したとの由です。このような経緯の結果、島津氏は天正2年(1574年)に、念願だった大隅国の完全な平定に成功しました。なお、詳しくは当画面(当ページ)下方の高山城紹介欄で解説した経緯のため、肝付氏は第19代当主・肝付兼護の代の時の天正5年(1577年)に、この残った1万石の領地を失って本城の高山城だけが安堵される状況に陥り、さらに天正8年(1580年)には高山城さえも没収されてしまったとの由です。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡ならびに鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、開城後の
牛根城(入船城)の城主は、当初は牛根地頭に任じられて、伊集院魯笑斉久道が勤めたとの由です。垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、伊集院久道は、肝付氏方に加担した地元の武士の士分を停止して武家集落を分散させた上で、島津氏が崇敬する、その氏神様とも言える神社・稲荷神社を建立(こんりゅう)したとの由です。この牛根稲荷神社は、後年、桜島大正3年(1914年)の大正大噴火で埋没したため、今日では牛根麓稲荷神社の埋没鳥居となっています。牛根麓稲荷神社の埋没鳥居について詳しくは、当画面(当ページ)上方の牛根麓稲荷神社の埋没鳥居紹介欄で、ご参照いただけます。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史(6) 入船城跡ならびに開城後の治世によれば、天正8年(1580年)頃に牛根地頭鎌田尾張守政年(寛栖)に交代して、(前任者の伊集院久道の上述のようなハードな占領地行政姿勢とは異なり、)善政を布いたとの由です。鎌田政年は、伊集院久道によって士分停止にされていた入来・隈元・長浜・中野・二川・児王・村山の七家の士分を回復したとの由です。鎌田政年は宗教政策の上でも、
稲荷神社地図によって島津色を強制した前任者とは異なり、喜翁院を創建して住民に仏教を薦めたとの由です。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、喜翁院は、江戸時代後期の薩摩藩の領内三国(薩摩国,  大隅国,  日向国)の地誌や名所を記した文書『三国名勝図会』にも載っており、それによれば、喜翁院山号望海山と言う山号付きで申せば望海山喜翁院と言う曹洞宗の寺院で、本府(薩摩国鹿児島=現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)にあった福昌寺の末寺であったとの由です。薩摩藩領では藩内の寺が1寺も残さない激しい廃仏毀釈があったために現在では廃寺になっており、詳しい場所も存じ上げません。ですが、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、(詳しくは後述する江戸時代薩摩藩外城(とじょう)制における、牛根の)地頭館(地頭仮屋)の東北1里20町の場所にあったとの由です。
  垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、安土桃山時代から江戸時代にかけての慶長年間(1596年〜1615年)には、小河尾張守の一族の小河半兵衛、半助が牛根地頭になり、牛根を統治したとの由です。この時代、大隅国百引(もびき;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市輝北町地域の一部)から観音を太崎(たさき)に移して祀ったとの由です。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷によれば、『三国名勝図会』に
「太崎観音が載っており、これは上記の百引から移したとされる観音様を祀ったなのであろうと推測いたしますが、この参照先の情報によれば、牛根にあった(現在は廃寺)華蔵院住持・盈川和尚が明和元(1764)年8月に建立した碑文によれば、太崎観音は延暦2(783年)に建立(こんりゅう)されたとの由であり、上述の「慶長年間(1596年〜1615年)に百引から移した」という伝承との関係は不明です。垂水市ホームページ(垂水市役所) ・ 垂水市文化財一覧(位置図),ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 松ヶ崎の概要 ・ 松ヶ崎文化財マップ(道の駅たるみず「湯っ足り館」周辺の文化財マップ)(PDFファイル)等によれば、この太崎観音は、(廃仏毀釈が激しかった地域であるにもかかわらず)今日でも残っていて垂水市の文化財になっているとの由であり、場所は太崎観音の場所(地図)のとおりです。
  江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城(とじょう)制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。
牛根城(入船城)があった場所の麓は、江戸時代薩摩藩外城制の下では、「牛根」になりました。各「外城(麓)」で「郷」を統治する地頭の中には、一所持と呼ばれる家格の重臣が私領主として統治する「郷」と、薩摩藩直轄領であり、藩庁の役人が藩官僚として統治する「郷」とが、ありました。垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、「牛根」は「牛根」は薩摩藩直轄領であったとの由です。「牛根」は牛根城跡(入船城跡)の麓に設けられ、その場所は、牛根の場所(地図;この辺りです。
  
牛根城跡(入船城跡)の麓の牛根地図;この辺りへの公共交通機関での行き方・アクセスは、2013年10月現在JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、「宮崎小路」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)でJR九州 ・ 日豊本線宮崎駅地図)・都城駅地図)方面行きの列車に乗れば、上記の国分駅地図)に行くことができ、ここで上記の路線バスに乗り換えることができます。逆方向として宮崎市都城市等の宮崎県方面からお越しの方は、JR九州 ・ 日豊本線鹿児島中央駅地図)方面行きの列車に乗れば、上記の国分駅地図)に行くことができ、ここで上記の路線バスに乗り換えることができます。2013年10月現在国分駅地図)は特急停車駅です。
  空路でお越しの方は、2013年10月現在鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗れば、「宮崎小路」バス停(地図)下車、徒歩です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  2013年8月現在鹿児島市からは、鴨池・垂水フェリーで行く方法もあります。「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で降りるか、或いは、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の「鹿児島中央駅駅前」バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通や、鹿児島市交通局の複数の路線の路線バスで「鴨池港」バス停(地図)に行き、鴨池港から鴨池・垂水フェリーに乗って垂水港(地図)に行くかすれば、「垂水港」バス停(地図)で上記のバス路線の逆方向の、鹿児島空港地図)・国分駅地図)方面行きのバスに乗れば、「宮崎小路」バス停(地図)に行けます。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。
  鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系観光スポットには、
宇喜多秀家公潜居地,  牛根麓稲荷神社の埋没鳥居,  牛根城(入船城)があります。また、鹿児島県 ・ 垂水市牛根麓地域の歴史系以外の観光スポットには、道の駅たるみず 湯っ足り館があります。)

垂水島津家墓地の場所(垂水市指定文化財)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:垂水市田神上ノ平添(上犬之馬場),Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。垂水市ホームページでも垂水島津家墓地(垂水市指定文化財)として(リンク先URLは2010年8月現在)たるみずinfo(垂水市観光協会)でも島津家墓地として、鹿児島散歩(ブログ)でも垂水散歩(その2)の中で地図付きで、鴨着く島でも垂水の島津家墓地として、◆風雲女将城◆でも篤姫ゆかりの島津家 として、鹿児島みてある記(ブログ)でも垂水島津家の城下町−垂水麓(再訪)の中で紹介されています(リンク先URLは、いずれも2010年8月現在)島津氏の分家(庶流)であり、島津氏宗家(藩主家)が断絶した時に代わりに跡継ぎを出すことが可能な、江戸幕府御三家薩摩藩版と言うべき、御一門という家格で18,000石という、大名並みの石高を誇る島津家中の重臣だった、垂水島津家の墓です。鹿児島県庁公式WEBサイト ・ 垂水市まち歩きマップによれば(リンク先URLは2011年11月現在)、元々は菩提寺の宝厳山心翁寺(曹洞宗)があった所との由です。薩摩藩では過度の廃仏毀釈によって一時は領内の寺院が藩主菩提寺も含めて全滅しましたので、恐らくはその時に廃寺になったものと推測します。
  垂水島津家は、島津氏第15代当主の戦国大名島津貴久公の弟(=島津氏中興の祖・日新斎(じっしんさい)島津忠良公の子)で、兄・貴久公を助けて戦国時代島津氏による領国統一平定の多くの戦で活躍した名将・島津忠将から始まる、島津氏家中の名家です。南日本新聞公式ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 〈182〉垂水家・島津信久、波乱の生涯(上) + 〈183〉垂水家・島津信久、波乱の生涯(下),  歴史作家・桐野作人氏の公式ブログ ・ 膏肓記 ・ 垂水家・島津信久、波瀾の生涯(上) + 垂水家・島津信久、波乱の生涯(下)等によれば(リンク先URLは2011年11月現在)島津信久(忠仍,久信)は島津忠将の嫡子・島津彰久島津新城(玉姫)との間の子で、島津新城島津氏第16代当主の戦国大名島津義久公の次女であったことから、島津義久の外孫になります。島津氏一門の中、この血統の良さと、島津義久の三女の娘婿であるが故に島津氏第17代当主で薩摩藩初代藩主の座を継いだ島津家久(忠恒)公に義久公の孫ができなかったことから、江戸時代初期に、島津家久(忠恒)公との間での藩内での宗家家督相続争いのライバルと化した時期があります。そもそも、島津信久(忠仍,久信)の祖父・島津以久日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じて
佐土原城地図に移った時に、以久系の嫡流であるにもかかわらず島津信久(忠仍,久信)が垂水の地に残った理由は、島津氏宗家の後を継ぐ可能性があったために、支藩藩主になって宗家家督争いから脱落するのを避けたからだ、という話もあります。島津信久(忠仍,久信)は寛永14(1637)年5月11日に毒殺されて非業の死を遂げますが、誰の命令によるものかは定かになっていないとの由です。
  上述のとおり、垂水島津家は、名将・島津忠将から始まる、島津氏家中の名家です。垂水島津家の代の数え方は島津忠将を起点として数えるのが通例ですが、島津忠将本人が垂水を領有した訳ではないことや、垂水島津家2代目・島津以久が後に日向国(現・宮崎県)佐土原(さどわら,現・宮崎市旧佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じたことから、島津忠将の孫で垂水島津家3代目の島津彰久を起点として数える数え方もあります。上述のとおり垂水島津家は後に御一門の家格を誇る重臣の家系になりますが、江戸時代初期は、まだ御一門の家格となっていませんでした(当時は、まだ御一門の制度も設けらる以前の時期でもありますし)。御一門の制度が設けられた時期には、その時点の垂水島津家第9代当主・島津貴儔(たかとも)薩摩藩第4代藩主で島津氏宗家第21代当主の島津吉貴公の三男から来た養子だったり、垂水島津家の1代前の第8代当主・島津忠直は薩摩藩第3代藩主で島津氏宗家第20代当主の島津綱貴公の四男から来た養子だったりする等の状況でした。垂水島津家は系統としては島津忠将から始まる家ですが、実際の血統では、垂水島津家4代目島津信久(忠仍,久信)等の島津忠将の血統を受け継ぐ血は男系では残っておらず、島津信久(忠仍,久信)とは島津氏宗家当主の座を争った島津氏宗家家督相続争いのライバルであった島津氏第17代当主で薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)公の血がつながっていることになります。垂水島津家島津家中の名門である理由は島津忠将の系譜の家系だからではありますが、御一門の家格になった理由は島津忠将系統の家系だからではなく、薩摩藩藩主・島津氏宗家の血が受け継がれていたからだ、ということになります。
  公共交通機関での行き方は、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で、三州自動車の「垂水港(地図)−垂水中央病院・海潟・桜島口・文学碑前・桜島病院経由−桜島港(地図)」、「垂水港(地図)−検校橋・国分駅地図)・姫城温泉経由−鹿児島空港地図)」、「垂水港(地図)−検校橋経由−国分駅前(地図)」のバス路線に乗り換えて、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。
  鹿児島市からお越しの方は、桜島フェリーで桜島港(地図)に一旦渡った上で、桜島港(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の上述の「桜島港(地図)−桜島病院・文学碑前・桜島口・海潟・垂水中央病院経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩でも行けます。空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。例えば宮崎市都城市など宮崎県方面からお越しの方は、JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、上述の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは上述の「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。
  2013年10月現在垂水市にある江戸時代 ・ 薩摩藩島津氏庶流の名門・垂水島津家、ならびに、そのさらに庶流の新城(しんじょう)島津家に関する歴史観光スポットには、
垂水文行館(旧・垂水島津館),  垂水島津家墓地,  林之城跡(林城跡)・お長屋,  新城島津家墓地等があります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

お長屋・林之城(林城)跡の場所(垂水市指定文化財)
併せて、
垂水城跡の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:林之城(林城)については鹿児島県垂水市田神144(2011年現在では、垂水市立垂水小学校の敷地),垂水城については鹿児島県垂水市市木元垂水,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。お長屋・林之城(林城)については、たるみずinfo(垂水市観光協会)でも林之城跡・お長屋,  垂水麓武家門のある風景として、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも林城跡として、蟠龍戦記でも大隅林之城として、お城の旅日記でも大隅 林城として、城郭放浪記でも大隅・林城として、鹿児島みてある記(ブログ)でも垂水島津家の城下町−垂水麓(再訪)の中で紹介されています。垂水城については、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも垂水城跡として、蟠龍戦記でも大隅垂水城として、お城の旅日記でも大隅 垂水城として、Mottyの旅日記でも垂水城として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも大隅石井氏の中で紹介されています。
  
お長屋・林之城(林城)は、鹿児島県 ・ 垂水市にある近世の武家領主館遺構です。「城」という名称が付いていますが、江戸幕府一国一城令に対する建前上は城ではなく館であり、詳しくは後述する江戸時代薩摩藩外城(とじょう)制における地頭の館です。鹿児島県庁公式WEBサイト ・ 垂水市まち歩きマップによれば(リンク先URLは2011年11月現在)林之城(林城)は、垂水島津家4代目の島津信久(忠仍(ただなお),久信)によって慶長16年(1611年)に、中世城郭・垂水城から拠点を移して築城されたもの、との由です。2011年現在では、垂水市立垂水小学校の敷地になっていて、下級武士が詰めていたお長屋が残されています。
  江戸時代には江戸幕府による一国一城令のために、一部の例外を除いて各藩では本城以外の城は廃城となりましたが、薩摩藩では、実質的な支城ネットワーク(兼)「郷’ごう)」と呼ばれる地方行政区域の中心地として、各地に外城(とじょう,後に麓(ふもと)と改称)と呼ばれる地方の軍事・行政拠点を設ける、外城制で藩内地方行政を行っていました。この外城制における各地の外城(麓)には武家が集住して麓武家屋敷群ができ、今日の観光スポットである
知覧武家屋敷群,  出水(いずみ)麓武家屋敷群,  野田郷武家屋敷通り,  入来麓武家屋敷群,  里武家屋敷跡甑島(こしきじま)),  蒲生武家屋敷通り等は、この各地の麓武家屋敷群の街並みが残ったものです。「垂水麓」でも林之城(林城)の周囲に麓武家屋敷群が形成され、インターネットで拝見した各ホームページ/ブログによれば、2011年11月現在、垂水麓の武家屋敷群の街並みも結構残っている模様です。この街並みが今後も変わらない限り、林之城跡(林城跡)の周囲では、上述の城跡遺構のお長屋だけでなく、麓武家屋敷群の街並みも併せて散策することが可能です。外城制における 武家屋敷群は、文字どおり、廃城になった中世の山城の麓に設けられる場合が多かったです。垂水の場合には、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースには、林之城跡(林城跡)の場所である林城跡のすぐ北側に、林城跡とは別して林之城跡 という中世の城郭遺構が載っており、中世の林之城跡の場所(リンク先は地図)は今日では「城山団地」という団地になっていることから「城山」であった旨が分かりますので、近世の林之城(林城)は、中世の山城・林之城跡の麓に設けられた、言い換えれば中世の山城・林之城跡の山が近世の林之城(林城)の後詰めの山城であったことが窺えます。この中世の山城・林之城跡については、調べてみましたが、詳しいことはよく分かりませんでした。
  お城の旅日記 ・ 大隅 垂水城,  Mottyの旅日記 ・ 垂水城,  フリー百科事典『ウィキペディア』・大隅石井氏によれば(リンク先URLは2011年11月現在)
林之城(林城)に移る前の垂水城は、元々は、宇佐八幡宮(宇佐神宮)留守職(るすしき)・藤原教清の子で薩摩蒲生(かもう)氏初代として後に大隅国蒲生(かもう;現・鹿児島県 ・ 姶良市蒲生町地域)の地を領有して、蒲生城を築城したり、蒲生八幡神社を建立(こんりゅう)したりした、藤原上総介舜清(蒲生舜清)が、蒲生に移る前の平安時代末期の保安(ほうあん)元年(1120年)に築城して4年間在城した城であるとの由です。垂水城はその後、鎌倉時代末期以降は相模国(現・神奈川県中・西部)の武家の名門・三浦氏の庶流である大隅石井氏の居城になりましたが、大隅石井氏戦国時代の大永6年(1526年)に垂水本城(下之城)を居城とする伊地知氏によって滅ぼされました。
  詳しくは当画面(当ページ)下方の
垂水本城紹介欄で解説するとおり、戦国時代末期の天正2年(1574年)に伊地知氏島津氏に降伏してその部下になった時に、伊地知氏下之城は安堵されたものの、所領の大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の田上城地図,  高城地図,  新城地図等を差し出し、下之城のみを安堵されたとの由です。なお、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 本城跡によれば、下之城垂水本城の別名であるとの由であり、実は同じ城です。
  
垂水城伊地知氏の城ではなくなったタイミングについては、この天正2年(1574年)の伊地知重興島津氏への降伏時であるのか、それとも、詳しくは当画面(当ページ)下方の垂水本城紹介欄で後述する、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)文禄の役からの帰国後に伊地知重順が所領を没収された時であるのかは、存じ上げません。ですが、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば文禄4(1595年)に川田氏が地頭として垂水に赴任して、垂水城城主になったとの由です。川田氏は比志島氏の一族であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 川田義朗によれば、川田義朗が垂水地頭を勤めた旨が載っていますので、上述の川田氏とは具体的には川田義朗のことと推測します。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、慶長4年(1599年)に島津忠将日新斎島津忠良公の次男で、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟)の子で、島津四兄弟(島津氏宗家第16代当主・島津義久公・島津義弘公・島津歳久公・島津家久公)にとっては従兄弟である島津以久(島津征久)が、種子島から垂水に所領替えになり、以降、垂水城は、島津久敏の代まで、島津氏庶流の垂水島津氏3代の居城になり、慶長11年(1611年)に林之城(林城)に移ったとの由です。島津以久は後に、日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じて佐土原城地図に移り、この時点で島津以久嫡男で垂水島津家3代目・島津彰久(てるひさ)は既に死んでいたため、垂水の地は島津彰久の嫡男・島津信久(忠仍,久信)が継いだとの由です。
  南日本新聞公式ホームページ ・ さつま人国誌 ・ 〈182〉垂水家・島津信久、波乱の生涯(上) + 〈183〉垂水家・島津信久、波乱の生涯(下),  歴史作家・桐野作人氏の公式ブログ ・ 膏肓記 ・ 垂水家・島津信久、波瀾の生涯(上) + 垂水家・島津信久、波乱の生涯(下)等によれば(リンク先URLは2011年11月現在)、上記の島津信久(忠仍,久信)は島津彰久島津新城(玉姫)との間の子で、島津新城島津氏第16代当主の戦国大名島津義久公の次女であったことから、島津義久の外孫になります。島津氏一門の中、この血統の良さと、島津義久の三女の娘婿であるが故に島津氏第17代当主で薩摩藩初代藩主の座を継いだ島津家久(忠恒)公に義久公の孫ができなかったことから、江戸時代初期に、島津家久(忠恒)公との間での藩内での宗家家督相続争いのライバルと化した時期があります。そもそも、島津信久(忠仍,久信)の祖父・島津以久日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じて
佐土原城地図に移った時に、以久系の嫡流であるにもかかわらず島津信久(忠仍,久信)が垂水の地に残った理由は、島津氏宗家の後を継ぐ可能性があったために、支藩藩主になって宗家家督争いから脱落するのを避けたからだ、という話もあります。島津信久(忠仍,久信)は寛永14(1637)年5月11日に毒殺されて非業の死を遂げますが、誰の命令によるものかは定かになっていないとの由です。
  上述のとおり、垂水島津家は、島津氏第15代当主の戦国大名島津貴久公の弟(=島津氏中興の祖・日新斎(じっしんさい)島津忠良公の子)で、兄・貴久公を助けて戦国時代島津氏による領国統一平定の多くの戦で活躍した名将・島津忠将から始まる、島津氏家中の名家です。島津信久(忠仍,久信)が垂水島津家4代目であるという上述の数え方は、この島津忠将を起点として数えたものであり、島津忠将本人が垂水を領有した訳ではないことや、垂水島津家2代目・島津以久が上述のとおり後に日向国(現・宮崎県佐土原藩の藩主に転じたことから、島津彰久を起点として数えて島津信久(忠仍,久信)を垂水島津家2代目とする数え方もあります。垂水島津家は後に、島津氏宗家(藩主家)が断絶した時に代わりに跡継ぎを出すことが可能な、江戸幕府御三家薩摩藩版と言うべき、御一門という家格で18,000石という大名並みの石高を誇る重臣の家系になりますが、島津信久(忠仍,久信)が垂水島津家当主だった時期には、まだ御一門の制度はありませんでした。なお、御一門の制度が設けられた時期には、その時点の垂水島津家第9代当主・島津貴儔(たかとも)薩摩藩第4代藩主で島津氏宗家第21代当主の島津吉貴公の三男から来た養子だったり、垂水島津家の1代前の第8代当主・島津忠直は薩摩藩第3代藩主で島津氏宗家第20代当主の島津綱貴公の四男から来た養子だったりする等の状況であり、垂水島津家は系統としては島津忠将から始まる家ですが、実際の血統では男系では、垂水島津家4代目島津信久(忠仍,久信)の血は残っておらず、島津信久(忠仍,久信)とは島津氏宗家当主の座を争った島津氏宗家家督相続争いのライバルであった島津氏第17代当主で薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)公の血がつながっていることになります。垂水島津家島津家中の名門である理由は島津忠将の系譜の家系だからではありますが、御一門の家格になった理由は島津忠将系統の家系だからではなく、薩摩藩藩主・島津氏宗家の血が受け継がれていたからだ、ということになります。
  
林之城跡(林城跡)への公共交通機関での行き方は、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で、三州自動車の「垂水港(地図)−垂水中央病院・海潟・桜島口・文学碑前・桜島病院経由−桜島港(地図)」、「垂水港(地図)−検校橋・国分駅地図)・姫城温泉経由−鹿児島空港地図)」、「垂水港(地図)−検校橋経由−国分駅前(地図)」のバス路線に乗り換えて、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。
  鹿児島市からお越しの方は、桜島フェリーで桜島港(地図)に一旦渡った上で、桜島港(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の上述の「桜島港(地図)−桜島病院・文学碑前・桜島口・海潟・垂水中央病院経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩でも行けます。空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。例えば宮崎市都城市など宮崎県方面からお越しの方は、JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、上述の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは上述の「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、「垂水中央」バス停(地図)下車、徒歩です。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。
  2013年10月現在垂水市にある江戸時代 ・ 薩摩藩島津氏庶流の名門・垂水島津家、ならびに、そのさらに庶流の新城(しんじょう)島津家に関する歴史観光スポットには、
垂水文行館(旧・垂水島津館),  垂水島津家墓地,  林之城跡(林城跡)・お長屋,  新城島津家墓地等があります。)

垂水本城の場所(たるみずほんじょう;別名:下之城)
(リンク先は、城郭放浪記 ・ 垂水市のお城一覧、ならびに上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 本城跡に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図・いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市本城上本城,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所大代表の番号)。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも本城跡として、ちえぞー! 城行こまいでも垂水本城として、城跡じゃらんジャランでも鹿屋城・垂水本城として、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷の中で、鴨着く島(ブログ)でも本城川流域散策(垂水市)の中で、垂水本城(下之城)城主だった伊地知(いぢち)氏については、播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州でも武家家伝 伊地知氏として紹介されています。
  
垂水本城は、鹿児島県 ・ 垂水市にある中世城郭遺構です。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 本城跡によれば、垂水本城は、別名を下之城と言われていたとの由です。垂水本城(下之城)は、戦国時代大隅国垂水(現・鹿児島県 ・ 垂水市)を治めていた戦国武将の伊地知(いぢち)氏の居城でした。伊地知氏は、第9代当主の伊地知重興の代に、戦国時代島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の過程における、大隅国の反島津氏勢力だった国人戦国大名で、大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主の肝付氏に味方してして連合軍を組み、島津氏に抵抗したことで、知られています。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、伊地知氏の出自は桓武平氏  良文流で、平良文の孫(平忠頼の子)・平将恒を始祖とする秩父氏の出であるとの由です。秩父重弘の孫で、平姓畠山氏2代目当主の畠山重忠の長兄の伊地知重光を祖とするとの由です。伊地知重光は、越前国伊地知(現・福井県 ・ 勝山市北郷村(きたごうむら)地域伊知地地区(この辺り(地図)))を領有して、伊地知と名乗ったとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知季随によれば、南北朝時代に、伊地知季随(いぢち すえみち)は、北朝方武将であったにも関わらず、南朝への裏切り者とする讒言(ざんげん)のために足利尊氏から越前国伊地知の所領を没収されてしまったことがあったとの由です。その際に、島津氏宗家第5代当主・島津貞久公、その子で島津氏宗家第6代当主(奥州家初代当主)・島津氏久公のとりなしによって救われたことから、以降、島津氏宗家に従って各地を転戦したとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知季随によれば、観応2年(1351年)の筑前国の金隈(かねくま)で行われて、南朝方の菊池氏島津氏が敗れた金隈の合戦で、上述の恩があった島津氏久公の身代わりになって、伊地知季随は討ち死にしたとの由です。金隈の合戦の場所については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 金隈(かねのくま)によれば、今日、福岡県 ・ 福岡市 ・ 博多区金隈(かねのくま)という地名があり、「金隈の合戦」の「金隈(かねくま)」とは読み方が異なりますので今日の金隈(かねのくま)と同じ場所であるか否かは不明ですが、これがそうであるとすれば、今日の金隈(かねのくま)は、大字「金隈」(この辺り(地図))ならびに金の隈1丁目(この辺り(地図))〜金の隈3丁目(この辺り(地図))辺りだということになります。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、上記の伊地知季随島津氏久公の身代わりになっての討ち死にに報いるために、島津氏久公は、伊地知季随の嫡男・伊地知季弘に島津姓を許したとの由ですが、伊地知季弘は本貫の地・越前国伊地知由来の苗字を捨て難かったため、代わりに伊地知季随の次男(伊地知季弘の弟)の正真が島津姓を名乗ることになり、「島津田島」と称したとの由です。越前国伊地知を本貫の地とする家系ではありましたが、伊地知季随が、越前国守護である斯波氏ではなく島津氏に従って転戦していたことからも窺えるとおり、伊地知氏は(越前国ではなく、)薩摩国大隅国に土着していったとの由です。
  ちえぞー! 城行こまい ・ 垂水本城,ならびに城跡じゃらんジャラン ・ 鹿屋城・垂水本城によれば、
垂水本城(下之城)が築城されたのは、明徳3年/元中9年(1392年)の明徳の和約による北朝合一後の室町時代の応永19年(1412年)のことであり、参照時2013年10月現在の記載内容では、ちえぞー! 城行こまい ・ 垂水本城によれば島津氏豊久から、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば島津氏第8代当主・島津久豊公から、伊地知季豊が垂水本城村を与えられたことに伴って築城したとの由です。ちえぞー! 城行こまい ・ 垂水本城2013年10月現在載っている島津氏豊久とは、後年の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで討ち死にしたことで知られる島津豊久とは別人ですが、この築城年・応永19年(1412年)の大隅国守護島津久豊公であるため、恐らくは「豊久」とあるのは誤記であり、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷に載っているとおり、実は島津氏第8代当主・島津久豊公のことであろうと考えます。一方、参照時2013年10月現在の記載内容では、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、この伊地知季豊は上述の伊地知季随の子とされていますが、ちえぞー! 城行こまい ・ 垂水本城,ならびに播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏記載の系図によれば伊地知季豊は伊地知季随の孫(上述の伊地知季弘の子)とされています。年代と世代から察すれば、恐らくは、この点については鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷参照時2013年10月現在の記載内容よりもちえぞー! 城行こまい ・ 垂水本城の方が正しく、伊地知季豊は伊地知季随の孫なのであろうと推測します。いずれにせよ、この時期の伊地知氏は、伊地知季随,  伊地知季弘,  伊地知季豊の名前から分かるとおり「季」の字を通字として使っているため、「伊地知季豊」の「豊」の字は偏諱(へんき)であることになり、大隅国守護だった島津氏第8代当主・島津久豊公から「豊」の字の偏諱を受けて通字の「季」の字に付けて、「季豊」という名前になった旨が窺えます。この偏諱は、確認した上での史実ではなく推測ですが、概ね誤ってはいないであろうと考えます。
  戦国時代初期には、伊地知氏の足跡は大隅国西部の現・鹿児島県 ・ 姶良市にも残っています。城郭放浪記 ・ 大隅・加治木城によれば、大隅国加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の
加治木城城主の加治木久平が室町時代戦国時代初期)の明応4年(1495年)に起こした乱が翌明応5年(1496年)に島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公が自ら率いる大軍によって鎮圧されて、加治木氏薩摩国阿多(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)に移された謀反事件があったとの由です。加治木氏没落後の加治木城には、伊地知氏庶流の伊地知重貞が加治木地頭になって入城したとの由です。しかし、戦国時代の大永6年(1526年)に、島津氏庶流の薩摩国伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城(伊作城)伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の嫡子・島津貴久公が、島津氏宗家第14代当主・島津勝久公の養子になって島津氏宗家を継いで第15代当主になると、これを快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした、薩摩国出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主・島津実久が同年・大永6年(1526年)に謀反を起こして、島津氏宗家の座を巡って島津氏の内紛・内ゲバ抗争が起きたことで、伊地知重貞の運命は暗転しました。島津氏の内紛・内ゲバ抗争の初戦として、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、大隅国帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)城主の川上忠直が島津実久に付いて島津氏宗家の島津貴久公に叛くと、日新斎島津忠良公はこれを攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。戦国島津の女達 ・ 島津善久女(島津昌久室)によれば、島津昌久は薩州家(薩州島津氏)の庶流でしたが、日新斎島津忠良公の姉妹の夫ですので、薩州家(薩州島津氏)島津実久が謀反を起こしても信用していたものと推測可能です。ところが、城郭放浪記大隅・加治木城ならびに大隅・平山城,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠良等によれば、大永7年(1527年)に加治木城伊地知重貞・伊地知重兼父子と平山城(平安城)島津昌久が島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。
  伊地知重貞・伊地知重兼父子と島津昌久の鎮圧後、新たな加治木地頭として
加治木城城主になったのは、肝付氏庶流の肝付兼演であり、一方、新たな帖佐地頭として平山城(平安城)城主となったのは、伊地知重辰であったとの由です。ところが、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、伊地知重辰は享禄2年(1529年)に、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)の虎居城城主の祁答院(けどういん)重武に攻められて討ち死にしてしまい、平山城(平安城)祁答院氏の城になってしまったとの由です。
  日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子と島津実久との間の上述の島津氏の内紛では、例えば一時期、大永7年(1527年)には、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域)の亀ヶ城に脱出して清水城を失ったり、同年、薩摩国伊集院(現・日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)島津実久に攻め落とされたりした等、島津氏宗家側(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側が苦戦しました。しかし、尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦い,ならびに戦国島津+夢の牙城 ・ 島津家年表によれば、天文5年(1536年)に薩摩国伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)を奪還し、天文6年(1537)の薩摩国鹿児島の紫原(むらさきばる)の戦いや、天文8年(1539年)の薩摩国加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)の戦いや、薩摩国市来(現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城の戦いで島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側が島津実久を破ると、島津実久側は勢力を失い、天文8年(1539年)に和睦に応じたとの由です。その結果、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの由です。この時期の、垂水本城(下之城)伊地知氏本家の動向については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大隅石井氏によれば、大永6年(1526年)に、大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の垂水城城主で島津実久方の石井氏を、島津氏宗家第14代当主・島津勝久公の命令を受けた大隅国垂水の他の武将・垂水本城(下之城)城主・伊地知重貞(伊地知重武の誤りと考えられるとの由)、田上城地図城主・梶原昌豊が攻略して、垂水城が陥落したとの由です。このことから、全期間を通じてか否かは存じ上げませんが、少なくとも、島津氏の内紛・内ゲバ抗争の初期には、垂水本城(下之城)伊地知氏本家は反島津実久側、つまり、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側であった旨が窺えます。
  ところが、詳しくは当画面(当ページ)下方の
高山城紹介欄で述べるとおり、戦国時代の永禄元年(1558年)に島津氏大隅国高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で国人戦国大名肝付氏第16代当主・肝付兼続との関係が破綻してしまい、大隅国大隅半島解説)は、戦国時代島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦における、領国内の一大反島津氏勢力地域と化してしまいました。伊地知氏第9代当主・伊地知重興は、大隅国禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町(さたちょう)地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の国人領主で、現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域にあった富田城,ならびに国見城の城主の禰寝(ねじめ)氏第16代当主・禰寝重長と共に、肝付兼続と同盟して、反島津氏の挙兵をしました。永禄4年(1561年)には、大隅国廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域の一部)の廻城の戦いで、島津氏の猛将で島津貴久公の弟(日新斎島津忠良公の子)の島津忠将が討ち死にしたため、日向国飫肥(おび;現・宮崎県 ・ 日南市の一部)の飫肥城城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第5代当主・島津忠親の養子に入っていた島津貴久公の次男で猛将(兼)名将の島津忠平公(後の島津義弘公)を、豊州家(豊州島津氏)との養子縁組を解消して島津氏本家に呼び戻さざるを得なくなる程、島津氏肝付氏との戦いで苦戦しました。永禄5年(1562年)には日向国志布志(現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を、豊州家(豊州島津氏)第5代当主・島津忠親から肝付兼続が奪い、肝付氏勢の最大版図となりました。その後の島津氏肝付氏との間の抗争史について詳しくは当画面(当ページ)下方の高山城紹介欄でご参照可能ですが、名将・肝付兼続の没後、肝付氏の運命は徐々に傾いていきました。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏,  九州 ・ 武家家伝 肝付氏,ならびに武家家伝 禰寝氏によれば、元亀2年(1571年)11月には、伊地知氏第9代当主・伊地知重興は、肝付氏第18代当主・肝付兼亮禰寝(ねじめ)氏第16代当主・禰寝重長と連合し、海軍(水軍)を率いて薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)沿岸に侵攻し、帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)竜ヶ水(今日のJR九州 ・ 日豊本線 ・ 竜ヶ水駅所在地は帖佐がある鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域ではなく、鹿児島県 ・ 鹿児島市)を攻めましたが、島津氏方の平田歳宗らが防衛に成功して、肝付氏側は退いたとの由です。これに対して、元亀4年(1573年)に、大隅国平定のためには禰寝氏と和睦する必要性を感じた島津氏からの働きかけもあり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 禰寝重長によれば、禰寝重長は元亀4年(1573年)に、(肝付氏とは別に)単独で島津氏第16代当主・島津義久公と和睦してしまったとの由です。詳しくは当画面(当ページ)下方の
富田城紹介欄で述べたとおり、肝付兼亮は直ちに元亀4年/天正元年(1573年)中に、再び島津氏麾下に転じた禰寝重長領の禰寝院に攻めみましたが、島津義久公が派遣した援軍の協力を得て、禰寝重長肝付氏勢を撃退したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 禰寝重長,  喜入季久,ならびに播磨屋 Part2 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏によれば、翌天正2年(1974年)にも肝付兼亮は、伊地知重興,  日向国伊東氏と共に、禰寝院に攻め込んだとの由です。島津氏は、島津氏の異姓庶流の家臣・喜入季久,  猿渡氏 ,  平田氏等を援軍として派遣し、島津氏 ・ 禰寝氏連合軍は、肝付氏 ・ 伊地知氏 ・ 伊東氏連合軍を挟み撃ちにして敗走させることに成功したとの由です。なお、播磨屋 Part2 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏では、2013年9月参照時現在、この時の肝付氏側の武将は肝付兼続であることになっていますが、この時点で肝付兼続は既に死んでいるのでこれは誤記であり、正しくは肝付兼亮のことと考えます。
  一方、話は前後しますが、伊地知氏の垂水の北隣りにある大隅国 大隅郡牛根(現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「牛根境(この辺り(地図)),牛根麓(この辺り(地図)),二川(この辺り(地図))」)では、肝付兼続が天文の末(1555年)に、一族の安楽備前守兼寛を
牛根城(入船城)に配置していました。島津氏は、この元亀4年/天正元年(1573年)に、この牛根城(入船城)にも攻めて来ました。お城の旅日記 ・ 大隅 入船城等によれば、上述の安楽兼寛が牛根城(入船城)を、1年3ヶ月に及ぶ籠城戦で島津氏の攻撃に耐えて守っていたとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば、 によれば、肝付氏に従っていた伊地知重興は、牛根城(入船城)に近い大隅国 大隅郡小浜(おばま;現・鹿児島県 ・ 垂水市大字(おおあざ)「海潟」字(あざ)「小浜(この辺り(地図))」)の小浜の塁(小浜城)に一族の伊地知美作守重矩を入れて、最寄りの早崎塁(早崎城)と結ぶ防御線を布いていたとの由です。小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)は、地理的に最寄りの牛根城(入船城)と連携した防衛ラインです。この防衛ラインは強固でした。元亀3年(1572年)9月に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公が、弟で大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の吉田城松尾城城主の島津歳久公を派遣して、小浜の塁(小浜城)攻めを開始しました。なお、天正2年(1574年)1月に落城した牛根城(入船城,松ヶ城)について、お城の旅日記 ・ 大隅 入船城に「1年3ヶ月に及ぶ籠城線の後」という記述が載っており、各城・塁が連携していたことと併せて逆算すれば、小浜の塁(小浜城)攻めを開始した時点で、牛根城(入船城,松ヶ城)攻めも始まっていたことになります。
  鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・  鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第50集 西藩烈士干城録(二)(PDF版)p.38,  国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 : 60巻. 15(巻之43-45)コマ番号41-42,57,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (1) 早崎・咲花平によれば元亀3年(1572年)9月に、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば元亀4年/天正元年(1573年)7月に、島津勢は
小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)とを落としたとの由です。小浜の塁(小浜城)早崎塁(早崎城)の落城時期について、「元亀3年(1572年)9月落城説」と「元亀4年/天正元年(1573年)7月落城説」のいずれが史実どおりであるにせよ、元亀3年(1572年)9月の島津氏による小浜の塁(小浜城)紹介欄攻め開始後、元亀4年/天正元年(1573年)7月までの間、小浜の塁(小浜城)紹介欄近辺で戦線が膠着した模様です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 伊地知氏によれば、島津義久公による上述の禰寝重長への和平工作は、小浜の塁(小浜城)を攻めあぐねてのことであるとの由です。しかし、垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ 入船城決戦によれば、早崎塁(早崎城)小浜の塁(小浜城)については兵糧・兵器・兵員の消耗が激しくなったため、ついに伊地知美作守重矩は脱走して落ち延びざるを得なくなったとの由です。この記述内容は、先述の「小浜の塁(小浜城)(と早崎塁(早崎城))の落城タイミングの2説」に関しては、「元亀3年(1572年)9月落城説」の方が史実である場合には「小浜の塁(小浜城)からではなく、小浜の塁(小浜城)近辺の降着した戦線からの離脱だ」ということになり、「元亀4年/天正元年(1573年)7月落城説」の方が史実どおりである場合には、「小浜の塁(小浜城)からの離脱だ」ということになります。いずれにせよ、その結果、牛根城(入船城)は孤立しました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 新納忠元,  播磨屋 Part2 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 肝付氏,  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏,ならびに垂水市立松ヶ崎小学校ホームページ ・ 松ヶ崎の歴史 ・ (6) 入船城跡によれば、薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城城主で島津氏家臣の新納忠元が自らの身柄を人質として差し出した等の経緯の結果、1年3ヶ月に及ぶ籠城線の後、天正2年(1574年)に、安楽兼寛は島津氏と和睦して開城してしまったとの由です。
  この結果、伊地知氏第9代当主・伊地知重興も、禰寝氏と同様に、島津氏に降伏して、島津氏家臣になったとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏,ならびにMottyの旅日記 ・ 垂水城によれば、伊地知重興は、降伏の際に所領の大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の
田上城地図,  高城地図,  新城地図等を差し出し、垂水本城(下之城)のみを安堵されたとの由です。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏には、降伏後に伊地知重興が安堵された城は下之城3,800石として載っていますが、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 本城跡によれば、垂水本城の別名が下之城であったとの由であり、実は同じ城です。このように、肝付氏方の大隅国有力国人が相次いで島津氏方になってしまったため、肝付氏は勢力を急激に失ってしまったとの由です。上述の各参照先ホームページや、島津修久島津義弘の軍功記 増補改訂版』(島津顕彰会発行,2000)p.122の年表等によれば、この情勢下に肝付兼亮は、ついに同年・天正2年(1574年)に、島津氏に降伏して、一旦は1万石で存続したとの由です。このような経緯の結果、島津氏は天正2年(1574年)に、念願だった大隅国の完全な平定に成功しました。なお、詳しくは当画面(当ページ)下方の高山城紹介欄で解説した経緯のため、肝付氏は第19代当主・肝付兼護の代の時の天正5年(1577年)に、この残った1万石の領地を失って本城の高山城だけが安堵される状況に陥り、さらに天正8年(1580年)には高山城さえも没収されてしまったとの由です。
  話を伊地知氏に戻せば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知重興によれば、島津氏の家臣になってから後の伊地知重興豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)の
大友氏館地図城主・大友氏攻め等で活躍したとの由です。戦国時代から安土桃山時代にかけての島津氏大友氏との間の合戦と申せば、天正6年(1578年)に日向国 ・ 児湯(こゆ)郡新納(にいろ)院(現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町)の高城(新納院)地図の周辺で行われた耳川の戦い(古戦場に残る供養塔で場所を示せば宗麟原供養塔解説)と、天正14年12月12日(1587年1月20日)に豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)南方の戸次川(へつぎがわ;現・大野川)で行われた戸次川の戦い(古戦場に残る長宗我部信親の墓ので場所を示せはここ(地図))等の豊臣秀吉による九州征伐(九州平定)の過程での合戦とが知られていますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知重興によれば伊地知重興が没したのは天正8年(1580年)のことであり、戸次川の戦いが行われた天正14年12月12日(1587年1月20日)には既に死亡後でした。したがって、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知重興に載っている大友氏攻めのとは、そのタイミングから、天正6年(1578年)の耳川の戦いのことを指すものと推測します。
  播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、伊地知重興の孫・伊地知重順は、島津氏家臣として、天正9年(1581年)の相良氏との戦いで初陣としたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 相良義陽によれば、天正9年(1581年)の島津氏相良氏との戦いとは、天正9年(1581年)に、相良義陽領の肥後国  葦北郡水俣(現・熊本県 ・ 水俣市)の
水俣城地図を攻め落とした合戦のことと推測します。この合戦の結果、相良義陽葦北郡を割譲して島津氏に降伏して島津氏麾下に属しました。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、天正12年(1584年)には伊地知重順は、肥後国堅志城攻めに参加したとの由です。これは島津氏阿蘇氏との間で行われた阿蘇合戦における個別の合戦のことであり、「堅志城」とあるのは恐らくは誤記であり、肥後国  下益城郡にあった堅志田城地図のことと推測します。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、天正14年(1587年)には大友氏征伐陣に加わって豊後国に攻め込んだとの由ですが、これは上述の豊後国府内(現・大分県 ・ 大分市)南方の戸次川(へつぎがわ;現・大野川)で行われた戸次川の戦い(古戦場に残る長宗我部信親の墓ので場所を示せはここ(地図))等の豊臣秀吉による九州征伐(九州平定)の過程での合戦とが知られていますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 伊地知重興によれば伊地知重興が没したのは天正8年(1580年)のことであり、戸次川の戦い等の合戦のことであろうと思います。文禄2年(1593年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際には、船奉行を勤めたとの由です。
  上述のとおり、伊地知重順は島津氏家臣として武功を重ねました。ところが、播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、帰国後、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)文禄の役における罪を咎(とが)められて、領地没収になってしまったとの由です。その罪が何かについては不明であるとの由ですが、この結果、伊地知氏は、唯一残った
垂水本城(下之城)さえも失ってしまいました。播磨屋 ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊地知氏によれば、伊地知重順は慶長6年(1601)に場所が采配地500石を賜ったとの由です。采配地の場所は分かりません。江戸時代には伊地知氏薩摩藩士(島津氏家臣)として存続し、伊地知重直の代の時に嫡流は秩父氏に復して「嫡流は秩父氏を、庶流は伊地知氏を名乗る」時期があったとの由ですが、さらに後年、嫡流の苗字も伊地知氏に再び戻ったとの由です。薩摩藩士として存続したため、嫡流・庶流の区別は存じ上げませんが、後年、幕末 ・ 明治維新期や明治時代に活躍した薩摩藩出身の政治家・軍人に伊地知氏出身の偉人が散見されます。例えば、明治維新の志士の中の1人・伊地知正治,  日露戦争時の大日本帝国海軍 連合艦隊 旗艦戦艦三笠」艦長の軍歴で知られる、最終階級で申せば伊地知彦次郎海軍中将,  日露戦争旅順攻略(旅順攻囲戦)の際の大日本帝国陸軍, 第3軍, 参謀長だった、最終階級で申せば伊地知幸介陸軍中将等が、伊地知氏の末裔です。
  天正2年(1574年)に伊地知氏第9代当主・伊地知重興島津氏に降伏してから後の伊地知氏の歴史について数段落に渡って述べて参りましたが、この降伏後の地域の歴史について申せば、大隅国垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の地頭や、伊地知重興が差し出した
田上城地図,  高城地図,  新城地図の各城主が、降伏直後の時期に誰であったかは、残念ながら存じ上げません。ですが、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば文禄4(1595年)に川田氏が地頭として垂水に赴任したとの由です。川田氏は比志島氏の一族であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 川田義朗によれば、川田義朗が垂水地頭を勤めた旨が載っていますので、上述の川田氏とは具体的には川田義朗のことと推測します。この川田義朗の垂水地頭地頭就任年・文禄4(1595年)は、上述の伊地知重順が文禄・慶長の役(朝鮮出兵)文禄の役における罪を咎(とが)められて領地を没収されたという文禄の役よりも後のタイミングのことになりますので、川田義朗の統治領域には、かつて伊地知重興が差し出した諸城の領域だけに止まらず、垂水本城(下之城)の領域も含まれるものと推測します。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、川田義朗が入った城は垂水本城(下之城)ではなく、垂水城であったとの由です。
  鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、慶長4年(1599年)に島津忠将日新斎島津忠良公の次男で、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟)の子で、島津四兄弟(島津氏宗家第16代当主・島津義久公・島津義弘公・島津歳久公・島津家久公)にとっては従兄弟である島津以久(島津征久)が、種子島から垂水に所領替えになり、以降、久敏まで3代の居城になったとの由ですので、この時以降、大隅国垂水は、垂水地頭として、島津以久(島津征久)の系統の垂水島津家の所領になりました。垂水島津家は上記の島津忠将に始まる家系で、一時期は大隅国国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の
国分清水(きよみず)城城主であり、島津氏宗家に近い庶流の家として、戦国時代島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦で島津氏宗家を助けて多いに武功を挙げた家ですが、詳しくは当画面(当ページ)上方の林之城(林城)・お長屋紹介欄や当画面(当ページ)下方の新城(しんじょう)島津家墓地紹介欄で解説したとおり、安土桃山時代末期から江戸時代初期の時期においては、島津以久(島津征久)の孫で当時の垂水島津家当主・島津信久(忠仍,久信)が、島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主の島津忠恒(家久)公にとって島津氏宗家の家督争いのライバルになった経緯もあり、島津氏宗家との関係が微妙だった時期もある家です。上記のとおり鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷には「(垂水城は)3代の居城」という表現がありますが、その記述内容で最後の城主とされる島津久敏は島津以久(島津征久)の曾孫であって孫ではなく島津以久(島津征久)から数えて4代目ですので、一見、「3代」だと世代数が合わないと思われるかも知れません。この理由は、島津以久(島津征久)の嫡子・島津彰久は、島津以久(島津征久)が垂水の領主になる以前の文禄4年(1595年)に、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)文禄の役で、唐島(巨済島)で陣没してしまったからです。後年、島津以久(島津征久)自身が日向国佐土原(さどわら;現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域佐土原藩初代藩主として佐土原城地図に移って、島津以久(島津征久)の子孫が佐土原藩主家と垂水島津家とに分かれたこともあり、垂水島津家の代の数え方は、一度も垂水を領したことが無かった島津忠将島津彰久、一旦は垂水を領したが晩年には日向国佐土原に移っていて垂水島津家ではなかった島津以久(島津征久)のいずれを初代として数えるかによって、複数の起算方法があります。
  鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、
垂水城の廃城時期は慶長16年(1611年)であり、廃城後の垂水島津家の垂水での館は、領主館(林之城(林城))に移ったとの由です。垂水本城(下之城)田上城地図,  高城地図,  新城地図の廃城時期は存じ上げませんが、どんなに遅くとも、この垂水城廃城時期・慶長16年(1611年)か、或いは、江戸幕府によって一国一城令が出された慶長20年(1615年)までには廃城になった筈(はず)です。
  江戸時代薩摩藩では、一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城(とじょう)制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。大隅国垂水郷においては、戦国時代の垂水の政治・軍事の中心は、この
垂水本城(下之城)でしたが、上述のとおり安土桃山時代から江戸時代にかけての時期に垂水郷の政治・軍事の中心が垂水城を経て林之城(林城)に移ったため、垂水垂水本城(下之城)には設けられませんでした。林之城(林城)は山城ではなく、武家屋敷群における地頭仮屋(御仮屋)自体であるため、「林之城(林城)が麓にある」山城跡の存在が想定可能です(ただし、後詰めの城山が存在しない場合を除く)。垂水の場合には、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースには、林之城跡(林城跡)の場所である林城跡のすぐ北側に、林城跡とは別して林之城跡 という中世の城郭遺構が載っており、中世の林之城跡の場所(リンク先は地図)は今日では「城山団地」という団地になっていることから「城山」であった旨が分かりますので、近世の林之城(林城)は、中世の山城・林之城跡の麓に設けられた、言い換えれば中世の山城・林之城跡の山が近世の林之城(林城)の後詰めの山城であったことが窺えます。この中世の山城・林之城跡については、調べてみましたが、詳しいことはよく分かりませんでした。なお、大隅国垂水においては、上述の「林之城(林城)地頭仮屋(御仮屋)とする垂水」以外にも、松尾城地図の麓に「新城(しんじょう)」が設けられました。新城については、当画面(当ページ)下方の新城島津家墓地紹介欄で、ご参照いただけます。
  公共交通機関での行き方・アクセスは、2013年10月現在、最寄りのバス停はありませんので、垂水市中心部からタクシーか、或いは、垂水市中心部から2kmあるかないかの距離ですので、健脚の方ならばウォーキングと兼ねて垂水市中心部から徒歩になります。垂水市中心部へは、JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗り、例えば「垂水港」バス停(地図)等のバス停で下車すれば、垂水市中心部です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  宮崎市都城市等の宮崎県方面からお越しの方は、JR九州 ・ 日豊本線鹿児島中央駅地図)方面行きの列車に乗れば、上記の国分駅地図)に行くことができ、ここで上記の路線バスに乗り換えることができます。2013年10月現在国分駅地図)は特急停車駅です。
  空路でお越しの方は、2013年10月現在鹿児島空港地図)から、上述の「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗り、「垂水港」バス停(地図)等のバス停で下車すれば、垂水市中心部です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  2013年10月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)や鹿児島市の中心繁華街・天文館から、鹿児島港鴨池フェリーターミナル(地図)から鴨池・垂水フェリー垂水市中心部に行く方法もあります。フェリーに乗る直行バスもあります。「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の「鹿児島中央駅前」バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で降りるか、或いは、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の「鹿児島中央駅駅前」バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通や、鹿児島市交通局の複数の路線の路線バスで「鴨池港」バス停(地図)に行き、鴨池港から鴨池・垂水フェリーに乗って垂水港(地図)で下船するかすれば、垂水市中心部です。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。)

新城(しんじょう)島津家歴代の墓(浄珊寺(じょうさんじ)跡)の場所(この辺り),  感王寺跡・新城様の墓の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市新城,Tel.:0994-32-1111(垂水市役所)。場所の目印としては、鴨着く島(ブログ) ・ 新城麓界隈(垂水市新城)によれば、昭和62年(1987年)に廃線になった旧国鉄 ・ 大隅線新城駅(しんじょうえき)跡地の「新城鉄道記念公園」(地図)の裏の山麓にあり、2009年8月現在、新城島津家墓地ですが、「末川家の墓」という案内標識が立っているので、それが目印になるとの由です。なお、「末川家」とは、歴史作家・桐野作人氏の公式ブログ・膏肓記 ・ 『鹿児島県史料』2点によれば(リンク先URLは2011年12月現在)、新城島津家明治になってからの名乗りであるとの由です。詳しくは後述する新城島津家が一時期断絶していた時期に、島津久章の遺児・島津忠清が一時期名乗っていた苗字が「末川姓」だったり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貴儔によれば、垂水島津家9代目当主の島津貴儔の次男で末川姓を称した人物がいたりしたので、新城島津家も含む垂水島津家系統の家では、島津の苗字を名乗れない分家の場合に「末川姓」が使われるのは通例であった様子が窺えますが、れっきとした一所持の家格を誇る島津氏庶流の新城島津家が、明治になった後で「末川姓」を名乗るようになった理由は不明です。
  新城島津家墓地ならびに新城様の墓については、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも浄珊寺跡(新城島津家歴代の墓),  感王寺跡・新城様の墓として、たるみずinfo(垂水市観光協会)でも新城島津家として(リンク先URLは2013年8月現在)鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第三回 大隅国・肝属郡・新城郷および花岡郷の中で、鴨着く島(ブログ)でも新城麓界隈(垂水市新城)の中で紹介されています。新城麓については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも新城麓として、鹿児島みてある記−歴史散歩−でも2008 新城麓として、街並みめぐりでも新城として、鴨着く島(ブログ)でも新城麓界隈(垂水市新城)の中で紹介されています。
松尾城地図については、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも松尾城跡として、でも大隅 垂水松尾城として、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第三回 大隅国・肝属郡・新城郷および花岡郷の中で、城郭放浪記でも鹿児島県垂水市のお城一覧の中で紹介されています。また、新城島津家初代・島津久章の悲劇については、歴史作家・桐野作人氏の公式ブログ・膏肓記でも新城家・島津久章の横死として(リンク先URLは2011年12月現在)南日本新聞公式WEBサイト ・ さつま人国誌でも新城家・島津久章の横死として(リンク先URLは2011年12月現在)鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも第三回 大隅国・肝属郡・新城郷および花岡郷の中で紹介されています。
  
新城(しんじょう)島津家歴代の墓(浄珊寺跡)は、新城島津家の墓地であり、感王寺跡・新城様の墓は、新城島津家初代当主・島津久章(ひさあきら)の祖母で新城島津家がその所領を継承した、島津新城(玉姫)の墓です。新城島津家江戸時代島津氏庶流の家であり、薩摩藩では一所持という重臣の家格の家です。一所持とは、薩摩藩の地方軍事・行政制度である外城(とじょう)制における地方行政区画「郷(ごう)」の支配する地頭に関して、地頭の内、「郷」に派遣された庁の行政官としての地頭ではなく、私領主として地頭として「郷」を支配することを認められた地頭の家です(注:薩摩藩外城制における地頭は、鎌倉幕府室町幕府荘園支配のために設けた地頭とは意味が異なります。誤解を避けるべく念のため)。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第三回 大隅国・肝属郡・新城郷および花岡郷,ならびに鴨着く島(ブログ) ・ 新城麓界隈(垂水市新城)によれば、新城島津家歴代の墓の場所である、かつての浄珊寺(じょうさんじ)は、元々は、後述する新城様(島津新城(玉姫))が亡父の島津氏宗家第16代当主・島津義久公の法号(戒名)から貫明寺という名前の寺として創建したとの由ですが、新城様(島津新城(玉姫))亡き後は、新城様(島津新城(玉姫))の法号(戒名)を用いて浄珊寺と改名したとの由です。残念ながら廃仏毀釈の結果、新城様(島津新城(玉姫))の墓がある感王寺と共に廃寺になってしまい、今日では墓だけが残っていますが、存続していた時期の浄珊寺は、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)の福昌寺の末寺であり、曹洞宗の寺院であったとの由です。浄珊寺は、新城郷の総廟である神貫神社(江戸時代の名称は「神貫大明神社」)地図の東側にあったとの由です。
  南日本新聞公式WEBサイト ・ さつま人国誌 ・ 新城家・島津久章の横死(リンク先URLは2011年12月現在)川口素生島津一族 無敵を誇った南九州の雄新紀元社,2011)pp.209-210等によれば、新城島津家とは、垂水島津家4代目の島津信久(忠仍(ただなお),久信)の次男・島津久章(ひさあきら)が垂水島津家からの分家を認められて、後述する島津新城(玉姫)の化粧料の領地・大隅国新城(現・垂水市新城)3,700石を与えられて興した家です。島津信久(忠仍,久信)は、島津氏宗家第16代当主・島津義久公の次女・島津新城(玉姫)が、垂水島津家島津彰久に嫁いで生まれた、島津義久公の外孫であり、大隅国垂水(現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の私領主として
林之城(林城)にいました。この島津新城(玉姫)は化粧料として、この大隅国新城の地3,700石を与えられていましたので、「新城様」と呼ばれていました。
  安土桃山時代後半から江戸時代にかけての島津氏は、義久公に男の子供が生まれなかったため家督相続問題が起きていました。結果としては、義久公の三女・亀寿の夫であり、かつ島津義弘公の子である島津忠恒(家久)公が家督を相続して、島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になるのですが、この家久(忠恒)公は亀寿と仲が悪く江戸時代版「仮面夫婦」状態で跡継ぎが生まれない状況でした。義久公は当然、自分の血を受け継ぐ者に後を継いで貰いたいため、後継者問題が生じた訳です。ここで、上述の島津信久(忠仍,久信)は義久公の外孫だったため、家久(忠恒)公の対抗馬と化したのでした。
  家督相続問題は結局、権力闘争に家久(忠恒)公が勝ち抜いたことで決着し、また、仲が悪い「仮面夫婦」・家久(忠恒)公と亀寿との間に子がない「御家断絶リスク」の問題は結局、義久公の没後に、家久(忠恒)公が側室に複数の子供を産ませたことで、決着しました。また、家久(忠恒)公の次男で後に島津氏宗家第19代当主(兼)薩摩藩2代目藩主となる島津光久公は世子時代、亀寿の養子となることで、実父の家久(忠恒)公からだけでなく、義母からも直接的に、義久公〜亀寿経由で島津氏宗家当主の座を継承するためのレジティマシー(正統性)を継承しました。どうやらこの時期、島津氏宗家当主の座を継承するためのレジティマシー(正統性)亀寿が保持していた模様であり、島津光久公にとっては、島津家久(忠恒)公の嫡子であるというだけでは、薩摩藩 藩主となるためのレジティマシー(正統性)しか得られないリスクがあり、島津氏宗家当主の座を継承するための方のレジティマシー(正統性)は、亀寿の養子になることによって得られた可能性があり得ます。なお、光久公の実母は島津氏庶流の薩州家島津忠清の長女・心応夫人であり、その忠清の実母は義久公の長女(つまり、亀寿の姉)である御平島津義虎夫人)であるため、家久(忠恒)亀寿の不仲にもかからわず、実は義久公の血統は御平経由で島津氏本宗家に継承されました。
  上述のように島津信久(忠仍,久信)側の系統は「血統上は家久(忠恒)公に劣らない」旨の意識が相当に強かった家であり、当然、薩摩藩内では「御家騒動の原因になりかねない家」でした。島津信久(忠仍,久信)は、寛永14(1637)年5月11日に毒殺されて非業の死を遂げますが、誰の命令によるものかは定かになっていないとの由です。とは申せ、当初は、新城島津家初代の島津久章は、家久(忠恒)公の娘を嫁に貰い、家久(忠恒)公にとっては外孫となる嫡男の誕生時には家久(忠恒)公が祝福した等、家久(忠恒)公との関係は良かった模様です。しかし、家久(忠恒)公没後の薩摩藩2代目藩主の島津光久公の時代になると、義久公を起点とすれば光久公よりも血統は良いとさえ言える島津久章は、心に変調をきたすようになったと後世、言われています。島津久章は、寛永17年(1640年)に藩主で義兄の光久公から命じられた徳川家光公への年頭御礼の使者業務にの際に病気を理由にして拝謁せず、しかも帰路に京都で出奔して行方不明と化す事件を起こしてしまいました。拝謁忌避は薩摩藩の叛意を江戸幕府から疑われかねないの存続の危機をもたらしかねない問題を引き起こしたと言えるでしょうし、勝手な逃亡は、が行政組織だけでなく軍事組織でもある以上は戦時だったら軍令違反や敵前逃亡に相当する命令違反であり、死刑にも相当する大罪であると言えるでしょう。
  捜索の結果、島津久章は、
高野山での島津氏菩提寺・蓮金院に隠れている所を発見されて、強制的に連れ戻されました。南日本新聞公式WEBサイト ・ さつま人国誌 ・ 新城家・島津久章の横死によれば(リンク先URLは2011年12月現在)、「末川家文書」に、(久章にはかねてから)「遁世の志があったが、この度、将軍家光への御目見(おめみ)が果たせなかったことを悔やみ、鬱胸(うっきょう)のあまり道心(出家願望)を起こした」旨の記載があるとの由です。島津久章は連れ戻された後、薩摩国川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の宝福寺(通称・山之寺;後に廃寺)に蟄居を命じられた後、薩摩国谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 ・ 谷山地域)にあった清泉寺(後に廃寺)に移された後で、遠島を命じられて取り囲まれて上位を告げられた際に武力抵抗し、殺害されたとの由です。このため、新城島津家は一旦は断絶してしまいました。
  川口素生島津一族 無敵を誇った南九州の雄新紀元社,2011)pp.209-210によれば、その後、島津久章の遺児・島津忠清が、垂水島津家第5代当主・島津忠紀(ただのり;家久(忠恒)公の七男)の義弟になることによって、垂水島津家分家たる新城島津家第2代当主となって再興されました。この島津忠清は、母系では上述のとおり家久(忠恒)公の外孫であり、光久公の甥ということになります。その後の新城島津家当主は、第3代久侶が光久公六男 第4代久茂が光久公十七男と、相次いで光久公の実子が家督を相続しました。同書p.209によれば、幕末・安政2年(1855年)の新城島津家の石高は1,654石であったとの由です。
  前述の外城(とじょう)制とは、江戸時代に、江戸幕府一国一城令の実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる薩摩藩の地方軍事・行政制度です。「郷」と呼ばれる地方行政区域ごとに「『外城』,後に『麓』と改称」と呼ばれる武家集住地域(武家屋敷群)を設けて、「郷」単位の地方の軍事・行政の拠点としていました。各外城(麓)を統治する地頭には、私領主として代々「郷」を統治することを認められた一所持という重臣の家格の家臣がなる場合と、薩摩藩藩庁から藩官僚として派遣される場合とがあり、先述のとおり、新城は新城島津家が私領主として代々統治した外城(麓)でした。各武家屋敷群は、中世の山城の麓に設けられる場合が多く、言い換えれば、中世の山城跡が有事には武家屋敷群の後詰めの山城になるという設計が行われていました。新城が麓にある山城は、そのの名称から推測すれば、一見、
新城地図の麓に成立したように思えますが、実はそうではありません。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 新城麓によれば、新城松尾城地図の麓に設けられたとの由です。松尾城地図の地図上の位置は、上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 松尾城跡ならびに城郭放浪記 ・ 鹿児島県垂水市のお城一覧掲載の地図によるものです。また、新城のあった場所の内、地頭の役所(兼)屋敷である地頭仮屋(御仮屋)があった場所は、鴨着く島(ブログ) ・ 新城麓界隈(垂水市新城)の掲載写真や掲載文章と、googleマップストリートビューの画像を併せて推測すれば、恐らくはこの辺り(地図)であった模様です。鴨着く島(ブログ) ・ 新城麓界隈(垂水市新城)掲載年である2009年現在国道220号沿いのここ(地図)に、領主館跡への入り口を示す標柱が立っている模様です。
  なお、先述の
浄珊寺(じょうさんじ)感王寺は残念ながら廃寺になってしまいましたが、島津氏宗家第16代当主・島津義久公の第2夫人で新城様(島津新城(玉姫))の実母である実渓夫人を弔った寺院であり、その法号「円信院殿妙連大姉(「円信院殿実渓妙蓮大姉」とも)」から名付けたと推測可能な名称の寺院である妙蓮寺地図は、廃仏毀釈によって一旦廃寺になった後に復興して、場所が江戸時代と同じ場所か否かは不明ながら現存しているとの由です。ですが、江戸時代には法華宗日蓮宗)の寺だったものが、今日では浄土真宗本願寺派の寺になっています。このため、寺の組織として再興した訳ではなく、後に浄土真宗本願寺派がこの地に寺を建立(こんりゅう)した際に、寺の名称を継承した状況だということになります。
  
新城(しんじょう)島津家歴代の墓(浄珊寺跡)感王寺跡・新城様の墓への公共交通機関での行き方は、2013年8月現在鴨池・垂水フェリーの「垂水港」バス停(地図)で、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「垂水中央病院(地図)・垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−古江(地図)・白水体育大前(地図)・鹿屋(地図)・串良(地図)経由−志布志港入口 (地図)」,  「垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−高須(地図)経由−鹿屋(地図)」,  「垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−古江(地図)・坂元(地図)・大根占(地図)経由−根占(ねじめ;地図)」等の路線バスに乗り、「新城大浜」バス停(地図)下車、徒歩です。これらの路線バスの起点になる鴨池・垂水フェリー・垂水港へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で下車するか、或いは、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の「鹿児島中央駅駅前」バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通や、鹿児島市交通局の複数の路線の路線バスで「鴨池港」バス停(地図)に行き、鴨池港から鴨池・垂水フェリーに乗って垂水港に行くかすれば、行けます。或いは、桜島フェリーで桜島港(地図)に一旦渡った上で、桜島港(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の上述の「桜島港(地図)−桜島病院・文学碑前・桜島口・海潟・垂水中央病院経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗っても、「垂水港」バス停(地図)に行けます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バスのバス路線に乗れば、「垂水港」バス停(地図)に行けます。例えば宮崎市都城市など宮崎県方面からお越しの方は、JR九州 ・ 日豊本線国分駅地図)から、「鹿児島空港地図)−姫城温泉国分駅地図)・検校橋経由−垂水港(地図)」の空港アクセス・バス、或いは「国分駅前(地図)−検校橋経由−垂水港(地図)」路線の路線バスに乗れば、「垂水港」バス停(地図)に行けます。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  ご宿泊には、垂水市の宿泊施設は、
【楽天トラベル】鹿児島県垂水市の宿泊施設検索結果で、お探しいただけます。また、併せてお楽しみいただいたり、温泉宿の場合にはご宿泊可能な垂水市の温泉地・温泉施設には、海潟温泉江洋館等)、垂水温泉ベイサイドホテル アザレア等)、浜平温泉別館 江洋館等)、道の駅 たるみず猿ヶ城温泉等の垂水市温泉郷があります。垂水市温泉郷の温泉の中には、入浴するだけでなく、例えば財寶温泉のような飲む温泉水のペットボトル商品もあります。
  2013年10月現在垂水市にある江戸時代 ・ 薩摩藩島津氏庶流の名門・垂水島津家、ならびに、そのさらに庶流の新城(しんじょう)島津家に関する歴史観光スポットには、
垂水文行館(旧・垂水島津館),  垂水島津家墓地,  林之城跡(林城跡)・お長屋,  新城島津家墓地等があります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

垂水温泉郷,  海潟温泉,  猿ヶ城温泉などの垂水市の温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 垂水温泉郷欄でお探しいただけます。
(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 垂水温泉郷欄

垂水市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】垂水温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧
【楽天トラベル・ANA楽パック】キーワード「鹿児島県垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・JAL楽パック】キーワード「鹿児島県垂水市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、垂水市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。



当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域




鹿屋市(かのやし)>

鹿屋市ホームページ

リナシティかのや 鹿屋市市民交流センター 情報プラザ
(観光・物産情報も載っています。)

鹿屋市観光協会

鹿屋市商工会議所 ・ イベント&観光

鹿屋市
(リンク先はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のサブ・コンテンツ。2006年1月1日に、旧鹿屋市,  肝属郡吾平町(あいらちょう),   串良町,  曽於郡令制国制度時期は「囎唹郡」)の 輝北町が市町村合併して成立しました。)

鹿児島県鹿屋市の観光案内です。是非一度お越し下さい!
(リンク先は鹿児島県鹿屋市のすし処 栄楽寿司のサブ・コンテンツ。)

鹿屋・大隅 情報Box
(鹿屋市にある会計事務所による、情報発信サイト。串良平和公園の桜開花情報等の日記記事があります。

(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄


鹿屋市かのやし)の平成の大合併前の市町村ごとの、当画面(ページ)内の目次
鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域





<鹿屋市・旧鹿屋市エリア>

かのやばら園公式ホームページ
(上記の他に公式的ホームページとしては、鹿屋市ホームページでも、ばらのまち かのや ポータル(霧島ヶ丘公園・かのやばら園)として紹介されています。2006年レベルアップしたグランド・オープン時点で日本一のバラ園ですアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、かのやばら園の場所のとおり。住所:鹿児島県鹿屋市浜田町1250、Tel.:0994-40-2170。この他、楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でもかのやバラ園として、MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でもかのや霧島ヶ丘公園・かのやばら園として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもかのやばら園として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでもかのやばら園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。かのやばら園は、霧島ヶ丘公園の中にあります。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

霧島ヶ丘公園(ばらのまち かのや ポータル(霧島ヶ丘公園編))
(リンク先は鹿屋市ホームページ ・ ばらのまち かのや ポータル(霧島ヶ丘公園・かのやばら園)のサブ・コンテンツで公式WEBサイト。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図で場所を示せば、霧島ヶ丘公園の場所のとおり。住所:鹿児島県鹿屋市浜田町1250、Tel.:0994-40-2170。MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でもかのや霧島ヶ丘公園として、全国旅そうだんでも霧島ヶ丘公園展望台として、じゃらんnetでも霧島ヶ丘公園展望台として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも霧島ヶ丘公園,  霧島ケ丘公園(シンボルタワー)として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも霧島ヶ丘公園として(リンク先URLは2011年11月現在)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも霧島ヶ丘公園として紹介されています。霧島ヶ丘公園内にかのやばら園があります。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

鹿屋市観光物産総合センター
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。鹿屋航空基地史料館に、「併設」と言えるまでに隣接しており、鹿屋航空基地史料館に屋外展示された航空機を見ながらくつろげる休憩室もあります。鹿屋市観光協会所在地でもあり(ただし、2010年8月現在)、観光情報収集にも便利です。鹿屋市観光協会所在地でもあるため、鹿屋市観光協会公式WEBサイトが公式ホームページであるのですが、2010年8月現在楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県鹿屋市観光物産総合センター紹介ページの方が地図情報等で分かり易いです。MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でも鹿屋市観光物産総合センターとして、鹿屋市観光協会ホームページでも鹿屋市観光物産総合センターとして(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

エアメモ・バナー234x60Aエアー・メモリアル in かのや公式WEBサイト
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、鹿屋航空基地の地図のとおりです。毎年春、4月または5月に開催されます。お問い合わせは、「かのやイベント協議会」で承っているとの由であり、同イベント協議会の場所と電話番号は、「住所:〒893-0005 鹿児島県鹿屋市共栄町17番23号2F(鹿屋市役所前、旧商工会議所2F),Tel.:0994-42-6690」のとおりです(注:会場の場所とは異なります。会場は鹿屋航空基地ですので、基地内の鹿屋航空基地史料館の住所で住所を示せば、「鹿児島県鹿屋市西原3-11-2」です)。鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもエアーメモリアルinかのやとして(リンク先URLは2011年11月現在)フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」でも鹿屋航空基地の中で、また、海上自衛隊鹿屋航空基地公式WEBサイトの中でも案内されています。
  なお、
海上自衛隊鹿屋航空基地で行われるイベントの内、エアー・メモリアル in かのや以外のものについては、海上自衛隊鹿屋航空基地公式WEBサイト,  自衛隊鹿児島地方協力本部自衛隊鹿児島地方協力本部公式WEBサイト等のホームページでご参照いただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

海上自衛隊鹿屋航空基地 史料館
(リンク先は海上自衛隊鹿屋航空基地公式WEBサイトのサブ・コンテンツで公式WEBサイト(リンク先URLは2010年8月現在)楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも鹿屋航空基地史料館として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋航空基地史料館として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも鹿屋航空基地史料館として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。
  
鹿屋航空基地史料館海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にある、旧日本海軍(大日本帝国海軍)から今日の海上自衛隊に至る航空史料が展示された博物館です。後述するこの基地の歴史故に、神風特別攻撃隊(特攻隊)に関する展示も行われています。また、「併設」と言える程に隣接して鹿屋市観光物産総合センターがあります。海上自衛隊鹿屋航空基地で行われるイベントの内、エアー・メモリアル in かのや以外のものについては、海上自衛隊鹿屋航空基地公式WEBサイト,  自衛隊鹿児島地方協力本部自衛隊鹿児島地方協力本部公式WEBサイト等のホームページでご参照いただけます。
  海上自衛隊鹿屋航空基地は、航空自衛隊(JASDF)ではなく海上自衛隊(JMSDF)の航空基地であり、太平洋戦争以前の戦前からある、歴史のある航空基地です。昭和11年(1936年)に日本海軍(大日本帝国海軍)鹿屋海軍航空隊が創設され、太平洋戦争末期の沖縄戦の時には、連合国沖縄侵攻を防ぐための菊水作戦における神風特別攻撃隊(特攻隊)の出撃基地となり、828名が出撃し、多くの尊い命が散華(さんげ)しました。余談ながら、特攻隊の中でも「神風特攻隊」は海軍のものに付けられた名前であり、かつ、
知覧特攻平和会館で知られる知覧にあった航空基地は陸軍(大日本帝国陸軍)の航空基地ですので、知覧特攻平和会館は「(『神風』が語頭に付かない)特攻隊」の博物館であり、鹿屋航空基地史料館は「神風特攻隊」に関しても展示している博物館だ、ということになります。鹿屋海軍航空隊の神風特攻隊出撃の模様については、城山三郎指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとくにも載っており、涙抜きには読めない「悲しい名著」です。
  戦後は、昭和25年(1950年)に警察予備隊(今日の陸上自衛隊の前身組織)鹿屋駐屯部隊が結成されて再開し、昭和29年(1954年)には海上自衛隊鹿屋航空隊と改称され、その後、海上自衛隊内での機構改革はありましたが、今日の海上自衛隊鹿屋航空基地につながっていきました。
  2011年12月現在海上自衛隊鹿屋航空基地に配置された部隊は、第1航空群第1航空隊,第1整備補給隊,鹿屋航空基地隊と、第72航空隊の鹿屋航空分遣隊,第1航空修理隊,第211教育航空隊,鹿屋システム通信分遣隊,鹿屋警務分遣隊があります。この内、第1航空群は、対潜哨戒機で哨戒を行う主力部隊です。海上自衛隊や基地やこれらの部隊に関するホームページには、公式ホームページとして海上自衛隊(JMSDF)公式WEBサイト,  YouTube JMSDF海上自衛隊チャンネル,  海上自衛隊鹿屋航空基地公式WEBサイトがあり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では鹿屋航空基地,  第1航空群,  第1航空隊(海上自衛隊)があります。
  また、特別攻撃隊(特攻隊)に関する鹿児島県内の博物館はこの
鹿屋航空基地史料館の他には、知覧知覧特攻平和会館,  南さつま市加世田市地域万世特攻平和祈念館があります。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。
  旧日本海軍からの歴史がある海上自衛隊航空基地がある都市ですので、 鹿屋市の名産品の中には、
鹿屋海軍航空カレーがあります。)

特攻慰霊塔
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも特攻慰霊塔として紹介されています。)

鹿屋市鉄道記念館
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも鹿屋市鉄道記念館として、goo旅行 ・ 国内旅行 ・ 観光ガイド ・ 鹿児島県でも鹿屋市鉄道記念館として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも鹿屋駅の中で紹介されています。)

リナシティかのや(鹿屋市民交流センター)
(鹿屋市の中心市街地活性化再開発事業でオープンした施設です。映画館「リナシアター」,  芸術文化学習プラザ,  健康スポーツプラザ,  プラネタリウムやITキッズコーナー,パソコン教室,観光物産情報コーナー等がある情報プラザ,  福祉プラザ,  観光案内所や料理店やバス待合所や鹿屋大隅地域おこし公社による観光物産情報コーナー」がある専門店・商業施設も入居しています。入居商業施設としては、イオングループマックスバリュ九州 ・ リナシティかのや店も入居しており(リンク先URLは2010年8月現在)イオングループが中心街再活性化に協力した珍しい事例になっています。アット・ニフティ@nifty ・ いつもNAVIの地図で場所を示せばリナシティかのやの場所として、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でもリナシティかのやとして紹介されています。)

王子遺跡資料館の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒893-0007 鹿児島県鹿屋市北田町11110番地1,Tel.:0994-31-1167(鹿屋市教育委員会文化財センター),0994-44-5115(鹿屋市文化会館指定管理者・株式会社まちづくり鹿屋)。開館時間:9:00〜16:00,休館日:12月29日〜1月3日。2011年11月現在、入館料は無料との由です。鹿屋市ホームページでも王子遺跡資料館(北田町)として(リンク先URLは2011年11月現在)全国旅そうだんでも王子遺跡資料館として、じゃらんnetでも王子遺跡資料館として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市王子遺跡資料館として(リンク先URLは2011年11月現在)鴨着く島(ブログ)でも王子遺跡資料館として紹介されています。
  昭和56年(1981年)〜昭和59年(1984年)の国道220号線バイパス工事に伴って発掘調査された弥生時代の遺跡・王子遺跡の出土品を展示した博物館との由です。遺跡から移設した竪穴住居跡や棟持柱付掘立柱建物跡が展示されている他、石器,甕(かめ)や壺(つぼ)などの土器,やり等の鉄製品が展示されているとの由です。)


鹿屋市小動物園の場所(この辺り?)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市向江町29-1,Tel.:0994-44-0631。開園時間:9:00〜16:30,休園日:12月29日〜1月3日,2011年11月現在、入園料無料。うさぎに実際に触れることができる小動物園で、鹿屋中央公園(地図)の施設/スポットの中の一つです。全国旅そうだんでも鹿屋市小動物園として、じゃらんnetでも鹿屋市小動物園として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市小動物園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

エディオン鹿児島鹿屋店
エディオン鹿児島の鹿屋店です(旧・鹿児島ベスト電器の鹿屋本店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。住所:〒893-0012 鹿児島県鹿屋市王子町3973-3、Tel.:0994-40-8211。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

エディオンモリ鹿屋東店
エディオン鹿児島のモリ鹿屋東店です(旧・鹿児島ベスト電器のBFSモリ鹿屋東店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。住所:〒893-0023 鹿児島県鹿屋市笠之原町5-65、Tel.:0994-42-3644。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

大海酒造協業組合
アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、大海酒造協業組合の場所のとおりです。住所:鹿児島県鹿屋市白崎町21-1,Tel.:0994-44-2190。焼酎醸造蔵元です。2011年12月現在、製造工程見学、試飲ができます(要予約)。営業時間は10:00〜16:00で、休日は8月下旬〜11月下旬との由です。鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも大海酒造協業組合として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。大海酒造の芋焼酎については、以下の楽天市場の各リンク先でお求めいただけます。)
【楽天市場】「山形屋オンラインショップ」でのキーワード「大海酒造」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)
【楽天市場】「しまづ屋楽天市場店」でのキーワード「大海酒造」の検索結果
お店のトップ画面は → 【楽天市場】しまづ屋楽天市場店((株)島津興業)
【楽天市場】キーワード「大海酒造」の検索結果


大隅湖(おおすみこ),  大隅湖右岸のアジサイ
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。高隈山県立自然公園,  おおすみ自然休養林の観光スポットでもあります。鹿屋市観光協会ホームページでも高隈山・大隅湖として(リンク先URLは2011年11月現在)MAPPLE観光ガイドでも大隅湖として紹介されています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも高隈ダムとして紹介されています。)

陶芸の里 あすか ブログ
楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でもたかくま山麓 陶芸の里 あすかとして紹介されています。MAPPLE観光ガイドでもたかくま山麓 陶芸の里 あすかとして紹介されています。)

高隈渓谷の場所
(鹿屋市にあります。高隈山県立自然公園おおすみ自然休養林の観光スポットでもあります。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市,電話:0994-31-1121(鹿屋市商工観光部観光振興課)。全国旅そうだんでも高隈渓谷として、じゃらんnetでも高隈渓谷として紹介されています。)

アジア・太平洋農村研修村(鹿児島県アジア・太平洋農村研修センター(KAPIC(カピック)センター)&鹿屋市民族館)
(公式ブログとして鹿屋市民族館〜アジア太平洋農村研修村・高隈からこんにちは〜があり、本日レイクサイドフェスティバル、開催されます〜!等の日記記事が載っています。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、アジア・太平洋農村研修村の場所のとおり。全国旅そうだんでもアジア・太平洋農村研修センターとして、じゃらんnetでもアジア太平洋農村研修村民族館として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもアジア太平洋農村研修村「民族館」,  アジア太平洋農村研修センターとして(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

鹿屋市鳴之尾牧場(メイノオボクジョウ)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿屋市有武町1305-1,電話:0994-46-3247。開館時間:9:00〜17:00(土曜日は9:00〜15:00)。休業日:12/29〜1/3、他、臨時休業日。鹿屋市の市営牧場です。鹿屋市観光協会ホームページでも鳴之尾牧場として(リンク先URLは2011年11月現在)全国旅そうだんでも鳴之尾牧場として、じゃらんnetでも鳴之尾牧場として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市鳴之尾牧場として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも鳴之尾牧場として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

グリーンカントリー高隈の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒893-0131 鹿児島県鹿屋市上高隈町重田,Tel.:0994-43-2111 。高隈渓谷にある自然環境に恵まれたバンガローです。垂水市猿ヶ城渓谷にある猿ヶ城渓谷 森の駅たるみず等と並んで、おおすみ自然休養林を楽しむ際の宿泊スポットの中の一つでもあります。
  リナシティかのやHPでもおすすめ周遊マップ「夏」 おおすみ自然休養林(高隈渓谷)の中で(リンク先URLは2011年11月現在,将来、リンク切れになったら、リナシティかのやHP内のキーワード「おおすみ自然休養林」のgoogle検索結果でお探し下さい)、全国旅そうだんでも高隈グリーンカントリーとして、じゃらんネットでも高隈グリーンカントリーとして紹介されています。)


高隈山(たかくまやま)・御岳(おんたけ)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市,Tel.:0994-31-1121(鹿屋市商工観光部観光振興課)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも高隈山地等によれば、高隈山地は、垂水市鹿屋市にまたがる複数の山から成る連山の山地であり、その内、標高1,000m以上の複数の山を総称して「高隈山」と呼ぶとの由です。この総称しての「高隈山」は、鹿児島県内では屋久島,  霧島連山に次ぐ高山群であり、社団法人日本山岳会による日本三百名山,  山と溪谷社による九州百名山に選定されています。高隈山は古くから山岳信仰の対象だったとの由で、江戸時代後期に薩摩藩が編集した、領国薩摩国,  大隅国,  日向国三国内の地誌や名所を記した文書『三国名勝図会』でも紹介されているとの由です。また、高隈山は、高隈山県立自然公園に指定されているとの由です。
  高隈山の内、鹿屋市にある御岳(おんたけ)は1,182mの山であり、標高1,236mの高隈山地最高峰の大箟柄岳(おおのがらだけ)に次ぐ高い山です。登山口は鹿屋市側にある模様であり、Hayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系の主要登山口欄によれば、御岳登山口、上祓川登山口、TV塔下登山口、鳴之尾登山口等の登山口があるそうです(ただし、縦走ではなく山単体の登山の場合の模様。縦走の場合には他の登山口もアリの模様)。林野庁ホームページ ・ 九州森林管理局 ・ 鹿児島のやまあるき ・ 大篦柄岳・御岳コースによれば(リンク先URLは2011年11月現在)、TV塔下登山口に降りる途中で鳴之尾牧場を通ることになっていますが、上述のHayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系の主要登山口欄とでは別扱いになっているため、TV塔下登山口と鳴之尾登山口の位置関係(同じか別物か、別だとしたらその位置関係はどうなっているのか、等)は不明です。また、鹿児島県の登山ガイド本としては、鹿児島山岳会鹿児島県の山山と渓谷社)があります。
  林野庁ホームページ ・ 九州森林管理局 ・ 鹿児島のやまあるき ・ 大篦柄岳・御岳コースとして(リンク先URLは2011年11月現在,将来もしもリンク切れになったら、林野庁HP内のキーワード「鹿屋市+御岳」のgoogle検索結果で掲載ページをお探し下さい)、 国土地理院ホームページ ・ GIS・国土の情報 ・ 地理に関する情報 ・ 日本の主な山岳標高でもウォッちず:高隈山<御岳> (地形図情報)として(リンク先URLは2011年11月現在)Hayato.com ・ 登山情報 南九州の山 高隈山系として、 鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま((社)鹿児島県観光連盟 + 鹿児島県観光交流局観光課)でも高隈山として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも高隈山・大隅湖として(リンク先URLは2011年11月現在)ヤマケイオンライン(山と渓谷社)でも御岳 おんたけとして、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも高隈山地として、 山どんの資料室でも高隈山 <御岳>として、 みやざきのインプレッサページでも高隈山 御岳として、 ヤマレコでも高隈山・御岳として、全国旅そうだんでも高隈山連山,  高隈ハイキングコースとして、じゃらんネットでも高隈山のミツバツツジ,ミヤマキリシマ,サクラツツジとして紹介されています。)


おおすみ自然休養林の場所(具体的には特に、グリーンカントリー高隈の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県垂水市,鹿屋市,Tel.:096-328-3541(林野庁九州森林管理局計画部国有林野管理課(在福岡))。林野庁九州森林管理局ホームページ ・ おおすみ自然休養林によれば(リンク先URLは2011年11月現在)おおすみ自然休養林垂水市鹿屋市にまたがる自然休養林であり、引用すれば「山岳と渓谷美を組み合わせた景勝の地として、登山、ハイキング、自然観賞などで多くの利用者が訪れている」との由です。「鹿児島県内では屋久島,  霧島連山に次ぐ高山群である高隈山大箟柄岳(おおのがらだけ)等)」の山系地域であり、自然休養林とは、森林浴や自然観察等を楽しんで貰うようために指定された「レクリエーションの森」の一環であるとの由です。
  
高隈山大箟柄岳(おおのがらだけ)等),  高峠つつじヶ丘公園(高峠高原),  猿ヶ城渓谷  (猿ヶ城渓谷 森の駅たるみず,  猿ヶ城温泉がある所),高隈渓谷等が見どころや名所であるとの由です。
  林野庁九州森林管理局ホームページでもおおすみ自然休養林として(リンク先URLは2011年11月現在,将来、リンク切れになったら、林野庁HP内のキーワード「おおすみ自然休養林」のgoogle検索結果でお探し下さい)、リナシティかのやHPでもおすすめ周遊マップ「夏」 おおすみ自然休養林(高隈渓谷)として(リンク先URLは2011年11月現在,将来、リンク切れになったら、リナシティかのやHP内のキーワード「おおすみ自然休養林」のgoogle検索結果でお探し下さい)、全国旅そうだんでもおおすみ自然休養林,  おおすみ自然休養林自然歩道として、じゃらんネットでもおおすみ自然休養林,  おおすみ自然休養林自然歩道として紹介されています。)


横尾岳のツツジ
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも横尾岳のツツジとして、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも横尾岳公園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

ピノキオ観光農園公式WEBサイト
リンク先URLは2011年11月現在アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、ピノキオ観光農園の場所のとおりです。住所:鹿児島県鹿屋市川東町8391-3,Tel.:0994-44-3370。全国旅そうだんでもピノキオ観光農園として、じゃらんnetでもピノキオ観光農園として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でもピノキオ農園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

荒平神社(あらひらじんじゃ)(正式名称:菅原神社)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市天神町4014、Tel.:0994-31-1121(鹿屋市役所)。海に突き出たような「天神島」という岩山の上に建立(こんりゅう)されている神社として知られ、学問の神様・菅原道真が祀られているとの由です。全国旅そうだんでも荒平神社として、じゃらんnetでも荒平神社として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも荒平神社として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市ホームページでも観光情報:歴史・文化の中で(リンク先URLは2011年12月現在)鹿児島県神社庁でも菅原神社として、ふるさと情報室 ・ ふるさと探訪記でも荒平天神として、KTS鹿児島テレビ ・ WHAT'S new KAGOSHIMA ・ NikiNiki 公開日記でもドライブ立ち寄りスポットです^^@荒平神社として、アット・ニフティ@nifty ・ @searchでも荒平天神(荒平神社)鹿屋(動画)として紹介されています。)

高須海水浴場の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市高須町、Tel.:0994-31-1121(鹿屋市役所)、営業期間:7月7日〜8月31日、料金(駐車場):300円(50台)(2011年11月現在)全国旅そうだんでも高須海水浴場として、じゃらんnetでも高須海水浴場として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも高須海水浴場として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも高須浜田海水浴場として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

浜田キャンプ海水浴場の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市浜田町下浜田、Tel.:0994-43-2111(鹿屋市役所)、営業期間:キャンプ:7月7日〜8月31日,海水浴場:7月15日〜8月31日、料金:無料、駐車場代:300円(収容台数一般車300台)(2011年11月現在)全国旅そうだんでも浜田海水浴場,  浜田キャンプ村として、じゃらんnetでも浜田海水浴場,  浜田キャンプ村として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも浜田キャンプ海水浴場として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでも高須浜田海水浴場として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

カフェテラス サンセット315の場所(この辺り)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-2313 鹿児島県鹿屋市天神町3626 、Tel.:0994-31-8211。ぐるなびでもカフェテラスサンセット315として、食べログでもカフェテラス サンセット315として、ホットペッパー(HOT PEPPER)でもカフェテラス サンセット315として、グルメGyaOでもカフェテラス サンセット315として、ほっとかごしまでも癒しの大隅の中で、照会されています。)

山形屋百貨店ギフトショップ鹿屋・外商部出張所
(先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図で場所を示せば、山形屋百貨店ギフトショップ鹿屋・外商部出張所の場所です。住所:〒893-0014 鹿屋市寿三丁目12-26 、Tel.:0994-44-5616。営業日:年内無休で、営業時間:10:00〜18:00です。山形屋百貨店の商品は、以下のリンク先のとおり、楽天市場でもお買い求めいただけます。)
【楽天市場】山形屋オンラインショップ(山形屋百貨店)


○   【楽天GORA】鹿児島県のゴルフ場一覧
○   【楽天GORA】ジェイズカントリークラブ鹿屋コース(旧:鹿児島鹿屋GC)


鹿屋市内温泉などの鹿屋市の温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄でお探しいただけます。
(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄

鹿屋市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】太平温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧
【楽天トラベル・ANA楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・JAL楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。



○  鹿屋市への行き方・アクセス(交通案内)
(当HP内の)九州新幹線乗車記,   (当HP内の)桜島フェリー乗船記
  鹿屋市へは、九州新幹線の終点・鹿児島中央駅がある鹿児島市からは、鴨池・垂水フェリー,  三州自動車大隅交通ネットワーク(旧鹿児島交通大隅地区路線))による鹿児島中央駅鹿屋間直行バス,  桜島フェリー等で行くことができます。また、鹿児島空港からは、空港連絡バスで行くことができます。また、霧島市国分市地域からは、霧島市国分市地域鹿屋市を結ぶバスで行くことができる他、この地域の路線バス等は三州自動車大隅交通ネットワーク(旧鹿児島交通大隅地区路線))が運行しています。これらの公共交通機関の時刻表は、以下のリンク先でお調べいただけます。
鹿屋市の交通の時刻表掲載ホームページ
鉄道 JR九州公式ホームページ
鹿屋市を通る鉄道路線はありませんが、例えば鹿児島中央駅まで九州新幹線で行く場合等、まずは最寄りエリアまで鉄道で行く場合の時刻表について、JR九州公式ホームページでお調べいただけます。)
バス
(路線バス等)
九州のバス時刻表

交通ナビかごしま
鹿屋市の公共交通機関について
(リンク先URLは鹿屋市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、鹿屋市ホームページ上のキーワード「公共交通機関」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鹿児島中央駅
−鹿屋間直行バス
鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ
(リンク先URLは垂水市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、垂水市ホームページ上のキーワード「鹿児島中央 鹿屋 直行バス」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス
(リンク先URLは鹿屋市ホームページのサブ・コンテンツで、2011年11月現在。将来、もしもリンク切れになりましたら、鹿屋市ホームページ上のキーワード「鹿児島中央駅鹿屋直行バス」のgoogleでの検索結果等でお探し下さい。)
鴨池・垂水フェリー 鴨池・垂水フェリー公式WEBサイト
(当HP内の)垂水フェリーターミナルビル紹介欄
桜島フェリー 桜島フェリー公式WEBサイト
空港アクセス・バス 鹿児島空港ビルディング公式ホームページ
(空港アクセス・バス案内のサブ・ページがあります。)
タクシー gooタウンページ(電話番号案内)の鹿屋市のタクシー業者検索結果
(リンク先URLは2011年11月現在)
レンタカー オリックス・レンタカー鹿児島・種子島・屋久島・宮崎・熊本





当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域


鹿屋城跡(亀鶴城跡):鹿屋(かのや)城跡(亀鶴城跡)の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒893-0007 鹿児島県鹿屋市北田町11-4(城山公園),Tel.:0994-43-2111(鹿屋市教育委員会文化課)。全国旅そうだんでも鹿屋城址(亀鶴城址)として、じゃらんnetでも鹿屋城址(亀鶴城址)として、ちえぞー! 城行こまいでも鹿屋城として、城郭放浪記でも大隅・鹿屋城として、日本の城址でも鹿屋城として、余湖くんのお城のページでも鹿屋城 鶴羽城 西原城として、「鹿屋」については江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも鹿屋麓:鹿屋航空基地として、鹿児島みてある記−歴史散歩−(ブログ)でも2008 鹿屋麓・古前城町,  2008 鹿屋麓・打馬地区として、街並みめぐりでも鹿屋として、全般的にはフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」でも鹿屋市 > 歴史の中で紹介されています。
  
鹿屋城跡は、鹿屋市鹿屋市地域にある中世城郭遺構です。上述各リンク先によれば、鹿屋城の築城年代は、『古城主由来記』という書物に「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」とあることから承久(じょうきゅう)年間(1219〜1222年)のこととされているとの由ですが、島津久経島津氏第3代当主の座に就いたのは承久年間よりも後の文永2年(1265年)のことですので、「島津久経時代」から何故承久年間が推測されるのか、詳しい経緯は不明です。また、津野氏の鹿屋城が、後の鹿屋城と同じ場所であったか否かも不明との由です。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 ・ 鹿屋市 > 歴史によれば、今日の鹿屋城址(亀鶴城址)の場所にあった鹿屋城は、大隅国戦国大名として知られる肝付(きもつき)氏の庶流・鹿屋氏が正和年間(1300年代初め)に鹿屋院を領有した際に本拠地としたのが確認可能な最初である模様です。戦国大名の半ば以降、肝付氏は反島津氏勢力となりましたが、島津氏による薩摩国,  大隅国,  日向国三国領国国内統一平定戦の結果、肝付氏第18代当主・肝付兼亮(かねあき)は天正2年(1574年)に島津氏肝付兼護(かねもり)は本城・高山城こうやまじょうしか所領を安堵されなかったことから(後にこの所領も失います)戦国大名としての肝付氏は滅び、庶流の鹿屋氏も鹿屋院の統治権を失ってしまいました。肝付氏戦国時代史、ならびに高山城について詳しくは、当ページ(当画面)下方の高山城紹介欄で、ご参照いただけます。
  肝付氏滅亡後の肝属郡(きもつきぐん)は一時期、島津氏の重臣だった伊集院忠棟
鹿屋城を拠点として支配し、余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城によれば、伊集院忠棟は天正8年(1580年)から鹿屋城に在城したとの由です。同情報源によれば、現在の鹿屋城の状況は、この時に築かれたものであるとの由です。また、同情報源によれば、伊集院忠棟は文禄4年(1595年)に日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)に転封となり、都城都之城に移ったとの由です。なお、伊集院忠棟都之城に移った後、後年、島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になる島津忠恒(家久)公に慶長4年(1599年)3月9日に斬殺されてしまいました。この事件を契機にして、伊集院忠棟の嫡男・伊集院忠真が慶長4年(1599年)に反旗を翻して島津家中の大規模な内乱・庄内の乱を起こし、降伏して庄内の乱が収束した後、慶長7年(1602年)に伊集院忠真は粛清(しゅくせい)されてしまいました。この辺りの経緯は、当ホームページ内の都之城解説欄でも触れております。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津久信,ならびに余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城によれば、伊集院忠棟が去った後には、同年(文禄4年(1595年))、
鹿屋城には島津久信(島津忠仍,島津信久)が入城したとの由です。島津久信は、島津四兄弟(島津義久公,島津義弘公,島津歳久公,島津家久公)の従兄弟・島津以久(別名:島津征久)の嫡孫であり、島津久信(島津忠仍,島津信久)は後世、江戸時代島津氏庶流の中の名門になった垂水島津家の第4代当主です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津彰久によれば、島津久信(島津忠仍,島津信久)の父(つまり、島津以久(別名:島津征久)の子)の島津彰久(しまづ てるひさ)は、同年の文禄4年7月5日(1595年8月10日))に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の文禄の役で病により陣没しており、また、いちご畑よ永遠に ・ 種子島皆既日食ツアー 2 千座の岩屋 私学校跡 西郷隆盛洞窟によれば、同年(文禄4年(1595年))、島津以久(別名:島津征久)は、大隅国 囎唹郡国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょうもしくは上井城から、転封(移封)のために種子島大隅国 熊毛郡 西之表(現・鹿児島県 ・ 西之表市)の新城に移ったとの由です。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 第十回 大隅国・大隅郡・垂水郷によれば、島津久信(島津忠仍,島津信久)鹿屋城に在城している間の慶長4年(1599年)に島津以久(別名:島津征久)は、大隅国 大隅郡垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)に移封(転封)となり、垂水城に移ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津以久,  島津久信によれば、慶長8年(1603年)に島津以久(別名:島津征久)日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)にあった薩摩藩支藩・佐土原藩の藩主に転じて佐土原城さどわらじょう城主に移った際に、その旧領を継承して、島津久信(島津忠仍,島津信久)大隅国 大隅郡垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市)に移封(転封)となって垂水城に移り、鹿屋城から去ったとの由です。
  江戸時代薩摩藩では、慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令で各支城が廃城になった後も、一国一城令の実質的な抜け穴支城ネットワーク網となる、軍事・行政ネットワーク網「外城(とじょう)制」の下、地方行政区域である「郷(ごう)」ごとに、統治拠点となる武士集住地域「」が設けられました。「郷」には、上級家臣の私領としての「」と、薩摩藩藩庁から派遣された藩官僚が行政官として統治する薩摩藩直轄領の「郷」とがありましたが、上述のような島津久信の私領時代の後、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 ・ 鹿屋市 > 歴史によれば、寛永21年/正保元年(1645年)に、薩摩藩直轄領としての「鹿屋郷」が成立したとの由です。この結果、一国一城令による
鹿屋城廃城後、江戸時代には、今日の鹿屋(現・鹿屋市鹿屋市地域)市中心部には、「鹿屋」等が設けられました。なお、今日の鹿屋市の市域にあった「郷」は「鹿屋」だけでなく、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 ・ 鹿屋市 > 歴史によれば、鹿屋・大姶良・花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷が江戸時代には設けられていたとの由です。この8郷の内、花岡郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部)と市成郷(現・鹿屋市(かのやし)輝北町地域)は私領であり(逆に言えば、他の6郷は薩摩藩直轄領です)、それぞれの私領の関連遺構としては、「花岡」(地図(この辺り))関連では花岡島津氏歴代墓地、「市成」(地図(この辺り))関連では市成島津氏・敷根忠頼の墓があります。鹿屋城に話を戻せば、その跡地は、今日では、城山公園として整備されています。
  公共交通機関での行き方は、2013年8月現在、「鹿屋」バス停(地図)または鴨池・垂水フェリーの「垂水港」バス停(地図)で、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「垂水中央病院(地図)・垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−古江(地図)・白水体育大前(地図)・鹿屋(地図)・串良(地図)経由−志布志港入口 (地図)」,  「垂水港(地図)・垂水(鴨池・垂水フェリー接続)−高須(地図)経由−鹿屋(地図)」の路線バスに乗るか、或いは、「鹿屋」バス停(地図)で「かのやばら園(霧島ヶ丘公園)(地図)−鹿屋(地図)」,  「鹿屋市コミュニティバス・市街地巡回バス『かのやくるりんバス』」等の路線バスに乗り、「(鹿屋城山)公園前」バス停(地図)下車、徒歩です。「鹿屋」バス停(地図)からも徒歩圏内です。
  これらの路線バスの起点の中の一つ・鴨池・垂水フェリー・垂水港へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗り、「垂水港」バス停(地図)で下車するか、或いは、九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の「鹿児島中央駅駅前」バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 鹿児島交通や、鹿児島市交通局の複数の路線の路線バスで「鴨池港」バス停(地図)に行き、鴨池港から鴨池・垂水フェリーに乗って垂水港に行くかすれば、行けます。これらの路線バスの起点の中の一つであり、
鹿屋城徒歩圏内でもある「鹿屋」バス停(地図)へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗れば、行けます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−牧之原(地図)・市成(地図)・百引(地図)経由−鹿屋(地図)」の空港アクセス・特急バスのバス路線に乗れば、「鹿屋」バス停(地図)に行けます。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

高隈城址の場所
(鹿屋市にあります。リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市上高隈町,電話:0994-31-1121(鹿屋市商工観光部観光振興課)。全国旅そうだんでも高隈城址として、じゃらんnetでも高隈城址として、お城の旅日記でも大隅 高隈城として、鴨着く島 おおすみでも〜三国名勝図会から学ぶおおすみ歴史講座〜[第四回 大隅国・肝属郡 高隈郷・串良郷]の中で、FMきもつきでも番組情報 > 歴史:ふるさと再発見「肝付兼重の戦い5」の中で紹介されています。江戸時代の「高隈」については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも高隈麓として、鹿児島みてある記−歴史散歩−(ブログ)でも2007 高隈麓,  2009 高隈麓として紹介されています。
  
高隈城は、鹿屋市鹿屋市地域 ・ 高隈地区にある中世城郭遺構です。上述の各リンク先によれば、築城は南北朝時代正平年間に南朝方の武将で、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主の楡井頼仲によって築かれたものとの由です。正平6年(1351年)に、北朝方の武将・畠山直顕の命令で禰寝(ねじめ)清成が高隈城を攻めましたが、攻め落とすことができなかったとの由です。その後、肝付(きもつき)氏の城になった後に戦国時代の天文7年(1538年)に肝付兼続禰寝清年に一旦この城を譲りますが、後に肝付氏が奪い返したとの由です。肝付氏戦国時代史、ならびに高山城について詳しくは、当ページ(当画面)下方の高山城紹介欄で、ご参照いただけます。肝付氏没落後の天正6年(1578年)に島津氏の重臣だった伊集院忠棟が城主となりましたが、伊集院忠棟は後の文禄4年(1595年)に都城に転封となり都之城に移りました。伊集院忠棟都之城に移った後、後に島津氏宗家第18代当主(兼)薩摩藩初代藩主になる島津忠恒(家久)公に慶長4年(1599年)3月9日に斬殺されてしまいました。この事件を契機にして、伊集院忠棟の嫡男・伊集院忠真が慶長4年(1599年)に反旗を翻して島津家中の大規模な内乱・庄内の乱を起こし、降伏して庄内の乱が収束した後、慶長7年(1602年)に伊集院忠真は粛清(しゅくせい)されてしまいました。この辺りの経緯は、当ホームページ内の都之城解説欄でも触れております。
  江戸時代薩摩藩では、慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令で各支城が廃城になった後も、一国一城令の実質的な抜け穴支城ネットワーク網となる、軍事・行政ネットワーク網「外城(とじょう)制」の下、地方行政区域である「郷(ごう)」ごとに、統治拠点となる武士集住地域「」が設けられました。「郷」には、上級家臣の私領としての「」と、薩摩藩藩庁から派遣された藩官僚が行政官として統治する薩摩藩直轄領の「郷」とがありました。(恐らくは)一国一城令による廃城の後、
高隈城の地にも、江戸時代には「高隈」が設けられました。この「高隈」があった「高隈郷」は、薩摩藩直轄領の「郷」だったとの由です。
  公共交通機関での行き方・アクセスは、2013年8月現在、「鹿屋」バス停(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿屋(地図)−上祓川・高隈(地図)経由−百引(地図)」、「鹿屋(地図)−市役所前(鹿屋)(地図)・県民健康プラザ(地図)・高隈(地図)・大隅湖(地図)経由−郡境 (地図)」の路線バスに乗り、「高隈麓」バス停(地図)下車、徒歩です。これらの路線バスの起点・「鹿屋」バス停(地図)へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗れば、行けます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−牧之原(地図)・市成(地図)・百引(地図)経由−鹿屋(地図)」の空港アクセス・特急バスのバス路線に乗れば、「鹿屋」バス停(地図)に行けます。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

花岡島津氏歴代墓地の場所
併せて、関連スポット・鶴羽城跡の場所,中世の木谷城跡の場所
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:〒891-2303 鹿児島県鹿屋市花岡町、Tel.:0994-31-1167(鹿屋市文化財センター)。全国旅そうだんでも花岡島津氏歴代墓地として、じゃらんnetでも島津氏歴代墓地として、鹿屋市ホームページでも観光情報:歴史・文化の中で(リンク先URLは2011年12月現在)鴨着く島でも花岡町界隈(鹿屋市花岡町)の中で紹介されています。江戸時代の花岡島津家の近世陣屋の鶴羽城跡、ならびに、その裏山にあった中世の山城・木谷城跡については、余湖くんのお城のページでも鹿屋城 鶴羽城 西原城として、お城の旅日記でも大隅 鶴羽城として、ちえぞー! 城行こまいでも鶴羽城として、薩摩の石組みでも68 鶴羽城館跡として紹介されています。
  
花岡島津氏歴代墓地は、江戸時代島津氏庶流の家・花岡島津家歴代の墓地です。花岡島津家とは、江戸時代島津氏の庶流の中の一つであり、一所持という高い家格を誇る薩摩藩重臣の家でもありました。一所持とは、薩摩藩の地方軍事・行政制度である外城制における地方行政区画「郷(ごう)」を支配する地頭の内、「郷」に派遣された庁の行政官としての地頭ではなく、私領主の地頭として「郷」を支配することを認められた家です(注:薩摩藩外城制における地頭は、鎌倉幕府室町幕府荘園支配のために設けた地頭とは意味が異なります。誤解を避けるべく念のため)。
  川口素生島津一族 無敵を誇った南九州の雄新紀元社,2011)pp.212-213、ならびに余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城 西原城によれば、花岡島津家は、島津氏宗家第20代当主で薩摩藩第3代藩主の島津綱貴が、享保9年(1724年)に三男の島津久儔(ひさとも)に分家させて、大隅国大姶良郷の木谷村(現・鹿屋市花岡町(この辺り))と古江村(現・鹿屋市古江町(この辺り))を花岡郷として所領として与えて興させた家であるとの由です。花岡島津家の歴代当主とその家族の内、2代目・島津久尚の正室の岩子(いわこ)は、花岡用水を計画して花岡郷の農業用水確保に貢献した賢夫人として郷土史に名を残しているとの由です。近現代以降の花岡島津家の第9代当主の島津久基(ひさもと)は、古典文学・特に源氏物語の研究で業績を残した国文学者であり、東京帝国大学名誉教授だったとの由で、島津久基の弟の島津稜威雄(いづお)は、太平洋戦争期に活躍した大日本帝国海軍主計少将だったとの由です。
  江戸時代に戻せば、川口素生島津一族 無敵を誇った南九州の雄新紀元社,2011)p.212によれば、花岡島津家の菩提寺は法界寺(ほうかいじ;鹿屋市)だったとの由ですが、矢島俯仰のページ ・ 名墓録 ・ 名墓録(全項目)によれば(リンク先URLは2011年12月現在)、花岡島津氏歴代墓地は鹿屋市花岡町の真如寺跡にあるとの由です。法界寺と真如寺とでは寺の名前が異なるように一見見えますが、そのカラクリは、鹿児島県上野原縄文の森ホームページ ・ 埋没文化財情報データベース ・ 遺跡詳細情報:円覚山真如院法界寺跡によれば、この寺の山号院号も付けての正式名称が「円覚山真如院法界寺」だったためであり、「法界寺」は寺の名前で「真如寺」は院号の「真如」を寺の名前と勘違いしたのであろうと推測します。廃寺になった理由は、確認した上でのことではありませんが確認するまでもなく自(おの)ずと推測可能な地域事情として、旧薩摩藩領では廃仏毀釈の行き過ぎによって一旦は寺院が全滅したためであろうと思います。一部の例外的に後年復活できた寺院以外は、鹿児島県では江戸時代以前からの名刹・古刹は軒並み廃寺になってしまいました。
  余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城 西原城によれば、花岡島津家の御仮屋(外城(とじょう)制における、麓(外城)を統治する地頭の館で、郷の政庁)だった場所は
鶴羽城跡(地図(鹿屋市花岡町4250番地)で、ここはかつては鹿屋市立鶴羽小学校だった所です。花岡パトリオット ・ 【日常】母校・鹿屋市立鶴羽小学校が3月25日午前0時の消灯をもって廃校に……,  鹿屋市ホームページ ・ 花岡地区の取組状況について等によれば、かつての鶴羽小学校は、平成25年(2013年)に近隣の古江小学校(地図),菅原小学校(地図)と統合した上で花岡中学校と併せて鹿屋市立小中一貫校花岡学園地図)の花岡小学校になって閉校(廃校)になったため、、今日では鶴羽小学校跡地になっています。余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城 西原城等によれば、鶴羽城(地図は、かつて中世に存在した木谷城跡(地図の麓に設けられたとの由であり、木谷城(地図は、南北朝時代正平年間に南朝方の武将で、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主の楡井頼仲よって築城されたものであるとの由です。木谷城(地図山上は、城址公園になっており、余湖くんのお城のページ ・ 鹿屋城 鶴羽城 西原城によれば、鶴羽城跡=鶴羽小学校跡地(地図の北東側から山稜に進む車道もあるとの由ですので、お車でも或る程度山上に近い所まで行けるとの由です。
  公共交通機関での
花岡島津氏歴代墓地への行き方・アクセスは、2013年8月現在、「鹿屋」バス停(地図)または「白水体育大前」バス停(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿屋(地図)−花岡(地図)・花里(地図)経由−小薄(地図)」路線の路線バスに乗り、「花岡入口」バス停(地図)下車、徒歩です。
  この路線バスの起点・「鹿屋」バス停(地図)或いは乗り換えバス停・「白水体育大前」バス停(地図)へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗れば、行けます。この「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス」特急バスは、「白水体育大前」バス停(地図)にも停車しますので、上記の「鹿屋(地図)−花岡(地図)・花里(地図)経由−小薄(地図)」路線の路線バスには、「白水体育大前」バス停(地図)から乗り換えて行くこともできます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−牧之原(地図)・市成(地図)・百引(地図)経由−鹿屋(地図)」の空港アクセス・特急バスのバス路線に乗れば、「鹿屋」バス停(地図)に行けます。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

大姶良城跡の場所(おおあいらじょう)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市大姶良町城内。城郭放浪記でも大隅・大姶良城として、ちえぞー! 城行こまいでも大姶良城として、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座でも平成21年度(2009年度):第6回『三国名勝図会』大隅国・肝属郡・姶良郷および大姶良郷の中で、鴨着く島(ブログ版)でも大姶良川流域散策(最終回),  ホタルが飛んだ(鹿屋市大姶良町)の中で、特定非営利活動法人城塞史跡協会でも大姶良城として、日本の城址でも大姶良城として、ようこそ大船庵へ ・ 古文書コーナー(古文書を楽しむ) ・ 南九州の中世ー薩摩藩内古城由緒ーでもP15-P19の中で、江戸時代薩摩藩の大姶良については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 鹿児島の麓でも大姶良麓として紹介されています。
  
大姶良城は、大隅国 肝属郡(きもつきぐん)大姶良(おおあいら)郷(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)鹿屋市地域 大姶良地区(昭和16年(1941年)までの大姶良村)この辺り(地図)))の中世城郭遺構です。大姶良は、中世には、大隅国 肝属郡(きもつきぐん)の一部であるというだけでなく、大隅国禰寝院(ねじめいん)北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等)の一部でもあった場所です。結論から先に申せば、当ホームページ管理人にとっては、大姶良城の地域の郷土史上の最大の価値・歴史観光上のお薦め理由は、一時期は島津氏宗家第6代当主(奥州家初代当主)・島津氏久公の居城だった城であり、島津氏宗家第7代当主(奥州家第2代当主)・島津元久公が生まれた城であるからです。城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城によれば、八幡神社この辺り(地図)の北の丘陵の南麓に案内板が設置されているとの由です。
  当段落では、
大姶良城跡の構成について解説します。鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 平成21年度(2009年度):第6回『三国名勝図会』大隅国・肝属郡・姶良郷および大姶良郷によれば、大姶良城は、内城を筆頭に、松尾城・浅井城・西城・冨山城・獅子目城・参河城・尾崎城・野首城・中城・南城・蜂須賀城の各城から成り立っていたとの由です。この各城とは曲輪のことであろうと推測しますが、独立性の高い複数の曲輪群で構成される城は、南九州式城郭と言われる、この地方の城の特徴です。特定非営利活動法人城塞史跡協会 ・ 大姶良城によれば、参河神社跡(参河神社社地)(この辺り(地図)(鹿屋市大姶良町275・276)も大姶良城曲輪の一部であり、ちえぞー! 城行こまい ・ 大姶良城によれば、それは参河神社跡(参河神社社地)(この辺り(地図)の西側300mにかけてであるとの由であり、鴨着く島 ・ 岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町)によれば、参河神社跡(参河神社社地)(この辺り(地図)は、大姶良城を構成する上述の複数の城(曲輪)の内の「参河城」であったとの由です。特定非営利活動法人城塞史跡協会 ・ 大姶良城によれば、参河神社は廃社になっているとの由ですが、これは、鴨着く島 ・ 岩戸神社秋の例祭(鹿屋市大姶良町)によれば、廃社になった訳ではなく、次文章で後述する理由のために参河神社社地(この辺り(地図)での参拝ができなくなったため、やむを得ず岩戸神社地図(鹿屋市大姶良町516)本殿内に仮に相殿として小さな社殿を設けてあるとの由です。参河神社社地(この辺り(地図)での参拝ができなくなった理由とは、この社地があるシラス台地のシラス採取の許可を採取業者に宮司が出したところ、許可範囲を越えて採取業者が台地を抉(えぐ)ってしまったため、途中の参道が崩れてしまったから、であるとの由です。その後、当該シラス採取業者が損害賠償する等の財源の目処がついて復旧工事或いは参道への架橋が行われたか否かは、その予定の有無等については不明です。なお、鹿児島県神社庁ホームページ ・ 参河神社によれば、参河神社の御祭神は、安土桃山時代の文禄元年(1592年)の梅北一揆に連座したために豊臣秀吉から誅殺された、当地の地頭だった伊集院参河守久光であり、伊集院参河守久光の霊の祟(たた)りがあったために参河神社は建立(こんりゅう)された神社であるとの由です。また、城郭遺構跡地が参河神社跡(参河神社社地)(この辺り(地図)になっている大姶良城曲輪(城)の内の「参河城」の名称は、上述の伊集院参河守久光の武家官位三河守(参河守)」と同じ「参河」ですが、この城(曲輪)の名称が、伊集院参河守久光よりも以前の南北朝時代戦国時代以前から既に名称が「参河城」であったのか、それとも伊集院参河守久光の武家官位にちなんで後世に「参河城」となったのか、もしも前者であった場合、武家官位と同じであるのは偶然か、それとも「参河城」にちなんで伊集院久光は武家官位を「三河守(参河守)」にしたのか、詳細は不明です。
  当段落以降では、
大姶良城跡の歴史について解説します。城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城,ならびに鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 平成21年度(2009年度):第6回『三国名勝図会』大隅国・肝属郡・姶良郷および大姶良郷によれば、平安時代の長寛2年(1164年)に冨山五郎太夫藤原義光が禰寝院北俣の荘園領主として下向し、その子・禰寝小太郎義明によって平安時代末期の寿永年間(1182年〜1183年)頃に、大姶良城は築城されたと伝えられているとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏によれば、この藤原氏(冨山氏)系禰寝(ねじめ)氏は、後世、禰寝院領主の戦国武将として知られるようになる建部(たけべ)禰寝氏禰寝氏)とは別系統の禰寝氏であるとの由です。鎌倉時代藤原氏系禰寝氏(冨山氏)は禰寝院北俣を領有し、建部禰寝氏禰寝氏)は、大隅国禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町(さたちょう)地域錦江町田代町地域)を領有して、大隅国佐多(現・鹿児島県 ・ 南大隅町佐多町(さたちょう)地域)の高木城を拠点としていたとの由です。後に、戦国時代建部禰寝氏禰寝氏)は、藤原氏系禰寝氏(冨山氏)を配下に治めて禰寝院北俣も領有し、大隅国禰寝院南俣の根占(現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域)の富田城,ならびに国見城に本拠地を移した旨は、当画面(当ページ)内の富田城跡紹介欄,ならびに国見城跡紹介欄で解説したとおりです。
  話を南北朝時代に戻します。城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城によれば、南北朝時代には
大姶良城城主・藤原氏系禰寝氏(冨山氏)は北朝に属し、これに対して、大隅国高山(こうやま,現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょうを本拠地とする隣接の豪族・肝付氏(きもつきし)南朝に属していたとの由です。肝付氏第8代当主・肝付兼重(きもつき かねしげ)は、日向国三俣院(みまたいん;今日の宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町都城市高城町地域都城市山之口町地域都城市旧志和池村地域(地図),都城市高木地域(地図),都城市金田地域(地図)など)の月山日和(がっさんひわ)城(高城)を中心とした南朝方武将としての活躍で郷土史に名が残る武将です。城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城,  FMきもつき ・ 歴史 : ふるさと再発見「肝付兼重の戦い5」,  大自然の中、俺は生きている。  ・ 肝付五郎九朗兼成の塚によれば、肝付兼重の弟の肝付兼成(きもつき かねなり)は、観応2年/正平6年(1351年)に大姶良城大隅国(大姶良郷)横山(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市鹿屋市地域の横山町(この辺り(地図))等)の横山城地図鹿児島県 ・ 鹿屋市横山町)を落城させましたが、大隅国(大姶良郷)西俣(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市鹿屋市地域の飯隈町(この辺り(地図))等)に向かう途中で、恐らくは藤原氏系禰寝氏(冨山氏)庶流であろうと推測可能な志々目氏の伏兵に討たれたとの由です。なお、ようこそ大船庵へ ・ 古文書コーナー(古文書を楽しむ) ・ 南九州の中世ー薩摩藩内古城由緒ー ・ P15-P19によれば、肝付五郎九朗兼成は横山城地図を攻めた時点で大姶良城の内城に居住していたとの由ですので、肝付五郎九朗兼成は、一旦、大姶良城に入場・居住した上で横山城地図を攻めたことになっており、また、肝付五郎九朗兼成を討ったのは志々目氏ではなく完目氏の完目某であることなっています。鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 平成21年度(2009年度):第6回『三国名勝図会』大隅国・肝属郡・姶良郷および大姶良郷によれば、藤原氏系禰寝氏(冨山氏)の庶流に「宍目氏」の名が見え、この「宍目(ししめ)氏」は「志々目(ししめ)氏」と読み方が同じであるため異字表記の同一家系である可能性が高く、このことに鑑(かんが)みれば上記の「完目氏」は、「『宍目氏』を誤って『完目氏』と書いた誤字である」可能性が想定可能ですが、この想定は確認した上での事実ではなく、仮説であるに過ぎない旨、誤解されぬようお願いいたします。
  肝付五郎九朗兼成討ち死に後、城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城によれば、志々目氏は
大姶良城を回復したとの由ですが、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を本拠地としていた南朝方武将・楡井頼仲が、大姶良城を奪取してしまったとの由です。詳しくは当画面(当ページ)内の志布志城跡紹介欄で解説したとおり、楡井頼仲は正平12年/延文2年(1357年)に滅ぼされて自刃しましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津氏久,  菊池武光,ならびに畠山直顕によれば、その楡井頼仲を滅ぼした武将の中の一人の畠山直顕も、北朝方の内紛「観応の擾乱」の影響や、大隅国,  日向国の支配権を巡っての権力争いの結果、北朝方武将同士でありながら敵対勢力と化して、観応2年/正平6年(1351年)に一時期南朝方に転じていた、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の東福寺城城主で、後に島津氏宗家第6代当主(奥州家初代当主)になる島津氏久公と敵対していたとの由です。畠山直顕は、延文2年/正平12年(1357年)に、志布志城の戦いで島津氏久公に敗れて、さらに同年、肥後国 菊池郡水島(現・熊本県 ・ 菊池市七城町台)の水島城(臺城(台城)(地図))城主で南朝方武将の菊池氏第15代当主・菊池武光日向国侵攻の結果、敗れて没落したとの由です。
  ようこそ大船庵へ ・ 古文書コーナー(古文書を楽しむ) ・ 南九州の中世ー薩摩藩内古城由緒ー ・ P15-P19,ならびに国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 :60巻. 17(巻之49-51) コマ番号11によれば、康安元年/正平16年(1361年)に島津氏久公は、
大姶良城を攻め落としたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津貞久,  島津氏久,ならびに島津師久によれば、北朝方武将に戻っていたらしい島津氏においては、島津氏宗家第5代当主で、当時(晩年)は薩摩国 山門院(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域 + 出水市高尾野町地域 + 出水市出水市地域の一部)の木牟礼城きのむれじょうにいた島津貞久公は、貞治2年/正平18年(1363年)に、薩摩国 守護職を三男で薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の碇山城いかりやまじょう城主の島津師久公に譲り、大隅国 守護職を薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の東福寺城城主の島津氏久公に譲ったとの由です。島津師久公は総州家を興して島津氏宗家第6代当主(兼)総州家初代当主になり、島津氏久公は奥州家を興して島津氏宗家第6代当主(兼)奥州家初代当主になったとの由であり、島津氏宗家は、薩摩国 守護家の総州家と、大隅国 守護家の奥州家とに分かれました。
  この
大姶良城紹介欄冒頭の参照先各サイト,尚古集成館公式WEBサイト ・ 薩摩・島津家の歴史 ・ 島津氏久,ならびに国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 :60巻. 17(巻之49-51) コマ番号11によれば、島津氏宗家第6代当主(奥州家初代当主)・島津氏久公は、居城を東福寺城から大姶良城に移したとの由です。具体的なタイミングは不明であり、上述の康安元年/正平16年(1361年)に大姶良城を攻め落とした後のことであるのは確かなのでしょうが、上述の貞治2年/正平18年(1363年)の大隅国 守護職相続との時期的な前後関係は調べても分からず確認できませんでしたが、恐らくは相続した時期の頃のことであろうと推測します。そのように推測する理由は、大隅国国人層の人心掌握の見地から、「薩摩国 守護職を兼任しない大隅国 守護が、大隅国におらず、薩摩国にいる」ということはあり得ない話であるからです。いずれにせよ、島津氏宗家の居城は、上述の木牟礼城から碇山城,  東福寺城を経て、島津氏宗家が総州家奥州家に分かれて以降の奥州家は、大姶良城に移ったことになります。なお、総州家の居城は、宗家が分かれた当初は碇山城であり、また、奥州家東福寺城も本拠地として残したままになっていました。
  鴨着く島 ・ 垂水の島津家墓地によれば、(北朝方武将であった)島津氏久公は
大姶良城で、「禰寝氏」と連携を取りながら、南朝方武将である、大隅国高山(こうやま,現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょう城主で南朝方武将の肝付氏と対峙(たいじ)したとの由です。島津氏久公が連携を取った「禰寝氏」とは、大姶良城がある大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等)の藤原氏系禰寝氏(冨山氏)の可能性も高いですが、どうやら、禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)の富田城国見城(現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域)の建部禰寝氏禰寝氏)のことか、或いは両禰寝氏共に、ということであろうと推測します。
  城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城,  ちえぞー! 城行こまい ・ 大姶良城,  鹿児島県神社庁ホームページ ・ 八幡神社(鹿屋市大姶良町),ならびに鴨着く島(ブログ版) ・ 大姶良川流域散策(最終回),  ホタルが飛んだ(鹿屋市大姶良町)によれば、後に島津氏宗家第7代当主(奥州家第2代当主)になる島津元久公は、
大姶良城で生まれたとの由です。また、鹿児島県神社庁ホームページ ・ 八幡神社(鹿屋市大姶良町),ならびに鴨着く島(ブログ版) ・ 大姶良川流域散策(最終回),  ホタルが飛んだ(鹿屋市大姶良町)によれば、今日の住所表記で鹿児島県 鹿屋市大姶良町2310・2311にある八幡神社この辺り(地図)は、貞治2年/正平18年(1363年)に島津元久公が大姶良城で生まれたため、その息災増福を願って、貞治3年/正平19年(1364年)に建立(こんりゅう)されたものであるとの由です。
  志布志市ホームページ ・ 観光ガイド ・ 歴史 ・ 志布志城跡 ・ 志布志城の歴史によれば、貞治4年/正平20年(1365年)頃、島津氏宗家第6代当主(奥州家初代当主)・島津氏久公は、日向国志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の
志布志城に移ったとの由です。南北朝時代後期は、島津氏久公は、詳しくは当画面(当ページ)内の志布志城紹介欄や当ホームページ内の都之城紹介欄で解説した理由・経緯のため、天授元年/永和元年(1375年)の水島の変の後、北朝方の九州探題 ・ 今川了俊(今川貞世)と敵対関係に陥り、島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏(後の都城島津氏)が守る日向国都城(みやこのじょう;現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の北郷氏の居城・都之城の防衛戦に、志布志城を拠点として北郷氏の援軍として駆けつけるというのが、一時期、お決まりのパターンと化していました。上記の志布志城への島津氏久公の移転年・天授元年/永和元年(1375年)は、この天授元年/永和元年(1375年)の水島の変よりも前のことであるため、今川了俊(今川貞世)との敵対化に起因して移転した訳ではないことになります。ただし、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 平成23年度(2011年度) 第2回『三国名勝図会』日向国・諸県郡・都城之二によれば、水島の変の翌年の永和2年/天授2年(1376年)に都之城今川了俊(今川貞世)方の軍勢に攻められた際に、北郷氏の援軍として駆け付けた時点の島津氏久公の居城は、まだ大姶良城であった旨が記されています。ですが、国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 :60巻. 20(巻之58-60) コマ番号69によれば、この永和2年/天授2年(1376年)の都之城が囲まれた時に島津氏久公は志布志城にいたことになっており、翌永和3年/天授3年(1377年)に(志布志城から)救援に駆け付けたことになっています。永和3年/天授3年(1377年)という時期は、永和2年/天授2年(1376年)からの包囲が続いていた一連の合戦であるため時期的な誤差の範囲ですが、この時期に島津氏久公が既に志布志城に移っていたのか、それともまだ大姶良城にいたのかは、見る資料によって異なっており、定かではありません。なお、島津氏宗家(奥州家)は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 清水城(薩摩国),ならびに城郭放浪記 ・ 薩摩・清水城によれば、島津氏宗家第7代当主(奥州家第2代当主)・島津元久公の代の嘉慶元年/元中4年(1387年)に、薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)に清水城しみずじょうを築いて、本拠地を清水城に移したとの由です。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏によれば、上述の今川了俊(今川貞世)島津氏久公との間の抗争の過程で、禰寝院(ねじめいん)南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)の
富田城国見城(現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域)の建部禰寝氏禰寝氏)は当初はどちら側にもつきかねていたとの由ですが、永和5年/天授5年(1379年)に今川了俊(今川貞世)方になり、大姶良城を攻撃させたとの由です。このように南北朝時代末期に今川了俊(今川貞世)方になったとは申せ、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 禰寝氏によれば、今川了俊(今川貞世)失脚後の次世代の時期には、建部禰寝氏禰寝氏)は、島津氏宗家第7代当主(奥州家第2代当主)・島津元久公に従っていたとの由です。上述の永和5年/天授5年(1379年)の大姶良城攻撃の時に建部禰寝氏禰寝氏)が大姶良城をこの時に落としたか否かは不明ですが、鴨着く島 おおすみ 〜南九州の歴史の謎を探る〜 ・ 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座 ・ 平成21年度(2009年度):第6回『三国名勝図会』大隅国・肝属郡・姶良郷および大姶良郷によれば、戦国時代には大姶良城建部禰寝氏禰寝氏)の城であったとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 近代デジタルライブラリー ・ キーワード「三国名勝図会」の検索結果 ・ 三国名勝図会 :60巻. 17(巻之49-51) コマ番号11にも、具体的な時期は不明ながら、その後、大姶良城は、建部禰寝氏禰寝氏)の城になった旨の話が載っています。大姶良城を手に入れた時点で、建部禰寝氏禰寝氏)は、禰寝院南俣(小禰寝院)だけでなく、禰寝院北俣(大禰寝院大根占郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等)も含めた禰寝院全体の領主になったことになります。
  城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城によれば、戦国時代の途中で
大姶良城は、大隅国高山(こうやま,現・鹿児島県 ・ 肝付町高山町地域)の高山城城主・肝付(きもつき)氏の城になり、肝付氏家臣・橋口但馬守が城主になったとの由です。詳しくは当画面(当ページ)内の高山城紹介欄で解説したとおり、戦国時代島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の郷土史の上では、肝付氏は、大隅国における戦国時代後半の島津氏の敵対勢力として郷土史に名が残る一族です。城郭放浪記 ・ 大隅・大姶良城によれば、この肝付氏による大姶良の領有は、天正5年(1577年)に肝付氏島津氏に降るまで続いたとの由です。廃城の時期は存じ上げませんが、遅くとも慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になったはずです。
  江戸時代薩摩藩では、慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令に対する実質的な抜け穴の支城ネットワーク網となる地方行政・軍事ネットワーク網の制度「外城制」の下、「郷(ごう)」と呼ばれる地方行政区画ごとに武家集住地域「外城(後に「麓」と改称)」を設け、武家屋敷群を拠点にした地方統治を行っていました。武家屋敷群は、文字どおり中世の山城があった山の麓に設けられた場合が多いです。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 大姶良麓によれば、
大姶良大姶良城跡の麓に設けられたとの由であり、参河神社跡(参河神社社地)(この辺り(地図)(鹿屋市大姶良町275・276)の周辺に、武家屋敷群の景観が見られるとの由です。各「外城(麓)」で「郷」を統治する武士の見地から「郷」を分類すれば、一所持と呼ばれる家格の重臣が私領主として統治する「郷」と、薩摩藩の藩庁の役人が藩官僚「地頭」として統治する「郷」とが、ありました。城鑑賞の旅・二人で城ある記 城(お城・城郭)・宮殿・城下町・歴史遺構など、熟年夫婦の城巡りの報告 ・ 島津 外城(麓)の地図によれば、大姶良は後者の方であったとの由です。また、御仮屋とは、武家屋敷群の統治者の役所(兼)館となる施設です。江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 大姶良麓によれば、大姶良の地頭仮屋はひがし歯科地図(鹿児島県鹿屋市田淵町843)周辺にあったと、伝えられているとの由です。
  2014年7月現在、公共交通機関での行き方・アクセスは、「鹿屋」バス停(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の大姶良(地図)方面行きバス路線「鹿屋(地図)−鹿屋市役所(地図)・大姶良(地図)・坂元(地図)・大根占(地図)経由−根占(地図)」の路線バスに乗り、「大姶良」バス停(地図)下車、徒歩です。このバス路線の起点となる「鹿屋」バス停(地図)へは、鹿児島県 ・ 鹿児島市九州新幹線停車駅・
鹿児島中央駅地図からの行き方は、鹿児島中央駅前バス停(地図)から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスで行くことができます。また、「鹿屋」バス停(地図)へは、鹿児島県 ・ 霧島市溝辺町地域鹿児島空港公式HP,  地図からは、空港アクセス・バスで行くことができます。バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページで、タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。また、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バスでも(リンク先URLは2011年11月現在)、お調べいただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。)

鹿屋市内温泉などの鹿屋市の温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄でお探しいただけます。
(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄

鹿屋市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】太平温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧
【楽天トラベル・ANA楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・JAL楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。



当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域



<鹿屋市・旧輝北町地域>

輝北天球館(鹿屋市・旧輝北町地区)
(リンク先は鹿屋市Webサイトのサブ・コンテンツとしての公式WEBサイト(リンク先URLは2010年8月現在)楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも輝北天球館として、MAPPLE観光ガイド(まっぷる,マップル)でも輝北天球館として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも輝北天球館として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでもきほく上場公園・輝北天球館として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。輝北うわば公園にあります。
  2012年1月現在鹿児島県 には、以下のような航空・宇宙に関する博物館や観光スポットがあります。
鹿児島県内の航空・宇宙に関する博物館や観光スポット
所在地(市町村) 観光スポット
鹿児島市 鹿児島県立博物館
(別館にプラネタリウムがあります)
鹿児島市立科学館
姶良市(あいらし)姶良町地域 スターランドAIRA
薩摩川内市(さつませんだいし) 薩摩川内市せんだい宇宙館
鹿屋市(かのやし)輝北町(きほくちょう)地域 輝北天球館
肝付町(きもつきちょう)内之浦町地域 宇宙航空研究開発機構 内之浦宇宙空間観測所
宇宙科学資料館
宇宙航空研究開発機構 内之浦宇宙空間観測所の施設)
種子島 宇宙航空研究開発機構 種子島宇宙センター
種子島宇宙センター,宇宙科学技術館
宇宙航空研究開発機構 種子島宇宙センターの施設)

輝北うわば公園
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。MAPPLE観光ガイドでも輝北うわば公園として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも輝北うわば公園として(リンク先URLは2011年11月現在)鹿屋市観光協会ホームページでもきほく上場公園・輝北天球館として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。輝北うわば公園には、輝北天球館産品販売施設「星生館」高原レストラン(地図輝北うわば公園キャンプ場(地図があります。)

特産品販売施設「星生館」の場所(鹿屋市・旧輝北町地区)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿屋市輝北町市成1660番地3、Tel.:099-485-1900。2011年11月現在、営業時間:10時〜18時,営業期間:通年,休日:毎週月・火曜日。輝北うわば公園にあります。リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)情報プラザ ・ 観光・物産情報 メニュー ・ かのや観光ナビでも輝北うわば公園物産館「星生館」として(リンク先URLは2011年12月現在)鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも特産品販売施設「星生館」として(リンク先URLは2011年12月現在)、紹介されています。)

輝北歴史民俗資料館の場所(鹿屋市・旧輝北町地区)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市輝北町上百引2635、Tel.:0994-86-0505。2011年11月現在、営業時間:9:00〜16:30,営業期間:通年,休館日:土・日・祝日,料金:無料。おでかけカレンダーでも輝北歴史民俗資料館として(リンク先URLは2010年8月現在)鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市輝北歴史民俗資料館として(リンク先URLは2011年11月現在)Mapionでも輝北歴史民俗資料館として紹介されています。)

登見の丘(ドゲンノオカ)のツツジ
(リンク先は楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県のサブ・コンテンツ。登見の丘からは、鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域の市成の街並みが綺麗に見下ろせるとの由です。また、登見の丘には、市成島津氏・敷根忠頼の墓があります。MAPPLE観光ガイドでも登見の丘のツツジとして、全国旅そうだんでも登見の丘として、じゃらんnetでも登見の丘として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市市成、登見の丘公園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。)

エディオンマタキ輝北店
エディオン鹿児島のマタキ輝北店です(旧・鹿児島ベスト電器のBFSマタキ輝北店)。アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドで場所を示せば、リンク先のとおりです。住所:〒893-0201 鹿児島県鹿屋市輝北町上百引4060-7、Tel.:099-486-0010。エディオン鹿児島を運営するカコイグループは、楽天市場にも【楽天市場】デジ倉楽天市場店として出店しています。また、エディオン本体は、楽天市場【楽天市場】エディオン樂天市場店として出店しています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ カコイエレクトロに載っているとおり、エディオン鹿児島を運営するカコイグループがフランチャイズ契約先をベスト電器からエディオンに変更して、2013年10月に旧鹿児島ベスト電器アーカイブ・ページ)の店舗からエディオン鹿児島の店舗に変わりました。)
→   【楽天市場】デジ倉楽天市場店
【楽天市場】エディオン樂天市場店

鹿屋市の温泉については、(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄でお探しいただけます。
(当HP内の)大隅地域温泉案内 ・ 鹿屋市の温泉欄

鹿屋市でのご宿泊は
【楽天トラベル】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・全国温泉宿予約】太平温泉の温泉宿(温泉旅館・ホテル)一覧
【楽天トラベル・ANA楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。
【楽天トラベル・JAL楽パック】キーワード「鹿児島県鹿屋市」での、ホテル・旅館の検索結果(注)
(注) 検索結果では、鹿屋市以外の宿も表示されることがあり得ます旨、ご注意下さい。



当ページ(当画面)内の目次
当画面(当ページ)の先頭(トップ)へ
霧島市 福山町地域  
垂水市 垂水市  
鹿屋市 鹿屋市地域 輝北町地域
串良町地域 吾平町地域
志布志市 志布志町地域 松山町地域
有明町地域  
大崎町 大崎町  
曽於市(そおし) 末吉町地域 財部町地域
大隅町地域  
東串良町 東串良町  
肝付町(きもつきちょう) 高山(こうやま)町 内之浦町地域
錦江町 大根占町地域 田代町地域
南大隅町 根占町地域 佐多町地域


市成島津氏・敷根忠頼の墓の場所(この辺り)
併せて、市成島津家の墓地太玉神社地図)の周囲半径100mの範囲の中のどこか)
(リンク先はアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿屋市輝北町市成1466-3、Tel.:099-486-1111 (鹿屋市輝北総合支所)。市成島津家(敷根島津家)ならびに敷根氏については、風雲戦国史 ・ 地方別武将家一覧でも武家家伝・敷根氏として、shikinet ・ 敷根紹介でも敷根物語 ・ 敷根氏と長尾城として、WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページでも【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)の中で(リンク先URLは2013年8月現在)、紹介されています。市成島津家(敷根島津家)の菩提寺や墓地については、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座でも平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷として、YouTubeでも市成島津家の墓地 〔鹿屋市輝北町市成宮園〕として、WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページでも【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)の中で(リンク先URLは2013年8月現在)鹿屋市ホームページでもかのや歴史探訪(No.31-40)の中で(リンク先URLは2013年8月現在)江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも市成麓の中で、リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)情報プラザ ・ 観光・物産情報 メニュー ・ かのや観光ナビでも登見の丘として(リンク先URLは2011年12月現在)、紹介されています。「市成」については、江戸の名残/江戸の名残香を訪ねてでも市成麓の中で、鴨着く島(ブログ)でも市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)として紹介されています。
  
市成島津氏・敷根忠頼の墓とは、登見の丘(ドゲンノオカ)にある、市成島津家(敷根島津家)の島津久頼(敷根頼喜)の子の敷根忠頼の墓です。市成島津家の墓地は文字どおり市成島津家(敷根島津家)累代の墓で、通称「土岐どんの墓」とも呼ばれており、実は2013年8月現在、正確な場所を確認できていないのですが、詳しくは後述するとおり、太玉神社地図)の周囲半径100mの範囲の中のどこかにあるとの由です。市成島津家(敷根島津家)とは、江戸時代島津氏の庶流の中の一つであり、一所持という高い家格を誇る薩摩藩重臣の家でもありました。一所持とは、薩摩藩の地方軍事・行政制度である外城制における地方行政区画「郷(ごう)」を支配する地頭の内、「郷」に派遣された庁の行政官としての地頭ではなく、私領主の地頭として「郷」を支配する認められた家です(注:薩摩藩外城制における地頭は、鎌倉幕府室町幕府荘園支配のために設けた地頭とは意味が異なります。誤解を避けるべく念のため)。
  川口素生島津一族 無敵を誇った南九州の雄新紀元社,2011)p.214,  風雲戦国史 ・ 地方別武将家一覧 ・ 武家家伝・敷根氏,  鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷,  WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページ ・ 【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)等によれば(リンク先URLは2013年8月現在)、市成島津家は他の島津氏庶流とは異なり、元々は島津氏の分家ではなかったという変わった経歴を持った家です。本来は、源頼光清和源氏美濃源氏の名族・土岐氏の庶流の家であり、土岐四郎左衛門尉国房の子・敷根頼房に始まる家であるとの由です。中世大隅国 ・ 囎唹郡 ・ 敷根(しきね)(今日の霧島市国分市地域大字(おおあざ) ・ 国分敷根)を領有して
敷根城(長尾城)地図を拠点にして、敷根氏を名乗るようになりました。敷根氏は初期には島津氏に反抗していた時期もありましたが、戦国時代には、島津氏による大隅国国内統一平定戦の過程において島津氏に属しており、蒲生(かもう)氏肝付氏等の大隅国内の反島津氏勢力と戦ったりして、島津氏大隅国国内統一平定戦に貢献した島津氏家臣の家です。豊臣秀吉による九州征伐の後の太閤検地の際に、島津氏領国内で国人層の大幅な所領の配置換えが行われた時に、敷根氏敷根から垂水の田上に移封されたとの由です。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 田上城跡によれば、この時の居城は田上城地図です。
  その後、豊臣秀吉朝鮮の役敷根頼元が出陣しましたが、帰路に水死してしまいました。敷根頼元には男子には男子がいなかった模様であり、敷根氏日新斎(じっしんさい)島津忠良公の孫で宮之城島津家の祖となった島津忠長の子・立頼を養子に迎えて次の当主にしました。この際に、例えば敷根立頼が敷根氏の娘の婿になった等の事情によって母系では敷根氏の血統が伝わったか否かは存じ上げず、もしもそうでなければ、家名の存続上は敷根氏が残ったことにはなりますが、血統上では敷根氏当主の座は島津氏に置き換えられたことになります。敷根立頼は、慶長4年(1599年)に高隈(現・鹿屋市鹿屋市地域 ・ 高隈地区地図(この辺り)))に移封となり、確認した上での話ではなく推測ですが、この時の居城は
高隈城であろうと推測します。shikinet ・ 敷根紹介 ・ 敷根物語 ・ 敷根氏と長尾城によれば、さらに慶長19年(1614年)に市成(現・鹿屋市輝北町(きほくちょう)地域市成(地図(この辺り)))を領して(転封して)、垂野城を居城としたとの由です。敷根立頼の子の頼喜(よりのぶ)は、薩摩藩初代藩主・島津家久(忠恒)公の娘を嫁に迎えました。また、この敷根頼喜は寛永20年(1643年)に、第2代藩主・島津光久公から島津姓と「久」の一字を拝領して名を島津久頼に改めた上で、正保3年(1646年)には子々孫々まで島津姓を名乗ることを許されました。ここに、血統上だけにとどまらず名称上も、敷根氏当主は島津氏に転じることになりました。一国一城令垂野城が廃城となった後、薩摩藩外城制下で「市成」となった私領の領土名にちなんで、この敷根氏系統の島津氏は「市成島津家」、または母体となった敷根氏にちなんで「敷根島津家」と呼ばれています。WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページ ・ 【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)等によれば(リンク先URLは2013年8月現在)、「市成郷(武家屋敷群は『市成』)」の役所であった御仮屋は、今日の浄土真宗正覚寺(鹿児島県鹿屋市輝北町市成1465,地図)の場所にあったとの由であり、また、市成島津家(敷根島津家)の子孫は「廃藩置県明治の中頃まで御仮屋の隣に住んでいて、『正五位土岐四郎』の門札がかかっていた」との由ですので、明治時代になってから後で、島津姓から土岐姓に復姓した模様です。
  一所持の家格の島津氏庶流の各家では、明治時代初めの廃仏毀釈薩摩藩領内の寺院が全滅した後でも「廃寺跡に墓地が残っている状況」であるのが通例ですが、2013年8月現在では、書籍の上でもインターネットの上でも、はまだ残念ながら、市成島津家(敷根島津家)の墓地の場所を特定化可能な情報を見つけられていません。鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷,  鹿屋市ホームページ ・ かのや歴史探訪(No.31-40),  江戸の名残/江戸の名残香を訪ねて ・ 市成麓等によれば、市成島津家(敷根島津家)の菩提寺は「法城山両足(りょうそく)寺」という寺でした。特に鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷によれば、両足寺は元々、敷根氏敷根に来た時期に、敷根頼房が「大儀庵」という名称で敷根に創建した寺だったとの由です。敷根氏が田上に移封された時に菩提寺・大儀庵も田上に移築となり、その際に「両足寺」に改名したとの由です。その後、敷根氏が高隈を経て慶長19年(1614年)に市成に転封となった際に、両足寺も再移築したとの由です。法城山両足寺は曹洞宗の寺院で、鹿児島(現・鹿児島市)にあった
福昌寺末寺であったとの由です。薩摩藩領では、明治3年(1870年)の廃仏毀釈を極端過激過度に行って、領内の寺院が一時期は1寺も残さずに全滅したため、これに伴い、残念ながら法城山両足寺も廃寺になってしまいました。
  法城山両足寺があった場所については、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷によれば「
垂野城の二の丸の下にあった」との由です。WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページ ・ 【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)等によれば(リンク先URLは2013年8月現在)、市成島津家(敷根島津家)の墓地は「土岐一族累代の墓」として「市成・小字(こあざ)・宮園」にあり、「町道(現・市道。どの市道?)を下沢津(地図)に向けて下ると元デメジン様(太玉神社)(鹿屋市輝北町市成2149,地図)の手前約100m左側・寺跡(法城山両足寺跡)の隣老木に囲まれた」場所にあり、通称「土岐どんの墓」と呼ばれているとの由です。YouTubeには動画コンテンツ「市成島津家の墓地 〔鹿屋市輝北町市成宮園〕が載っていて、この動画の表題からもでも市成島津家(敷根島津家)の墓地は「市成・小字(こあざ)・宮園」にあることが分かります。例えばアット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイド等の各種地図ホームページで「鹿児島県鹿屋市輝北町市成宮園」を探すと場所は鹿屋市輝北町市成宮園の地図のとおりです。この鹿屋市輝北町市成宮園の地図や、上述の「元デメジン様(太玉神社)地図)の手前約100m」は「市成」御仮屋跡地(現・浄土真宗正覚寺(地図))の南東にありますので、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座 ・ 平成22年度 『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座(平成22年12月12日) 第八回 大隅国曽於郡市成郷 大隅国肝属郡百引郷記載の場所「垂野城の二の丸の下」が「市成」御仮屋跡地(現・浄土真宗正覚寺(地図))の東北東にあることと、方角的に矛盾があり、平仄(ひょうそく)が合いません。垂野城の城の領域の大きさや城内の二の丸の在処如何や、「二の丸の下」という表現の距離感如何によっては、「元デメジン様(太玉神社)地図)の手前約100m」という場所が「垂野城の二の丸の下」と実は矛盾していない可能性もあり得ます。正直なところ、「市成島津家(敷根島津家)の墓地=通称『土岐どんの墓』=法城山両足寺跡」の場所を地図上で明記した書籍やホームページやブログ等を見つけられていませんので、正確な場所は特定化できませんでした。
  WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページ ・ 【情報交差点】広報きほく(平成11年度2月号)等によれば(リンク先URLは2013年8月現在)、市成島津家(敷根島津家)の子孫は後に鹿児島市 ・ 伊敷に転住されたとの由であり、(菩提寺「法城山両足寺」は廃仏毀釈で廃寺になっていることもあり、)墓地の管理は市成島津家(敷根島津家)の墓地の管理は宮園集落の人々に受け継がれて、「だんなさあの墓」の愛称で毎年定期的に清掃されているとの由です。
  「両足寺」の跡地や墓地についての情報はありませんが、「両足寺」にあった市成島津家(敷根島津家)の墓石の内、移設された墓はあります。それは、
登見の丘(ドゲンノオカ)に、島津久頼(敷根頼喜)の子の敷根忠頼の墓であり、形状は宝篋印塔です。リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)情報プラザ ・ 観光・物産情報 メニュー ・ かのや観光ナビ ・ 登見の丘によれば(リンク先URLは2011年12月現在)敷根忠頼は万治元年(1658年)に若くして亡くなったため、その死を惜しんで立派な宝篋印塔にしたとの由です。
  宝篋印塔については、鴨着く島でも市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)の中で、リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)情報プラザ ・ 観光・物産情報 メニュー ・ かのや観光ナビでも登見の丘の中で紹介されています。
登見の丘(ドゲンノオカ)については、楽天トラベル ・ たびノート ・ 鹿児島県でも登見の丘のツツジとして、全国旅そうだんでも登見の丘として、じゃらんnetでも登見の丘として、鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」((社)鹿児島県観光連盟&鹿児島県観光交流局観光課)でも鹿屋市市成、登見の丘公園として(リンク先URLは2011年11月現在)、紹介されています。
  
市成島津氏・敷根忠頼の墓への公共交通機関での行き方・アクセスは、2013年8月現在いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「百引 (地図)−百引支所前(地図)・市成本町(地図)経由−牧之原(地図)・福山高校前(地図)」、「百引 (地図)−百引支所前(地図)経由−市成本町(地図)」、「岩川(地図)−恒吉(地図)・柏木段(この辺り(地図))・市成本町(地図)経由−市成車庫(地図)」等の路線の路線バスに乗り、「市成農協前」バス停(地図)下車、タクシーで10分です。「鹿屋」バスセンター(地図)からは、鹿児島交通三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク))の「鹿屋(地図)−上祓川・高隈(地図)経由−百引(地図)」路線の路線バスに乗り、一旦「百引」バス停(地図)に行った上で、そこで上述の「百引 (地図)−百引支所前(地図)・市成本町(地図)経由−牧之原(地図)・福山高校前(地図)」路線の路線バスに乗り換えれば、行けます。この「百引」バス停(地図)経由の行き方は、2013年8月現在、平日と土曜日のみ、朝8時台の片道で福山高校前(地図)行きの直行便もあります。
  これらの路線バスの起点・「鹿屋」バス停(地図)へは、2013年8月現在鹿児島市からお越しの方や、京都,  大阪,  神戸,  福岡,  熊本県等から九州新幹線でお越しの方は、「金生町(鹿児島)」バス停(地図)或いは九州新幹線 ・ 鹿児島中央駅地図)の鹿児島中央駅前バス停から、いわさきコーポレーション解説) ・ 三州自動車(旧・大隅交通ネットワーク)(九州のバス時刻表ホームページ上の表記は、2013年8月現在鹿児島交通)の「鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バス(金生町(鹿児島)(地図)・鹿児島中央駅鴨池・垂水フェリー・垂水港(地図)経由−鹿屋(地図)・東笠ノ原(地図))」の特急路線バスに乗れば、行けます。
  空路でお越しの方は、鹿児島空港地図)から、「鹿児島空港地図)−牧之原(地図)・市成(地図)・百引(地図)経由−鹿屋(地図)」の空港アクセス・特急バスのバス路線に乗れば、「鹿屋」バス停(地図)に行けます。なお、この空港アクセス・特急バスは、「市成」バス停(地図)に停まりますので、「市成」バス停(地図)下車、タクシーでも行けます。
  バスの時刻表については、九州のバス時刻表ホームページでご参照いただける他、上述の鹿児島(鹿児島中央駅等)〜鹿屋間直行バスについては、垂水市ホームページ ・ 鹿児島〜鹿屋間直行バスのお知らせ,或いは鹿屋市ホームページ ・ 鹿児島中央駅−鹿屋間直行バス(リンク先URLは2011年11月現在)、空港アクセス・バスについては鹿児島空港ホームページでも、ご参照いただけます。タクシー会社については【gooタウンページ】タクシー会社の検索結果で、お調べいただけます。
  鹿屋市の宿については
【楽天トラベル】鹿児島県鹿屋市の宿(ホテル等)の検索結果でお探しいただけます。また、鹿屋市の温泉には、鹿屋市の温泉欄ホテル 太平温泉等)があります。
  その他、島津氏宗家・庶流各家の墓/墓地については、当ホームページ内の
感応寺訪問記内の島津氏諸家の墓一覧表で、ご参照いただけます。)

垂野城(たるのじょう)跡の場所
(リンク先は、城郭放浪記 ・ 大隅国のお城一覧 (鹿児島県鹿屋市)、ならびに上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベース ・ 垂野城に基づく、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図 いつもガイドの地図。住所:鹿児島県鹿屋市輝北町市成、Tel.:099-486-1111 (鹿屋市輝北総合支所)。上野原縄文の森ホームページ ・ 埋蔵文化財情報データベースでも垂野城として、WARP:国立国会図書館インターネット資料収集保存事業 ・ 輝北町ポラリスネット(旧・輝北町公式ホームページ)アーカイブ(保存)・ページでも【情報交差点】広報きほく(平成13年度4月号)として、鴨着く島おおすみ ・ 『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史