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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面) > 鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城 > 熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)

鶴丸城(鹿児島城)

  

熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)


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目次  :  鹿児島の温泉地&観光地((当画面ではなく)当ホームページ全体の一部の目次)
鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
温泉宿 →鹿児島県の温泉宿宿泊予約はこちらへ
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)



目次  :  当画面(当ページ)内+αの目次

当画面(当ページ)内の目次
(熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)

当画面(当ページ)の先頭(トップ)
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)の城紹介欄の先頭
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県
温泉宿,ホテル宿泊予約

当画面(当ページ)の1つのページ(画面)の目次
鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、両県外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(目次編)+訪問した城

鹿児島県+宮崎県の城(目次)
(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
島津氏宗家の城の変遷 島津忠良公の城の変遷
島津義久公の城の変遷 島津義弘公の城の変遷
島津歳久公と日置家の城・御仮屋の変遷 島津家久公と永吉家の城・御仮屋の変遷
島津忠将と垂水家の城・御仮屋の変遷
+佐土原藩の城
島津尚久と宮之城家の城・御仮屋の変遷
北郷氏(都城島津家)の城・御仮屋の変遷 豊州家(帖佐島津家)の城・御仮屋の変遷
佐多氏(知覧島津家)の城・麓の変遷 薩州家(薩州島津家)の城
江戸時代の御一門(四家)の御仮屋、島津氏の墓
宮崎県の城(詳細解説欄)
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(目次)
(当画面(当ページ)で紹介した城の個別の各城についての目次)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県
当ホームページ管理人が訪問した、鹿児島県外の城
(島津氏に関連の無い城)

当画面(当ページ)と並行の位置にある画面の目次
島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史

戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場
(三州(薩摩国,大隅国,日向国(現・鹿児島県&宮崎県))の領国国内統一平定戦の軌跡)


九州  : 

熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)
=鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連の城+α(詳細欄)
島津氏九州統一戦、豊臣秀吉九州征伐、  島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)

九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)(当画面のの画面)
鹿児島県(当画面のの画面) 宮崎県(当画面のの画面) 当画面掲載の城に対する目次
(当画面のの画面)
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内の目次

熊本県の城

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当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内の目次
市町村 城跡
人吉市 人吉城
戦国時代の天正9年(1581年)の水俣合戦の結果、人吉城城主・相良義陽は、島津氏麾下の武将に転じました。)

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水俣市
(みなまたし)
水俣城みなまたじょう
戦国時代の天正9年(1581年)の水俣合戦の結果、島津氏の城になりました。)

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葦北郡
あしきたぐん
芦北町 佐敷城さしきじょう
戦国時代の天正9年(1581年)の水俣合戦の結果、島津氏の城になりました。この時点の佐敷城は、今日の佐敷城跡佐敷城跡城山公園ではなく、佐敷東の城であった可能性があります(ただし、今日の佐敷城跡佐敷城跡城山公園の場所の城である可能性もあります)。
  島津氏との関連では、
佐敷城は、安土桃山時代の文禄元年6月(1592年7月9日〜8月7日)に起きた梅北一揆の舞台にもなりました。梅北一揆の時の佐敷城は、今日の佐敷城跡佐敷城跡城山公園の場所の方の佐敷城です。)

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佐敷東の城
(上記のとおり、戦国時代の天正9年(1581年)の水俣合戦の結果、島津氏の城になった時点の佐敷城は、今日の佐敷城跡佐敷城跡城山公園ではなく、佐敷東の城であった可能性があります(ただし、今日の佐敷城跡佐敷城跡城山公園の場所の城である可能性もあります)。)

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八代市
(やつしろし)
古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城
古麓城ふるふもとじょう肥後国 八代郡 八代(やつしろ;現・熊本県 八代市)にあった城で、二代目八代城である麦島城むぎしまじょうや、三代目八代城である八代城やつしろじょう;別名:松江城,  白鷺城とは異なる、戦国時代初代八代城です。日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野城城主・島津義弘公が、天正13年(1585年)に肥後国 守護代に就任して、古麓城ふるふもとじょう初代八代城))も拠点にしました。)

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麦島城むぎしまじょう)(二代目八代城
麦島城むぎしまじょうは、肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の宇土古城(天正17年((1589年)以降は、宇土城)城主・小西行長が天正16年(1588年)に築いた、安土桃山時代二代目八代城です。)

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八代城やつしろじょう;別名:松江城,  白鷺城)(三代目八代城
八代城やつしろじょう;別名:松江城,  白鷺城は、江戸時代初期の元和5年(1619年)に、二代目八代城麦島城むぎしまじょうが大地震のために倒壊した後、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の熊本城城主・加藤忠広江戸幕府の許可を得て築城した城であり、江戸時代三代目八代城です。)

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天草市 本渡市地域 本渡城本渡城(;ほんどじょう;別表記:本戸城,本砥城)地図),  【楽天トラベル・たびノート】城山公園(殉教公園)地図
(外部リンク)
本渡城跡は、肥後国 天草郡 本渡(ほんど;別表記:本戸,本砥)(現・熊本県 ・ 天草市の旧本渡市地域の下島)にあった中世城郭の遺構で、天草五人衆天草氏天草種元の居城跡です。
  鹿児島県高等学校歴史部会『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』山川出版社,2005)p.140,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠兼(薩州家)によれば、当初は肥後国 天草郡に属していた長島列島(現・鹿児島県 ・ 出水郡(いずみぐん) 長島町)の
堂崎城城主は、戦国時代の一時期、本渡城城主・天草尚種の弟の天草越前正(天草越前守)の居城であったとの由です。永禄8年(1565年)、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第6代当主・島津義虎の命により、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 野田(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域)の新城城主で薩州家(薩州島津氏)第4代当主・島津忠興の三男の島津忠兼が永禄8年3月24日(1565年4月24日)に天草尚種の弟の天草越前正(天草越前守)を打ち破り、堂崎城を攻め落としたとの由です。以来、堂崎城島津氏領(内の薩州家(薩州島津氏)領)となり、天草諸島の中でも長島列島は薩摩国 出水郡(いずみぐん)の所属になり、今日に至るまで鹿児島県に所属して、2015年1月現在鹿児島県 ・ 出水郡(いずみぐん) 長島町になっています。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 本渡城,  天草種元,ならびに天草五人衆,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏,  武家家伝 大矢野氏,  武家家伝 志岐氏,  武家家伝 上津浦氏等によれば、天草天草諸島)の諸氏は当初、一時期は肥後国 守護でもあった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の
大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)の勢力下にあったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の結果、大友氏の勢力が衰えると、天草諸氏は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従うようになったとの由です。武家家伝 大矢野氏によれば、天正8年(1580年)に天草諸氏は、島津氏の命を受けて水軍を出して、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の水軍と、肥後国 玉名郡(現・熊本県 ・ 玉名市,  荒尾市,  玉名郡)の沖合で戦って敗れてしまったとの由です。武家家伝 大矢野氏,ならびに武家家伝 志岐氏によれば、海戦に勝った龍造寺隆信は、自(みずか)ら兵を率いて天草に攻め込んで、肥後国 天草郡志岐(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「志岐」)の志岐城城主・志岐鎮経(麟泉)等の天草諸氏を降伏させたとの由です。武家家伝 大矢野氏等によれば、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信と、島津家久公が率いる島津氏との連合軍が天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、天草勢は島津軍に属して戦ったとの由です。この時以降、天草天草諸島)からは完全に龍造寺氏の勢力が駆逐されて、島津氏の勢力圏下に属したとの由です。この沖田畷の戦いの前後いずれのタイミングであるかについては当HP管理人は存じ上げませんが、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏によれば、この時期の天草氏当主は天草鎮尚であり、天草鎮尚と嫡男・天草久種は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従っていたとの由です。
  ところが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の結果、天草天草諸島)は島津氏の手から離れることになりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)天草氏を含む天草五人衆は所領を安堵されて、天正15年(1587年)の肥後国人一揆でも、サバイバルできたとの由です。肥後国人一揆後の天草五人衆は、新たに肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の
宇土古城(天正17年((1589年)以降は、宇土城地図)城主・小西行長の支配に属することになたとの由です(ただし、肥後南半国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏によれば、この時期、天草久種は具体的な知行地不明ながら6,785石を知行していたとの由ですが、肥後国 天草郡 本渡(ほんど;別表記:本戸,本砥)小西行長に没収されて、天草鎮尚の妻の兄弟である天草伊豆守種元が、その代官になったとの由です。故に、この時期、天草種元本渡城城代であったことになります。このため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆に載っている武家家伝 天草氏の武将は、天草鎮尚・天草久種父子ではなく、天草種元になっています。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、小西行長からの
宇土城地図普請の要求を断って天正17年(1589年)に反乱「天草国人一揆」を起こしてしまったために、小西行長と、助成に来た肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正の軍に攻められて、滅亡或いは服属したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏によれば、「天草国人一揆」を起こした武士の中の1人である天草種元など天草氏の多くの者が討ち死にしてしまい、天草種元の死を見た天草久種は、抵抗を継続することの愚を悟って小西行長に降伏して本領を安堵されて、小西行長の与力になったとの由です。以降、天草久種は小西行長につき従い、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際にも、小西行長に従って渡海したとの由です。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い小西行長が没落した後、天草久種は、備前国 御野郡(みのぐん) 岡山(現・岡山県 ・ 岡山市 北区丸の内,  内山下」等)の
岡山城(烏城)公式HP,  解説,  地図城主で、備前備中 岡山藩 ・ 小早川家初代藩主・小早川秀秋に仕えたとの由ですが、慶長7年(1602年)の小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣断絶により改易されると、天草氏は最終的に没落したとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏によれば、天草久種の2人の弟、天草新介種景と天草喜右衛門の系統が子孫を伝えているとの由であり、また、他にも天草氏の血脈を伝えている家があるとの由です。
  なお、「天草氏のその後」ではなく「地域のその後」については、当ホームページ内の
富岡城紹介欄で、ご参照いただけます。
  
本渡城跡(本戸城跡)にある観光スポットには、天草市立天草キリシタン館(天草切支丹館)解説,  地図,  城山公園(殉教公園)地図があります。)

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旧有明町地域 上津浦城上津浦城(こうつうらじょう)(上津浦城(東の城)(地図),  上津浦城(西の城)(地図))
(外部リンク)
上津浦城跡こうつうらじょうあとは、肥後国 天草郡上津浦(こうつうら;現・熊本県 ・ 天草市旧有明町地域大字(おおあざ)有明町上津浦」)にあった中世城郭の遺構で、天草五人衆上津浦氏(こうつうらし)上津浦種直(こうつうら たねなお)の居城跡です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏,  武家家伝 大矢野氏,  武家家伝 志岐氏,  武家家伝 上津浦氏等によれば、天草天草諸島)の諸氏は当初、一時期は肥後国 守護でもあった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の
大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)の勢力下にあったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の結果、大友氏の勢力が衰えると、天草諸氏は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従うようになったとの由です。武家家伝 大矢野氏によれば、天正8年(1580年)に天草諸氏は、島津氏の命を受けて水軍を出して、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の水軍と、肥後国 玉名郡(現・熊本県 ・ 玉名市,  荒尾市,  玉名郡)の沖合で戦って敗れてしまったとの由です。武家家伝 大矢野氏,ならびに武家家伝 志岐氏によれば、海戦に勝った龍造寺隆信は、自(みずか)ら兵を率いて天草に攻め込んで、肥後国 天草郡志岐(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「志岐」)の志岐城城主・志岐鎮経(麟泉)等の天草諸氏を降伏させたとの由です。武家家伝 大矢野氏等によれば、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信と、島津家久公が率いる島津氏との連合軍が天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、天草勢は島津軍に属して戦ったとの由です。この時以降、天草天草諸島)からは完全に龍造寺氏の勢力が駆逐されて、島津氏の勢力圏下に属したとの由です。
  ところが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の結果、天草天草諸島)は島津氏の手から離れることになりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)天草氏を含む天草五人衆は所領を安堵されて、天正15年(1587年)の肥後国人一揆でも、サバイバルできたとの由です。肥後国人一揆後の天草五人衆は、新たに肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の
宇土古城(天正17年((1589年)以降は、宇土城地図)城主・小西行長の支配に属することになたとの由です(ただし、肥後南半国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、天草五人衆は、小西行長からの宇土城地図普請の要求を断って天正17年(1589年)に反乱「天草国人一揆」を起こしてしまったために、小西行長と、助成に来た肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正の軍に攻められて降伏し、上津浦氏(こうつうらし)は本領を没収された上で、小西行長の家臣に組み込まれたとの由です。
  なお、「のその後」ではなく「地域のその後」については、当ホームページ内の
富岡城紹介欄で、ご参照いただけます。)

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栖本町地域
すもとまち
栖本城栖本城(すもとじょう)地図
(外部リンク)
栖本城跡すもとじょうあとは、肥後国 天草郡 栖本(すもと;現・熊本県 ・ 天草市の旧栖本町(すもとまち)地域)にあった中世城郭の遺構で、天草五人衆栖本氏(すもとし)栖本親高(すもと ちかたか)の居城跡です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏,  武家家伝 大矢野氏,  武家家伝 志岐氏,  武家家伝 上津浦氏等によれば、天草天草諸島)の諸氏は当初、一時期は肥後国 守護でもあった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の
大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)の勢力下にあったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の結果、大友氏の勢力が衰えると、天草諸氏は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従うようになったとの由です。武家家伝 大矢野氏によれば、天正8年(1580年)に天草諸氏は、島津氏の命を受けて水軍を出して、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の水軍と、肥後国 玉名郡(現・熊本県 ・ 玉名市,  荒尾市,  玉名郡)の沖合で戦って敗れてしまったとの由です。武家家伝 大矢野氏,ならびに武家家伝 志岐氏によれば、海戦に勝った龍造寺隆信は、自(みずか)ら兵を率いて天草に攻め込んで、肥後国 天草郡志岐(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「志岐」)の志岐城城主・志岐鎮経(麟泉)等の天草諸氏を降伏させたとの由です。武家家伝 大矢野氏等によれば、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信と、島津家久公が率いる島津氏との連合軍が天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、天草勢は島津軍に属して戦ったとの由です。この時以降、天草天草諸島)からは完全に龍造寺氏の勢力が駆逐されて、島津氏の勢力圏下に属したとの由です。
  ところが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の結果、天草天草諸島)は島津氏の手から離れることになりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)天草氏を含む天草五人衆は所領を安堵されて、天正15年(1587年)の肥後国人一揆でも、サバイバルできたとの由です。肥後国人一揆後の天草五人衆は、新たに肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の
宇土古城(天正17年((1589年)以降は、宇土城地図)城主・小西行長の支配に属することになたとの由です(ただし、肥後南半国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、天草五人衆は、小西行長からの宇土城地図普請の要求を断って天正17年(1589年)に反乱「天草国人一揆」を起こしてしまったために、小西行長と、助成に来た肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正の軍に攻められて、栖本氏(すもとし)当主・栖本親高(すもと ちかたか)は降伏したとの由です。武家家伝 栖本氏,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 栖本親高には明記されていませんが、恐らくはこの時、天草五人衆の他の諸氏と同様に、所領は没収された上で小西行長の家臣に組み込まれたものと推測します。
  武家家伝 栖本氏,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 栖本親高,  栖本通次によれば、その後、栖本親高梅北一揆で討ち死にしたとの由です。武家家伝 栖本氏によれば栖本親高の嫡男・栖本道隆、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 栖本親高によれば弟・栖本通隆は、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)小西行長に従って出陣して、朝鮮(現・韓国)で戦死したとの由です。栖本氏の家督は栖本親高の甥(=栖本通隆の子)・栖本又七郎鎮弘が継いだとの由です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い小西行長改易された後は、肥後 熊本藩 加藤家に仕えたとの由です。そして、江戸時代の寛永9年(1632年)に肥後 熊本藩 加藤家第2代藩主・加藤忠広の代で加藤氏改易になった後は、栖本鎮弘の子の栖本通次が、肥後 熊本藩 細川家に仕えたとの由です。この栖本通次は、森鴎外の小説阿部一族に登場する栖本又七郎であるとの由です。
  なお、「栖本氏のその後」ではなく「地域のその後」については、当ホームページ内の
富岡城紹介欄で、ご参照いただけます。)

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天草郡 苓北町 志岐城志岐城地図
(外部リンク)
志岐城跡は、肥後国 天草郡志岐(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「志岐」)にあった中世城郭の遺構で、天草五人衆志岐氏志岐鎮経(麟泉)の居城跡です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 志岐鎮経,  天草五人衆,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏,  武家家伝 大矢野氏,  武家家伝 志岐氏,  武家家伝 上津浦氏等によれば、天草天草諸島)の諸氏は当初、一時期は肥後国 守護でもあった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の
大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)の勢力下にあったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の結果、大友氏の勢力が衰えると、天草諸氏は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従うようになったとの由です。武家家伝 大矢野氏によれば、天正8年(1580年)に天草諸氏は、島津氏の命を受けて水軍を出して、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の水軍と、肥後国 玉名郡(現・熊本県 ・ 玉名市,  荒尾市,  玉名郡)の沖合で戦って敗れてしまったとの由です。武家家伝 大矢野氏,ならびに武家家伝 志岐氏によれば、海戦に勝った龍造寺隆信は、自(みずか)ら兵を率いて天草に攻め込んで、志岐城城主・志岐鎮経(麟泉)等の天草諸氏を降伏させて、志岐鎮経(麟泉)は、人質を出して龍造寺隆信に降ったとの由です。武家家伝 志岐氏,ならびに戦国島津の女達(戦国島津女系図) ・ 島津義虎女(志岐親重室)によれば、志岐鎮経(麟泉)龍造寺隆信島津氏九州の二大勢力下でサバイバルするため、当時は龍造寺隆信傘下にあった肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信の五男諸経を養嗣子として迎え入れた上で、志岐諸経の妻には、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第6代当主・島津義虎の娘・島津義虎女(志岐親重室)を迎え入れたとの由です。有馬晴信龍造寺隆信に反旗を翻して、島津家久公が率いる島津氏と組んだ連合軍が龍造寺隆信を討ち死にさせて勝利した天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、志岐鎮経(麟泉)島津氏 ・ 有馬晴信連合軍に属したとの由です。この時以降、志岐鎮経(麟泉)島津氏に従ったとの由です。
  上記各参照先によれば、続く天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際には、志岐鎮経(麟泉)豊臣秀吉に服属して所領を安堵されて、天正15年(1587年)の肥後国人一揆でも一揆に参加せずに安国寺恵瓊に人質を送って異心が無い旨を伝えて、サバイバルできたとの由です。肥後国人一揆後の天草五人衆は、新たに肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の
宇土古城城主・小西行長の支配に属することになたとの由です(ただし、肥後南半国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。ところが、天草五人衆は、小西行長からの宇土城地図普請の要求を断って天正17年(1589年)に反乱「天草国人一揆」を起こしてしまったために、小西行長と、助成に来た肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正の軍に討伐されてしまったとの由です。
  上記各参照先によれば、戦に敗れた志岐鎮経(麟泉)は、島津氏を頼って薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水に逃れたとの由です。志岐鎮経(麟泉)の養嗣子・志岐諸経は妻・島津義虎女(志岐親重室)と共に、一旦は肥前有馬氏領に逃れた上で、豊臣秀吉の命により小西行長預かりとなり、小西行長領で
麦島城むぎしまじょうがあった肥後国 八代郡 八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)に移住して、名前を志岐親重と改めたとの由です。志岐親重は、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、小西行長に従って渡海したとの由です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍側について敗れた小西行長が斬首されて改易になった後は、旧小西行長領も併せて肥後一国の領主になった加藤清正預かりになったとの由です(ただし、肥後一国からは、肥後国 球磨郡 人吉人吉城城主の相良氏領と、天草天草諸島)とを除く)。志岐親重は江戸時代初期の慶長12年(1607年)に肥後国 八代郡 八代で死に、志岐親重と島津義虎女(志岐親重室)の長男・志岐益親も寛永3年(1626年)に肥後国 八代郡 八代で死んだとの由です。寛永9年(1632年)に肥後 熊本藩 加藤家第2代藩主・加藤忠広改易になると、志岐親重と島津義虎女(志岐親重室)の次男・志岐親昌は浪人になって、志岐氏旧領の肥後国 天草郡志岐に退去したとの由です。島津義虎女(志岐親重室) ・ 志岐親昌の母子は翌寛永10年(1633年)に、船で肥後国 天草郡志岐を脱出して、島津氏領の、今日の鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)に逃れたとの由です。江戸時代薩摩川内市には、川内川河口に薩摩国 高城郡(たきぐん) 水引郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字水引町,  網津町」等)に京泊浦(きょうどまりうら;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字港町字(あざ)「京泊(この辺り(地図))」),船間島(ふなまじま;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字港町字(あざ)「船間島(この辺り(地図))」)や、薩摩国 薩摩郡 高江郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字高江町,  久見崎町」等)に久見崎軍港(ぐみざきぐんこう)等の港があり、さらに川内川の水運の港が流域にあったため、どの港に上陸したのかは、定かではありません。いずれにせよ、島津義虎女(志岐親重室)の弟(=島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第6代当主・島津義虎の五男)であり、薩摩国 薩摩郡 入来郷(いりきごう;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)入来町地域)(武家屋敷群は入来麓武家屋敷群)の私領主・入来院氏に養子に入って家督を継いで入来院氏第16代当主になっていた薩摩藩の重臣・入来院重高を頼ったとの由です。その後は、寛永14年(1637年)に志岐親昌が島津氏から知行300石が安堵された記録があるために島津氏宗家直臣であるとも、或いは、入来院氏家臣として島津氏宗家から見れば陪臣であるとも伝えられていますが、いずれにせよ、志岐氏の子孫は、薩摩藩で存続したとの由です。
  なお、「志岐氏のその後」ではなく「地域のその後」については、当ホームページ内の
富岡城紹介欄で、ご参照いただけます。)

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富岡城富岡城【楽天トラベル・たびノート】熊本県富岡ビジターセンター)(公式HP,  地図
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富岡城は、肥後国 天草郡富岡(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「富岡」)にあった、近世城郭の遺構です。江戸時代に築城されたため、戦国時代末期/安土桃山時代島津氏による九州統一(九州平定)の城ではありませんが、天草天草諸島)の地域の「その後」の話として載せておきます。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 富岡城によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の結果、天草天草諸島肥後国側)は、一旦小西行長領になっていましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍側について敗れた小西行長が斬首されて改易になってしまいました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 富岡城等によれば、翌年の慶長6年(1601年)に天草天草諸島)4万2千石は、肥前国 松浦郡 唐津(現・佐賀県 ・ 唐津市)の
島村城(慶長13年(1608年)からは唐津城解説,  地図)城主で肥前 唐津藩初代藩主の寺沢広高領になり、寺沢広高は、肥後国 天草郡富岡(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「富岡」)に富岡城を築いて、天草天草諸島)支配の拠点にしたとの由です。
  ところが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 富岡城によれば、肥前 唐津藩第2代藩主・寺沢堅高の時期に、過重な年貢負担とキリシタンカトリック教(旧教))弾圧のために、寛永14年10月25日(1637年12月11日)〜寛永15年2月28日(1638年4月12日)の島原の乱が起きてしまいました。
富岡城は堅城であるが故に一揆勢の激しい攻撃に耐え抜いたため、天草天草諸島)の一揆勢は富岡城攻略を断念して海を渡り、肥前国 高来郡(たかきぐん)原(現・長崎県 ・ 南島原市南有馬町地域の大字(おおあざ)「南有馬町乙」)の原城に籠城したとの由です。島原の乱を引き起こした責任を問われて、寺沢堅高は、天草天草諸島)4万2千石を取り上げられて減封になったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 富岡城,  鈴木重成,ならびに戸田忠昌によれば、寛永14年(1637年)〜寛永18年(1641年)の肥後 富岡藩山崎家4万2千石の後、天領となり、代官として鈴木重成が着任したとの由です。鈴木重成は、兄・鈴木正三に依頼してキリシタンに仏教への改宗を説得したり鈴木正三の著作・『破切支丹』を刊行したり、4万2千石の検地評価では年貢が厳し過ぎるとして2万1千石への減免を江戸幕府に要請したりして、後者が認められなかったため、承応2年(1653年)に抗議の切腹をしたとの由です。この結果、江戸幕府が万治2年(1659年)にようやくこれを承認して天草天草諸島)の表高は2万1千石になったとの由です。寛文4年(1664年)に肥後 富岡藩 戸田家2万1千石が立藩され、その初代藩主・戸田忠昌は城の普請が経済的に領民の負担になるとして、
富岡城の三の丸を陣屋として残して、本丸・二の丸を破却したとの由です。寛文11年(1671年)に天草天草諸島)は天領であるべきだと主張して認められて天草天草諸島)を去り、その後は、天草天草諸島)の肥後国側 は、天領になったとの由です。
  なお、天草諸島肥後国薩摩国とにまたがっていますが、上記は全て肥後国側の話です。天草諸島の内、詳しくは当ホームページ内の
堂崎城紹介欄で解説したとおりの経緯で、戦国時代島津氏領になったために肥後国から薩摩国に帰属が変更になった長島は、江戸時代には薩摩藩領であり、今日でも鹿児島県 出水郡(いずみぐん) 長島町になっています。)

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上天草市 旧大矢野町地域 大矢野城大矢野城(おおやのじょう;別名:中村城,  大矢野中村城)(地図
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大矢野城跡は、肥後国 天草郡 大矢野島(現・熊本県 ・ 上天草市  旧大矢野町地域大字(おおあざ)大矢野町中,  大矢野町上」の大矢野島地図)地域)にあった中世城郭の遺構で、天草五人衆大矢野氏大矢野種基の居城跡です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 天草氏,  武家家伝 大矢野氏,  武家家伝 志岐氏,  武家家伝 上津浦氏等によれば、天草天草諸島)の諸氏は当初、一時期は肥後国 守護でもあった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の
大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)の勢力下にあったとの由です。戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の結果、大友氏の勢力が衰えると、天草諸氏は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に従うようになったとの由です。武家家伝 大矢野氏によれば、天正8年(1580年)に天草諸氏は、島津氏の命を受けて水軍を出して、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の水軍と、肥後国 玉名郡(現・熊本県 ・ 玉名市,  荒尾市,  玉名郡)の沖合で戦って敗れてしまったとの由です。武家家伝 大矢野氏,ならびに武家家伝 志岐氏によれば、海戦に勝った龍造寺隆信は、自(みずか)ら兵を率いて天草に攻め込んで、肥後国 天草郡志岐(現・熊本県 ・ 天草郡 苓北町大字(おおあざ)「志岐」)の志岐城城主・志岐鎮経(麟泉)等の天草諸氏を降伏させたとの由です。武家家伝 大矢野氏等によれば、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信と、島津家久公が率いる島津氏との連合軍が天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、天草勢は島津軍に属して戦ったとの由です。この時以降、天草天草諸島)からは完全に龍造寺氏の勢力が駆逐されて、島津氏の勢力圏下に属したとの由です。
  ところが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の結果、天草天草諸島)は島津氏の手から離れることになりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)天草氏を含む天草五人衆は所領を安堵されて、天正15年(1587年)の肥後国人一揆でも、サバイバルできたとの由です。肥後国人一揆後の天草五人衆は、新たに肥後南半国の新領主になった、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の
宇土古城(天正17年((1589年)以降は、宇土城地図)城主・小西行長の支配に属することになたとの由です(ただし、肥後南半国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 天草五人衆等によれば、天草五人衆は、小西行長からの宇土城地図普請の要求を断って天正17年(1589年)に反乱「天草国人一揆」を起こしてしまったために、小西行長と、助成に来た肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正の軍に攻められて、大矢野種基は降伏したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大矢野種基,ならびに武家家伝 大矢野氏によれば、大矢野氏は所領を没収された上で、小西行長の家臣に組み込まれたとの由です。大矢野種基と嫡男の大矢野種量は、小西行長に従って文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で渡海して、大矢野種量は戦死したとの由です。その後は、大矢野種基の次男の大矢野直重が家督を継ぎ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い小西行長改易された後は、肥後 熊本藩 加藤家に仕えたとの由です。そして、江戸時代の寛永9年(1632年)に肥後 熊本藩 加藤家第2代藩主・加藤忠広の代で加藤氏改易になった後は、肥後 熊本藩 細川家に召し抱えられて、子孫は肥後 熊本藩藩士として続いたとの由です。
  なお、「のその後」ではなく「地域のその後」については、当ホームページ内の
富岡城紹介欄で、ご参照いただけます。)

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宇土市 宇土古城跡:宇土古城(初代宇土城)地図
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戦国時代宇土古城初代宇土城であり、二代目宇土城である宇土城とは、異なる別の城です。宇土古城跡は、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)にあった中世城郭の遺構です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名和氏,ならびに宇土城等によれば、
宇土古城は、戦国時代後半には名和氏の居城であり、詳細な紆余曲折は承暦しますが、肥後国 八代郡 八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)の古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城から移って来たとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 名和氏によれば、天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)以降、名和氏島津氏に従うようになったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名和氏によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)では所領を安堵されたとの由ですが、天正15年(1587年)のの肥後国人一揆で加担はしなかったが佐々成政への援軍にも加わらなかったために、大幅な減封かつ移封(転封)になり、肥後国 宇土郡 宇土領主としては滅んだとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宇土城,ならびに小西行長によれば、名和氏滅亡後、天正16年(1588年)以降、肥後半国の大名になった小西行長の城になり、天正16年(1588年)に新城・
宇土城二代目宇土城を築城する計画を立てて、天正17年((1589年)に宇土城二代目宇土城を築城し、宇土古城初代宇土城から移ったとの由です。)

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宇土城跡:宇土城(二代目宇土城)地図
(外部リンク)
宇土城二代目宇土城であり、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 宇土城,ならびに小西行長によれば、戦国大名 ・ 名和氏が滅亡した後、天正16年(1588年)以降、肥後半国の大名になった小西行長の城になり、天正16年(1588年)に新城・宇土城二代目宇土城を築城する計画を立てて、天正17年((1589年)に宇土城二代目宇土城を築城し、宇土古城初代宇土城から移ったとの由です。)

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宇城市 豊野町地域 花の山城花の山城地図
(外部リンク)
花の山城は、肥後国 益城郡(ましきぐん)上郷(現・熊本県 ・ 宇城市 大字豊野町上郷高峯城)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 堅志田城によれば、島津氏による肥後国(現・熊本県)平定において、天正10年(1582年)に、古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城があった肥後国八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)まで島津氏が進出したために、敵対する阿蘇氏にとっては、肥後国 益城郡中郡(現・熊本県 下益城郡 美里町 大字中郡城山)の堅志田城が、対島津氏の最前線の城になったとの由です。島津氏堅志田城を攻めあぐねたため、堅志田城の動きを封じる付城として、花の山城を築城して一時期、戦線が膠着したとの由です。天正12年(1584年)から天正13年(1585年)の阿蘇合戦の過程で、肥後国 益城郡(ましきぐん) 御船(現・上益城郡 ・ 御船町の一部)の御船城城主で阿蘇氏方の甲斐親英が、花の山城を天正13年8月13日(1585年9月6日)に攻め落としたことをきっかけにして島津氏の反撃が始まり、花の山城を奪回し、堅志田城御船城等の、阿蘇氏方の城を次々と落としていったとの由です。)

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響ケ原古戦場響ケ原古戦場地図)(現相良堂相良神社地図)))
(外部リンク)
響ケ原古戦場は、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で島津氏方に転じた相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽が、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の浜の館城主で阿蘇氏第20代当主(阿蘇神社第75代大宮司)の阿蘇惟将の重臣で、肥後国 益城郡 御船(現・上益城郡 ・ 御船町の一部)の御船城城主・甲斐親直(甲斐宗運)と戦って敗死した、天正9年(1981年)の響野原の戦い(響ヶ原の合戦)の戦場跡です。このため、跡地には、相良義陽を祀った相良堂相良神社地図))もあるとの由です。)

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三角町地域 矢崎城矢崎城この辺り(地図)
(外部リンク)
矢崎城は、肥後国 宇土郡郡浦矢崎(現・熊本県 宇城市 大字(おおあざ) 三角町郡浦字(あざ)矢崎)にあった城です。天正8年10月15日(1980年11月21日)、島津軍に攻められて落城しました。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈374〉島津軍の肥後矢崎城攻め,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦によれば、落城時の城主は中村惟冬(中村一大夫)であったとの由です。)

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下益城郡 美里町
(旧中央町地域)
堅志田城堅志田城地図
(外部リンク)
堅志田城は、肥後国 益城郡(ましきぐん)中郡(現・熊本県 下益城郡 美里町 大字中郡城山)にあった城です。戦国時代島津氏による肥後国(現・熊本県)平定の時期には、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の浜の館城主で阿蘇神社宮司家の阿蘇氏に属する城だったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 堅志田城によれば、天正10年(1582年)に、古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城があった(肥後国八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)まで島津氏が進出すると、阿蘇氏にとって、堅志田城は対島津氏の最前線の城になったとの由です。島津氏堅志田城を攻めあぐねて、肥後国 益城郡(ましきぐん)上郷(現・熊本県 ・ 宇城市 大字豊野町上郷高峯城)に付城・花の山城を築城して一時期、戦線が膠着したとの由です。天正12年(1584年)から天正13年(1585年)の阿蘇合戦の過程で、肥後国 益城郡(ましきぐん) 御船(現・上益城郡 ・ 御船町の一部)の御船城城主・甲斐親英が、花の山城を天正13年8月13日(1585年9月6日)に攻め落としたことをきっかけにして島津氏の反撃が始まり、堅志田城は落城したとの由です。)

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上益城郡 御船町 御船城御船城(みふねじょう)(現城山公園)(地図
(外部リンク)
御船城は、肥後国 益城郡(ましきぐん) 御船(現・熊本県 上益城郡 御船町の一部)にあった城です。戦国時代島津氏による肥後国(現・熊本県)平定の初期の時期には、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の浜の館城主で阿蘇氏第20代当主(阿蘇神社第75代大宮司)の阿蘇惟将の重臣・甲斐親直(甲斐宗運)の居城だったとの由です。阿蘇惟将 ・ 甲斐親直(甲斐宗運)主従が健在だった時期は、戦国時代島津氏による肥後国(現・熊本県)平定の初期の時期には、島津氏の圧力に耐えて抗して、阿蘇氏は独立を守っていたとの由です。天正9年(1981年)の響野原の戦い(響ヶ原の合戦)(場所は熊本県 ・ 宇城市豊野町地域の響ケ原古戦場)で、甲斐親直(甲斐宗運)は、肥後国人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で島津氏方に転じていた相良義陽を、打ち破って敗死させたとの由です。
  しかし、天正12年(1584年)から天正13年(1585年)にかけての阿蘇合戦においては、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 甲斐親直(甲斐宗運),ならびに甲斐親英によれば、天正13年(1585年)に甲斐親直(甲斐宗運)が没すると、(戦国時代の終わりを察知して)「天下を統一する者が現れるまで守勢のまま持ちこたえろ」と言い残した甲斐親直(甲斐宗運)の遺言に背いて、後を継いだ甲斐親英は、肥後国 益城郡(ましきぐん)上郷(現・熊本県 ・ 宇城市 大字豊野町上郷高峯城)にあった島津氏の城・
花の山城を、天正13年8月13日(1585年9月6日)に攻め落としてしまったとの由です。このことが島津氏の反撃を招き、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野城城主であり、肥後国 守護代に就任して肥後国 八代郡 八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)の古麓城ふるふもとじょう初代八代城も拠点とすることになった島津義弘公が率いる島津氏の軍勢が阿蘇氏領に侵攻し、御船城は落城したとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 御船城によれば、その後、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の結果、甲斐親英(甲斐宗立)
御船城に戻って来たとの由ですが、天正15年(1587年)の肥後国人一揆に参加して処刑されてしまい、甲斐氏は最終的に滅亡したとの由です。その肥後国人一揆の過程では、天正16年(1588年)3〜5月頃、豊前国中津(現・大分県 ・ 中津市)の中津城城主・黒田孝高(黒田官兵衛,黒田如水)が、城番として御船城に在城していたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 御船城によれば、今日では
御船城跡城山公園になっているとの由です。また、熊本県 上益城郡 嘉島町上六嘉2242の甲斐神社公式HP,  解説,  地図では、甲斐宗立(甲斐親英)足手荒神として主祭神に祀り、その父・甲斐宗運(甲斐親直)を配神として祀っているとの由です。したがって、甲斐神社公式HP,  解説,  地図は、御船城城主だった甲斐宗運(甲斐親直),  甲斐宗立(甲斐親英)親子に縁(ゆかり)のある神社であることになります。
  なお、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 甲斐氏によれば、甲斐氏は、阿蘇氏の家臣になる以前には、日向国 臼杵郡
高千穂(高知尾)の、日向国 臼杵郡向山(現・宮崎県 ・ 西臼杵郡 高千穂町 大字「向山」)の仲山城中山城城主で、戦国時代高千穂(高知尾)を支配した豪族・三田井氏(高知尾氏)の家臣であったとの由です。したがって、詳しくは当画面(当ページ)内の仲山城紹介欄中崎城紹介欄で解説した、三田井氏の重臣で、日向国 臼杵郡高千穂日向国 臼杵郡中崎(現・宮崎県 ・ 西臼杵郡 日之影町 大字「岩井川」「中崎」)の中崎城城主の甲斐長門守宗摂(甲斐長門守宗雪)は、御船城城主だった甲斐親直(甲斐宗運)の同族であることになります。)

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山都町
やまとちょう
(旧矢部町地域)
浜の館浜の館地図
(現熊本県立矢部高等学校この辺り(地図)),  矢村神社この辺り(地図))も旧城域内)

(外部リンク)
浜の館は、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)にあった城であり、同じく矢部郷にあった岩尾城と共に、阿蘇神社肥後国 阿蘇郡宮地(現・住所で熊本県 阿蘇市 一の宮町宮地3083−1))の大宮司家でもあった戦国大名 ・ 阿蘇氏の居城だったとの由で、阿蘇氏の居城でした。戦国時代島津氏による肥後国(現・熊本県)平定の初期の時期には、浜の館城主で阿蘇氏第20代当主(阿蘇神社第75代大宮司)の阿蘇惟将は重臣である肥後国 益城郡(ましきぐん) 御船(現・上益城郡 ・ 御船町の一部)の御船城城主・甲斐親直(甲斐宗運)に支えられて島津氏の圧力に耐えていたとの由です。しかし、天正11年11月2日(1583年12月15日)に阿蘇惟将が死ぬと、弟で家督を継いだ阿蘇氏第21代当主(阿蘇神社第76代大宮司)・阿蘇惟種阿蘇惟将死亡の翌年・天正12年8月13日(1584年9月17日)に死に、阿蘇惟種の嫡男でわずか2歳の阿蘇惟光阿蘇氏第22代当主(阿蘇神社第77代大宮司)になったとの由です。天正12年(1584年)から天正13年(1585年)の阿蘇合戦では、 天正13年7月3日(1585年7月29日))(天正11年(1583年)死去説もある)に甲斐親直が死んだこともあり、当主は幼く重臣まで失った阿蘇氏島津氏に対抗できなくなったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦によれば島津氏岩尾城を攻めた時に幼い阿蘇惟光では抗しきれず、熊本県 ・ 上益城郡 山都町(やまとちょう)目丸山地図中に逃亡して阿蘇氏は滅亡し、浜の館は焼失したとの由です。
  熊本県 上益城郡 山都町(やまとちょう)城平954にある
熊本県立矢部高等学校この辺り(地図)が、浜の館跡の跡地であるとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 浜の館参照した2014年8月時点の記載内容によれば、熊本県 上益城郡 山都町城平1078にある矢村神社この辺り(地図)も、浜の館跡の敷地内であったとの由です。矢村神社この辺り(地図)は、平安時代の寛弘3年(1006年)に創建された由緒ある古社であるとの由です。阿蘇氏肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)(現・熊本県 上益城郡 山都町の一部)に移って来た際に、阿蘇神社の末社として創建したとの由ですが、城郭放浪記 ・ 肥後・浜の館によれば、阿蘇氏浜の館跡に移って来たのは鎌倉時代の承元元年(1207年)頃のことであるとの由であり、参照先に応じて、移って来た年とされる年が異なっています。)

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岩尾城岩尾城(現二の丸公園城山公園))(地図
(外部リンク)
岩尾城は、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)(現・熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の、今日の大字(おおあざ)「城原」にあった中世城郭遺構であり、同じく矢部郷にあった浜の館と共に、阿蘇神社肥後国 阿蘇郡宮地(現・住所で熊本県 阿蘇市 一の宮町宮地3083−1))の大宮司家でもあった戦国大名 ・ 阿蘇氏の居城だったとの由です。住所:熊本県 上益城郡 山都町 大字城原本丸。
  九州旅ネット ・ 城山公園によれば、
岩尾城は、天正13年(1585年)に阿蘇氏の過程で島津氏に攻め落とされたとの由です。天正12年(1584年)から天正13年(1585年)の阿蘇合戦阿蘇氏が滅亡した経緯について詳しくは、当画面(当ページ)内の浜の館紹介欄でご参照いただけます。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦には、肥後国 阿蘇郡 高森(現・熊本県 阿蘇郡 高森町大字(おおあざ)高森)の
高森城城主・高森惟居が天正13年(1585年)に島津氏に叛旗を翻した際に、岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城も一旦は高森惟居が奪ったものの、肥後国(現・熊本県)の諸城が島津氏に落とされると、島津氏の侵攻を恐れて岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城が開城した旨が載っています。この情報は、2015年7月現在、他の情報源では見つけられていない情報ですので、史実どおりであるか否かについて当ホームページ管理人は、他の情報源でダブル・チェック的な確認を、まだできていません。
  九州旅ネット ・ 城山公園,ならびに二の丸公園(岩尾城跡),  なごみ紀行 くまもと ・ 二の丸公園(岩尾城跡),ならびに城山公園等によれば(リンク先URLは2014年8月現在)
岩尾城跡は、二の丸公園城山公園)になっているとの由です。また、古城案内2000 ・ 岩尾城等によれば、岩尾城跡(現二の丸公園城山公園)がある場所(地図)は、熊本県 上益城郡 山都町 大字下市184-1の道の駅通潤橋解説,  地図熊本県 上益城郡 山都町 大字下市の通潤橋解説,  地図の、近くにあるとの由です。)

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益城町 赤井城赤井城地図
(外部リンク)
赤井城は、肥後国 益城郡(ましきぐん)赤井(現・熊本県 上益城郡 益城町 大字(おおあざ)赤井)の字(あざ)本丸にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,  木山城(肥後国),ならびに赤井城によれば、阿蘇合戦の過程で赤井城島津氏に攻められて天正13年(1585年)9月に落城し、落城時の城主は木山惟久(木山紹宅)であったとの由です。)

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木山城木山城(現木山城跡公園)(地図
(外部リンク)
木山城は、肥後国 益城郡(ましきぐん) 木山(現・熊本県 上益城郡 益城町の昭和29年(1954年)までの旧木山町地域)の大字(おおあざ)寺迫にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,  木山城(肥後国),ならびに赤井城によれば、木山城阿蘇合戦の過程で島津氏に攻められて天正13年(1585年)9月に落城し、落城時の城主は木山惟久(木山紹宅)で、城代が守っていたとの由です。)

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津森城津森城地図
(外部リンク)
津森城は、肥後国 益城郡(ましきぐん)津森(現・熊本県 上益城郡 益城町の昭和29年(1954年)までの旧津森村地域)の大字(おおあざ)下陳の字(あざ)吉田にあった城です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 合志氏,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに津森城によれば、津森城城主・光永宗甫は阿蘇合戦の過程で、一旦は島津氏に属したものの天正13年(1585年)に謀反を起こし、島津氏に攻められて天正13年(1585年)に最終的に落城したとの由です。)

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阿蘇市 一の宮町地域 阿蘇神社【楽天トラベル・たびノート】阿蘇神社解説)(地図
肥後国 阿蘇郡宮地(現・住所で熊本県 阿蘇市 一の宮町宮地3083−1))にある神社です。阿蘇神社自体は中世の城跡ではありませんが、阿蘇神社宮司家の阿蘇氏は、肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)(現・熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の浜の館を本拠地とする肥後国の反島津氏戦国大名として、熊本県戦国時代に名が残っています。阿蘇合戦によって阿蘇氏島津氏に攻め滅ぼされた過程については、当ホームページ内の浜の館紹介欄等でご参照いただけます。)

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阿蘇郡 南阿蘇村
(旧久木野村地域)
南郷城南郷城地図
(外部リンク)
南郷城は、肥後国 阿蘇郡南郷(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧久木野村地域等)の大字(おおあざ)久石字(あざ)上駄原にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに南郷城によれば、南郷城阿蘇合戦の過程で島津氏に攻められて天正12年(1584年)に落城し、南郷城に入って抗戦していた肥後国 阿蘇郡長野(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧長陽村(ちょうようむら)地域の大字(おおあざ)長野)の長野城城主・長野惟久が敗死したとの由です。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦には、肥後国 阿蘇郡 高森(現・熊本県 阿蘇郡 高森町大字(おおあざ)高森)の
高森城城主・高森惟居が天正13年(1585年)に島津氏に叛旗を翻した際に、岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城も一旦は高森惟居が奪ったものの、肥後国(現・熊本県)の諸城が島津氏に落とされると、島津氏の侵攻を恐れて岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城が開城した旨が載っています。この情報は、2015年7月現在、他の情報源では見つけられていない情報ですので、史実どおりであるか否かについて当ホームページ管理人は、他の情報源でダブル・チェック的な確認を、まだできていません。)

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南阿蘇村
(旧長陽村地域)
長野城長野城地図
(外部リンク)
長野城は、肥後国 阿蘇郡長野(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧長陽村(ちょうようむら)地域の大字(おおあざ)長野)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに長野城(肥後国)によれば、長野城阿蘇合戦の過程で天正12年(1584年)に島津氏が侵攻した時に、長野城城主・長野惟久は、肥後国 阿蘇郡南郷(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧久木野村地域等)の南郷城に入って抗戦して敗死し、長野城も落城したとの由です。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦には、肥後国 阿蘇郡 高森(現・熊本県 阿蘇郡 高森町大字(おおあざ)高森)の
高森城城主・高森惟居が天正13年(1585年)に島津氏に叛旗を翻した際に、岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城も一旦は高森惟居が奪ったものの、肥後国(現・熊本県)の諸城が島津氏に落とされると、島津氏の侵攻を恐れて岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城が開城した旨が載っています。この情報は、2015年7月現在、他の情報源では見つけられていない情報ですので、史実どおりであるか否かについて当ホームページ管理人は、他の情報源でダブル・チェック的な確認を、まだできていません。)

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下田城下田城地図
(外部リンク)
下田城は、肥後国 阿蘇郡南郷下田荘(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧長陽村(ちょうようむら)地域の大字(おおあざ)河陽)の字(あざ)東所原にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに城郭放浪記 ・ 肥後・下田城によれば、阿蘇合戦の過程で、島津氏肥後国 阿蘇郡南郷(現・熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村の平成17年(2005年)2月13日の合併前までの旧久木野村地域等)に侵攻して、天正12年(1584年)に長野惟久が守る南郷の南郷城を陥落させて長野惟久が玉砕した時に、長野惟久と一緒に戦っていた下田城城主の下田氏も、島津氏に敗れて滅亡したとの由です。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦には、肥後国 阿蘇郡 高森(現・熊本県 阿蘇郡 高森町大字(おおあざ)高森)の
高森城城主・高森惟居が天正13年(1585年)に島津氏に叛旗を翻した際に、岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城も一旦は高森惟居が奪ったものの、肥後国(現・熊本県)の諸城が島津氏に落とされると、島津氏の侵攻を恐れて岩尾城,  長野城,  南郷城,  下田城が開城した旨が載っています。この情報は、2015年7月現在、他の情報源では見つけられていない情報ですので、史実どおりであるか否かについて当ホームページ管理人は、他の情報源でダブル・チェック的な確認を、まだできていません。)

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高森町 高森城高森城この辺り(地図)
(外部リンク)
高森城は、肥後国 阿蘇郡 高森(現・熊本県 阿蘇郡 高森町大字(おおあざ)高森)の字(あざ)城山にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 高森惟直によれば天正14年(1586年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦2015年7月時点の記載内容から逆算すれば天正13年(1585年)に、阿蘇合戦の過程で島津氏の攻撃に対して、高森城城主・高森惟直が城外で戦って討ち死にして落城しましたが、高森惟直の子・高森惟居が降伏したふりをして島津軍を油断させた上で攻撃して、一旦は高森城を取り戻したとの由です。しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに高森城(肥後国)によれば、天正14年(1586年)に高森惟居が敗北して、高森城島津氏の城になったとの由です。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦2015年7月時点の記載内容に載っていた前段落の高森惟居による一時的な逆転の話は、これに基づけば高森惟直が敗死したのは天正13年(1585年)のことになりますし、また、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 合志氏にも、天正13年(1585年)に島津氏に背いた時の
高森城城主は高森惟直ではなく高森惟居である旨が載っています。しかし、これらの情報は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 高森惟直,ならびに朝日新聞オンライン ・ 高森殿の杉(高森町)等に載っている高森惟直の死亡年・天正14年(1586年)と矛盾します。高森城が最終的に島津氏に攻め落とされた時の城主が高森惟直と高森惟居のいずれであったのかについては、参照する情報源によって微妙に矛盾があり、2015年7月現在、調べてもよく分かりませんでした。)

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川上城野尻城):川上城(別名:野尻城)(地図
(外部リンク)
川上城は、肥後国 阿蘇郡野尻(現・熊本県 ・ 阿蘇郡 高森町 大字野尻)の石原にあった、中世城郭遺構であり、お城のとびら ・ 熊本県の城によれば、野尻城という別名があります。
  島津氏肥後国(現・熊本県)の
阿蘇神社宮司家で戦国大名阿蘇氏を攻めた阿蘇合戦の過程で、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦2015年7月時点の記載内容によれば肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)熊本県 ・ 上益城郡 山都町の一部)の岩尾城を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 浜の館2015年7月時点の記載内容によれば野尻城を、天正14年(1586年)に島津氏が攻めた時に、幼少の阿蘇氏第22代当主(阿蘇神社第77代大宮司)・阿蘇惟光は抗しきれずに、熊本県 ・ 上益城郡 山都町(やまとちょう)目丸山地図の山中に逃れたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇惟光によれば、この逃亡は「目丸落ち」と呼ばれているとの由であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 浜の館2015年7月時点の記載内容によれば、この阿蘇氏当主逃亡時に、阿蘇氏の本城であった肥後国 益城郡(ましきぐん) 矢部郷(やべごう)浜の館は炎上したとの由です。
  実は、上述の「目丸落ち」の際の
野尻城が、この肥後国 阿蘇郡野尻の野尻城のことを指すのか、それとも肥後国内に同名の別の城があってこの野尻城とは異なる城であるのか、そのいずれであるのかを確認した上での掲載ではありません。もしかしたら、「目丸落ち」の際の野尻城とは、この野尻城とは異なる別の城である可能性は否定できませんが、恐らくはこの野尻城であろうと推測して、掲載しておきます。)

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熊本市 中央区 熊本城(旧称:隈本城,別名:千葉城):【楽天トラベル・たびノート】熊本城公式HP,  解説)(地図
(外部リンク)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 熊本城によれば、阿蘇合戦の時期の熊本城の旧称は、隈本城千葉城であったとの由です。隈本城は、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)にあった中世城郭であり、熊本城は、隈本城を大改築して改名の上で築城された、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 熊本にある近世城郭遺構です。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 城氏,  菊池一族おっかけサイト 菊池玲瓏 ・ 旦過瀬の戦い,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 城氏 (藤原姓菊池一門),ならびに熊本城によれば、戦国時代末期の阿蘇合戦の時期の
隈本城城主は、肥後国 山鹿郡城(現・熊本県 山鹿市 大字(おおあざ)城)の城村城地図から移って来た、菊池氏庶流で、かつての菊池三家老家の1家だった城氏(じょうし)であったとの由です。天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)以降、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信からの脅威に対抗するために、城氏第13代当主・親賢は、肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の宇土古城跡城主・名和氏と共に、島津氏に近づいたとの由です。しかし、肥後国の反島津氏戦国大名 ・ 阿蘇氏の重臣である肥後国 益城郡(ましきぐん) 御船(現・上益城郡 ・ 御船町の一部)の御船城城主・甲斐親直(甲斐宗運)と、天正8年(1580年)に肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本白川 旦過ノ瀬旦過の瀬)(地図(注))で戦って敗れたとの由です。さらに翌天正9年(1581年)には肥後国に侵攻して龍造寺隆信と戦って敗れたため、一時、龍造寺隆信に降った親賢は、同年末に病死したとの由です。
(注) 白川 旦過ノ瀬旦過の瀬)の地図は、菊池一族おっかけサイト 菊池玲瓏 ・ 旦過瀬の戦い,ならびにくまもとウォーターライフ ・ 熊本水遺産によるものです。現在の、熊本県 熊本市 中央区世安町の世安橋辺りであったとの由です。

  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 城氏によれば、親賢の死後、家督を継いだ城氏第14代当主・十郎太郎久基は幼少だったため、出田氏を継いでいた出田一要(親基)が久基を後見したとの由です。出田一要(親基)は再び島津氏と結んで、天正10年(1582年)に肥後国 玉名郡安楽寺(現・熊本県 ・ 玉名市大字(おおあざ)「安楽寺」(この辺り(地図)?(注)))で、龍造寺勢を撃破したとの由です。しかし、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)では天正15年(1587年)に久基は、島津氏から離反して豊臣秀吉軍に
隈本城を開城したとの由です。このため久基は所領を安堵されたとの由ですが隈本城は没収されたとの由です。天正15年(1587年)の肥後国人一揆では久基が大阪にいて加担しなかったためサバイバルすることができたものの移封(転封)になり、さらに、久基が17歳で子供を作る前に若死にし、城氏に復姓して家督を継いだ出田一要(親基)も死去したため、城氏は断絶してしまったとの由です。なお、城氏の血統は、久基の弟で、出田氏を継いだ出田武房が、細川氏に仕えて後世に伝えたとの由です。
(注) 〜風の宿り〜ブログ ・ 【梅林天満宮】(熊本県玉名市)によれば、現在熊本県 玉名市津留499にある梅林天満宮地図は、かつては肥後国「梅林山安楽寺天満宮」と称されていて、今日の熊本県 玉名市大字(おおあざ)「安楽寺」字(あざ)「上村」(この辺り(地図))の地にあったとの由ですが、戦国時代の永禄4年(1561年)に火災によって焼失したため、現在地に移転したとの由です。本文では、合戦の地である「肥後国 玉名郡安楽寺」の場所として肥後国「梅林山安楽寺天満宮」の旧社地があった場所の現在の字(あざ)の辺りを示してみましたが、合戦時には既に移転後であるため、もしかしたら、現在の梅林天満宮地図の周辺である可能性もあり得ます。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐々成政等によれば、豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の次に
隈本城城主になった武将は、肥後一国を豊臣秀吉から任された、天正13年(1585年)の富山の役(越中征伐)まで越中国 新川郡 富山(現・富山県 ・ 富山市)の富山城公式HP,  解説,  地図城主だった佐々成政でした(ただし、肥後一国からは、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主の相良氏(さがらし)領を除く)。しかし、佐々成政は、天正15年(1587年)に肥後国人一揆を起こしてしまい、しかも自力では鎮圧できなかったため、失政の責任を取って天正16年閏5月14日(1588年7月7日)に切腹するハメに陥ってしまい、佐々氏は改易になってしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 熊本城,ならびに加藤清正等によれば、佐々成政の次に隈本城城主になった武将は、肥後北半国19万5,000石の領主になった加藤清正でした。加藤清正は、天正19年(1591年)から慶長11年(1606年)にかけて、隈本城があった場所に熊本城を築城したとの由です。築城が完了した慶長11年(1606年)に、城の完成を祝って「隈本」を「熊本」に改めて、その結果、城も隈本城熊本城に改めたとの由です(言い換えれば、加藤清正が来てから後も、慶長11年(1606年)以前の時期にはまだ、城の表記は隈本城であり、城下町の表記は「隈本」だったことになります)。この間、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍についた肥後国 宇土郡 宇土(現・熊本県 ・ 宇土市)の宇土城地図城主で肥後南半国の領主・小西行長が斬首になって改易されると、加藤清正は旧小西行長領も併せて領有することになり、肥後一国の大名になり(ただし、肥後一国からは、肥後国 球磨郡 人吉人吉城城主の相良氏領と、天草天草諸島)とを除く)、肥後 熊本藩(厳密には、慶長11年(1606年)に城と街の名称の「字」を「隈本」から「熊本」に改名する以前の名称は肥後 隈本藩)を立藩しました。加藤氏は、江戸時代の寛永9年(1632年)に、肥後 熊本藩 加藤家第2代藩主・加藤忠広の代で改易になってしまったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 熊本藩,  細川忠利等によれば、加藤家の次には、豊前国 企救郡(きくぐん) 小倉(現・福岡県 ・ 北九州市 小倉北区 + 小倉南区)の
小倉城城主で豊前国 小倉藩 細川家第2代藩主で肥後細川家第3代当主の細川忠利が移封(転封)して来て、肥後 熊本藩 細川家初代藩主になったとの由です。この時以降、肥後 熊本藩54万石は、幕末 ・ 明治維新期まで肥後細川家が統治したとの由です。)

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南区
南区内の旧城南町地域)
隈庄城(くまのしょうじょう):隈庄城(現城の鼻公園)(地図
(外部リンク)
隈庄城くまのしょうじょうは、肥後国 益城郡(ましきぐん)隈庄(くまのしょう;現・熊本県 熊本市 南区 大字(おおあざ) 城南町隈庄)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈庄城によれば、隈庄城くまのしょうじょうは、阿蘇合戦の過程で島津氏に攻められて天正13年(1585年)に開城し、開城時には甲斐氏の城であった模様です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈庄城によれば、この開城時には、島津氏家臣の伊集院忠棟
隈庄城くまのしょうじょうに入城したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈庄城によれば、戦国時代末期/安土桃山時代の天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際には、島津氏家臣で、須木城があった日向国 諸県郡(もろかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の地頭,  佐敷城さしきじょうがあった肥後国 葦北郡佐敷(現・熊本県 葦北郡 芦北町 大字(おおあざ)佐敷)の地頭を歴任した宮原景種隈庄城くまのしょうじょうを守っていましたが、肥後国 国人衆に攻められて敗死したとの由です。)

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菊池郡 菊陽町 今石城今石城(現今石神社一帯)(地図
(外部リンク)
今石城は、肥後国 合志郡(ごうしぐん)津久礼村今石(現・熊本県 菊池郡 菊陽町 大字(おおあざ)津久礼字(あざ)今石)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,  菊陽町公式ホームページ(菊陽町役場) ・ 菊陽町の文化財 ・ 今石城跡(いまいしじょうあと),ならびに城郭放浪記 ・ 肥後・今石城によれば、今石城阿蘇合戦の過程で島津氏に攻められて天正13年(1585年)に落城し、落城時の城主は石原狩野介(石原吉利)であったとの由です。
  また、菊陽町公式ホームページ(菊陽町役場) ・ 菊陽町の文化財 ・ 今石城跡(いまいしじょうあと)によれば、
今石城を攻め落とした島津氏家臣の武将は、川上左京亮忠堅であったとの由です。同参照先によれば、今石城を攻め落とした川上左京亮忠堅は、新納武蔵守(新納忠元(にいろ ただもと)と思量)と合流して、肥後国 合志郡(ごうしぐん)上庄(現・熊本県 合志市の旧合志町地域の大字(おおあざ)「上庄」)の竹迫城たかばじょう)(合志城を攻め落としたとの由です。なお、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈240〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(上),ならびに〈241〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(下)によれば、川上左京亮忠堅は、島津家久公が率いる島津氏と、有馬晴信の連合軍が龍造寺氏の軍を撃破した、戦国時代末期/安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)を討ち取った武将であるとの由す。
  菊陽町公式ホームページ(菊陽町役場) ・ 菊陽町の文化財 ・ 今石城跡(いまいしじょうあと)等によれば、
今石城跡は、今日の今石神社一帯であるとの由です。)

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合志市 合志町地域 竹迫城(たかばじょう)(別名:合志城,蛇尾城,穴の城,上庄城):竹迫城(現竹迫城跡公園)(地図
(外部リンク)
竹迫城たかばじょうは、別名を合志城,  蛇尾城,  穴の城,  上庄城とも言い、肥後国 合志郡(ごうしぐん)上庄(現・熊本県 合志市の旧合志町地域の大字(おおあざ)「上庄」)にあった城です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 合志氏によれば、天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)に島津氏有馬晴信の連合軍が龍造寺氏の軍を撃破して龍造寺隆信が討ち死にすると、同年、竹迫城たかばじょう)(合志城城主・合志親為は一旦、島津氏に降ったとの由です。ところが、翌天正13年(1585年)に、合志親為の嫡男・合志隆重(合志高重)が竹迫城たかばじょう)(合志城島津氏に叛旗を翻したとの由です。この結果、播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 合志氏,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦,ならびに竹迫城によれば、竹迫城たかばじょう阿蘇合戦の過程で島津氏に攻められて天正13年(1585年)に落城したとの由です。
  また、
竹迫城たかばじょう)(合志城を攻め落とした島津氏家臣の武将は、菊陽町公式ホームページ(菊陽町役場) ・ 菊陽町の文化財 ・ 今石城跡(いまいしじょうあと)によれば新納武蔵守(この時期、武家官位が武蔵守の新納氏の武将は新納忠元(にいろ ただもと)と思量)と川上左京亮忠堅であったとの由であり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 竹迫城2015年7月時点の記載内ようによれば新納久饒(にいろ ひさあつ)川上左京亮忠堅であったとの由であり、参照する情報源によって島津氏側の武将が微妙に異なります。菊陽町公式ホームページ(菊陽町役場) ・ 菊陽町の文化財 ・ 今石城跡(いまいしじょうあと)によれば、肥後国 合志郡(ごうしぐん)津久礼村今石(現・熊本県 菊池郡 菊陽町 大字(おおあざ)津久礼字(あざ)今石)の今石城を攻め落とした川上左京亮忠堅が、新納武蔵守(新納忠元(にいろ ただもと)と思量)と合流して、竹迫城たかばじょう)(合志城を攻め落としたとの由です。なお、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈240〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(上),ならびに〈241〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(下)によれば、川上左京亮忠堅は、島津家久公が率いる島津氏と、有馬晴信の連合軍が龍造寺氏の軍を撃破した、戦国時代末期/安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)で、龍造寺隆信を討ち取った武将であるとの由です。)

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菊池市 菊池城(別名:隈府城(わいふじょう)):解説地図
(城域は、現在の菊池神社地図)から菊池公園地図)にかけての一帯)
(外部リンク)
菊池城隈府城わいふじょう))は、肥後国 菊池郡 隈府(わいふ;現・熊本県 菊池市 大字(おおあざ) 隈府)にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城によれば、菊池城隈府城わいふじょう))は、南北朝時代の正平年間(1346年〜1369年)に、南朝方武将として知られる菊池氏の城として、菊池氏第16代当主・菊池武政が築いたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城,ならびに菊池武朝によれば、菊池氏第17代当主・菊池武朝の代の時期の元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後の室町時代には、菊池城隈府城わいふじょう))は、肥後国 守護となった菊池氏の本城であったとの由です。
  菊池武朝は、南北朝時代の天授元年/永和元年(1375年)の水島の変の時の菊池氏当主です。水島の変とは、北朝方の九州探題 ・ 今川了俊(今川貞世)が、南朝方の菊池氏の城・肥後国 菊池郡水島(現・熊本県 ・ 菊池市七城町台)の
水島城(臺城(台城))(地図攻めに備えて、大隅国 守護 ・ 島津氏久公,  豊後国  守護 大友親世,  筑前国 守護 ・ 少弐冬資を招集しましたが、今川了俊(今川貞世)がだまし討ちのように少弐冬資を殺害したため、少弐冬資を説得して参加させた島津氏久公が激怒して帰国して北朝方が仲間割れ・分裂状態に陥った結果、南朝方の菊池武朝が大勝したという事件です。水島の変の結果、南北朝時代末期の鹿児島県宮崎県の郷土史は、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)の城である日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)を巡っての、今川了俊(今川貞世)の軍勢と島津軍との抗争史になるのですが、これについて詳しくは、当ホームページ内の都之城(都城)紹介欄,ならびに志布志城紹介欄等でご参照いただけます。
  話を戦国時代
菊池城隈府城わいふじょう))の動向に移します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城,  菊池義武,ならびに菊池市ホームページ(菊池市役所公式WEBサイト) ・ 文化・歴史 ・ 略年表(PDF 約260KB)によれば(リンク先URLは2015年7月現在)、末期には他家からの養子で続いて来た菊池氏宗家が菊池氏第26代当主・菊池義武が死んだ戦国時代の天文23年(1554年)を最後に断絶した過程で、天文20年(1551年)に、赤星有隆屋敷地図(場所は日本の城址 ・ 赤星有隆屋敷によるもの)があった肥後国 菊池郡赤星(現・熊本県 菊池市 大字(おおあざ)赤星)の領主で菊池氏庶流の赤星氏,  肥後国 山鹿郡城(現・熊本県 山鹿市 大字(おおあざ)城)の城村城地図城主で、後に肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 熊本市 中央区)の隈本城に移った、菊池氏庶流の城氏(じょうし),  肥後国 山鹿郡永野(現・熊本県 山鹿市 大字(おおあざ)菊鹿町上永野」ならびに「菊鹿町下永野」)の今日の大字(おおあざ)菊鹿町上永野」の隈部館くまべやかた城主の隈部氏菊池三家老家の内、菊池氏庶流の赤星氏赤星親家(赤星道雲)が菊池城隈府城わいふじょう))城主になったとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 米良氏,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 米良氏等によれば、没落した菊池氏には正嫡の血脈が残っており、正嫡の最後の当主だったと言える戦国時代初期の菊池氏第22代当主・菊池能運の子が、日向国 児湯郡(こゆぐん)米良庄(めらのしょう)(現・宮崎県 ・ 西都市の一部 + 児湯郡 木城町の一部 + 児湯郡 西米良村解説))に逃れて、名字を米良氏(めらし)に変えて米良重次(米良重為)と名乗った上で、米良庄(めらのしょう)の村所(現・宮崎県 ・ 児湯郡 西米良村解説大字(おおあざ)「村所」)の、今日の字(あざ)「桐原囲」の村所城むらしょじょう)(米良城めらじょう),  米良御所めらごしょ))を本城にして土着し、血統を後世に伝えたとの由です。米良氏の嫡流・庶流各家の武将達は、戦国時代末期には、戦国時代の島津氏による三州(薩摩・大隅・日向)の領国国内統一平定戦においては、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを本拠地にしていた日向国内の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏の家臣として、宮崎県戦国時代史で有名な一族になりました。日向国(概ね現・宮崎県)に移ってから以降の菊池氏の末裔の米良氏の庶流の武将達としては、例えば、日向国 諸県郡(もそかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の須木城城主(兼)日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城(後の小林城城主の米良重方(めら しげかた),  米良矩重(めら のりしげ)兄弟,  日向国 諸県郡(もろかたぐん)紙屋(現・宮崎県 ・ 小林市野尻町地域大字(おおあざ)「野尻町紙屋(この辺り(地図))」)の紙屋城城主・米良主税助,  日向国 臼杵郡(うすきぐん) 門川(かどかわ;現・宮崎県 ・ 東臼杵郡 門川町)の地頭門川城かどかわじょう城主)・米良四郎右衛門尉(米良祐次),  日向国 臼杵郡(うすきぐん) 山陰(山毛)(やまげ;現・宮崎県 ・ 日向市東郷町地域の大字(おおあざ)「東郷町山陰甲」〜「東郷町山陰辛」(明治22年(1889年)までの旧山陰村地域)の地頭山陰城やまげじょう城主)・米良弥次見(恐らくは米良喜内則村と同一人物と思量)等が、挙げられます。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 米良氏,ならびに菊池則忠によれば、米良氏(めらし)の嫡流は、江戸時代幕末 ・ 明治維新期から明治時代にかけての時期の米良氏宗家第17代当主・米良則忠(めら のりただ)が、かつて南北朝時代南朝の忠臣だった菊池氏嫡流の末裔であったことが認められて、明治維新後に菊池姓への復姓を認められて、菊池則忠(きくち のりただ)に改名したとの由です。
  話を、菊池氏の正嫡の行く末の話から、
菊池城隈府城わいふじょう))の話に戻します。上述のとおり、菊池氏滅亡後、赤星親家(赤星道雲)が菊池城隈府城わいふじょう))城主になりましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤星氏,  隈部氏,ならびに隈部親永によれば、永禄2年(1559年)に赤星親家(赤星道雲)は、肥後国 山鹿郡永野の隈部館くまべやかた城主の隈部氏(くまべし)第28代当主・隈部親永合勢川の戦い(合瀬川の合戦)で戦って敗れてしまったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば、この事態に対して、赤星親家(赤星道雲)は肥後国 守護だった豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主の大友氏に援助を求めたため、これに対抗して隈部親永は、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)(現・佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)城主の龍造寺氏と結んだとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば、天正6年(1578年)に、島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)で大友氏が弱体化すると、肥後国 山鹿郡永野の隈部館くまべやかた城主の隈部氏(くまべし)第28代当主・隈部親永は、龍造寺氏による肥後国侵攻に協力するようになったとの由です。
  このような情勢下で、菊池市ホームページ(菊池市役所公式WEBサイト) ・ 文化・歴史 ・ 略年表(PDF 約260KB)によれば(リンク先URLは2015年7月現在)、永禄4年(1561年)の赤星親家(赤星道雲)の死後、赤星統家(赤星道半)
菊池城隈府城わいふじょう))城主になっていましたが、菊池市ホームページ(菊池市役所公式WEBサイト) ・ 文化・歴史 ・ 略年表(PDF 約260KB)によれば(リンク先URLは2015年7月現在)天正6年(1678年)に、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓によれば天正9年4月(1581年5月3日〜6月1日)に、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀龍造寺城(村中城)城主で龍造寺氏第20代当主の龍造寺政家に攻められて菊池城隈府城わいふじょう))は落城してしまったとの由です。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤星氏によれば、敗れた赤星統家(赤星道半)は、嫡男・赤星新六郎と娘・安姫を龍造寺氏に人質に出した上で、叔父である合志親賢(合志親為)の居城である、肥後国 合志郡(ごうしぐん)上庄(現・熊本県 合志市の旧合志町地域の大字(おおあざ)「上庄」)の合志城竹迫城たかばじょう))に身を寄せたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城によれば天正8年(1580年)に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば天正9年(1581年)に、肥後国 山鹿郡永野の隈部館くまべやかた城主の隈部氏(くまべし)第28代当主・隈部親永菊池城隈府城わいふじょう))に入城して、菊池城隈府城わいふじょう))隈部親永の城になったとの由です。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤星統家,ならびに龍造寺隆信によれば、このような隈部親永の勢力拡大が原因となり、龍造寺氏から命じられていた肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)への参列を渋ったために赤星統家(赤星道半)は「疑心あり」と見なされてしまい、その結果、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)
佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信から、人質に出していた嫡男・赤星新六郎と娘・安姫を、天正11年(1583年)に殺されてしまったとの由です。赤星統家(赤星道半)は復讐の念を抱くようになり、肥後国に進出して来た島津氏に従うようになったとの由です。上記各情報源によれば、後年、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟末弟の日向国 守護代 ・ 島津家久公が率いる島津氏と、有馬晴信の連合軍が龍造寺氏の軍を撃破した天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)においては、赤星統家(赤星道半)率いる赤星勢50余人は、全員が赤装束を着て、島津氏の先鋒になって龍造寺軍と戦ったとの由です。上記各情報源によれば、赤星統家(赤星道半)はその後も島津氏に従ったため、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)では、赤星統家(赤星道半)は旧領回復が叶わなかったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤星統家の2015年7月時点の記載内容によれば、赤星統家(赤星道半)は最後は阿波国(現・徳島県)で死んだ旨が載っていますが、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓によれば、鹿児島県 ・ 枕崎市に、赤星統家(赤星道半)とその供衆の墓(枕崎市桜馬場)、赤星統家(赤星道半)夫人とその付き人のものと伝わる墓所(枕崎市松崎)、の2つの、赤星統家(赤星道半)一族の墓と伝えられる墓があるとの由です(いずれも、具体的な場所は存じ上げません)。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓によれば、『枕崎市史』に載っている「赤星宗可老奥方墓」の墓碑の卒年が江戸時代の延宝6年(1678年)と年代が合わないため、赤星統家(赤星道半)夫人の墓の方は本人ではなく子孫の奥方の墓であろうとの推測がなされています。とは申せ、子孫であるとしても、赤星統家(赤星道半)一族の墓があるということは、旧領に帰れなかった赤星統家(赤星道半)は、豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後も島津氏に寄食して、
鹿籠桜之城かごさくらのじょうがあった薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿篭(かご)(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の私領主で島津氏庶流の島津氏家臣・喜入氏に庇護(ひご)されることになり、その地で生涯を終えたのであろうとの推測が、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓では行われています。上述のとおり、2015年7月時点のインターネット上の情報源では情報源によって赤星統家(赤星道半)が死亡した場所については、阿波国(現・徳島県)死亡説と薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿篭(かご)(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)死亡説とがありますが、その内のいずれが史実どおりであるかについては、当ホームページ管理人は存じ上げません。
  後日、当ホームページ管理人は、偶然、赤星氏の今日の一族の方から話を聞く機会に恵まれました。その方から教えていただいた話によれば、赤星氏一族は戦国時代安土桃山時代が終わった以降、即ち江戸時代以降には、今日の宮崎県 ・ 都城市と、熊本県 ・ 阿蘇地方とに分かれて、今日まで現存したとの由です。現・宮崎県 ・ 都城市(旧・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城)は、江戸時代には薩摩藩領であり、南北朝時代以来幕末 ・ 明治維新期まで、一時期の例外を除いて一貫して、島津氏庶流の都城島津氏(北郷氏)が統治した地域です。赤星氏の末裔が2流に分かれた後の片方が現・宮崎県 都城市にいた事情は存じ上げませんが、赤星氏島津氏との関係が背景事情にあった可能性は、仮説・推測の域を出ませんが、推測可能であろうと考えます。
  話を、隈部親永が新城主になった時点の
菊池城隈府城わいふじょう))に戻します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺隆信によれば、天正11年(1583年)に、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古の隠居城・須古城城主で龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信が、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀龍造寺城(村中城)城主で龍造寺氏第20代当主の嫡男・龍造寺政家に命じて、天正11年(1583年)に肥後国(現・熊本県)に侵攻させて、島津軍を圧倒する兵力で高瀬川(現菊池川)を挟んで対峙したとの由です。この時には、筑後国 山門郡(やまとぐん)鷹尾(現・福岡県 柳川市大和町地域大字(おおあざ)大和町鷹ノ尾」)の鷹尾城たかおじょう城主・田尻鑑種(たじり あきたね)筑後国 国人龍造寺氏に謀反を起こしていた最中であったこともあり、筑前国 夜須郡(やすぐん)秋月(現・福岡県 ・ 朝倉市甘木市地域の一部)の古処山城こしょさんじょう城主・秋月種実の仲裁の結果、高瀬川(現菊池川)から南東を島津氏領、北西を龍造寺氏領とすることで和睦が成立したとの由です。菊池城隈府城わいふじょう))は高瀬川(現菊池川)(例えばここ(地図))の北側にありますので、この和睦条件の下では菊池城隈府城わいふじょう))龍造寺氏領とされたことになります。
  その後、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦によれば、上述の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の
沖田畷古戦場)で島津氏龍造寺氏を撃破した後、島津氏阿蘇合戦阿蘇氏の勢力に打ち勝ち、肥後国(現・熊本県)を北上して行きました。阿蘇氏の勢力圏ではない肥後国北部でも、龍造寺氏勢力圏が急速に後退して島津氏が北上することになりました。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 隈部氏によれば天正13年(1585年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部氏によれば天正12年(1584年)に島津氏菊池城隈府城わいふじょう))を攻めたとの由ですが、その支城群も含めた隈部親永の諸城の守りは堅くてなかなか落ちず、結局、1年余りの篭城の後、隈部親永島津氏と和睦して所領を維持したとの由です。
  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 隈部氏,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城,  隈部親永,ならびに菊池市ホームページ(菊池市役所公式WEBサイト) ・ 文化・歴史 ・ 略年表(PDF 約260KB)によれば(リンク先URLは2015年7月現在)、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際には
菊池城隈府城わいふじょう))城主・隈部親永豊臣秀吉に恭順を示したため、九州征伐(九州平定)の後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)ではサバイバルすることができましたが、1,900町歩の所領が半減以下の800町歩に減らされた上で、肥後国(現・熊本県)の新領主で肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 熊本市 中央区)の隈本城城主の佐々成政の配下に組み込まれたとの由です。ところが、佐々成政が、性急な改革は行うなと豊臣秀吉から言われていたにもかかわらず、検地を強行したりしたため肥後国 国人衆の反発を招いてしまい、その結果、隈部親永らの肥後国 国人衆は天正15年(1587年)に肥後国人一揆を起こしてしまい、検地を拒否した隈部親永菊池城隈府城わいふじょう))に立て籠もってしまったとの由です。佐々成政菊池城隈府城わいふじょう))を落としたとの由ですが、隈部親永は、嫡子・隈部親泰が守る肥後国 山鹿郡城(現・熊本県 山鹿市 大字(おおあざ)城)の城村城地図に移って篭城したとの由です。他の肥後国 国人衆が蜂起して佐々成政の本城・隈本城を包囲したこともあり、佐々成政は独力では城村城地図を落とせなかったとの由です。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 隈部氏によれば豊前国 京都郡(みやこぐん)津積の馬ヶ岳(現・福岡県 行橋市 大字(おおあざ)津積字(あざ)馬ヶ岳)の馬ヶ岳城城主の黒田孝高(黒田官兵衛,黒田如水)の、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば安国寺恵瓊の説得を受けて、天正15年(1587年)末に城村城地図は開城されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば、隈部親永は、筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)の柳川城城主・立花宗茂に預けられて側近と共に柳川城で切腹させられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親泰によれば、一方、嫡子・隈部親泰は、豊前国 企救郡(きくぐん) 小倉(現・福岡県 ・ 北九州市 小倉北区 + 小倉南区)の小倉城城主・毛利勝信に預けられて、小倉で処刑されたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城によれば、肥後国人一揆の反乱鎮圧後、
菊池城隈府城わいふじょう))は破却されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 菊池城,ならびに菊池神社(菊池市)によれば、今日、菊池城隈府城わいふじょう))の本丸跡には、南北朝時代菊池氏3代の当主である第12代当主・菊池武時,  代13代当主・菊池武重,  第15代当主・菊池武光を主祭神とする他、菊池氏の一族26柱を配祀した神社・菊池神社地図があり、その境内には菊池神社歴史館があるとの由です。また、タクジローの日本全国お城めぐり ・ 菊池城(菊池市)によれば、上述の菊池神社地図から菊池公園地図にかけての一帯が菊池城隈府城わいふじょう))の城域だった場所であるとの由であり、アット・ニフティ@nifty ・ @nifty地図いつもNAVIにおける2015年7月時点菊池本城跡の場所は、菊池公園の中が示されています。また、菊池城跡隈府城跡わいふじょうあと))の周辺には、菊池温泉があります。)

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山鹿市 菊鹿町地域 隈部館永野城):隈部館(くまべやかた),別名:永野城地図
(外部リンク)
隈部館くまべやかた)(永野城は、肥後国 山鹿郡永野(現・熊本県 山鹿市 大字(おおあざ)菊鹿町上永野」ならびに「菊鹿町下永野」)の今日の大字(おおあざ)菊鹿町上永野」にあった城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部館,ならびに菊池城によれば天正8年(1580年)に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部親永によれば天正9年(1581年)に、隈部氏(くまべし)第28代当主・隈部親永肥後国 菊池郡 隈府(わいふ;現・熊本県 菊池市 大字(おおあざ) 隈府)の菊池城隈府城わいふじょう))に移るまでの間、隈部館くまべやかた)(永野城隈部氏の居城であったとの由です。隈部親永菊池城隈府城わいふじょう))に移った後も、隈部館くまべやかた)(永野城隈部氏にとって重要拠点であったとの由です。
  その後、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 阿蘇合戦によれば、上述の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の
沖田畷古戦場)で島津氏龍造寺氏を撃破した後、島津氏阿蘇合戦阿蘇氏の勢力に打ち勝ち、肥後国(現・熊本県)を北上して行きました。阿蘇氏の勢力圏ではない肥後国北部でも、龍造寺氏勢力圏が急速に後退して島津氏が北上することになりました。播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 隈部氏によれば天正13年(1585年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部氏によれば天正12年(1584年)に島津氏菊池城隈府城わいふじょう))を攻めたとの由ですが、その支城群も含めた隈部親永の諸城の守りは堅くてなかなか落ちず、結局、1年余りの篭城の後、隈部親永島津氏と和睦して所領を維持したとの由です。この菊池城隈府城わいふじょう))の支城群の中に、「恐らくは」というただし書き付きの推測ですが、隈部館くまべやかた)(永野城も含まれているものと推測します。
  その後、詳しくは当ホームページ内の
菊池城紹介欄で解説した経緯により、隈部氏は天正15年(1587年)の肥後国人一揆で滅亡してしまいました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部館によれば、隈部館くまべやかた)(永野城は、肥後国人一揆の鎮圧の後で破却されたとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部館によれば、
隈部館跡は「隈部氏館跡」の名称で国の史跡に指定されているとの由です。城郭放浪記 ・ 肥後・隈部館,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 隈部館によれば、隈部館跡には隈部神社があるとの由です。)

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荒尾市 筒ヶ嶽城つつがだけじょう

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梅尾城

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九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)(当画面のの画面)
鹿児島県(当画面のの画面) 宮崎県(当画面のの画面) 当画面掲載の城に対する目次
(当画面のの画面)
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
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佐賀県の城

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市町村 城跡
佐賀市 佐賀市地域 佐賀龍造寺城跡(佐嘉龍造寺城跡,村中城跡):佐賀龍造寺城佐嘉龍造寺城,  村中城)(場所:地図地図にかけて)
(上記の場所は、後年の佐賀城の一部)

(外部リンク)
佐賀龍造寺城さがりゅうぞうじじょう)(村中城は、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)にあった中世城郭であり、戦国大名龍造寺氏の本城だった城です。
  日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟末弟で日向国 守護代島津家久公が率いる島津氏と、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主・有馬晴信の連合軍が、天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)で、龍造寺軍を撃破して、佐賀龍造寺城村中城前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信を敗死させました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家によれば、龍造寺隆信は、それに先立つ天正6年(1578年)に嫡男・龍造寺政家に形式的ながら家督を譲ったとの由ですので、天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は沖田畷古戦場)の時点も龍造寺氏の本城は佐賀龍造寺城村中城であり、その城主(兼)形式上の龍造寺氏当主は、龍造寺政家だったことになります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家によれば、沖田畷の戦い(戦場跡は沖田畷古戦場)後、龍造寺政家は一旦は島津氏に降ったとの由ですが、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際に豊臣秀吉に降参して肥前7郡32万石を安堵されたとの由です。
  しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家,  鍋島直茂,ならびに佐賀藩によれば、龍造寺政家は、龍造寺家の実権を握っていた重臣・鍋島直茂龍造寺氏領の領主の地位を禅譲せざるを得なくなった結果、江戸時代肥前 佐賀藩の藩祖は鍋島直茂になったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀城によれば、肥前 佐賀藩の城である
佐賀城は、佐賀龍造寺城村中城を改修・拡張して築城したものであるとの由です。したがって、かつて佐賀龍造寺城村中城があった場所は、後の佐賀城の一部です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀城によれば、佐賀龍造寺城村中城の推定地は、後年の、地方職員共済組合佐賀県支部運営の宿泊施設「若楠会館地図」(佐賀県 佐賀市城内1-3-13,佐賀新聞ホームページ ・ 若楠会館が営業停止へ 利用者半減、老朽化で(2010年07月07日)によれば(リンク先URLは2015年7月現在)、平成22年(2010年)12月28日に営業停止との由)と佐賀県立佐賀西高等学校グランド(地図佐賀県 佐賀市城内1-4-25)であるとの由です。)

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佐賀城跡:【楽天トラベル・たびノート】佐賀城跡解説)(地図
(外部リンク)
佐賀城は、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)にあった近世城郭であり、藩祖を鍋島直茂とする、江戸時代肥前 佐賀藩の城です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀城によれば、佐賀城は、戦国時代戦国大名龍造寺氏の本城だった佐賀龍造寺城さがりゅうぞうじじょう)(村中城を改修・拡張して築城したものであるとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家,  鍋島直茂,ならびに佐賀藩によれば、戦国時代には龍造寺氏でしたが、龍造寺氏第20代当主・龍造寺隆信の次期当主・龍造寺政家の代の時に、龍造寺家の実権を握っていた重臣・鍋島直茂龍造寺氏領の領主の地位が移ったとの由です。その結果、江戸時代肥前 佐賀藩の藩祖は鍋島直茂になりました(注:藩祖ではあっても、藩主ではありません。誤解を避けるべく念のため)。以降の2段落で、鍋島直茂の変遷について述べます。
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鍋島直茂,  龍造寺家晴,  柳川城によれば、龍造寺隆信存命時代末期には鍋島直茂筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)の
柳川城城主であったとの由です。しかし、上記の情報源によれば、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟の末弟の島津家久公が率いる島津氏と、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信の連合軍が、佐賀龍造寺城(村中城)龍造寺氏の軍を撃破した、戦国時代末期/安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)で龍造寺隆信が戦死すると、龍造寺隆信の嫡男の龍造寺政家の後見人として鍋島直茂佐賀龍造寺城(村中城)に移り、柳川城城主は龍造寺家晴に移ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蓮池城,  江上家種によれば、天正17年(1589年)に江上家種に譲るまでの間、鍋島直茂肥前国 神埼郡(かんざきぐん)蓮池(佐賀県 ・ 佐賀市大字(おおあざ)「蓮池町蓮池 」)の蓮池城(はすいけじょう)地図城主ですので、この期間は、鍋島直茂佐賀龍造寺城(村中城)に在城しながらも蓮池城(はすいけじょう)地図城主だった可能性があります(注:確認した上での史実ではなく、推測も混じります。誤解を避けるべく念のため)。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀城,  蓮池城,  鍋島直茂,  龍造寺政家,  江上家種によれば、筑後国を出てから後の鍋島直茂の城の変遷は、上述のとおり恐らくは
佐賀龍造寺城(村中城)に在城しながらの蓮池城(はすいけじょう)地図城主、天正17年(1589年)に蓮池城(はすいけじょう)地図江上家種に譲っての佐賀龍造寺城(村中城)在城、文禄2年2月2日(1593年3月4日)の江上家種没後に再び蓮池城(はすいけじょう)地図城主になって同城を城代・石井氏に委ねての恐らくは佐賀龍造寺城(村中城)在城、慶長7年(1602年)に本丸の改修を手始めとして始められた佐賀龍造寺城(村中城)改築後の佐賀城在城、であった模様です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀藩によれば、肥前国 佐賀藩の藩主は、初代は鍋島直茂に実権を握られながらも名目上は龍造寺政家の嫡男・龍造寺高房でしたが、江戸時代初期の慶長12年9月6日(1607年10月26日)に龍造寺高房が死んだ後の第2代藩主は、鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂が継いだとの由です。
  
佐賀城跡のかつての城域は佐賀城公園地図となっており、佐賀城公園地図には、佐賀城本丸歴史館公式HP,  地図,  佐賀県立博物館公式HP,  地図,  佐賀県立美術館公式HP,  地図があり、また佐賀城跡の周辺の関連する歴史観光スポットには、鍋島氏の歴史博物館・徴古館公式HP,  地図,  佐賀藩の第10代藩主・鍋島直正と第11代藩主・鍋島直大を御祭神として祀る佐嘉神社解説,  地図,  佐賀藩藩祖・鍋島直茂,  初代藩主・鍋島勝茂,  龍造寺隆信らを御祭神として祀る松原神社解説(佐嘉神社公式ブログ),  地図等が、あります。)

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杵島郡
(きしまぐん)

白石町
白石町地域 須古城須古城地図
(外部リンク)
須古城は、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)にあった中世城郭です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家によれば、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城さがりゅうぞうじじょう)(村中城の城主で、龍造寺氏第20代当主・龍造寺隆信は、それに先立つ天正6年(1578年)に嫡男・龍造寺政家に形式的ながら家督を譲ったとの由です。城郭放浪記 ・ 肥前・須古城,ならびに白石町ホームページ ・ 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)等によれば(リンク先URLは2015年7月現在)、家督を譲った後、龍造寺隆信は、隠居城として須古城に移り、この城を居城にしたとの由です。)

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鳥栖市 勝尾城跡(かつのおじょう)(国史跡):勝尾城(別名:三ケ山城,三上城,筑紫城三上山,勝山城、筑紫城、山浦城)地図
(外部リンク)
勝尾城かつのおじょうは、肥前国 養父郡(やぶぐん)牛原(現・佐賀県 鳥栖市 大字(おおあざ)牛原町)にあった中世城郭です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城によれば、勝尾城を、『肥前国史』には室町時代の応永30年(1423年)に室町幕府 九州探題 ・ 渋川義俊が築いた旨が載っており、『歴代鎮西要略』には戦国時代の延徳3年(1491年)に渋川義基が築いた旨が載っているとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城によれば、永正18年(1521年)に筑紫満門(ちくし みつかど)が城主になって以来、勝尾城筑紫氏(ちくしし)の城になったとの由です。城郭放浪記 ・ 筑前・筑紫氏館によれば、筑紫氏は、筑前国 御笠郡(みかさぐん)筑紫(現・福岡県 筑紫野市ちくしのし) 大字(おおあざ)筑紫)の筑紫氏館(筑紫野市)ちくししやかたを初期の居館とした一族であるとの由です。鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)によれば(リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、筑紫氏によれば、勝尾城筑紫氏の本城になり、筑紫氏の所領は、肥前国 基肄郡(きいぐん)(現・佐賀県鳥栖市の一部 + 三養基郡みやきぐん) 基山町(きやまちょう)),  肥前国 養父郡(やぶぐん)(現・佐賀県の、鳥栖市の一部 + 三養基郡みやきぐん) みやき町の一部),  筑後国 御原郡(みはらぐん)(現・福岡県の、小郡市(おごおりし) + 三井郡(みいぐん) 大刀洗町)の内の現・小郡市(おごおりし),  筑前国 那珂郡(現・福岡県福岡市の一部 + 春日市 + 筑紫郡(ちくしぐん) 那珂川町)の内の現・春日市那珂川町,  筑前国 御笠郡(みかさぐん)(現・福岡県大野城市 + 太宰府市 + 筑紫野市ちくしのし))の内の大野城市筑紫野市,  筑前国 早良郡(さわらぐん)(現・福岡県 福岡市中央区の一部 + 南区の一部 + 西区の一部 + 早良区の大部分 + 城南区の全域)の内の福岡市 早良区にまで及んだとの由です。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈241〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(下),  〈243〉苦戦の岩屋城攻め(下),  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 岩屋城の戦い,  勝尾城,ならびに筑紫広門によれば、戦国時代末期/安土桃山時代島津氏による九州統一(九州平定)の時期の
勝尾城城主は、筑紫広門(ちくし  ひろかど)であったとの由です。上記各情報源によれば、筑紫氏がどの有力大名の下につくかでは紆余曲折がありましたが、筑紫広門が家督を継いだ時点では、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主の大友氏に従っていたとの由です。その後、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)の耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)で、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょうを本城とする三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県) 守護島津氏大友氏前当主(第21代当主)の大友宗麟(大友義鎮)を撃破した後、筑紫広門は、一旦は島津氏に降ったとの由です。ところが、天正14年(1586年)に、大友氏の忠臣の名将として知られる筑前国 御笠郡(みかさぐん)観世音寺(現・福岡県 ・ 太宰府市 大字(おおあざ)観世音寺)の岩屋城城主・高橋紹運の、次男で立花宗茂の弟である、筑前国 御笠郡(みかさぐん)北谷(現・福岡県 ・ 太宰府市 大字(おおあざ)北谷)の宝満山城城主・高橋統増(たかはし むねます,後の立花直次)に娘を嫁がせたことにより、筑紫広門は再び大友氏方の武将になったとの由です。上記各情報源によれば、この結果、天正14年(1586年)の島津氏筑後国(現・福岡県の一部)侵攻の際には、天正14年7月14日〜7月27日(1586年8月28日〜9月10日)の岩屋城の戦いの前に、岩屋城城主・高橋紹運と結んだ筑紫広門を攻めることになり、その本城・勝尾城を、天正14年7月6日(1586年8月20日)に島津氏が攻めたとの由です。なお、勝尾城肥前国中の現・佐賀県 鳥栖市にある城ですが、例えばJR鹿児島本線鳥栖駅地図)や九州新幹線新鳥栖駅地図)が福岡県 福岡市博多駅地図)と福岡県 久留米市久留米駅地図)との間にあるという位置関係から分かるとおり、今日の福岡県の都市間に挟まれた位置に鳥栖市があったり、上述のとおり岩屋城の戦いの前哨戦として勝尾城の戦いが行われたりしました。このため、この勝尾城の戦いは、戦国時代末の島津氏による九州平定においては、筑前の戦いの中の一環として位置づけるのが妥当な合戦であると、当ホームページ管理人は考えます。
  この
勝尾城の戦いでは、筑紫広門の子(弟とも伝わる)の筑紫春門(筑紫晴門とも)が籠もっていた支城・鷹取城で、筑紫春門(筑紫晴門とも)を、島津氏家臣の武将・川上忠堅が一騎討ちで討ち取ったものの、川上忠堅もこの日の幾多の戦いによる戦傷により、戦死したとの由です(注:筑紫春門(筑紫晴門とも)の一騎討ち後の死の経緯には異説もあるとの由)。鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)等によれば、この勝尾城の戦いで敗れた結果、筑紫広門島津軍の捕虜になって、筑後国 三潴郡(みずまぐん)宮本(現・福岡県 久留米市の昭和42年(1967年)2月1日以前の旧筑邦町地域内の、昭和31年(1956年)9月30日以前の旧大善寺町地域の大字(おおあざ)大善寺町宮本」)の大善寺に幽閉されてしまったとの由です。
  なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城2015年7月参照時時点の記載内容によれば、天正14年7月6日(1586年8月20日)の
勝尾城の戦いの際の島津軍側の主将は、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟の末弟で日向国 守護代島津家久公であるとされていますが、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈242〉苦戦の岩屋城の戦い(上),ならびに〈243〉苦戦の岩屋城攻め(下)によれば、日向国 守護代 ・ 島津家久公,  日向国 宮崎郡 宮崎(現・宮崎県 ・ 宮崎市の一部)にあった宮崎城城主で日向国 地頭島津氏家臣・上井覚兼(うわい かくけん)らの日向衆は、筑後国(現・福岡県の一部)侵攻よりも、大友氏の領国・豊後国(現・大分県の一部)侵攻をすべしと主張していたのに、自説が受け入れられずに筑後国侵攻策が採用されたため、サボタージュを起こして、島津四兄弟の長兄で島津氏宗家第16代当主の島津義久公を怒らせた程の遅参を犯してしまっているため、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城2015年7月参照時時点の記載内容は誤りである = 勝尾城の戦いに島津家久公は参加していない」可能性が、あり得ると考えます。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈242〉苦戦の岩屋城の戦い(上),ならびに〈243〉苦戦の岩屋城攻め(下)によれば、島津義久公,  日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城城主で島津四兄弟の次兄の肥後国 守護代 ・ 島津義弘公,  薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で島津四兄弟の三兄・島津歳久公が詰めていた、島津義弘公の肥後国 守護代としての肥後国内の本城・古麓城ふるふもとじょう)(初代八代城があった肥後国 八代郡 八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)の外港・徳渕に宮崎城城主・上井覚兼が到着したのは勝尾城の戦いよりも後の天正14年7月13日(1586年8月27日)のことであるため、当然のことながら、日向衆が間に合う訳がありません。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈243〉苦戦の岩屋城攻め(下)等々の情報源によれば、島津氏による筑後国(現・福岡県の一部)侵攻の際の島津軍の総大将は、大隅国串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の鶴亀城串良城城主で島津四兄弟の従兄弟の島津忠長ですので、筑後国侵攻の一環である勝尾城の戦いの際にも、島津軍の総大将は島津忠長であった可能性が高いと、当ホームページ管理人は考えます。ただし、上記の「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城2015年7月参照時時点の記載内容は誤りである = 勝尾城の戦いに島津家久公は参加していない」という仮説モデルについては、「島津家久公が、上井覚兼らの他の日向衆と同一タイミングで筑後国侵攻に参加した」ことを確認した上での仮説モデルではありませんので、もしも、「他の日向衆が間に合わなくても、島津家久公だけ先に出発していて、勝尾城の戦いに参加していた」などという事実が存在する場合には、その仮説モデルは成立しない可能性もあり得ます。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門,  鳥栖市ホームページ ・ 史跡 勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書 ・ 同PDF版p.19,p.22,  鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい),ならびに服部英雄国境の村々・五ヶ山の歴史、五ヶ山の地名と地誌、小川内の地名と地誌」(福岡県教育委員会編『福岡県文化財調査報告書 五ヶ山・小川内 : 福岡県那珂川町五ヶ山・佐賀県吉野ヶ里町小川内における文化財調査1』,2008年3月)pp.175-178によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の過程で島津軍が筑前国筑後国(現・福岡県の一部)から撤退すると、筑紫広門は幽閉先の
大善寺から脱出して、家臣を集めて、天正14年8月27日(1586年10月9日)に筑前国 那珂郡五ヶ山(現・福岡県 筑紫郡(ちくしぐん) 那珂川町 大字(おおあざ)五ヶ山)の一ノ岳城五ヶ山城を奪回して、翌日には勝尾城を奪回したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門,ならびに城郭放浪記 ・ 筑後・山下城によれば、その功が認められて、筑後国 上妻郡(こうづまぐん)(現・福岡県の、八女市やめし)の大字(おおあざ) 星野村(=旧八女郡 星野村地域)を除いた八女市 + 筑後市の多くの地域 + 久留米市の一部 + 八女郡 広川町)に1万8千石の所領を与えられて旧領から転封(移封)となり、筑後国 上妻郡(こうづまぐん)山下(現・福岡県 八女市やめし)旧立花町地域の大字(おおあざ)「立花町北山」字(あざ)「山下」等)の山下城を新たな居城にしたとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 勝尾城によれば、上記の天正14年7月6日(1586年8月20日)の勝尾城の戦いによる落城の後、勝尾城は廃されたとの由です。上述のとおり、筑紫広門は落城後、勝尾城を一旦は奪還していますので、勝尾城は落城後直ちに廃城になった訳ではなく、落城後、奪還を経て、その後で廃城になったことになります。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門,ならびに鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)によれば(リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは筑紫広門は西軍に属してしまったため、改易となって所領が没収されてしまい、筑紫氏は滅亡したとの由です。上記各情報源によれば、筑紫広門は剃髪して夢庵と称して、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の
隈本城を本城とする肥後 隈本藩 加藤家(慶長11年(1606年)に城と街の名称の「字」を「隈本」から「熊本」に改名して以降の表記は、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 熊本熊本城を本城とする肥後 熊本藩 加藤家)の扶助を受けたとの由です。鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)によれば(リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、筑紫広門は、次いで豊前国 企救郡(きくぐん) 小倉(現・福岡県 ・ 北九州市 小倉北区 + 小倉南区)の小倉城を居城とする豊前国 小倉藩 細川家の扶助を受けて、元和9年(1623年)に豊前国 企救郡(きくぐん) 小倉で死亡したとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門2015年7月参照時時点の記載内容には、「筑紫広門細川家を頼ったのは肥後 熊本藩 加藤家が改易になった後のことである = 筑紫広門がお世話になった時点の細川家は、豊前国 小倉藩から肥後 熊本藩に転封(移封)後の細川家である」旨の内容が載っていますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 加藤忠広,ならびに細川忠利によれば、肥後 熊本藩 加藤家が第2代目藩主・加藤忠広の代で改易になった時点は、寛永9年(1632年)のことですので、筑紫広門死亡年・元和9年(1623年)よりも後のことですので、時期的に矛盾があります。故に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門2015年7月参照時時点の記載内容のこの内容は、誤りであると考えます。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門,  筑紫氏,  旗本寄合席,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 筑紫氏によれば、筑紫広門の息子の筑紫主水正広門(従門とも)は、豊前国 小倉藩 細川家初代藩主・細川忠興の口添えで関ヶ原の戦いでの西軍参加を謝罪し、慶長19年(1614年)〜慶長20年(1615年)の大坂の陣徳川氏方(江戸幕府方)として参加したとの由です。そこで軍功を挙げたため、寛永4年(1627年)に三千石の知行を得て、筑紫氏は、三千石の大身旗本(旗本寄合席)旗本として復興(家名再興)し、子孫は大身旗本(旗本寄合席)として存続したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 旗本寄合席によれば、大身旗本(旗本寄合席)として復興後の筑紫氏の所領は、伊豆国(現在の静岡県の東部) 賀茂郡 ・ 那賀郡,  上総国(現在の千葉県の一部) 山辺郡 ・ 長柄郡(ながらぐん) ・ 夷隅郡(いすみぐん)内であったとの由ですが、具体的に、これらの郡内のどこが所領であったかは存じ上げません。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門2015年7月参照時時点の記載内容には、「筑紫広門の息子の筑紫主水正広門(従門とも)が大坂の陣に参加したのは、筑紫広門の死後のことである」旨の内容が載っていますが、先述のとおり筑紫広門が死んだ時点は、大坂の陣があった慶長19年(1614年)〜慶長20年(1615年)よりも後年の元和9年(1623年)のことですので、この記載内容には時期的に矛盾があります。故に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 筑紫広門2015年7月参照時時点の記載内容のこの内容は、誤りであると考えます。
  
勝尾城周辺の、勝尾城の支城には、上述の鷹取城の他にも、葛籠城つづらじょう,  鬼ヶ城,  鏡城,  若山砦があります。また、勝尾城は山城ですので、普段の政務の館として山の麓に、筑紫氏館筑紫氏居館がありました。また、筑前国(現・福岡県の一部)にあった勝尾城の支城には、筑前国 御笠郡(みかさぐん)古賀(現・福岡県 筑紫野市ちくしのし) 大字(おおあざ)古賀)の天拝山山頂の天判山城てんぱんざんじょうと、天判山城てんぱんざんじょうのさらなる支城と推測可能な天拝山山系上の飯盛城ならびに堂山城どうのやまじょう,  筑前国 御笠郡(みかさぐん) 太宰府(現・福岡県 太宰府市 大字(おおあざ)石穴)の高尾山城,  筑前国 那珂郡五ヶ山(現・福岡県 筑紫郡(ちくしぐん) 那珂川町 大字(おおあざ)五ヶ山)の一ノ岳城五ヶ山城があります。さらに、戦国時代末期/安土桃山時代まで廃城とならずにまだ残っていた場合には、筑紫氏初期の居館であった、筑前国 御笠郡(みかさぐん)筑紫(現・福岡県 筑紫野市ちくしのし) 大字(おおあざ)筑紫)の筑紫氏館(筑紫野市)ちくししやかたも、勝尾城の支城であったことになりますが、戦国時代末期/安土桃山時代筑紫氏館(筑紫野市)ちくししやかたが残っていたか否かは確認未済です。)

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筑紫氏館跡(筑紫神社):筑紫氏館筑紫氏居館,  筑紫神社五社大明神))(地図
(外部リンク)
筑紫氏館(鳥栖市)筑紫氏居館は、肥前国 養父郡(やぶぐん)牛原(現・佐賀県 鳥栖市 大字(おおあざ)牛原町)にあった中世武家館跡です。城郭放浪記 ・ 肥前・勝尾城,  肥前・筑紫氏居館,ならびに鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡によれば(リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、筑紫氏館(鳥栖市)筑紫氏居館は、筑紫広門の本城だった肥前国 養父郡(やぶぐん)牛原の山城・勝尾城の南麓にある麓の居館で、政治の場だったとの由です。今日では筑紫氏館筑紫氏居館は、筑紫神社の境内にあるとの由です。筑紫神社は、2015年7月時点の地図で見ると五社大明神という名前で載っています。天正14年7月6日(1586年8月20日)から始まった島津氏による勝尾城攻めについて詳しくは、当ホームページ内の勝尾城紹介欄でご参照いただけます。)

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鷹取城跡:鷹取城地図
(外部リンク)
鷹取城は、肥前国 養父郡(やぶぐん)牛原(現・佐賀県 鳥栖市 大字(おおあざ)牛原町)の字(あざ)「若林」にあった中世城郭です。城郭放浪記 ・ 肥前・勝尾城,  肥前・鷹取城,ならびに鳥栖市ホームページ ・ 勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)によれば(リンク先URLは2015年7月現在。将来リンク切れになったら、鳥栖市ホームページ上のキーワード「勝尾城筑紫氏遺跡」のgoogle検索結果でお探し下さい)、鷹取城は、筑紫広門の本城だった肥前国 養父郡(やぶぐん)牛原の勝尾城周辺の支城群の中の1城だったとの由です。鷹取城で行われた、筑紫広門の子(弟とも伝わる)の筑紫春門(筑紫晴門とも)と、島津氏家臣の武将・川上忠堅との間の一騎討ちについても含めて、天正14年7月6日(1586年8月20日)から始まった島津氏による勝尾城攻めについて詳しくは、当ホームページ内の勝尾城紹介欄でご参照いただけます。また、鷹取城以外の勝尾城周辺の、勝尾城の支城群は、以下のとおりです。)
鷹取城以外の勝尾城周辺の、勝尾城の支城
葛籠城跡(つづらじょうあと):葛籠城地図
鬼ヶ城跡:鬼ヶ城地図
鏡城跡:鏡城地図
若山砦跡:若山砦地図


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九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)(当画面のの画面)
鹿児島県(当画面のの画面) 宮崎県(当画面のの画面) 当画面掲載の城に対する目次
(当画面のの画面)
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内の目次

長崎県の城・古戦場

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市町村 城跡
島原市 島原城跡(別名:森岳城):【楽天トラベル・たびノート】島原城解説)(地図))
(外部リンク)
森岳城もりたけじょうは、肥前国 高来郡(たかきぐん) 島原(現・長崎県 ・ 島原市)にあった城郭の遺構です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦い等によれば、この森岳城の近くの沖田畷(現・沖田畷古戦場で、天正12年3月24日(1584年5月4日)に、沖田畷の戦いが行われました。戦国時代森岳城もりたけじょうは、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主・肥前有馬氏の城でした。江戸時代には、肥前国 島原藩の城・島原城になりました。)

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沖田畷古戦場跡:沖田畷古戦場跡(竜蔵寺隆信の供養塔の場所(地図),二本木神社の場所(地図))
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(住所:長崎県島原市北門町。沖田畷古戦場は、天正12年3月24日(1584年5月4日)に、肥前国 高来郡(たかきぐん) 島原(現・長崎県 ・ 島原市)の森岳城もりたけじょうの近くの肥前国 高来郡(たかきぐん) 島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)で行われた、沖田畷の戦いの古戦場です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦い等によれば、沖田畷の戦いは、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟末弟で日向国 守護代島津家久公が率いる島津氏と、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主・有馬晴信の連合軍が、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の軍を撃破して、龍造寺隆信を敗死させた合戦であるとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津家久によれば、沖田畷の戦いでは、島津家久 ・ 有馬晴信連合軍は、島津氏のお家芸の戦術「釣り野伏せ」を用いて、勝利したとの由です。
  南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈336〉伝・赤星統家夫妻の墓,  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 赤星統家,ならびに龍造寺隆信によれば、龍造寺隆信から、人質に出していた嫡男・赤星新六郎と娘・安姫を、天正11年(1583年)に殺されてしまっていた肥後国 菊池郡 隈府(わいふ;現・熊本県 菊池市 大字(おおあざ) 隈府)の
菊池城隈府城わいふじょう))の前城主・赤星統家(赤星道半)率いる赤星勢50余人は、、この沖田畷の戦いで、全員が赤装束を着て、島津氏の先鋒になって龍造寺軍と戦ったとの由です。また、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈240〉龍造寺隆信を討った川上忠堅の悲劇(上),ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 川上忠堅によれば、龍造寺隆信を討ったのは、島津氏家臣の武将・川上忠堅であったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦いによれば、沖田畷の戦いに参加した島津氏 ・ 肥前有馬氏連合軍側の武将は、上述の島津家久公と有馬晴信の2人の総大将,ならびに川上忠堅,  赤星統家の他には、大隅国串良院(くしらいん;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)串良町地域 + 鹿児島県 ・ 東串良町)の
鶴亀城串良城城主で島津四兄弟の従兄弟の島津忠長,  薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の地頭大口城城主)・新納忠元(にいろ ただもと),  日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主・上原尚近,  日向国 児湯郡(こゆぐん) 財部財部城たからべじょう城主で川上忠堅の父の川上忠智,  猿渡信光(さるわたり のぶみつ),  大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(こくぶ;現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主で島津四兄弟の従兄弟の島津征久(島津以久)の嫡男・島津彰久(しまづ てるひさ),  大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝属郡 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の地頭高山城城主)(兼)大隅国 肝属郡 鹿屋(かのや;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市(かのやし)鹿屋市地域地頭鹿屋城亀鶴城城主)・伊集院忠棟,  日向国新納院(にいろいん)の高城(たかじょう;日向国 児湯郡(こゆぐん)高城)(宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町 大字高城)の高城新納院高城にいろいんたかじょう))城主・山田有信,  島津家久公の嫡男の島津豊久,  恐らくはこの時点では大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域)の地頭(城は、恐らくですが平山城(平安城,帖佐本城))(兼)肥後国 守護代として肥後国八代(やつしろ;現・熊本県 ・ 八代市)の地頭古麓城ふるふもとじょう初代八代城城主)の平田光宗,  薩摩国満家院(みつえいん)河田(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市郡山町地域大字(おおあざ)川田町)の川田城この辺り(地図)城主の川田義朗,  恐らくはこの時点では日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の地頭都於郡城とのこおりじょう城主)の鎌田政近等が参加していたとの由です。一方、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦いによれば、龍造寺氏側の武将は、上述の総大将・龍造寺隆信が戦死した他、龍造寺四天王として名が挙げられる武将の内、成松信勝,  百武賢兼,  江里口信常,  円城寺信胤の4名,  龍造寺康房鍋島信生(後の鍋島直茂)の弟),  小河信俊,  石井党(肥前石井氏)石井信易,  執行種兼(しぎょう たねかね),  納富賢景(のうとみともかげ)等の武将が戦死したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦いによれば、龍造寺氏側の武将で生き残れた武将は、筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)の柳川城城主・鍋島信生(後の鍋島直茂),  龍造寺四天王 ・ 木下昌直,  江上家種,  後藤家信,  肥前国 彼杵郡(そのぎぐん) 大村武部郷(現・長崎県 大村市三城町)の三城城さんじょうじょう城主・大村純忠等であったとの由です。
  当ホームページ内の熊本県の城紹介欄の各城の紹介欄のリンク先によれば、
沖田畷の戦いでの勝利の結果、肥後国(現・熊本県)から龍造寺氏の勢力が後退したため、その後の島津氏肥後国攻略が順調に進むようになったとの由です。また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 沖田畷の戦いの結果、龍造寺氏の傘下にあった筑前国 ・ 筑後国(現・福岡県の一部)の国人衆が島津氏に寝返ったため、島津氏九州制覇が進むことになったとの由です。一方、龍造寺氏側については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家によれば、沖田畷の戦いの後、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀龍造寺城(村中城)城主で、龍造寺氏第21代当主・龍造寺政家は、一旦は島津氏に降ったとの由です。しかし、同情報源によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際に豊臣秀吉に降参して肥前7郡32万石を安堵されたとの由です。)

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南島原市 北有馬町地域 日野江城跡(ひのえじょうあと):【楽天トラベル・たびノート】日野江城跡解説)(地図
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日野江城は、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)にあった城の城跡です。島津家久公が率いる島津氏と共に戦国時代末期/安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)で龍造寺氏の軍を撃破した、肥前有馬氏第14代当主・有馬晴信の居城でした。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 有馬晴信によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)の際には島津氏と縁を切ったことにより有馬晴信は生き残り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際にも、当初は西軍に属していたものの寝返って東軍に属したことにより、有馬晴信は生き残ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 有馬直純によれば、有馬晴信の子の有馬直純の代の時の江戸時代の寛永14年(1637年)に、有馬直純は、肥前 島原藩から日向 縣藩延岡藩に転封(移封)になり、日向国 臼杵郡(うすきぐん) 縣(県,あがた)(後の延岡)(現・宮崎県 ・ 延岡市)の
縣城あがたじょう(後の延岡城)に移ったとの由です。)

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南有馬町地域 原城跡:【楽天トラベル・たびノート】原城跡解説)(地図
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原城跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)原(現・長崎県 ・ 南島原市南有馬町地域の大字(おおあざ)「南有馬町乙」)にあった城の城跡です。江戸時代の寛永14年10月25日(1637年12月11日)〜寛永15年2月28日(1638年4月12日)の島原の乱の舞台になりました。)

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大村市 三城城跡(さんじょうじょうあと):(三城城)(地図
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三城城さんじょうじょうは、肥前国 彼杵郡(そのぎぐん) 大村武部郷(現・長崎県 大村市三城町)にあった中世城郭です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 三城城,ならびに大村観光ナビ ・ 大村の歴史|大村の城下町|三城城跡によれば(リンク先URLは2015年7月現在。もしも将来リンク切れになったら、「大村観光ナビ」ホームページ上のキーワード「三城城」のgoogle検索結果でお探し下さい)、三城城さんじょうじょうは、戦国大名大村氏第12代当主の大村純忠の居城だった城であるとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大村純忠,ならびに沖田畷の戦いによれば、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟末弟で日向国 守護代島津家久公が率いる島津氏と、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主・有馬晴信の連合軍が、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城村中城龍造寺氏を撃破して、佐賀龍造寺城村中城前城主で、天正6年(1578年)以降、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信を敗死させた、天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)では、三城城さんじょうじょう城主・大村純忠は、龍造寺軍に属して参加しましたが、敗戦の中、生き残れたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大村純忠によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)では、三城城さんじょうじょう城主・大村純忠豊臣秀吉に従ったため、本領を安堵されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 三城城,ならびに玖島城によれば、天正15年5月18日(1587年6月23日)の死後、大村純忠の後を継いだ嫡男の大村喜前(おおむら よしあき)によって、大村氏の居城は慶長4年(1599年)に三城城さんじょうじょうから、肥前国 彼杵郡(そのぎぐん) 大村玖島郷(くしまごう;現・長崎県 大村市玖島)の玖島城くしまじょうに居城を移したとの由です。)

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玖島城跡(くしまじょうあと):【楽天トラベル・たびノート】玖島城跡解説)(地図
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玖島城くしまじょうは、肥前国 彼杵郡(そのぎぐん) 大村玖島郷(くしまごう;現・長崎県 大村市玖島)の、今日の長崎県 大村市玖島1丁目45−3にあった近世城郭です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 三城城,ならびに玖島城によれば、戦国大名 ・ 大村純忠の嫡男で、大村氏第13代当主で肥前国 大村藩初代藩主の大村喜前(おおむら よしあき)が、肥前国 彼杵郡(そのぎぐん) 大村武部郷(現・長崎県 大村市三城町)の三城城さんじょうじょうから慶長4年(1599年)に、大村氏の居城を玖島城くしまじょうに移したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 玖島城によれば、その後、幕末 ・ 明治維新期まで一貫して、玖島城くしまじょう肥前国 大村藩の城であったとの由です。)

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九州 ・ 沖縄の各県ごとの目次+α
鹿児島県+宮崎県の城(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)(当画面のの画面)
鹿児島県(当画面のの画面) 宮崎県(当画面のの画面) 当画面掲載の城に対する目次
(当画面のの画面)
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細欄)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県 長崎県
福岡県 大分県 沖縄県
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福岡県の城

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市町村 城跡
大牟田市 今山城跡三池山城跡
今山城は、筑後国 三池郡今山(現・福岡県 ・ 大牟田市の昭和16年(1941年)3月31日までの旧三池町地域の大字(おおあざ)「今山」)にあった中世城郭で、戦国時代には、筑後十五城の中の1城だった城です。
  なお、島津氏の九州平定の過程の岩屋城の戦い(場所は現太宰府市
岩屋城)で死んだ名将・高橋紹運の墓と、その孫・立花種次が立藩した三池藩藩主の墓(場所は歴代三池藩藩主墓地(地図)がある三池藩藩主系立花氏の菩提寺・紹運寺地図が、今山城跡ならびに三池宮地図に行く途中にあるとの由です。高橋紹運自身は岩屋城城督であって今山城城主だった訳ではありませんが、その戦死を(高橋紹運にとって)敵側だった島津氏からさえ残念がられた程の名将であり、その高橋紹運の菩提寺ですので、福岡県内における島津氏の九州平定史関連スポットとして、紹運寺地図今山城跡と併せて周遊可能ですので、付言しておきます。)

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大間城跡だいまじょう

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三池陣屋跡

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みやま市 高田町地域 江浦城跡(江ノ浦城跡):江浦城(えのうらじょう)(現・淀姫神社)(地図
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江浦城えのうらじょうは、筑後国 三池郡江浦(現・福岡県 みやま市高田町地域の大字(おおあざ)高田町江浦」)にあった城です。城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城によれば、戦国時代末の島津氏による九州平定の時期の城主が田尻鑑種であった筑後国 山門郡(やまとぐん)鷹ノ尾(柳川市大和町地域の大字(おおあざ)大和町鷹ノ尾(やまとまちたかのお)」)の鷹尾城たかおじょうの支城であり、天正10年(1582年)には、田尻氏の一族の田尻了哲が、江浦城城主になったとの由です。城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城によれば、天正10年(1582年)に田尻氏は、それまで従っていた肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)城主の龍造寺氏に叛旗を翻したために攻められたものの、本城・鷹尾城,  江浦城等の支城共に落城せずに済んだまま、和議に至ったとの由です。
  城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城によれば、天正14年(1586年)の島津氏による九州平定における筑前の戦いに際して、筑前国 御笠郡(みかさぐん)北谷(現・福岡県 ・ 太宰府市 大字(おおあざ)北谷)の
宝満山城城督として島津氏に抗戦したことで知られる高橋直次(以前の高橋統増,後の立花直次)が、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の結果、転封(移封)になって宝満山城から江浦城えのうらじょうに移って来たとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 山下城(筑後国),ならびに城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城等によれば、筑後国 上妻郡(こうづまぐん)山下(現・福岡県 八女市やめし)旧立花町地域の大字(おおあざ)「立花町北山」字(あざ)「山下」等)の山下城城主だった蒲池鎮運(別名:蒲池家恒)も、江浦城えのうらじょう城主になった高橋直次(以前の高橋統増,後の立花直次)与力を命じられて、移って来たとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花直次,  城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城,  常陸・柿岡城によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い高橋直次(以前の高橋統増,後の立花直次)は西軍側に付いたため一旦改易となってしまいましたが、その後、江戸時代の慶長19年(1614年)からの大阪の陣徳川氏側に付いて軍功を挙げた結果、同年(慶長19年(1614年))、常陸国 新治郡(にいはりぐん)柿岡(現・茨城県 石岡市柿岡)に5,000石の所領を与えられて大身旗本として復活し、常陸国 新治郡柿岡の
柿岡城地図を居城にしたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花直次,  立花種次,  城郭放浪記 ・ 筑後・三池陣屋によれば、元和3年7月19日(1617年8月20日)に立花直次(以前の高橋統増,高橋直次)が死んだ後、後を継いだ立花種次は、元和7年(1621年)に5,000石を加増の上で亡父の旧領・筑後国 三池郡に転封になって三池藩を立藩し、寛永4年(1627年)に筑後国 三池郡 三池(現・福岡県 ・ 大牟田市の昭和16年(1941年)3月31日までの旧三池町地域)の今日の大字(おおあざ)「新町」)の三池陣屋を築いて、そこに移ったとの由です。
  一方、城郭放浪記 ・ 筑後・江浦城によれば、
江浦城えのうらじょうがある地は、関ヶ原の戦い高橋直次(以前の高橋統増,後の立花直次)が一旦改易になった後、慶長6年(1601年)に、筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)の柳川城城主になった田中吉政の所領となったとの由です。このため、江浦城えのうらじょう柳川城の支城になり、田中吉政の家臣の田中主水正が城主になったとの由です。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になったとの由です。)

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柳川市 柳川市地域 柳川城跡:【楽天トラベル・たびノート】柳川城跡解説)(地図
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柳川城は、筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)にあった城で、戦国時代には、筑後十五城の中の1城だった城です。
  
柳川城は、名将・立花宗茂の城として有名ですが、これは天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)よりも後のことです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 耳川の戦い,  蒲池鑑盛,  蒲池鎮漣,  蒲池統安によれば、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)に島津氏大友氏を撃破した耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)の時期の柳川城の城主は、蒲池氏(かまちし)であったとの由です。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蒲池氏,ならびに播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 蒲池氏等によれば、戦国時代末期/安土桃山時代初期の頃の蒲池氏は、柳川城を本城とした嫡流の下蒲池氏と、筑後国 上妻郡(こうづまぐん)山下(現・福岡県 八女市やめし)旧立花町地域の大字(おおあざ)「立花町北山」字(あざ)「山下」等)の山下城を本城にした分流の上蒲池氏とに分かれていたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 耳川の戦い,  蒲池鑑盛,  蒲池鎮漣,  蒲池統安によれば、耳川の戦い(戦場跡は耳川の戦い古戦場)では、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主の大友氏の家臣だった柳川城前城主・蒲池鑑盛(かまち あきもり)(蒲池宗雪)は、三男の蒲池統安(かまち むねやす)と共に討ち死にしたとの由です。余談ながら、歌手の松田聖子(本名:蒲池法子)は、この蒲池統安の子孫であるとの由です。話を本題に戻せば、既に家督を継いでいた蒲池鑑盛の嫡男で柳川城城主の蒲池鎮漣(かまち しげなみ)大友氏から離反していたため、耳川の戦い(戦場跡は耳川の戦い古戦場)に参加せずに柳川城に帰ってしまったとの由です。
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蒲池鎮漣によれば、
柳川城新城主・蒲池鎮漣(蒲池鎮並,かまちしげなみ)は、妻・玉鶴姫が、肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)前城主で、天正6年(1578年)以降は、肥前国 杵島郡(きしまぐん)須古(現・佐賀県 ・ 杵島郡(きしまぐん) ・ 白石町白石町地域)の隠居城・須古城城主の、龍造寺氏前当主(第20代当主)・龍造寺隆信の娘であったり、かつて一時期龍造寺隆信肥前国を追放された時に龍造寺隆信を保護したのが下蒲池氏だったりしたため、龍造寺氏に接近したとの由です。しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蒲池鎮漣,  NPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、蒲池鎮漣(蒲池鎮並)は「異心あり」という身に覚えのない噂に不信感を抱いた結果、本当に異心・叛心を抱くようになってしまい、それを叔父である筑後国 山門郡(やまとぐん)鷹尾(現・福岡県 柳川市大和町地域大字(おおあざ)大和町鷹ノ尾(やまとまちたかのお)」)の鷹尾城たかおじょう城主・田尻鑑種(たじり あきたね)龍造寺隆信に密告したため、龍造寺隆信,  筑後国 みずまぐん酒見(現・福岡県 大川市大字(おおあざ)酒見」)の酒見城地図城主・鍋島信生(後の鍋島直茂),  田尻鑑種蒲池鎮漣(蒲池鎮並)を討つ密談を始めたとの由です。この動向を蒲池鎮漣(蒲池鎮並)が知った上でのことであるか否か不明ですが、天正8年2月10日(1580年2月24日)に蒲池鎮漣(蒲池鎮並)は実際に謀反を起こして柳川城に立て籠もり、龍造寺氏第21代当主・龍造寺政家を大将とする大軍が天正8年2月13日(1580年2月27日)に柳川城を囲んだとの由です。上記各情報源によれば、包囲軍はやがて2万人になりましたが、柳川城を落とせなかったため、叔父の田尻鑑種の仲介により、天正8年2月13日(1580年2月27日)に蒲池鎮漣(蒲池鎮並)は降伏して、和議が結ばれたとの由です。
  ところが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蒲池鎮漣,  NPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、蒲池鎮漣(蒲池鎮並)は人質を出して島津氏に通じたとの由です。上記の各情報源によれば、龍造寺隆信は再度の謀叛に激怒したものの力攻めでは
柳川城を落とせないことを前回の失敗で学んでいたため、和解のための猿楽の宴席を口実にして肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)に誘い出して、天正9年5月29日(1581年7月18日)に蒲池鎮漣(蒲池鎮並)を、謀殺・だまし討ちしてしまったとの由です。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蒲池鎮漣,  NPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、龍造寺隆信田尻鑑種に、柳川城の下蒲池氏残党の討伐を命じた上で、田尻軍の将兵が下蒲池氏残党を見逃すことが無いように鍋島信生(後の鍋島直茂)麾下の建前上は加勢の将兵に、実際は目付として見張らせたとの由です。上記各情報源によれば、田尻鑑種自身が蒲池鎮漣(蒲池鎮並)の叔父であり、田尻軍の将兵は下蒲池軍の将兵と親戚同士である場合が多かったため、討伐隊を田尻鑑種の軍に強制的に命じたことは、身内同士の残忍な共食いを強いることになったとの由です。
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鍋島直茂,  龍造寺家晴,  柳川城によれば、天正9年(1581年)の下蒲池氏滅亡後の
柳川城には、酒見城地図から移って来た鍋島信生(後の鍋島直茂)が入城したとの由です。しかし、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう城主で島津四兄弟の末弟の島津家久公が率いる島津氏と、肥前国 高来郡(たかきぐん)有間庄(現・長崎県 ・ 南島原市北有馬町地域)の日野江城城主で肥前有馬氏第14代当主の有馬晴信の連合軍が、龍造寺氏の軍を撃破した、戦国時代末期/安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)の沖田畷の戦い(戦場跡は、肥前国 高来郡(たかきぐん)島原の北門周辺(現・長崎県 ・ 島原市北門町周辺)の沖田畷古戦場)で龍造寺隆信が討ち死にすると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鍋島直茂,  龍造寺家晴,  柳川城,ならびにNPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、 龍造寺隆信の嫡男の龍造寺政家の後見人たる執政として鍋島信生(後の鍋島直茂)佐賀龍造寺城(村中城)に移り、柳川城城主の座は龍造寺家晴に移ったとの由です。ただし、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 蓮池城,  江上家種によれば、天正17年(1589年)に鍋島直茂肥前国 神埼郡(かんざきぐん)蓮池(佐賀県 ・ 佐賀市大字(おおあざ)「蓮池町蓮池 」)の蓮池城(はすいけじょう)地図江上家種に譲るまでの間、鍋島直茂蓮池城(はすいけじょう)地図城主ですので、この期間は、鍋島直茂佐賀龍造寺城(村中城)に在城しながらも、持ち城としては蓮池城(はすいけじょう)地図城主だった可能性があります(注:確認した上での史実ではなく、推測も混じります。誤解を避けるべく念のため)。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀城,  蓮池城,  鍋島直茂,  龍造寺政家,  江上家種によれば、筑後国を出てから後の鍋島直茂の城の変遷は、上述のとおり恐らくは
佐賀龍造寺城(村中城)に在城しながらの蓮池城(はすいけじょう)地図城主、天正17年(1589年)に蓮池城(はすいけじょう)地図江上家種に譲っての佐賀龍造寺城(村中城)在城、文禄2年2月2日(1593年3月4日)の江上家種没後に再び蓮池城(はすいけじょう)地図城主になって同城を城代・石井氏に委ねての恐らくは佐賀龍造寺城(村中城)在城、慶長7年(1602年)に本丸の改修を手始めとして始められた佐賀龍造寺城(村中城)改築後の肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀城在城、であった模様です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 佐賀藩によれば、肥前 佐賀藩の藩主は、初代は鍋島直茂に実権を握られながらも名目上は龍造寺政家の嫡男・龍造寺高房でしたが、江戸時代初期の慶長12年9月6日(1607年10月26日)に龍造寺高房が死んだ後の第2代藩主は、鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂が継いだとの由です。
  話を沖田畷の戦い(戦場跡は
沖田畷古戦場)直後の時期に戻します。先述のとおり、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鍋島直茂,  龍造寺家晴,  柳川城によれば、鍋島直茂柳川城から去った後の柳川城の新城主は、龍造寺家晴であったとの由です。NPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、 龍造寺家晴が城主だった時期、詳しくは当ホームページ内の鷹尾城紹介欄で解説したとおり大友氏筑後国(現・福岡県の一部)を攻めましたが、大友軍は柳川城を落とせなかったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 鍋島直茂,ならびにNPO法人シニアネット久留米 ・ 筑後デジタルアーカイブ研究会 ・ 大木町誌 ・ 第三節 中世によれば、天正14年(1586年)の島津氏による九州平定における筑前の戦いの時期には、鍋島直茂が執政を勤める龍造寺氏島津氏の麾下に属した時期があります。したがって、この時期には、柳川城は、「島津軍の一員としての龍造寺氏の城」だったことになります。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺政家,  龍造寺家晴によれば、天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)では龍造寺政家肥前7郡32万石が安堵されたとの由ですが、逆に申せば龍造寺氏筑後国の所領を失うことになり、龍造寺勢は、
柳川城から退去することになりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺家晴によれば、龍造寺家晴筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)の所領を失った後、豊臣秀吉に直訴して許しを得て、西郷信尚の城であった肥前国 高来郡(たかきぐん) 伊佐早(現・長崎県 諫早市いさはやし)の一部)の高城諫早城,現・諫早公園)(地図を攻めてこの城を居城にして、地名の字(じ)の表記を伊佐早から諫早に改めたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 龍造寺家晴,  龍造寺四家によれば、龍造寺家晴の子孫の家系は、江戸時代肥前 佐賀藩における龍造寺四家の中の1家になったとの由です。
  話を天正14年(1586年)7月〜同15年(1587年)4月の豊臣秀吉九州征伐(九州平定)後の戦後処理としての九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の時期に戻します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 柳川城,  立花宗茂によれば、天正14年(1586年)の島津氏による九州平定における筑前の戦いにおいて、島津氏に徹底抗戦して筑前国 糟屋郡 
立花山解説(現・福岡県 ・ 福岡市 (東区等複数市町村の境界の立花山解説)の立花山城を守り抜いたことで知られる立花山城前城督の名将・立花宗茂が、九州国分(きゅうしゅうくにわけ)の結果、筑後国南部13万石の領主として、柳川城の新城主になったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花道雪,  高橋紹運によれば、立花宗茂は、義父・立花道雪(戸次鑑連(べっき あきつら))も名将として知られており、また、立花宗茂の実父で筑前国 御笠郡(みかさぐん)観世音寺(現・福岡県 ・ 太宰府市観世音寺)の岩屋城城督の高橋紹運も、島津氏による九州平定における筑前の戦いにおいては、岩屋城で天正14年7月13日(1586年8月27日)〜天正14年7月27日(1586年9月10日)に行われた岩屋城の戦いで、島津氏に徹底抗戦して壮絶な討ち死にを遂げて、その戦死を敵将で大隅国串良(くしら;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市串良町地域)の鶴亀城串良城城主の島津忠長から嘆かれたことで知られる名将です。さらに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花直次によれば、立花宗茂の弟、即ち高橋紹運のもう1人の子の高橋統増(後の高橋直次,立花直次)も、天正14年(1586年)の島津氏による九州平定における筑前の戦いにおいて、父・高橋紹運と連携しながら、筑前国 御笠郡(みかさぐん)北谷(現・福岡県 ・ 太宰府市 大字(おおあざ)北谷)の宝満山城城督として島津氏に抗戦したことで知られる名将です。このように、立花宗茂は、義父・立花道雪(戸次鑑連(べっき あきつら)),  実父・高橋紹運,  実弟・高橋統増(後の高橋直次,立花直次)と、本人も含めて家族が名将揃いの武将です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 柳川城,  立花宗茂によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、立花宗茂は西軍に属したため、敗軍側になってしまったとの由です。国立国会図書館ホームページ ・ 国立国会図書館デジタルコレクション ・ キーワード「名将言行録」の検索結果 ・ 岡谷繁実『名将言行録』(岩波文庫,昭和18-19)コマ番号110によれば、その途中、同様に関ヶ原の戦いで西軍で敗れて本国に帰国途中の大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ)(現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域)の
帖佐館城主・島津義弘公と一緒になった際に、壮絶な退却戦「島津の退き口」を経て寡兵となった島津義弘公に関して、立花宗茂の家来が、島津氏立花宗茂の父・高橋紹運の仇であるため「討ち取るべき」と立花宗茂に進言したとの由です。これに対して、立花宗茂は、「今、与党して上方の味方しながら寡兵にて帰るを見て、討取ること勇士のすることにあらず」として許さなかったとの由です。このエピソードはよく知られたエピソードであり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂参照時2015年9月時点の記載内容では、立花宗茂の発言は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」という内容で載っています。
  ところが、国立国会図書館ホームページ ・ 国立国会図書館デジタルコレクション ・ キーワード「日本戦史+関原役」の検索結果 ・ 参謀本部編『日本戦史.関原役』(元真社,明26-44)コマ番号106-108「補伝 第百六立花宗茂再戰説及歸國」には、(「当ホームページ管理人が見落としをしていない限り」というただし書き付きですが、)このエピソードは載っておらず、参照文献に厳格な文章である南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 「〈244〉立花宗茂と島津義弘(上),  〈245〉立花宗茂と島津義弘(中),ならびに〈246〉立花宗茂と島津義弘(下)」にも、このエピソードは載っていません。それどころか、参謀本部編『日本戦史.関原役』(元真社,明26-44)コマ番号107,ならびに南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈246〉立花宗茂と島津義弘(下)によれば、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 浜之市(はまんち)(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域浜之市(はまんち)地区)の
富隈城城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公の娘であり、かつ、後に薩摩藩初代藩主になった薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津義弘公の実子の島津忠恒(家久)公の正室である亀寿と、島津義弘公の夫人・宰相殿が、摂津国 東成郡(ひがしなりぐん) 大坂(現・大阪府 大阪市 中央区等)の大阪城から退去した時に立花宗茂が同行し、島津義弘公に亀寿宰相殿を受け渡した程に、島津義弘公のために行動しています。さらに、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈246〉立花宗茂と島津義弘(下)によれば、周防国 大島郡 屋代島(周防大島)日向泊(ひゅうがどまり)(現・山口県 大島郡 周防大島町大字(おおあざ)「油宇」字(あざ)「日向泊(この辺り(地図))」)の小さな港に来た、慶長5年9月26日(1600年11月1日)に、立花宗茂島津義弘公の船を表敬訪問して、死を逃れたことを喜び合って落涙したとの由です。南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈245〉立花宗茂と島津義弘(中)によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以前の時点でも、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で苦楽を共にした時期から立花宗茂島津義弘公・島津忠恒(家久)公父子と親交を深めるようになり、慶長4年(1599年)に日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏家老の伊集院忠棟(伊集院幸侃(こうかん))島津忠恒(家久)公が手討ちにして、高雄さつま人国誌作者・桐野作人氏は、京都府 京都市 右京区 梅ヶ畑高雄町神護寺公式HP,  解説)(地図ではないか?と推測)に蟄居(ちっきょ)した時に島津忠恒(家久)公を迎えに行った武将の中に立花宗茂がいたとの由です。また、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈245〉立花宗茂と島津義弘(中)によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、一時期、島津義弘公と立花宗茂は同陣していた可能性もあるとの由です。
  このように島津義弘公と立花宗茂は、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以降の時期ではむしろ親密な関係だったことになり、このことと、先述の名将言行録に載っている「家臣からの『島津義弘公を襲撃しての仇討ち』進言」エピソードとの間には、整合性があまり感じられません。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 名将言行録によれば、幕末から明治にかけての時期に『名将言行録』を書いた作者・岡谷繁実は、当時流布していただけの話を検証抜きに集めただけの箇所もあり、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされているとの由です。この『名将言行録』の有りようにも併せて鑑(かんが)みれば、家臣の仇討ち進言を採用しなかった旨のエピソードは史実ではなかったか、或いは、史実であった場合でも、「立花宗茂家臣団一般的な雰囲気を示唆した話ではなく、例えば、かつての島津氏による筑前の戦いの際に一族を亡くしたか何かの事情により、個人単位では島津氏への恨みを忘れられない家臣も混じっていたが、それはその家臣の個人的な感情であり、主君・立花宗茂の心情と同一方向のベクトルを向いた感情ではなかった」等々の可能性があり得るのではないか、と当ホームページ管理人は推測します。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたために敗れて帰って来た立花宗茂は、所領の筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・福岡県 ・ 柳川市柳川市地域)を、東軍側の豊前国 下毛郡(しもげぐん) 中津(現・大分県 ・ 中津市中津市地域)の
中津城黒田孝高(黒田官兵衛,黒田如水),  肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の隈本城城主・加藤清正,  肥前国 佐嘉郡(佐賀郡) 佐嘉(佐賀)佐賀県 ・ 佐賀市佐賀市地域)の佐賀龍造寺城(村中城)に在城していた肥前国 神埼郡(かんざきぐん)蓮池(佐賀県 ・ 佐賀市大字(おおあざ)「蓮池町蓮池 」)の蓮池城(はすいけじょう)地図城主の鍋島直茂の攻撃を受けたとの由です。特に鍋島直茂は、一旦は西軍についてしまったために東軍側としての軍功を挙げて挽回せざるを得ない状況に追い込まれていたため、激しく攻撃したとの由です。上記情報源,ならびに南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈246〉立花宗茂と島津義弘(下)によれば、攻めての3将は文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)立花宗茂とは苦楽を共にした仲間でもあったため開城するように説得し、慶長5年10月25日(1600年11月30日)に和議が成立して、立花宗茂柳川城を降伏開城したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂によれば、島津義弘公は筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)に援軍を送りましたが間に合わず、到着したのは柳川城開城の3日後であったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 柳川城,  立花宗茂によれば、関ヶ原の戦いで敗れた立花宗茂は、柳川城開城後、改易になってしまったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 柳川城,  田中吉政によれば、立花宗茂が改易になった後、 田中吉政筑後国(現・福岡県の一部)1国32万5千石の大名として筑後 柳河藩を立藩して、それまで10万石で統治していた三河国 額田郡 岡崎(現・愛知県 岡崎市)の
岡崎城から移って来たとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 柳川城,  田中忠政によれば、江戸時代初期の元和6年8月7日(1620年9月3日)に、田中吉政の子で筑後 柳河藩第2代藩主の田中忠政が子供が無いまま死去すると、田中家は無嗣断絶となり、改易されてしまったとの由です。
  一方、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂によれば、田中吉政 ・ 田中忠政筑後 柳河藩藩主だった時期の立花宗茂はその才を惜しみかつ友情のあった他大名からの仕官の申し出を断って一旦は浪人になり、肥後国 飽田郡(あきたぐん) 隈本(現・熊本県 ・ 熊本市 ・ 中央区)の
隈本城城主・加藤清正の食客になったとの由です。上記の情報源によれば、やがて加藤清正の食客な立場を辞した立花宗茂は、由布惟信(ゆふ これのぶ),  十時連貞(ととき つれさだ)らの付き従う忠臣達と共に、浪人の身で山城国 「葛野郡(かどのぐん) + 愛宕郡(おたぎぐん)」 京都(現・京都府 ・ 京都市)に上ったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂,  立花ぎん千代によれば、義父・立花道雪(戸次鑑連(べっき あきつら))の娘で立花宗茂の妻であった立花ァ千代(たちばな ぎんちよ)江戸時代初期の慶長7年10月17日(1602年11月30日)に肥後国 玉名郡腹赤村(現・熊本県 ・ 玉名郡 長洲町大字(おおあざ)「腹赤」)の市蔵宅で病死した後、立花宗茂,  由布惟信,  十時連貞の浪人主従一行は、慶長8年(1603年)に武蔵国 豊島郡(としまぐん) 江戸(現・東京都中心部)に下り、伊勢国 桑名郡 桑名(現・三重県 ・ 桑名市)の桑名城地図九華公園解説))城主で伊勢 桑名藩 本多家初代藩主で「徳川四天王 ∩ 徳川十六神将」の本多忠勝の世話で、武蔵国 豊島郡(としまぐん)高田(現・東京都の「新宿区 高田馬場 + 豊島区 高田 + 中野区 上高田」等)の宝祥寺(今日、この近辺には、の東京都 新宿区 若松38-1に寳祥寺(宝祥寺)地図がありますが、これが「高田の宝祥寺」、或いはその移転寺院であるか否かは、未確認であり不明)を宿舎として蟄居生活を送ったとの由です。なお、立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 ・ ぼたもちさんと宮永様跡,ならびに長洲町ホームページ(長洲町役場) ・ 立花宗茂公夫人の墓(ぼたもちさん)によれば(リンク先URLは2015年9月現在)立花ァ千代(たちばな ぎんちよ)の墓は、病死した地である熊本県 ・ 玉名郡 長洲町にあり、ぼたもちさんこの辺り(地図)と呼ばれているとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂2015年9月参照時点の記載内容によれば、慶長9年(1604年)に本多忠勝の推挙で武蔵国 豊島郡(としまぐん) 江戸(現・東京都中心部)の
江戸城解説)(地図に召し出されて、江戸城解説)(地図城主で江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康から、幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を支給されることになったとの由です。上記の情報源によれば、やがて徳川家康の嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 棚倉藩によれば慶長8年(1603年)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂2015年9月参照時点の記載内容による上述の本多忠勝の推挙年との前後関係によれば慶長9年(1604年)以降、立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 ・ 立花宗茂によれば慶長11年(1606年)と、参照する情報源によって時期は異なりますが、慶長8年(1603年)から慶長11年(1606年)にかけての時期に立花宗茂陸奥国 白川郡 棚倉(現・福島県 ・ 東白川郡 棚倉町)に1万石を与えられて陸奥 棚倉藩を立藩して大名の地位に返り咲き、城郭放浪記 ・ 陸奥・赤館,  楽に暮らす、しらかわ ・ 立花宗茂にゆかりのある赤館城(棚倉町),  コトバンク ・ 赤館城によれば、陸奥国 白川郡 棚倉赤館(現・赤館公園)解説)(地図を居城にしたとの由です。なお、陸奥 棚倉藩の城は立花宗茂統治時期には赤館(現・赤館公園)解説)(地図でしたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 棚倉藩,  棚倉城によれば、後述する立花宗茂筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)への転封(移封)以降、他家が藩主を務めた時期の陸奥 棚倉藩の城は、陸奥国 白川郡 棚倉棚倉城(亀ケ城)解説)(地図であったとの由です。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂,  棚倉藩によれば、やがて立花宗茂は2万5,500石に加増を受けて、慶長15年(1610年)には、さらに9,500石の加増を受けて3万5,000石の大名になったとの由です。上記の各情報源によれば、慶長19−20年(1614年−1615年)の大坂の陣の際には、徳川氏側(江戸幕府側)武将として江戸幕府第2代征夷大将軍になった徳川秀忠の麾下に属して、その軍師(参謀)を兼ねて警固を担当して、従軍したとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 立花宗茂,  柳河藩,  棚倉藩によれば、先述のとおり筑後 柳河藩 田中家が第2代藩主の田中忠政が子供が無いまま死去したために田中家が無嗣断絶で改易されてしまった後を受けて、元和6年(1620年)に、加増されて10万9千石で、旧領の筑後国 山門郡(やまとぐん) 柳川(柳河)(現・