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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」トップ > 温泉天国・鹿児島温泉紹介!(フレーム枠内メニュー画面) > 鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城 > 島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史

鶴丸城(鹿児島城)

  

島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史
(注) 鹿児島県宮崎県は、島津氏の本国である、薩摩国,  大隅国,  日向国の三州の県です。

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目次  :  鹿児島の温泉地&観光地((当画面ではなく)当ホームページ全体の一部の目次)
鹿児島県の温泉&観光
(訪問した所は訪問記(注),訪問未済みの所はリンク集)

(注)100箇所以上に及ぶ、当HPオリジナル・コンテンツ。
地域 温泉案内 観光案内
鹿児島市
(桜島を含む)
鹿児島温泉とは(鹿児島市内温泉とは) 鹿児島市内(含む桜島)観光案内
鹿児島市の温泉(ホテル・旅館,桜島も含む)
鹿児島市の温泉(温泉銭湯[日帰り温泉立ち寄り湯],桜島も含む)
指宿 指宿及びその周辺の温泉 指宿観光案内
南薩 南薩地域の温泉 知覧観光案内
南薩観光案内
霧島 霧島温泉 霧島観光案内
霧島市,姶良
(霧島温泉以外)
妙見温泉など新川渓谷温泉郷 隼人・国分・姶良地域観光案内
日当山温泉&姫城温泉
その他霧島市(旧国分市,旧隼人町),姶良地区の温泉
北薩・中薩 北薩・中薩地域の温泉 北薩・中薩の観光案内
大隅
(霧島以外)
大隅地域の温泉 大隅観光案内
種子島,屋久島,三島村,十島村地区 種子島,屋久島,三島村,十島村の温泉 種子島,屋久島,三島村,十島村の観光案内
奄美諸島 奄美大島,与論島,沖永良部島地区の温泉 奄美大島,与論島,沖永良部島,喜界島,徳之島の観光案内
温泉宿 →鹿児島県の温泉宿宿泊予約はこちらへ
特集 NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介(鹿児島観光案内)(New! 2007年12月)

「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内(New! 2010年08月)

鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城(New! 2016年02月)
(サブ画面:島津氏の戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の領国国内統一平定史,  熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)



目次  :  当画面(当ページ)内の目次

当ページ(当画面)内の目次

当画面(当ページ)の先頭(トップ)
戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場
(三州(薩摩国,大隅国,日向国(現・鹿児島県&宮崎県))の領国国内統一平定戦の軌跡)
温泉宿,ホテル宿泊予約

当画面の1つの画面の目次
鹿児島県&宮崎県の城・麓武家屋敷群、県外の島津氏関連の城(熊本県等)+訪問した城

鹿児島県+宮崎県の城(目次)
(「島津氏の本国・三州の城」+奄美群島の城)
島津氏宗家の城の変遷 島津忠良公の城の変遷
島津義久公の城の変遷 島津義弘公の城の変遷
島津歳久公と日置家の城・御仮屋の変遷 島津家久公と永吉家の城・御仮屋の変遷
島津忠将と垂水家の城・御仮屋の変遷
+佐土原藩の城
島津尚久と宮之城家の城・御仮屋の変遷
北郷氏(都城島津家)の城・御仮屋の変遷 豊州家(帖佐島津家)の城・御仮屋の変遷
佐多氏(知覧島津家)の城・麓の変遷 薩州家(薩州島津家)の城
江戸時代の御一門(四家)の御仮屋、島津氏の墓
宮崎県の城(詳細解説欄)
鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城(目次)
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県
当ホームページ管理人が訪問した、鹿児島県外の城
(島津氏に関連の無い城)
お城に関するリンク集

当画面(当ページ)と並行の位置にある画面の目次
熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)

熊本県,佐賀県,長崎県,福岡県,大分県,沖縄県の島津氏九州平定事業(九州統一事業)(戦国時代)関連等の城(詳細編)の城紹介欄の先頭
(島津氏の九州統一戦、豊臣秀吉の九州征伐、島津の琉球侵攻(己酉の乱)関連の城など)
熊本県 佐賀県
長崎県 福岡県
大分県 沖縄県


戦史  : 

戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場(注1)
島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国(現・鹿児島県 & 宮崎県))の領国国内統一平定戦の軌跡(注2)(注3)
(注1) 合戦の場になった城,古戦場,ならびに戦った武将の城。ただし、戦った武将の城の内、戦場から離れた場所にある拠点の居城については、載せてある場合も載せていない場合もあります。特に、島津氏宗家の本城については、合戦に参加した武将の主君の城として関係者の城であることが自明(じめい)であるため、戦場になったり、或いは宗家当主自ら出陣したりしない限り、以下の表では原則として載せていません。また、挙げてある合戦は、主に戦国時代島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦を中心とした見地から選んだ主なものであり、鹿児島県宮崎県の合戦の全てではありません。なお、以下の表で挙げた城は「代表例示」ではあっても「限定列挙」ではありませんので、その合戦に関係のある城・古戦場の全てでは、必ずしもありません。誤解を避けるべく念のため。
(注2) 鹿児島県宮崎県以外(=例えば熊本県等)を除く。ここで除いた他の県については、当画面(当ページ)内の鹿児島県・宮崎県以外の九州・沖縄の島津氏関連等の城欄で、ご参照いただけます。
(注3) 各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。


当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)内・当画面全体の目次
戦国時代の島津氏の合戦の舞台の城跡と古戦場内の目次
(ただし、三州(薩摩国大隅国日向国)の領国国内統一平定戦のみ)
○   島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一戦争以前の三州域外の動向
○   薩州家・島津国久と豊州家・島津季久と相州家・島津友久の反乱(文明7年(1475年)〜文明9年(1477年))
○   島津久逸の乱(文明16年(1484年)〜文明17年(1485年))
○   文明の大合戦(文明17年(1485年))
○   島津忠朝による鶴亀城(串良城)攻略(明応4年(1495年))
○   島津忠昌公による伊東尹祐への日向国三俣院を割譲しての和睦(明応4年(1495年))
○   島津忠昌公の自殺(永正5年(1508年))
○   島津忠治公・島津忠隆公による吉田城攻め(永正12年(1515年))
○   島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための1回目の戦争(永正17年(1520年)〜大永3年(1523年))
○   肝付兼興による鶴亀城(串良城)攻略(大永3年(1523年)〜大永4年(1524年))
○   日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦い(大永7年(1527年)〜天文8年(1539年))
(島津氏本宗家の家督相続を巡っての、紫原の戦い,  加世田城の戦い,  市来鶴丸城の戦い,  串木野城攻め等の島津氏の内部抗争)
○   島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための2回目の戦争(享禄4年(1531年)〜天文3年(1534年))
○   島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)当主・北郷忠相,島津忠朝,肝付兼続による、新納氏攻め(天文7年(1538年))
○   島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)による都城盆地の統一(天文10年(1541年)〜天文12年(1543年))
○   大隅合戦(に含まれない場合、その前哨戦):本田薫親らによる生別府城(おいのびゅうじょう)攻撃(天文10年(1541年)〜天文11年(1542年))と、本田薫親の謀反(天文17年(1548年))
○   根占戦争(禰寝戦争)(種子島,屋久島における、種子島氏と禰寝氏(ねじめし)の抗争)(天文12年(1543年)〜天文13年(1544))と、鉄砲伝来(天文12年(1543年))
○   北郷忠相と島津忠広の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公への臣従(天文14年(1545年))
○   島津氏庶流の薩州家と、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の東郷氏との間の、薩摩国の高城郡(たきぐん)を巡っての抗争(天文16年(1547年)から約20年間)
○   大隅合戦(に含まれない場合、その前哨戦):加治木肝付氏・薩摩渋谷氏らによる吉田城(松尾城)攻撃と、それに続く黒川崎の戦い(黒川崎合戦)(天文18年(1549年))
○   大隅合戦:岩剣城の戦い(天文23年(1554年))〜平山城(平安城)奪還(天文24年(1555年))
○   大隅合戦:蒲生合戦蒲生城攻め)(弘治2年(1556年)〜弘治3年(1557年))
○   肝付氏との間の抗争による、島津氏庶流の豊州家の志布志城、松山城の失陥(弘治2年(1556年)〜永禄5年(1562年))
○   廻城の戦い(めぐりじょうのたたかい)(永禄4年(1561年))
○   飫肥城(おびじょう)の失陥と島津忠親による奪還(永禄5年(1562年))ならびに志布志城の失陥(再掲)(永禄5年(1562年))
○   島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援(永禄5年(1562年))
○   横川城攻め横川崩れ)(永禄5年(1562年))
○   北原氏の滅亡(永禄7年(1564年))
○   長島・堂崎城攻略と薩州家庶流・島津忠兼の粛清(永禄8年(1565年))
○   祁答院良重の殺害と祁答院氏の没落(永禄9年正月15日(1566年2月5日))
○   三山合戦三ツ山城(後の小林城)攻め)(永禄9年(1566年)(永禄10年(1567年)説もあり))
○   菱刈合戦(永禄10年(1567年)〜永禄12年(1569年)9月)
○   第九飫肥役(飫肥城(おびじょう)の失陥)(永禄11年(1568年))
○   桶平城の戦い(永禄11年8月9日(1568年8月31日)〜永禄12年7月(1569年8月))
○   島津氏による長野城攻め(永禄12年(1569年)5月)
○   桶平城の戦いの終了(永禄12年7月(1569年8月))
○   菱刈合戦の終了(永禄12年(1569年)9月)
○   入来院重嗣と東郷重尚の島津氏への降伏(元亀元年1月(1570年2月))
○   禰寝氏による指宿への侵攻(元亀2年(1571年)5月)
○   肝付氏,伊地知氏,禰寝氏による竜ヶ水への侵攻(元亀2年(1571年)11月)
○   肝付氏による小村海浜(小邨海M)への侵攻(元亀3年1月19日(1572年2月2日))
○   廻と市成の境における、島津義久公と肝付氏の合戦(元亀3年(1572年)2月)
○   九州の桶狭間木崎原の戦い(元亀3年5月4日(1572年6月14日))
○   島津氏による早崎塁・小浜城攻め(元亀3年(1572年)9月落城(元亀4年/天正元年(1573年)7月落城説もあります))
○   国合原の合戦(くにあいばるのかっせん;国合原の戦い)住吉原の合戦)(元亀4年/天正元年(1573年)1月)
○   禰寝氏と島津氏の和睦、ならびに横尾峠の戦い(元亀4年(1573年)3月)
○   島津氏による牛根城攻め(天正2年(1574年)1月落城)
○   肝付兼亮・伊地知重興・伊東氏による禰寝重長への攻撃(天正2年2月(1974年3月))
○   伊地知重興の降伏(天正2年(1974年)春(天正2年2月(1974年3月)以降))
○   肝付兼亮の降伏(天正2年(1974年))
○   肝付兼亮の追放(天正3年(1575年)11月)
○   肝付氏と伊東氏の偽装合戦、ならびに肝付氏と伊東氏の義絶(天正4年6月16日(1576年7月12日)(天正4年(1576年)1月説もあります))
○   高原城合戦高原城の戦い)(天正4年8月(1576年9月))
○   肝付兼護と日向伊東氏の合戦(天正4年10月1日(1576年10月22日))と肝付氏の没落
○   土持親成による門川城(かどかわじょう)攻め(天正5年2月9日(1577年2月26日))
○   島津忠長による櫛間城攻め(天正5年6月(1577年6月16日〜7月15日))
○   伊東崩れ野尻城城主・福永祐友の島津氏への寝返りを契機とする伊東崩れの始まり(天正5年12月7日(1578年1月14日)〜天正5年12月9日(1578年1月16日))
○   伊東崩れ:財部城城主・落合兼朝と富田城城主・湯地出雲守の離反(天正5年12月9日(1578年1月16日))
○   伊東崩れ:伊東義祐一行の豊後落ち・米良越え(天正5年12月9日(1578年1月16日)〜天正6年1月(1578年2月7日〜3月8日))
○   伊東崩れ:伊東大炊助と飯田肥前守の切腹(天正5年12月13日(1578年1月20日))
○   伊東崩れ:土持親成の島津氏への臣従と、日知屋城・塩見城・門川城・山陰城各城主の島津氏への降伏(天正5年12月(1578年1月8日〜1578年2月6日)〜天正6年1月23日(1578年3月1日))
○   塩見城・門川城・山陰城の三城反乱(島津氏への反乱)(天正6年1月(1578年2月7日〜同年3月8日)〜天正6年11月12日(1578年12月10日))
○   大友軍の南下による土持親成の滅亡と玄武城の落城(前者は天正6年4月15日(1578年5月21日),後者は天正6年3月28日(1578年5月4日))
○   新納石城の戦い新納石城での長倉祐政の抵抗)(天正6年3月3日(1578年4月9日)〜天正6年9月29日(1578年10月29日))
○   穂北城(上野城)の戦い(天正6年8月19日(1578年9月20日)〜天正6年(1578年)9月15日)
○   三納城周辺での長倉祐政達の抵抗(天正6年10月(1578年10月31日〜1578年11月28日)〜天正6年11月18日(1578年12月16日))
○   三州統一の完了耳川の戦い(別名:高城合戦高城川合戦)(天正6年11月12日(1578年12月10日))
○   島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一戦争以降の動向

当画面(当ページ)の先頭(トップ)
当画面(当ページ)全体の目次
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市町村
(全国や奄美群島等の動向では時期)
城跡・古戦場
(全国や奄美群島等の動向では発生事象(合戦、事件など))

島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一戦争以前の三州域外の動向



世界の動向


15世紀前半

火縄銃の発明
天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、我が国では戦国乱世を終わらせた要因の中の一つとして、軍事技術上重要です。鉄砲(火縄銃)を初めて実戦で用いたのは島津であるため、この背景事情は、戦国時代島津氏の歴史の上でも、極めて大きな影響を及ぼすことになりました。)


奄美群島の動向

応永23年(1416年)以前

与論島沖永良部島の、琉球(現沖縄県)の北山王国(ほくざんおうこく)への帰属
沖永良部島には、大和城(ヤマトグスク)という名称のグスクがありますので、奄美群島の歴史で本土の中世に相当する時期の「按司世(あじんゆ)」には、地元勢力・按司によるグスクだけでなく、本土勢力によるグスクもあった可能性があり得ます(が、確認した上での史実ではなく、「可能性」であるに過ぎません)。いずれにせよ、与論島沖永良部島は、奄美群島の中でも特に沖縄本島に近いため、沖縄県の歴史における三山時代には既に、北山王国怕尼芝王統(はにじ おうとう、はねじ おうとう)の統治下にありました。第一尚氏尚巴志王が世子時代の応永23年(1416年)に北山王国を滅ぼしたことにより、与論島沖永良部島も、第一尚氏琉球王国領に組み込まれました。)


文安4年(1447年)

琉球王国 ・ 第一尚氏尚思達王による奄美大島征服
奄美大島は、奄美群島の歴史における古代の「奄美世(あまんゆ)」の時期には、令制国の範囲外ではありましたが、日本に属する地域であると見なされていました。奄美大島では、鎌倉時代には薩摩国 ・ 川辺郡(かわなべぐん)(現・鹿児島県の、概ね「南九州市頴娃町(えいちょう)地域以外」,  枕崎市,  「南さつま市金峰町地域以外」の地域)の鎌倉幕府 御家人(兼)御内人得宗被官)・千竈(ちかま)氏得宗家代官として采配していたり、平家の落人伝説があったりしました。このため、奄美群島の歴史で本土の中世に相当する時期の「按司世(あじんゆ)」には、奄美大島では地元勢力・按司によるグスクと、例えば赤木名城のような本土様式の「城(しろ)」が混在していました。
  奄美大島は、本土の室町時代に相当する時期の文安4年(1447年)に、琉球王国 ・ 第一尚氏尚思達王によって征服されました。なお、
徳之島琉球王国への帰属時期については存じ上げませんが、地理的に、奄美大島よりも以前のことと推測します。)


文正元年(1466年)

琉球王国 ・ 第一尚氏尚徳王による喜界島制圧
喜界島は、奄美群島の歴史における古代の「奄美世(あまんゆ)」の時期には、令制国の範囲外ではありましたが、日本に属する地域であると見なされており、喜界島城久遺跡群(ぐすくいせきぐん)大宰府政庁解説の出先機関であったと推定されているとの由です。城久遺跡群の使用期間は15世紀末期まで続いており、この末期は、琉球王国 ・ 第一尚氏尚徳王による喜界島制圧と時期が同じですが、その関係については不明であるとの由です。また、城久遺跡群の末期にいた人達が、奄美群島の歴史で本土の中世に相当する時期の「按司世(あじんゆ)」における地元勢力・按司であるのか、それとも本土勢力であるのかもついては、当ホームページ管理人は存じ上げませんし、文献史料が少ないため恐らくは学会の専門研究者にも分からず、今後の研究課題なのであろうと思います。沖縄県の歴史の視点で見れば、喜界島は、琉球王国 ・ 第一尚氏が制圧した際に、激しく抵抗した島でした。)


全国の動向


応仁元年(1467年)

応仁の乱勃発(戦国時代の始まり)


奄美群島の動向


文明元年(1469年)

琉球王国における第一尚氏から第二尚氏への王統の交代による、奄美群島の統治者の変更
(文明元年(1469年)に、琉球王国で政変があって第一尚氏が倒れて、金丸尚円王に改名して王として即位して、第二尚氏による王統を開きました。この結果、奄美群島第二尚氏琉球王国の支配下に入りました。)

 

薩州家・島津国久と豊州家・島津季久と相州家・島津友久の反乱(謀反)(文明7年(1475年)〜文明9年(1477年))
(文明7年(1475年)〜文明9年(1477年)に、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第2代当主・島津国久,  大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の瓜生野城(建昌城)城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)初代当主の島津季久,  薩摩国 阿多郡田布施(たぶせ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家初代当主の島津友久がそれぞれ、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県) 守護島津氏宗家第11代当主の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょう城主・島津忠昌公に対して謀反を起こして、「国中騒乱」と言われる程の事態に陥りましたが、鎮圧されました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 瓜生野城(建昌城)
南さつま市 旧金峰町地域 亀ヶ城
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世界の動向


1482年(文明14年)

レコンキスタ(国土回復運動)によるグラナダ解説)陥落
イベリア半島からイスラム勢力を追い出すキリスト教国の運動であるレコンキスタ(国土回復運動)が482年のグラナダ解説)陥落で完了したことにより、イベリア半島にある国は、スペインスペイン王国(イスパニア王国))とポルトガルポルトガル王国)になりました。このことが、大航海時代スペイン,  ポルトガル両国が競い合って世界の海に出て行く背景事情の中の一つになりました。したがって、この政治・軍事的事件は、天文12年(1543年)の鉄砲伝来の複数ある遠因の中の一つであると言えると思います。
  また、スペイン,  ポルトガル両国はキリスト教国における対イスラム勢力の最前線であったという状況に基づく両国の熱心な宗教文化は、後年、1517年のマルティン・ルター(Martin Luther)による宗教改革で生じた新教(プロテスタント)に対して、旧教(ローマ・カトリック教会)側からの反新教(プロテスタント)的な自己改革運動「対抗宗教改革運動」において、その「先兵」と言えるイエズス会の創立メンバーがスペイン,  ポルトガル両国出身者であったことの背景事情になったと考えます。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創立メンバーの中の1人ですので、この見地からは、レコンキスタ(国土回復運動)は、我が国へのキリスト教伝来のの複数ある遠因の中の一つであると言えると思います。)


 

島津久逸の乱(文明16年(1484年)〜文明17年(1485年))
室町時代の長禄2年(1458年)に日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城から日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうに移されて以来、島津氏庶流の新納氏(にいろし)第5代当主・新納忠続(にいろ ただつぐ)は、飫肥の南の日向国櫛間院(日向国 宮崎郡櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょう城主で島津氏庶流の伊作家第8代当主の島津久逸(しまづ ひさやす,しまづ しまづ ひさやす)と共に島津氏麾下の武将として、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏に備えていました。ところが、戦国時代初期の文明16年(1484年)に、日向国における伊作家の勢力拡大を恐れた新納忠続は、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県) 守護島津氏宗家第11代当主の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょう城主・島津忠昌公に対して、伊作家第8代当主の島津久逸を、亀丸城伊作城がある島津久逸の本領・薩摩国 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)に帰還させるようにする解任の申請を願い出たところ、島津忠昌公はこの願い出を認めてしまいました。
  これを不服に思った島津久逸島津忠昌公に反旗を翻して、日向 伊東氏第6代当主・伊東祐国日向国 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の
飯野城北原氏第9代当主・北原立兼らを誘って、新納忠続が守る飫肥城を攻撃してしまいました。これが、島津久逸の乱と呼ばれる反乱の始まりです。この文明16年(1484年)の飫肥城攻撃を第一飫肥役とも呼び、以降、後年の永禄11年(1568年)の第九飫肥役に至るまで、84年間の長きに渡って9回も執拗に、日向 伊東氏飫肥城を攻撃し続けました。島津久逸連合軍の勢いは凄まじく、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の瓜生野城(建昌城)城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第2代当主の島津忠廉までも島津久逸に応じて反乱を起こして、一時期は、島津忠昌公が居城・清水城しみずじょうから、薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)に退去せざるを得ない状況に追い込まれた程でした。薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第2代当主・島津国久島津忠廉を説得すると、島津忠廉島津忠昌公方に戻り、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島を攻めようとした島津久逸軍を、島津忠廉は撃退したとの由です。
  翌文明17年(1485年)、日向 伊東氏第6代当主・伊東祐国,  北原氏第9代当主・北原立兼らは再び
飫肥城を攻め、これが第二飫肥役になったとの由です。島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公は、薩州家第2代当主・島津国久,  薩摩国 阿多郡田布施(たぶせ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家初代当主・島津友久,  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第6代当主の北郷敏久島津氏一族を率いて島津久逸連合軍の討伐と飫肥城への救援に向かったとの由です。結局、第二飫肥役では島津氏が勝利して、伊東祐国北原立兼も討ち死にしたとの由です。伊作家第8代当主の島津久逸も敗れて降伏して、本領の薩摩国 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城に帰りました。
  この島津久逸の乱島津氏以外にも、薩摩)の薩摩渋谷氏の動向にも影響を与えました。薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の
虎居城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・祁答院氏第10代当主・祁答院重度,  薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・入来院氏第10代当主の入来院重豊,  薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・東郷氏第12代当主の東郷重理も、島津久逸連合軍に加わって、薩摩)で反乱を起こしました。ところが、祁答院氏第10代当主・祁答院重度が単独で島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公に降ったため、入来院氏第10代当主の入来院重豊,東郷氏第12代当主の東郷重理が祁答院重度を攻めた等の、薩摩渋谷氏内の同族間の争いが起きたりしました。
  島津久逸の乱の結果、新納氏第5代当主・新納忠続
志布志城に戻り、その新納忠続が去った後の飫肥城おびじょう,  伊作家第8代当主の島津久逸が去った後の櫛間城くしまじょうには、豊州家(豊州島津氏)第2代当主の島津忠廉が配置されました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の新納氏(にいろし)第5代当主・新納忠続(にいろ ただつぐ)の居城です。また、島津久逸の乱における三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)にまたがる複数の戦場の内、最大の主戦場になった城です。)
宮崎県 ・ 串間市 櫛間城くしまじょう
島津久逸の乱の首謀者である、島津氏庶流の伊作家第8代当主 ・島津久逸の、乱の最中の本拠地だった城です。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
島津久逸が起こした島津氏の内乱「島津久逸の乱」に、島津氏庶流の伊作家第8代当主 ・島津久逸と同盟して介入した、日向 伊東氏第5代当主・伊東祐堯,ならびに第6代当主・伊東祐国の本拠地だった城です。)
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
島津久逸が起こした島津氏の内乱「島津久逸の乱」に、島津氏庶流の伊作家第8代当主 ・島津久逸と同盟して介入した、日向 伊東氏第5代当主・伊東祐堯,ならびに第6代当主・伊東祐国の本拠地だった城です。)
志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
日置市
(ひおきし)
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
南さつま市 旧金峰町地域 亀ヶ城
姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 瓜生野城(建昌城)
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
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文明の大合戦(文明17年(1485年))
大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の瓜生野城(建昌城)城主で、島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)第2代当主の島津忠廉が、渋谷五族(薩摩渋谷氏)討伐を呼号して、合戦を起こしました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

姶良市
(あいらし)
旧姶良町地域 瓜生野城(建昌城)
鹿児島市 旧郡山町地域 川田城この辺り(地図)
(外部リンク)
薩摩国満家院(みつえいん)河田(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市郡山町地域大字(おおあざ)川田町この辺り(地図))」)に、ありました。)
上ノ原の古戦場跡
薩摩国満家院(みつえいん)油須木(ゆすき)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市郡山町地域大字(おおあざ)油須木町この辺り(地図))」)の近都宮神社地図東方の丘陵が、古戦場との由です。)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧祁答院町地域
(けどういんちょう)
藺牟田城地図
(外部リンク)
薩摩国祁答院(けどういん)藺牟田(いむた;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域大字(おおあざ)祁答院町藺牟田この辺り(地図))」)に、ありました。)
黒木の地
大村城
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
山田城地図
(外部リンク)
薩摩国 薩摩郡 東郷の山田(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域大字(おおあざ)東郷町山田この辺り(地図))」)に、ありました。)
さつま町 旧薩摩町地域 中津川名この辺り(地図)
(外部リンク)
薩摩国祁答院(けどういん)中津川(現・鹿児島県 ・ さつま町薩摩町地域大字(おおあざ)「中津川(昭和29年(1954年)の昭和の大合併で旧薩摩町が成立するまでの間の中津川村この辺り(地図))地域」)に、ありました。)
旧宮之城町地域 虎居城
栗脇城地図),&  泊野川(地図
(外部リンク)
薩摩国白男川(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域大字(おおあざ)「白男川(この辺り(地図))」の小字(こあざ)「浅井野(この辺り(地図))」)に、ありました。)
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島津忠朝による鶴亀城(串良城)攻略(明応4年(1495年))
大隅国 串良院(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市串良町地域東串良町)の岩弘城地図城主・平田兼宗は、その専横な振る舞いのために戦国時代の明応4年(1495年)に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょう城主で島津氏第11代当主の島津忠昌公の怒りを買ってしまい、陣之尾で戦いましたが戦に敗れたため、平田兼宗は岩弘城地図,  鶴亀城串良城等の城を明け渡して降伏したとの由です。この合戦において、島津忠昌公の命を受けて実際に戦ったのは、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝であったとの由です。この戦功の結果、大隅国 串良院は島津忠朝の所領になり、島津忠朝は叔父の平山忠康を鶴亀城串良城城主にしたとの由です。この平山忠康は、当ホームページ内の平山城(平安城,帖佐本城)紹介欄で解説したとおり、豊州家(豊州島津家)の庶流の平山氏の初代当主で、元々は大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域)の平山城(平安城,帖佐本城)城主だった武将であり、文明18年(1486年)に豊州家(豊州島津家)第2代当主・島津忠廉大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐の瓜生野城(建昌城)から日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)の飫肥城おびじょうに移った際に、豊州家(豊州島津家)本家と共に大隅国帖佐の地を去っていたものです。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿屋市
(かのやし)
旧串良町(くしらちょう)地域 鶴亀城串良城
岩弘城地図
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
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島津忠昌公による伊東尹祐への日向国三俣院を割譲しての和睦(明応4年(1495年))
(文明16年(1484年)〜文明17年(1485年)の島津久逸の乱の過程で、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第6代当主・伊東祐国は、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第6代当主の北郷敏久に討たれました。この伊東祐国の敵討ちを、明応4年(1495年)に遺児で日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐(いとう ただすけ)が取ろうとした脅威に対して、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県) 守護島津氏宗家第11代当主の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょう城主・島津忠昌公は、和睦の条件として、日向国三俣院(みまたいん;今日の宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町都城市高城町地域都城市山之口町地域都城市旧志和池村地域(地図),都城市高木地域(地図),都城市金田地域(地図)など)を、伊東尹祐(いとう ただすけ)に割譲してしまいました。
  この結果、日向国三俣院(みまたいん)の
月山日和城(高城)がっさんひわじょう(現・都城市高城町大井手),  野々美谷城地図(現・都城市野々美谷町),  下之城(下ノ城;しものじょう)(現・都城市高城町有水下城),  小山城(現・都城市高城町桜木小山川原),  山之口城地図(現・都城市山之口町山之口),  三俣城(松尾城)(現・都城市山之口町花木),  梶山城地図(現・三股町長田),  勝岡城地図(現・三股町蓼池字勝岡)の8城は、日向 伊東氏の城になったとの由です。日向国三俣院(みまたいん)の日向 伊東氏の八城は、この時期、伊東八城(庄内八城,伊東氏八外城)と称されていたとの由です。日向国三俣院(みまたいん)は、従来は伝統的に島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)の勢力圏であったため、これ以降しばらくの間は、日向国三俣院の奪還が、北郷氏(ほんごうし)の悲願になりました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
野々美谷城地図
旧高城町地域
(たかじょうちょう)
月山日和城(高城)がっさんひわじょう
旧山之口町地域 松尾城(三俣城)
山之口城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)山之口(日向国 諸県郡(もろかたぐん)山之口)(現・宮崎県 ・ 都城市山之口町地域大字(おおあざ)「山之口」)にあります。)
宮崎県 ・ 三股町
みまたちょう
勝岡城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)勝岡(日向国 諸県郡(もろかたぐん)勝岡)(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町大字(おおあざ)「蓼池」字(あざ)「勝岡」)にありました。)
梶山城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)梶山(日向国 諸県郡(もろかたぐん)梶山)(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町長田にありました。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐(いとう ただすけ)の本拠地だった城です。)
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐(いとう ただすけ)の本拠地だった城です。)
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世界の動向


1497年(明応6年)

初めて喜望峰を越えたヴァスコ・ダ・ガマの航海開始(大航海時代
大航海時代の到来による西洋文明の伝来が、天文12年(1543年)の鉄砲伝来や、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来の交通技術上の背景になりました。特に、天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、我が国では戦国乱世を終わらせた要因の中の一つとして、軍事技術として重要です。鉄砲(火縄銃)を初めて実戦で用いたのは島津軍であるため、この背景事情は、戦国時代島津氏の歴史の上でも、極めて大きな影響を及ぼすことになりました。)


先島諸島の動向


明応9年(1500年)

オヤケアカハチの乱(明応9年(1500年)) + 与那国征伐(1500年頃)(琉球王国 ・ 第二尚氏王統による八重山列島解説)の制圧)
(明応9年(1500年)に、先島諸島 ・ 八重山列島解説石垣島,  西表島,  竹富島,  小浜島,  波照間島,  与那国島等)の石垣島で、石垣島の豪族・オヤケアカハチ中山王府(首里王府;琉球王国)への朝貢を断ったことによって、琉球王国 ・ 第二尚氏王統第3代国王・尚真王との間に戦争が生じました。西表島の豪族・慶来慶田城用緒(けらいけだぐすく ようちょ)の義兄弟であった石垣島の豪族・長田大主(なあた うふしゅ)は、当初はオヤケアカハチ中山王府(首里王府;琉球王国)へのへの帰順を勧めましたが、弟2人を殺されたため、先島諸島宮古列島宮古島の豪族・仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)を通じてオヤケアカハチの謀反を中山王府(首里王府;琉球王国)に報告し、中山王府(首里王府;琉球王国)が派遣した船団を仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)が先導して、オヤケアカハチは討たれたとの由です。
  また、この頃、与那国島には鬼虎や女性首長・サンアイイソバという首長がいたとの由ですが、与那国島も、中山王府(首里王府;琉球王国)の命を受けた仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)によって征伐されたとの由です。先島諸島の歴史においては、八重山列島解説)が制圧された結果、先島諸島のほぼ全域が、琉球王国 ・ 第二尚氏王統の支配下に入りました。)


 

島津忠昌公の自殺(永正5年(1508年))
今吉 弘 ・ 徳永和喜編著鹿児島県謎解き散歩新人物往来社新人物文庫,2012年03月)pp.137-139,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌によれば、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県) 守護島津氏宗家第11代当主の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)の清水城しみずじょう城主・島津忠昌公は、永正5年(1508年)に、「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」という西行の歌を辞世の句にして、清水城しみずじょうで自殺したとの由です。鹿児島県ホームページ ・ 教育・文化・交流 ・ 文化・芸術 ・ 鹿児島県歴史資料センター黎明館 ・ 刊行物 ・ 黎明館調査研究報告 ・ 『中世高山城と肝付氏について(PDF版)』pp.86-87(リンク先URLは2015年6月現在),  鹿児島県謎解き散歩pp.137-139,ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠昌によれば、自殺理由の中の一つは、文明7年(1475年)〜文明9年(1477年)の薩州家・島津国久と豊州家・島津季久と相州家・島津友久の反乱、文明16年(1484年)〜文明17年(1485年)の島津久逸の乱等の島津氏一族の反乱や、明応3年(1494年)と永正3年(1506年)の大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょう城主で肝付氏第14代当主の肝付兼久との戦い等の戦乱に、心身共に疲れ果てたからであると、言われているとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町(こうやまちょう)地域 高山城こうやまじょう
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全国の動向


永正年間(1504年〜1520年)

織田信長の祖父・織田信定勝幡城築城
織田弾正忠家が海運の拠点の商業地・津島を所領としたことが、後年、織田信長の財政基盤になると同時に、従来の発想にとらわれない商人的視野を持つ背景になったため、知名度は低いが、実は戦国時代史上、重要な事件)

 

島津忠治公・島津忠隆公による吉田城攻め(永正12年(1515年))
大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の吉田城松尾城城主で吉田氏第14代当主・吉田若狭息長位清は、島津氏に叛(そむ)いてしまったため、戦国時代の永正12年(1515年)に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょう城主で島津氏宗家第12代当主の島津忠治公は、吉田城松尾城を攻める親征を行ったとの由です。ところが、島津忠治公が陣中で没してしまったため、家督を継いだ、弟で島津氏宗家第13代当主になった島津忠隆公が吉田城松尾城攻めを続けた結果、吉田位清は敗れて、城を献上したとの由です。吉田氏最後の吉田城松尾城城主・吉田位清は落ち延びる途中で討ち取られ、落命したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
旧吉田町地域 吉田城松尾城
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世界の動向


1517年(永正14年)

マルティン・ルター(Martin Luther)による宗教改革開始(旧教(ローマ・カトリック教会)からの新教(プロテスタント)の分離)
(日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、宗教改革に対するローマ・カトリック教会からの対抗宗教改革運動として、1534年(天文3年 )に設立されたイエズス会の創建メンバーの中の1人です。後年、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)が強くキリスト教旧教(ローマ・カトリック教会))に帰依し過ぎたために、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)の耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)に際して日向国(概ね宮崎県)北部の寺社仏閣を破壊し尽くして、これに対して大友軍の将兵が内心では納得しておらず神罰を恐れていたことが、耳川の戦いにおける、心理的側面からの島津軍の勝因(=大友軍の敗因)になりました。イエズス会設立が対抗宗教改革運動によって行われたものであるため、宗教改革は、我が国へのキリスト教伝来や、耳川の戦いにおける島津軍の勝利の複数ある遠因の中の一つであると言えると思います。)

 

島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための1回目の戦争(永正17年(1520年)〜大永3年(1523年))
(明応4年(1495年)の島津忠昌公による伊東尹祐への日向国三俣院を割譲しての和睦の結果、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏日向国三俣院(今日の宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町都城市高城町地域都城市山之口町地域都城市旧志和池村地域(地図),都城市高木地域(地図),都城市金田地域(地図)など)を奪われていた状況に対して、三俣院回復を狙って、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相戦国時代初期の永正17年(1520年)に、三俣院攻略を開始したとの由です。この結果、北郷氏日向 伊東氏北原氏連合軍の戦いが発生しました。北原氏は、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の領主だった一族です。
  北郷忠相は、一旦は、三俣院西部の
志和池城しわちじょう(現・宮崎県 都城市 大字(おおあざ)上水流町字(あざ)古城)と三俣院東部の勝岡城地図(現・宮崎県 北諸県郡 ・ 三股町(みまたちょう) 大字(おおあざ)蓼池字(あざ)勝岡)を制圧したとの由です。ところが、北郷忠相は、この永正17年(1520年)〜大永3年(1523年)の戦争では最終的にはボロ負けしてしまい、小鷹原の合戦(現・宮崎県 都城市 大字(おおあざ)上長飯町)で大敗して都之城に押し戻されたとの由です。この時の戦争では、最終的には、都之城安永城やすながじょうの2城で辛(かろ)うじて領土を維持するまでに追い込まれた敗戦状況で、一連の合戦が終わったとの由です。
  
都之城安永城しか残らなかったということは、最も追い詰められた局面では、上述のとおり一旦は制圧したという志和池城勝岡城地図も、再び奪い返されてしまったことになります。また、この戦争開始の少し前に北原氏から奪取していた都之城北方の日向国 諸県郡 山田(現・宮崎県 ・ 都城市山田町地域)にある山田城も、再び北原氏のものになってしまったとの由です。
  最終的に敗れた、この一連の合戦で和議が成立した経緯は、日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐北郷氏の城・
野々美谷城(ののみたにじょう)地図(現・宮崎県 都城市 大字(おおあざ)野々美谷町)を包囲・猛攻して落城させましたが、伊東尹祐と、その弟の伊東祐梁(注)が相次いで死に、日向 伊東家家中に動揺が生じたためとの由です。この和議の条件は、(日向 伊東家の動揺のため、一旦は落城しながら、空城同様の状態になって北郷氏の手に戻っていた)野々美谷城(ののみたにじょう)地図日向 伊東氏への割譲と、日向 伊東氏の次代・第8代当主・伊東祐充への北郷忠相の娘の腰入れの、2点であったとの由です。
(注) 伊東尹祐の弟の伊東祐梁とは、伊東帰雲斎(伊東祐松)の子の伊東相模守祐梁とは別人であり、伊東帰雲斎(伊東祐松)の父です。したがって、この伊東祐梁は、孫と同姓同名の別人である人物だということになります。



  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の本城です。)
志和池城しわちじょう
安永城やすながじょう
野々美谷城地図
(外部リンク)
日向国 諸県郡(もろかたぐん)野々美谷(現・宮崎県 ・ 都城市野々美谷町)にありました。)
小鷹原の合戦古戦場
日向国 諸県郡(もろかたぐん)小鷹原(現・宮崎県 ・ 都城市大字(おおあざ)「上長飯町」)にありました。正確な場所は不明ですが、小鷹原があった現在の都城市の、都城駅地図)南東約2km強(直線距離)程にある都城市大字(おおあざ)「上長飯町」には、2013年5月現在、「小鷹神社(地図)」や「小鷹自治公民館(地図)」があり、Mapion(マピオン)の地図によれば隣接する大字(おおあざ)の「一万城町」には「小鷹原北街区公園(地図)」があり、「小鷹」という地名が残っていますので、小鷹原の合戦とはこの辺りであった旨が分かります。)
旧山田町地域 山田城
宮崎県 ・ 三股町
みまたちょう
勝岡城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)勝岡(日向国 諸県郡(もろかたぐん)勝岡)(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町大字(おおあざ)「蓼池」字(あざ)「勝岡」)にありました。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐(いとう ただすけ)の本拠地だった城です。)
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
日向 伊東氏第7代当主・伊東尹祐(いとう ただすけ)の本拠地だった城です。)
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
北原氏の、恐らくはこの時期の本城と推測可能な城です。北原氏の本城は、元々は日向国 真幸院(まさきいん)中の今日の宮崎県 ・ えびの市にあった飯野城でしたが、三ツ山城この辺り(地図)に移りました。ただし、具体的に移った時期について正確には存じ上げませんので、実は、この時点では、飯野城がまだ本城だった可能性もあり得ます。)
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世界の動向


1523年(大永3年)

寧波の乱(にんぽーのらん)
寧波の乱とは、(みん;現・中国)の寧波解説)で大永3年(1523年)に、日明貿易(にちみんぼうえき)の利権を巡って、日本の守護大名細川氏方の遣明船搭乗員と大内氏方の遣明船搭乗員とが起こした争乱です。寧波の乱を契機にして、政府が海禁政策(下海通蕃の禁)の引き締めを行ったため、倭寇を通じた密貿易が盛んになり、これを後期倭寇と分類するとの由です。
  
天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、後期倭寇の頭目の海商(貿易商人)で、(現・中国)出身の王直による交易活動の一環で行われたものです。当時の(現・中国)では、海禁政策の下、私貿易は即ち密貿易であったことから、海商(貿易商人)と倭寇とは、同じ職業でした。このため、寧波の乱は、天文12年(1543年)の鉄砲伝来の複数ある遠因の中の一つであると言えると思います。)

 

肝付兼興による鶴亀城(串良城)攻略(大永3年(1523年)〜大永4年(1524年))
戦国時代の永正17年(1520年)に、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょう城主で肝付氏第15代当主の肝付兼興(きもつき かねおき)が大軍で、大隅国 串良院(現・鹿児島県 ・ 鹿屋市串良町地域東串良町)の鶴亀城串良城を攻めたとの由ですが、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)の、さらに庶流の平山氏第2代当主で、鶴亀城串良城城主の平山近久は、城を良く守り抜いたとの由です。しかし、大永3年(1523年)に、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主で、島津氏庶流の新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝肝付兼興に加担して鶴亀城串良城を取り囲んだ結果、平山近久の主で、飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主の島津忠朝は、城兵の命を助けることを条件として和議を結んで、翌大永4年(1524年)に、鶴亀城串良城は明け渡されて肝付氏の城になったとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿屋市
(かのやし)
旧串良町(くしらちょう)地域 鶴亀城串良城
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
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日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦い(島津氏本宗家の家督相続を巡っての、紫原の戦い加世田城の戦い市来鶴丸城の戦い串木野城攻め等の島津氏の内部抗争)(大永7年(1527年)〜天文8年(1539年))
(この一連の抗争は、薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城城主で島津氏庶流の伊作家第10代当主(兼)薩摩国 阿多郡 田布施(たぶせ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家第3代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子と、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久との間で10年以上の長きに渡って行われた、島津氏宗家当主の座を巡っての家督相続争い(島津氏の内部抗争(内紛))です。結論から先に申せば、日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子側が島津実久に勝ちました。
  15世紀末〜16世紀初めの島津氏宗家は、文明16年(1484年)〜文明17年(1485年)の島津久逸の乱の時の当主である島津氏宗家第11代当主・島津忠昌公が、戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だった当主であり、領内の内乱に苦しんだためと巷間伝えられる理由で永正5年(1508年)に自殺してしまった程に、守護権力が弱体化していました。さらに、第12代当主・島津忠治公が27歳で永正12年(1515年)に、その弟で第13代当主・島津忠隆公が23歳で永正16年(1519年)と相次いで若死にしてしまい、かつ両者共に父親同様に戦国時代とはミス・マッチの武よりも文を好む性格だったため、後世、「島津氏の暗黒時代」とまで評される程に、島津氏宗家の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の勢力は衰えていました。島津忠隆公の弟で、永正16年(1519年)に後を継いだ島津氏宗家第14代当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、権力基盤が弱かったため、当初は、有力分家であった薩州家(薩州島津氏)第5代当主で、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城いずみじょう城主の島津実久(しまづ さねひさ)の力を借りることにして、島津実久の姉を正室に迎えて領国国政を委任していました。ところが、島津実久が専横を極めた上に、当時は子がいなかった島津忠兼(後の島津勝久)公に対して、自分自身(島津実久)を世子(跡継ぎ)にするように迫ったため、島津忠兼(後の島津勝久)公は正室を離縁し、島津実久を遠ざけました。島津実久は反攻して島津忠兼(後の島津勝久)公を、守護所であった薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょうから追放して勝手に守護を自称するに至り、領内騒然となったとの由です。
  島津実久の専横に対して島津忠兼(後の島津勝久)公は、島津氏の有力庶流と化しており、かつ英明の評価が高かった、薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の
亀丸城伊作城伊作家(伊作島津家)第10代当主(兼)薩摩国 阿多郡 田布施(たぶせ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城相州家(相州島津家)第3代当主の日新斎(じっしんさい)島津忠良公の力を借りることになりました。このため、日新斎島津忠良公の嫡男・島津貴久公を大永6年(1526年)に養子に迎えて島津氏宗家第15代当主として家督を継承させて、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょうに迎え入れました。翌大永7年(1527年)、島津氏宗家前当主・島津忠兼(後の島津勝久)公は、日新斎島津忠良公の領地・薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城で隠居し、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が清水城しみずじょうに入ったとの由です。島津貴久公が島津忠兼(島津勝久)公の養子になって島津氏宗家を継いだ大永6年(1526年)に、島津忠兼(島津勝久)公は島津貴久公の実父・日新斎島津忠良公に支援を求めるために、薩摩国 日置郡 日置(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町日置」)と薩摩国 日置郡 南郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)を割譲したとの由です。
  この政治情勢を快く思わず自らが島津氏宗家の座を継ごうとした、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の
出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第5代当主の、前述の島津実久は反発して、大永7年(1527年)に謀反を起こしました。この戦乱が、伊作家(兼)相州家系統の島津氏宗家による、戦国時代の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の始まりになりました。
  島津実久の謀反は、大永7年(1527年)の前年の、上記の大永6年(1526年)に既に前哨戦が始まっていた可能性があります。それは、大永6年(1526年)暮れに大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の川上忠直が島津氏宗家の島津貴久公に叛いた謀反が、城郭放浪記 ・ 大隅・平山城によれば、島津実久に付いてのことであったとの由です(ただし、川上忠直の動機について他の参照先でまだ確認していないので、川上忠直の謀反は、島津実久に付いてのことではなかった可能性も残っています)。日新斎島津忠良公は川上忠直を攻めて、代わりに島津昌久を帖佐地頭にしたとの由です。この功により、日新斎島津忠良公は、前守護島津忠兼(島津勝久)公から、薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)と、薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 谷山地域)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図を賜ったとの由です。上記の島津昌久は薩州家(薩州島津氏)の庶流でしたが、日新斎島津忠良公の姉妹の夫ですので、薩州家(薩州島津氏)島津実久が謀反を企んでいても信用していたものと推測可能です。ところが、大永7年(1527年)に、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主の伊地知重貞・伊地知重兼父子と、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)島津昌久が、大永7年(1527年)6月に島津実久方について、島津氏宗家の島津貴久公に叛いて挙兵してしまったとの由です。これが、公式には島津実久による謀反の開始ということになります。日新斎島津忠良公は加治木城を攻めて伊地知重貞・伊地知重兼父子を自刃させた後、平山城(平安城)を攻めて島津昌久を殺したとの由です。新たな加治木 地頭には、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城を拠点とした国人 ・ 肝付氏(きもつきし)の庶流の肝付兼演(きもつき かねひろ)が、そして、新たな帖佐地頭には伊地知重辰が任命されたとの由です。
  この島津氏の内紛初期の頃の情勢は、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側にとっては不利な状況でした。大永7年(1527年)6月に、島津貴久公が島津氏宗家の当時の居城であった薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
清水城しみずじょうから命がけで薩摩国 阿多郡 田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城に脱出して清水城しみずじょうを失ったり、薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 谷山地域)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図島津実久に攻略されたり、薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城で隠居していた前守護島津忠兼(島津勝久)公が島津実久の説得に応じて島津実久方に寝返り、還俗して島津勝久公に改名の上で薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょうに戻って守護職に復帰したり、その結果、島津忠兼(島津勝久)公が隠居していた伊作家の本拠地・亀丸城伊作城までもが島津実久方の城と化してしまったりしました。亀丸城伊作城は、大永7年(1527年)7月に日新斎島津忠良公が攻めて陥落させ、早速、伊作家の手にすぐに取り戻したものの、この大永7年(1527年)7月には、薩摩国 日置郡 日置(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町日置」)の日置城(松尾城)城主・山田有親が島津実久に降されたり、天文2年(1533年)に薩摩国 日置郡 南郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いて島津実久側に付いたりした等、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側が極めて苦しんだ時期がありました。さらに、薩摩国 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で祁答院氏(けどういんし)第12代当主の祁答院重武(けどういん しげたけ)が享禄2年(1529年)に、日新斎島津忠良公に任命されて上述のとおり大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)にいた伊地知重辰を攻め滅ぼして大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐が祁答院氏領になってしまったとの由です。
  享禄2年(1529年)に、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の
都之城城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし,後の都城島津氏)第8代当主の北郷忠相,  日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝,  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主で島津氏庶流の新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝,  大隅国 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・現・鹿児島県 ・ 錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の富田城,  国見城城主で禰寝氏第15代当主・禰寝清年(ねじめ きよとし),  大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で肝付氏(きもつきし)庶流の加治木肝付氏初代当主の肝付兼演(きもつき かねひろ),  大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主で薩摩本田氏第14代当主の本田薫親,  大隅国 囎唹郡(そおぐん) 生別府(小浜,後の長浜)(おいのびゅう;現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図城主で島津氏庶流の樺山氏第8代当主の樺山幸久(後の樺山善久),  薩摩国 阿多郡阿多(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域花瀬地区)の阿多城この辺り(地図)城主で日新斎島津忠良公の義父の相州家前当主(第2代当主)・島津運久らが、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょうに集まり、清水城しみずじょうに戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公に対して、日新斎島津忠良公と和解するように求めたとの由ですが、失敗したとの由です。
  この間、一時期は薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
清水城しみずじょうに戻って守護職に復帰していた島津氏宗家前当主(第14代当主)・島津勝久公は、自(みずか)ら政務を執ろうとしていたものの、歴代の臣を遠ざけて俗曲戯芸に興じ政務を怠る状況に陥っていたとの由です。奸臣・末弘忠重を斥けて欲しい旨の忠臣達の連判の上での諫言(かんげん)も聞き入れられなかったため、薩摩国 鹿児島郡 川上(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域川上町)の川上城」(地図城主で川上氏第10代当主の川上昌久が末弘忠重を天文4年(1535年)に殺害したとの由です。島津勝久公自身の身の安全のために、一旦は大隅国 禰寝院(ねじめいん)に身を隠していた島津勝久公が帰還すると、島津勝久の命によって川上昌久は、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)に当時存在した大興寺で、自害に追い込まれたとの由です。同年(天文4年(1535年))、島津勝久公は川上城地図を攻めましたが、川上昌久の妻は家臣と共に籠城して、島津勝久公を撃退したとの由です。
  島津勝久公は天文4年(1535年)8月に島津実久と再び仲違いになり、島津実久軍が薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)を攻めて街は炎上し、島津勝久公は大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)に逃れるハメに陥ったとの由です。島津勝久公は、薩摩国 祁答院(けどういん;現・薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の
虎居城大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐の平山城(平安城)城主で祁答院氏第12代当主の祁答院重武と、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で肝付氏(きもつきし)庶流の加治木肝付氏初代当主の肝付兼演(きもつき かねひろ)の弟・肝付兼利らと共に、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)を攻略し直しました。ですが、薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 谷山地域)にまで進軍したものの、そこで島津実久に敗れて肝付兼利は戦死してしまい、天文4年(1535年)10月に島津勝久公は大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐に移り、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城しみずじょうは、再び島津実久に制圧されてしまったとの由です。このような島津実久の圧迫に耐えかねた島津勝久公は、再び日新斎島津忠良公に助力を求めることになったとの由です。
  島津勝久公を薩摩国鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市)から駆逐した後、島津実久は、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の
都之城城主で島津氏庶流の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主の北郷忠相,  日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝を誘い、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主で薩摩本田氏第14代当主の本田薫親と連合して、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主の肝付氏と、大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町地域錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら)郷(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の富田城,  国見城城主の禰寝氏にも働きかけて、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)に行き、志布志城城主で島津氏庶流の新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝の嫡子・新納忠茂を誘おうとしましたが、断られたとのことです。このため、新納氏を討とうとして、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょうに行き、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 生別府(小浜,後の長浜)(おいのびゅう;現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図城主で島津氏庶流の樺山氏第8代当主の樺山幸久(後の樺山善久)を誘おうとしたとの由ですが、樺山幸久(後の樺山善久)が応じたか否かは、誘おうとした旨が載っている台明寺岩人島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放地方・小出版流通センター南方新社),2008)p.91には載っていません。樺山幸久(後の樺山善久)日新斎島津忠良公と盟約を結んだ関係でしたので、恐らくは断ったものと推測します。これと同じタイミングか、それとも別タイミングかは存じ上げませんが(注:島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放からは、恐らくは別タイミングと推測しますが、狩りに別タイミングであると仮定すれば、上記の1度目の方は他の参照先に載っておらず、検証しきれていません)、天文6年(1538年)12月から正月天文7年(1538年)正月にかけて、詳しくは後述する薩摩国における日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子の反転攻勢に対して大隅国,  日向国国人達を味方に引き入れることを目的として、島津実久は自分の守護職就任について、上述の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)第8代当主・北郷忠相,  豊州家(豊州島津家)第3代当主・島津忠朝,  薩摩本田氏第14代当主・本田薫親,  禰寝氏第15代当主・禰寝清年,  肝付氏第16代当主の肝付兼続の同意を得たことがあったとの由です。この時に、新納(にいろ)氏第8代当主・新納忠勝の嫡子・新納忠茂は反対したため、北郷忠相豊州家 ・ 島津忠朝は、新納氏を攻撃したとの由です。新納氏島津実久側に付かなかった理由、ならびに戦争の詳しい経緯は当ホームページ内の都之城紹介欄志布志城紹介欄で述べましたので、そちらをご参照いただきたくお願い申し上げますが、新納忠勝新納忠茂父子は志布志城をはじめとする諸城・所領を失い、没落してしまいました。なお、詳しくは当ホームページ内の高山城紹介欄垂野城紹介欄でも解説したとおり、この時期の肝付兼続は、必ずしも一貫して島津実久側であり続けた訳ではなく、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側に味方したこともあります。
  年は数年前後しますが、この島津勝久公と島津実久が再び仲違いした天文4年(1535年)の4年前の享禄四年(1531年)、日新斎島津忠良公は、詳しくは当ホームページ内の
頴娃(えい)城紹介欄で述べた経緯により、島津勝久公方だった頴娃氏(えいし)第4代当主・頴娃兼洪(えいかねとも)の居城である薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃(えい;現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城えいじょうを攻撃して降伏させたとの由です。これ以降、頴娃氏島津貴久公派の武将になったとの由です。このとおり頴娃氏が享禄四年(1531年)に島津貴久公派に転じたとは申せ、先述したとおり、天文2年(1533年)に、薩摩国 日置郡 南郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)の南郷城(野首城)城主・桑波田栄景が日新斎島津忠良公に叛いたりする等、一時期は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は島津実久に対して劣勢の状態は、まだ続いていました。しかし、天文2年(1533年)から、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子側の本格的な反転攻勢が始まりました。日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、同年・天文2年(1533年)に、南郷城合戦で上述の薩摩国 日置郡 南郷(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域大字(おおあざ)吹上町永吉」)の南郷城(野首城)を奪還し、山田有親を降し直して薩摩国 日置郡 日置(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町日置」)の日置城(松尾城)も奪還したとの由です。詳しくは当ホームページ内の松尾城(指宿城)紹介欄頴娃城紹介欄で解説したとおりの経緯により、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の家臣に転じていた薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん) 頴娃(えい;現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町地域)の頴娃城えいじょう城主で頴娃氏(えいし)第4代当主・頴娃兼洪(えいかねとも)は、天文2年(1533年)に、津曲(つまがり)若狭守兼任に命じて、島津勝久公派の田代民部介がいた薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん) 指宿(いぶすき;現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿市地域)の松尾城(指宿城)を、攻撃させて落城させたとの由です。
  日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子は、天文5年(1536年)に上述の薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)を奪還しました。この天文5年(1536年)に、島津貴久公は拠点を薩摩国 阿多郡伊作(いざく;現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城から一宇治城(伊集院城)に移したとの由です。さらに、島津氏宗家(日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子)側は、天文6年(1537年)の薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の紫原(むらさきばる)で行われた紫原の戦いで勝利して、天文8年(1539年)には、前年から攻めていた薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の加世田城の戦いで勝利して別府城加世田城を手に入れました。同年、薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市 谷山地域)の谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図等の薩摩国 谿山郡(たにやまぐん) 谷山の諸城の攻略に成功し、谷山で敗れた島津実久薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 川辺(かわなべ;現・鹿児島県 ・ 南九州市川辺町地域)の平山城(川辺城)に逃げて行ったため、平山城(川辺城)も攻めて落城させたとの由です。さらに、同年(天文8年(1539年))、薩摩国 日置郡市来(いちき;現・鹿児島県 ・ 日置市東市来町地域鹿児島県 ・ いちき串木野市市来町地域)の市来鶴丸城を落城させた市来鶴丸城の戦い市来鶴丸城攻め)では、島津実久の弟・島津忠辰を、薩州家庶流でありながら日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子側の家臣であった吉利家(よしとしけ;後の吉利氏)第3代当主で薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 鹿篭(かご)(現・鹿児島県 ・ 枕崎市)の鹿籠桜之城かごさくらのじょう城主の島津久定が射殺したとの由です。この天文8年(1539年)には、薩摩国 日置郡 串木野(現・鹿児島県 ・ いちき串木野市串木野市地域)の串木野城も落城させたとの由です(串木野城攻め)。これら一連の戦いの結果、ようやく島津実久は天文8年(1539年)に降伏して、出水城いずみじょうがある本拠地・薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)に隠棲したとの由です。この結果、島津貴久公は、12年ぶりに、島津氏宗家の家督相続と、守護職復帰を実現できたとの由です。
  島津勝久公は守護に復帰して政務を執ろうとしましたが、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子と再び対立して攻められたため、再び大隅国に逃亡したとの由です。島津勝久公は、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の
平山城(平安城)城主の祁答院氏,  日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城と、日向国 真幸院(まさきいん)三之山(みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城この辺り(地図)北原氏,  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城城主の北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)等を頼って、例えば北原氏領の大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)の般若寺等、大隅国 ・ 日向国方面を転々とした後、最終的には、母方の親戚である、豊後国(現・大分県の一部)守護で、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主・大友氏を頼って、豊後国まで落ち延びて行ったとの由です。ただし、よんご会HP ・ よしまつのおいたちによれば、島津勝久公が大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)の般若寺に行ったのは天文4年(1535年)のことであり、台明寺岩人島津忠良の陰謀 守護職強奪と本田薫親の追放地方・小出版流通センター南方新社),2008)p.92にも、(上述の経緯によって所領を失う前の時点の)日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主・新納忠勝が、天文5年(1536年)3月に般若寺島津勝久公を訪れて、島津勝久公の身を案じて相談を行った旨の記述があります。これらの記述内容からは、島津勝久公の大隅国 桑原郡 筒羽野(つつはの)(現・鹿児島県 ・ 湧水町吉松町地域)への流浪は、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子が島津実久を降伏させた天文8年(1539年)よりも前のことであったことになります。上述の「守護に復帰して政務を執ろうとしたが、日新斎島津忠良公 ・ 島津貴久公父子と再び対立して攻められた」出来事が、どの場所で行われたかという点も含めて、島津勝久公が、どのような経緯、タイミング、経路で流浪していったかについては、詳しくは存じ上げません。
  島津貴久公は、この時点ではまだ、島津氏一族・諸家の全ての家から、島津氏宗家当主と、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められた訳ではありませんでした。当画面下方の
北郷忠相と島津忠広の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公への降伏記載内容と重複しますが、例えば、上述のとおり、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城城主で北郷氏(ほんごうし,後の都城島津氏)第8代当主の北郷忠相,  日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家(豊州島津家)は、島津実久側に付いたままの状態が継続していました。天文14年(1545年)に北郷忠相豊州家(豊州島津氏)第4代当主・島津忠広薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と仰いで臣下の礼を取ったとの由です。尚古集成館公式WEBサイト ・ 実久党との戦いによれば、天文14年(1545年)に島津貴久公は、一族・庶家から三国(薩摩国,  大隅国,  日向国守護の座を認められて、一族の内紛に勝利したとの内容が載っていますが、これは恐らく、この、北郷氏(ほんごうし,後の都城島津氏)豊州家(豊州島津氏)の降伏のことを指しているものと推測します。
  天文19年(1550年)に、島津貴久公は拠点を、薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)から、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょうに移したとの由です。薩摩国 鹿児島郡 鹿児島島津氏宗家の城は従来は清水城しみずじょうだったのですが、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島に移った際に島津貴久公は、従来からの島津氏守護所であった清水城しみずじょうを避けて、戦国大名 ・ 島津氏の本城として、新たに内城うちじょうを築いたのであるとの由です。また、島津貴久公が内城うちじょうに移った天文19年(1550年)に、日新斎島津忠良公は、薩摩国 川辺郡(かわなべぐん) 加世田(現・鹿児島県 ・ 南さつま市加世田市地域)の別府城(加世田城)に隠居したとの由です。
  島津氏は、鎌倉時代守護が、元々の地域の統治権を維持したまま、江戸時代の近世大名として幕末 ・ 明治維新期まで生き残れた唯一の家です。このサバイバルが可能になった過程で、島津氏でも下克上が無かった訳ではありませんが、島津氏における下克上の唯一の成功事例が、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による島津氏本宗家の家督相続争いであったため、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の統治権を他氏に奪われずに済みました。また、北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相,  豊州家第4代当主・島津忠広島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を守護として認めて以来、それまでは極めて激しかった島津氏の内部抗争が無くなり、同族間の内紛・内部抗争が起きなかったことも、途中の局面では他氏との抗争の過程で極めて苦しい状況に陥った時期があったにもかかわらず、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定を実現できた要因の一つであろうと当ホームページ管理人考えます。さらに、重要な点として、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子と島津実久との間の、この島津氏の最後の内紛・内部抗争の過程で、日新斎島津忠良公・島津貴久公父子の家中で家臣団編成が進んで守護大名から戦国大名に質的成長を遂げることができたことも、生き残れた要因になろうかと思います。このような複数の観点で、島津氏の最後の内紛・内部抗争になった、この一連の
日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦いは、島津氏による三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定戦の上で、大きな意味を持つ抗争になりました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 清水城しみずじょう
薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の清水城は、守護大名 ・ 島津氏による領国・三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の守護所でした。薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久側の攻撃を受けて、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公が薩摩国 阿多郡田布施(現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城に逃亡した事件で、島津氏の内部抗争が表面化しました。)
内城うちじょう
谷山城千々輪城(ちぢわじょう)谷山本城)(地図
指宿市
(いぶずきし)
旧指宿市地域 松尾城(指宿城)
(比較的早い時期に日新斎島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の忠臣になった国人領主・頴娃(えい)氏の支城だった城です。頴娃(えい)氏島津忠良公・島津貴久公父子への降伏自体は、直接的には島津忠良公・島津貴久公父子と島津実久との内部抗争の戦ではありませんが、この内部抗争の期間における有力国人領主の島津忠良公・島津貴久公父子陣営の家臣団化・戦力増強という意味があることだったと、当ホームページ管理人は考えています。)
南九州市 旧川辺町地域
(かわなべちょう)
平山城(川辺城)かわなべじょう
旧頴娃町地域
(えいちょう)
頴娃城えいじょう
(比較的早い時期に日新斎島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の忠臣になった国人領主・頴娃(えい)氏の本城だった城です。頴娃(えい)氏島津忠良公・島津貴久公父子への降伏自体は、直接的には島津忠良公・島津貴久公父子と島津実久との内部抗争の戦ではありませんが、この内部抗争の期間における有力国人領主の島津忠良公・島津貴久公父子陣営の家臣団化・戦力増強という意味があることだったと、当ホームページ管理人は考えています。)
枕崎市 鹿籠桜之城かごさくらのじょう
薩州家の庶流でありながら、日新斎島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の側の忠臣になり、後に吉利氏(よしとしし)になった島津氏庶流の家の城です。)
南さつま市 旧加世田市地域 別府城(加世田城)
旧金峰町地域 亀ヶ城
亀丸城伊作城と共に、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の当初からの拠点だった城です。)
霧島市 旧隼人町地域 生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図
(外部リンク)
日新斎島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の忠臣にして名将として知られる島津氏庶流の樺山氏第8代当主・樺山幸久の城です。)
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
旧姶良町地域 平山城(平安城,帖佐本城)
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
亀ヶ城と共に、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の当初からの拠点だった城です。)
南郷城(野首城)
旧日吉町町地域 日置城(松尾城,山田城)
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
旧東市来町地域 市来鶴丸城
いちき串木野市 旧串木野市地域 串木野城
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
薩摩国入来院(薩摩国 薩摩郡 入来)(いりき;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家の入来院氏第11代当主の入来院重聡(いりきいん しげさと)は、娘の雪窓夫人島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に嫁いだことから、島津忠良公・島津貴久公父子と島津実久との内部抗争においては、島津忠良公・島津貴久公父子側の武将でした。)
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久の本城だった城です。)
鹿屋市
(かのやし)
旧輝北町地域
(きほくちょう)
垂野城
大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の島津氏の内部抗争において、島津忠良公,島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子側に援軍を送った軍功により、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)に与えられた城です。)
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
大隅国国人戦国大名で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、日新斎(じっしんさい)島津忠良公の長女・御南(おみなみ)と結婚したこともあり、大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の島津氏の内部抗争においては、個別局面での例外的な行動を除けば概ね島津忠良公,島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子側につく等、島津忠良公・島津貴久公父子との関係は良好でした。)
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島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための2回目の戦争(享禄4年(1531年)〜天文3年(1534年))
(永正17年(1520年)〜大永3年(1523年)の北郷氏第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための1回目の戦争における、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の敗戦の約10年後の享禄4年(1531年)に、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏の家中で、日向 伊東氏第8代当主伊東祐充の外祖父・福永祐炳の専横への反発を原因とする内乱が、発生じました。この日向 伊東家家中の内乱を機会として、翌・天文元年(1532年)に、北郷忠相は、盟友である、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主(兼)日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょう城主で島津氏庶流の豊州家第3代当主の島津忠朝と、かつての敵方で日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の領主の北原久兼と手を結んで、反日向 伊東氏の反撃侵攻を、開始しました。北郷忠相島津忠朝と共に、日向 伊東氏家臣で、日向国三俣院(今日の宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町都城市高城町地域都城市山之口町地域都城市旧志和池村地域(地図),都城市高木地域(地図),都城市金田地域(地図)など)の高城月山日和城がっさんひわじょう))城主・伊東祐量(八代長門守祐量(やつしろながとのかみすけかず))を不動寺馬場の合戦で破ったとの由であり、不動寺馬場は、高城月山日和城城下のこの辺り(地図)であったとの由です。この合戦の場所は、歴史探訪記 ・ 諏訪馬場古戦場によれば諏訪馬場とも呼ばれているとの由です(地図)。
  
不動寺馬場の合戦で壊滅的な打撃を受けた直後でも日向国三俣院の高城月山日和城,  勝岡城地図(現・宮崎県 北諸県郡 ・ 三股町(みまたちょう) 大字(おおあざ)蓼池字(あざ)勝岡),  梶山城地図(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町長田)は、まだ日向 伊東氏のものであり、伊東祐量(八代長門守祐量)戦死後の日向 伊東氏家臣の高城月山日和城城主・落合兼佳が、不動寺馬場の合戦で生き残った少ない手勢で必死に防戦していたとの由です。日向 伊東氏側は、正にこの抗争の最中の天文2年8月28日(1533年9月16日))に第8代当主・伊東祐充が病死した後、専横を極めた福永祐炳に対して伊東祐武が乱を起こした武州の乱など混乱を極めたため、落合兼佳に援軍を送ることが不可能な状況でした。ところで、この合戦で北原氏の側が得た利益としては、天文元年(1532年)に、日向三俣院の野々美谷(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域大字(おおあざ)「野々美谷町」)の野々美谷城(ののみたにじょう)地図を攻め落として、手に入れたことであるとの由です。概ねこの時期が、北原氏としては最大版図を築いた最盛期になります。このように北原氏は所期の目的である野々美谷城(ののみたにじょう)地図を落として手に入れた後、再び日向 伊東氏に近づき、日向国 真幸院(まさきいん)飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城城主で北原氏庶流の北原兼孝は、天文2年(1535年)に伊東祐充没後の家督相続争いの一方の側の伊東義祐の援軍と称して、当時日向 伊東氏領だった日向国 諸県郡 (現・宮崎県 ・ 東諸県郡 綾町あやちょう))に兵3,000で布陣して、綾城あやじょう高城月山日和城の割譲を要求したとの由です。伊東義祐はやむを得ず、高城月山日和城の割譲の了承をしましたが、これは寡兵で奮戦していた高城月山日和城城主・落合兼佳にとっては、「援軍を送ってくれるどころか勝手に割譲した、背中から撃たれたにも等しい主家からの裏切り」行為であったため、この了承を知った落合兼佳は多いに憤慨して、北郷忠相に城を明け渡したとの由です。日向国三俣院の本拠地・本城であった高城月山日和城開城の知らせを受けた日向国三俣院の他の支城の日向 伊東氏側の城兵達は、抵抗を諦(あきら)めて日向 伊東氏の本領に撤退して行ったとの由です。
  この結果、北郷氏は、約40年の悲願であった日向三俣院の奪還に成功したとの由です。日向三俣院奪還後、北郷忠相は、
都之城には嫡男で、後の北郷氏第9代当主・北郷忠親を配置して、自分自身は高城月山日和城に移ったとの由です。後の天文10年(1542)〜天文11年(1543)の伊東義祐 ・ 北原氏連合軍による侵攻も撃退した結果、北郷忠相は、高城月山日和城を中心とする日向三俣院の死守に成功しました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の本城です。)
志和池城しわちじょう
野々美谷城地図
(外部リンク)
日向国 諸県郡(もろかたぐん)野々美谷(現・宮崎県 ・ 都城市野々美谷町)にありました。)
旧高城町地域
(たかじょうちょう)
月山日和城(高城)がっさんひわじょう
不動寺馬場(不動寺馬場の合戦古戦場,別名:諏訪馬場古戦場)(この辺り(地図)
(外部リンク)
月山日和城跡(高城跡)城下にあります。)
旧山之口町地域 松尾城(三俣城)
山之口城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)山之口(日向国 諸県郡(もろかたぐん)山之口)(現・宮崎県 ・ 都城市山之口町地域大字(おおあざ)「山之口」)にあります。)
宮崎県 ・ 三股町
みまたちょう
勝岡城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)勝岡(日向国 諸県郡(もろかたぐん)勝岡)(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町大字(おおあざ)「蓼池」字(あざ)「勝岡」)にありました。)
梶山城地図
(外部リンク)
日向国三俣院(みまたいん)梶山(日向国 諸県郡(もろかたぐん)梶山)(現・宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町長田にありました。)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の盟友で、島津氏庶流の豊州家第3代当主の島津忠朝の本城です。)
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
北原氏の、恐らくはこの時期の本城と推測可能な城です。北原氏の本城は、元々は日向国 真幸院(まさきいん)中の今日の宮崎県 ・ えびの市にあった飯野城でしたが、三ツ山城この辺り(地図)に移りました。ただし、具体的に移った時期について正確には存じ上げませんので、実は、この時点では、飯野城がまだ本城だった可能性もあり得ます。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
日向 伊東氏第8代当主・伊東祐充(いとう すけみつ)の本拠地だった城です。)
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
日向 伊東氏第8代当主・伊東祐充(いとう すけみつ)の本拠地だった城です。)
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全国の動向


享禄4年(1531年)

徳川家康の祖父・松平清康岡崎城を奪取


全国の動向


天文元年(1532年)

織田信長の父・織田信秀那古野城(跡地は、後の名古屋城)を奪取


世界の動向


1534年(天文3年)

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier )らによるイエズス会設立(宗教改革に対するローマ・カトリック教会からの対抗宗教改革
(日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、宗教改革に対するローマ・カトリック教会からの対抗宗教改革運動として、1534年(天文3年 )に設立されたイエズス会の創建メンバーの中の1人です。後年、豊後国 大分郡 府内(現・大分県 ・ 大分市の中心部)の大友氏館城主で大友氏第21代当主の大友宗麟(大友義鎮)が強くキリスト教旧教(ローマ・カトリック教会))に帰依し過ぎたために、戦国時代末期/安土桃山時代の天正6年(1578年)の耳川の戦い(戦場跡は、現・宮崎県 ・ 児湯郡 ・ 木城町から川南町にかけての耳川の戦い古戦場)に際して日向国(概ね宮崎県)北部の寺社仏閣を破壊し尽くして、これに対して大友軍の将兵が内心では納得しておらず神罰を恐れていたことが、耳川の戦いにおける、心理的側面からの島津軍の勝因(=大友軍の敗因)になりました。イエズス会設立が対抗宗教改革運動によって行われたものであるため、宗教改革は、我が国へのキリスト教伝来や、耳川の戦いにおける島津軍の勝利の複数ある遠因の中の一つであると言えると思います。)


奄美群島の動向

天文6年(1537年)

琉球王国 ・ 第二尚氏王統第4代国王・尚清王による奄美大島与湾大親(ゆわんうふぬし)の征討
与湾大親琉球王国に対する謀反は、後年、讒言(ざんげん)と判明して、与湾大親の子孫・馬氏小禄殿内(ばうじ おろくどぅんち)は、琉球王国における名門の大名御殿 殿内(うどぅんとぅんち))になりました。)

 

島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)当主・北郷忠相,島津忠朝,肝付兼続による、新納氏攻め(天文7年(1538年))
(この欄の記載内容は、当画面上方の日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦い記載内容と重複(ちょうふく)します。長いタイム・スパンで見れば、日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の系統の島津氏宗家の忠臣の一族衆であった日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相と、盟友である日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家第3代当主の島津忠朝は、大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦いの際には、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久側についていました。大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)と共に、北郷忠相島津忠朝は、島津忠良公・島津貴久公父子側武将だった、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城城主で島津氏庶流の新納氏(にいろし)第8代当主・新納忠勝(にいろ ただかつ)を、攻めて滅ぼした戦です。この戦は島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の島津氏の内部抗争の一環としての日向国内の動向と位置づけられる戦でした。この戦の後、豊州家第3代当主・島津忠朝は本城・飫肥城を長子で豊州家第4代当主の島津忠広に任せて、自らは志布志城に移ったとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
島津氏庶流の新納氏(にいろし)第8代当主・新納忠勝の本城です。)
安楽城地図
(外部リンク)
曽於郡 大崎町 大崎城地図
(外部リンク)
曽於市
(そおし)
旧末吉町地域 末吉城地図
(外部リンク)
旧財部町地域
(たからべちょう)
龍虎城(財部城)
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)の本城です。)
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の本城です。)
梅北城地図
(外部リンク)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の盟友で、島津氏庶流の豊州家第3代当主の島津忠朝の本城です。)
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島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)による都城盆地の統一(大楽合戦等、北原氏 ・ 伊東氏連合軍と北郷氏との戦い)(天文10年(1541年)〜天文12年(1543年))
(天文10年(1542年)に、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城城主で北原氏庶流の北原兼孝が率いる北原軍は、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主の伊東義祐と再び組んで、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)を本城とする島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主で、日向三俣院(今日の宮崎県 ・ 北諸県郡 ・ 三股町都城市高城町地域都城市山之口町地域都城市旧志和池村地域(地図),都城市高木地域(地図),都城市金田地域(地図)など)の高城(現・宮崎県 ・ 都城市高城町地域)の高城月山日和城がっさんひわじょう))城主の北郷忠相の領土である、正に高城月山日和城がっさんひわじょう))がある日向三俣院の高城(現・宮崎県都城市高城町地域)に侵攻して来たとの由です。当初は、都之城(都城)の北方にある北原氏都城盆地に持っていた城である日向三俣院の志和池(しわち;現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域大字(おおあざ)「上水流町」等)の志和池城しわちじょうに、伊東氏 ・ 北原氏連合軍は集結しつつあったとの由です。これに対して、この天文10年(1541年)にも、天文元年(1532年)の北郷氏第8代当主・北郷忠相による三俣院奪還のための2回目の戦争における合戦と同じ高城月山日和城城下の諏訪馬場地図で合戦が行われて北郷忠相は勝利し、迎撃に成功したとの由です。
  また、正にこの天文10年(1541年)、日向 伊東氏家臣の長倉祐省が、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の
飫肥城おびじょう城主で、日向国 櫛間院(日向国 宮崎郡 櫛間)(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市 + 日南市南郷町地域)の櫛間城くしまじょう,  日向国 諸県郡 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城も持ち城にしていた島津氏庶流の豊州家(豊州島津氏)と通じて、伊東義祐に反乱を起こしました(長倉能登守の乱)。この時の豊州家側の状況は、病弱だった豊州家第4代当主・島津忠広の政務を代行していた、家臣の日置美作守の独断であったとの由です。この長倉能登守の乱が勃発した結果、伊東義祐は一旦、都城盆地から撤退して長倉祐省を鎮圧せざるを得なくなったとの由です。今日のサッカー用語で例えれば豊州家は盟友・北郷氏のアシストをしたことにもなりますが、その代償として、長倉祐省と結んだ島津忠広の居城・飫肥城おびじょうを、伊東義祐は攻めました。盟友・島津忠広の危機に対して、依然として北原氏との戦闘が続いていた北郷忠相は、援軍を送ることができない状況であったとの由です。
  北原氏 ・ 日向 伊東氏連合軍と北郷氏 ・ 豊州家連合軍とが互いに各個撃破状態に陥った状況下で、当面の戦場から日向 伊東氏が欠けたために危機に陥った北原氏はたまらず伊東義祐に援軍要請を行い、それを無視できなくなった伊東義祐は、
飫肥城おびじょう攻めを一旦中断して、3,000人の援軍を送って来たとの由です。伊東義祐の援軍を得た北原氏は再び、北郷忠相に挑むことになったとの由です。このため、天文11年(1543年)8月に、高城月山日和城がっさんひわじょう))城主の北郷忠相と、その嫡男の都之城城主で北郷氏第9代当主の北郷忠親(後の豊州家第5代・島津忠親)は、小山河原日向 伊東氏 ・ 北原氏連合軍を包囲殲滅することに成功したとの由です。この「小山河原での合戦」とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 北郷忠相等で「大楽合戦」とされている合戦とどうやら同じものである模様であり、歴史探訪記 ・ 大楽古戦場によれば、合戦を行った場所はこの辺り(地図)であるとの由です。
  この一連の抗争の過程の天文11年(1542年)に、北郷忠相は、日向三俣院の野々美谷(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域大字(おおあざ)「野々美谷町」)の
野々美谷城(ののみたにじょう)地図を攻め落として北原氏から奪ったとの由です。また、天文12年5月9日(1543年6月11日)に志和池城しわちじょうも降伏させ、同年春には同様に、詳しくは当ホームページ内の山田城解説欄で述べたような経緯により、日向国 諸県郡 山田(現・宮崎県 ・ 都城市山田町地域)の山田城も攻め落として、天文10年(1542年)からの抗争の相手の中の1家・北原氏を単に撃退しただけに止まらず、元々都城盆地にあった北原氏側の城から北原氏を駆逐することに成功したとの由です。これにより、北郷氏初代当主・島津資忠(北郷資忠)以来の悲願だった都城盆地の統一が、北郷氏第8代当主・北郷忠相によって初めて実現したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)の本城であり、この戦の時には、第9代当主の北郷忠親がいました。)
志和池城しわちじょう
野々美谷城地図
(外部リンク)
日向国 諸県郡(もろかたぐん)野々美谷(現・宮崎県 ・ 都城市野々美谷町)にありました。)
旧山田町地域 山田城
旧高城町地域
(たかじょうちょう)
月山日和城(高城)がっさんひわじょう
(この戦の時には、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相がいました。)
大楽合戦古戦場(この辺り(地図))(小山河原での合戦と同じ合戦か?)
(外部リンク)
月山日和城跡(高城跡)城下にあります。)
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
北原氏の、恐らくはこの時期の本城と推測可能な城です。北原氏の本城は、元々は日向国 真幸院(まさきいん)中の今日の宮崎県 ・ えびの市にあった飯野城でしたが、三ツ山城この辺り(地図)に移りました。ただし、具体的に移った時期について正確には存じ上げませんので、実は、この時点では、飯野城がまだ本城だった可能性もあり得ます。)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の本拠地だった城です。)
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐の本拠地だった城です。)
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大隅合戦(に含まれない場合、その前哨戦):本田薫親らによる生別府城(おいのびゅうじょう)攻撃(天文10年(1541年)〜天文11年(1542年))と、本田薫親の謀反(天文17年(1548年))
播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 伊集院氏によれば、天文10年(1541年)に、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主で、大隅国 守護代家の本田氏第14代当主の本田薫親,  日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相,  日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家第4代当主の島津忠広,  大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(かじき;現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で、肝付氏庶流の加治木肝付氏(喜入肝付氏)第3代当主の肝付兼演らが連合して、日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子側の武将だった、島津氏庶流の樺山氏(かばやまし)第8代当主・樺山幸久(別名:樺山善久,樺山玄佐)が守っていた大隅国 囎唹郡(そおぐん) 生別府(小浜,後の長浜)(おいのびゅう;現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の生別府城(おいのびゅうじょう)地図を攻めたとの由です。この時には、島津貴久公の命を受けて伊集院忠朗が救援に駆け付けたとの由です。さらに、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈224〉「武勇抜群」の武将・樺山玄佐(上)によれば、天文11年(1542年)に本田薫親らに攻められて、樺山幸久(樺山善久)生別府城(おいのびゅうじょう)地図本田薫親に明け渡すハメに陥り、樺山幸久(樺山善久)は、薩摩国谷山福本(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市  谷山地域上福元町この辺り(地図)),ならびに下福元町この辺り(地図)))に移らざるを得ない状況に追い込まれたとの由です。
  しかし、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 樺山善久,  播磨屋.com ・ 家紋World ・ 風雲戦国史 ・ 地方別武将一覧 ・ 九州 ・ 武家家伝 薩摩本田氏,ならびに南日本新聞社ホームページ(373news.com) ・ さつま人国誌 ・ 「武勇抜群」の武将・樺山玄佐(上)>等によれば、6年後の天文17年(1548年)には、本田薫親は島津貴久公に対して起こした謀反のために、
国分清水城等の城を薩摩国 伊集院薩摩国 日置郡 伊集院)(概ね、現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公,  樺山幸久(樺山善久)らに攻め落とされて滅び、国分清水城島津氏宗家の城になったとの由です。この過程で、樺山幸久(樺山善久)は、本田薫親に奪われていた生別府城(おいのびゅうじょう)地図を、奪い返したとの由です。城郭放浪記 ・ 大隅・長浜城によれば、この時、国分清水城こくぶきよみずじょう陥落の祝いとして、「生別府(おいのびゅう)」の地を「長浜」に改称し、生別府城(おいのびゅうじょう)地図長浜城地図に改称されたとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 島津忠将によれば、この天文17年(1548年)に、島津貴久公の弟の島津忠将が、新たな国分清水城城主に就任したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

日置市
(ひおきし)
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
霧島市 旧国分市地域
(こくぶし)
国分清水城こくぶきよみずじょう
旧隼人町地域 生別府城(おいのびゅうじょう;後の長浜城)地図
(外部リンク)
日新斎島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子の忠臣にして名将として知られる島津氏庶流の樺山氏第8代当主・樺山幸久の城です。)
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の盟友で、島津氏庶流の豊州家第4代当主の島津忠広の本城です。)
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根占戦争(禰寝戦争)(種子島,屋久島における、種子島氏と禰寝氏(ねじめし)の抗争)(天文12年(1543年)〜天文13年(1544))と、鉄砲伝来(天文12年(1543年))
戦国時代の天文12年(1543年)〜天文13年(1544年)に、大隅国 熊毛郡西之表(現・鹿児島県 ・ 種子島西之表市)の雁田城(場所不明)城主で種子島氏第13代当主の種子島恵時(たねがしま しげとき),  大隅国 熊毛郡西之表(現・鹿児島県 ・ 種子島西之表市)の種子島時尭居館坂の上城(坂ノ上城)と同じか?),  内城(種子島)城主で種子島氏第14代当主・種子島時尭(たねがしま ときたか)父子と、大隅国 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・鹿児島県 ・ 南大隅町鹿児島県 ・ 錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院:大根占(現・鹿児島県 ・ 錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の大姶良以外の地域の領主であり、富田城,  国見城城主で禰寝氏(ねじめし)第15代当主・禰寝清年(ねじめ きよとし)(注)との間で、行われた抗争です。種子島恵時 ・ 種子島時尭父子は、一旦は敗れて屋久島禰寝氏に奪われてしまいました。
(注) 異説として、史料によっては、種子島を攻めたのは、禰寝清年ではなく、その子で禰寝氏第15代当主・禰寝重長とされているものもあるとの由です。

  禰寝氏は、大隅国 馭謨郡(ごむぐん)楠川(くすかわ;現・鹿児島県 ・ 熊毛郡 屋久島町町丁「楠川」)の
楠川城を手に入れて、禰寝氏は、大隅国 馭謨郡(ごむぐん)宮之浦(現・鹿児島県 ・ 熊毛郡 屋久島町町丁「宮之浦」)の宮之浦城(城ケ平城)の築城を開始しました。翌天文13年(1544年)に、種子島恵時は肥後下野守時典に命じて、屋久島禰寝氏勢を駆逐して、屋久島を取り戻しました。
  丁度この時期、天文12年8月25日(1543年9月23日)に鉄砲(火縄銃)が種子島に伝来しました(鉄砲伝来日本の城址 ・ 楠川城掲載の案内板写真,ならびによりみち文化財 ・ 屋久島 楠川城跡によれば、
楠川城跡の案内板には、「日本で初めて実戦に火繩銃が使われたという説がある」という記述が載っているとの由であり、これは、タイミング的にはあり得ない話ではありません。しかし、南日本新聞社公式WEBサイト「373news.com」 ・ さつま人国誌 ・ 〈348〉黒川崎の合戦と鉄炮によれば、文献上、我が国初めての合戦における鉄炮の使用は、鉄砲伝来の7年後の天文18年(1549年)の黒川崎の戦い(黒川崎合戦)においてのことであるとの由です。根占(禰寝)戦争で鉄砲が初めて使われた」説は、その可能性は否定できませんが、文献上で確認できたものではないのであろう、と推測します。いずれにせよ、種子島氏島津氏の家臣でしたので、例えば我が国で鉄砲(種子島火縄銃)が実戦で使われた最も初期の合戦が天文18年(1549年)の黒川崎の戦い(黒川崎合戦)や、天文23年(1554年)の岩剣城の戦いであった等、島津氏による、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦に際して、鉄砲伝来は、勝利のために軍事技術上重要な革新的、いや、革命的なイノベーションをもたらしたと言えると思います。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

肝属郡
南大隅町
旧根占町地域
(ねじめちょう)
富田城
国見城
種子島 ・ 西之表市 内城(種子島)
種子島時尭居館(現・本源寺)
坂の上城(坂ノ上城)と、同じ城であるかも知れません。)
屋久島 ・ 屋久島町 宮之浦城(城ケ平城,宮之浦城ケ平城)
楠川城
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北郷忠相と島津忠広の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公への臣従(天文14年(1545年))
(この欄の記載内容は、当画面上方の日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦い記載内容と重複(ちょうふく)します。大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦いでは、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相と、日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家第4代当主の島津忠広は、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城いずみじょう城主で島津氏庶流の薩州家第5代当主・島津実久の側についていました。天文8年(1539年)に薩摩国 阿多郡伊作(現・鹿児島県 ・ 日置市吹上町地域の一部)の亀丸城伊作城城主で島津氏庶流の伊作家第10代当主(兼)薩摩国 阿多郡田布施(たぶせ;現・鹿児島県 ・ 南さつま市金峰町地域の一部)の亀ヶ城城主で島津氏庶流の相州家第3代当主・日新斎(じっしんさい)島津忠良公・島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子が島津実久を打ち破った時点でも、北郷忠相島津忠広は、まだ日新斎島津忠良公・島津貴久公父子に臣従していませんでした。
  天文14年(1545年)に北郷忠相島津忠広は、薩摩国 伊集院薩摩国 日置郡 伊集院)(概ね、現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の
一宇治城(伊集院城)島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を訪れて、島津貴久公を守護と認めて臣下の礼をとりました。この結果、島津氏の内部抗争は終了しました。当画面上方の日新斎島津忠良公・島津貴久公父子による、島津実久党との戦いでも解説したとおり、北郷氏(ほんごうし)第8代当主・北郷忠相,  豊州家第4代当主・島津忠広島津氏宗家第15代当主・島津貴久公を守護として認めて以来、それまでは極めて激しかった島津氏の内部抗争が無くなり、同族間の内紛・内部抗争が起きなかったことは、島津氏が、途中の局面では他氏との抗争の過程で極めて苦しい状況に陥った時期があったにもかかわらず、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)の領国国内統一平定を実現できた要因の一つであろうと当ホームページ管理人考えます。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

南さつま市 旧金峰町地域 亀ヶ城
日置市
(ひおきし)
旧吹上町地域 亀丸城伊作城
旧伊集院町地域 (当HP内の)一宇治城(伊集院城)訪問記
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の本城です。)
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第8代当主の北郷忠相の同盟者で、島津氏庶流の豊州家第4代当主の島津忠広の本城です。)
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島津氏庶流の薩州家と、渋谷五族(薩摩渋谷氏)の東郷氏との間の、薩摩国の高城郡(たきぐん)を巡っての抗争(天文16年(1547年)から約20年間)
大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)の島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の島津氏の内部抗争の後、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家が第6代当主・島津義虎の代の時に、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に臣従するようになった後、島津義虎家臣の湯田兵庫の飼い犬が盗まれた事件を契機にして、天文16年(1547年)から約20年間、薩摩国 高城郡(たきぐん) 高城(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)川内市地域大字(おおあざ)高城町等」)の妹背城(高城城)いもせじょう(たきじょう)に進出していた、薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・東郷氏第15代当主・東郷重治と、島津義虎が抗争状態に陥りました。当時の薩摩国 高城郡は、湯田兵庫の苗字からも窺えるように薩摩国 高城郡 湯田(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)湯田町」)の湯田城地図(現鹿児島県薩摩川内市 湯田町高城)が島津義虎の城であった模様であり、一方、妹背城(高城城)と、薩摩国 高城郡 水引(みずひき;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)水引町,  御陵下町(ごりょうしたちょう)等」)の水引城地図(鹿児島県薩摩川内市 御陵下町本城・東之城)は東郷氏の城だったため、正に両勢力がぶつかる場所でした。
  薩州家東郷氏の内部抗争は、島津氏宗家の命令によるものではなく、島津氏宗家に服従した後も行われた薩州家独自の単独行動ではありますが、島津氏の三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦の、島津氏と薩摩渋谷氏との間の抗争における局地戦だと位置づけることが可能な抗争です。弘治3年(1557年)に薩摩国 出水郡(いずみぐん) 阿久根大川(現・鹿児島県 ・ 阿久根市大字(おおあざ)「大川(この辺り(地図))」)で行われた大川の戦いでは東郷重治が勝利し、勝敗は不明ですが永禄12年(1569年)にも薩摩国 出水郡 阿久根で、島津義虎東郷氏第16代当主・東郷重尚が戦ったとの由です。元亀元年(1570年)に、東郷重尚と、同族(渋谷五族(薩摩渋谷氏))の薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の
清色城城主で入来院氏第13代・入来院重嗣とが島津氏宗家に降伏した時に、東郷氏入来院氏共に本領のみが安堵されて、他の領土は召し上げられました。この結果、薩摩国 高城郡は、薩州家第6代当主・島津義虎の領土になりました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 妹背城(高城城)いもせじょう(たきじょう)
水引城地図
(外部リンク)
湯田城地図
(外部リンク)
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
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世界の動向
(国内の動向でもあります。)



1549年(天文18年)

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier )の日本上陸
フランシスコ・ザビエルは、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の、今日の祇園之洲町に上陸しました。鹿児島市の関連する観光スポットには、鹿児島カテドラル・ザビエル教会,  ザビエル滞麑記念碑(ザビエル公園)があります。また、フランシスコ・ザビエルは、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょうで(薩摩国 日置郡 伊集院(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域)の一宇治城(伊集院城)説もあり)、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に拝謁しましたが、やがて、島津氏領内での布教が叶わなくなり、他大名領に移動しました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

 

大隅合戦(に含まれない場合、その前哨戦):加治木肝付氏・薩摩渋谷氏らによる吉田城(松尾城)攻撃と、それに続く黒川崎の戦い(黒川崎合戦)(天文18年(1549年))
大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(かじき;現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で、肝付氏庶流の加治木肝付氏(喜入肝付氏)第3代当主の肝付兼演を首謀者にして、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 蒲生(かもう;現・鹿児島県 ・ 姶良市蒲生町地域)の蒲生城城主で蒲生氏第16代当主の蒲生茂清、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)も支配下に置いていた渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・祁答院氏第13代当主・祁答院良重薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・入来院氏第12代当主・入来院重朝、薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・東郷氏第15代当主・東郷重治が謀反を起こして、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公方の城であった、大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の吉田城松尾城を攻撃しました。島津貴久公は、新納忠元(にいろ ただもと)薩摩国 日置郡 日置(現・鹿児島県 ・ 日置市日吉町町地域大字(おおあざ)日吉町日置」)の日置城(松尾城)城主(城代)・山田有徳を派遣して吉田城松尾城を防衛しました。
  それに続く同年の大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の「黒川崎」で行われた「黒川崎の戦い(黒川崎合戦)」では、島津貴久公は、伊集院忠朗 ・ 伊集院忠倉父子,  大隅国 菱刈郡太良(たら;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈南浦」等)の
太良城(たらじょう),  大隅国 菱刈郡馬越(まごし;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈前目」等)の馬越城(まごしじょう)菱刈氏菱刈隆秋らに、加治木城城主の肝付兼演を攻撃させて、肝付兼演は、東郷氏,  入来院氏,  祁答院氏らの薩摩渋谷氏や、蒲生茂清と共に島津貴久公に降伏したとの由です。この天文18年(1549年)の「黒川崎の戦い(黒川崎合戦)」は、我が国(日本)の戦争で初めて鉄砲(種子島火縄銃)が使用された合戦であり、5年後の天文23年(1554年)の岩剣城の戦いと並ぶ初期の鉄砲使用合戦例として、軍事技術史上でも重要な合戦です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧吉田町地域 吉田城松尾城
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
黒川崎の戦いの場所
(現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域大字(おおあざ)「姶良市加治木町日木山(この辺り(地図))」の字(あざ)「黒川(この辺り(地図))」や、今日の姶良市加治木町地域精矛神社くわしほこじんじゃがある辺りの場所の模様)
旧姶良町地域 平山城(平安城,帖佐本城)
旧蒲生町地域 蒲生城かもうじょう
日置市
(ひおきし)
旧日吉町町地域 日置城(松尾城,山田城)
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
伊佐市 旧菱刈町地域 太良城たらじょう
馬越城まごしじょう
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大隅合戦:岩剣城の戦い(天文23年(1554年))〜平山城(平安城)奪還(天文24年(1555年))
(天文23年(1554年)に、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の平山城(平安城)も支配下に置いていた渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・祁答院氏第13代当主・祁答院良重が、2度目の謀反を起こしました。祁答院良重を中心にして、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 蒲生(かもう;現・鹿児島県 ・ 姶良市蒲生町地域)の蒲生城城主で蒲生氏第17代当主の蒲生範清、薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・入来院氏第13代・入来院重嗣、大隅国 菱刈郡太良(たら;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈南浦」等)の太良城(たらじょう),  大隅国 菱刈郡馬越(まごし;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈前目」等)の馬越城(まごしじょう)菱刈氏菱刈隆秋、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の三之山(みつのやま;後の小林)日向国 諸県郡(もろかたぐん) 三之山(後の小林))(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城この辺り(地図)城主で北原氏第13代当主・北原兼守らが反旗を翻し、島津氏麾下の武将に転じていた、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(かじき;現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で、肝付氏庶流の加治木肝付氏(喜入肝付氏)第3代当主の肝付兼演 ・ 肝付兼盛父子を攻めました。
  薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公は、加治木城の囲みを解かせて加治木肝付氏の負担を軽くする救援策を行うために、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐平松(ちょうさひらまつ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)の祁答院良重の城・岩剣城(岩剱城)いわつるぎじょうを攻撃しました。岩剣城は落城し、その後も島津氏大隅国帖佐各地で祁答院良重側勢力との戦闘を行い、天文24年(1555年)には大隅国帖佐の平山城(平安城)も奪還して、大隅国帖佐から祁答院良重を駆逐することに成功しました。この岩剣城の戦いは、5年前の天文18年(1549年)の黒川崎の戦いと並んで、我が国(日本)の戦争で鉄砲(種子島火縄銃)が使用された初期の合戦として、軍事技術史の上でも重要な合戦です。また、この岩剣城の戦いは、島津貴久公の子4人で、いずれも優秀な武将の「島津四兄弟」中、島津義久公,島津義弘公,島津歳久公の3名が初陣を飾った合戦としても、知られています。)

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鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
旧姶良町地域 平山城(平安城,帖佐本城)
岩剣城(岩剱城)いわつるぎじょう
旧蒲生町地域 蒲生城かもうじょう
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
伊佐市 旧菱刈町地域 太良城たらじょう
馬越城まごしじょう
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
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大隅合戦:蒲生合戦蒲生城攻め)(弘治2年(1556年)〜弘治3年(1557年))
天文23年(1554年)の岩剣城の戦い,天文24年(1555年)の平山城(平安城)奪還の後も、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の内の1家・祁答院氏第13代当主・祁答院良重は、盟友だった大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 蒲生(かもう;現・鹿児島県 ・ 姶良市蒲生町地域)の蒲生城城主で蒲生氏第17代当主の蒲生範清の協力を得て、大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん))帖佐(ちょうさ;現・鹿児島県 ・ 姶良市姶良町地域の一部)を奪還しようとしましたが、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公側の軍に撃退されて、成功しませんでした。島津貴久公側の軍は、蒲生範清の蒲生城の支城を次々と落として、弘治3年(1557年)にはついに、本城・蒲生城を落城させることに成功して、大隅国西部を完全に平定しました。蒲生範清は、盟友・祁答院良重の仲介で島津貴久公に降伏して、大隅国 蒲生から退去しました。
  祁答院良重薩摩国祁答院(けどういん)に蒲生範清を迎え入れて、
虎居城最寄りの、薩摩国祁答院(けどういん)の中の,廃城後の時期の江戸時代の地名で申せば薩摩国 伊佐郡 宮之城郷虎居村(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域大字(おおあざ)「虎居」字(あざ)「海老川」)にあった松尾城蒲生範清を保護しました。なお、永禄9年(1566年)に、祁答院良重は、島津氏庶流の薩州家出身の妻・祁答院良重室に殺されてしまいました。祁答院良重の死後、祁答院氏は急速に勢力を失い、後年、元亀元年(1570年)に同族(渋谷五族(薩摩渋谷氏))の薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城城主で入来院氏第13代・入来院重嗣と、薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主で東郷氏第16代当主・東郷重尚が島津氏に降伏するまでの間は、薩摩国祁答院(けどういん)は入来院氏の勢力下にありました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
姶良市
(あいらし)
旧蒲生町地域 蒲生城かもうじょう
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
松尾城
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肝付氏との間の抗争による、島津氏庶流の豊州家の志布志城、松山城の失陥(弘治2年(1556年)〜永禄5年(1562年))
(天文7年(1538年)の北郷忠相,島津忠朝,肝付兼続による、新納氏攻め以来、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を手に入れていた日向国飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょう城主で島津氏庶流の豊州家は、日向国 諸県郡 志布志を領有したことにより、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城こうやまじょう城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)と、直接勢力圏が接することになったため、勢力拡大を目論む肝付氏豊州家とは敵対するようになりました。肝付兼続は、日向国 諸県郡蓬原(ふつはら;現・鹿児島県 ・ 志布志市有明町地域大字(おおあざ)「有明町蓬原」)の蓬原城ふつはらじょう城主・救仁郷頼世を天文15年(1546年)に攻め落として、大野出羽守を地頭として、手に入れた蓬原城に配置していました。弘治2年(1556年)に、この大野出羽守と、豊州家第5代当主・島津忠親は、日向国 諸県郡 大崎(現・鹿児島県 ・ 曽於郡(そおぐん) 大崎町)で戦い、大野出羽守は討ち死にしました。弘治2年(1556年)は、島津氏本宗家と肝付氏の関係が決裂したことによって生じた廻城の合戦があった永禄4年(1561年)よりも前の時点のことです。
  永禄元年(1558年)には、肝付兼続肝付竹友
志布志城を攻めさせて、豊州家方の伊藤源四郎と向川原(恐らくは、鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域宝満寺跡辺り)で合戦が行われました。これ以降、肝付氏は、毎年のように志布志城を攻撃したとの由です。永禄2年(1559年)には、その前年の永禄元年(1558年)に日向国 諸県郡 松山(現・鹿児島県 ・ 志布志市松山町地域)の松山城城主に任命されていた島津忠親家臣の平山越後守忠智が、肝付兼続に攻められて討ち死にして、松山城肝付氏の城になってしまいました。
  豊州家第5代当主・島津忠親は、北からは
飫肥城攻略を狙っていた、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐からの軍事的攻勢にさらされて、南からは志布志城攻略を狙っていた肝付兼続からの軍事的攻勢にさらされて、二正面作戦を強いられる苦境に陥りました。この状況下で、永禄3年(1960年)3月には、豊州家第5代当主・島津忠親は、島津氏本宗家から、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の次男で、既に若き猛将として名高かった島津義弘公を養子として迎え入れて、島津義弘公は、飫肥城における対日向 伊東氏防衛の任に就いていました。ところが、永禄4年(1561年)の島津氏本宗家と肝付氏の関係が決裂したことによって生じた廻城の合戦の後、肝付氏からの攻勢のために大隅国での政治・軍事情勢で苦況に陥った島津氏本宗家は、豊州家との養子縁組を解消して島津義弘公を本宗家に呼び戻さざるを得ない状況に陥り、永禄5年(1562年)3月に島津義弘公は飫肥城を去りました。島津義弘公が去った後、永禄5年(1562年)に志布志城肝付氏に攻め落とされて、豊州家志布志城を失いました。永禄7年(1564年)には、肝付竹友が、地頭として志布志城に入りました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
旧松山町地域 松山城
旧有明町地域 蓬原城ふつはらじょう
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
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全国の動向


永禄2年(1559年)

織田信長による尾張国(現・愛知県の一部)の、ほぼ統一


全国の動向


永禄3年(1560年)

桶狭間の戦い

 

廻城の戦い(めぐりじょうのたたかい)(永禄4年(1561年))
大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、大永6年(1526年)、同7年(1527年)頃に日新斎(じっしんさい)島津忠良公の長女・御南(おみなみ)と結婚したこともあり、大永7年(1527年)〜天文8年(1539年)島津忠良公・島津貴久公父子と、島津実久との間の島津氏の内部抗争においては、個別局面での例外的な行動を除けば概ね島津忠良公,島津氏宗家第15代当主・島津貴久公父子側につく等、島津忠良公,ならびに薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公の父子との関係は良好でした。ところが、永禄元年(1558年)に、肝付兼続の重臣・薬丸兼将肝付兼続の名代として、島津氏の重臣・伊集院忠朗が開いた宴席に出席した際に、鶴の羹(あつもの)で供応されたことに対して、肝付氏の家紋が鶴であったことから、これを肝付氏に対する侮辱であるとして激怒した事件を契機にして、島津氏肝付氏との関係が決裂してしまいました。これは史実ではなく創作逸話であるという説もありますが、たとえ史実であったとしても契機ではあっても理由ではなく、詳しくは当ホームページ内の高山城紹介欄で解説した理由(発生メカニズム)のとおり、島津氏守護大名から戦国大名に、「(規模の上で)生長するだけでなく、(質の上で)成長もする」過程で生じる国人領主層の家臣団化という課題において、利害が対立して共存不可能になったというのが原因(発生メカニズム)であると、当ホームページ管理人は考えます。利害対立の始まりは日向国南部の日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を中心とした地域であり、永禄4年(1561年)に島津氏本宗家と肝付氏の関係が決裂した以前の弘治2年(1556年)には既に、志布志方面では、以降、肝付氏と島津家庶流の豊州家との間の抗争が始まっており、永禄元年(1558年)には島津氏庶流の豊州家の城・志布志城が、肝付氏から毎年攻められている状況にありました。
  肝付兼続は、大隅国 大隅郡 垂水(たるみず;現・鹿児島県 ・ 垂水市の一部)の
垂水本城城主で伊地知氏第9代当主の伊地知重興と、大隅国 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・鹿児島県 ・ 南大隅町鹿児島県 ・ 錦江町田代町地域)+禰寝院北俣(大禰寝院:大根占(現・鹿児島県 ・ 錦江町大根占町地域)+大姶良(おおあいら;現・鹿児島県 ・ 鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の大姶良以外の地域の領主であり、富田城,  国見城城主で禰寝氏(ねじめし)第16代当主・禰寝重長(ねじめ しげたけ)と同盟して、永禄4年(1561年)に、島津氏方の武将・廻氏(めぐりし)の居城であった大隅国 囎唹郡(そおぐん)廻(めぐり;現・鹿児島県 ・ 霧島市福山町地域)の廻城めぐりじょうを、攻めました。なお、いわゆる「第2戦線」情報としては、永井文庫・古美術志野WEB ・ 聚史苑 ・ 中世日向国関係年表によれば、この廻城の戦いの際に、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた、日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏も、肝付氏に合わせて出兵し、島津氏庶流の豊州家の城であった、日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城を攻めたとの由です。この時期の飫肥城の守将は、豊州家第5代当主・島津忠親の養子として豊州家に入って、日向 伊東氏に備えていた島津義弘公でした。
  「第一戦線」と呼ぶべき
廻城周辺では、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 国分(現・鹿児島県 ・ 霧島市国分市地域)の国分清水城こくぶきよみずじょう城主で、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の弟(=日新斎(じっしんさい)島津忠良公の次男)である、島津氏本宗家の猛将・島津忠将が、この廻城の戦いで討ち死にしました。島津忠将が討ち死にする程の肝付氏が強い勢力状況は島津氏本宗家にとっては危機的状況であったため、上述のとおり飫肥城城主で豊州家第5代当主・島津忠親の養子として豊州家に入って日向 伊東氏に備えていた島津義弘公を、養子縁組を解消して島津氏本宗家に呼び戻さざるを得なかった程の影響をもたらしました。志布志方面での肝付氏と島津家庶流の豊州家との間の抗争では、永禄5年(1562年)3月に島津義弘公が去った後、永禄5年(1562年)に志布志城肝付氏に攻め落とされて、島津氏庶流の豊州家は、志布志城を失いました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
霧島市 旧国分市地域
(こくぶし)
国分清水城こくぶきよみずじょう
島津忠将の本城です。島津忠将島津氏本宗家の猛将でしたが、廻城の戦いで討ち死にしてしまいました。)
旧福山町地域 廻城めぐりじょう
垂水市
(たるみずし)
垂水本城
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
肝属郡
南大隅町
旧根占町地域
(ねじめちょう)
富田城
国見城
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親の本城です。廻城の戦い島津忠将が討ち死にしたため、島津忠親の養子として豊州家に入っていた島津義弘公は、養子縁組を解消して島津氏本宗家に呼び戻されることになりました。)
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全国の動向


永禄5年(1562年)

清洲同盟織田信長松平元康(後の徳川家康)の同盟)成立

 

飫肥城(おびじょう)の失陥と島津忠親による奪還(永禄5年(1562年))
ならびに
志布志城の失陥(再掲)(永禄5年(1562年))
日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏による攻撃から、島津氏庶流の豊州家は、数十年の長きに渡って日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうを守って来ました。永禄元年(1558年)以降、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で、肝付氏第16代当主・肝付兼続(きもつき かねつぐ)豊州家領の日向国 諸県郡(もろかたぐん) 志布志(しぶし;現・鹿児島県 ・ 志布志市志布志町地域)の志布志城を攻めるようになったため、豊州家第5代当主・島津忠親は、北からは飫肥城攻略を狙う日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐、南からは志布志城を狙う肝付氏第16代当主・肝付兼続の挟撃的攻勢にさらされて、二正面作戦を強いられる苦境に陥りました。この状況下で、永禄3年(1960年)3月に豊州家第5代当主・島津忠親は、島津氏本宗家から、島津氏宗家第15代当主・島津貴久公の次男で、既に若き猛将として名高かった島津忠平公(後の島津義弘公)を養子として迎え入れて、島津忠平公(後の島津義弘公)は、飫肥城における対日向 伊東氏防衛の任に就いていました。
  ところが、島津氏本宗家と肝付氏の関係が決裂したことによって生じた廻城の戦いの後、肝付氏からの攻勢のために大隅国での政治・軍事情勢で島津氏本宗家自体が厳しい苦境に陥った結果、島津氏本宗家は、豊州家との養子縁組を解消して島津忠平公(後の島津義弘公)を呼び戻さざるを得なくなりました。この結果、永禄5年(1562年)3月に島津忠平公(後の島津義弘公)
飫肥城を去りました。その後、島津義弘公は、大隅国 桑原郡 筒羽野島津義弘公が吉松と改名)(現・鹿児島県 ・ 姶良郡 湧水町吉松町地域)の吉松城(亀鶴城)を経て、永禄7年(1564年)に、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城に移ったとの由です。肝付氏との間の抗争による、島津氏庶流の豊州家の志布志城、松山城の失陥(弘治2年(1556年)〜永禄5年(1562年))での解説内容と重複しますが、永禄5年(1562年)には、志布志城肝付氏に攻め落とされてしまい、志布志城から豊州家(豊州島津氏)が去って、代わりに、肝付兼続の子で、肝付氏第17代当主・肝付良兼が入城したとの由です。
  永禄4年(1561年)11〜12月に、豊州家からは日置周防介を使者として、日向 伊東氏との間で、飫肥領と、
飫肥城(の、恐らくは全てではなく、一部の曲輪の)明け渡しの交渉が行われたとの由です。永禄5年(1562年)に、島津忠平公(後の島津義弘公)が去った際に、島津忠平公(後の島津義弘公)がいなくなった隙を突いて、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐が、飫肥城と、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)の本城・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城とを結ぶ補給線上にあった島津氏方の城である日向国 宮崎郡 酒谷(現・宮崎県 ・ 日南市 酒谷地区)の酒谷城を急襲しました。兵站補給と援軍の両方を絶たれて飫肥城が孤立したしたため、豊州家第5代当主・島津忠親飫肥城放棄を決断せざるを得なくなりました。この結果、永禄5年(1562年)5月13日には飫肥城割譲が完了して、島津忠親は、日向国 宮崎郡櫛間(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市)の櫛間城くしまじょうに退きました。
  永禄5年(1562年)9月17日夜中に、豊州家第5代当主・島津忠親の家臣・日置,柏原らが夜襲をかけて、
飫肥城を奪還しました。飫肥城都之城とを結ぶ補給線上にあった酒谷城島津忠親勢によって奪還して、日向 伊東氏側の守将2名の内、平賀刑部少輔は討ち死にして、落合加賀守は逃走したとの由です。和睦を裏切られた形になった日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐は激怒したとの由ですが、島津氏宗家と都之城島津氏庶流の北郷家共に大いに発奮して、島津氏の次の戦略形成に大きな影響を与えたとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

志布志市
(しぶしし)
旧志布志町地域 志布志城
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
宮崎県 ・ 串間市 櫛間城くしまじょう
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
酒谷地区 酒谷城
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
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島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援(永禄5年(1562年))
日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の国人領主で、日向国 真幸院の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城と、日向国 真幸院三之山(後の小林))(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城この辺り(地図)を拠点としていた北原氏家中では、三ツ山城この辺り(地図)城主で北原氏第13代当主の北原兼守が戦国時代の永禄元年(1558年)に病没しました。北原兼守没後、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを拠点にしていた日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐は、日向国 真幸院の馬関田(まんがた;現・宮崎県 ・ えびの市の一部)の馬関田城まんがたじょう城主で北原氏庶流の馬関田右衛門佐(まんがた うえもんのすけ)に娘を嫁がせて北原氏の家督を継承させることにより、北原氏を事実上乗っ取ってしまいました。この過程で、永禄2年(1559年)の伊東義祐による反伊東義祐北原氏家臣粛清から逃げ延びた、反伊東義祐派の北原氏家臣・白坂下総介は、大隅国 囎唹郡(そおぐん) 長浜(現・鹿児島県 ・ 霧島市隼人町地域の一部)の長浜城(元・生別府城(おいのびゅうじょう))地図城主で島津氏庶流の樺山氏(かばやまし)第8代当主で島津氏の家臣の樺山善久(別名:樺山幸久,樺山玄佐)の元に身を寄せたとの由です。
  白坂下総介は、樺山善久を介して、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県守護薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主の島津氏宗家第15代当主・島津貴久公に北原氏再興を願い出ました。この願い出を受けて島津貴久公は、永禄5年(1562年)に、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で肥後国国人戦国大名 ・ 相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽と、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第10代当主で島津氏の家臣の北郷時久と共に、相良氏の元に身を寄せていた北原兼親を支援して、日向 伊東氏からの北原領の奪還を実現しました。この結果、北原兼親は、北原氏第14代当主の座に就くことができ、日向国 真幸院の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城に入ることができました。また、北原氏家臣・白坂下総介は、北原領の内、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町(たかはるちょう))の高原城の城主になりました。
  同年、永禄5年(1562年)には、島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援の一環として、横川城攻め(横川崩れ)も発生しました。)


  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
霧島市 旧隼人町地域 長浜城(元・生別府城(おいのびゅうじょう))地図
(外部リンク)
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
馬関田城まんがたじょう
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城この辺り(地図)
(外部リンク)
宮崎県
西諸県郡
高原町
(たかはるちょう)
高原城
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
熊本県 ・ 人吉市 人吉城
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横川城攻め横川崩れ)(永禄5年(1562年))
横川城攻め(横川崩れ)は、島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援の一環として永禄5年(1562年)に、大隅国 桑原郡 横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)の横川城島津氏が攻め落とした合戦です。、島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援の一環ではありますが、落城後に横川城北原氏領になっていないことと、横川城大隅国にあったことから、岩剣城の戦い蒲生合戦に続く大隅合戦の一環という性格も併せ持った合戦であると、当ホームページ管理人は考えています。
  島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援は、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の
佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうを拠点にしていた日向国の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐に事実上乗っ取られていた、北原氏旧領の日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)を奪還して、北原兼親による北原氏再興を支援する軍事行動でした。当時、北原家中(北原氏家臣団)は、親伊東氏派と、反伊東氏派(=親島津氏)とに分かれており、横川城城主で北原氏家臣の北原兼正(北原伊勢介)・新助親子は、親伊東氏派でした。このような情勢下、永禄5年(1562年)5月に、北原兼正(北原伊勢介)・新助親子が籠城していた横川城攻めを島津義弘公・島津歳久公兄弟が開始して、その後、落城させた戦いが、横川城攻め(横川崩れ)です。
  薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 喜入(きいれ;現・鹿児島県 ・ 鹿児島市喜入町地域)の
給黎城地図城主で島津氏庶流の喜入氏第5代当主・喜入季久(きいれ すえひさ)は、永禄5年(1562年)6月3日に、上記の日向 伊東氏が、大隅国 桑原郡 横川に侵攻して来た時に、横川でこれを破って軍功を挙げました。日向 伊東氏によるこの横川に侵攻は、日向 伊東氏による北原兼正(北原伊勢介)・新助親子支援の軍事行動であったであろう旨が容易に推測可能な軍事作戦であったため、日向 伊東氏の作戦目的の実現を防いだ喜入季久のこの軍功は、横川城を攻めていた島津義弘公・島津歳久公兄弟への側面支援、サッカーにたとえればアシストの役割を果たした軍功であるということになります。横川城攻めには、この喜入季久の他、例えば新納忠元等の島津氏家臣が参加していました。
  島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援の勝利の結果、北原氏は、短い間でしたが一時期は旧領の日向国 真幸院(まさきいん)を回復し、北原兼親は、日向国 真幸院の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の
飯野城城主になりました。大隅国 桑原郡 横川は、大隅国 菱刈郡太良(たら;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈南浦」等)の太良城(たらじょう)を本城にしていた菱刈氏(ひしかりし)菱刈大和守重猛に与え、その一族の菱刈中務が、横川城の城主になりました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

霧島市 旧横川町地域 横川城
鹿児島市 旧喜入町地域 給黎城(きいれじょう)地図
(外部リンク)
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
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北原氏の滅亡(永禄7年(1564年))
(永禄5年(1562年)の島津氏・相良氏・北郷氏(ほんごうし)による北原氏への支援の結果、旧領の日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)を日向 伊東氏から奪還した北原兼親は、北原氏第14代当主に就任し、日向国 真幸院飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城の城主になっていたとの由です。しかし、翌永禄6年(1563年)には肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽が裏切り、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点にしていた日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐と手を組んで、日向国 真幸院飯野大明神城(小城(地図)のことの模様)を落城させたとの由です。また、大隅国 桑原郡 筒羽野島津義弘公が吉松と改名)(現・鹿児島県 ・ 姶良郡 湧水町吉松町地域)の吉松城(亀鶴城)城主で北原兼親の叔父の北原左衛門尉が、日向 伊東氏相良氏(さがらし)と通じて、日向国 真幸院飯野から島津氏を追い出そうと画策していたことが発覚して、永禄7年(1564年)に出奔したとの由です。さらに、北原兼親は、不仲になった家臣で日向国 真幸院の大河平(おこびら;現・宮崎県 ・ えびの市大字(おおあざ)「大河平」)の今城地図城主で、菊池氏庶流の大河平氏(おこびらし)第3代当主・大河平隆次(おこびら たかつぐ)日向 伊東氏から攻められたのを、見殺しにしたとの由です。このような情勢下で後難を恐れた、大隅国 桑原郡 踊(おどり;後の牧園)(現・鹿児島県 ・ 霧島市牧園町地域)の踊城(所在地不明)城主・白坂佐渡介、日向国 諸県郡(もろかたぐん) 高原(たかはる;現・宮崎県 ・ 西諸県郡 高原町(たかはるちょう))の高原城城主・白坂下総介等の北原氏家臣が、相次いで出奔する状況に陥ったとの由です。
  このような状況に陥ったため、北原氏第14代当主の北原兼親は、日向国 真幸院(まさきいん)の本領を維持することが難しくなってしまったとの由です。島津氏宗家第15代当主・島津貴久公は、この事態を憂えて永禄7年(1564年)に、薩摩国 日置郡 伊集院の神殿(こどん)村(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域大字(おおあざ)伊集院町上神殿この辺り(地図))」ならびに「伊集院町下神殿この辺り(地図))」)の中にに30町歩の領地を与えて、北原兼親を移住させたとの由です。この結果、北原氏日向国 真幸院の領主の座を失うに至ったとの由です。このような経緯の結果、日向国 真幸院は、北原氏去り後、永禄7年(1564年)に島津氏本宗家の直接的な勢力圏になり、日向国 真幸院飯野
飯野城の新たな城主には、島津義弘公が就任したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

姶良郡
湧水町
旧吉松町地域 吉松城(亀鶴城)
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
宮崎県
西諸県郡
高原町
(たかはるちょう)
高原城
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
熊本県 ・ 人吉市 人吉城
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長島・堂崎城攻略と薩州家庶流・島津忠兼の粛清(永禄8年(1565年))
肥後国 天草郡(後に薩摩国 出水郡(いずみぐん)) 長島列島(現・鹿児島県 ・ 出水郡(いずみぐん) 長島町)の堂崎城は、戦国時代後半の一時期には、肥後国 天草郡 本渡(ほんど)(現・熊本県 ・ 天草市の旧本渡市地域の下島)の本渡城城主・天草尚種の弟の天草越前正(天草越前守)の居城でした。永禄8年(1565年)、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城を拠点としていた島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第4代当主・島津忠興の三男で、薩摩国 出水郡(いずみぐん) 野田(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域)の新城城主・島津忠兼が、薩州島津家第6代当主・島津義虎の命令により、堂崎城を攻めて落城させました。この時以来、島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)長島列島を領有し、堂崎城島津氏の城になりました。長島及び近接の島々・長島列島は元々は肥後国 天草郡に属していましたが、これ以降、薩摩国 出水郡(いずみぐん)に属することになりました。
  
堂崎城攻略に成功した島津忠兼は3ヶ月程堂崎城城主でしたが、天草越前正(天草越前守)の旧臣の讒言を信じた島津義虎は誤って島津忠兼を謀殺してしまいました。ところが、島津忠兼の旧領である薩摩国 出水郡 野田や、薩摩国になった長島で疫病の流行や飢饉があったとの由です。島津義虎は驚いて己の過ちを認めて、島津忠兼の居城であった新城跡に墓を建てて、薩摩国 出水郡 野田(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域)に存在した山内寺(今日では廃寺)の僧に島津忠兼の霊を慰めさせて、若宮大明神として称え祀り、後年、島津氏宗家第19代当主(兼)薩摩藩第2代藩主・島津光久公が江戸時代の寛永13年(1636年)に若宮大明神を建立(こんりゅう)しました。これが、今日の鹿児島県 ・ 出水市野田町地域若宮神社です。また、この鹿児島県 ・ 出水市野田町地域若宮神社(出水市)の他にも、鹿児島県 ・ 出水郡(いずみぐん) 長島町堂崎城跡の本丸跡地にも、本丸跡の場所にも、若宮神社(出水市)と同様の趣旨で、若宮神社(長島町)が建立(こんりゅう)されています。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
旧野田町地域 新城
若宮神社(出水市)
(城ではありませんが、島津忠兼の霊を祀った神社ですので、載せておきます。)
出水郡
長島町
長島町地域 堂崎城
若宮神社(長島町)
(城ではありませんが、島津忠兼の霊を祀った神社ですので、載せておきます。)
熊本県
天草市
本渡市地域 本渡城
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祁答院良重の殺害と祁答院氏の没落(永禄9年正月15日(1566年2月5日))
(永禄9年正月15日(1566年2月5日)に、薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城城主で渋谷五族の内の1家・祁答院氏(けどういんし)第13代当主・祁答院良重(けどういん よししげ)は、島津氏庶流の薩州家から迎えた正室(妻)・祁答院義重室(祁答院良重室)に殺されてしまったとの由です。この祁答院義重室(祁答院良重室)は、虎姫とも呼ばれ、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で薩州家第5代当主・島津実久の娘であるとの由ですが、情報源によっては、島津実久の次代(子)で薩州家第6代当主・島津義虎の娘であるとの説もあります。この時宿直していた、祁答院良重小姓入来院氏一族の村尾重侯(むらお しげあり/しげきみ)は、夫を殺した祁答院義重室(祁答院良重室)屏風で押さえ込んで、屏風越しに刺し殺して主君の仇を討ったとの由です。なお、祁答院氏没落後の村尾重侯は、島津氏に仕えて島津義弘公の臣下になったとの由です。後年、九州桶狭間と呼ばれる、戦国時代の元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(戦場跡は、日向国 ・ 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の木崎原古戦場跡)で、島津義弘公麾下の武将として村尾重侯は活躍したとの由です。
  話を祁答院良重殺害直後に戻します。祁答院良重没後の遺領・薩摩国祁答院は、薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)入来町地域)の
清色城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の入来院氏第13代当主・入来院重嗣の統治下に入ったとの由です。情報源によっては、この時の入来院氏当主を入来院重嗣の次代の入来院氏第14代当主・入来院重豊であったとの異説が載っている情報源もありますが、祁答院良重が殺害された時点の入来院氏当主は第13代当主・入来院重嗣ですので、入来院重豊説よりは第13代当主・入来院重嗣説の方が正しい説(実証科学的方法論では「まだ間違っていない仮説モデル」は存在しても「正しい仮説モデル」は存在しないため、実証科学的方法論に基づく厳密な表現で申せば、「まだ間違っていない説」)であろうと推測します。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 入来院重嗣,ならびに祁答院良重によれば、祁答院氏の家老・大井実勝,高城重治,久富木重全の申し出によって行われたものであるとの由です。高城重治は、祁答院氏入来院氏とは同族の渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家で、かつては薩摩国 高城郡(たきぐん) 高城(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)川内市地域大字(おおあざ)高城町等」)の妹背城(高城城)いもせじょう(たきじょう)城主だった高城氏(たきし)の末裔かつ嫡流の武将であり、高城氏が滅亡して薩摩国 高城郡の領土を失った後、同族の祁答院氏を頼って落ち延びて、その家老になっていた家の当主であるとの由です。
  戦国時代島津氏にとって三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の領国国内統一平定戦における強敵の中の1家だった祁答院氏は、上述の経緯により、祁答院氏は没落しました。祁答院氏の末裔の行く末について詳しくは、当ホームページ内の
虎居城紹介欄で解説しておりますので、そちらでご参照可能です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域、BR>(いりきちょう) 清色城きよしきじょう
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
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全国の動向


永禄9年(1566年)

徳川家康による三河国(現・愛知県の一部)平定

 

三山合戦三ツ山城(後の小林城)攻め)(永禄9年(1566年)(永禄10年(1567年)説もあり))
日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを本拠地にしていた日向国(概ね現在の宮崎県)の反島津氏国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏第10代当主伊東義祐は、島津氏に備えて、家臣で日向国 諸県郡 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の須木城城主の米良重方(めら しげかた)に命じて、戦国時代の永禄9年(1566年)、日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)日向国 諸県郡(もろかたぐん) 三之山(三之山))(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)に三ツ山城(後の小林城を築かせました。この三ツ山城(後の小林城は、三之山(後の小林)にあり、北原氏の本城だった三ツ山城この辺り(地図)とは、名前は同じですし同一地域内にありましたが、その地域内では別の場所にあった、異なる城ですので混同され易い城です。この三ツ山城(後の小林城は、日向 伊東氏第10代当主・伊東義祐ならびに日向 伊東氏第11代当主・伊東義益の最盛期における日向国伊東氏の外城である「伊東四十八城」の中の1城でした。
  永禄9年(1566年)10月(永禄10年(1567年)10月説もあります)に、島津氏が、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公,  日向国 真幸院飯野日向国 諸県郡 飯野)(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の飯野城城主の島津義弘公,  大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の吉田城松尾城城主の島津歳久公という、島津四兄弟の内の3人が揃って20,000余名の兵を動員したという総動員態勢で全軍をあげて、三ツ山城(後の小林城を攻撃しました。この三山合戦(三ツ山城(後の小林城))攻め島津軍は、城の内堀と外堀が死体で埋まる程の激戦の末、多大な犠牲者を出しながらも一時期は「本丸を残すのみ」の状況にまで三ツ山城(後の小林城城主・米良重方率いる米良勢を追い詰めましたが、米良重方のもう一つの城・須木城からの援軍の到着によって戦局は逆転しました。結局、多大な犠牲者を出した上に島津義弘公が負傷する程の犠牲を払いながら落城させるに至らず、島津氏は敗退せざるを得なくなりました。
  なお、米良氏は、中世九州の名族・菊池氏の末裔です。)


  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
鹿児島市 旧吉田町地域 吉田城松尾城
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
宮崎県
小林市
旧小林市地域 三ツ山城(後の小林城
旧須木村地域 須木城
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
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全国の動向


永禄10年9月(1567年9月)

稲葉山城の戦い織田信長による美濃国(現・岐阜県の一部)制圧))

 

菱刈合戦(永禄10年(1567年)〜永禄12年(1569年)9月)
大隅国 菱刈郡太良(たら;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈南浦」等)の太良城たらじょうを本城として、大隅国 菱刈郡馬越(まごし;現・鹿児島県 ・ 伊佐市菱刈町地域大字(おおあざ)「菱刈前目」等)の馬越城(まごしじょう),  大隅国 菱刈郡曽木(現・鹿児島県 ・ 伊佐市>大口市地域大字(おおあざ)「大口曽木」)の曽木城そぎじょうも拠点にしていた国人領主・菱刈氏(ひしかりし)は、天文18年(1549年)の黒川崎の戦い(黒川崎合戦)の際には島津氏宗家側に付いていましたが、天文23年(1554年)の岩剣城の戦いの際には反島津氏側になる等、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県守護 ・ 島津氏への忠誠心よりも、独自の判断で行動する、統制の効かない国人領主でした。永禄5年(1562年)の横川城攻めの時点では島津氏に敵対しておらず、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公は、大隅国 桑原郡 横川(現・鹿児島県 ・ 霧島市横川町地域)の横川城菱刈氏第15代当主・菱刈大和守重猛に与え、菱刈氏の一族の中の菱刈中務が横川城城主になりました。
  ところが、永禄9年(1566年)に菱刈重猛が死ぬと、翌永禄10年(1567年)にはその弟・菱刈隆秋が重猛の遺児・鶴千代(後の重広)を擁して、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の
人吉城城主で相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽と同盟して、再び島津氏宗家に反旗を翻してしまいました。その永禄10年(1567年)には、島津貴久公が菱刈氏馬越城を落としたために、菱刈氏横川城,  太良城,  曽木城を放棄して、当時は相良義陽の城だった薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城に逃げ込んで集結する状況に陥ったとの由です。その後、菱刈氏は反撃し、同年(永禄10年(1567年))末の牛山合戦で島津氏の武将・市来家利や伊集院久慶を敗死させたり、永禄11年(1568年)には堂ヶ崎の戦いで日向国 真幸院(まさきいん)(現・宮崎県 ・ えびの市,  小林市小林市地域)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1970年までの旧飯野町地域)の飯野城城主の猛将・島津義弘公さえも撃破して、島津義弘公を守ろうとした川上久朗が後の死の原因になる程の深手を負った等、一時期は、菱刈氏反乱軍は相当、優勢になりました。
  これに対して島津氏側は、個別の合戦ごとに参加者の異同はありますが総じて申せば、上述の島津四兄弟の次兄・島津義弘公の他、永禄5年(1562年)から大隅国 吉田院(江戸時代には薩摩国 鹿児島郡 吉田郷)(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市吉田町地域)の
吉田城松尾城城主に就任していた島津四兄弟の三男・島津歳久公が参加した他、菱刈中務が去った後の横川城を永禄10年(1567年)に賜った島津四兄弟の末弟・島津家久公等、島津四兄弟が総出動という状況で、大口城攻めに参加していました。薩摩国 出水郡出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で、島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第6代当主・島津義虎も、薩摩国 伊佐郡羽月(はつき)(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の羽月城地図の守備についていました(が、島津義虎は、永禄12年(1569年)に勝手に出水城に撤兵して、島津氏宗家第16代当主・島津義久公の怒りをかったりしました)。菱刈氏が去った後の曽木城には島津氏家臣の宮原筑前守景種が入り、薩摩国 給黎郡(きいれぐん) 知覧(現・鹿児島県 ・ 南九州市知覧町地域)の知覧城城主で島津氏庶流の佐多氏当主・佐多常陸介久政宮原筑前守景種を支援しました。
  上述のとおり、一時期は菱刈氏反乱軍が相当、優勢になりましたが、次第に島津氏側が優勢になったため、永禄12年(1569年)に一旦、菱刈隆秋と相良義陽は、薩摩国 出水郡 野田(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域)の
感応寺島津氏と和平を結んだとの由です。和平を結んだ後も菱刈隆秋は反抗姿勢を改めなかったため、島津氏新納忠元(にいろ ただもと),  大隅国 桑原郡(後に、江戸時代には始羅郡(しらぐん)) 加治木(かじき;現・鹿児島県 ・ 姶良市加治木町地域)の加治木城城主で加治木肝付氏(喜入肝付氏)第3代当主の肝付兼演らに大口城攻めを命じ、鳥神尾の戦いで島津氏は大勝したとの由です。日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城(都城)城主で、島津氏庶流の北郷氏(ほんごうし)第10代当主の北郷時久も、永禄12年(1569)5月に家臣・北郷小次郎を派遣して、大口城攻めに参加したとの由です。続けて島津軍は大口城を攻略し、菱刈隆秋と相良義陽は降伏して、所領を失った菱刈隆秋は、相良義陽の居城・人吉城に退去せざるを得なくなったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 相良義陽によれば、相良義陽大口城を開城したのは、永禄12年(1569年)9月であるとの由です。
  菱刈隆秋が
人吉城に退去した後、島津氏菱刈鶴千代(重広)に曽木城を与えたとの由です。しかし、天正2年(1574年)に、島津氏異心を抱いたとして、菱刈重広は、薩摩国 日置郡 伊集院の神殿(こどん)村(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域大字(おおあざ)伊集院町上神殿この辺り(地図))」ならびに「伊集院町下神殿この辺り(地図))」)に移されたとの由であり、菱刈氏は完全に父祖の地から離れることになったとの由です。また、永禄12年(1569年)に菱刈隆秋が人吉城に退去した後の大口城には、薩摩国 伊佐郡 大口地頭に任じられた島津氏の異姓庶流の家臣。新納忠元(にいろ ただもと)が入城したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
旧吉田町地域 吉田城松尾城
南九州市 旧知覧町地域 知覧城
霧島市 旧横川町地域 横川城
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
旧野田町地域 感応寺
(城ではありませんが、一旦は結ばれた和平の和平交渉の場になった寺です。慶応4年/明治元年(1868年)からの廃仏毀釈で一旦は廃寺になりましたが、その後、元々あった場所に再建されたため、廃仏毀釈が激しかった鹿児島県では、珍しく現存できた寺院の中の一つです。)
伊佐市 旧大口市地域 大口城
曽木城そぎじょう
羽月城地図
旧菱刈町地域 太良城たらじょう
馬越城まごしじょう
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
熊本県 ・ 人吉市 人吉城
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第九飫肥役(飫肥城(おびじょう)の失陥)(永禄11年(1568年))
(永禄5年(1562年)に、島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親に奪い返されてしまった日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)の飫肥城おびじょうを奪還しようとして、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点としていた反島津氏日向国国人戦国大名 ・ 日向 伊東氏の第10代当主・伊東義祐は、永禄11年(1568年)1月に、総勢2万人と称される大兵力を率いて、飫肥城攻めの兵を起こしました。これは、日向 伊東氏にとって9回目の飫肥城攻めであるため、第九飫肥役と呼ばれる合戦になります。日向 伊東氏の大軍が飫肥城を包囲したため、補給が途絶えて飫肥城は兵糧が不足し始めていたため、島津軍(北郷氏(ほんごうし) + 豊州家)側は、飫肥城と、島津氏庶流の北郷氏の本城・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城(現・宮崎県 ・ 都城市都城市地域)の都之城とを結ぶ補給線上にあった日向国 宮崎郡 酒谷(現・宮崎県 ・ 日南市 酒谷地区)の酒谷城を拠点にした兵站補給作戦で救おうと試みましたが、小越の戦い(小越合戦)で大敗北を喫して兵站補給に失敗して、北郷氏の家老・土持頼綱北郷忠俊・本田親豊・柏原常陸守・北郷図書助など800名以上の将兵を失う大敗北を喫しました。
  兵站補給に失敗したため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 第九飫肥役2014年12月参照時現在の記載内容によれば、
飫肥城は食人まで行われる程の飢餓状況に陥り、籠城の継続は不可能になったとの由です。このため、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第15代当主の島津貴久公は飫肥城を放棄することを決定して、永禄11年(1568年)5月に、北郷中徳を遣わして、日向 伊東氏の家臣で、須木城がある日向国 諸県郡(もろかたぐん) 須木(すき;現・宮崎県 ・ 小林市須木村地域)の領主(兼)日向国 真幸院(まさきいん)三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域)の三ツ山城(後の小林城城主(三ツ山 地頭)(兼)日向国 真幸院三ツ山(三之山,みつのやま;後の小林)の野首(現・宮崎県 ・ 小林市小林市地域大字(おおあざ)「東方(この辺り)」の、恐らくは「野首」バス停(地図)周辺地域)の野首城野久尾城城主(野久尾地頭)の米良重方(めら しげかた)と、和議を結びました。
  この和議に基づいて、永禄11年(1568年)6月6日に
飫肥城酒谷城日向 伊東氏に引き渡されて、島津氏庶流の豊州家第5代当主・島津忠親は撤退して、その出身家であり、豊州家に養子に入る以前は自分自身が当主を務めたことのある家である北郷氏の拠点・日向国 諸県郡(もろかたぐん) 都城に戻りました。この合戦前で手放した豊州家の所領の内、日向国 宮崎郡 南郷(現・宮崎県 ・ 日南市南郷町地域)と、飫肥城がある日向国 飫肥院(日向国 宮崎郡 飫肥)(おび;現・宮崎県 ・ 日南市 飫肥地区)は日向 伊東氏の所領になり、櫛間城くしまじょうがある日向国 那珂郡櫛間(くしま,福島とも;現・宮崎県 ・ 串間市)は、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で反島津氏大隅国国人戦国大名 ・ 肝付氏の所領になりました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
宮崎県 ・ 串間市 櫛間城くしまじょう
宮崎県
日南市
飫肥(おび)地区 飫肥城おびじょう
酒谷地区 酒谷城
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
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桶平城の戦い(永禄11年8月9日(1568年8月31日)〜永禄12年7月(1569年8月))
(永禄11年8月9日(1568年8月31日)から、日向国 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の桶平城(おけひらじょう;別名:桶平塁,田原陣(たばるじん))この辺り(地図)で、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点にしていた、日向国の反島津氏国人戦国大名日向 伊東氏の家臣で庶流の伊東祐安が、陣取りました。伊東祐安率いるこの軍と連携して、日向国 真幸院飯野島津義弘公の居城・飯野城を挟撃しようとした肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽の軍も、進軍して来ました。かつて、日向国 真幸院の大河平(おこびら;現・宮崎県 ・ えびの市大字(おおあざ)「大河平」)の今城地図の永禄7年(1564年)の籠城戦で戦死した大河平隆次(おこびら たかつぐ)の姉で、肥後国 球磨郡皆越(現・熊本県 ・ 球磨郡くまぐん) ・ あさぎり町大字(おおあざ)「皆越(この辺り(地図))」)の地頭・皆越六郎左衛門に嫁いでいたナミから事前に相良軍と伊東軍の動向を知らされていた島津義弘公は、日向国 真幸院飯野大明神城(小城(地図)のことの模様)で阻(はば)みました。この時の合戦では、伊東祐安桶平城この辺り(地図)佐土原遠江守を置いていましたが、島津義弘公家臣の遠矢良賢黒木実利が、ウズラ狩りを装った小勢で桶平城この辺り(地図)伊東軍を誘い出して、釣り野伏せで打ち破りました。
  その後、戦線は膠着した模様であり、永禄12年7月(1569年8月)に伊東勢が撤退するまで、伊東勢は
桶平城この辺り(地図)に在陣しました。なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 大河平氏によれば、皆越六郎左衛門は、上述の妻ナミの情報提供の功績の結果、大河平氏(おこびらし)の旧領を与えられて、大河平隆俊と改名した上で大河平氏の家督を継いだとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県 ・ えびの市 飯野城
桶平城(おけひらじょう;別名:桶平塁,田原陣(たばるじん))この辺り(地図)
大明神城(小城(地図)のことの模様)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
熊本県 ・ 人吉市 人吉城
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全国の動向


永禄11年(1568年)9月

織田信長京都上洛


全国の動向


永禄11年(1568年)9月〜永禄13年(1570年)1月

松平元康(後の徳川家康)による遠江国(現・静岡県の一部)侵攻(武田信玄による駿河侵攻(現・静岡県の一部))

 

島津氏による長野城攻め(永禄12年(1569年)5月)
薩摩国祁答院(けどういん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市(さつませんだいし)祁答院町地域さつま町宮之城町地域)の虎居城(現・鹿児島県 ・ さつま町宮之城町地域)城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家・祁答院氏第13代当主・祁答院良重(けどういん よししげ)が永禄9年1月15日(1566年2月5日)に死んだ後の祁答院氏領は、薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城きよしきじょう城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家・入来院氏(いりきいんし)第13代当主・入来院重嗣(いりきいん しげつぐ)領に併合されていました。祁答院良重の養子であるとも次男であるとも三男であるとも伝えられる祁答院氏第14代当主・祁答院重種は、祁答院氏が独立した地位を失った後、薩摩国 伊佐郡長野(現・鹿児島県 ・ 薩摩郡 さつま町薩摩町地域大字(おおあざ)永野)の長野城城主になっていました。
  永禄12年(1569年)5月に祁答院重種は、居城・
長野城薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に攻められて、降伏しました。これは、鹿児島市ホームページ ・ 鹿児島市史等 ・ 松元町郷土誌(昭和61年3月発行) ・ 第3編 松元町の歴史(PDF版)p.193には、薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城の支城としての長野城を攻撃した旨の情報が載っているいることから、永禄10年(1567年)〜永禄12年(1569年)の菱刈合戦の一環としての攻城であったことになります。菱刈合戦の一環としての合戦(攻城戦)ではありますが、氏族としては渋谷五族(薩摩渋谷氏)の中の1家・祁答院氏没落の話であり、長野城城主は菱刈合戦における反島津氏側の主将である菱刈氏(ひしかりし)ならびに相良氏(さがらし)の一族の話ではありませんので、ここでは独立した項目として挙げておきます。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
薩摩郡
さつま町
旧宮之城町地域 虎居城
旧薩摩町地域 長野城
伊佐市 旧大口市地域 大口城
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桶平城の戦いの終了(永禄12年7月(1569年8月))
永禄11年8月9日(1568年8月31日)から日向国 真幸院(まさきいん)(今日の宮崎県 ・ えびの市,  小林市)の飯野(いいの;現・宮崎県 ・ えびの市の1966年までの旧飯野町地域)の桶平城(おけひらじょう;別名:桶平塁,田原陣(たばるじん))この辺り(地図)に、日向国 那珂郡 佐土原(さどわら)(現・宮崎県 ・ 宮崎市佐土原町地域)の佐土原城さどわらじょう日向国 児湯郡(こゆぐん)都於郡(とのこおり)(現・宮崎県 ・ 西都市 大字鹿野田,大字都於郡町等)の都於郡城とのこおりじょうとを拠点にしていた、日向国の反島津氏国人戦国大名日向 伊東氏の軍勢が、日向国 真幸院飯野島津義弘公の居城・飯野城攻撃を目的として、陣取っていました。しかし、都於郡城とのこおりじょう城主で、日向 伊東氏の家督を継いでいた日向 伊東氏第11代当主の伊東義益が永禄12年7月11日(1569年8月23日)に病没したため、桶平城この辺り(地図)伊東軍は、日向国 真幸院飯野から去りました。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

宮崎県 ・ えびの市 飯野城
桶平城(おけひらじょう;別名:桶平塁,田原陣(たばるじん))この辺り(地図)
宮崎県
宮崎市
佐土原町地域
さどわらちょう
佐土原城さどわらじょう
宮崎県 ・ 西都市 都於郡城とのこおりじょう
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菱刈合戦の終了(永禄12年(1569年)9月)
永禄10年(1567年)から続いていた菱刈合戦は、菱刈隆秋と肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽という島津氏への反乱軍が、薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城を拠点として一時期は相当、優勢になりましたが、次第に島津氏側が優勢になったため、永禄12年(1569年)に一旦、菱刈隆秋と相良義陽は、薩摩国 出水郡 野田(現・鹿児島県 ・ 出水市野田町地域)の感応寺島津氏と和平を結んだとの由です。和平を結んだ後も菱刈隆秋は反抗姿勢を改めなかったため、詳しくは(当画面上方の)菱刈合戦の紹介欄,ならびに(当ホームページ内の)大口城紹介欄で解説したとおり、島津氏大口城を攻略し、菱刈隆秋と相良義陽は降伏して、所領を失った菱刈隆秋は、相良義陽の居城・人吉城に退去せざるを得なくなったとの由です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 相良義陽によれば、相良義陽大口城を開城したのは、永禄12年(1569年)9月であるとの由です。
  詳しくは(当画面上方の)菱刈合戦の紹介欄,ならびに
(当ホームページ内の)大口城紹介欄で解説したとおりの紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、菱刈氏略流の菱刈鶴千代(菱刈重広)は、天正2年(1574年)に、薩摩国 日置郡 伊集院の神殿(こどん)村(現・鹿児島県 ・ 日置市伊集院町地域大字(おおあざ)伊集院町上神殿この辺り(地図))」ならびに「伊集院町下神殿この辺り(地図))」)に移されて、菱刈氏は完全に父祖の地から離れることになったとの由です。また、永禄12年(1569年)に菱刈隆秋が人吉城に退去した後の大口城には、薩摩国 伊佐郡 大口地頭に任じられた島津氏の異姓庶流の家臣。新納忠元(にいろ ただもと)が入城したとの由です。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧吉田町地域 吉田城松尾城
南九州市 旧知覧町地域 知覧城
霧島市 旧横川町地域 横川城
姶良市
(あいらし)
旧加治木町地域 加治木城
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
旧野田町地域 感応寺
(城ではありませんが、一旦は結ばれた和平の和平交渉の場になった寺です。慶応4年/明治元年(1868年)からの廃仏毀釈で一旦は廃寺になりましたが、その後、元々あった場所に再建されたため、廃仏毀釈が激しかった鹿児島県では、珍しく現存できた寺院の中の一つです。)
伊佐市 旧大口市地域 大口城
曽木城そぎじょう
羽月城地図
旧菱刈町地域 太良城たらじょう
馬越城まごしじょう
宮崎県 ・ えびの市 飯野城
宮崎県
都城市
(みやこのじょうし)
旧都城市地域 都之城(都城)
熊本県 ・ 人吉市 人吉城
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入来院重嗣と東郷重尚の島津氏への降伏(元亀元年1月(1570年2月))
永禄10年(1567年)〜永禄12年(1569年)の菱刈合戦菱刈隆秋が滅び、肥後国 球磨郡 人吉(現・熊本県 ・ 人吉市)の人吉城城主で相良氏(さがらし)第18代当主・相良義陽薩摩国 伊佐郡 大口(現・鹿児島県 ・ 伊佐市大口市地域の一部)の大口城を失い、永禄12年(1569年)5月の島津氏による長野城攻め薩摩国 伊佐郡長野(現・鹿児島県 ・ 薩摩郡 さつま町薩摩町地域大字(おおあざ)永野)の長野城城主で渋谷五族(薩摩渋谷氏)の祁答院氏第14代当主・祁答院重種が滅びると、薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の清色城きよしきじょう城主の入来院氏(いりきいんし)第13代当主・入来院重嗣(いりきいん しげつぐ)と、薩摩国 薩摩郡 東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の鶴ヶ岡城城主の東郷氏第16代当主・東郷重尚の渋谷五族(薩摩渋谷氏)で当時サバイバルできていた2家の当主にとっては、次第に、島津氏に反抗し続けることは誤判断である状況になりました。このため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 入来院重嗣,ならびに東郷氏(薩摩国)によれば永禄12年(1569年)12月28日とされていますが、鹿児島県立図書館 ・ 本館 ・ 鹿児島県史料集について ・ 鹿児島県史料集 第05集 西藩烈士干城録(二)(PDF版)p.2,ならびにp.77等によれば、菱刈合戦の翌年の元亀元年1月5日(1570年2月19日)に、ついに島津氏に降伏して、領土の一部を献上して島津氏に忠誠を誓ったとの由です。入来院重嗣東郷重尚は謀反の罪を許されることになりましたが、入来院重嗣清敷(入来院)(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)、東郷重尚は東郷(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市東郷町地域)の、それぞれの本領のみが安堵されて、他の領地は没収されて、島津氏の家臣になりました。
  この時、島津氏宗家第16代当主・島津義久公に入来院重嗣が献上した城は、薩摩国 薩摩郡 百次(ももつぎ;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)百次町この辺り(地図))」)の
百次城(上野城,岩田ヶ城)地図薩摩国 薩摩郡 平佐(ひらさ;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)平佐この辺り(地図))」)の平佐城ひらさじょう,隈城城(恐らくは、薩摩国 薩摩郡 隈之城(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)隈之城町等」)の二福城(隈之城)と思量),薩摩国 薩摩郡 平佐天辰(あまだつ;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)天辰町」)の碇山城いかりやまじょう,江城(薩摩国 薩摩郡 高江(現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)高江町この辺り(地図))」)の嶺ヶ城(峰ヶ城)(地図と思量)でした。上記の内、碇山城いかりやまじょうがある薩摩国 薩摩郡 平佐天辰は一旦、入来院氏に返されましたが、詳しくは後述するように、後に再び島津氏に献上することになりました。
  一方、この時、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の
内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公に東郷重尚が献上した城は、薩摩国 高城郡 高城(たき;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域の大字「高城町」)の妹背城高城城と、薩摩国 高城郡 水引(みずひき;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域の大字「水引町」)の水引城(地図です。この2城ならびに周辺の領地は、それまで両地域の領有権を巡って東郷氏と激しく争っていた、薩摩国 出水郡 出水(いずみ;現・鹿児島県 ・ 出水市出水市地域)の出水城城主で島津氏庶流の薩州家(薩州島津氏)第6代当主・島津義虎に与えられました。
  入来院重嗣東郷重尚が降伏した結果、三州(薩摩国,  大隅国,  日向国)(概ね現・鹿児島県 + 宮崎県)の守護島津氏による戦国時代の三州の領国国内統一平定戦においては、まず最初に、薩摩国の平定が完了したことになります。
  なお、後年、天正2年(1574年)、入来院氏第14代当主・入来院重豊に謀叛の噂が流れました。入来院重豊は「大驚」と記録される程に驚き、及山田・天辰・田嵜・寄田(それぞれ、現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)永利町(ながとしちょう)この辺り(地図))」,「天辰町(あまだつちょう)この辺り(地図))」,「田崎町(たさきちょう)この辺り(地図))」,「寄田町(よりたちょう)この辺り(地図))」と思量)の各邑(村)を島津義久公に献上しました。島津義久公は、薩摩国 入来院(いりきいん;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市入来町地域)の本領を安堵し、寄田邑(寄田村;現・鹿児島県 ・ 薩摩川内市川内市地域大字(おおあざ)寄田町(よりたちょう)この辺り(地図))」)を返却しました。)


  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
薩摩川内市
(さつませんだいし)
旧川内市地域 百次城(上野城,岩田ヶ城)地図
平佐城ひらさじょう
二福城(隈之城)
碇山城いかりやまじょう
高江城(嶺ヶ城,峰ヶ城)(地図
妹背城いもせじょう)(高城城たきじょう))
水引城(地図
旧入来町地域
(いりきちょう)
清色城きよしきじょう
旧東郷町地域 鶴ヶ岡城
出水市
(いずみし)
旧出水市地域 出水城いずみじょう
薩摩郡
さつま町
旧薩摩町地域 長野城
伊佐市 旧大口市地域 大口城
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全国の動向


元亀元年4月(1570年5月)

金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)


全国の動向


元亀元年6月(1570年7月)

姉川の戦い

 

禰寝氏による指宿への侵攻(元亀2年(1571年)5月)
大隅国 ・ 禰寝院(ねじめいん)禰寝院南俣(小禰寝院:現・南大隅町根占町(ねじめちょう)地域南大隅町佐多町(さたちょう)地域錦江町田代町地域)と禰寝院北俣(大禰寝院大根占(おおねじめ)郷(現・錦江町(きんこうちょう)大根占町(おおねじめちょう)地域)+大姶良(おおあいら)(現・鹿屋市鹿屋市地域の一部、等))の内の大姶良(おおあいら)以外の地域の領主であり、富田城ならびに国見城(両城共に、現・鹿児島県 ・ 南大隅町根占町地域)の城主で禰寝(ねじめ)氏第16代当主の禰寝重長は、大隅国 肝属郡(きもつきぐん) 高山(こうやま;現・鹿児島県 ・ 肝付町(きもつきちょう)高山町地域)の高山城城主で反島津氏大隅国国人戦国大名 ・ 肝付氏方の国人領主でした。禰寝重長は、元亀2年(1571年)5月に水軍を率いて薩摩国 揖宿郡(いぶすきぐん) 指宿(いぶすき) 摺ヶ浜(すりがはま)(現・鹿児島県 ・ 指宿市指宿温泉砂むし会館 砂楽(さらく)旅館 吟松等がある海岸)に侵攻して、薩摩国 鹿児島郡 鹿児島(現・鹿児島県 ・ 鹿児島市鹿児島市地域)の内城うちじょう城主で島津氏宗家第16代当主の島津義久公の軍と激戦になり、撤退したとの由です。なお、元亀2年(1571年)当時の薩摩国 揖宿郡 指宿は、薩摩国 揖宿郡 頴娃(えい;現・鹿児島県 ・ 南九州市頴娃町(えいちょう)地域)の頴娃城えいじょう城主で島津氏家臣の頴娃氏(えいし)第7代当主・頴娃久虎(えい ひさとら)の領土であり、薩摩国 揖宿郡 指宿(現・鹿児島県 ・ 指宿市)には、頴娃氏の城である松尾城(指宿城)がありました。上述の島津義久公の軍の中に頴娃久虎がいた旨を確認した訳ではありませんが、地理的には、頴娃久虎島津義久公に従っていた可能性が高いものと推測します。)

  各合戦の記載事項についての参考資料、参考文献、参照したホームページ等については、ここでは原則として省略しております。それぞれの城跡、古戦場についてのリンク先紹介欄に載せておりますので、そちらでご参照下さい。ただし、その内容について解説していない城跡、古戦場紹介欄もありますので、解説している紹介欄で、参照先をご参照いただけます。

鹿児島市 旧鹿児島市地域 内城うちじょう
指宿市
(いぶずきし)
旧指宿市地域 松尾城(指宿城)
南九州市 旧頴娃町地域
(えいちょう)
頴娃城えいじょう
肝属郡
肝付町
(きもつきちょう)
旧高山町地域
(こうやまちょう)
高山城こうやまじょう
肝属郡
南大隅町
旧根占町地域
(ねじめちょう)
富田城
国見城
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奄美群島の動向

元亀2年(1571年)

琉球王国 ・ 第二尚氏王統第5代国王・尚元王による奄美大島の征討


全国の動向


元亀2年9月(1571年9月)

比叡山焼き討ち
(天正8年8月(1580年9月)の石山合戦終了(顕如石山本願寺からの退去)と並んで、我が国の政治文化史上、祭政分離を実現させた契機(きっかけ)になったという点において、戦国時代だけにとどまらず、今日に至る影響を及ぼした合戦)


世界の動向


1571年(元亀2年)10月

レパントの海戦
(中世の西欧の東方貿易は、地中海海域を通るものでした。ところが、地中海海域の通行は、イスラム勢力圏を通らざるを得ないため、キリスト教徒である西欧人には、危険極まりないものでした。特に、オスマン帝国が1453年(享徳2年)に東ローマ帝国を滅ぼした後、地中海海域の制海権をオスマン帝国が握った後は、地中海海域では高い関税をオスマン帝国に取られるようになったため、単に危険であるというだけに留まらず、交易上も極めて不利益な状況に西欧諸国は陥りました。
  大航海時代が生じた理由の中の一つは、このような状況下において、地中海海域を通らずに東方に行く航路を開拓するニーズが生じたからでした。ヴェネツィア共和国を中心とする西欧諸国は、レパントの海戦での勝利で、それまで敗北続きだったオスマン帝国に対して海戦で勝てたことになります。西欧諸国が地中海海域の制海権をオスマン帝国から奪還するまでには、それ以降も長い歳月を要しましたが、レパントの海戦は、その契機(きっかけ)になりました。しかし、レパントの海戦は、初めて喜望峰を越えたヴァスコ・ダ・ガマの航海が始まった1497年(明応6年)よりも74年も後です。大航海時代の到来によって